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我が家に注ぐ日射しは明るかったが、既にもう、かつてのようななごやかさは、この家からは失われていた。屋根の、壁の、窓の、光を反射した輝きは、ぼくには、冬を予感させる氷のように冷たい輝きにしか、感じられなかった。その瞬間、ついさっきまでの、リサと自転車に乗って帰って来たときの、無邪気な、子供のような、楽しく、また浮き浮きしていた気持ちは、突然、胸の中を一吹きの木枯らしが通り過ぎたように、消えてしまった。自転車から降りて、ぼくが急に浮かぬ顔になったので、リサは心配そうにぼくを覗き込んだ。しかし、ぼくにはその理由が言えなかった。そこのドアから、ママが姿を現さないその悲しみをリサに告げることはできなかった。家も庭も落ち着いてそこに存在し、秋のやわらかな日射しを浴びていたが、その快い情景が、実は寂しさ以外の何物でもないことをリサに言うことはできなかった。家も庭も、雑草も立っているぼくたちも、みんな、この逆巻く季節風に吹きさらされ、その中にいて、年月の素早さが人生を急速に枯らして行くのだということを、言うことはできなかった。その悲しみは、ただ胸の中にひとり、秘める他はなかった。ぼくはただ無言の表情のまま、自転車を手に持ち、木の柵をあけるように、リサに指示しただけだった。

 リサは、庭の木戸をあけ、入口にまで続く細い敷石の上に立って、荒涼とした周りを見渡した。それから振り向き、ぼくに言った、

 “何かあるの? 急に黙りこくったりして…”

 “いや、何もないさ”と、ぼくは、平気を装って言った、“もう少しその戸を開けてくれないか。この自転車が通れるように”

 リサはあわてて、木の柵を広げてくれた。

 そんなリサに、ぼくの心の中を伺い知ることはできなかった。ぼくは家に帰って来、風に舞い上がる落葉を目にしながら、人生の凍るような悲しさを、身にしみて感じていたのだった…

 

 自転車を家の裏手に置き終えると、リサに続いて、ぼくの家の中に入った。外は冷たく、非情な顔をしていたが、家の中もまた、冷たく、非情だった。

 

 ぼんやりと窓の外に目を向け、時の流れの非情さを感じていたとき、突然ドアの方で音がしたので振り向いた。

 見ると、リサだった。彼女は、まだほてった顔と、ぬれた髪の毛をしながら、バスローブを身につけ、タオルで髪の毛や、首すじを拭きつつ、部屋に入って来た。髪の毛からはしずくが垂れ、額からは湯気が出ているようだった。

 “暖かくていい気持ちよ”とリサは、タオルでかしげた頭を拭きながら言った、“でもね、さっき、自転車で事故をやったでしょ。お尻のところがあんまり痛むから見たら、案の条、青いあざが出来ていたわ。これくらいの”と言って、リサは、右手の人差指と親指とで丸をつくって見せた、“大きなあざよ”


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 “本当かい?”と、ぼくはリサを見て言った、“そりゃヒドイなあ。そのあざっていうのを、ぼくにも見せてよ”

 “いやよ”とリサは、驚いて言った、“あたしのお尻にできているのよ。兄さんに見せるわけには行かないわ”

 “そりゃ残念だ”と、ぼくはにっこりして言った、“でもそれじゃ、それが本当か嘘か、ぼくには分からないじゃないか”

 “別に分からなくていいでしょ”とリサは言った、“どうせ、そのうちほっときゃ消えてしまうものなんだから… でも本当のところ、まだ少し痛むわ”

 “だからさ、悪いようにはしないから、見せて御覧よ”と、ぼくはもう一度言った。

 リサは、赤いバスローブを着ながら、ぼくを見つめた。

 “それ、本気?”とリサは言った、“本当に、あたしのお尻が見たいの?”

