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ぼくの孤独癖、ときどき起こるどうにもならない悲観論――これを、キルケゴールは「憂欝」と名づけたけどね、それらは、あのとき体験した絶望の痕跡なのさ。それらは深ければ深いほど、大きければ大きいほど、ずっと後々まで長引いて行くものなんだ…”

 “それで兄さんは見つめて行こうって言うのね”とリサは小さく言った、“これから先もずーっと、世間から身を引いて、たったひとりで…”

 “この静かな大地を見つめていると”と、ぼくは言った。目は、広々とした、森や丘や、青がすむ地平線までも見つめていた。“ぼくは分からなくなって来るのさ。ぼくの過去は何んだったかって言うことがね。あの都会。あの裏通りのあのアパート。あそこで、寒い秋の午後過ごしたことは何んだったのだろう? ぼくは、お前たちが勤めに出かけた後、ひとりで出かけ、あてもなく街をさ迷い、早過ぎる夕暮れに、どこからともなくひとりで帰って来た。アパートには誰もいなかった。孤独を感じたのはそのときさ。昼間もずっと孤独で、人生について考え事をしていたけれどね、本当に孤独を感じたのは、誰もいないアパートの部屋に帰って来たそのときだったのさ。この世でぼくはひとりなのだということを強く感じた。街を通り過ぎる誰も、ぼくとは何んの関係もなくて、街は、ぼくの手の届かない、知らないところで営みを続けていた。街を歩いていてぼくの気を誘ったものと言えば、風に舞う落葉や、その日暮らしののら犬や、貧しい服装をして遊んでいる子供の姿ぐらいなものだった。ぼくは昼間、ずっと考えていたものさ、子供の頃考え、夢見ていた理想の生活、理想の街はどこに行けばあるのだろう? そんなものはもともとどこにも存在しないものだったのかも知れないけれど、それにしても現実は余りにもお粗末で、残酷なものだった。それを知れば知るほど、ぼくの孤独と絶望は深まって行ったのさ…”

 リサは黙って、ぼくの言葉に耳を傾けていた。

 “…でもまるで夢のように過ぎ去ってしまったあれらの日々”と、ぼくは、いとおしむように言った、“ぼくが置き去りにして来たあの都会での生活、それらは何んだったのだろう? 今、ここで暮らしていると、あの頃の生活が、まるで映画の場面のように、目に浮かんで来るのさ。ぼくは、あのすさみ切った心の時代に、ただひとつ、その中に射し込んで来る一条の光のようなものを感じさせてくれたものがある。それは、あの汚れて、疲れ切ったような建物の合間からのぞいて見える澄んだ青い空と、夢誘うような美しい雲の姿とだった。その美しい空を見るたびに、ぼくの心は無性に、あの子供の頃のような田舎の生活がしてみたい、と思うようになった。そこでは、不要なものは何もなくて、雲や空は一段と身近かなものとして感じられるようになるだろう。つまり、今、ここで、こうしているような生活を夢見たものなのさ。ところが、いざその夢が実現して、現在のような暮らしをしてみたところが、何もないということが分かるのさ。ここにあるのはただ、静かな自然と、空と、大地だけなんだからね。人生って、皮肉なものさ、全く…”

 “それは、兄さんが孤独だからよ”と、リサはポツリと言った、“孤独だから、何をしても満たされない…”


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 “あるいはそうかもね”と、ぼくは言った、“確かに子供の頃は満ち足りていた。そこには家族というものがあったからね。ところが今は、何もない。たったひとりぽっちさ。ひとりぽっちで、こんな寂しい大地に、ぼくは暮らしているのさ。こんなんじゃ何をしても、満たされるはずはないだろうね…”

 “そこまで分かっているんじゃ、兄さんもまた家族を造ればいいじゃない”と、リサは言った、“そうすれば、孤独や絶望なんてものは、いっぺんに吹っ飛んでしまうわ”

