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 “でも、牛がそんな風に感じているって、考えられないわ。とリサは言った、“むしろ、悩みもなくて、毎日、悠々としていられるんだから、素晴らしいことじゃない。あたしたちみたいに、毎日、あくせくしたり、つまらないことで思い悩んだり、悲しんだりするそんな人生を、あの牛の目は、嘲笑しているみたいよ。むしろ、こっち側こそが哀れだって、言っているみたい”

 “そんな鷹揚な気持になれればねえ”と、ぼくは言った、“人間にそんな気持が備われば申し分ないさ。でも、残念ながら、人間はそうも行かない。絶えず努力を積まないとね。そうでないと、生きている実感が沸かないのさ。そうじゃないかい? リサ”

 “兄さんの言う通りよ”と、リサは、ぼくを見て言った、“人間は牛にはなれない。あくせくして、自分の手柄を自慢したり、人をそそのかしたり、人を刺激したり、それが人生というものよ”

 “そうさ、人に刺激されることがなければ、進歩というものもないのさ”と、ぼくは言った、“優れた人というものは、絶えず自分を恥じ入らせる鏡さ。そういう人を持たないと、自分を引き上げることはできない…”

 “兄さんには、そういう人がいるの?”と、リサは、ぼくを見て、尋ねた。

 “昔は、歴史上の人物たちがぼくの師だったけどねえ”と、ぼくは言った、“でも、それだけじゃ片手落ちだということに気がついたのさ。自分の生きている身の周りにそういう人がいないとね。残念ながら今はいない。でも、そういう人を見つける努力はしているのさ”

 “それは女の人?”と、リサは尋ねた。

 “ぼくにとって女は”と、ぼくは言った、“永遠のテーマなのさ。賢い女。貧しい女。哀れな女。美しい女。醜い女。みんな、関心の対象さ。そして、彼女らが、ぼくに刺激を与えるんだ…”

 “面白いこと、言うじゃない”と言って、リサは笑った、“それで何か、進歩のあとが見られるの?”

 “彼女らのことを思うと、何かしら、頑張らなくちゃならない、という気がしてくるのさ”と、ぼくは、冷静に言った、“ぼくの出来ることは限られている。でも、その範囲で、最大限の努力をしなくちゃならない、という気がしてくるのさ。そしてもし何もしていないとするなら、そういう自分が腹立たしく思えてくるんだ…”

 “女の人の為に何かする、ということは、いいことよ”と、リサは言った、“でも、すべての人の為に、というわけには行かないでしょ。せいぜい一人、か二人。それぐらいでしょ?”

 “いや、ぼくは、ぼくに刺激を与えてくれたすべての人の為に、何かをしたいのさ”と、ぼくは、力強く言った、“彼らが刺激を与えてくれたのにはなにか意味があるのさ。それが、ときには優しさだったり、頑固さだったり、あるいはうぬぼれであったりすることもあるのさ。


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でもその中に、何かぼくを感じさせる意味が隠されているのさ。ぼくは、その意味をつかみ取りたい。そしてそのことによって、ぼくは、どういう人に関心を寄せ、そして、それはなぜなのか? ということに迫ってみたいのさ。いずれにせよ、ぼくは、ぼやぼやしちゃいられない。絶えず向上をしていないとね…”

 “兄さんは、そういう人々の為に、何をしてあげられる、と思う?”と、リサは、ズバリ、尋ねた。

 “さあ”と、ぼくは言った、“大して何も、してあげられそうもない。中には、もうこの世の人でない人もいるからね。そういう人の為には、せいぜい冥福を祈ってあげるぐらいさ。――でも、今も生きている人の為には、ぼくは、手に職を持っている人間でもなければ、金持でもないから、やはり、彼女や彼らの幸せを祈るばかりさ。だって今のところ、他に何も、できそうもないんだからね…”

 “ねえ、牛がさっきからあたしたちを見ているようだけど”とリサは言った、“あたしたちの会話を聞いていたって、何も分かってはいないわねえ。ただのんびりと、干し草を食べているだけ。ねえ、兄さん、今は何もできなくていいから、将来は何かできる兄さんになってね。これは、あたしからのお願い”

 そう言ってリサは、さわやかな笑顔をぼくに向けた。

 “ああ”と、一瞬うろたえて、ぼくは答えた。

 ぼくだって、何かしなければならないのは分かっている。世の中の役に立つ何かを。彼女たちの為ばかりでなく、人々の役に立つ何かを。しかしそれがなかなか見い出せないで悩んでいるのだ。ぼくは失業者で、喪失者だ。ある意味でいうなら、この牛どもよりも哀れな存在なのかも知れない。この状況を克服する道は、それはあるのだろうか?

