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とりわけ、二階の書斎のあの窓辺に、緑いっぱいの木の葉を通して射し込む、柔かな光はね。机の上には、彫刻や時計の置物や、花瓶があり、それらが、光を浴びてまぶしく輝くのさ。床は板張りの簡素な部屋だったけど、物を書くには、これまでの一番いい環境だった。窓から見降ろすと、芝生の庭には、春の花々が咲き誇り、樹木はこれ以上ないほど、葉をつけ、茂っていた。ぼくは窓を開け、春の、なんとも言えず心地良い空気と、花々や樹木のかぐわしい香りを、いつも、胸いっぱい吸い込んで暮らしたものさ。ときおり、創作に疲れると、ぼくは階段を降り、一階の応接室で、モーツァルトの音楽などを聞いて、心を休めた。何ひとつ、辛いと思うようなものはなかった。それまでの都会の暮らしに比して、まるで天国のような日々だった。家の中はいつもし~んとしていて、ただ時折り、モーツァルトの音楽だけが、家の片隅から、緑いっぱいの庭に向かって、鳴り響いたものだった。それを、応接室のソファーで聞いていると、やがてまぶたが自然と閉じて来た。そんな日々にぼくの脳裏にかすめたのが、ぼくたちの幼い、子供の頃の情景だった…”

 “いいわねえ、そんな日もあったのね”と、リサはにっこりして言った、“あたしはその頃、勤めに出ていたわ。街の遊園地で、子供たちの相手ばかりしていた。でも、遊園地も明るくて、結構楽しかったわ”

 “あの遊園地かい?”と、ぼくは、リサの顔を見つめて言った、“花壇に、花がいっぱい咲いていた湖のほとりの遊園地―― ぼくが陽気に誘われて行くと、確か遊園地のレストランにお前がいたね。野外のテーブルに坐ると、お前が冷たい飲物を持って来てくれたりして。でも、それも、お前の仕事の一部だったのさ…”

 リサは、にっこり笑った。

 “あんな日々があったなんて信じられない”と、ぼくは続けた、“書斎の窓から素晴らしい庭や、晴れ渡った空を見つめていると、自然と、昔の、子供の頃に目にした情景が、二重映しとなって、目の前に浮かんで来るのさ。その頃には、庭に、ママがいる姿も見ることができたけれどもね、もう、そのとき既にママの姿を見ることは出来なかった。――しかし、快い風が、その当時の記億を、様々に呼び覚まさせてくれたものさ。四季折々に、お前たちと遊んで暮らした日のこと。ママと喧嘩をして家を飛び出し、森の中に入って、ママを心配させた日のこと。村の小学校の校庭で、友だちとサッカーの遊びをしたときのこと、などさ。随分様々な思い出があることが、そのときになって初めて分かった。都会の苦しい、まるで闇のような生活の向うに、まるでオアシスのような幸せな生活があったことを、そのときに思い出したのさ。――でも、それらはもう、雲をつかむような昔の話しで、その頃には、その当時の名残が何か存在するとすれば、ただお前ひとりでしかなかった。しかし、二百年以上も昔の音楽が今に伝わるように、ぼくは、その当時の記憶を、なんとかして今に伝えたいと、そのとき、真剣になって思ったものさ…”

 “それで、何かしたの?”と、リサは尋ねた。


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 “ああ、詩をいくつかね”と、ぼくは答えた、“でもそれだけで、大した収穫は得られなかった。なんと言っても、勉強の方で、いろいろと忙しかったからね。――でも、そういう生活が、あの爺さんが死に、あの事件でピリオドを打つまで続いたのさ。今でも、あの当時の幸せな生活のときのことを、なつかしく思い出すことがあるよ”

 “今だって、悪くないじゃない”とリサは言った。

 “ああ、最初は、お前がいたし、犬も、この家に来た”と、ぼくは言った、“――でも今は、犬もいないし、お前もいない。寂しい限りさ”

