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 “いいわ、兄さんが何んて言ってくれようと”と、リサは言った、“あたしは都会が好きよ。もちろん、田舎も好き。でも、余り静か過ぎるところはねえ。あたしは、ひとりで何かするより、誰かと何かしていることの方が好きよ”

 “ぼくも、人が嫌いじゃない”と、ぼくは言った、“でも、自分を見つめる為には、ひとりになる他ないのさ。ぼくは、どちらかと言えば、ひとりでいる時間の方が好きなんだ。そのとき、いろんなことが頭に浮かんで来るし、楽しいことも、幸せなことも、詩的な情景も、みんな、ひとりの中から生まれて来るのさ…”

 “じゃ、あたしの存在って、兄さんにとって何?”と、リサは尋ねた。

  ぼくはリサをじっと見つめ、それから言った、

 “お前は、何よりもまず、ぼくの妹。ということは、ぼくの恋人でもあるし、ぼくと世間とを結びつけてくれるパイプの役割をも果たしてくれているのさ。お前は、ぼくにとって、欠かせない存在なのさ…”

 “あたしにとって、兄さんは”と言ってリサは、次の言葉を考えるように、一瞬口を止めた、“やっぱり、あたしの兄さんよ。昔からの経験を共有している、一番古いお友だち。そんな、昔のことを話せる人って、やっぱり兄さんしかいないわ”

 “人間同士が共通の経験を持つということは、なかなかあり得ないものさ”とぼくは言った、“そんな中で、ぼくたちが共通の経験を持っているということは、貴重なことなんだ。そういう経験は、苦しいものであれ、楽しいものであれ、大切にしなくっちゃね”

 

 秋の午後はゆっくりと過ぎて行く。ぼくは、部屋のソファーに坐っているリサを見、リサは、窓の外に広がる秋景色を眺めていた。ぼくたちは、とりとめのない話題で、午後を過ごした。リサの、都会での生活の話し。彼女は今も、あの高層マンションの十二階の部屋で、ポーラと一緒に暮らしている、ということだ。

 “それで、男友だちって、いくらでもいるんだろ?”と、ぼくは、それとなく尋ねた。

 “仕事上でのね”と、リサは、まじめな顔をして、答えた、“でもときどき、食事に誘ってくれたり、ドライブに連れて行ってくれたことはあるわ”

 “でも、たいていはポーラと一緒。洋服のショッピングに行ったり、夕飯の買い出しに行くのも、彼女と一緒よ。晩御飯は、彼女と交替で作り合っているわ”とリサは続けた、“彼女とは、境遇が似通っているせいか、割と馬が合うのね”

 “ポーラとは、一緒の仕事なのかい?”と、ぼくは尋ねた。 

 “いいえ、彼女とは仕事は別よ”と、リサは答えた、“彼女も、スタジオを飛び出して、今は、小さな洋品店で働いているわ。あたしもときどき、彼女の店に寄ったりしているけれどね”

 “それで、確か、ルナールとか言った男がいたろう”と、ぼくは言った、“あの男とは、今も付き合っているの?”


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 “ええ、ごくたまにね”と、リサは、余り言いたくなさそうに、視線を下に向けて答えた、“あの人自身、いま、生活が余り芳しくなさそうなのよ。トラブルに巻き込まれて、今、少しやけ気味なのよ。アルコールばっかり飲んでいるっていう話しよ”

 “うまく行ったり、行かなかったりだね”と、ぼくは同情して、言った、“じゃ、今付き合っているのは、別の人なんだね”

 “たいていグループでよ”と、リサは、はっきりと答えた、“そのときはポーラも一緒だし、ポーラの友だちのマルカも、あたしの同僚のアメリアも、みんな一緒よ。この夏にキャンプに行ったのも、その人らと同じ連中よ…”

