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 “そのときには、あたしに連絡してね”と、リサは言った。

 “ああ、忘れずにするよ”と、ぼくは言った、“それから旅先からもね、ひとつひとつお前に連絡するよ”

 “きっとよ”と、リサは念を押した。

 “きっとさ”と、ぼくは答えた、“今度は長期に渡るかも知れないから、ぼくとしても、お前に常に居場所を知らせておきたいのさ”

 “分かったわ”と、リサは安心したようにぼくを見、それからもう一度、秋の寂しい庭の様子や、生垣や、遠景の野を眺めた。

 

 リサは、ぼくにコーヒをついでくれた。花柄模様の白い食器から立ち昇る湯気が、なんとも言えず暖かで、コーヒを注ぐ彼女の細い手が、透き通るように美しかった。午後の日ざしは穏やかで、白いレースのカーテンを通して窓から射し込む光のせいで、部屋の中は明るかった。しかし、秋の日ざしは強くはなく、うっすらと空をおおった雲のすき間から、その淡い光を、この地上に投げかけていた。神秘的なまでに静かな午後、ぼくは、リサと二人っきりだった。耳をすますと、遠くから、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。あれは、つぐみか、みそさざいだろうか? 秋の、冷たく、淡い日射しが、この地を、一層他の世界と切り離されたように、感じさせた。

 “こんなところで一日いると、気が滅入ってしまわない?”とリサが言った。

 “ぼくは待ち望んでいる、早く春が来ることをね”と、ぼくは答えた、“草が伸び、花々が一斉に咲き始めるあの春が来ることをね。――でも、今は秋さ。辛抱強くそのときが来るのを待つしかないさ。お前が家を出て行ってからというもの、ぼくは毎日、この静けさと、周りの人気なさとに対面しているんだ。でも、それが辛いと思ったことは一度もない…”

 リサは、黒いカーディガンを引っかけ、窓の外に振り向いた。

 “まるでここは別世界ね、都会とは”と、リサは窓の向うに振り向いたまま言った、

“都会では、今も人々は忙しそうにしているわ。でも――ここは、なんとゆっくりと、時間が過ぎるんでしょう!”

 “お前はやはり、都会に帰りたいかい?”と、ぼくは尋ねた。

 リサは振り向き、ぼくを見た。

 彼女の顔は、明るい窓とその向うの景色を背景にして、白いはずの膚も、少し暗く感じられた。しかし、その表情はよく分かった。

 “やっぱりあたしにはね”とリサは、正直に答えた、“都会が向いているようよ。何やかやがあって、面白いもの”

 “ぼくも都会が嫌いじゃないさ”と、ぼくは言った、“――でも、充分に自分の時間というものが欲しいんだ。自分の心の真実を見つける為にね。その為にも、こうして、世間から引っ込む他ないのさ。――でも、都会は、時折りの気晴らしには持って来いの場所だ”


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 “いいわ、兄さんが何んて言ってくれようと”と、リサは言った、“あたしは都会が好きよ。もちろん、田舎も好き。でも、余り静か過ぎるところはねえ。あたしは、ひとりで何かするより、誰かと何かしていることの方が好きよ”

 “ぼくも、人が嫌いじゃない”と、ぼくは言った、“でも、自分を見つめる為には、ひとりになる他ないのさ。ぼくは、どちらかと言えば、ひとりでいる時間の方が好きなんだ。そのとき、いろんなことが頭に浮かんで来るし、楽しいことも、幸せなことも、詩的な情景も、みんな、ひとりの中から生まれて来るのさ…”

 “じゃ、あたしの存在って、兄さんにとって何?”と、リサは尋ねた。

  ぼくはリサをじっと見つめ、それから言った、

 “お前は、何よりもまず、ぼくの妹。ということは、ぼくの恋人でもあるし、ぼくと世間とを結びつけてくれるパイプの役割をも果たしてくれているのさ。お前は、ぼくにとって、欠かせない存在なのさ…”