 “ああ、見れるものならね”と、ぼくは言った。

 “やっぱりダメよ”と、リサは急に向きを変えて言った、“そんな恥ずかしいことって、あたしにはできないわ”

 リサはそう言って、居間の小さな鏡の前で、頭を忙しく拭き始めた。

 ぼくは、リサの姿を見るだけで、心が落ち着くのが感じられた。窓の外は、あんなに冷たく、白々しい風景で、窓辺に垂れ下がった木の葉も震えているというのに、部屋の中は、彼女がいるというだけで、何んと暖かなのだろう。彼女の動き、彼女の息づかい、その可愛い二本の足、ただそれを感じるだけで、ぼくに、人生の安心を与えてくれるのだった。さきほどまでの不安な、悲しい思いは消え、幸せな、楽しい気になってくるのだった。たとい今は、この白々しい世の中で彼女と二人だとしても、この家の中にいるぼくたち二人は、互いに手を取り合って、しっかりと生きているのだ。誰も、いかなる自然現象も、また空しさも、この、家の中でしっかりと息づいているぼくたち二人を打ち負かすことはできないだろう。窓の外に嵐が吹き荒れようと、魔の手が伸びようと、家の中にいるぼくたちは、このように安全なのだ。しかもぼくの心は、ここから、数百キロメートル離れたところに住んでいるセーラとも結ばれている…

 “ねえ、ぼくは幸せ者さ”と、ぼくは、ぼくに背中を向けて立っているリサに向かって、話しかけるように言った、“この家にお前がいるから幸せさ。他には何もいらない。この家に、お前がいるだけでいいんだ。それだけで、何もかも、すべてが満たされてしまう…”

 “そんなにあたしって、重要なの?”と言って、リサは髪の毛にブラシを当てながら、振り向いた。その大きな目の表情が、とても魅力的だった。

 “ああ、お前の存在は、ぼくの生きる源なのさ”と、ぼくは言った、“見てごらんよ。外はあんなに広々として、明るいけれど、何もない。――でも家の中には、ぼくのすべてがある。つまり、お前なのさ…”

 リサは、にっこりとしてぼくを見た。

 “相変わらずおかしなことを言う兄さん”と、リサは言った、“でも、あたしを愛してくれているということだけは分かって、嬉しいわ”


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 “ああ、お前を愛している。愛しているともさ”と、ぼくは言った、“心から愛している。お前は、ぼくのすべてでもあり、こんな暗いときの魔よけでもあるのさ”

 “魔よけ?”と、リサは、けげんな顔をして言った。

 “ああ魔よけさ”と、ぼくは答えた、“つまり、人生を虚しくしない為の魔よけなのさ。お前がいると、沈みがちなぼくの心も明るくなってくるからね。そういう意味での、お前は魔よけなのさ”

 “空しさよ去れ! って言うのね”とリサは明るく笑いながら言った、“あたしがそんな役を演じることができるのなら幸せだわ。とりわけ、兄さんの沈んだ気持ちをいやすことができるのならね。ね、その為にあたしがここにいる、と言うこともお忘れなくね”

 なんと心優しい妹なんだろう! ぼくは、再び向き直って髪の毛を解かしている彼女の後ろ姿を見ながら思った。彼女がこの家に帰って来たその理由は、これだったのだ。ひとりでいるぼくを救う為に、その為に彼女は帰って来、しかも今、ぼくの目の前にいる。こんな優しい、けなげな女が、この世の中の他のどこにいるだろう? 彼女はまるで、白馬の騎士であり、ジャンヌ・ダルクなのだ。孤独な城に駆けつけて来た救いの天使なのだ。ぼくは今初めて、そのことに気がついたのだった。そして、別に気取った風もなく、ごく普通に、バスローブを着て髪の毛をブラシですいている彼女の姿を見て、その優しさに、胸が熱くなるのを感じるのだった。

 

