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 ぼくは、永遠にひとりぽっちだ、とそのときぼくは思った。ぼくを一番よく理解してくれているリサでさえ、このことまでは分かるまい。昔、ぼくたちは一緒の家族の中にいた。その頃は賑やかで幸せだった。しかしそれが突然崩壊し、めぐりめぐって、こんな寂しいところにぼくがひとり住むことになろうとは、そのときの誰が予期することができただろう。あの笑い、あの楽しみは、もう永遠に、あのときだけのもので、再び戻ることはない。そして今、ぼくはこんな寒空の下で、ひとり、孤独に泣きぬれている…

 

 別に、人の生活が羨ましいわけじゃない。だからと言って、ぼくは、ぼくなりの人生を歩んで行く他はないのだ。

 

 ぼくが孤独だった頃、ぼくは、ぼくの夢に出会って、幸せだった。また、永遠の空に出会って幸せだった。いずれも、この世の苦しみを、ほんの束の間でも、忘れさせてくれたのだから…

 

 空に、幾つもの雲が重なり、みんな、この寒さの中で凍えながら暮れて行く頃、ぼくは部屋にいて、リサと一緒だった。音楽はもう流れてはいなかった。音楽によって、夢を見ていた時代は、もう過ぎたのかも知れない。部屋の中は、窓の外で吹き荒れる風の音と、マントルピースの上の置き時計の音以外は、何も聞こえてはいなかった。リサが、そこのソファーに坐って、婦人雑誌を見ながら編み物を無心にしている表情は、昔を思い出させないでもなかったが、黒いカーディガンからブルーのシャツがのぞいて見える彼女の姿は紛れもなく、今のリサの姿だった。肩まで垂らした長い髪の毛や、編み棒を巧みに動かしている、その細い指や手首の動きが、この部屋の中で生きている彼女の魅力を感じさせた。

 

 彼女が訪れたこの日は、大した収穫もなく、暮れようとしていた。しかし、家の近くを回ったことで、彼女は喜んでくれたのだ。ほぼ一年ぶりの帰郷で、彼女は、よく通った道や、近くを流れていた小川や、今も変わらない森や丘の姿に、感嘆の声をあげてくれた。近くの農家の前も通ったし、彼女とよく散策し、木登りさえしたことのある高台へ通じる脇道へも入ったのだ。そのようにして、なんということもなしに、この日の大半は終わった。リサはそこにいたが、彼女は別に、この日のことを考えている様子もなかった。それで、ぼくは読んでいた本を置き、ふと、リサに尋ねてみた。

 “リサ、帰って来て、よかったかい?”

 リサは、不意打ちを食らった為か、驚いたような目をぼくに向けた。そして、編み物を膝の上に乗せると、彼女は、ため息をつくように、目を閉じるようにして、言った。

 “ええ、楽しかったわ”と、彼女の顔はほころんだ、“街にいたときには想像もつかない生活よ。静かだし、空気もいいし、兄さんの連れて行ってくれたところだってよかったわ。すべての点で満点よ”


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 “そう言ってもらえればぼくも嬉しいよ”とぼくは言った、“でもきょう連れて行ったところって、別に大したところじゃないんだ。本当に何もないところばかりでね。でもあしたは、この前約束したように乗馬クラブへ行ってみようよ。ここからそう遠くないところにあるのさ。そしてよければ、ぼくたちも馬に乗ってみようよ”

 “本当?”とリサは、目を輝かせたように言った、“乗馬って本当に久し振りよ。うまく乗れるかしら? それで兄さんの方は、練習を積んだの?”

 “ああ約束通り、少しはね”と、ぼくは笑いながら答えた、“お前がかなり行けそうなことを言っていたから、それに遅れを取るまいと、少しは経験を積んださ…”

 “でもあたしも、ここ何年って乗っていないのよ”とリサは言った、“伯母さんの家に住んでいた頃、ちょっと乗れるようになったぐらいで、うまく乗れるか…”

 “何、それぐらいの経験を積んでおれば大丈夫さ”とぼくは言った、“すぐ乗れるようにもなるし、できれば遠乗りにも行って見よう…”

 リサは嬉しそうな顔をして、窓の外を見た。外の木立は、葉を落とした黒いシルエットとなり、空がゆっくりと暮れていた。最後の薄紫色の反映が空をおおい、西の空へと向くにつれ、それは、だいだい色へと変わっていた。しかし、その明るい場所も、もうしばらくだろう。秋の厳しい寒さが、暗い空の色からもにじみ出、もう間もなく、闇がおおい尽くすだろう。このようにしてこの日も、吹き荒れる風と共に暮れて行こうとしているのだ。リサは、まだ完全には暮れぬ外の景色の丘の向うへと、早くも胸を踊らせているようだった。しかし、その丘の上には、早くも一番星が輝き始めていた。ぼくたちがこの昼、訪れた小川や、草原や、森は、今まさに、夕闇におおわれて、深い眠りにつこうとしていた。もう外は、その大部分が闇の中だ。そのうち、太陽の最後の叫び声すら、完全に消してしまうことになるだろう。しかし、ぼくたちのこの部屋の中は、シャンデリアの白い明かりが輝き渡り、部屋の隅まで明るかった。

 “あした、晴れるといいわね”と、リサは、窓から目をぼくの方に向けて言った、“馬に乗れば、きょうよりもずっと遠くまで行くことができるわ。ねえ、海まで行ければいいんだけどね…”

 “それはちょっと無理さ”とぼくは答えた、“車をぶっ飛ばしても軽く一時間以上はかかるんだからね。でも、あちこち行けるのは確かさ。そのことはぼくも余りやったことがないんだ”

 “じゃ、あしたを楽しみにしているわ”と言って、リサは立ち上がった、“そろそろ夕飯の支度をしなくちゃね。材料は冷蔵庫に入っているの?”

