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それも決していい生活とは言えなかった。それらはすべて、過去の記憶の中に滑り込み、今、再び、生まれてから何度目かの冬を迎えようとしている。今年は、寒さの厳しい、孤独な、寂しい冬になりそうだ…

 

 “ねえ、久し振りだから、音楽を聞いてみないかい?”と、やがてぼくは言った、“昔よく聞いた、モーツァルトの「フルートとハープの為の協奏曲」をさ。あのレコードも、今も、その辺のどこかに眠っているはずさ。最近はほとんど聞くことがなくってね”

 “そうね”と、リサの顔はほころんだ。

  ぼくはさっそく、レコードケースのところへ行き、少しほこりのかぶった箱の中に、目ざすレコードを捜しにかかった。やがてそれは、他のレコードのあいだから姿を現した。最近は、めったに動くことのないプレーヤの上に、そのレコードを乗せ、スイッチを押した。やがて流れて来た響きは、かつてよく耳になじんだことのある、あの流麗で、妙なるモーツァルトの調べだった。

 ぼくは、リサのいるところに戻ってくると、彼女と並ぶように、ソファーの上に坐った。

 “これね、昔、兄さんがよく聞いていた曲は”と、リサは、ぼくに笑顔を向けて言った。

 “あれ? 題名をよく知らなかったのかい”と、ぼくは少し意外そうな顔をして、言った、“そうだよ。あの大天才が、弱冠二十二才のときに作った曲さ。素晴らしい、のひと言に尽きるね。たった、こんな年でこんな曲を作ることができるんだから。恐らく、これを演奏している中で、作曲者の年齢より若い者は誰もいないだろうね”

 “昔には、素晴らしい天才がいたのね”と、リサはしみじみと言った、“その天才のほとばしりみたいなものが、この曲からは聞きとれるような気がするわ”

 “だから、ぼくはこの曲が好きさ”と、ぼくは言った、“二百年も生命を得続けているこの曲は、恐らく永遠だろうね…”

 

 そのようにして、まるで昔を取り戻したかのような、リサとの楽しい午後のひとときは過ぎて行った。窓の外は穏やかで、流れて来る曲はさわやかだった。リサは、そのあいだ、ジャケットのモーツァルトの肖像を、食い入るように眺めていた。ぼくは、しかし、目を部屋の隅にやり、うっとりした、夢誘うようなこの日の午後を、もっと長く、もっと確かに、味わっていたかった…

 

 ぼくが浴室に入ったのは、その後だった… 少し開け放された窓からは、まっ青な美しい空が広がっていた。浴槽から立ち昇る湯気が、その小さな窓のところで、出ようか、出るまいかと格闘をしていた。ぼくは、浴槽につかり、すべてが新鮮な気持に浸っていた。この小さな一角には、ぼくのすべて、ぼくの過去のすべてが存在しているようだった。昔、ママの裸を初めて目にしたのも、このような浴室だった。子供の頃、まだ昼日中、ママに言われてしぶしぶ、泥だらけの体を洗う為に入ったのも、このような浴室だった。小さな浴室に射し込む昼の光を受けて、周りのすべてが生きているんだと感じたのも、このような浴室でのことだった。


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その頃、未来は光であり、窓から射し込んで来る光のように、得体は知れないが、遠くから誘い込む、呼びかけのように、ぼくには感じられた。――今も、当時と同じ光が、この浴室内にも存在していた。冷たい風が吹く窓の外は明るく、真っ青な空に、白い雲がたなびいている。しかもこの日、この幸せな日、同じこの小さな家に、あのリサがいるのだ。そう思うと、何かしら、ぼくは幸せだった。かつて、彼女がいたときのように、彼女や、セーラやママがいたときのように、この家の周りに、何か小さな事件が待っているようで、ぼくの心は、小さな期待で踊った。そう、幸せとは、子供の頃のような幸せ――それをぼくは、今、不思議と思い出し、この狭い浴槽の中で、感じられてくるのだった。子供の頃に夢をはぐくんだ、様々な、未知なる国への憧れ――その名から心をときめかす、オルレアンや、カルカソンヌの光輝くばかりの美しい街並。それらは、本やママの口から語り聞かされ、ぼくの心の中で、憧れと夢はふくらむばかりだった。その他、様々な国の、幸せの待っている場所へぼくは行きたかった。とりわけ、病床に伏しているとき、その夢は、いっそう大きくふくらんだ。その状況は今も、少しも変わってはいない。この辺ぴな田舎屋敷の、小さな浴槽につかっていて、この未知なる国への憧れ、旅への誘いは、今も、ぼくの心を捕らえて離さなかった。そこへ行けば、結局大したことがないことが分かるのに、それでも、ぼくの気持は変わらないのだ。ぼくは浴槽につかりながら、子供の頃の自分と、現在の自分とのあいだに、年齢による隔てさえ忘れさせてしまうような、不思議な一致点があることを見い出した。しかし、今は、リサがこの家に来ている。その限りにおいて、ぼくの幸せは不動のものなのだ。でも、――リサがこの家から去ったなら、そのときには再び、ぼくは旅に出よう…

