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 “なんだ、そんなこと”と、リサは安心したように言った、“そんなことならかなえてあげるわ。まず、馬に乗りなさいよ”

 ぼくは言われたまま、馬に乗った。

 すると、平行になった馬の向うから、リサは体を乗り出し、頬をぼくに寄せた。ぼくは、その頬にキスをしてやった。彼女の柔らかい頬の感触は、冷たい空気と溶け合って、今感じるすべての眺めよりも優って、素晴らしいものだった。彼女は幸せそうに、ぼくの唇から、頬を遠ざけた。そして、たずなをしっかりと握りしめると、

 “さあ行きましょ”とのかけ声と共に、馬を、丘に向けて、駆け始めた。

 ぼくもすぐたずなをとると、馬を彼女の後に向け、追いかけた…

 

 リサが踊るように馬を駆けさせ、ぼくもその後を追いかけた。彼女のたずなさばきはなかなかのもので、彼女の髪の毛や、馬のたてがみや、尻尾が、虚空に揺れ、まるで流れる絵のごとくだった。しかし、ぼくはついて行くのがやっとで、ゆっくりとそんな姿を鑑賞しているわけにも行かない。リサは笑いながら、

 “こっちよ”と、ときどき振り返りながら叫ぶが、

 “もう少しゆっくりお願いするよ”と返すのがやっとだった。 

 彼女の髪の毛や、青い背中が、冬の日ざしの中で、まぶしく揺れた。リサは、さっきの落馬の仕返しをせんとばかり、難しいコースを走り、ぼくの悲鳴に近い言葉にも、笑顔で答え、耳を貸すことはなかった。そのとき、彼女の天使のような笑顔の裏に、小悪魔が宿っていることを、ぼくはつくづく感じずにはいられなかった。リサはきっと、今度はぼくが落馬することを祈り、または、楽しみにしているに違いないのだ…

 でもぼくは、遅れることなく、必死について行った。枝が真直ぐ横に延びた、丘の上の樫の木立の横を、枝に頭をとられることなく、風のように通り過ぎたし、大きくほじくれ返った草地の穴をも、ためらうことなく、飛び越えた。まるで障害レースをやっているようだ、と恐怖が胸をかすめたとき、ふとそう感じた。しかし、リサは全く平気だった。まるで草原を舞う蝶々のように、ヒラリヒラリと、すべての障害をかわしながら、土の盛り上がったところも、短い林の中も、背のそう低くない潅木の茂みも、そして、広い草原の中を、駆け抜けて行った。

 

 “少し疲れたわ”と言って、急にリサが馬を止めたところは、ふもとに、小さな林に囲まれて農家の屋根がいくつか見える、小高い丘の上だった。周りは一面、牧草地だったが、冬のせいか、家畜の姿は一頭も見えず、ただ車が一台止まっているのが見えるばかりで、あたりはひっそりしていた。

 “ねえ、あそこへ行ってみない”と、リサは、何を思いついてか、急にそう言った。

 “どうしてさ?”と、ぼくは、不思議な顔をして、尋ね返した。

 “だって、面白そうだからよ”と、リサは、目を輝かせながら、言った、“こっちへ帰って来る機会があっても、農家を見る機会ってあまりないわ。農家って、どんなのか見てみたいの”


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 “でも、人の家だぜ”と、ぼくが余り乗り気でないのも聞かずに、リサはさっと、馬に乗ったまま、ふもとへ駆け降りて行った。ぼくも、彼女をひとりにするわけにも行かず、後をついて行かないわけには行かなかった。

 リサは、木の囲いのそばまでやって来ると、馬から降り、横木にたずなを結びつけた。それから、興味深げに、牛舎に向かった。辺りは静かで、ときどき、牛のうめき声が聞こえてくるぐらいだった。しかし、屋根に延びた煙突から立ち登る煙を見れば、母屋に人が住んでいるらしいことは分かった。ぼくも、たずなを結びつけると、すぐリサの後を追いかけた。

 リサは、すでに牛舎に着き、毛並のいい、全身が赤く、頭や腹だけが白い斑模様となった牛たちが、飼料の干し草を食べているのを、目を皿のようにして見つめていた。

 ぼくは彼女の側に寄り、

 “面白いかい?”と声を掛け、それから、彼女と一緒になって牛を見つめた。

 “気がついた?”と、リサは、小さな声で、ぼくに言った、“後ろの柵の向うにはにわとりがいるわ”

 その言葉で、ぼくは振り向き、石造りのお母屋の壁の一角を金網で仕切ったところに、十数羽のにわとりが、餌をつっ突いているのを目にした。

 “本当だ”と、ぼくも小声で答えた。

 “ねえ、牛って”と、リサは、牛舎の柵に寄りかかりながら、顔をほころばせて言った、“面白いわねえ。ただ干し草を食べて、口から唾液を垂らして、時折りしっぽを振って、目をこちらに向けているけど、何も思い煩うものはないみたい。あの目はあたしたちを見ているのかしら? でも、何も感じていないみたいよ。本当に鈍感ね”

 “お前みたいな美女を前にしても、何ら感じていないんだからね”と、ぼくは口を合わせて言った。

 “本当よ”とリサは言った、“でも素敵ね。周りに余り影響されずに、悠々としていられるんだから。あたしたちみたいな悩みって、ないのかしら?”

