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ぼくは平和が欲しい。心からの平和が欲しい。だけど世の中を見るがいい。かつてそんな平和が、この世の中に存在しただろうか…”

 リサは、馬を操ったまま、じっとぼくを見つめていた。

 ぼくは話しを続けた。

 “みんな必死に生きるからこそ、この世の中は戦場なんだ。そこから抜け出すことは不可能さ。…このぼくだって。ぼくは世の中から抜け出すことばかり考えて来た。恐らく、環境や生い立ちが、ぼくを世の中と合わせず、孤独へと駆り立てたのだろう。ぼくは、世の中を生きる為には、余りにも夢想的で、余りにもロマンチストだったんだ。世の中を生きるということは大変だ、この戦場を戦い抜くには相当の苦労を覚悟せねばならぬ、という意識は、早い頃から芽生えていた。だからこそ、生活を直視するのが耐え難いからこそ、ぼくは美しいもの、世の中とは関係のないものばかりを見ようとしたんだ。およそ芸術と名のつくすべてのものは、そういうものの集合だった。それらは絶対に、生きたものじゃなかったが、だからこそ、ぼくの心に安らぎを与えてくれたんだ。安らぎと束の間の夢をね。でも絶えず、現実に引き戻された。現実の耐え難い生活にね。そして絶えず、現実と夢とのギャップは広がって行くばかりだった。ぼくは、夢を見、それを愛した瞬間から、戦いをやめたのさ。だって、夢と現実とは、絶対に相容れることのない二つのものだからさ。現実は戦い、でも夢は愛なのさ。――しかし、こんな生活がいつまでも続くなんてぼくも思ってはいない。もしそれでも夢を愛するなら、その夢を守る為に、やはりこの現実と戦わねばならないんだ。そう考えると、ぼくは気が遠くなるのさ。とほうに暮れてしまうのさ。分かるかい? リサ。今のこの生活は、永久的なものじゃあり得ないし、増して、きっちりと守られているわけのものでもない。いつ、何者かがちん入して来ないとも限らないし、誰かのせいで、この生活がかき乱されるかも知れないのさ。ぼくは、その不安を感じている。長生きはしたい。でも、明日にもこの命は、ないかも知れないんだ。世の中の動きや、人々の生活を見るにつけ、ぼくはそう感じるのさ。心にどうきを感じるほどに、本当に平和な生活というものはあり得ないのだ、と…”

 “無論、ごく限られた、恵まれた人々にはそういう生活もあったかも知れない”とぼくは続けた。風に、雑草の穂が揺れているのをいとおしむように見つめながら… “この草、この太陽、このすがすがしい空気。いつもそれらに囲まれて生活ができるならどれほど幸せなことだろう。だけど、そういう生活が可能となるのは、社会的に成功したごく一部の人々に限られるのさ。しかしそういう人々だって、そういう生活に到るまでにはどれほどの忍耐と労苦の生活を強いられたことだろう。その上に咲いた花なら確かに美しいかも知れない。だけど、それを眺める彼は、既に年寄りさ。余命幾ばくもない。余生を夢想的に生きるには、余りにも年を取り過ぎているし、ロマンチストになるには、余りにも現実主義が身にしみ込んでしまっていることだろう。それが悪い、というわけじゃない。ただ、そういう生活が誰にも保障されているわけでもないし、とりわけぼくには保障されていない、ということが言いたいのさ。


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ぼくは戦ってはいない。だから、社会的な成功もあり得ないし、そこから生ずる諸々の恩恵に浴する、ということもあり得ないのさ…”

 “兄さんは、そのことが悔しい?”と、リサは尋ねた。

 “もしこのまま死ねばね、死に切れないさ”と、ぼくは言った、“だってぼくはまだ、何もしていないんだ。世の中の役に立つ、ということもなかったし、ただ、夢を見て来ただけなんだ…”

