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 “本当かい?”と、ぼくはリサを見て言った、“そりゃヒドイなあ。そのあざっていうのを、ぼくにも見せてよ”

 “いやよ”とリサは、驚いて言った、“あたしのお尻にできているのよ。兄さんに見せるわけには行かないわ”

 “そりゃ残念だ”と、ぼくはにっこりして言った、“でもそれじゃ、それが本当か嘘か、ぼくには分からないじゃないか”

 “別に分からなくていいでしょ”とリサは言った、“どうせ、そのうちほっときゃ消えてしまうものなんだから… でも本当のところ、まだ少し痛むわ”

 “だからさ、悪いようにはしないから、見せて御覧よ”と、ぼくはもう一度言った。

 リサは、赤いバスローブを着ながら、ぼくを見つめた。

 “それ、本気?”とリサは言った、“本当に、あたしのお尻が見たいの?”

 “ああ、見れるものならね”と、ぼくは言った。

 “やっぱりダメよ”と、リサは急に向きを変えて言った、“そんな恥ずかしいことって、あたしにはできないわ”

 リサはそう言って、居間の小さな鏡の前で、頭を忙しく拭き始めた。

 ぼくは、リサの姿を見るだけで、心が落ち着くのが感じられた。窓の外は、あんなに冷たく、白々しい風景で、窓辺に垂れ下がった木の葉も震えているというのに、部屋の中は、彼女がいるというだけで、何んと暖かなのだろう。彼女の動き、彼女の息づかい、その可愛い二本の足、ただそれを感じるだけで、ぼくに、人生の安心を与えてくれるのだった。さきほどまでの不安な、悲しい思いは消え、幸せな、楽しい気になってくるのだった。たとい今は、この白々しい世の中で彼女と二人だとしても、この家の中にいるぼくたち二人は、互いに手を取り合って、しっかりと生きているのだ。誰も、いかなる自然現象も、また空しさも、この、家の中でしっかりと息づいているぼくたち二人を打ち負かすことはできないだろう。窓の外に嵐が吹き荒れようと、魔の手が伸びようと、家の中にいるぼくたちは、このように安全なのだ。しかもぼくの心は、ここから、数百キロメートル離れたところに住んでいるセーラとも結ばれている…

 “ねえ、ぼくは幸せ者さ”と、ぼくは、ぼくに背中を向けて立っているリサに向かって、話しかけるように言った、“この家にお前がいるから幸せさ。他には何もいらない。この家に、お前がいるだけでいいんだ。それだけで、何もかも、すべてが満たされてしまう…”

 “そんなにあたしって、重要なの?”と言って、リサは髪の毛にブラシを当てながら、振り向いた。その大きな目の表情が、とても魅力的だった。

 “ああ、お前の存在は、ぼくの生きる源なのさ”と、ぼくは言った、“見てごらんよ。外はあんなに広々として、明るいけれど、何もない。――でも家の中には、ぼくのすべてがある。つまり、お前なのさ…”

 リサは、にっこりとしてぼくを見た。

 “相変わらずおかしなことを言う兄さん”と、リサは言った、“でも、あたしを愛してくれているということだけは分かって、嬉しいわ”


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 “ああ、お前を愛している。愛しているともさ”と、ぼくは言った、“心から愛している。お前は、ぼくのすべてでもあり、こんな暗いときの魔よけでもあるのさ”

 “魔よけ?”と、リサは、けげんな顔をして言った。

 “ああ魔よけさ”と、ぼくは答えた、“つまり、人生を虚しくしない為の魔よけなのさ。お前がいると、沈みがちなぼくの心も明るくなってくるからね。そういう意味での、お前は魔よけなのさ”

 “空しさよ去れ! って言うのね”とリサは明るく笑いながら言った、“あたしがそんな役を演じることができるのなら幸せだわ。とりわけ、兄さんの沈んだ気持ちをいやすことができるのならね。ね、その為にあたしがここにいる、と言うこともお忘れなくね”