 “あたしにとって、兄さんは”と言ってリサは、次の言葉を考えるように、一瞬口を止めた、“やっぱり、あたしの兄さんよ。昔からの経験を共有している、一番古いお友だち。そんな、昔のことを話せる人って、やっぱり兄さんしかいないわ”

 “人間同士が共通の経験を持つということは、なかなかあり得ないものさ”とぼくは言った、“そんな中で、ぼくたちが共通の経験を持っているということは、貴重なことなんだ。そういう経験は、苦しいものであれ、楽しいものであれ、大切にしなくっちゃね”

 

 秋の午後はゆっくりと過ぎて行く。ぼくは、部屋のソファーに坐っているリサを見、リサは、窓の外に広がる秋景色を眺めていた。ぼくたちは、とりとめのない話題で、午後を過ごした。リサの、都会での生活の話し。彼女は今も、あの高層マンションの十二階の部屋で、ポーラと一緒に暮らしている、ということだ。

 “それで、男友だちって、いくらでもいるんだろ?”と、ぼくは、それとなく尋ねた。

 “仕事上でのね”と、リサは、まじめな顔をして、答えた、“でもときどき、食事に誘ってくれたり、ドライブに連れて行ってくれたことはあるわ”

 “でも、たいていはポーラと一緒。洋服のショッピングに行ったり、夕飯の買い出しに行くのも、彼女と一緒よ。晩御飯は、彼女と交替で作り合っているわ”とリサは続けた、“彼女とは、境遇が似通っているせいか、割と馬が合うのね”

 “ポーラとは、一緒の仕事なのかい?”と、ぼくは尋ねた。 

 “いいえ、彼女とは仕事は別よ”と、リサは答えた、“彼女も、スタジオを飛び出して、今は、小さな洋品店で働いているわ。あたしもときどき、彼女の店に寄ったりしているけれどね”

 “それで、確か、ルナールとか言った男がいたろう”と、ぼくは言った、“あの男とは、今も付き合っているの?”


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 “ええ、ごくたまにね”と、リサは、余り言いたくなさそうに、視線を下に向けて答えた、“あの人自身、いま、生活が余り芳しくなさそうなのよ。トラブルに巻き込まれて、今、少しやけ気味なのよ。アルコールばっかり飲んでいるっていう話しよ”

 “うまく行ったり、行かなかったりだね”と、ぼくは同情して、言った、“じゃ、今付き合っているのは、別の人なんだね”

 “たいていグループでよ”と、リサは、はっきりと答えた、“そのときはポーラも一緒だし、ポーラの友だちのマルカも、あたしの同僚のアメリアも、みんな一緒よ。この夏にキャンプに行ったのも、その人らと同じ連中よ…”

 “お前の賑やかな生活の様子が目に浮かんで来そうだ”と、ぼくは言った、“ところがぼくの方は、見てのとおり、何も賑やかなものはない。ただ静けさと、冷たい空気と、旅の思い出の珍しい品々と、時計の音だけ。――でも、そんな中で、時折り思い出すことは、レオノール爺さんの夏の別荘での、お前との生活のことさ。あのレビエの別荘での生活は、ほんの短い期間で終わってしまったけれど、生活の変動期でもあり、一番幸福な時期のひとつだったし、今でもまるで夢のように思い出されるのさ…”

 リサは、そのレビエという名を口にすると、少し考え込むように黙ってしまった。この家に代わってからも、ほとんどその名を口にすることもなく、まるで記憶から消してしまうかのように、互いに思い返すこともなく過ごして来た名前だった。レビエの別荘――それは、ぼくの生活上での最高の幸せを意味すると同時に、その結末と別れは、悲壮なもので終わっていた。つまり、リサは、そこで、暴行を受けたのだ。