 “お前の賑やかな生活の様子が目に浮かんで来そうだ”と、ぼくは言った、“ところがぼくの方は、見てのとおり、何も賑やかなものはない。ただ静けさと、冷たい空気と、旅の思い出の珍しい品々と、時計の音だけ。――でも、そんな中で、時折り思い出すことは、レオノール爺さんの夏の別荘での、お前との生活のことさ。あのレビエの別荘での生活は、ほんの短い期間で終わってしまったけれど、生活の変動期でもあり、一番幸福な時期のひとつだったし、今でもまるで夢のように思い出されるのさ…”

 リサは、そのレビエという名を口にすると、少し考え込むように黙ってしまった。この家に代わってからも、ほとんどその名を口にすることもなく、まるで記憶から消してしまうかのように、互いに思い返すこともなく過ごして来た名前だった。レビエの別荘――それは、ぼくの生活上での最高の幸せを意味すると同時に、その結末と別れは、悲壮なもので終わっていた。つまり、リサは、そこで、暴行を受けたのだ。

 しかしリサは、今回は、その暴行のことだけを切り離して、考えてくれた。

 “そうね”とリサは言った、“確かにそうね。ここもいいけど、あそこはもっと素敵だったわ。二階の窓から、柳やカシの木の林ごしに湖が見えたし、花だって、庭にここに負けないくらい咲いていたわ。それに、あのお爺さんの思い出の土地だったんですものね… あたしたちが昔いたリトイアだって、そう遠くはなかったし”

 “そうさ、ぼくたちのもう一つの原点があそこにあったのさ”と、ぼくは言った、“あの頃も、あの近くを訪れて感慨にふけったものだが、ぼくはもう一度、その感慨を新たにしたいと思っている。この春にはひとりで、あのリラン湖畔のレビエに訪れてみるつもりさ。あそこからそう遠くないリトイアは、ママがその昔、娘時代を過ごしたところでもあったし、その他にも、色々と思い出深いことがあるところなんだからね…”

 “あの別荘は、もう誰かの手に移っているのね”と、リサは残念そうに言った。

 “でも、夏以外は、恐らく使われていないさ”と、ぼくは言った、“だから、こっそりと中に入ってみることもできる…”

 “書斎が二階にあって、兄さんは一生懸命、お爺さんの話しを書き留めていたわね”と、リサは言った、“あたしはあたしで、働きもしないで、とりとめのない生活をしていたわ。それまでやりたくても出来なかったことを、もう一度やろうと試みたり。本当に、あの頃が一番幸せだったかも知れないわ”


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 “二階の書斎の窓から眺められた湖の光景だけは、忘れることができないよ”と、ぼくは、なつかしそうにあの頃の情景を思い出しながら、言った、“忘れたくても、忘れることが出来ない。背の高い柳や、カシの木の重なり合った明るい葉の緑ごしに、きらきらと輝くような真青な湖面、美しく澄んだ空などが見えるんだ。ときおり、ヨットのセーリングの光景すら、そのわずかに樹木の間から見える湖面に、見ることができた。万事がゆったりと、穏やかに、幸せに満ちながら、過ぎて行った… あんな時を過ごすことができるなんて、もう二度と出来ないかも知れない。ぼくは、暇があればいつも、二階の書斎にいて、柔かな、窓から射し込む、季節の光を浴びながら、その美しい景色を眺め、思い暮らしたものさ。あの頃はまだ、レオノール爺さんがいたし、ぼくたちは毎日、決まった時刻に、入院先の病院へ見舞いに行く以外は、これといった義務を負ってはいなかった。だからそれ以外は、二階の書斎に駆け込み、それまでしたくても出来なかったこと、つまり、書きたいという衝動を、心ゆくまで満足させることにしたのさ。しかしまずは、レオノール爺さんの話しを書き留めることから始めることにした”

 “それで書けたの?”とリサは、ぼくの顔を見て尋ねた。

 “いやまださ”とぼくは、リサに一瞥して答えた、“他にも、いろいろと忙しいことがあってね。まず、いろいろと勉強しなくちゃならなかったのさ。それに、爺さんの話しも、実地に調査して、検証してからでないと、本当のことだと納得して書くわけには行かないさ。――でも、爺さんから聞いたことは全部ノートにとってあるし、その気にさえなれば、いつでも書き始めることはできるのさ”