 “でも、大多数がそういう生き方じゃない? 自分の夢を、世の中に役立てて、しかも成功する、なんて人はそう多くないわ…”と、リサはさとすように言った。

 “ぼくはね”と、しみじみ、ぼくは言った、“別に有名になりたいわけじゃない。社会的に成功したい、と言っているわけでもない。――でもただ、自分の人生に納得したいのさ。納得の行く人生を送りたいのさ。そして、あわよくば、ごく少数の理解者とがね。理解者のない人生なんて、およそ耐えられそうもないからね。じゃ、何を理解すればいいか、と言えば、ぼくのこの、矛盾した、引き裂かれた精神を、なのさ。デリケートで、すぐにでもこわれてしまいそうなこの精神を、なのさ。およそ実生活には役に立ちそうもない、夢見ることしか知らないこの精神を、なのさ。それは、地上から遊離して浮かび上がった、今にも消えてしまいそうな、迷える魂とでも言うべきだろうか、その魂をもって、その魂のまま、生きて行くこのぼくを理解してもらいたいんだ。こんな精神を理解できる人なんて、ほとんどいないだろうけれど、また理解したところで、得るものなど何もないだろうけれど、ぼくはその精神だし、その精神であることを直視する他、あり得ないんだ。ぼくのこの体は、確かにこの世の中のものさ。でも心は絶えず、そこから抜け出ようとばかりしている…”

 “どうしてそんなに抜け出そうとばかり思うの?”と、リサは心配そうに尋ねた。

 “だって、この世の中が余りにも耐え難いからさ”と、ぼくは言った、“余りにも否定的な面が多過ぎる。ぼくは、自分を取り巻いているこの社会や秩序を決して肯定することはできない。ファウストのように、これでよし、と言うわけには行かないのさ。だからと言って、もう社会を見ることもせず、自分の小さな環境の中に閉じこもることもできないのさ。結局、ぼくが願うことは、この悩める精神を楽にしてもらうこと、地上のあらゆる争いや、いざこざや、悩み事や不安から抜け出て、きれいさっぱり忘れてしまうこと、そしてあの青空のように澄んだ心になり切ること、なのさ。だけど、そんなこと可能だろうか?”

 “まず無理な話しね”と、リサはきっぱりと言った、“相当恵まれた人ならともかく、あたしたちじゃダメね。兄さんも言ったように、あたしたちの生活って、崖っぷちの上に立っている家のように心もとないものだし、いつその崖が音をたてて崩れるかも知れないほど不安なものよ。それを本当に確かなものにする手だてなんて、どこにもない。ただ、それを、少しでもそれに近づける為には、兄さんも言ったように、現実を直視し、戦う以外にはないわ…”


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 “リサもそう思うかい?”と、ぼくは言った、“…でも、ぼくは何もできやしないよ。行動を起こすことなど何も。ぼくは昔から、人と争うことができない運命なんだ…”

 

 “…この晴れ渡った空”と、ぼくは、ぽつりと言った、“昔は平和だった。ぼくも、そんな日々に帰りたい”

 馬が、潅木の茂みに入って、何か鼻で匂いを嗅いでいるのを眺めながら、ふと、そんな気がするのを感じた。背後の、なだらかな牧草地の丘の上には、互いに密集し合ったように数本の樫の木が、何もないところで、ひと際目立って、そびえているが、それも、ここから見ると小さく見える。その彼方には、青い空と、丘から盛り上がったような白い雲以外には、何もない。ただ、手前の方の潅木の茂みの中には、ひょろりと伸びた一本のブナの木が、丘の水平線に対し、ただひとつ、垂直を保っているのが、気を惹くばかりだった。全部日光を浴びて、冬の太陽の恵みを受けている。一本のブナのひょろりとした幹や、枝は、陽を浴びたところは明るく、日陰は暗くなっているのが、ここからよく見える。ここは、なんと、のどかで、明るく、平和なんだろう。こんなところなら、いつまでいてもかまわない…

 “ねえ、こうして見ていると”と、ぼくは言った、“ときどき昔に返った気がするのさ。もう何年も前の、セーラやママがいた頃の冷たい冬の日…”