 “いずれはね”と、ぼくは、リサを安心させるように答えたが、心の中は、言いようのないほど、暗かった…

 

 “君たち、そこで何をしているんかね”

 その言葉で驚いて振り向くと、そこに、青い上っ張の中に白いシャツをのぞかせた、あまり上等とは言えない服装の、髪の毛の薄く、白くなった老人が姿を現した。

 ぼくもリサも、そのいかにも農家風の、頑丈そうな老人の姿を見て、あわてた。

 “あそこにつないであるあの馬は、君たちのものかね”

 そう言って老人は、道の方を指さした。

 ぼくは驚きで目をまるくしながら、うなずいた。

 “一体、何んの用だね”老人は、険しい顔をしながら言った。

 “いや、その”と、ぼくは、声をつまらせながら、やっとの思いで言った、“たまたまこのそばを通りかかったら、この家があったものだから、珍しいからのぞいて見ようということになって…”

 “それで人の家の庭に勝手に入り込んだのかね”と老人は、ますます顔を険しくして言った。


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 “あの、何か飲物を下さい”そう言ったのはリサだった、“あたしたち、とってものどが乾いているんです”

 “ほう、どこから来なさった”と、老人は、今度はリサに興味を示しながら言った、“それならそうと、初めから言えばいいのに。さっ、ともかく、家の中に入りなさい。ここにいれば寒いだろ。何か飲物を作ってあげよう…”

 その言葉で、ぼくたちは互いに顔を見合わせた。ともかくこの危機をうまく切り抜けたのだ。ぼくたちは、農家の老人の言葉に従うことにした。

 石造りの家の入口の周囲にはつたの葉をからませてあり、その白いドアの中へとぼくたちは案内された。リサは興味深げに家の外を眺め、それから中に入った。家の中は質素そのもので、ぼくたちの通された居間の壁には、花柄模様の壁紙が貼られ、部屋の隅には大きな箪笥がひとつ、樫の木材のテーブルがひとつ、あとは椅子などが置かれていたが、すべてが、古さの中でくすんで見えた。その椅子のひとつに、老人の妻らしい年老いた女が座っていた。老人は入るなり、ぼくたちを、その老婆に紹介した。

 “こちらは、馬に乗って来られた…”

 “ホールバラです”と、ぼくは、自分から名乗りをあげた、“そして、こちらはぼくの妹です”

 “遠くから来られたようだが、どこから来たのかね”と、老人は、ぼくたちを見て、尋ねた。

 “ドシアンの近くの寒村です”とぼくは答えた。

 “ああ、あのドシアンから”と、老人は驚いたように言った、“よくこんなところへ来たもんだ。さあ、お前や、この客人に何か暖かい飲み物でも出しておくれ”

 老婆は、椅子から立ち上がると、軽く一礼し、何も言わずに居間から出て行った。

 

 老婆が出ると、老人は、ぼくたちを椅子に坐らせた。

 “それで”と、老人は、ぼくたちを眺めつつ、椅子に坐りながら、言った、“きょうは、お二人で、乗馬遊びなのかね?”

 老人は、どうやらぼくたちのことを、金持の道楽息子や令嬢と間違えているようだった。

 “そういうわけじゃないけど”と、ぼくは、その誤解を、あえて解きほぐそうとはせずに言った、“妹が、休暇を兼ねて帰って来たので、馬に乗って案内してあげただけです”

 “それにしても随分遠くまで来たもんだ”と、老人は言った、“だいぶ時間がかかったろう。それじゃ、腹もすいているんじゃないのかね”

 “いいえ大丈夫です”と、ぼくは言った、“すぐ帰らせてもらいますから”

 “まあ、そう遠慮はせずに”と、老人は言った、“それで、この可愛らしいお嬢さんは”と言って、リサの顔を見た、“休暇ということだが、街に住んでおられるのかね”

 “メロランスです”と、今度はリサが言った、“そこで、雑誌のジャーナリストの仕事をしているんです”


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 “はあ、若いのに感心だなあ”と、老人は言った、“それで、兄さんの方は?”

 “ぼくは目下失業中です”と、ぼくは、少々苦笑いをしながら、言った。

 “それはいかんな”と、老人は語気を強くして言った、“それじゃ、生活はどうしているんだね?”