 そう言うと、リサはしんみりした表情になった。

 “つい最近ね”と、ぼくは続けた、“不思議と夢を見たのさ。それも、学校の友だちと、広い村の校庭でサッカーをしている夢―― 面白いだろう? どうしてこんな夢を見てしまったのだろう。ぼくは、相手のブロックを破る為にボールを蹴ったり、コーナーキックや、スローイン、そしてついには、相手の空中高く蹴り上げたボールをとる為に、ぼく自身、空高く舞い上がってしまったのさ”

 リサは黙って耳を傾けていた。しかしやがて、

 “ほら、何か聞こえるんじゃない?”とリサは言った。

 “何がさ”と、ぼくは聞き返した。

 “風の音よ”と、リサは答えた、“風が木を揺らしているのね。さっきはあんなに穏やかだったのに、本格的な冬が、やって来るのかも知れないわね”

 その言葉で、ぼくは、窓の外を見た。

 空は明るく、穏やかだったが、その透明な青さの彼方に、厳しい冬の到来を見ることができるのだった。北風が、庭の雑草や樹木を揺らし、ぼくの家の窓をも震わした。寒く、厳しい冬の訪れとともに、今、この部屋にいるリサは、もうあと、ほんのわずかな時間の後、この家から去って行こうとしている。ぼくには、そんな彼女を引き止めるすべはなかった。彼女とほんの僅かな間、昔話をしたとしても、それがどんな意味を持つというのだろう? 冬の到来は、ぼく自身の冬の到来でもあった。たったひとりぽっちの、孤独の冬を、もうすぐぼくは迎えようとしている…

 

 寂しさ――しかし、美しい冬になるだろう、今年の冬は… もう何年も過ごして来た冬と変わりなく、しかしほんのちょっぴり変化のある冬。人々は、この冬を過ごし、ぼくもまた過ごす。何年も前には、ママやパパ、家族の者がみんな揃って楽しんだ冬があった。雪深い宿で、雪景色を楽しんだ冬があった。また、雪が降り積もった家の庭で、真白な雪を喜んだ冬があった。それらは、遠い思い出として、今も脳裏に残っている。それから、リトイアの爺さんの家で過ごした厳しい冬があった。それは、パパが亡くなって、火が消えたような家の中で、ママたちと過ごした冬の、次の年の冬だった。その次には、セルッカの都会の冬があった。それは、ぼくの生涯の冬の中でも、最悪の冬といえるものだろう。悪友はいたが、心を分かち合えるような友は誰もなく、都会のまっただ中で、たったひとりぽっちで、孤独に、絶望に打ちひしがれながら、その冬を過ごした。それから、セーラやリサと過ごすことになった冬――そんな冬があった。


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それも決していい生活とは言えなかった。それらはすべて、過去の記憶の中に滑り込み、今、再び、生まれてから何度目かの冬を迎えようとしている。今年は、寒さの厳しい、孤独な、寂しい冬になりそうだ…

 

 “ねえ、久し振りだから、音楽を聞いてみないかい?”と、やがてぼくは言った、“昔よく聞いた、モーツァルトの「フルートとハープの為の協奏曲」をさ。あのレコードも、今も、その辺のどこかに眠っているはずさ。最近はほとんど聞くことがなくってね”

 “そうね”と、リサの顔はほころんだ。

  ぼくはさっそく、レコードケースのところへ行き、少しほこりのかぶった箱の中に、目ざすレコードを捜しにかかった。やがてそれは、他のレコードのあいだから姿を現した。最近は、めったに動くことのないプレーヤの上に、そのレコードを乗せ、スイッチを押した。やがて流れて来た響きは、かつてよく耳になじんだことのある、あの流麗で、妙なるモーツァルトの調べだった。

 ぼくは、リサのいるところに戻ってくると、彼女と並ぶように、ソファーの上に坐った。

 “これね、昔、兄さんがよく聞いていた曲は”と、リサは、ぼくに笑顔を向けて言った。

 “あれ? 題名をよく知らなかったのかい”と、ぼくは少し意外そうな顔をして、言った、“そうだよ。あの大天才が、弱冠二十二才のときに作った曲さ。素晴らしい、のひと言に尽きるね。たった、こんな年でこんな曲を作ることができるんだから。恐らく、これを演奏している中で、作曲者の年齢より若い者は誰もいないだろうね”