 “家族ねえ…”とぼくは考えるように言った。ぼくの家族って、どんなだろう? そのことを思うと、言葉を継ぐこともできなかった。ぼくがこの世で愛した女。それは何人かいた。しかしみんな、夢の中にとどまった。一緒に暮らすなどと言うことは思いも寄らないことだった。一つは体、一つは心が病んでいて生活は無理だったのだ。その状態は、今は続いていないと言うことはできない… そんなに簡単にできるものなら、ぼくは何も、苦しんだりはしない…

 “家族――そういうものがあればねえ…”と、しばらくしてからぼくは言った、“しかし、夢の又夢さ、今のぼくには。自分ひとりだけの生活でも、手一杯なのさ。誰かと一緒になるなんて、想像もつかないことなんだ…”

 “…でも、一人暮らしの限界を兄さんは知っているんでしょ”とリサは言った。 

 “いや、限界までは行っちゃいない”と、ぼくは否定した、“そこまで行けば、気が触れる、ということを意味するんだからね。ぼくは本当に、気が触れればどんなに幸せなことだろう、と思ったことがある。もう何も分からなくなって、昼と夜、都会と田舎、現実と夢との境界もなくなって、人の言葉も耳に入らなくなって、ただ静かに、時が過ぎ行くままに、あの終わりが来る日まで、余生を全うして行くだけの人生なんだからね。そうなれば何も思い悩むことなんかない。ただ時の流れるままに身をゆだねるだけでいいのさ。その心の中には、人生のたそがれに向かって、どんな神秘や、不可思議や、詩的イメージや、美の世界が住まわっているのか、もはや知るよしもない。しかしぼくは、その限界まではまだ行ってはいない。今のぼくは、孤独だけれども正気さ。ぼくの精神は、狂気になるには余りにも自我が強過ぎるんだ…”

 “それが、兄さんを人に近づけるのを困難にしているとも言えるんでしょ”とリサは言った。

 “あるいはね”とぼくは言った、“でも、どうしようもないんだ。確かにリサの言うようにぼくは、一人暮らしの限界というものを知っている。その行き着く先が狂気であるということも。今、自我が強いと言ったけれども、本当は、その反対なのさ。ただ単に強がりを見せているだけで、本当は不安で気も狂わんばかりなのさ。でも、今のぼくは、これしかできない。なんとか気をしっかり持ちつつ、この寂しい田舎で一人暮らしを続ける他ないんだ…”

 薄もやのかかったような空は、明るい日射しを送ったかと思えば、またすぐ日光のない膚寒い状態を作り出しもした。空は、一部の明るい箇所を除き、陰うつで、どんよりしたものになった。


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 “少し暗くなったようね”と、リサは気分を変えて言った、“そろそろここを立ち去りましょうか”

 ぼくも、周りの景色と共に、空を見上げた。ちょうど、あの頃見たような空だった。あのとき、ぼくは都会で暮らしていた。そして灰色の、苦の生活の中から、空を見上げ、田舎での静かな生活を渇望したのだった。あのとき、その同じ空が、こんな寂しい、無味乾燥な田舎にまで広がっていたのだとは、どうして思いつくことができただろう。寂しさや苦しみは、都会にいても、田舎にいても、結局同じことなのだ――その人自身が置かれている状況というものが変わらない限りは…

 “そうだね、そろそろ家に帰ろうか”そう言って、ぼくは立ちあがった。そして振り向き、リサを見つめて言った、“つい寂しい話しをしてしまって御免ね。こんなこと、言うつもりはなかったんだ。でも、心の中で感じている本当のことだから、それに、相手がお前だったから、つい洩らしてしまったのさ。余り深刻に考えないで、軽く流しておくれよ、ね”

 “いいのよ、気にしなくても”と言って、リサも岩から体を離して立ち上がった。“あたしだからと思って、何んでも話してよ。あたしたちは兄妹よ、秘密なんて必要がないのよ。気がねだってそうよ。あたしは何んでも聞くし、あたしだって、兄さんに相談もするわ”