 

 浴室から戻って来ると、リサが居間にいた。冬の明るい日ざしが、居間の向うの、窓ガラスに見える、木の茂みや庭の草の上に降り注いでいた。その明るい光の反映が、この冷たい居間にも伝わってくるかのようだった。室内の家具や、花の活けた花瓶が、窓の外の光を受けて、冷たく光っていた。しかし、室内が冷たいのでは決してなかった。暖炉にくべてあるマキのおかげで、快適なくらい、暖かかった。ぼくが部屋のドアをあけると、ソファーに坐っていたリサが、振り向いた。

 “どう? スッキリした?”と、彼女は尋ねた。

 “ああ、いい湯だった”と、ぼくは、顔をほてらせながら答えた。

 それから、ぼくは、彼女のそばに歩み寄り、彼女のそばに立ってリサを見下ろすように視線を落とすと、そのままの姿勢で言葉を続けた、

 “浴室の中でいろんなことを考えた”と、ぼくは言った、“実に様々なことさ。空想の世界飛翔と言ってもいいな。ぼくは、いろんな国のいろんな所へ行くのさ。でも実際は、ここにいて、こんな辺ぴな、寂しいところにいる。しかし、結局、ここが一番いいのさ。お前がこの家にいたからね…”

 リサは、にっこりと笑った。

 


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 “そう、結局は、愛情よ”と、リサは答えた、“そこに愛さえあれば、たといどんなところにいても、その人は幸せなはずよ。別に、とりたてていい暮らし向きをしなくってもね”

 “お前の言う通りさ”と、ぼくは言った、“でも、人間の心は揺れ動くのさ。絶えず揺れ動く。ひとつとして定まることがない。つまり、絶え間ない欠如なのさ。ぼくは、この欠如から逃れたい…”

 “何を言ってるのよ、兄さん”と、リサは、にっこりして言った、“もっと、頭を冷やしなさいよ。そうすりゃ、ここがどういうところで、兄さんのいるところがどういうところかが、分かってくるわ”

 “そりゃ分かっているよ。ここは田舎の寂しい一軒家さ”と、ぼくは答えた、“でもここは、すべての出発点でもある。帰着点とは、ぼくは考えたくないのさ。今は、ぼくの寂しさの最低にいるけれどもね、今に春が来れば、植物が一斉に芽をふき出すように、ぼくも活動を開始するつもりなのさ。余りにも過剰な空想―― そして、それによる欠如感。それを打ち破るには、ただ、この活動しかないのさ…”

 “そう。家にじっと籠もっていれば、人間はだんだんと陰気になって行くわ”と、リサは言った、“だから、たまには外に出て、みんなと交わらなくっちゃ”

 “いいテーマだねえ”と、ぼくは言った、“外へ連れて行ってくれるのが、リサのようなお姫様なら、ぼくも喜んでお伴もしよう。――でもたいていは、気晴らしと、馬鹿話ししか、そこには待ってはいないのさ…”

 “――でも、外には、いいこともあるわよ、きっと”と、リサは言った、“兄さんの思うような理想はないかも知れないけれど、少なくとも、兄さんを、思い出と、後悔のくびきから救い出してくれるだけのものは、そこにあるはずよ”

 “そう、ぼくもそれを信じている”と、ぼくは答えた、“孤独な家の扉よ、開かれ。されば、新しい世界が眼前に開けん、さ。…ぼくを、この孤独の館から連れ出してくれるのが、お前でなくて残念だねえ”

 “あたし?”と、リサは驚いたようにぼくを見上げた。それから、気を落ち着かせてから、リサは言った、“本当はそうしてあげたいんだけど、あたし一人の力じゃ、どうすることもできないわ”

 “分かっているよ”と、ぼくは優しく言った、“この閉ざされた扉は、自分で開けるさ。そしてこの家から出て行く。次の春が来ればね。――でもそのときが来るまでは、この陰気な家で、ぼくはひとりさ。春に備えて、色んな準備をする為にもね…”

