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 “リサもそう思うかい?”と、ぼくは言った、“…でも、ぼくは何もできやしないよ。行動を起こすことなど何も。ぼくは昔から、人と争うことができない運命なんだ…”

 

 “…この晴れ渡った空”と、ぼくは、ぽつりと言った、“昔は平和だった。ぼくも、そんな日々に帰りたい”

 馬が、潅木の茂みに入って、何か鼻で匂いを嗅いでいるのを眺めながら、ふと、そんな気がするのを感じた。背後の、なだらかな牧草地の丘の上には、互いに密集し合ったように数本の樫の木が、何もないところで、ひと際目立って、そびえているが、それも、ここから見ると小さく見える。その彼方には、青い空と、丘から盛り上がったような白い雲以外には、何もない。ただ、手前の方の潅木の茂みの中には、ひょろりと伸びた一本のブナの木が、丘の水平線に対し、ただひとつ、垂直を保っているのが、気を惹くばかりだった。全部日光を浴びて、冬の太陽の恵みを受けている。一本のブナのひょろりとした幹や、枝は、陽を浴びたところは明るく、日陰は暗くなっているのが、ここからよく見える。ここは、なんと、のどかで、明るく、平和なんだろう。こんなところなら、いつまでいてもかまわない…

 “ねえ、こうして見ていると”と、ぼくは言った、“ときどき昔に返った気がするのさ。もう何年も前の、セーラやママがいた頃の冷たい冬の日…”

 “それがどうしたというの?”と、ぼくから少し離れたところで、馬に乗っているリサが言った。

 “思い出してみても仕方のないことだけれどもね”とぼくは言った、“でも、あの頃は何をしていたのだろう? と思うのさ。場所もこんなに静かなところじゃなく、もう少し人の多いところだった。でも、朝は冷たかった。吐く息は白く、ママは朝早くから台所仕事をしていた。まだパジャマ姿のままのセーラも、黙々と、それを手伝っていた。ぼくがいつも思い出すのは、あの頃の、陰欝な空の暗さと共に、労苦に満ちたママやセーラの姿なのさ。でも、確かに、ぼくたちの一家に、不安と、暗い陰がさしていたのは事実だったけれども、そんな日ばかりじゃなかった。何よりも、健康的で明るいお前がいたし、日射しにいたお前の姿は、まるで野に咲く花のようだった。ママだって、そんなぼくたちを見ることで、心を慰められたのは間違いがない。そうさ、苦しい労働の一週間の後の、そして、ぼくたちにとっちゃ、毎日の学校の後の休みの日には、ママの顔がパッとほころんだのを、ぼくは覚えている。パパがいなかったものだから、ママが中心になって、一日の手配をしてくれた。きょうは買物。きょうはピクニック。きょうは、おじさんの家へ会いに行くのよ、など。でも、そういう日は、ぼくたちにとっても楽しい日だったが、ぼくの心は自然、ひとり遊びの方へ向いて行った。もちろん、放課後、友だちとサッカーをして遊んだり、お前たちと遊んだりするのも好きだった。でも夜は、とりわけ、夕食の後は、もう友だちもなく、自分たちの世界に閉じ篭もるのが好きだった。覚えているだろう? よく人形を持ち合って、軍隊遊びをしたときのことを。ぼくはいつのまにか、お前が大事にしていた人形を、奪い取ってしまった”


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 “奪われたときは腹が立ったけど、その後、兄さんが大事にしてくれたからいいわ”

 リサは、にっこりして答えた。

 “大事にし過ぎるぐらいにね”と、ぼくは言った、“そしてその楽しみが、友だちとの出会いよりも何よりも、ぼくの心を形成して行った。あとで考えると、あのブロンテ姉妹と同じなのさ。つまり、その楽しみはやがて、ぼくの心を、外の楽しみへとは導かさずに、空想の楽しみへと導いて行ったのさ…”

