260
“はあ、若いのに感心だなあ”と、老人は言った、“それで、兄さんの方は?”
“ぼくは目下失業中です”と、ぼくは、少々苦笑いをしながら、言った。
“それはいかんな”と、老人は語気を強くして言った、“それじゃ、生活はどうしているんだね?”
“親の遺産が少々ありましてね”と、ぼくは、言わなくていいことまで、答えてしまった。
そのとき、老女が、ティーポットに紅茶を入れて、やって来た。ぼくたちの前に、ティーカップが並べられ、それに、熱いティーが注がれた。
“もしその気があるなら、うちへ来て働かんかね”と、老人は、カップに砂糖を入れながら、まだ全くの初対面だというのに、ぼくに言った。
ぼくは答えに窮した。農作業と言えば、昔、畑の仕事を少しばかりしたことがある。しかし、厳しい冬の寒さで手はひび割れ、余りいい記憶としては残ってはいない。
“ええ、その気になれば…”とだけ、ぼくは答えた。
“今は、どこの農家でもそうだが、人手が足りんのだよ”と、老人は、ぼくを見て言った、“うちは御覧の通り、婆さんと、今出かけている一番末の息子と三人だけだ。その息子も、いつこの家を出るものやら。忙しいときは、近所の若い者にも手伝ってもらっているが、いつまでもこういう状態でいるようではなあ…”
“どんな仕事をするんです?”と、ぼくは念のため、聞いてみた。
“これからは冬場で余り仕事はないが”と、老人は言った、“それでも、牛や羊に餌をやったり、乳を搾ったり、その他、身の回りの世話などで、結構忙しい。またときには、牛市に行って、新しいのを買って来なくちゃならないからな。今、息子が出かけているのはその用事だ。でも、とりわけ夏場は忙しい。干し草を刈らなくちゃならないからな。そのときは、猫の手も借りたいぐらいだ”
“牛って、何頭ぐらいいるんです?”と、ぼくは聞いてみた。
“現在は、肉牛が二十二頭、乳牛が五頭、というところかな”と、老人は、ごく事務的に答えた、“それに肉用の羊が六十五頭、豚が十頭、他に、鶏がいる。もっとも、鶏と豚は、自家用だがね”
“そういうことなんですか”と、ぼくは言った、“結構忙しそうなんですねえ…”
“君は、こういう仕事はしたことがないのかね”と、老人は言った。
“もちろんです”と、ぼくは答えた。
“ドシアンの近くに住んでいるということだが、農家ではないのかね”と、老人はなおも尋ねた。
“ぼくたちはそこに住んでいるけど、よそ者ですから”と、ぼくは答えた。
“うちの主人はね”と、そのとき、老人の横に坐ったおかみさんが、口をはさんだ、“口はうるさいけど、なかなかいい人なんですよ。
261
働き者で、頑固なところもあるけれど、面倒見はいい方よ。でも、この人の口に乗せられてはダメですよ。農家の仕事って、それは大変なんですから”
“これ、婆さん”と言って、老人は、おかみさんに注意をした、“さあ、どうぞ、暖かい紅茶でも飲んで下さい”
“ええ、いただきます”と言って、ぼくは暖かいティーカップを口へと運んだ。
“この可愛いお嬢さんだが”と、しばらくしてから老人は、紅茶をすすっているリサを見て、言った、“メロランスでジャーナリストをやっているということだけど、大変なんだろうね”
“ええ、でもまだほんの駆け出しですから”とリサは素直に答えた、“原稿が期限に間に合わなかったり、インタビューをとちったりで、先輩に迷惑ばかりかけています”
“まあ、まだ若いんだからな”と老人は言った、“それで何をつくっているんだね?”