 なんと心優しい妹なんだろう! ぼくは、再び向き直って髪の毛を解かしている彼女の後ろ姿を見ながら思った。彼女がこの家に帰って来たその理由は、これだったのだ。ひとりでいるぼくを救う為に、その為に彼女は帰って来、しかも今、ぼくの目の前にいる。こんな優しい、けなげな女が、この世の中の他のどこにいるだろう? 彼女はまるで、白馬の騎士であり、ジャンヌ・ダルクなのだ。孤独な城に駆けつけて来た救いの天使なのだ。ぼくは今初めて、そのことに気がついたのだった。そして、別に気取った風もなく、ごく普通に、バスローブを着て髪の毛をブラシですいている彼女の姿を見て、その優しさに、胸が熱くなるのを感じるのだった。

 

 …ぼくは、ぼんやりと窓辺に立って、ゆっくりと移り行く雲の様子を眺めていた。空をおおう分厚い灰色の雲が、窓の外に広がる世界を、寒々したものにさせていた。半分葉を落とした樹木の姿が、一層、寂しさを感じさせるのだろう。ぼくは、もはや、世の中の何も、欲しいとは思わなかった。何をしても、心を充たすものはなく、いつも孤独だった。人並みの生活、笑いや、冗談や、心の通い合う生活、といったものは、ぼくには無縁だった。ぼくの心は、いつも、あの風景のように冷たく、あの雲のように暗かった。かつて、何をしても満たされることはなく、いつも心に空虚を感じていた。この為に、ぼくは、人生に対する恐れを抱くようになった。かつて、世の中を生きて来たことに楽しみを見い出せなかったぼくが、これから先を生きて行くことに恐れを抱いたとしても、無理な話しではない。人並みをまねて、様々なことを試みたところで決して満たされることのなかったぼくが、今後、満たされることになるだろうという保障は何もない。この空虚、ぼくをずっと苦しみ続けて来た、この人生とのズレの感情の原因について、それが本当は何んであるか、についてぼくは知らないでもなかった。それは、ぼくには家族がいない、という唯一のことであり、それ故に、ぼくと同じような境遇にあった悪友たちとかつて行動を共にしたときでさえ、楽しかったどころか、空しさは一層広がるばかりだった。気持ちのすべてをぶっつけることのできる親も、ぼく自身を激励し、導いてくれるはずの親も、ぼくにはいなかった。親のなかったぼくが、いつも、あの寒い空のような感情を抱いて生きて来たぼくが、世間とのつながりを断たれてしまったぼくが、親になれるはずがない…


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 ぼくは、永遠にひとりぽっちだ、とそのときぼくは思った。ぼくを一番よく理解してくれているリサでさえ、このことまでは分かるまい。昔、ぼくたちは一緒の家族の中にいた。その頃は賑やかで幸せだった。しかしそれが突然崩壊し、めぐりめぐって、こんな寂しいところにぼくがひとり住むことになろうとは、そのときの誰が予期することができただろう。あの笑い、あの楽しみは、もう永遠に、あのときだけのもので、再び戻ることはない。そして今、ぼくはこんな寒空の下で、ひとり、孤独に泣きぬれている…

 

 別に、人の生活が羨ましいわけじゃない。だからと言って、ぼくは、ぼくなりの人生を歩んで行く他はないのだ。

 

 ぼくが孤独だった頃、ぼくは、ぼくの夢に出会って、幸せだった。また、永遠の空に出会って幸せだった。いずれも、この世の苦しみを、ほんの束の間でも、忘れさせてくれたのだから…

 

