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 “そう、すべて”とリサは言った、“いつまでも過去にこだわるのも、そこからふっ切れて、新しい道を模索するのも、兄さん次第よ。もっと自由な気持ちになりなさいよ。そうすれば、沈んだ気持なんて、なくなるわ”

 “自由ね”と、ぼくは言った、“確かに自由はいいものさ。自由とは何よりも可能性を意味するのだからね。でも、その可能性は、何もしなければ無意味だし、何かしたところで、たったこれだけのものだったのか、と気がつくのがおちなのさ。――でも、人生には、何も生み出さない空虚な自由、というものがあってもいいと思うのさ、ちょうど今のようにね”

 “ああ、この遠乗りのこと?”とリサは聞き返した、“でもこれは、決して無意味じゃないわよ。気持ちをすっきりさせてくれるし、しかも楽しいわ”

 “ぼくだって同じさ”と、ぼくは言った、“ただ、自転車と違って、可愛いお前に触れられないのが残念だけれども…”

 “触れようと思えば触れられるわ”と、リサはにっこりして言った。

 しかし、ぼくが馬を彼女に近づけると、リサは、ひょいと体をかわすように自分の馬を遠ざけた。

 “こら、逃げる気か?”と、ぼくは戯れながら言った。

 “だって”とリサは、笑いながら言った、“そう易々とつかまらないわ”

 “じゃ、今度はつかまえてやる”そう言うや、ぼくは、彼女の馬を追いかけた。

 リサは、あわててたずなを引き、馬の向きを変えて、丘に向かって逃げようとした。

 しかしひと足早かったぼくの馬が、すぐ彼女の馬に追いついた。そして、ぼくが彼女に腕を伸ばし、彼女がそれをよけようと体をねじらせたとたん、彼女の叫び、そして、馬のいななきと共に、リサが、馬の向う側へ落馬する姿が目に入った。

 ぼくは驚いて馬から飛び降り、向うで倒れているリサのところへ駆け寄った。主人のいなくなった二頭の馬は、数歩向うで所在なさそうに立っていた。リサは、草むらで、うつ伏せるように倒れていたが、今は、上半身を左手で支え、起こしていた。

 “ヒドイわ”と、リサは、泣きそうな声になりながら、駆けつけたぼくに言った。

 “ごめん、ごめん”と、ぼくは言った、“こんな風になるなんて、思わなかったから、体は、どうもないかい?”

 “骨折はしていないようよ”とリサは言った、“でも、唇を切ったんじゃない?”

 そう言って、リサは、ひと差し指で、自分の口をぬぐいながら、その唇をぼくに見せた。

 “どれどれ、と言って、ぼくは彼女の顔をのぞき込んだ。

 髪の毛の一部が、彼女の顔をおおい、ヒドイ有様だった。彼女の唇の左下辺りが、わずかに血をにじませていた。ぼくはついでに、目も覗き込んだが、目には異常がないようだった。ぼくは早速、自分のハンカチを取り出し、それで、彼女の切れた唇を拭いてやった。

 “傷は、大したことないよ”と、ぼくは冷静に言った、“でも、きのうといい、きょうといい、事故続きで、お前にとっちゃついていない日になったね”


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 “そうよ、せっかくの帰郷なのに”と、リサはつまらなさそうに言った、“これじゃ先が思いやられそうよ”

 “何もそんなに悲観的にならなくても”と、ぼくは、リサを慰めるように言った、“見てごらんよ、周りはこんなにいい眺めさ。空もよく晴れている。馬から降りたついでに、ゆっくり眺めようじゃないか”

 リサは、うつ伏せ気味の体をすっかり起こし、折り曲げていた足も伸ばすと、右手をかざしながら、まぶしそうに青い空を見上げた。それから、自分の馬が逃げたのではないかと気にするかのように、振り向いた。馬はちゃんとそこにいた。黒っぽいつやのあるでん部と、長い尻尾とを彼女の方に向けながら。やがてリサは、ところどころ泥のついた惨めな服装と、髪の毛の乱れた惨めな顔をしながら、朗らかそうな笑顔に変わった。

 “こっけいね、あたしが落馬するなんて”とリサは言った、“でも、体はどうもないようだし、ここは晴れて、いいところよ。こんなところで馬に乗れるなんて、あたしも幸せね”

 “体は本当に大丈夫かい?”と、ぼくは再度心配そうに尋ねた。

 “大丈夫よ、なんなら立ってみせましょうか”

 そう言ってリサは立ち上がり、体をしゃんとさせた。

 “地面が、柔らかい草原だから助かったのよ”とリサは言った。

 しかし、体のあちこちが汚れているのに気が付くと、リサは泥を払い落としにかかったので、ぼくも手伝ってやった。

 “ねえ、あたしを触るなんて、変なことを言うからよ”と、リサは、泥を払い落としながら言った、“もういいわ、それで満足したでしょ?”