 “それはともかく”と、ぼくは続けた、“空想が結局、孤独なことだ、と気がついたのは、もっと後のことさ。しかしあの頃は、ぼくは何も知らなかった。すべてが夢のようで、明るく、楽しく、幸せに満ちていた。ちょうどこの日のようにね、空がすっかり晴れ上がって、心が浮き浮きするような日だってあったはずなのさ。斜めに射し込んだ太陽の光線がほんの小さな小川の川面を照らし、同時に、川べりに茂った草をも照らす。周りは一面、草原で、太陽光線を受けた空の雲や、ところどころに立っている樹木が黄色に輝く。そんな美しい光景の中にいたときのことを思い出すよ。そのとき、ぼくたちがどこにいて、何をしていたのかは、もう覚えていない。でも、あの冬の朝、朝の日射しの中で、セーラは、鉢を置き換えに、家の裏へと運んだが、その陰が、明るい木の柵に映っていた。その時、ぼくがどこにいたのかは覚えていない。でも、それを思い出して今感じるのは、あの頃はみな働いていた、そして生活をしていた、という実感なのさ。生活をする、というのは素晴らしいことなのさ。とりわけ、みんなで仕事を分担しながら働く、家族の中での生活、というものはね…”

 “確かにここには生活臭はないわ”とリサは、静かな美しい潅木の茂みと、ブナの木立と、広がる草原を見つめながら言った、“…でも、子供の頃の生活と、大人になってからの生活とは、おのずと変わるものよ。今は、今の生活がある。一見、つかみどころのない、空気のように軽い生活だとしても、それは、未来に対する準備だと考えればいいじゃない”

 “どんな未来さ?”と、ぼくは尋ねた。

 “さあ、分からない”と、リサは言った、“でも、それぞれに未来はあるはずよ。いつまでも過去に目を縛られていないで、兄さんはもっと、未来に目を向けるべきよ”

 “ぼくの未来”と、ぼくは言った、“それはもはや、過去との出会いのない未来であることだけは確かさ。そう思うと、もっともっとあの時代を生きていればよかった、そういう気がして来るな。でも――もう過ぎ去ったんだし、あきらめねばならない。あの時代は、もう二度と、来ることもないのさ…”

 “でも、時って、そんなに非情なものでもないわ”と、リサは言った、“あたしたちに同時に、未来というものまで、与えてくれているんですからね。その未来は、兄さんのすべてよ”

 “すべて?”と、ぼくは尋ね返した。


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 “そう、すべて”とリサは言った、“いつまでも過去にこだわるのも、そこからふっ切れて、新しい道を模索するのも、兄さん次第よ。もっと自由な気持ちになりなさいよ。そうすれば、沈んだ気持なんて、なくなるわ”

 “自由ね”と、ぼくは言った、“確かに自由はいいものさ。自由とは何よりも可能性を意味するのだからね。でも、その可能性は、何もしなければ無意味だし、何かしたところで、たったこれだけのものだったのか、と気がつくのがおちなのさ。――でも、人生には、何も生み出さない空虚な自由、というものがあってもいいと思うのさ、ちょうど今のようにね”

 “ああ、この遠乗りのこと?”とリサは聞き返した、“でもこれは、決して無意味じゃないわよ。気持ちをすっきりさせてくれるし、しかも楽しいわ”

 “ぼくだって同じさ”と、ぼくは言った、“ただ、自転車と違って、可愛いお前に触れられないのが残念だけれども…”

 “触れようと思えば触れられるわ”と、リサはにっこりして言った。

 しかし、ぼくが馬を彼女に近づけると、リサは、ひょいと体をかわすように自分の馬を遠ざけた。

 “こら、逃げる気か?”と、ぼくは戯れながら言った。

 “だって”とリサは、笑いながら言った、“そう易々とつかまらないわ”