 “ありがとう、そう言ってくれて”とぼくは言って、草むらに倒してあった自転車を起こした、“じゃ、気を付けて、後ろに乗りなよ”そう言って、ぼくはサドルにまたがった。

 リサは再び、ぼくを抱きかかえるようにして、自転車の後ろに腰掛けた。

 “ちょうどこんな空さ”と言って、ぼくは自転車を発進させた、“都会のまっただ中でぼくに虚しさを感じさせた帳本人は。あれからもう何年になるだろう。再び寂しい秋がやって来たんだ。時はくり返すと言うけれど、本当のことなんだね。そんな気がするよ。そうは思わないかい?”

 “寂しいこともあるけど、楽しいこともあるのよ”と、リサは言った、“それが人生というものよ…”

 ぼくたちを乗せた自転車は、冷たい風を切って、緑の丘の中を、どこまでも走って行った…

 

 その日の午後はゆっくりと過ぎて行った。家に戻って軽い昼食を終えてから、リサは庭に出て、そこに咲いている花や木を見て回わった。ぼくは、庭に出ているそんな彼女の姿を見ながら、レコードを聞き、本を膝に広げたまま、めい想にふけった。リサが帰って来て、再びあの日がよみがえったのだ。一年以上も前の、リサと二人で暮らしていたあれらの日々が… あのとき、ぼくも、暮らしながら、このような幸せな日々がいつまでも続いて行くとは思ってもいなかった。予期していた通り、やがてリサは都会へ行くと言い出し、この家から出て行った。


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それを初めて聞かされたときはショックだったし、生活の空虚さは、彼女が出て行ってからもしばらくの間は続いた。しかしそのうち、苦しさは癒え、ひとり暮らしの生活にも慣れるようになった。ひとり暮らしだからと言って、生き物は飼うまい、とぼくは決意した。生き物のやがて滅びる姿を見る悲しさを思うと、それに耐えられないと思ったからだった。ぼくは、リサが都会で暮らしている姿を想像し、それを支えに、ひとり暮らしの寂しさをも克服して来た。――そしてあれから一年が経った今、リサは再び、ぼくのふところへと帰って来たのだ、前よりも一層、女らしく、美しくなって…

 リサが、庭に生い茂った雑草の中に分け入り、そこに咲いている黄色い花を手にし、熱心に見つめている姿を窓から見ながら、あのときと一緒だとぼくは思った。一年前に目にした情景が再びよみがえったのだ。あの頃、そんな彼女の姿をどれほど多く目にし、また、心行くまで眺めていたことだろう。彼女は、ぼくに見つめられることを気にはしていなかったし、ぼくも、彼女を自然に見つめ、やがて夕暮れとなり、一番星が見えるまで、彼女を眺め暮らしていたのだった。彼女がそこに居て、呼吸をしていると思うだけでぼくは幸福だった。一日は、満たされた気持ちと共に暮れて行った。

 長いあいだ、そうした幸せを忘れていたが、今再び、あのときの幸せな気持ちをぼくは取り戻したのだった。彼女は、窓から眺めているぼくに気が付き、振り向いた。

 “ねえ、あれは何んという花なの?”と、リサは、ぼくの方にやって来て尋ねた。

 “さあ知らない。雑草だよ”と、ぼくは答えた、“お前がいた頃ほど、ぼくは庭の手入れをしていなくてね。御覧の通り、お前がいなくなってからというもの、雑草の天国になってしまったようだ。ときどき引き抜くんだけど、この通りさ”

 “そう言えば、あたしが出て行ったときに比べて草が多くなったみたいね”とリサは、つくづくと、感慨を込めた表情で庭を眺めた。

 “でも、それほど変わっちゃいない”と、ぼくはすぐ弁護した、“何もかも、お前が出て行ったとき、そのままさ。ぼくは別に、手を入れたり、変えようと思ったことなんか一度もないんだからね”

 “でも、庭って、手入れをしなければ自然に荒れて行くわ”と、リサは半分嘆くようにぼくに言った。

 “心配には及ばないさ。時々手入れをしているんだから”と、ぼくは、平然とした態度で答えた。

 

 リサはやがて、家の中に入り、ぼくのいる居間のソファーのところにやって来て、腰を降ろした。

 “ふーっ、疲れたわ”と、リサは腰を降ろすなり言った、“少し体が冷えたようだわ。兄さんはお風呂に入らないの?”