 ぼくが彼女の体に触れ、泥を払うのを指摘してか、リサはそう言った。

 “そんなつもりで泥を払ったんじゃないよ”と、ぼくはむくれたように言った。

 リサは、それには答えず、体を伸ばすと、馬の方を向いた。

 “さあ終わったわ。出発しましょうか”とリサは言い、馬のいるところへと向かった。

 その瞬間、彼女の後ろ姿を見ながら、彼女を、この草むらに押し倒したい欲望にかられた。そして彼女の切った唇に触れて、甘いキスをしてみたい、そんな気持がした。しかし、そんなことがどうして出来るだろう。この太陽と、草原の輝きと彼女―― その秩序をこわすわけには行かないのだ…

 やがてリサは、鐙に足をかけ、馬に飛び乗ると、振り向いた。そして、ぼくが、茫然と立っているのをけげんな顔をしながら、リサは言った、

 “兄さんは乗らないの?”

 “いや、ちょっと他のことを考えていてね”と、ぼくは言った。

 “どんなこと?”とリサは尋ねた。

 “いや、何んでもないさ”と、ぼくは答えた。“ただね”と、ぼくは思い切って言うことにした、“お前の柔らかい頬にキスをしてみたい、と思ったのさ”


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 “なんだ、そんなこと”と、リサは安心したように言った、“そんなことならかなえてあげるわ。まず、馬に乗りなさいよ”

 ぼくは言われたまま、馬に乗った。

 すると、平行になった馬の向うから、リサは体を乗り出し、頬をぼくに寄せた。ぼくは、その頬にキスをしてやった。彼女の柔らかい頬の感触は、冷たい空気と溶け合って、今感じるすべての眺めよりも優って、素晴らしいものだった。彼女は幸せそうに、ぼくの唇から、頬を遠ざけた。そして、たずなをしっかりと握りしめると、

 “さあ行きましょ”とのかけ声と共に、馬を、丘に向けて、駆け始めた。

 ぼくもすぐたずなをとると、馬を彼女の後に向け、追いかけた…

 

 リサが踊るように馬を駆けさせ、ぼくもその後を追いかけた。彼女のたずなさばきはなかなかのもので、彼女の髪の毛や、馬のたてがみや、尻尾が、虚空に揺れ、まるで流れる絵のごとくだった。しかし、ぼくはついて行くのがやっとで、ゆっくりとそんな姿を鑑賞しているわけにも行かない。リサは笑いながら、

 “こっちよ”と、ときどき振り返りながら叫ぶが、

 “もう少しゆっくりお願いするよ”と返すのがやっとだった。 

 彼女の髪の毛や、青い背中が、冬の日ざしの中で、まぶしく揺れた。リサは、さっきの落馬の仕返しをせんとばかり、難しいコースを走り、ぼくの悲鳴に近い言葉にも、笑顔で答え、耳を貸すことはなかった。そのとき、彼女の天使のような笑顔の裏に、小悪魔が宿っていることを、ぼくはつくづく感じずにはいられなかった。リサはきっと、今度はぼくが落馬することを祈り、または、楽しみにしているに違いないのだ…

 でもぼくは、遅れることなく、必死について行った。枝が真直ぐ横に延びた、丘の上の樫の木立の横を、枝に頭をとられることなく、風のように通り過ぎたし、大きくほじくれ返った草地の穴をも、ためらうことなく、飛び越えた。まるで障害レースをやっているようだ、と恐怖が胸をかすめたとき、ふとそう感じた。しかし、リサは全く平気だった。まるで草原を舞う蝶々のように、ヒラリヒラリと、すべての障害をかわしながら、土の盛り上がったところも、短い林の中も、背のそう低くない潅木の茂みも、そして、広い草原の中を、駆け抜けて行った。

 

 “少し疲れたわ”と言って、急にリサが馬を止めたところは、ふもとに、小さな林に囲まれて農家の屋根がいくつか見える、小高い丘の上だった。周りは一面、牧草地だったが、冬のせいか、家畜の姿は一頭も見えず、ただ車が一台止まっているのが見えるばかりで、あたりはひっそりしていた。

 “ねえ、あそこへ行ってみない”と、リサは、何を思いついてか、急にそう言った。

 “どうしてさ?”と、ぼくは、不思議な顔をして、尋ね返した。

 “だって、面白そうだからよ”と、リサは、目を輝かせながら、言った、“こっちへ帰って来る機会があっても、農家を見る機会ってあまりないわ。農家って、どんなのか見てみたいの”


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 “でも、人の家だぜ”と、ぼくが余り乗り気でないのも聞かずに、リサはさっと、馬に乗ったまま、ふもとへ駆け降りて行った。ぼくも、彼女をひとりにするわけにも行かず、後をついて行かないわけには行かなかった。

 リサは、木の囲いのそばまでやって来ると、馬から降り、横木にたずなを結びつけた。それから、興味深げに、牛舎に向かった。辺りは静かで、ときどき、牛のうめき声が聞こえてくるぐらいだった。しかし、屋根に延びた煙突から立ち登る煙を見れば、母屋に人が住んでいるらしいことは分かった。ぼくも、たずなを結びつけると、すぐリサの後を追いかけた。