 “それで行くのね、この春に…”とリサは、しんみりと言った、“あたしも行ってみたいところだけど、行けそうもないわ。仕事の方がね”

 “分かっている”とぼくは答えた、“今回も、ぼくひとりだけで行くよ。それで充分さ。レビエの別荘や、昔、ママが住み、ぼくたちもいたことのあるあのリトイアヘは、早春の、雑草や木々の花々が一斉に芽ぶく頃に行ってみたいものさ。きっと、素晴らしい体験になるに違いないさ。今から待ちどおしいぐらいだ。ママが昔通い、ぼくたちも通ったことのある、あの由緒ある古い校舎や、爺さんの言っていたあの大きな館、あの頃から雑草におおわれていた会社跡や、ママが通ったことのあるリトイアの高等学校など、今も、あの当時そのままに残っているはずなんだ。ぼくはあそこへ訪ねてみたい。そして、ぼくたちの昔の頃や、もっと以前の、まだぼくたちが生まれていなかった頃の、ちょうどママが生きた当時の空気に触れ、思いを馳せてみたいものなのさ”

 “きっと、素晴らしい経験になるわね”と、リサは目を輝かせながら、自分が行けないのがちょっと口惜しそうに、言った。

 “そう”と、ぼくは楽しそうに言った、“でも、ただ残念なのは、あの事件のおかげで、引越しを余儀無くされてしまったことさ”

 そう言って、しまったとぼくは思った。リサの表情に、かすかに曇りがさすのが認められたからだった。ぼくは、言うべきではなかったことを、ついうっかり、口走ってしまったのだ。


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 しかしその瞬間、ぼくの脳裏には、あのいまわしい日の光景がはっきりと浮かんだのだった。もう夏も終わりの午後、家の静まり返った明るい庭には、陽光が燦々と降り注いでいた。ぼくは、その余りの静けさにとまどいながらも、家に帰って来た身を休めようとした。しかし、玄関のドアは開け放され、また、開かれた窓から外に向かってカーテンがなびいている様子を目にすると、一瞬、何か不吉な予感がしないでもなかったが、ぼくはためらうことなく、家の中に入って行った。し~んとした、いつも見慣れた部屋。何ひとつ変わったことはなさそうだったが、しかしその奥で、開かれた、明るい台所から目に飛び込んで来た光景は、家具の配置は、何ひとつ乱れてはいないのに、その隅の勝手口の扉が開け放されたままになっているそのすぐ手前のところで、まるで死んだように倒れているリサの姿だった。しかもその姿は普通ではなく、よく見ると、衣服が乱れていたばかりか、引き裂かれたところさえあり、露わな足や肩に大きなあざのような青いキズを認めることができた。彼女はうつ伏せに、向う向きに、ぐったりと倒れていた。ぼくは、その光景の、余りの唐突さに、唖然となると同時に、この台所の余りの静けさや、開け放された勝手口の扉の向うに覗いて見える、夏草や樹木の明るい輝き、それに、窓から射し込む、柔かな、神々しい光を浴びて、白く反射する、真新しい家具や食器類の無言の表情などに幻惑されて、思わず、我を忘れたように、みとれてしまうほどだった。しかしすぐ我を取り戻し、ぼくは、彼女の下へ駆け寄った。彼女を抱き起こすと、彼女の呼吸ですぐ生存を確かめることができたが、リサは完全に気を失っていた。しかしそれも無理はない、彼女の服は引き裂かれ、彼女が暴行を受けたことは一見して明らかで、唇や額からは血がにじみ出、せっかくの美しい、白いドレスも、血と泥にまみれていた。ところどころ露出した彼女の膚のいたる所、青いあざがついていた。ぼくはすぐ彼女を抱きかかえ、彼女の寝室のベッドヘと、リサを運んで行った…

 それが、すべての始まりだった…

 

 “…あの事件のことは、あまり口にしないで”と、リサは真面目な表情になって言った、“あんまり思い出したくないのよ…”

 “ああ、悪かったよ”と言って、ぼくは謝った、“でもさ、あの一事を除いて、すべてが素晴らしいところだった。リサだって、そうとは思わないかい?”

