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 “少し暗くなったようね”と、リサは気分を変えて言った、“そろそろここを立ち去りましょうか”

 ぼくも、周りの景色と共に、空を見上げた。ちょうど、あの頃見たような空だった。あのとき、ぼくは都会で暮らしていた。そして灰色の、苦の生活の中から、空を見上げ、田舎での静かな生活を渇望したのだった。あのとき、その同じ空が、こんな寂しい、無味乾燥な田舎にまで広がっていたのだとは、どうして思いつくことができただろう。寂しさや苦しみは、都会にいても、田舎にいても、結局同じことなのだ――その人自身が置かれている状況というものが変わらない限りは…

 “そうだね、そろそろ家に帰ろうか”そう言って、ぼくは立ちあがった。そして振り向き、リサを見つめて言った、“つい寂しい話しをしてしまって御免ね。こんなこと、言うつもりはなかったんだ。でも、心の中で感じている本当のことだから、それに、相手がお前だったから、つい洩らしてしまったのさ。余り深刻に考えないで、軽く流しておくれよ、ね”

 “いいのよ、気にしなくても”と言って、リサも岩から体を離して立ち上がった。“あたしだからと思って、何んでも話してよ。あたしたちは兄妹よ、秘密なんて必要がないのよ。気がねだってそうよ。あたしは何んでも聞くし、あたしだって、兄さんに相談もするわ”

 “ありがとう、そう言ってくれて”とぼくは言って、草むらに倒してあった自転車を起こした、“じゃ、気を付けて、後ろに乗りなよ”そう言って、ぼくはサドルにまたがった。

 リサは再び、ぼくを抱きかかえるようにして、自転車の後ろに腰掛けた。

 “ちょうどこんな空さ”と言って、ぼくは自転車を発進させた、“都会のまっただ中でぼくに虚しさを感じさせた帳本人は。あれからもう何年になるだろう。再び寂しい秋がやって来たんだ。時はくり返すと言うけれど、本当のことなんだね。そんな気がするよ。そうは思わないかい?”

 “寂しいこともあるけど、楽しいこともあるのよ”と、リサは言った、“それが人生というものよ…”

 ぼくたちを乗せた自転車は、冷たい風を切って、緑の丘の中を、どこまでも走って行った…

 

 その日の午後はゆっくりと過ぎて行った。家に戻って軽い昼食を終えてから、リサは庭に出て、そこに咲いている花や木を見て回わった。ぼくは、庭に出ているそんな彼女の姿を見ながら、レコードを聞き、本を膝に広げたまま、めい想にふけった。リサが帰って来て、再びあの日がよみがえったのだ。一年以上も前の、リサと二人で暮らしていたあれらの日々が… あのとき、ぼくも、暮らしながら、このような幸せな日々がいつまでも続いて行くとは思ってもいなかった。予期していた通り、やがてリサは都会へ行くと言い出し、この家から出て行った。


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それを初めて聞かされたときはショックだったし、生活の空虚さは、彼女が出て行ってからもしばらくの間は続いた。しかしそのうち、苦しさは癒え、ひとり暮らしの生活にも慣れるようになった。ひとり暮らしだからと言って、生き物は飼うまい、とぼくは決意した。生き物のやがて滅びる姿を見る悲しさを思うと、それに耐えられないと思ったからだった。ぼくは、リサが都会で暮らしている姿を想像し、それを支えに、ひとり暮らしの寂しさをも克服して来た。――そしてあれから一年が経った今、リサは再び、ぼくのふところへと帰って来たのだ、前よりも一層、女らしく、美しくなって…

 リサが、庭に生い茂った雑草の中に分け入り、そこに咲いている黄色い花を手にし、熱心に見つめている姿を窓から見ながら、あのときと一緒だとぼくは思った。一年前に目にした情景が再びよみがえったのだ。あの頃、そんな彼女の姿をどれほど多く目にし、また、心行くまで眺めていたことだろう。彼女は、ぼくに見つめられることを気にはしていなかったし、ぼくも、彼女を自然に見つめ、やがて夕暮れとなり、一番星が見えるまで、彼女を眺め暮らしていたのだった。彼女がそこに居て、呼吸をしていると思うだけでぼくは幸福だった。一日は、満たされた気持ちと共に暮れて行った。

 長いあいだ、そうした幸せを忘れていたが、今再び、あのときの幸せな気持ちをぼくは取り戻したのだった。彼女は、窓から眺めているぼくに気が付き、振り向いた。

 “ねえ、あれは何んという花なの?”と、リサは、ぼくの方にやって来て尋ねた。

 “さあ知らない。雑草だよ”と、ぼくは答えた、“お前がいた頃ほど、ぼくは庭の手入れをしていなくてね。御覧の通り、お前がいなくなってからというもの、雑草の天国になってしまったようだ。ときどき引き抜くんだけど、この通りさ”

 “そう言えば、あたしが出て行ったときに比べて草が多くなったみたいね”とリサは、つくづくと、感慨を込めた表情で庭を眺めた。

 “でも、それほど変わっちゃいない”と、ぼくはすぐ弁護した、“何もかも、お前が出て行ったとき、そのままさ。ぼくは別に、手を入れたり、変えようと思ったことなんか一度もないんだからね”

 “でも、庭って、手入れをしなければ自然に荒れて行くわ”と、リサは半分嘆くようにぼくに言った。

 “心配には及ばないさ。時々手入れをしているんだから”と、ぼくは、平然とした態度で答えた。

 

 リサはやがて、家の中に入り、ぼくのいる居間のソファーのところにやって来て、腰を降ろした。

 “ふーっ、疲れたわ”と、リサは腰を降ろすなり言った、“少し体が冷えたようだわ。兄さんはお風呂に入らないの?”