 “親の遺産が少々ありましてね”と、ぼくは、言わなくていいことまで、答えてしまった。

 そのとき、老女が、ティーポットに紅茶を入れて、やって来た。ぼくたちの前に、ティーカップが並べられ、それに、熱いティーが注がれた。

 “もしその気があるなら、うちへ来て働かんかね”と、老人は、カップに砂糖を入れながら、まだ全くの初対面だというのに、ぼくに言った。

 ぼくは答えに窮した。農作業と言えば、昔、畑の仕事を少しばかりしたことがある。しかし、厳しい冬の寒さで手はひび割れ、余りいい記憶としては残ってはいない。

 “ええ、その気になれば…”とだけ、ぼくは答えた。

 “今は、どこの農家でもそうだが、人手が足りんのだよ”と、老人は、ぼくを見て言った、“うちは御覧の通り、婆さんと、今出かけている一番末の息子と三人だけだ。その息子も、いつこの家を出るものやら。忙しいときは、近所の若い者にも手伝ってもらっているが、いつまでもこういう状態でいるようではなあ…”

 “どんな仕事をするんです?”と、ぼくは念のため、聞いてみた。

 “これからは冬場で余り仕事はないが”と、老人は言った、“それでも、牛や羊に餌をやったり、乳を搾ったり、その他、身の回りの世話などで、結構忙しい。またときには、牛市に行って、新しいのを買って来なくちゃならないからな。今、息子が出かけているのはその用事だ。でも、とりわけ夏場は忙しい。干し草を刈らなくちゃならないからな。そのときは、猫の手も借りたいぐらいだ”

 “牛って、何頭ぐらいいるんです?”と、ぼくは聞いてみた。

 “現在は、肉牛が二十二頭、乳牛が五頭、というところかな”と、老人は、ごく事務的に答えた、“それに肉用の羊が六十五頭、豚が十頭、他に、鶏がいる。もっとも、鶏と豚は、自家用だがね”

 “そういうことなんですか”と、ぼくは言った、“結構忙しそうなんですねえ…”

 “君は、こういう仕事はしたことがないのかね”と、老人は言った。

 “もちろんです”と、ぼくは答えた。

 “ドシアンの近くに住んでいるということだが、農家ではないのかね”と、老人はなおも尋ねた。

 “ぼくたちはそこに住んでいるけど、よそ者ですから”と、ぼくは答えた。

 “うちの主人はね”と、そのとき、老人の横に坐ったおかみさんが、口をはさんだ、“口はうるさいけど、なかなかいい人なんですよ。


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働き者で、頑固なところもあるけれど、面倒見はいい方よ。でも、この人の口に乗せられてはダメですよ。農家の仕事って、それは大変なんですから”

 “これ、婆さん”と言って、老人は、おかみさんに注意をした、“さあ、どうぞ、暖かい紅茶でも飲んで下さい”

 “ええ、いただきます”と言って、ぼくは暖かいティーカップを口へと運んだ。

 

 “この可愛いお嬢さんだが”と、しばらくしてから老人は、紅茶をすすっているリサを見て、言った、“メロランスでジャーナリストをやっているということだけど、大変なんだろうね”

 “ええ、でもまだほんの駆け出しですから”とリサは素直に答えた、“原稿が期限に間に合わなかったり、インタビューをとちったりで、先輩に迷惑ばかりかけています”

 “まあ、まだ若いんだからな”と老人は言った、“それで何をつくっているんだね?”

 “婦人雑誌です”と、リサは答えた、“主にファッション関係だけど、その他のこともやります。例えばインテリアとか、料理のことや、旅行案内、家庭訪問など”

 “家庭訪問ね”と、老人は言った、“じゃ、うちの家の感想はどうなんだね。農家のファッションについてどう思うね”

 リサはとまどいを見せながらも、部屋の様子を見回しながら言った、

 “ええ、なかなかいいじゃないかしら。いかにも落ち着いて、無駄がなく、古びたところって、とっても素敵だわ。都会のあたしたちには、こういう建物って、とっても落ち着いていて、貴重だわ。おじさんの服装だって、シンプルで、作業によく適しているんじゃないかしら。要は、ファッションなんて大げさに考えなくても、その場に適している服装をしていればいいのよ。それがときには、あたしたちに影響を与えることだってあるわ”

 “面白いね”と老人はニヤリとしながら言った、“若い娘ならともかく、農業にファッションなんて必要ないよ。わしは昔からずっと、この服装のままだ…”

 

 “ありがとうございました”とぼくは、そろそろ潮時だと思って声をかけた。

 “おやおや、もう帰る気なのかい”と、老人は驚いたように言った、“何かうまいものでも御馳走しようと思っていたのに…”

 “いえ、結構です”と、ぼくは言った、“余り長居をすれば、帰りが遅くなりますから…”

 そう言って、ぼくはリサの肩を叩き、ぼくたちは立ち上がった。

 

 老人と一緒に、ぼくたちが玄関から出ようとしたとき、表で急にトラックのうなり声が聞こえたので、その方を見ると、数頭の子牛を荷台に乗せた小型トラックが家の前に止まるのが見えた。そしてすぐ、中からは、ジャージィに皮ジャンパー、それに作業ズボンをはいた、まだ年若い男が姿を現した。彼は、車から飛び降りるなりすぐこちらへやって来た。



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