 “そうねえ”と、リサの表情に明るさが戻り、彼女は言った、“確かにいいところだった。まるで天国にいるような毎日ね。なんにも思い煩うこともなく、好きなことをして、生活をすることが出来たんですもの。あんな、夢のような日々なんて、もうめったに訪れるものじゃないわ”

 “ぼくだってときどき思い出すのさ。あの幸せに満ちた日々のことをね”と、ぼくは言った、“音楽はモーツァルト、まるでモーツァルトのフルートとハープの協奏曲のような気分の毎日だった。光は明るく、まぶしいぐらいだった。


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とりわけ、二階の書斎のあの窓辺に、緑いっぱいの木の葉を通して射し込む、柔かな光はね。机の上には、彫刻や時計の置物や、花瓶があり、それらが、光を浴びてまぶしく輝くのさ。床は板張りの簡素な部屋だったけど、物を書くには、これまでの一番いい環境だった。窓から見降ろすと、芝生の庭には、春の花々が咲き誇り、樹木はこれ以上ないほど、葉をつけ、茂っていた。ぼくは窓を開け、春の、なんとも言えず心地良い空気と、花々や樹木のかぐわしい香りを、いつも、胸いっぱい吸い込んで暮らしたものさ。ときおり、創作に疲れると、ぼくは階段を降り、一階の応接室で、モーツァルトの音楽などを聞いて、心を休めた。何ひとつ、辛いと思うようなものはなかった。それまでの都会の暮らしに比して、まるで天国のような日々だった。家の中はいつもし~んとしていて、ただ時折り、モーツァルトの音楽だけが、家の片隅から、緑いっぱいの庭に向かって、鳴り響いたものだった。それを、応接室のソファーで聞いていると、やがてまぶたが自然と閉じて来た。そんな日々にぼくの脳裏にかすめたのが、ぼくたちの幼い、子供の頃の情景だった…”

 “いいわねえ、そんな日もあったのね”と、リサはにっこりして言った、“あたしはその頃、勤めに出ていたわ。街の遊園地で、子供たちの相手ばかりしていた。でも、遊園地も明るくて、結構楽しかったわ”

 “あの遊園地かい?”と、ぼくは、リサの顔を見つめて言った、“花壇に、花がいっぱい咲いていた湖のほとりの遊園地―― ぼくが陽気に誘われて行くと、確か遊園地のレストランにお前がいたね。野外のテーブルに坐ると、お前が冷たい飲物を持って来てくれたりして。でも、それも、お前の仕事の一部だったのさ…”

 リサは、にっこり笑った。

 “あんな日々があったなんて信じられない”と、ぼくは続けた、“書斎の窓から素晴らしい庭や、晴れ渡った空を見つめていると、自然と、昔の、子供の頃に目にした情景が、二重映しとなって、目の前に浮かんで来るのさ。その頃には、庭に、ママがいる姿も見ることができたけれどもね、もう、そのとき既にママの姿を見ることは出来なかった。――しかし、快い風が、その当時の記億を、様々に呼び覚まさせてくれたものさ。四季折々に、お前たちと遊んで暮らした日のこと。ママと喧嘩をして家を飛び出し、森の中に入って、ママを心配させた日のこと。村の小学校の校庭で、友だちとサッカーの遊びをしたときのこと、などさ。随分様々な思い出があることが、そのときになって初めて分かった。都会の苦しい、まるで闇のような生活の向うに、まるでオアシスのような幸せな生活があったことを、そのときに思い出したのさ。――でも、それらはもう、雲をつかむような昔の話しで、その頃には、その当時の名残が何か存在するとすれば、ただお前ひとりでしかなかった。しかし、二百年以上も昔の音楽が今に伝わるように、ぼくは、その当時の記憶を、なんとかして今に伝えたいと、そのとき、真剣になって思ったものさ…”

 “それで、何かしたの?”と、リサは尋ねた。



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