 リサは黙って、ぼくの言葉に耳を傾けていた。それから、しばらくすると、おもむろに彼女は言った、

 “一日って、過ぎるのは早いわぁ。ホラもう、庭の木に西陽がさしているのよ。そのうち、日が暮れて、きょうという日もお終いね…”


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 “ぼくたちの時間って、そんなものさ”と、ぼくは、立ち尽くしたまま言った、“何もしないうちに、じき、時は経ってしまうのさ。そう考えると、一瞬一瞬を、おろそかにすることは、できないねえ…”

 

 ふと、窓の外を見ると、西の空は言いようのない美しさを見せていた。まるで山脈のように盛り上がった雲の頂上辺りに、既に太陽は隠れ、頂上近くを、薄い綿のような広がりをもつ淡い金色で包んでいた。その美しさは、まるでそこに雪山が存在しているかのような、清澄とさわやかな山脈のただ中にいるような錯覚に捕らわれそうだった。しかし、光と雲の織り成すその感動的な饗宴も、ほんの一瞬のことで、やがて、頂上の、輝くばかりに美しい黄金色の光が失われて行くと共に、段々と、周囲は、薄暗く、暮れて行きそうだった。秋の日が暮れるのは早い。もう空は、幾はけかのペンキを塗ったような地平線近くの薄い雲の色と共に、同じような暗さで、段々と暮れて行くのだから… そのうち、何もない空には、明るい一番星が輝き始める。多分あれは、金星だろう。そうしているうちに、二つ、三つと増えて行き、周囲の森が黒い塊に変わるのと引き換えに、満天の星となるだろう。ぼくらは、そこまで見つめてはいなかった。部屋の暗さと共に、カーテンを引き、部屋の中に明かりをともしたのだから…

 

 “きょうも終わってしまった”と、ぼくはカーテンを締め終え、立ったまま、リサの方に振り向いて言った。

 “そのようね”と彼女は、ぼくに向き直って言った、“でも楽しかったわ、この一日――長いようで、短い。ほんとにすぐね”

 “ああすぐさ”と、ぼくは言った、“一日なんて、過ぎるのはすぐさ。このようにして、毎日が過ぎて行き、きょうもまた、さ。――でも、この一日は、いつもとは違った。お前がいたおかげで、楽しい思いをさせてもらったよ”

 そう言うとリサは、にっこりと微笑んだ。

 “さて、それじゃ”と言って、リサは立ち上がった、“食事の準備の、残りの仕上げをしなくちゃね”

 “そうていねいにしてもらわなくてもいいよ”と、立ったリサを見て、ぼくは言った、“夕食は簡単でいいんだ、簡単で…”

 “…でも、久し振りなんだから、兄さんに栄養をつけてあげなくっちゃ”と、リサは言った、“こんな家庭料理って、また、ここ当分は味わえないのよ”

 “そう言や、その通りだな”と言って、ぼくは笑った。

 

 リサが台所へ出てしまうと、ぼくは、居間にひとり残って思った、最近はろくすっぽ、うまい家庭料理を味わったことがない。外食か、自分のまずい手料理か、そんなところですませて来た。その生活は、まるでセルッカにいた頃の、貧しいひとりぽっちの生活と、それほど大差はない。今もぼくは、独身である以上、この食生活に関しては、貧しいのだ…


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 しかし、昨夜に続いてきょうも、リサの手料理を食べさせてもらうのだと思うと、ぼくは嬉しかった。その為の材料は、事前に買ってあって、冷蔵庫にほうり込んである。リサはそれを見て、適当に調理するだろう。昔この家に一緒に住んでいた頃、リサがしていたごく普通のことだったのだ。

 

 ぼくはしばらく居間にいたが、彼女のことが気になり、ちょっと台所をのぞいてみた。 タイルと、小節が目につく、さわやかな板張りの台所では、リサがひとり、オーブンの前に立って、忙しそうに、調理にいそしんでいた。壁にはめられたガラス窓の向こうは、もう真暗だった。ガスレンジの上では、ぐつぐつと鍋が煮え、リサはときどき、オーブンの中をのぞき込んでは、鍋をかきまぜている。やかんが、しゅんしゅんと音をたてていた。ぼくは、ほんのしばらく、彼女の後ろ姿を見ていたが、その彼女が、やがて振り向いた。目と目が合うと、彼女は、ぼくに言った、

 “何か御用?”

 “いや、何かぼくに、手伝うことがないかと思って”と、ぼくは答えた。

 “いいわ。もう少し時間がかかるから”と、リサは答えた、“そのうち、出来上がったら、兄さんに、テーブルへ運んでもらうわ”

 “そうかい、それじゃ”と、ぼくは答えた、“出来上がるのを、もう少し、楽しみにしておくよ”



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