 “あるいはね”と、ぼくは言った、“でも、牛になりたいなんて思わないだろう。牛って哀れなものさ。乳を搾られ、最後には死が待っているだけなんだから…”

 “でも牛って、心は優しそうよ”とリサは言った。

 “確かにね”と、ぼくは言った、“でも、優しいだけではダメなのさ。ただ、哀れなだけさ。ぼくの気持としちゃ、牛にも、もっと闘志を持ってもらいたいね。いやならいやと、はっきり言えるぐらいのね。でも、この状態じゃ、人のいいなりのままじゃないか”

 “でもそんなことになれば困るのはあたしたちじゃない?”と言って、リサはぼくを見た、“今だって、こんな風に見ていられないことになるわよ”

 “せいぜい困らせればいいさ”と、ぼくは言った、“それが牛の権利の主張ならばね。ぼくなら、牛のような人生は耐えられないな。そんな人生があるのだと思っただけでも悲しくなってくる…”


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 “でも、牛がそんな風に感じているって、考えられないわ。とリサは言った、“むしろ、悩みもなくて、毎日、悠々としていられるんだから、素晴らしいことじゃない。あたしたちみたいに、毎日、あくせくしたり、つまらないことで思い悩んだり、悲しんだりするそんな人生を、あの牛の目は、嘲笑しているみたいよ。むしろ、こっち側こそが哀れだって、言っているみたい”

 “そんな鷹揚な気持になれればねえ”と、ぼくは言った、“人間にそんな気持が備われば申し分ないさ。でも、残念ながら、人間はそうも行かない。絶えず努力を積まないとね。そうでないと、生きている実感が沸かないのさ。そうじゃないかい? リサ”

 “兄さんの言う通りよ”と、リサは、ぼくを見て言った、“人間は牛にはなれない。あくせくして、自分の手柄を自慢したり、人をそそのかしたり、人を刺激したり、それが人生というものよ”

 “そうさ、人に刺激されることがなければ、進歩というものもないのさ”と、ぼくは言った、“優れた人というものは、絶えず自分を恥じ入らせる鏡さ。そういう人を持たないと、自分を引き上げることはできない…”

 “兄さんには、そういう人がいるの?”と、リサは、ぼくを見て、尋ねた。

 “昔は、歴史上の人物たちがぼくの師だったけどねえ”と、ぼくは言った、“でも、それだけじゃ片手落ちだということに気がついたのさ。自分の生きている身の周りにそういう人がいないとね。残念ながら今はいない。でも、そういう人を見つける努力はしているのさ”

 “それは女の人?”と、リサは尋ねた。

 “ぼくにとって女は”と、ぼくは言った、“永遠のテーマなのさ。賢い女。貧しい女。哀れな女。美しい女。醜い女。みんな、関心の対象さ。そして、彼女らが、ぼくに刺激を与えるんだ…”

 “面白いこと、言うじゃない”と言って、リサは笑った、“それで何か、進歩のあとが見られるの?”

 “彼女らのことを思うと、何かしら、頑張らなくちゃならない、という気がしてくるのさ”と、ぼくは、冷静に言った、“ぼくの出来ることは限られている。でも、その範囲で、最大限の努力をしなくちゃならない、という気がしてくるのさ。そしてもし何もしていないとするなら、そういう自分が腹立たしく思えてくるんだ…”

 “女の人の為に何かする、ということは、いいことよ”と、リサは言った、“でも、すべての人の為に、というわけには行かないでしょ。せいぜい一人、か二人。それぐらいでしょ?”

 “いや、ぼくは、ぼくに刺激を与えてくれたすべての人の為に、何かをしたいのさ”と、ぼくは、力強く言った、“彼らが刺激を与えてくれたのにはなにか意味があるのさ。それが、ときには優しさだったり、頑固さだったり、あるいはうぬぼれであったりすることもあるのさ。


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でもその中に、何かぼくを感じさせる意味が隠されているのさ。ぼくは、その意味をつかみ取りたい。そしてそのことによって、ぼくは、どういう人に関心を寄せ、そして、それはなぜなのか? ということに迫ってみたいのさ。いずれにせよ、ぼくは、ぼやぼやしちゃいられない。絶えず向上をしていないとね…”

 “兄さんは、そういう人々の為に、何をしてあげられる、と思う?”と、リサは、ズバリ、尋ねた。

 “さあ”と、ぼくは言った、“大して何も、してあげられそうもない。中には、もうこの世の人でない人もいるからね。そういう人の為には、せいぜい冥福を祈ってあげるぐらいさ。――でも、今も生きている人の為には、ぼくは、手に職を持っている人間でもなければ、金持でもないから、やはり、彼女や彼らの幸せを祈るばかりさ。だって今のところ、他に何も、できそうもないんだからね…”