 “お前が来ることを思って、要る物は買っておいたさ”と、ぼくはソファーに坐りながら言った。

 そう言うと、リサは、まるで一年前の生活が戻ったように、黙って台所の方へと向かうのだった…


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 この明るい日射しの中を、ぼくたちは駆け抜けた。空気は冷たく、馬も、ぼくたちも白い息を吐いていた。空はよく晴れ、一段と空気は冷えていた。もうどこまで来たろうか、何度も丘を越え、森の中を通って、ここまでやって来た。朝の森の中は、青白い木洩れ陽が射し込み、神秘的ですらあった。振り向くと、リサが、姿勢を正しく、すぐ後ろに、たずなを引いたままの姿で、いた。馬は、元気にあふれているせいか、しきりに首をひねり、一時たりとも、じっとしてはいなかった。そして今は、遥か彼方を見晴るかせる丘の上にぼくたちはいた。リサは、ぼくより少し離れて、後ろ側にいた。緑の牧草地や、森や垣根などが、一望の下に見下ろすことができた。空は青く、広い大地の上を、白い雲がぽっかりと浮かんでいた。

 

 この日の朝、目が覚めると、空が晴れていることはすぐ分かった。薄いカーテンから射し込む光ですぐ分かったのだ。ベッドから起きるとその足で窓辺に歩み寄り、わずかにカーテンを引いてみた。うっすらと朝がすんだ空がゆっくりと明けて行くようだった。しかし、樹木も、雑草も、みんな寒さに凍えているみたいだった。こんな朝、昔なら、セーレンが喜んだことだろう。そしてぼくに、散歩に連れて行くよう、大声を張りあげて催促したに違いない。しかし今は、その物の気配もなく、静かだった。しかしすぐ思い出した。けさは、隣の部屋でリサが眠っていることを。昨夜は、ウィスキーを飲みながら、リサと色んなことを話し、割と早く眠りに着いたことを覚えている。リサはきっとまだ、自分の部屋で眠っているに違いない。しかしけさは、早く出発することを言っておいたはずなのだ…

 斜面の少し後方で、背筋をピンと伸ばし、たずなを引いたままの恰好で馬の上に静止しているリサの表情は、澄み切った空を背景に、さながら春を呼ぶかのごとくだった。彼女の赤いキュロットが、栗毛の明るい馬の体に、まぶしく輝いていた。朝の光が斜めから射し込み、彼女の左半身と馬体とを照らすと共に、その影を明るい草の上に投げかけていた。ぼくはたずなを引いたものの、目標が定まらなかった。このまま一気に、ふもとの、ぼくの見知らぬ村へ降り下って行こうか? それとも再び後ろの丘を越え、さらに知らない別の村へと駆けて行こうか? ふもとの、互いに肩を寄せ合ったような小さな村も、丘の向うの濃い森の緑も、両方ともが誘惑に満ちていた。ぼくたちは、この明るい丘の上で、両方の誘惑で、動きが取れなくなってしまった。

 “ねえ、随分遠くへ来てしまったようだね”と、ぼくはリサに向かって言った、“来た道をちゃんと覚えているだろうか?”

 “分からなくなれば、途中で聞けばいいわ”とリサは答えた。

 “でも随分走ったねえ”とぼくは言った、“リサは疲れないかい?”

 “ううん、大丈夫よ”と微笑みながら、リサは答えた。


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 “でも”と、ぼくは、リサの足下で、両足を交互に動かしている馬の姿を見ながら言った、“あのセーレンが生きていればねえ。そうすれば、こんなに遠くまでも、連れて来ることが出来たんだ。馬二頭と、ぼくたち二人と、セーレン。なんだか、ここまで来て歓んでいるセーレンの姿が目に浮かびそうだ…”

 この言葉は、少し、ぼくたちの心をしんみりさせたようだった。

 “こんなに晴れていて、お空はきれいよ”と、リサは言った、“きっとセーレンも、あの空のどこかから、あたしたちのことを見つめているはずよ”

 “そうだといいんだが”と、ぼくは言った、“でも本当は、土の中に眠っているんだよな。帰りに、セーレンのお墓に寄ってみようじゃないか。長いこと行っていないからね。セーレンとは数年間一緒に暮らし、別れてしまった友だちさ。ものを言うこともなく、無邪気で、可愛らしかった。あんなにいい友だちって、そうざらに見つかるわけはない。もし、あのセーレンに言葉というものがあったとしたら、何をしゃべっただろうか? でも、何もしゃべらずに一生を終えたということが素晴らしいのさ。セーレンのその魂や、気持だけが、痛いほどよく分かるのだから…”