 “昔には、素晴らしい天才がいたのね”と、リサはしみじみと言った、“その天才のほとばしりみたいなものが、この曲からは聞きとれるような気がするわ”

 “だから、ぼくはこの曲が好きさ”と、ぼくは言った、“二百年も生命を得続けているこの曲は、恐らく永遠だろうね…”

 

 そのようにして、まるで昔を取り戻したかのような、リサとの楽しい午後のひとときは過ぎて行った。窓の外は穏やかで、流れて来る曲はさわやかだった。リサは、そのあいだ、ジャケットのモーツァルトの肖像を、食い入るように眺めていた。ぼくは、しかし、目を部屋の隅にやり、うっとりした、夢誘うようなこの日の午後を、もっと長く、もっと確かに、味わっていたかった…

 

 ぼくが浴室に入ったのは、その後だった… 少し開け放された窓からは、まっ青な美しい空が広がっていた。浴槽から立ち昇る湯気が、その小さな窓のところで、出ようか、出るまいかと格闘をしていた。ぼくは、浴槽につかり、すべてが新鮮な気持に浸っていた。この小さな一角には、ぼくのすべて、ぼくの過去のすべてが存在しているようだった。昔、ママの裸を初めて目にしたのも、このような浴室だった。子供の頃、まだ昼日中、ママに言われてしぶしぶ、泥だらけの体を洗う為に入ったのも、このような浴室だった。小さな浴室に射し込む昼の光を受けて、周りのすべてが生きているんだと感じたのも、このような浴室でのことだった。


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その頃、未来は光であり、窓から射し込んで来る光のように、得体は知れないが、遠くから誘い込む、呼びかけのように、ぼくには感じられた。――今も、当時と同じ光が、この浴室内にも存在していた。冷たい風が吹く窓の外は明るく、真っ青な空に、白い雲がたなびいている。しかもこの日、この幸せな日、同じこの小さな家に、あのリサがいるのだ。そう思うと、何かしら、ぼくは幸せだった。かつて、彼女がいたときのように、彼女や、セーラやママがいたときのように、この家の周りに、何か小さな事件が待っているようで、ぼくの心は、小さな期待で踊った。そう、幸せとは、子供の頃のような幸せ――それをぼくは、今、不思議と思い出し、この狭い浴槽の中で、感じられてくるのだった。子供の頃に夢をはぐくんだ、様々な、未知なる国への憧れ――その名から心をときめかす、オルレアンや、カルカソンヌの光輝くばかりの美しい街並。それらは、本やママの口から語り聞かされ、ぼくの心の中で、憧れと夢はふくらむばかりだった。その他、様々な国の、幸せの待っている場所へぼくは行きたかった。とりわけ、病床に伏しているとき、その夢は、いっそう大きくふくらんだ。その状況は今も、少しも変わってはいない。この辺ぴな田舎屋敷の、小さな浴槽につかっていて、この未知なる国への憧れ、旅への誘いは、今も、ぼくの心を捕らえて離さなかった。そこへ行けば、結局大したことがないことが分かるのに、それでも、ぼくの気持は変わらないのだ。ぼくは浴槽につかりながら、子供の頃の自分と、現在の自分とのあいだに、年齢による隔てさえ忘れさせてしまうような、不思議な一致点があることを見い出した。しかし、今は、リサがこの家に来ている。その限りにおいて、ぼくの幸せは不動のものなのだ。でも、――リサがこの家から去ったなら、そのときには再び、ぼくは旅に出よう…

 