 リサは、すでに牛舎に着き、毛並のいい、全身が赤く、頭や腹だけが白い斑模様となった牛たちが、飼料の干し草を食べているのを、目を皿のようにして見つめていた。

 ぼくは彼女の側に寄り、

 “面白いかい?”と声を掛け、それから、彼女と一緒になって牛を見つめた。

 “気がついた?”と、リサは、小さな声で、ぼくに言った、“後ろの柵の向うにはにわとりがいるわ”

 その言葉で、ぼくは振り向き、石造りのお母屋の壁の一角を金網で仕切ったところに、十数羽のにわとりが、餌をつっ突いているのを目にした。

 “本当だ”と、ぼくも小声で答えた。

 “ねえ、牛って”と、リサは、牛舎の柵に寄りかかりながら、顔をほころばせて言った、“面白いわねえ。ただ干し草を食べて、口から唾液を垂らして、時折りしっぽを振って、目をこちらに向けているけど、何も思い煩うものはないみたい。あの目はあたしたちを見ているのかしら? でも、何も感じていないみたいよ。本当に鈍感ね”

 “お前みたいな美女を前にしても、何ら感じていないんだからね”と、ぼくは口を合わせて言った。

 “本当よ”とリサは言った、“でも素敵ね。周りに余り影響されずに、悠々としていられるんだから。あたしたちみたいな悩みって、ないのかしら?”

 “あるいはね”と、ぼくは言った、“でも、牛になりたいなんて思わないだろう。牛って哀れなものさ。乳を搾られ、最後には死が待っているだけなんだから…”

 “でも牛って、心は優しそうよ”とリサは言った。

 “確かにね”と、ぼくは言った、“でも、優しいだけではダメなのさ。ただ、哀れなだけさ。ぼくの気持としちゃ、牛にも、もっと闘志を持ってもらいたいね。いやならいやと、はっきり言えるぐらいのね。でも、この状態じゃ、人のいいなりのままじゃないか”

 “でもそんなことになれば困るのはあたしたちじゃない?”と言って、リサはぼくを見た、“今だって、こんな風に見ていられないことになるわよ”

 “せいぜい困らせればいいさ”と、ぼくは言った、“それが牛の権利の主張ならばね。ぼくなら、牛のような人生は耐えられないな。そんな人生があるのだと思っただけでも悲しくなってくる…”


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 “でも、牛がそんな風に感じているって、考えられないわ。とリサは言った、“むしろ、悩みもなくて、毎日、悠々としていられるんだから、素晴らしいことじゃない。あたしたちみたいに、毎日、あくせくしたり、つまらないことで思い悩んだり、悲しんだりするそんな人生を、あの牛の目は、嘲笑しているみたいよ。むしろ、こっち側こそが哀れだって、言っているみたい”

 “そんな鷹揚な気持になれればねえ”と、ぼくは言った、“人間にそんな気持が備われば申し分ないさ。でも、残念ながら、人間はそうも行かない。絶えず努力を積まないとね。そうでないと、生きている実感が沸かないのさ。そうじゃないかい? リサ”

 “兄さんの言う通りよ”と、リサは、ぼくを見て言った、“人間は牛にはなれない。あくせくして、自分の手柄を自慢したり、人をそそのかしたり、人を刺激したり、それが人生というものよ”

 “そうさ、人に刺激されることがなければ、進歩というものもないのさ”と、ぼくは言った、“優れた人というものは、絶えず自分を恥じ入らせる鏡さ。そういう人を持たないと、自分を引き上げることはできない…”

 “兄さんには、そういう人がいるの?”と、リサは、ぼくを見て、尋ねた。

 “昔は、歴史上の人物たちがぼくの師だったけどねえ”と、ぼくは言った、“でも、それだけじゃ片手落ちだということに気がついたのさ。自分の生きている身の周りにそういう人がいないとね。残念ながら今はいない。でも、そういう人を見つける努力はしているのさ”

 “それは女の人?”と、リサは尋ねた。

 “ぼくにとって女は”と、ぼくは言った、“永遠のテーマなのさ。賢い女。貧しい女。哀れな女。美しい女。醜い女。みんな、関心の対象さ。そして、彼女らが、ぼくに刺激を与えるんだ…”

 “面白いこと、言うじゃない”と言って、リサは笑った、“それで何か、進歩のあとが見られるの?”

 “彼女らのことを思うと、何かしら、頑張らなくちゃならない、という気がしてくるのさ”と、ぼくは、冷静に言った、“ぼくの出来ることは限られている。でも、その範囲で、最大限の努力をしなくちゃならない、という気がしてくるのさ。そしてもし何もしていないとするなら、そういう自分が腹立たしく思えてくるんだ…”

 “女の人の為に何かする、ということは、いいことよ”と、リサは言った、“でも、すべての人の為に、というわけには行かないでしょ。せいぜい一人、か二人。それぐらいでしょ?”

 “いや、ぼくは、ぼくに刺激を与えてくれたすべての人の為に、何かをしたいのさ”と、ぼくは、力強く言った、“彼らが刺激を与えてくれたのにはなにか意味があるのさ。それが、ときには優しさだったり、頑固さだったり、あるいはうぬぼれであったりすることもあるのさ。



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