 ぼくはその言葉でリサの方を向いた、“風呂に入りたけりゃ先に入るがいい。ぼくは後からでいいさ”


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 “じゃお言葉に甘えさせてもらって”とリサは言って立ち上がった、“体も少し汚れたようだから今から風呂に入るわ”

 リサはそう言って、ひとり部屋から出て行った。ぼくは出て行く彼女の後ろ姿を、長い髪の毛を肩まで垂らし、黒いカーディガンとジーンズ姿の彼女の後ろ姿を、それとなく目で追った。彼女がドアから消え去ると、ぼくは、ひとりになった気分を味わった。しかしそれは、周りに誰もいない一人の気分ではなく、常にそこに誰かがいるという一人の気分だった…

 

 リサが浴室に入っている間、葉の散った寒そうな風景や風の音を聞きながら、ただぼんやりと時を過ごしていた。青い空には、ゆったりと白い雲が流れていた。すべてが昔のようで、現在という時間の中を過ぎて行っている。子供の頃、未知なる未来への願いを乗せて眺めた空も、苦い青春時代、絶望の底から見上げた空も、そして今、過去を振り返りつつ、その意味を確かめようと振り向き、見上げた空も、少しも変わってはいない。ただ、ぼくたちだけが、年をとって行っているにすぎないのだ。あらゆることが忘れ去られ、また別のことが生まれて来るだろう。しかし、ぼくとは関係のない、それら新しいことに、ぼくは興味を持てるのか? ぼくはあくまでも、自分の生きた軌跡にこそ、興味を振り向けるだろう。それは、ぼくの心の軌跡であると同時に、セーラとリサの生きた軌跡でもあるのだ…

 

 さて、ぼくは何を語ろうと言うのだろう? ついさっき、ぼくたちは、この寂しい家に帰って来たのだった。その家の庭は、荒れたようで、白い壁のところどころに汚れさえ付いていた。煙突のある瓦ぶきの落ち着いたこの家は、やがて訪れる冬を予感させるような荒涼とした風景の中に、ひっそりと建っていた。その見かけの古さと、寂しさの中に、遠い年輪を感じないでもない家ではあったが、そこへぼくたちは、自転車に乗って帰って来た。まるで子供のように無邪気に、顔をほてらせながら、庭の垣根の前に着くと、まず、リサが顔をほころばせながら跳び降りた。続いてぼくも。しかし、家は無言だった。物も言わず、まるで自己を閉ざしているかのように、冷たい季節風に吹きさらせながら、そこに建っていた。一方、ぼくらはまるで子供だった。子供のように楽しい、明るい気分になって、この寂しい場所に立つ一軒家に帰って来た。葉を落とした樹木が、風に揺れてざわざわと音を立てていた。黒い不気味な森が、家の裏手に、まるでこの吹きさらしの一軒家を呑み込むかのように、広がっていた。樹木は互いに葉を落とし、ぶざまに延びた枝どうしが、互いにこすれ合っていた。他の方向は、ただ広がる荒れ野と、ところどころに並んで立っている貧弱な木立の姿と… もしぼくらが、本当に子供だったとするなら、このようにして帰って来たとき、家の中から必ず女の呼び声がしたことだろう。そこの、表のドアが開いて、ママが姿を現したに違いない。そんな日も、遠い昔には確かにあったし、短い年月が、あの流れて行く雲のように、この冷たい季節風のように、いつのまにか、あれらの日々を、おおい隠してしまったのだ。


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我が家に注ぐ日射しは明るかったが、既にもう、かつてのようななごやかさは、この家からは失われていた。屋根の、壁の、窓の、光を反射した輝きは、ぼくには、冬を予感させる氷のように冷たい輝きにしか、感じられなかった。その瞬間、ついさっきまでの、リサと自転車に乗って帰って来たときの、無邪気な、子供のような、楽しく、また浮き浮きしていた気持ちは、突然、胸の中を一吹きの木枯らしが通り過ぎたように、消えてしまった。自転車から降りて、ぼくが急に浮かぬ顔になったので、リサは心配そうにぼくを覗き込んだ。しかし、ぼくにはその理由が言えなかった。そこのドアから、ママが姿を現さないその悲しみをリサに告げることはできなかった。家も庭も落ち着いてそこに存在し、秋のやわらかな日射しを浴びていたが、その快い情景が、実は寂しさ以外の何物でもないことをリサに言うことはできなかった。家も庭も、雑草も立っているぼくたちも、みんな、この逆巻く季節風に吹きさらされ、その中にいて、年月の素早さが人生を急速に枯らして行くのだということを、言うことはできなかった。その悲しみは、ただ胸の中にひとり、秘める他はなかった。ぼくはただ無言の表情のまま、自転車を手に持ち、木の柵をあけるように、リサに指示しただけだった。