 空に、幾つもの雲が重なり、みんな、この寒さの中で凍えながら暮れて行く頃、ぼくは部屋にいて、リサと一緒だった。音楽はもう流れてはいなかった。音楽によって、夢を見ていた時代は、もう過ぎたのかも知れない。部屋の中は、窓の外で吹き荒れる風の音と、マントルピースの上の置き時計の音以外は、何も聞こえてはいなかった。リサが、そこのソファーに坐って、婦人雑誌を見ながら編み物を無心にしている表情は、昔を思い出させないでもなかったが、黒いカーディガンからブルーのシャツがのぞいて見える彼女の姿は紛れもなく、今のリサの姿だった。肩まで垂らした長い髪の毛や、編み棒を巧みに動かしている、その細い指や手首の動きが、この部屋の中で生きている彼女の魅力を感じさせた。

 

 彼女が訪れたこの日は、大した収穫もなく、暮れようとしていた。しかし、家の近くを回ったことで、彼女は喜んでくれたのだ。ほぼ一年ぶりの帰郷で、彼女は、よく通った道や、近くを流れていた小川や、今も変わらない森や丘の姿に、感嘆の声をあげてくれた。近くの農家の前も通ったし、彼女とよく散策し、木登りさえしたことのある高台へ通じる脇道へも入ったのだ。そのようにして、なんということもなしに、この日の大半は終わった。リサはそこにいたが、彼女は別に、この日のことを考えている様子もなかった。それで、ぼくは読んでいた本を置き、ふと、リサに尋ねてみた。

 “リサ、帰って来て、よかったかい?”

 リサは、不意打ちを食らった為か、驚いたような目をぼくに向けた。そして、編み物を膝の上に乗せると、彼女は、ため息をつくように、目を閉じるようにして、言った。

 “ええ、楽しかったわ”と、彼女の顔はほころんだ、“街にいたときには想像もつかない生活よ。静かだし、空気もいいし、兄さんの連れて行ってくれたところだってよかったわ。すべての点で満点よ”


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 “そう言ってもらえればぼくも嬉しいよ”とぼくは言った、“でもきょう連れて行ったところって、別に大したところじゃないんだ。本当に何もないところばかりでね。でもあしたは、この前約束したように乗馬クラブへ行ってみようよ。ここからそう遠くないところにあるのさ。そしてよければ、ぼくたちも馬に乗ってみようよ”

 “本当?”とリサは、目を輝かせたように言った、“乗馬って本当に久し振りよ。うまく乗れるかしら? それで兄さんの方は、練習を積んだの?”

 “ああ約束通り、少しはね”と、ぼくは笑いながら答えた、“お前がかなり行けそうなことを言っていたから、それに遅れを取るまいと、少しは経験を積んださ…”

 “でもあたしも、ここ何年って乗っていないのよ”とリサは言った、“伯母さんの家に住んでいた頃、ちょっと乗れるようになったぐらいで、うまく乗れるか…”

 “何、それぐらいの経験を積んでおれば大丈夫さ”とぼくは言った、“すぐ乗れるようにもなるし、できれば遠乗りにも行って見よう…”

 リサは嬉しそうな顔をして、窓の外を見た。外の木立は、葉を落とした黒いシルエットとなり、空がゆっくりと暮れていた。最後の薄紫色の反映が空をおおい、西の空へと向くにつれ、それは、だいだい色へと変わっていた。しかし、その明るい場所も、もうしばらくだろう。秋の厳しい寒さが、暗い空の色からもにじみ出、もう間もなく、闇がおおい尽くすだろう。このようにしてこの日も、吹き荒れる風と共に暮れて行こうとしているのだ。リサは、まだ完全には暮れぬ外の景色の丘の向うへと、早くも胸を踊らせているようだった。しかし、その丘の上には、早くも一番星が輝き始めていた。ぼくたちがこの昼、訪れた小川や、草原や、森は、今まさに、夕闇におおわれて、深い眠りにつこうとしていた。もう外は、その大部分が闇の中だ。そのうち、太陽の最後の叫び声すら、完全に消してしまうことになるだろう。しかし、ぼくたちのこの部屋の中は、シャンデリアの白い明かりが輝き渡り、部屋の隅まで明るかった。

 “あした、晴れるといいわね”と、リサは、窓から目をぼくの方に向けて言った、“馬に乗れば、きょうよりもずっと遠くまで行くことができるわ。ねえ、海まで行ければいいんだけどね…”

 “それはちょっと無理さ”とぼくは答えた、“車をぶっ飛ばしても軽く一時間以上はかかるんだからね。でも、あちこち行けるのは確かさ。そのことはぼくも余りやったことがないんだ”

 “じゃ、あしたを楽しみにしているわ”と言って、リサは立ち上がった、“そろそろ夕飯の支度をしなくちゃね。材料は冷蔵庫に入っているの?”

