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 “でも”と、ぼくは、リサの足下で、両足を交互に動かしている馬の姿を見ながら言った、“あのセーレンが生きていればねえ。そうすれば、こんなに遠くまでも、連れて来ることが出来たんだ。馬二頭と、ぼくたち二人と、セーレン。なんだか、ここまで来て歓んでいるセーレンの姿が目に浮かびそうだ…”

 この言葉は、少し、ぼくたちの心をしんみりさせたようだった。

 “こんなに晴れていて、お空はきれいよ”と、リサは言った、“きっとセーレンも、あの空のどこかから、あたしたちのことを見つめているはずよ”

 “そうだといいんだが”と、ぼくは言った、“でも本当は、土の中に眠っているんだよな。帰りに、セーレンのお墓に寄ってみようじゃないか。長いこと行っていないからね。セーレンとは数年間一緒に暮らし、別れてしまった友だちさ。ものを言うこともなく、無邪気で、可愛らしかった。あんなにいい友だちって、そうざらに見つかるわけはない。もし、あのセーレンに言葉というものがあったとしたら、何をしゃべっただろうか? でも、何もしゃべらずに一生を終えたということが素晴らしいのさ。セーレンのその魂や、気持だけが、痛いほどよく分かるのだから…”

 “セーレンが死んで、あたしたちが生きている”とリサは言った、“でも、セーレンの魂は、いつもあたしたちと一緒よ”

 “そして、ここがその舞台さ”と、ぼくは言った、“セーレンが生きていたときの。もし、セーレンがもっと長生きしていたなら、ぼくはここまで連れて来たに違いない。――でも、それが果たせなかったというのは、少し悲しいな”

 “一生って、短かければ短いほど、悲しいわ”と、リサは言った、“その分だけいろんな可能性が見えて来るからよ。でも、セーレンがここまで来れたとしても、それがどうなの? 世界を一歩踏み越えただけのことで、さらに果ては、向うまで広がっているわ。そして、その世界には行けずに死んでしまうかも知れない。そのときは幸せで、それ以前は幸せでないなんて、言えないはずよ。結局、セーレンには、あの一生しかなかったと思う他はないわ。それであきらめるなり、悲しむしかないのよ…”

 “あの一生しかなかった”と、ぼくはくり返した、“しかし、短かくて、悲しいな。あれが人間なら、耐えられないよ。あれが犬だから、犬だからこそ、悲しいし、また、耐えることもできるんだ… ともかくぼくたちは、あのセーレンと共に過ごした一時期があった。そしてそのセーレンは、先にこの世を去ってしまったが、その魂は不滅で、今もここにある。そういうことだね?”

 リサは黙ってうなずいた。

 “あの空の向うか、あの雲の白い輝きのどこかに、セーレンは今もいるのさ”と、ぼくは言った、“そう思うと、心も慰められる。セーレンの短い一生が、決して短い一生ではなかったという思いに捕らわれるのさ。セーレンの魂は不滅で、永遠だし、今も、ぼくたちと共にここにいるのさ…”


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 “さあそれじゃ、輝き渡る雲の方にでも走ってみようか、リサ”とぼくは、元気を取り戻して、リサに言った。そして、リサに一瞥をくれると、馬のたずなを引き、丘の上の方に向かって、駆け上がって行ったのだった…

 

 …どこまでも明るく、緑色の絨毯のような牧草地が広がっていた。ぼくたちを乗せた二頭の馬は、土を蹴って、空と大地とが交わる広大な地平線に向かって駆けていた。身を切るような冷たい風が、ぼくたちの膚に襲いかかったが、防寒着と運動しているおかげで、寒いとは感じなかった。丘の上には、ところどころ、林や森に覆われ、さらにその向うの丘や、なだらかな大地へと続いていた。もうここまで来れば、人一人、住んでいる気配も感じられなかった。しかし、空は青く澄んでいて、大地は明るく、静かだった。馬のいななきと共に、ぼくは馬を止めた。リサも、すぐぼくの後ろに付いて来ていた。彼女の青い上着が、緑の草地の中で、一段とまぶしく感じられた。