 “ねえ、牛がさっきからあたしたちを見ているようだけど”とリサは言った、“あたしたちの会話を聞いていたって、何も分かってはいないわねえ。ただのんびりと、干し草を食べているだけ。ねえ、兄さん、今は何もできなくていいから、将来は何かできる兄さんになってね。これは、あたしからのお願い”

 そう言ってリサは、さわやかな笑顔をぼくに向けた。

 “ああ”と、一瞬うろたえて、ぼくは答えた。

 ぼくだって、何かしなければならないのは分かっている。世の中の役に立つ何かを。彼女たちの為ばかりでなく、人々の役に立つ何かを。しかしそれがなかなか見い出せないで悩んでいるのだ。ぼくは失業者で、喪失者だ。ある意味でいうなら、この牛どもよりも哀れな存在なのかも知れない。この状況を克服する道は、それはあるのだろうか?

 “いずれはね”と、ぼくは、リサを安心させるように答えたが、心の中は、言いようのないほど、暗かった…

 

 “君たち、そこで何をしているんかね”

 その言葉で驚いて振り向くと、そこに、青い上っ張の中に白いシャツをのぞかせた、あまり上等とは言えない服装の、髪の毛の薄く、白くなった老人が姿を現した。

 ぼくもリサも、そのいかにも農家風の、頑丈そうな老人の姿を見て、あわてた。

 “あそこにつないであるあの馬は、君たちのものかね”

 そう言って老人は、道の方を指さした。

 ぼくは驚きで目をまるくしながら、うなずいた。

 “一体、何んの用だね”老人は、険しい顔をしながら言った。

 “いや、その”と、ぼくは、声をつまらせながら、やっとの思いで言った、“たまたまこのそばを通りかかったら、この家があったものだから、珍しいからのぞいて見ようということになって…”

 “それで人の家の庭に勝手に入り込んだのかね”と老人は、ますます顔を険しくして言った。


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 “あの、何か飲物を下さい”そう言ったのはリサだった、“あたしたち、とってものどが乾いているんです”

 “ほう、どこから来なさった”と、老人は、今度はリサに興味を示しながら言った、“それならそうと、初めから言えばいいのに。さっ、ともかく、家の中に入りなさい。ここにいれば寒いだろ。何か飲物を作ってあげよう…”

 その言葉で、ぼくたちは互いに顔を見合わせた。ともかくこの危機をうまく切り抜けたのだ。ぼくたちは、農家の老人の言葉に従うことにした。

 石造りの家の入口の周囲にはつたの葉をからませてあり、その白いドアの中へとぼくたちは案内された。リサは興味深げに家の外を眺め、それから中に入った。家の中は質素そのもので、ぼくたちの通された居間の壁には、花柄模様の壁紙が貼られ、部屋の隅には大きな箪笥がひとつ、樫の木材のテーブルがひとつ、あとは椅子などが置かれていたが、すべてが、古さの中でくすんで見えた。その椅子のひとつに、老人の妻らしい年老いた女が座っていた。老人は入るなり、ぼくたちを、その老婆に紹介した。

 “こちらは、馬に乗って来られた…”

 “ホールバラです”と、ぼくは、自分から名乗りをあげた、“そして、こちらはぼくの妹です”

 “遠くから来られたようだが、どこから来たのかね”と、老人は、ぼくたちを見て、尋ねた。

 “ドシアンの近くの寒村です”とぼくは答えた。

 “ああ、あのドシアンから”と、老人は驚いたように言った、“よくこんなところへ来たもんだ。さあ、お前や、この客人に何か暖かい飲み物でも出しておくれ”

 老婆は、椅子から立ち上がると、軽く一礼し、何も言わずに居間から出て行った。

 

 老婆が出ると、老人は、ぼくたちを椅子に坐らせた。

 “それで”と、老人は、ぼくたちを眺めつつ、椅子に坐りながら、言った、“きょうは、お二人で、乗馬遊びなのかね?”

 老人は、どうやらぼくたちのことを、金持の道楽息子や令嬢と間違えているようだった。

 “そういうわけじゃないけど”と、ぼくは、その誤解を、あえて解きほぐそうとはせずに言った、“妹が、休暇を兼ねて帰って来たので、馬に乗って案内してあげただけです”

 “それにしても随分遠くまで来たもんだ”と、老人は言った、“だいぶ時間がかかったろう。それじゃ、腹もすいているんじゃないのかね”

 “いいえ大丈夫です”と、ぼくは言った、“すぐ帰らせてもらいますから”

 “まあ、そう遠慮はせずに”と、老人は言った、“それで、この可愛らしいお嬢さんは”と言って、リサの顔を見た、“休暇ということだが、街に住んでおられるのかね”

 “メロランスです”と、今度はリサが言った、“そこで、雑誌のジャーナリストの仕事をしているんです”



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