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 “二階の書斎の窓から眺められた湖の光景だけは、忘れることができないよ”と、ぼくは、なつかしそうにあの頃の情景を思い出しながら、言った、“忘れたくても、忘れることが出来ない。背の高い柳や、カシの木の重なり合った明るい葉の緑ごしに、きらきらと輝くような真青な湖面、美しく澄んだ空などが見えるんだ。ときおり、ヨットのセーリングの光景すら、そのわずかに樹木の間から見える湖面に、見ることができた。万事がゆったりと、穏やかに、幸せに満ちながら、過ぎて行った… あんな時を過ごすことができるなんて、もう二度と出来ないかも知れない。ぼくは、暇があればいつも、二階の書斎にいて、柔かな、窓から射し込む、季節の光を浴びながら、その美しい景色を眺め、思い暮らしたものさ。あの頃はまだ、レオノール爺さんがいたし、ぼくたちは毎日、決まった時刻に、入院先の病院へ見舞いに行く以外は、これといった義務を負ってはいなかった。だからそれ以外は、二階の書斎に駆け込み、それまでしたくても出来なかったこと、つまり、書きたいという衝動を、心ゆくまで満足させることにしたのさ。しかしまずは、レオノール爺さんの話しを書き留めることから始めることにした”

 “それで書けたの?”とリサは、ぼくの顔を見て尋ねた。

 “いやまださ”とぼくは、リサに一瞥して答えた、“他にも、いろいろと忙しいことがあってね。まず、いろいろと勉強しなくちゃならなかったのさ。それに、爺さんの話しも、実地に調査して、検証してからでないと、本当のことだと納得して書くわけには行かないさ。――でも、爺さんから聞いたことは全部ノートにとってあるし、その気にさえなれば、いつでも書き始めることはできるのさ”

 “それで行くのね、この春に…”とリサは、しんみりと言った、“あたしも行ってみたいところだけど、行けそうもないわ。仕事の方がね”

 “分かっている”とぼくは答えた、“今回も、ぼくひとりだけで行くよ。それで充分さ。レビエの別荘や、昔、ママが住み、ぼくたちもいたことのあるあのリトイアヘは、早春の、雑草や木々の花々が一斉に芽ぶく頃に行ってみたいものさ。きっと、素晴らしい体験になるに違いないさ。今から待ちどおしいぐらいだ。ママが昔通い、ぼくたちも通ったことのある、あの由緒ある古い校舎や、爺さんの言っていたあの大きな館、あの頃から雑草におおわれていた会社跡や、ママが通ったことのあるリトイアの高等学校など、今も、あの当時そのままに残っているはずなんだ。ぼくはあそこへ訪ねてみたい。そして、ぼくたちの昔の頃や、もっと以前の、まだぼくたちが生まれていなかった頃の、ちょうどママが生きた当時の空気に触れ、思いを馳せてみたいものなのさ”

 “きっと、素晴らしい経験になるわね”と、リサは目を輝かせながら、自分が行けないのがちょっと口惜しそうに、言った。

 “そう”と、ぼくは楽しそうに言った、“でも、ただ残念なのは、あの事件のおかげで、引越しを余儀無くされてしまったことさ”

 そう言って、しまったとぼくは思った。リサの表情に、かすかに曇りがさすのが認められたからだった。ぼくは、言うべきではなかったことを、ついうっかり、口走ってしまったのだ。