 “随分といいところねえ…”と、リサは、周りを見渡しながら、言った、“気持が洗われるみたい…”

 “まだ奥の奥がありそうだ”と、ぼくは、丘と丘とが交わり、谷間のようになった遠景の、青がすんだ緑地を眺めながら言った、“この調子じゃ、どこまで行ってもきりがないようだね。一層のこと、この馬に羽でも生えて、ペガサスのようにあの大空の上から眺められればいい…”

 リサは、にっこりと、笑顔をぼくに向けた。彼女は心からここに来たことを歓び、堪能しているようだった。彼女がこのように、幸せな瞬間を生きてくれていることが、ぼくには嬉しかった。

 

 青い空には白い雲が流れ、美しい絵模様を見せてくれていた。昨晩、あれほど真暗で、冬のオリオンや、しし座のレグルスなどを輝かせていた空も、今は、一点の曇りもないほど澄み渡り、その心を透明にするような青さが、爽やかだった。そして、動くにつれ、様々に変化するあの真白な雲―― 緑色一色の大地と大空との鮮やかなコントラストといい、ここには、言いようのない美しさしかなかった。

 

 “ともかく、みんな必死なのさ”と、ぼくは、しばらくしてから言った、“生きることに… そのことを考えると、ぼくは冷汗を感じることさえあるんだ”

 “どうして?”と、リサはこちらを向いた。

 “だって”と、ぼくは言った、“ぼくは何もしていないんだ、世の中に役に立つ何も…”

 風が、草原に伸びる背の高い雑草を揺らしていた。丘の斜面には、数本の木立が、しっかりと根づいて茂っていた。その向うには、どこの農家のものか、木の柵がめぐらせてある。リサは、風に揺れる雑草と、草地とのあいだのところで、馬を操っていた。

 “ぼくが付き合っているのは、この広い草原と、あの青い空だけさ。一見平和そうに見えるこの生活も、いつまで続くか、ぼくにも分からないからさ”と、ぼくはしみじみ言った、“だって、世の中は絶えず揺れ動いているからなんだ。


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ぼくは平和が欲しい。心からの平和が欲しい。だけど世の中を見るがいい。かつてそんな平和が、この世の中に存在しただろうか…”

 リサは、馬を操ったまま、じっとぼくを見つめていた。

 ぼくは話しを続けた。

 “みんな必死に生きるからこそ、この世の中は戦場なんだ。そこから抜け出すことは不可能さ。…このぼくだって。ぼくは世の中から抜け出すことばかり考えて来た。恐らく、環境や生い立ちが、ぼくを世の中と合わせず、孤独へと駆り立てたのだろう。ぼくは、世の中を生きる為には、余りにも夢想的で、余りにもロマンチストだったんだ。世の中を生きるということは大変だ、この戦場を戦い抜くには相当の苦労を覚悟せねばならぬ、という意識は、早い頃から芽生えていた。だからこそ、生活を直視するのが耐え難いからこそ、ぼくは美しいもの、世の中とは関係のないものばかりを見ようとしたんだ。およそ芸術と名のつくすべてのものは、そういうものの集合だった。それらは絶対に、生きたものじゃなかったが、だからこそ、ぼくの心に安らぎを与えてくれたんだ。安らぎと束の間の夢をね。でも絶えず、現実に引き戻された。現実の耐え難い生活にね。そして絶えず、現実と夢とのギャップは広がって行くばかりだった。ぼくは、夢を見、それを愛した瞬間から、戦いをやめたのさ。だって、夢と現実とは、絶対に相容れることのない二つのものだからさ。現実は戦い、でも夢は愛なのさ。――しかし、こんな生活がいつまでも続くなんてぼくも思ってはいない。もしそれでも夢を愛するなら、その夢を守る為に、やはりこの現実と戦わねばならないんだ。そう考えると、ぼくは気が遠くなるのさ。とほうに暮れてしまうのさ。分かるかい? リサ。今のこの生活は、永久的なものじゃあり得ないし、増して、きっちりと守られているわけのものでもない。いつ、何者かがちん入して来ないとも限らないし、誰かのせいで、この生活がかき乱されるかも知れないのさ。ぼくは、その不安を感じている。長生きはしたい。でも、明日にもこの命は、ないかも知れないんだ。世の中の動きや、人々の生活を見るにつけ、ぼくはそう感じるのさ。心にどうきを感じるほどに、本当に平和な生活というものはあり得ないのだ、と…”