 しかしリサは、今回は、その暴行のことだけを切り離して、考えてくれた。

 “そうね”とリサは言った、“確かにそうね。ここもいいけど、あそこはもっと素敵だったわ。二階の窓から、柳やカシの木の林ごしに湖が見えたし、花だって、庭にここに負けないくらい咲いていたわ。それに、あのお爺さんの思い出の土地だったんですものね… あたしたちが昔いたリトイアだって、そう遠くはなかったし”

 “そうさ、ぼくたちのもう一つの原点があそこにあったのさ”と、ぼくは言った、“あの頃も、あの近くを訪れて感慨にふけったものだが、ぼくはもう一度、その感慨を新たにしたいと思っている。この春にはひとりで、あのリラン湖畔のレビエに訪れてみるつもりさ。あそこからそう遠くないリトイアは、ママがその昔、娘時代を過ごしたところでもあったし、その他にも、色々と思い出深いことがあるところなんだからね…”

 “あの別荘は、もう誰かの手に移っているのね”と、リサは残念そうに言った。

 “でも、夏以外は、恐らく使われていないさ”と、ぼくは言った、“だから、こっそりと中に入ってみることもできる…”

 “書斎が二階にあって、兄さんは一生懸命、お爺さんの話しを書き留めていたわね”と、リサは言った、“あたしはあたしで、働きもしないで、とりとめのない生活をしていたわ。それまでやりたくても出来なかったことを、もう一度やろうと試みたり。本当に、あの頃が一番幸せだったかも知れないわ”


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 “二階の書斎の窓から眺められた湖の光景だけは、忘れることができないよ”と、ぼくは、なつかしそうにあの頃の情景を思い出しながら、言った、“忘れたくても、忘れることが出来ない。背の高い柳や、カシの木の重なり合った明るい葉の緑ごしに、きらきらと輝くような真青な湖面、美しく澄んだ空などが見えるんだ。ときおり、ヨットのセーリングの光景すら、そのわずかに樹木の間から見える湖面に、見ることができた。万事がゆったりと、穏やかに、幸せに満ちながら、過ぎて行った… あんな時を過ごすことができるなんて、もう二度と出来ないかも知れない。ぼくは、暇があればいつも、二階の書斎にいて、柔かな、窓から射し込む、季節の光を浴びながら、その美しい景色を眺め、思い暮らしたものさ。あの頃はまだ、レオノール爺さんがいたし、ぼくたちは毎日、決まった時刻に、入院先の病院へ見舞いに行く以外は、これといった義務を負ってはいなかった。だからそれ以外は、二階の書斎に駆け込み、それまでしたくても出来なかったこと、つまり、書きたいという衝動を、心ゆくまで満足させることにしたのさ。しかしまずは、レオノール爺さんの話しを書き留めることから始めることにした”

 “それで書けたの?”とリサは、ぼくの顔を見て尋ねた。

 “いやまださ”とぼくは、リサに一瞥して答えた、“他にも、いろいろと忙しいことがあってね。まず、いろいろと勉強しなくちゃならなかったのさ。それに、爺さんの話しも、実地に調査して、検証してからでないと、本当のことだと納得して書くわけには行かないさ。――でも、爺さんから聞いたことは全部ノートにとってあるし、その気にさえなれば、いつでも書き始めることはできるのさ”

 “それで行くのね、この春に…”とリサは、しんみりと言った、“あたしも行ってみたいところだけど、行けそうもないわ。仕事の方がね”

 “分かっている”とぼくは答えた、“今回も、ぼくひとりだけで行くよ。それで充分さ。レビエの別荘や、昔、ママが住み、ぼくたちもいたことのあるあのリトイアヘは、早春の、雑草や木々の花々が一斉に芽ぶく頃に行ってみたいものさ。きっと、素晴らしい体験になるに違いないさ。今から待ちどおしいぐらいだ。ママが昔通い、ぼくたちも通ったことのある、あの由緒ある古い校舎や、爺さんの言っていたあの大きな館、あの頃から雑草におおわれていた会社跡や、ママが通ったことのあるリトイアの高等学校など、今も、あの当時そのままに残っているはずなんだ。ぼくはあそこへ訪ねてみたい。そして、ぼくたちの昔の頃や、もっと以前の、まだぼくたちが生まれていなかった頃の、ちょうどママが生きた当時の空気に触れ、思いを馳せてみたいものなのさ”