 “じゃ、今度はつかまえてやる”そう言うや、ぼくは、彼女の馬を追いかけた。

 リサは、あわててたずなを引き、馬の向きを変えて、丘に向かって逃げようとした。

 しかしひと足早かったぼくの馬が、すぐ彼女の馬に追いついた。そして、ぼくが彼女に腕を伸ばし、彼女がそれをよけようと体をねじらせたとたん、彼女の叫び、そして、馬のいななきと共に、リサが、馬の向う側へ落馬する姿が目に入った。

 ぼくは驚いて馬から飛び降り、向うで倒れているリサのところへ駆け寄った。主人のいなくなった二頭の馬は、数歩向うで所在なさそうに立っていた。リサは、草むらで、うつ伏せるように倒れていたが、今は、上半身を左手で支え、起こしていた。

 “ヒドイわ”と、リサは、泣きそうな声になりながら、駆けつけたぼくに言った。

 “ごめん、ごめん”と、ぼくは言った、“こんな風になるなんて、思わなかったから、体は、どうもないかい?”

 “骨折はしていないようよ”とリサは言った、“でも、唇を切ったんじゃない?”

 そう言って、リサは、ひと差し指で、自分の口をぬぐいながら、その唇をぼくに見せた。

 “どれどれ、と言って、ぼくは彼女の顔をのぞき込んだ。

 髪の毛の一部が、彼女の顔をおおい、ヒドイ有様だった。彼女の唇の左下辺りが、わずかに血をにじませていた。ぼくはついでに、目も覗き込んだが、目には異常がないようだった。ぼくは早速、自分のハンカチを取り出し、それで、彼女の切れた唇を拭いてやった。

 “傷は、大したことないよ”と、ぼくは冷静に言った、“でも、きのうといい、きょうといい、事故続きで、お前にとっちゃついていない日になったね”


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 “そうよ、せっかくの帰郷なのに”と、リサはつまらなさそうに言った、“これじゃ先が思いやられそうよ”

 “何もそんなに悲観的にならなくても”と、ぼくは、リサを慰めるように言った、“見てごらんよ、周りはこんなにいい眺めさ。空もよく晴れている。馬から降りたついでに、ゆっくり眺めようじゃないか”

 リサは、うつ伏せ気味の体をすっかり起こし、折り曲げていた足も伸ばすと、右手をかざしながら、まぶしそうに青い空を見上げた。それから、自分の馬が逃げたのではないかと気にするかのように、振り向いた。馬はちゃんとそこにいた。黒っぽいつやのあるでん部と、長い尻尾とを彼女の方に向けながら。やがてリサは、ところどころ泥のついた惨めな服装と、髪の毛の乱れた惨めな顔をしながら、朗らかそうな笑顔に変わった。

 “こっけいね、あたしが落馬するなんて”とリサは言った、“でも、体はどうもないようだし、ここは晴れて、いいところよ。こんなところで馬に乗れるなんて、あたしも幸せね”

 “体は本当に大丈夫かい?”と、ぼくは再度心配そうに尋ねた。

 “大丈夫よ、なんなら立ってみせましょうか”

 そう言ってリサは立ち上がり、体をしゃんとさせた。

 “地面が、柔らかい草原だから助かったのよ”とリサは言った。

 しかし、体のあちこちが汚れているのに気が付くと、リサは泥を払い落としにかかったので、ぼくも手伝ってやった。

 “ねえ、あたしを触るなんて、変なことを言うからよ”と、リサは、泥を払い落としながら言った、“もういいわ、それで満足したでしょ?”

 ぼくが彼女の体に触れ、泥を払うのを指摘してか、リサはそう言った。

 “そんなつもりで泥を払ったんじゃないよ”と、ぼくはむくれたように言った。

 リサは、それには答えず、体を伸ばすと、馬の方を向いた。

 “さあ終わったわ。出発しましょうか”とリサは言い、馬のいるところへと向かった。

 その瞬間、彼女の後ろ姿を見ながら、彼女を、この草むらに押し倒したい欲望にかられた。そして彼女の切った唇に触れて、甘いキスをしてみたい、そんな気持がした。しかし、そんなことがどうして出来るだろう。この太陽と、草原の輝きと彼女―― その秩序をこわすわけには行かないのだ…

 やがてリサは、鐙に足をかけ、馬に飛び乗ると、振り向いた。そして、ぼくが、茫然と立っているのをけげんな顔をしながら、リサは言った、

 “兄さんは乗らないの?”