 “無論、ごく限られた、恵まれた人々にはそういう生活もあったかも知れない”とぼくは続けた。風に、雑草の穂が揺れているのをいとおしむように見つめながら… “この草、この太陽、このすがすがしい空気。いつもそれらに囲まれて生活ができるならどれほど幸せなことだろう。だけど、そういう生活が可能となるのは、社会的に成功したごく一部の人々に限られるのさ。しかしそういう人々だって、そういう生活に到るまでにはどれほどの忍耐と労苦の生活を強いられたことだろう。その上に咲いた花なら確かに美しいかも知れない。だけど、それを眺める彼は、既に年寄りさ。余命幾ばくもない。余生を夢想的に生きるには、余りにも年を取り過ぎているし、ロマンチストになるには、余りにも現実主義が身にしみ込んでしまっていることだろう。それが悪い、というわけじゃない。ただ、そういう生活が誰にも保障されているわけでもないし、とりわけぼくには保障されていない、ということが言いたいのさ。


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ぼくは戦ってはいない。だから、社会的な成功もあり得ないし、そこから生ずる諸々の恩恵に浴する、ということもあり得ないのさ…”

 “兄さんは、そのことが悔しい?”と、リサは尋ねた。

 “もしこのまま死ねばね、死に切れないさ”と、ぼくは言った、“だってぼくはまだ、何もしていないんだ。世の中の役に立つ、ということもなかったし、ただ、夢を見て来ただけなんだ…”

 “でも、大多数がそういう生き方じゃない? 自分の夢を、世の中に役立てて、しかも成功する、なんて人はそう多くないわ…”と、リサはさとすように言った。

 “ぼくはね”と、しみじみ、ぼくは言った、“別に有名になりたいわけじゃない。社会的に成功したい、と言っているわけでもない。――でもただ、自分の人生に納得したいのさ。納得の行く人生を送りたいのさ。そして、あわよくば、ごく少数の理解者とがね。理解者のない人生なんて、およそ耐えられそうもないからね。じゃ、何を理解すればいいか、と言えば、ぼくのこの、矛盾した、引き裂かれた精神を、なのさ。デリケートで、すぐにでもこわれてしまいそうなこの精神を、なのさ。およそ実生活には役に立ちそうもない、夢見ることしか知らないこの精神を、なのさ。それは、地上から遊離して浮かび上がった、今にも消えてしまいそうな、迷える魂とでも言うべきだろうか、その魂をもって、その魂のまま、生きて行くこのぼくを理解してもらいたいんだ。こんな精神を理解できる人なんて、ほとんどいないだろうけれど、また理解したところで、得るものなど何もないだろうけれど、ぼくはその精神だし、その精神であることを直視する他、あり得ないんだ。ぼくのこの体は、確かにこの世の中のものさ。でも心は絶えず、そこから抜け出ようとばかりしている…”

 “どうしてそんなに抜け出そうとばかり思うの?”と、リサは心配そうに尋ねた。

 “だって、この世の中が余りにも耐え難いからさ”と、ぼくは言った、“余りにも否定的な面が多過ぎる。ぼくは、自分を取り巻いているこの社会や秩序を決して肯定することはできない。ファウストのように、これでよし、と言うわけには行かないのさ。だからと言って、もう社会を見ることもせず、自分の小さな環境の中に閉じこもることもできないのさ。結局、ぼくが願うことは、この悩める精神を楽にしてもらうこと、地上のあらゆる争いや、いざこざや、悩み事や不安から抜け出て、きれいさっぱり忘れてしまうこと、そしてあの青空のように澄んだ心になり切ること、なのさ。だけど、そんなこと可能だろうか?”