 “それがどうしたというの?”と、ぼくから少し離れたところで、馬に乗っているリサが言った。

 “思い出してみても仕方のないことだけれどもね”とぼくは言った、“でも、あの頃は何をしていたのだろう? と思うのさ。場所もこんなに静かなところじゃなく、もう少し人の多いところだった。でも、朝は冷たかった。吐く息は白く、ママは朝早くから台所仕事をしていた。まだパジャマ姿のままのセーラも、黙々と、それを手伝っていた。ぼくがいつも思い出すのは、あの頃の、陰欝な空の暗さと共に、労苦に満ちたママやセーラの姿なのさ。でも、確かに、ぼくたちの一家に、不安と、暗い陰がさしていたのは事実だったけれども、そんな日ばかりじゃなかった。何よりも、健康的で明るいお前がいたし、日射しにいたお前の姿は、まるで野に咲く花のようだった。ママだって、そんなぼくたちを見ることで、心を慰められたのは間違いがない。そうさ、苦しい労働の一週間の後の、そして、ぼくたちにとっちゃ、毎日の学校の後の休みの日には、ママの顔がパッとほころんだのを、ぼくは覚えている。パパがいなかったものだから、ママが中心になって、一日の手配をしてくれた。きょうは買物。きょうはピクニック。きょうは、おじさんの家へ会いに行くのよ、など。でも、そういう日は、ぼくたちにとっても楽しい日だったが、ぼくの心は自然、ひとり遊びの方へ向いて行った。もちろん、放課後、友だちとサッカーをして遊んだり、お前たちと遊んだりするのも好きだった。でも夜は、とりわけ、夕食の後は、もう友だちもなく、自分たちの世界に閉じ篭もるのが好きだった。覚えているだろう? よく人形を持ち合って、軍隊遊びをしたときのことを。ぼくはいつのまにか、お前が大事にしていた人形を、奪い取ってしまった”


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 “奪われたときは腹が立ったけど、その後、兄さんが大事にしてくれたからいいわ”

 リサは、にっこりして答えた。

 “大事にし過ぎるぐらいにね”と、ぼくは言った、“そしてその楽しみが、友だちとの出会いよりも何よりも、ぼくの心を形成して行った。あとで考えると、あのブロンテ姉妹と同じなのさ。つまり、その楽しみはやがて、ぼくの心を、外の楽しみへとは導かさずに、空想の楽しみへと導いて行ったのさ…”

 “それはともかく”と、ぼくは続けた、“空想が結局、孤独なことだ、と気がついたのは、もっと後のことさ。しかしあの頃は、ぼくは何も知らなかった。すべてが夢のようで、明るく、楽しく、幸せに満ちていた。ちょうどこの日のようにね、空がすっかり晴れ上がって、心が浮き浮きするような日だってあったはずなのさ。斜めに射し込んだ太陽の光線がほんの小さな小川の川面を照らし、同時に、川べりに茂った草をも照らす。周りは一面、草原で、太陽光線を受けた空の雲や、ところどころに立っている樹木が黄色に輝く。そんな美しい光景の中にいたときのことを思い出すよ。そのとき、ぼくたちがどこにいて、何をしていたのかは、もう覚えていない。でも、あの冬の朝、朝の日射しの中で、セーラは、鉢を置き換えに、家の裏へと運んだが、その陰が、明るい木の柵に映っていた。その時、ぼくがどこにいたのかは覚えていない。でも、それを思い出して今感じるのは、あの頃はみな働いていた、そして生活をしていた、という実感なのさ。生活をする、というのは素晴らしいことなのさ。とりわけ、みんなで仕事を分担しながら働く、家族の中での生活、というものはね…”

 “確かにここには生活臭はないわ”とリサは、静かな美しい潅木の茂みと、ブナの木立と、広がる草原を見つめながら言った、“…でも、子供の頃の生活と、大人になってからの生活とは、おのずと変わるものよ。今は、今の生活がある。一見、つかみどころのない、空気のように軽い生活だとしても、それは、未来に対する準備だと考えればいいじゃない”