 “お前が来ることを思って、要る物は買っておいたさ”と、ぼくはソファーに坐りながら言った。

 そう言うと、リサは、まるで一年前の生活が戻ったように、黙って台所の方へと向かうのだった…


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 この明るい日射しの中を、ぼくたちは駆け抜けた。空気は冷たく、馬も、ぼくたちも白い息を吐いていた。空はよく晴れ、一段と空気は冷えていた。もうどこまで来たろうか、何度も丘を越え、森の中を通って、ここまでやって来た。朝の森の中は、青白い木洩れ陽が射し込み、神秘的ですらあった。振り向くと、リサが、姿勢を正しく、すぐ後ろに、たずなを引いたままの姿で、いた。馬は、元気にあふれているせいか、しきりに首をひねり、一時たりとも、じっとしてはいなかった。そして今は、遥か彼方を見晴るかせる丘の上にぼくたちはいた。リサは、ぼくより少し離れて、後ろ側にいた。緑の牧草地や、森や垣根などが、一望の下に見下ろすことができた。空は青く、広い大地の上を、白い雲がぽっかりと浮かんでいた。

 

 この日の朝、目が覚めると、空が晴れていることはすぐ分かった。薄いカーテンから射し込む光ですぐ分かったのだ。ベッドから起きるとその足で窓辺に歩み寄り、わずかにカーテンを引いてみた。うっすらと朝がすんだ空がゆっくりと明けて行くようだった。しかし、樹木も、雑草も、みんな寒さに凍えているみたいだった。こんな朝、昔なら、セーレンが喜んだことだろう。そしてぼくに、散歩に連れて行くよう、大声を張りあげて催促したに違いない。しかし今は、その物の気配もなく、静かだった。しかしすぐ思い出した。けさは、隣の部屋でリサが眠っていることを。昨夜は、ウィスキーを飲みながら、リサと色んなことを話し、割と早く眠りに着いたことを覚えている。リサはきっとまだ、自分の部屋で眠っているに違いない。しかしけさは、早く出発することを言っておいたはずなのだ…

 斜面の少し後方で、背筋をピンと伸ばし、たずなを引いたままの恰好で馬の上に静止しているリサの表情は、澄み切った空を背景に、さながら春を呼ぶかのごとくだった。彼女の赤いキュロットが、栗毛の明るい馬の体に、まぶしく輝いていた。朝の光が斜めから射し込み、彼女の左半身と馬体とを照らすと共に、その影を明るい草の上に投げかけていた。ぼくはたずなを引いたものの、目標が定まらなかった。このまま一気に、ふもとの、ぼくの見知らぬ村へ降り下って行こうか? それとも再び後ろの丘を越え、さらに知らない別の村へと駆けて行こうか? ふもとの、互いに肩を寄せ合ったような小さな村も、丘の向うの濃い森の緑も、両方ともが誘惑に満ちていた。ぼくたちは、この明るい丘の上で、両方の誘惑で、動きが取れなくなってしまった。

 “ねえ、随分遠くへ来てしまったようだね”と、ぼくはリサに向かって言った、“来た道をちゃんと覚えているだろうか?”

 “分からなくなれば、途中で聞けばいいわ”とリサは答えた。

 “でも随分走ったねえ”とぼくは言った、“リサは疲れないかい?”

 “ううん、大丈夫よ”と微笑みながら、リサは答えた。



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