 “まず無理な話しね”と、リサはきっぱりと言った、“相当恵まれた人ならともかく、あたしたちじゃダメね。兄さんも言ったように、あたしたちの生活って、崖っぷちの上に立っている家のように心もとないものだし、いつその崖が音をたてて崩れるかも知れないほど不安なものよ。それを本当に確かなものにする手だてなんて、どこにもない。ただ、それを、少しでもそれに近づける為には、兄さんも言ったように、現実を直視し、戦う以外にはないわ…”


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 “リサもそう思うかい?”と、ぼくは言った、“…でも、ぼくは何もできやしないよ。行動を起こすことなど何も。ぼくは昔から、人と争うことができない運命なんだ…”

 

 “…この晴れ渡った空”と、ぼくは、ぽつりと言った、“昔は平和だった。ぼくも、そんな日々に帰りたい”

 馬が、潅木の茂みに入って、何か鼻で匂いを嗅いでいるのを眺めながら、ふと、そんな気がするのを感じた。背後の、なだらかな牧草地の丘の上には、互いに密集し合ったように数本の樫の木が、何もないところで、ひと際目立って、そびえているが、それも、ここから見ると小さく見える。その彼方には、青い空と、丘から盛り上がったような白い雲以外には、何もない。ただ、手前の方の潅木の茂みの中には、ひょろりと伸びた一本のブナの木が、丘の水平線に対し、ただひとつ、垂直を保っているのが、気を惹くばかりだった。全部日光を浴びて、冬の太陽の恵みを受けている。一本のブナのひょろりとした幹や、枝は、陽を浴びたところは明るく、日陰は暗くなっているのが、ここからよく見える。ここは、なんと、のどかで、明るく、平和なんだろう。こんなところなら、いつまでいてもかまわない…

 “ねえ、こうして見ていると”と、ぼくは言った、“ときどき昔に返った気がするのさ。もう何年も前の、セーラやママがいた頃の冷たい冬の日…”

 “それがどうしたというの?”と、ぼくから少し離れたところで、馬に乗っているリサが言った。

 “思い出してみても仕方のないことだけれどもね”とぼくは言った、“でも、あの頃は何をしていたのだろう? と思うのさ。場所もこんなに静かなところじゃなく、もう少し人の多いところだった。でも、朝は冷たかった。吐く息は白く、ママは朝早くから台所仕事をしていた。まだパジャマ姿のままのセーラも、黙々と、それを手伝っていた。ぼくがいつも思い出すのは、あの頃の、陰欝な空の暗さと共に、労苦に満ちたママやセーラの姿なのさ。でも、確かに、ぼくたちの一家に、不安と、暗い陰がさしていたのは事実だったけれども、そんな日ばかりじゃなかった。何よりも、健康的で明るいお前がいたし、日射しにいたお前の姿は、まるで野に咲く花のようだった。ママだって、そんなぼくたちを見ることで、心を慰められたのは間違いがない。そうさ、苦しい労働の一週間の後の、そして、ぼくたちにとっちゃ、毎日の学校の後の休みの日には、ママの顔がパッとほころんだのを、ぼくは覚えている。パパがいなかったものだから、ママが中心になって、一日の手配をしてくれた。きょうは買物。きょうはピクニック。きょうは、おじさんの家へ会いに行くのよ、など。でも、そういう日は、ぼくたちにとっても楽しい日だったが、ぼくの心は自然、ひとり遊びの方へ向いて行った。もちろん、放課後、友だちとサッカーをして遊んだり、お前たちと遊んだりするのも好きだった。でも夜は、とりわけ、夕食の後は、もう友だちもなく、自分たちの世界に閉じ篭もるのが好きだった。覚えているだろう? よく人形を持ち合って、軍隊遊びをしたときのことを。ぼくはいつのまにか、お前が大事にしていた人形を、奪い取ってしまった”



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