 “きっと、素晴らしい経験になるわね”と、リサは目を輝かせながら、自分が行けないのがちょっと口惜しそうに、言った。

 “そう”と、ぼくは楽しそうに言った、“でも、ただ残念なのは、あの事件のおかげで、引越しを余儀無くされてしまったことさ”

 そう言って、しまったとぼくは思った。リサの表情に、かすかに曇りがさすのが認められたからだった。ぼくは、言うべきではなかったことを、ついうっかり、口走ってしまったのだ。


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 しかしその瞬間、ぼくの脳裏には、あのいまわしい日の光景がはっきりと浮かんだのだった。もう夏も終わりの午後、家の静まり返った明るい庭には、陽光が燦々と降り注いでいた。ぼくは、その余りの静けさにとまどいながらも、家に帰って来た身を休めようとした。しかし、玄関のドアは開け放され、また、開かれた窓から外に向かってカーテンがなびいている様子を目にすると、一瞬、何か不吉な予感がしないでもなかったが、ぼくはためらうことなく、家の中に入って行った。し~んとした、いつも見慣れた部屋。何ひとつ変わったことはなさそうだったが、しかしその奥で、開かれた、明るい台所から目に飛び込んで来た光景は、家具の配置は、何ひとつ乱れてはいないのに、その隅の勝手口の扉が開け放されたままになっているそのすぐ手前のところで、まるで死んだように倒れているリサの姿だった。しかもその姿は普通ではなく、よく見ると、衣服が乱れていたばかりか、引き裂かれたところさえあり、露わな足や肩に大きなあざのような青いキズを認めることができた。彼女はうつ伏せに、向う向きに、ぐったりと倒れていた。ぼくは、その光景の、余りの唐突さに、唖然となると同時に、この台所の余りの静けさや、開け放された勝手口の扉の向うに覗いて見える、夏草や樹木の明るい輝き、それに、窓から射し込む、柔かな、神々しい光を浴びて、白く反射する、真新しい家具や食器類の無言の表情などに幻惑されて、思わず、我を忘れたように、みとれてしまうほどだった。しかしすぐ我を取り戻し、ぼくは、彼女の下へ駆け寄った。彼女を抱き起こすと、彼女の呼吸ですぐ生存を確かめることができたが、リサは完全に気を失っていた。しかしそれも無理はない、彼女の服は引き裂かれ、彼女が暴行を受けたことは一見して明らかで、唇や額からは血がにじみ出、せっかくの美しい、白いドレスも、血と泥にまみれていた。ところどころ露出した彼女の膚のいたる所、青いあざがついていた。ぼくはすぐ彼女を抱きかかえ、彼女の寝室のベッドヘと、リサを運んで行った…

 それが、すべての始まりだった…

 

 “…あの事件のことは、あまり口にしないで”と、リサは真面目な表情になって言った、“あんまり思い出したくないのよ…”

 “ああ、悪かったよ”と言って、ぼくは謝った、“でもさ、あの一事を除いて、すべてが素晴らしいところだった。リサだって、そうとは思わないかい?”

 “そうねえ”と、リサの表情に明るさが戻り、彼女は言った、“確かにいいところだった。まるで天国にいるような毎日ね。なんにも思い煩うこともなく、好きなことをして、生活をすることが出来たんですもの。あんな、夢のような日々なんて、もうめったに訪れるものじゃないわ”

 “ぼくだってときどき思い出すのさ。あの幸せに満ちた日々のことをね”と、ぼくは言った、“音楽はモーツァルト、まるでモーツァルトのフルートとハープの協奏曲のような気分の毎日だった。光は明るく、まぶしいぐらいだった。



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