 ぼくはその言葉でリサの方を向いた、“風呂に入りたけりゃ先に入るがいい。ぼくは後からでいいさ”


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 “じゃお言葉に甘えさせてもらって”とリサは言って立ち上がった、“体も少し汚れたようだから今から風呂に入るわ”

 リサはそう言って、ひとり部屋から出て行った。ぼくは出て行く彼女の後ろ姿を、長い髪の毛を肩まで垂らし、黒いカーディガンとジーンズ姿の彼女の後ろ姿を、それとなく目で追った。彼女がドアから消え去ると、ぼくは、ひとりになった気分を味わった。しかしそれは、周りに誰もいない一人の気分ではなく、常にそこに誰かがいるという一人の気分だった…

 

 リサが浴室に入っている間、葉の散った寒そうな風景や風の音を聞きながら、ただぼんやりと時を過ごしていた。青い空には、ゆったりと白い雲が流れていた。すべてが昔のようで、現在という時間の中を過ぎて行っている。子供の頃、未知なる未来への願いを乗せて眺めた空も、苦い青春時代、絶望の底から見上げた空も、そして今、過去を振り返りつつ、その意味を確かめようと振り向き、見上げた空も、少しも変わってはいない。ただ、ぼくたちだけが、年をとって行っているにすぎないのだ。あらゆることが忘れ去られ、また別のことが生まれて来るだろう。しかし、ぼくとは関係のない、それら新しいことに、ぼくは興味を持てるのか? ぼくはあくまでも、自分の生きた軌跡にこそ、興味を振り向けるだろう。それは、ぼくの心の軌跡であると同時に、セーラとリサの生きた軌跡でもあるのだ…

 

 さて、ぼくは何を語ろうと言うのだろう? ついさっき、ぼくたちは、この寂しい家に帰って来たのだった。その家の庭は、荒れたようで、白い壁のところどころに汚れさえ付いていた。煙突のある瓦ぶきの落ち着いたこの家は、やがて訪れる冬を予感させるような荒涼とした風景の中に、ひっそりと建っていた。その見かけの古さと、寂しさの中に、遠い年輪を感じないでもない家ではあったが、そこへぼくたちは、自転車に乗って帰って来た。まるで子供のように無邪気に、顔をほてらせながら、庭の垣根の前に着くと、まず、リサが顔をほころばせながら跳び降りた。続いてぼくも。しかし、家は無言だった。物も言わず、まるで自己を閉ざしているかのように、冷たい季節風に吹きさらせながら、そこに建っていた。一方、ぼくらはまるで子供だった。子供のように楽しい、明るい気分になって、この寂しい場所に立つ一軒家に帰って来た。葉を落とした樹木が、風に揺れてざわざわと音を立てていた。黒い不気味な森が、家の裏手に、まるでこの吹きさらしの一軒家を呑み込むかのように、広がっていた。樹木は互いに葉を落とし、ぶざまに延びた枝どうしが、互いにこすれ合っていた。他の方向は、ただ広がる荒れ野と、ところどころに並んで立っている貧弱な木立の姿と… もしぼくらが、本当に子供だったとするなら、このようにして帰って来たとき、家の中から必ず女の呼び声がしたことだろう。そこの、表のドアが開いて、ママが姿を現したに違いない。そんな日も、遠い昔には確かにあったし、短い年月が、あの流れて行く雲のように、この冷たい季節風のように、いつのまにか、あれらの日々を、おおい隠してしまったのだ。



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