“婦人雑誌です”と、リサは答えた、“主にファッション関係だけど、その他のこともやります。例えばインテリアとか、料理のことや、旅行案内、家庭訪問など”
“家庭訪問ね”と、老人は言った、“じゃ、うちの家の感想はどうなんだね。農家のファッションについてどう思うね”
リサはとまどいを見せながらも、部屋の様子を見回しながら言った、
“ええ、なかなかいいじゃないかしら。いかにも落ち着いて、無駄がなく、古びたところって、とっても素敵だわ。都会のあたしたちには、こういう建物って、とっても落ち着いていて、貴重だわ。おじさんの服装だって、シンプルで、作業によく適しているんじゃないかしら。要は、ファッションなんて大げさに考えなくても、その場に適している服装をしていればいいのよ。それがときには、あたしたちに影響を与えることだってあるわ”
“面白いね”と老人はニヤリとしながら言った、“若い娘ならともかく、農業にファッションなんて必要ないよ。わしは昔からずっと、この服装のままだ…”
“ありがとうございました”とぼくは、そろそろ潮時だと思って声をかけた。
“おやおや、もう帰る気なのかい”と、老人は驚いたように言った、“何かうまいものでも御馳走しようと思っていたのに…”
“いえ、結構です”と、ぼくは言った、“余り長居をすれば、帰りが遅くなりますから…”
そう言って、ぼくはリサの肩を叩き、ぼくたちは立ち上がった。
老人と一緒に、ぼくたちが玄関から出ようとしたとき、表で急にトラックのうなり声が聞こえたので、その方を見ると、数頭の子牛を荷台に乗せた小型トラックが家の前に止まるのが見えた。そしてすぐ、中からは、ジャージィに皮ジャンパー、それに作業ズボンをはいた、まだ年若い男が姿を現した。彼は、車から飛び降りるなりすぐこちらへやって来た。
262
“おやじ、買って来たぜ”と、爺さんを見て言ったが、すぐぼくたちの存在に気がついたようだった。彼は、けげんな目で、ぼくたちをまじまじと見つめた。
“この人たちは通りがかりの人だ”と、爺さんは、彼を安心させるように言った、“もう帰られるそうだ。あの馬に乗って、ドシアンの近くからやって来られたんだ”
“それじゃ”と、ぼくたちは、老人に、丁寧にお礼をして別れると、馬のいるところへと向かった。
若い男は、あっけにとられたような表情で、いつまでもぼくたちの、とりわけ、可愛いリサの様子を見つめていた。
ぼくたちは、たずなをはずすと、再び馬にまたがった。そして、馬の向きを変えると、そのまま、丘に向かって、馬を走らせた。
“ねえ、農家って、行ってみて面白かったかい?”とぼくは、農家が、後ろで遠ざかるのを脇目にしながら、リサに言った。
“ええ、気に入ったわ”と、リサは、明るい表情を見せながら、ぼくに答えた。
“確かにね。でも、生活するとなりゃ大変だ”と、ぼくは言った、“あそこの婆さんがはしなくも言っただろう。ああいう生活は大変なのさ”
“兄さんも雇ってもらったら”と、リサは、冗談めかせて言った。
“無理だね”と、ぼくは答えた、“ぼくには、あの激しい労働にはついて行けないよ”
“大丈夫。十分ついて行けるわよ”と言う、リサの声の響きと共に、ぼくたちを乗せた馬は、晴れた、雲の穏やかな空の下、緑の澄んだ草原の中を駆けて行った。
…ぼくたちはこうして家に戻って来た。楽しい遠乗りだった。いくつもの丘を越え、樫やサンザシやハリエニシダなどの樹林を通り、潅木や雑草の茂みを駆け抜けて来た。あの夢のような農家の出来事も、ここからは遠いところのように思われた。帰りがけに、農家の婆さんが、鶏たちに餌を与えていた様子が、今も脳裏に浮かんで来た。ぼくたちは約束通り、帰る途中、セーレンの墓に立ち寄った。それは、ふもとに民家のある牧場を見はるかす、雑草のよく生い茂った、一見何んの変哲もない高台の上の、一本のサンザシの木の下にあった。ここは、ぼくの家からもそう遠くなく、生前は、よくこの犬と遊びに来たところだった。ここがこの犬のお気に入りの場所でもあり、ぼくの気にも入っていたので、セーレンが死んだとき、ここへ埋めることにしたのだった。今は、雑草におおわれながら、わずかに盛り上がった土が、その存在を示していた。秋のほの暖かい日ざしが、そこにも降り注ぎ、心地良い風が、辺りの雑草を揺らしていた。ぼくは、馬から降りてその場所に来ると手を合わせ、祈りの為に頭を垂れた。リサは、ここへ来るまでの途中、野に咲いていた白い花を、そっと、その盛り土の上に乗せた。そして二人で、犬の冥福を祈った。
263
あのセーレンは、近所の人に顔を会わすことがあったとしても、ほとんど、ぼくたち二人だけしか知らない。ぼくたち二人と共に、この静かな野に生き、そして、この世界しか知らずに、冥府へと行ってしまったのだ。この暖かい秋の日ざしが、祈っているぼくに、当時の、まだセーレンが生きていた頃を、呼び覚ませた。リサが、ぼくと並んで、膝まずくようにして、目を閉じながら、祈っていた。秋の明るい日ざしが、祈っているリサを照らし、彼女の姿を、この緑の野の中で浮かび上がらせていた。ぼくもリサも、この沈黙した盛り土と共に、しばらくのあいだ、静かな時の流れの中にいた。――風が通り過ぎ、沈黙の、セーレンとの接触の時は終わった。