 …ぼくは、ぼんやりと窓辺に立って、ゆっくりと移り行く雲の様子を眺めていた。空をおおう分厚い灰色の雲が、窓の外に広がる世界を、寒々したものにさせていた。半分葉を落とした樹木の姿が、一層、寂しさを感じさせるのだろう。ぼくは、もはや、世の中の何も、欲しいとは思わなかった。何をしても、心を充たすものはなく、いつも孤独だった。人並みの生活、笑いや、冗談や、心の通い合う生活、といったものは、ぼくには無縁だった。ぼくの心は、いつも、あの風景のように冷たく、あの雲のように暗かった。かつて、何をしても満たされることはなく、いつも心に空虚を感じていた。この為に、ぼくは、人生に対する恐れを抱くようになった。かつて、世の中を生きて来たことに楽しみを見い出せなかったぼくが、これから先を生きて行くことに恐れを抱いたとしても、無理な話しではない。人並みをまねて、様々なことを試みたところで決して満たされることのなかったぼくが、今後、満たされることになるだろうという保障は何もない。この空虚、ぼくをずっと苦しみ続けて来た、この人生とのズレの感情の原因について、それが本当は何んであるか、についてぼくは知らないでもなかった。それは、ぼくには家族がいない、という唯一のことであり、それ故に、ぼくと同じような境遇にあった悪友たちとかつて行動を共にしたときでさえ、楽しかったどころか、空しさは一層広がるばかりだった。気持ちのすべてをぶっつけることのできる親も、ぼく自身を激励し、導いてくれるはずの親も、ぼくにはいなかった。親のなかったぼくが、いつも、あの寒い空のような感情を抱いて生きて来たぼくが、世間とのつながりを断たれてしまったぼくが、親になれるはずがない…


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 ぼくは、永遠にひとりぽっちだ、とそのときぼくは思った。ぼくを一番よく理解してくれているリサでさえ、このことまでは分かるまい。昔、ぼくたちは一緒の家族の中にいた。その頃は賑やかで幸せだった。しかしそれが突然崩壊し、めぐりめぐって、こんな寂しいところにぼくがひとり住むことになろうとは、そのときの誰が予期することができただろう。あの笑い、あの楽しみは、もう永遠に、あのときだけのもので、再び戻ることはない。そして今、ぼくはこんな寒空の下で、ひとり、孤独に泣きぬれている…

 

 別に、人の生活が羨ましいわけじゃない。だからと言って、ぼくは、ぼくなりの人生を歩んで行く他はないのだ。

 

 ぼくが孤独だった頃、ぼくは、ぼくの夢に出会って、幸せだった。また、永遠の空に出会って幸せだった。いずれも、この世の苦しみを、ほんの束の間でも、忘れさせてくれたのだから…

 

 空に、幾つもの雲が重なり、みんな、この寒さの中で凍えながら暮れて行く頃、ぼくは部屋にいて、リサと一緒だった。音楽はもう流れてはいなかった。音楽によって、夢を見ていた時代は、もう過ぎたのかも知れない。部屋の中は、窓の外で吹き荒れる風の音と、マントルピースの上の置き時計の音以外は、何も聞こえてはいなかった。リサが、そこのソファーに坐って、婦人雑誌を見ながら編み物を無心にしている表情は、昔を思い出させないでもなかったが、黒いカーディガンからブルーのシャツがのぞいて見える彼女の姿は紛れもなく、今のリサの姿だった。肩まで垂らした長い髪の毛や、編み棒を巧みに動かしている、その細い指や手首の動きが、この部屋の中で生きている彼女の魅力を感じさせた。

 

 彼女が訪れたこの日は、大した収穫もなく、暮れようとしていた。しかし、家の近くを回ったことで、彼女は喜んでくれたのだ。ほぼ一年ぶりの帰郷で、彼女は、よく通った道や、近くを流れていた小川や、今も変わらない森や丘の姿に、感嘆の声をあげてくれた。近くの農家の前も通ったし、彼女とよく散策し、木登りさえしたことのある高台へ通じる脇道へも入ったのだ。そのようにして、なんということもなしに、この日の大半は終わった。リサはそこにいたが、彼女は別に、この日のことを考えている様子もなかった。それで、ぼくは読んでいた本を置き、ふと、リサに尋ねてみた。

 “リサ、帰って来て、よかったかい?”