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 しかしその瞬間、ぼくの脳裏には、あのいまわしい日の光景がはっきりと浮かんだのだった。もう夏も終わりの午後、家の静まり返った明るい庭には、陽光が燦々と降り注いでいた。ぼくは、その余りの静けさにとまどいながらも、家に帰って来た身を休めようとした。しかし、玄関のドアは開け放され、また、開かれた窓から外に向かってカーテンがなびいている様子を目にすると、一瞬、何か不吉な予感がしないでもなかったが、ぼくはためらうことなく、家の中に入って行った。し~んとした、いつも見慣れた部屋。何ひとつ変わったことはなさそうだったが、しかしその奥で、開かれた、明るい台所から目に飛び込んで来た光景は、家具の配置は、何ひとつ乱れてはいないのに、その隅の勝手口の扉が開け放されたままになっているそのすぐ手前のところで、まるで死んだように倒れているリサの姿だった。しかもその姿は普通ではなく、よく見ると、衣服が乱れていたばかりか、引き裂かれたところさえあり、露わな足や肩に大きなあざのような青いキズを認めることができた。彼女はうつ伏せに、向う向きに、ぐったりと倒れていた。ぼくは、その光景の、余りの唐突さに、唖然となると同時に、この台所の余りの静けさや、開け放された勝手口の扉の向うに覗いて見える、夏草や樹木の明るい輝き、それに、窓から射し込む、柔かな、神々しい光を浴びて、白く反射する、真新しい家具や食器類の無言の表情などに幻惑されて、思わず、我を忘れたように、みとれてしまうほどだった。しかしすぐ我を取り戻し、ぼくは、彼女の下へ駆け寄った。彼女を抱き起こすと、彼女の呼吸ですぐ生存を確かめることができたが、リサは完全に気を失っていた。しかしそれも無理はない、彼女の服は引き裂かれ、彼女が暴行を受けたことは一見して明らかで、唇や額からは血がにじみ出、せっかくの美しい、白いドレスも、血と泥にまみれていた。ところどころ露出した彼女の膚のいたる所、青いあざがついていた。ぼくはすぐ彼女を抱きかかえ、彼女の寝室のベッドヘと、リサを運んで行った…

 それが、すべての始まりだった…

 

 “…あの事件のことは、あまり口にしないで”と、リサは真面目な表情になって言った、“あんまり思い出したくないのよ…”

 “ああ、悪かったよ”と言って、ぼくは謝った、“でもさ、あの一事を除いて、すべてが素晴らしいところだった。リサだって、そうとは思わないかい?”

 “そうねえ”と、リサの表情に明るさが戻り、彼女は言った、“確かにいいところだった。まるで天国にいるような毎日ね。なんにも思い煩うこともなく、好きなことをして、生活をすることが出来たんですもの。あんな、夢のような日々なんて、もうめったに訪れるものじゃないわ”

 “ぼくだってときどき思い出すのさ。あの幸せに満ちた日々のことをね”と、ぼくは言った、“音楽はモーツァルト、まるでモーツァルトのフルートとハープの協奏曲のような気分の毎日だった。光は明るく、まぶしいぐらいだった。


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とりわけ、二階の書斎のあの窓辺に、緑いっぱいの木の葉を通して射し込む、柔かな光はね。机の上には、彫刻や時計の置物や、花瓶があり、それらが、光を浴びてまぶしく輝くのさ。床は板張りの簡素な部屋だったけど、物を書くには、これまでの一番いい環境だった。窓から見降ろすと、芝生の庭には、春の花々が咲き誇り、樹木はこれ以上ないほど、葉をつけ、茂っていた。ぼくは窓を開け、春の、なんとも言えず心地良い空気と、花々や樹木のかぐわしい香りを、いつも、胸いっぱい吸い込んで暮らしたものさ。ときおり、創作に疲れると、ぼくは階段を降り、一階の応接室で、モーツァルトの音楽などを聞いて、心を休めた。何ひとつ、辛いと思うようなものはなかった。それまでの都会の暮らしに比して、まるで天国のような日々だった。家の中はいつもし~んとしていて、ただ時折り、モーツァルトの音楽だけが、家の片隅から、緑いっぱいの庭に向かって、鳴り響いたものだった。それを、応接室のソファーで聞いていると、やがてまぶたが自然と閉じて来た。そんな日々にぼくの脳裏にかすめたのが、ぼくたちの幼い、子供の頃の情景だった…”

 “いいわねえ、そんな日もあったのね”と、リサはにっこりして言った、“あたしはその頃、勤めに出ていたわ。街の遊園地で、子供たちの相手ばかりしていた。でも、遊園地も明るくて、結構楽しかったわ”