 浴室から戻って来ると、リサが居間にいた。冬の明るい日ざしが、居間の向うの、窓ガラスに見える、木の茂みや庭の草の上に降り注いでいた。その明るい光の反映が、この冷たい居間にも伝わってくるかのようだった。室内の家具や、花の活けた花瓶が、窓の外の光を受けて、冷たく光っていた。しかし、室内が冷たいのでは決してなかった。暖炉にくべてあるマキのおかげで、快適なくらい、暖かかった。ぼくが部屋のドアをあけると、ソファーに坐っていたリサが、振り向いた。

 “どう? スッキリした?”と、彼女は尋ねた。

 “ああ、いい湯だった”と、ぼくは、顔をほてらせながら答えた。

 それから、ぼくは、彼女のそばに歩み寄り、彼女のそばに立ってリサを見下ろすように視線を落とすと、そのままの姿勢で言葉を続けた、

 “浴室の中でいろんなことを考えた”と、ぼくは言った、“実に様々なことさ。空想の世界飛翔と言ってもいいな。ぼくは、いろんな国のいろんな所へ行くのさ。でも実際は、ここにいて、こんな辺ぴな、寂しいところにいる。しかし、結局、ここが一番いいのさ。お前がこの家にいたからね…”

 リサは、にっこりと笑った。

 


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 “そう、結局は、愛情よ”と、リサは答えた、“そこに愛さえあれば、たといどんなところにいても、その人は幸せなはずよ。別に、とりたてていい暮らし向きをしなくってもね”

 “お前の言う通りさ”と、ぼくは言った、“でも、人間の心は揺れ動くのさ。絶えず揺れ動く。ひとつとして定まることがない。つまり、絶え間ない欠如なのさ。ぼくは、この欠如から逃れたい…”

 “何を言ってるのよ、兄さん”と、リサは、にっこりして言った、“もっと、頭を冷やしなさいよ。そうすりゃ、ここがどういうところで、兄さんのいるところがどういうところかが、分かってくるわ”

 “そりゃ分かっているよ。ここは田舎の寂しい一軒家さ”と、ぼくは答えた、“でもここは、すべての出発点でもある。帰着点とは、ぼくは考えたくないのさ。今は、ぼくの寂しさの最低にいるけれどもね、今に春が来れば、植物が一斉に芽をふき出すように、ぼくも活動を開始するつもりなのさ。余りにも過剰な空想―― そして、それによる欠如感。それを打ち破るには、ただ、この活動しかないのさ…”

 “そう。家にじっと籠もっていれば、人間はだんだんと陰気になって行くわ”と、リサは言った、“だから、たまには外に出て、みんなと交わらなくっちゃ”

 “いいテーマだねえ”と、ぼくは言った、“外へ連れて行ってくれるのが、リサのようなお姫様なら、ぼくも喜んでお伴もしよう。――でもたいていは、気晴らしと、馬鹿話ししか、そこには待ってはいないのさ…”

 “――でも、外には、いいこともあるわよ、きっと”と、リサは言った、“兄さんの思うような理想はないかも知れないけれど、少なくとも、兄さんを、思い出と、後悔のくびきから救い出してくれるだけのものは、そこにあるはずよ”

 “そう、ぼくもそれを信じている”と、ぼくは答えた、“孤独な家の扉よ、開かれ。されば、新しい世界が眼前に開けん、さ。…ぼくを、この孤独の館から連れ出してくれるのが、お前でなくて残念だねえ”

 “あたし?”と、リサは驚いたようにぼくを見上げた。それから、気を落ち着かせてから、リサは言った、“本当はそうしてあげたいんだけど、あたし一人の力じゃ、どうすることもできないわ”

 “分かっているよ”と、ぼくは優しく言った、“この閉ざされた扉は、自分で開けるさ。そしてこの家から出て行く。次の春が来ればね。――でもそのときが来るまでは、この陰気な家で、ぼくはひとりさ。春に備えて、色んな準備をする為にもね…”

 リサは黙って、ぼくの言葉に耳を傾けていた。それから、しばらくすると、おもむろに彼女は言った、

 “一日って、過ぎるのは早いわぁ。ホラもう、庭の木に西陽がさしているのよ。そのうち、日が暮れて、きょうという日もお終いね…”



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