 “どんな未来さ?”と、ぼくは尋ねた。

 “さあ、分からない”と、リサは言った、“でも、それぞれに未来はあるはずよ。いつまでも過去に目を縛られていないで、兄さんはもっと、未来に目を向けるべきよ”

 “ぼくの未来”と、ぼくは言った、“それはもはや、過去との出会いのない未来であることだけは確かさ。そう思うと、もっともっとあの時代を生きていればよかった、そういう気がして来るな。でも――もう過ぎ去ったんだし、あきらめねばならない。あの時代は、もう二度と、来ることもないのさ…”

 “でも、時って、そんなに非情なものでもないわ”と、リサは言った、“あたしたちに同時に、未来というものまで、与えてくれているんですからね。その未来は、兄さんのすべてよ”

 “すべて?”と、ぼくは尋ね返した。


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 “そう、すべて”とリサは言った、“いつまでも過去にこだわるのも、そこからふっ切れて、新しい道を模索するのも、兄さん次第よ。もっと自由な気持ちになりなさいよ。そうすれば、沈んだ気持なんて、なくなるわ”

 “自由ね”と、ぼくは言った、“確かに自由はいいものさ。自由とは何よりも可能性を意味するのだからね。でも、その可能性は、何もしなければ無意味だし、何かしたところで、たったこれだけのものだったのか、と気がつくのがおちなのさ。――でも、人生には、何も生み出さない空虚な自由、というものがあってもいいと思うのさ、ちょうど今のようにね”

 “ああ、この遠乗りのこと?”とリサは聞き返した、“でもこれは、決して無意味じゃないわよ。気持ちをすっきりさせてくれるし、しかも楽しいわ”

 “ぼくだって同じさ”と、ぼくは言った、“ただ、自転車と違って、可愛いお前に触れられないのが残念だけれども…”

 “触れようと思えば触れられるわ”と、リサはにっこりして言った。

 しかし、ぼくが馬を彼女に近づけると、リサは、ひょいと体をかわすように自分の馬を遠ざけた。

 “こら、逃げる気か?”と、ぼくは戯れながら言った。

 “だって”とリサは、笑いながら言った、“そう易々とつかまらないわ”

 “じゃ、今度はつかまえてやる”そう言うや、ぼくは、彼女の馬を追いかけた。

 リサは、あわててたずなを引き、馬の向きを変えて、丘に向かって逃げようとした。

 しかしひと足早かったぼくの馬が、すぐ彼女の馬に追いついた。そして、ぼくが彼女に腕を伸ばし、彼女がそれをよけようと体をねじらせたとたん、彼女の叫び、そして、馬のいななきと共に、リサが、馬の向う側へ落馬する姿が目に入った。

 ぼくは驚いて馬から飛び降り、向うで倒れているリサのところへ駆け寄った。主人のいなくなった二頭の馬は、数歩向うで所在なさそうに立っていた。リサは、草むらで、うつ伏せるように倒れていたが、今は、上半身を左手で支え、起こしていた。

 “ヒドイわ”と、リサは、泣きそうな声になりながら、駆けつけたぼくに言った。

 “ごめん、ごめん”と、ぼくは言った、“こんな風になるなんて、思わなかったから、体は、どうもないかい?”

 “骨折はしていないようよ”とリサは言った、“でも、唇を切ったんじゃない?”

 そう言って、リサは、ひと差し指で、自分の口をぬぐいながら、その唇をぼくに見せた。

 “どれどれ、と言って、ぼくは彼女の顔をのぞき込んだ。

 髪の毛の一部が、彼女の顔をおおい、ヒドイ有様だった。彼女の唇の左下辺りが、わずかに血をにじませていた。ぼくはついでに、目も覗き込んだが、目には異常がないようだった。ぼくは早速、自分のハンカチを取り出し、それで、彼女の切れた唇を拭いてやった。

 “傷は、大したことないよ”と、ぼくは冷静に言った、“でも、きのうといい、きょうといい、事故続きで、お前にとっちゃついていない日になったね”



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