 リサは、庭の木戸をあけ、入口にまで続く細い敷石の上に立って、荒涼とした周りを見渡した。それから振り向き、ぼくに言った、

 “何かあるの? 急に黙りこくったりして…”

 “いや、何もないさ”と、ぼくは、平気を装って言った、“もう少しその戸を開けてくれないか。この自転車が通れるように”

 リサはあわてて、木の柵を広げてくれた。

 そんなリサに、ぼくの心の中を伺い知ることはできなかった。ぼくは家に帰って来、風に舞い上がる落葉を目にしながら、人生の凍るような悲しさを、身にしみて感じていたのだった…

 

 自転車を家の裏手に置き終えると、リサに続いて、ぼくの家の中に入った。外は冷たく、非情な顔をしていたが、家の中もまた、冷たく、非情だった。

 

 ぼんやりと窓の外に目を向け、時の流れの非情さを感じていたとき、突然ドアの方で音がしたので振り向いた。

 見ると、リサだった。彼女は、まだほてった顔と、ぬれた髪の毛をしながら、バスローブを身につけ、タオルで髪の毛や、首すじを拭きつつ、部屋に入って来た。髪の毛からはしずくが垂れ、額からは湯気が出ているようだった。

 “暖かくていい気持ちよ”とリサは、タオルでかしげた頭を拭きながら言った、“でもね、さっき、自転車で事故をやったでしょ。お尻のところがあんまり痛むから見たら、案の条、青いあざが出来ていたわ。これくらいの”と言って、リサは、右手の人差指と親指とで丸をつくって見せた、“大きなあざよ”


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 “本当かい?”と、ぼくはリサを見て言った、“そりゃヒドイなあ。そのあざっていうのを、ぼくにも見せてよ”

 “いやよ”とリサは、驚いて言った、“あたしのお尻にできているのよ。兄さんに見せるわけには行かないわ”

 “そりゃ残念だ”と、ぼくはにっこりして言った、“でもそれじゃ、それが本当か嘘か、ぼくには分からないじゃないか”

 “別に分からなくていいでしょ”とリサは言った、“どうせ、そのうちほっときゃ消えてしまうものなんだから… でも本当のところ、まだ少し痛むわ”

 “だからさ、悪いようにはしないから、見せて御覧よ”と、ぼくはもう一度言った。

 リサは、赤いバスローブを着ながら、ぼくを見つめた。

 “それ、本気?”とリサは言った、“本当に、あたしのお尻が見たいの?”

 “ああ、見れるものならね”と、ぼくは言った。

 “やっぱりダメよ”と、リサは急に向きを変えて言った、“そんな恥ずかしいことって、あたしにはできないわ”

 リサはそう言って、居間の小さな鏡の前で、頭を忙しく拭き始めた。

 ぼくは、リサの姿を見るだけで、心が落ち着くのが感じられた。窓の外は、あんなに冷たく、白々しい風景で、窓辺に垂れ下がった木の葉も震えているというのに、部屋の中は、彼女がいるというだけで、何んと暖かなのだろう。彼女の動き、彼女の息づかい、その可愛い二本の足、ただそれを感じるだけで、ぼくに、人生の安心を与えてくれるのだった。さきほどまでの不安な、悲しい思いは消え、幸せな、楽しい気になってくるのだった。たとい今は、この白々しい世の中で彼女と二人だとしても、この家の中にいるぼくたち二人は、互いに手を取り合って、しっかりと生きているのだ。誰も、いかなる自然現象も、また空しさも、この、家の中でしっかりと息づいているぼくたち二人を打ち負かすことはできないだろう。窓の外に嵐が吹き荒れようと、魔の手が伸びようと、家の中にいるぼくたちは、このように安全なのだ。しかもぼくの心は、ここから、数百キロメートル離れたところに住んでいるセーラとも結ばれている…

 “ねえ、ぼくは幸せ者さ”と、ぼくは、ぼくに背中を向けて立っているリサに向かって、話しかけるように言った、“この家にお前がいるから幸せさ。他には何もいらない。この家に、お前がいるだけでいいんだ。それだけで、何もかも、すべてが満たされてしまう…”

 “そんなにあたしって、重要なの?”と言って、リサは髪の毛にブラシを当てながら、振り向いた。その大きな目の表情が、とても魅力的だった。

 “ああ、お前の存在は、ぼくの生きる源なのさ”と、ぼくは言った、“見てごらんよ。外はあんなに広々として、明るいけれど、何もない。――でも家の中には、ぼくのすべてがある。つまり、お前なのさ…”

 リサは、にっこりとしてぼくを見た。

 “相変わらずおかしなことを言う兄さん”と、リサは言った、“でも、あたしを愛してくれているということだけは分かって、嬉しいわ”



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