 “あの遊園地かい?”と、ぼくは、リサの顔を見つめて言った、“花壇に、花がいっぱい咲いていた湖のほとりの遊園地―― ぼくが陽気に誘われて行くと、確か遊園地のレストランにお前がいたね。野外のテーブルに坐ると、お前が冷たい飲物を持って来てくれたりして。でも、それも、お前の仕事の一部だったのさ…”

 リサは、にっこり笑った。

 “あんな日々があったなんて信じられない”と、ぼくは続けた、“書斎の窓から素晴らしい庭や、晴れ渡った空を見つめていると、自然と、昔の、子供の頃に目にした情景が、二重映しとなって、目の前に浮かんで来るのさ。その頃には、庭に、ママがいる姿も見ることができたけれどもね、もう、そのとき既にママの姿を見ることは出来なかった。――しかし、快い風が、その当時の記億を、様々に呼び覚まさせてくれたものさ。四季折々に、お前たちと遊んで暮らした日のこと。ママと喧嘩をして家を飛び出し、森の中に入って、ママを心配させた日のこと。村の小学校の校庭で、友だちとサッカーの遊びをしたときのこと、などさ。随分様々な思い出があることが、そのときになって初めて分かった。都会の苦しい、まるで闇のような生活の向うに、まるでオアシスのような幸せな生活があったことを、そのときに思い出したのさ。――でも、それらはもう、雲をつかむような昔の話しで、その頃には、その当時の名残が何か存在するとすれば、ただお前ひとりでしかなかった。しかし、二百年以上も昔の音楽が今に伝わるように、ぼくは、その当時の記憶を、なんとかして今に伝えたいと、そのとき、真剣になって思ったものさ…”

 “それで、何かしたの?”と、リサは尋ねた。


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 “ああ、詩をいくつかね”と、ぼくは答えた、“でもそれだけで、大した収穫は得られなかった。なんと言っても、勉強の方で、いろいろと忙しかったからね。――でも、そういう生活が、あの爺さんが死に、あの事件でピリオドを打つまで続いたのさ。今でも、あの当時の幸せな生活のときのことを、なつかしく思い出すことがあるよ”

 “今だって、悪くないじゃない”とリサは言った。

 “ああ、最初は、お前がいたし、犬も、この家に来た”と、ぼくは言った、“――でも今は、犬もいないし、お前もいない。寂しい限りさ”

 そう言うと、リサはしんみりした表情になった。

 “つい最近ね”と、ぼくは続けた、“不思議と夢を見たのさ。それも、学校の友だちと、広い村の校庭でサッカーをしている夢―― 面白いだろう? どうしてこんな夢を見てしまったのだろう。ぼくは、相手のブロックを破る為にボールを蹴ったり、コーナーキックや、スローイン、そしてついには、相手の空中高く蹴り上げたボールをとる為に、ぼく自身、空高く舞い上がってしまったのさ”

 リサは黙って耳を傾けていた。しかしやがて、

 “ほら、何か聞こえるんじゃない?”とリサは言った。

 “何がさ”と、ぼくは聞き返した。

 “風の音よ”と、リサは答えた、“風が木を揺らしているのね。さっきはあんなに穏やかだったのに、本格的な冬が、やって来るのかも知れないわね”

 その言葉で、ぼくは、窓の外を見た。

 空は明るく、穏やかだったが、その透明な青さの彼方に、厳しい冬の到来を見ることができるのだった。北風が、庭の雑草や樹木を揺らし、ぼくの家の窓をも震わした。寒く、厳しい冬の訪れとともに、今、この部屋にいるリサは、もうあと、ほんのわずかな時間の後、この家から去って行こうとしている。ぼくには、そんな彼女を引き止めるすべはなかった。彼女とほんの僅かな間、昔話をしたとしても、それがどんな意味を持つというのだろう? 冬の到来は、ぼく自身の冬の到来でもあった。たったひとりぽっちの、孤独の冬を、もうすぐぼくは迎えようとしている…

 