 “いや、ちょっと他のことを考えていてね”と、ぼくは言った。

 “どんなこと?”とリサは尋ねた。

 “いや、何んでもないさ”と、ぼくは答えた。“ただね”と、ぼくは思い切って言うことにした、“お前の柔らかい頬にキスをしてみたい、と思ったのさ”


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 “なんだ、そんなこと”と、リサは安心したように言った、“そんなことならかなえてあげるわ。まず、馬に乗りなさいよ”

 ぼくは言われたまま、馬に乗った。

 すると、平行になった馬の向うから、リサは体を乗り出し、頬をぼくに寄せた。ぼくは、その頬にキスをしてやった。彼女の柔らかい頬の感触は、冷たい空気と溶け合って、今感じるすべての眺めよりも優って、素晴らしいものだった。彼女は幸せそうに、ぼくの唇から、頬を遠ざけた。そして、たずなをしっかりと握りしめると、

 “さあ行きましょ”とのかけ声と共に、馬を、丘に向けて、駆け始めた。

 ぼくもすぐたずなをとると、馬を彼女の後に向け、追いかけた…

 

 リサが踊るように馬を駆けさせ、ぼくもその後を追いかけた。彼女のたずなさばきはなかなかのもので、彼女の髪の毛や、馬のたてがみや、尻尾が、虚空に揺れ、まるで流れる絵のごとくだった。しかし、ぼくはついて行くのがやっとで、ゆっくりとそんな姿を鑑賞しているわけにも行かない。リサは笑いながら、

 “こっちよ”と、ときどき振り返りながら叫ぶが、

 “もう少しゆっくりお願いするよ”と返すのがやっとだった。 

 彼女の髪の毛や、青い背中が、冬の日ざしの中で、まぶしく揺れた。リサは、さっきの落馬の仕返しをせんとばかり、難しいコースを走り、ぼくの悲鳴に近い言葉にも、笑顔で答え、耳を貸すことはなかった。そのとき、彼女の天使のような笑顔の裏に、小悪魔が宿っていることを、ぼくはつくづく感じずにはいられなかった。リサはきっと、今度はぼくが落馬することを祈り、または、楽しみにしているに違いないのだ…

 でもぼくは、遅れることなく、必死について行った。枝が真直ぐ横に延びた、丘の上の樫の木立の横を、枝に頭をとられることなく、風のように通り過ぎたし、大きくほじくれ返った草地の穴をも、ためらうことなく、飛び越えた。まるで障害レースをやっているようだ、と恐怖が胸をかすめたとき、ふとそう感じた。しかし、リサは全く平気だった。まるで草原を舞う蝶々のように、ヒラリヒラリと、すべての障害をかわしながら、土の盛り上がったところも、短い林の中も、背のそう低くない潅木の茂みも、そして、広い草原の中を、駆け抜けて行った。

 

 “少し疲れたわ”と言って、急にリサが馬を止めたところは、ふもとに、小さな林に囲まれて農家の屋根がいくつか見える、小高い丘の上だった。周りは一面、牧草地だったが、冬のせいか、家畜の姿は一頭も見えず、ただ車が一台止まっているのが見えるばかりで、あたりはひっそりしていた。

 “ねえ、あそこへ行ってみない”と、リサは、何を思いついてか、急にそう言った。

 “どうしてさ?”と、ぼくは、不思議な顔をして、尋ね返した。

 “だって、面白そうだからよ”と、リサは、目を輝かせながら、言った、“こっちへ帰って来る機会があっても、農家を見る機会ってあまりないわ。農家って、どんなのか見てみたいの”



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