“さあリサ、行こうか”と、ぼくは言った、“ここは、ぼくたち二人だけの思い出の場所だ。いつまでも忘れることのない。また、いつか来ようよ…”
リサは無言のままゆっくりと立ち上がり、もう一度しっかりと、草の生えたその盛り土を見つめると、去って行くぼくの後ろにやって来た。
“セーレンともしばらくお別れね”と、リサは言った、“でも、こんないいところで眠っていられるんだから、セーレンも幸せよ”
“人はどこで死ぬかも知れない”と、ぼくは言った、“でもできるなら、ぼくもこんなところで永久の眠りにつきたいな”
“あたしも同感”と、リサはにっこりして言った、“どちらが早く死ぬか知れないけれど、お墓はいい所に建てたいわね”
“そうだね”と、ぼくは答えた。
雲は素早く流れ去って行く。時の流れのなんと素早いことか。ぼくたちは家にいて穏やかな空や、庭の風景を眺めていた。
“それで、あたしが行ってしまってからどうするの?”と、リサは尋ねた。
“ひとりきりになる”と、ぼくは答えた、“――でも、また旅にでるさ。今度は長い旅。この前は、セーラを見つけたんだから、今度はママさ。ママを見つける為に、長いひとり旅に出る。ただし、春になってからだけどね。それが今から楽しみさ”
“じゃ、寂しくはないのね”とリサは言った、“あたしはそれを心配しているのよ”
“そりゃ確かにリサが行ってしまえば寂しくなる”と、ぼくは言った、“でもそんなこと言ってもどうしようもないだろう。お前がいずれ帰って行くのは、初めから分かっていたことなんだから。ぼくはひとりでも、生活はして行けるさ…”
“ここでの生活は楽しいわ”とリサは言った、“だって、忘れていたいろんなことを、思い出してしまうんですもの。――でも、もうあしたで終わりね”
“あしたになれば帰ってしまうのかい?”と、ぼくは尋ねた。
“そう。あしたの午後の汽車でね”と、リサは言った。
“じゃ、それまで、まだ一日以上あるし、ゆっくりして行けばいいさ”と、ぼくは言った、“大丈夫。お前が行ってからも、ぼくにはぼくの生活があるし、春になれば、さっきも言ったように旅に出るつもりさ…”
264
“そのときには、あたしに連絡してね”と、リサは言った。
“ああ、忘れずにするよ”と、ぼくは言った、“それから旅先からもね、ひとつひとつお前に連絡するよ”
“きっとよ”と、リサは念を押した。
“きっとさ”と、ぼくは答えた、“今度は長期に渡るかも知れないから、ぼくとしても、お前に常に居場所を知らせておきたいのさ”
“分かったわ”と、リサは安心したようにぼくを見、それからもう一度、秋の寂しい庭の様子や、生垣や、遠景の野を眺めた。
リサは、ぼくにコーヒをついでくれた。花柄模様の白い食器から立ち昇る湯気が、なんとも言えず暖かで、コーヒを注ぐ彼女の細い手が、透き通るように美しかった。午後の日ざしは穏やかで、白いレースのカーテンを通して窓から射し込む光のせいで、部屋の中は明るかった。しかし、秋の日ざしは強くはなく、うっすらと空をおおった雲のすき間から、その淡い光を、この地上に投げかけていた。神秘的なまでに静かな午後、ぼくは、リサと二人っきりだった。耳をすますと、遠くから、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。あれは、つぐみか、みそさざいだろうか? 秋の、冷たく、淡い日射しが、この地を、一層他の世界と切り離されたように、感じさせた。
“こんなところで一日いると、気が滅入ってしまわない?”とリサが言った。
“ぼくは待ち望んでいる、早く春が来ることをね”と、ぼくは答えた、“草が伸び、花々が一斉に咲き始めるあの春が来ることをね。――でも、今は秋さ。辛抱強くそのときが来るのを待つしかないさ。お前が家を出て行ってからというもの、ぼくは毎日、この静けさと、周りの人気なさとに対面しているんだ。でも、それが辛いと思ったことは一度もない…”
リサは、黒いカーディガンを引っかけ、窓の外に振り向いた。
“まるでここは別世界ね、都会とは”と、リサは窓の向うに振り向いたまま言った、
“都会では、今も人々は忙しそうにしているわ。でも――ここは、なんとゆっくりと、時間が過ぎるんでしょう!”
“お前はやはり、都会に帰りたいかい?”と、ぼくは尋ねた。
リサは振り向き、ぼくを見た。
彼女の顔は、明るい窓とその向うの景色を背景にして、白いはずの膚も、少し暗く感じられた。しかし、その表情はよく分かった。
“やっぱりあたしにはね”とリサは、正直に答えた、“都会が向いているようよ。何やかやがあって、面白いもの”
“ぼくも都会が嫌いじゃないさ”と、ぼくは言った、“――でも、充分に自分の時間というものが欲しいんだ。自分の心の真実を見つける為にね。その為にも、こうして、世間から引っ込む他ないのさ。――でも、都会は、時折りの気晴らしには持って来いの場所だ”