 寂しさ――しかし、美しい冬になるだろう、今年の冬は… もう何年も過ごして来た冬と変わりなく、しかしほんのちょっぴり変化のある冬。人々は、この冬を過ごし、ぼくもまた過ごす。何年も前には、ママやパパ、家族の者がみんな揃って楽しんだ冬があった。雪深い宿で、雪景色を楽しんだ冬があった。また、雪が降り積もった家の庭で、真白な雪を喜んだ冬があった。それらは、遠い思い出として、今も脳裏に残っている。それから、リトイアの爺さんの家で過ごした厳しい冬があった。それは、パパが亡くなって、火が消えたような家の中で、ママたちと過ごした冬の、次の年の冬だった。その次には、セルッカの都会の冬があった。それは、ぼくの生涯の冬の中でも、最悪の冬といえるものだろう。悪友はいたが、心を分かち合えるような友は誰もなく、都会のまっただ中で、たったひとりぽっちで、孤独に、絶望に打ちひしがれながら、その冬を過ごした。それから、セーラやリサと過ごすことになった冬――そんな冬があった。


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それも決していい生活とは言えなかった。それらはすべて、過去の記憶の中に滑り込み、今、再び、生まれてから何度目かの冬を迎えようとしている。今年は、寒さの厳しい、孤独な、寂しい冬になりそうだ…

 

 “ねえ、久し振りだから、音楽を聞いてみないかい?”と、やがてぼくは言った、“昔よく聞いた、モーツァルトの「フルートとハープの為の協奏曲」をさ。あのレコードも、今も、その辺のどこかに眠っているはずさ。最近はほとんど聞くことがなくってね”

 “そうね”と、リサの顔はほころんだ。

  ぼくはさっそく、レコードケースのところへ行き、少しほこりのかぶった箱の中に、目ざすレコードを捜しにかかった。やがてそれは、他のレコードのあいだから姿を現した。最近は、めったに動くことのないプレーヤの上に、そのレコードを乗せ、スイッチを押した。やがて流れて来た響きは、かつてよく耳になじんだことのある、あの流麗で、妙なるモーツァルトの調べだった。

 ぼくは、リサのいるところに戻ってくると、彼女と並ぶように、ソファーの上に坐った。

 “これね、昔、兄さんがよく聞いていた曲は”と、リサは、ぼくに笑顔を向けて言った。

 “あれ? 題名をよく知らなかったのかい”と、ぼくは少し意外そうな顔をして、言った、“そうだよ。あの大天才が、弱冠二十二才のときに作った曲さ。素晴らしい、のひと言に尽きるね。たった、こんな年でこんな曲を作ることができるんだから。恐らく、これを演奏している中で、作曲者の年齢より若い者は誰もいないだろうね”

 “昔には、素晴らしい天才がいたのね”と、リサはしみじみと言った、“その天才のほとばしりみたいなものが、この曲からは聞きとれるような気がするわ”

 “だから、ぼくはこの曲が好きさ”と、ぼくは言った、“二百年も生命を得続けているこの曲は、恐らく永遠だろうね…”

 

 そのようにして、まるで昔を取り戻したかのような、リサとの楽しい午後のひとときは過ぎて行った。窓の外は穏やかで、流れて来る曲はさわやかだった。リサは、そのあいだ、ジャケットのモーツァルトの肖像を、食い入るように眺めていた。ぼくは、しかし、目を部屋の隅にやり、うっとりした、夢誘うようなこの日の午後を、もっと長く、もっと確かに、味わっていたかった…

 

 ぼくが浴室に入ったのは、その後だった… 少し開け放された窓からは、まっ青な美しい空が広がっていた。浴槽から立ち昇る湯気が、その小さな窓のところで、出ようか、出るまいかと格闘をしていた。ぼくは、浴槽につかり、すべてが新鮮な気持に浸っていた。この小さな一角には、ぼくのすべて、ぼくの過去のすべてが存在しているようだった。昔、ママの裸を初めて目にしたのも、このような浴室だった。子供の頃、まだ昼日中、ママに言われてしぶしぶ、泥だらけの体を洗う為に入ったのも、このような浴室だった。小さな浴室に射し込む昼の光を受けて、周りのすべてが生きているんだと感じたのも、このような浴室でのことだった。



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