 リサは、不意打ちを食らった為か、驚いたような目をぼくに向けた。そして、編み物を膝の上に乗せると、彼女は、ため息をつくように、目を閉じるようにして、言った。

 “ええ、楽しかったわ”と、彼女の顔はほころんだ、“街にいたときには想像もつかない生活よ。静かだし、空気もいいし、兄さんの連れて行ってくれたところだってよかったわ。すべての点で満点よ”


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 “そう言ってもらえればぼくも嬉しいよ”とぼくは言った、“でもきょう連れて行ったところって、別に大したところじゃないんだ。本当に何もないところばかりでね。でもあしたは、この前約束したように乗馬クラブへ行ってみようよ。ここからそう遠くないところにあるのさ。そしてよければ、ぼくたちも馬に乗ってみようよ”

 “本当?”とリサは、目を輝かせたように言った、“乗馬って本当に久し振りよ。うまく乗れるかしら? それで兄さんの方は、練習を積んだの?”

 “ああ約束通り、少しはね”と、ぼくは笑いながら答えた、“お前がかなり行けそうなことを言っていたから、それに遅れを取るまいと、少しは経験を積んださ…”

 “でもあたしも、ここ何年って乗っていないのよ”とリサは言った、“伯母さんの家に住んでいた頃、ちょっと乗れるようになったぐらいで、うまく乗れるか…”

 “何、それぐらいの経験を積んでおれば大丈夫さ”とぼくは言った、“すぐ乗れるようにもなるし、できれば遠乗りにも行って見よう…”

 リサは嬉しそうな顔をして、窓の外を見た。外の木立は、葉を落とした黒いシルエットとなり、空がゆっくりと暮れていた。最後の薄紫色の反映が空をおおい、西の空へと向くにつれ、それは、だいだい色へと変わっていた。しかし、その明るい場所も、もうしばらくだろう。秋の厳しい寒さが、暗い空の色からもにじみ出、もう間もなく、闇がおおい尽くすだろう。このようにしてこの日も、吹き荒れる風と共に暮れて行こうとしているのだ。リサは、まだ完全には暮れぬ外の景色の丘の向うへと、早くも胸を踊らせているようだった。しかし、その丘の上には、早くも一番星が輝き始めていた。ぼくたちがこの昼、訪れた小川や、草原や、森は、今まさに、夕闇におおわれて、深い眠りにつこうとしていた。もう外は、その大部分が闇の中だ。そのうち、太陽の最後の叫び声すら、完全に消してしまうことになるだろう。しかし、ぼくたちのこの部屋の中は、シャンデリアの白い明かりが輝き渡り、部屋の隅まで明るかった。

 “あした、晴れるといいわね”と、リサは、窓から目をぼくの方に向けて言った、“馬に乗れば、きょうよりもずっと遠くまで行くことができるわ。ねえ、海まで行ければいいんだけどね…”

 “それはちょっと無理さ”とぼくは答えた、“車をぶっ飛ばしても軽く一時間以上はかかるんだからね。でも、あちこち行けるのは確かさ。そのことはぼくも余りやったことがないんだ”

 “じゃ、あしたを楽しみにしているわ”と言って、リサは立ち上がった、“そろそろ夕飯の支度をしなくちゃね。材料は冷蔵庫に入っているの?”

 “お前が来ることを思って、要る物は買っておいたさ”と、ぼくはソファーに坐りながら言った。

 そう言うと、リサは、まるで一年前の生活が戻ったように、黙って台所の方へと向かうのだった…



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