 “セーレンが死んで、あたしたちが生きている”とリサは言った、“でも、セーレンの魂は、いつもあたしたちと一緒よ”

 “そして、ここがその舞台さ”と、ぼくは言った、“セーレンが生きていたときの。もし、セーレンがもっと長生きしていたなら、ぼくはここまで連れて来たに違いない。――でも、それが果たせなかったというのは、少し悲しいな”

 “一生って、短かければ短いほど、悲しいわ”と、リサは言った、“その分だけいろんな可能性が見えて来るからよ。でも、セーレンがここまで来れたとしても、それがどうなの? 世界を一歩踏み越えただけのことで、さらに果ては、向うまで広がっているわ。そして、その世界には行けずに死んでしまうかも知れない。そのときは幸せで、それ以前は幸せでないなんて、言えないはずよ。結局、セーレンには、あの一生しかなかったと思う他はないわ。それであきらめるなり、悲しむしかないのよ…”

 “あの一生しかなかった”と、ぼくはくり返した、“しかし、短かくて、悲しいな。あれが人間なら、耐えられないよ。あれが犬だから、犬だからこそ、悲しいし、また、耐えることもできるんだ… ともかくぼくたちは、あのセーレンと共に過ごした一時期があった。そしてそのセーレンは、先にこの世を去ってしまったが、その魂は不滅で、今もここにある。そういうことだね?”

 リサは黙ってうなずいた。

 “あの空の向うか、あの雲の白い輝きのどこかに、セーレンは今もいるのさ”と、ぼくは言った、“そう思うと、心も慰められる。セーレンの短い一生が、決して短い一生ではなかったという思いに捕らわれるのさ。セーレンの魂は不滅で、永遠だし、今も、ぼくたちと共にここにいるのさ…”


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 “さあそれじゃ、輝き渡る雲の方にでも走ってみようか、リサ”とぼくは、元気を取り戻して、リサに言った。そして、リサに一瞥をくれると、馬のたずなを引き、丘の上の方に向かって、駆け上がって行ったのだった…

 

 …どこまでも明るく、緑色の絨毯のような牧草地が広がっていた。ぼくたちを乗せた二頭の馬は、土を蹴って、空と大地とが交わる広大な地平線に向かって駆けていた。身を切るような冷たい風が、ぼくたちの膚に襲いかかったが、防寒着と運動しているおかげで、寒いとは感じなかった。丘の上には、ところどころ、林や森に覆われ、さらにその向うの丘や、なだらかな大地へと続いていた。もうここまで来れば、人一人、住んでいる気配も感じられなかった。しかし、空は青く澄んでいて、大地は明るく、静かだった。馬のいななきと共に、ぼくは馬を止めた。リサも、すぐぼくの後ろに付いて来ていた。彼女の青い上着が、緑の草地の中で、一段とまぶしく感じられた。

 “随分といいところねえ…”と、リサは、周りを見渡しながら、言った、“気持が洗われるみたい…”

 “まだ奥の奥がありそうだ”と、ぼくは、丘と丘とが交わり、谷間のようになった遠景の、青がすんだ緑地を眺めながら言った、“この調子じゃ、どこまで行ってもきりがないようだね。一層のこと、この馬に羽でも生えて、ペガサスのようにあの大空の上から眺められればいい…”

 リサは、にっこりと、笑顔をぼくに向けた。彼女は心からここに来たことを歓び、堪能しているようだった。彼女がこのように、幸せな瞬間を生きてくれていることが、ぼくには嬉しかった。

 

 青い空には白い雲が流れ、美しい絵模様を見せてくれていた。昨晩、あれほど真暗で、冬のオリオンや、しし座のレグルスなどを輝かせていた空も、今は、一点の曇りもないほど澄み渡り、その心を透明にするような青さが、爽やかだった。そして、動くにつれ、様々に変化するあの真白な雲―― 緑色一色の大地と大空との鮮やかなコントラストといい、ここには、言いようのない美しさしかなかった。

 

 “ともかく、みんな必死なのさ”と、ぼくは、しばらくしてから言った、“生きることに… そのことを考えると、ぼくは冷汗を感じることさえあるんだ”

 “どうして?”と、リサはこちらを向いた。

 “だって”と、ぼくは言った、“ぼくは何もしていないんだ、世の中に役に立つ何も…”

 風が、草原に伸びる背の高い雑草を揺らしていた。丘の斜面には、数本の木立が、しっかりと根づいて茂っていた。その向うには、どこの農家のものか、木の柵がめぐらせてある。リサは、風に揺れる雑草と、草地とのあいだのところで、馬を操っていた。

 “ぼくが付き合っているのは、この広い草原と、あの青い空だけさ。一見平和そうに見えるこの生活も、いつまで続くか、ぼくにも分からないからさ”と、ぼくはしみじみ言った、“だって、世の中は絶えず揺れ動いているからなんだ。



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