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 だって、本当に分からないからだ。既に苦い経験を積んでいるぼくに、都会で再び生きて行けるものか、全く見当もつかないからだった。無理して都会で住むよりも、こうして静かに田舎で暮らしている方が、今ははるかにいい。しかしこの生活は、未来へ羽ばたく為の小休止と言うよりも、もう死んだも同然なのだ。このような生活を今後も続ける限り、ぼくはもう、生きているとさえ言えない…

 “ぼくは生活がしたい”と、やがて、ぼくはポツリと言った。それは、心の奥底から込み上げて来たぼくの本音だった。“あの雲のようにふうわりした、捕らえどころのない、あいまいもことしたこんな生活じゃなくて、もっと地に着いた、強固な、そして生活実感のある、そんな生活なのさ。それをするには、恐らく、あのキルケゴールのように、ぼくは奇蹟を必要とするのかも知れない。つまり、失われたものをすべて回復する為には、ぼくには奇蹟が必要なのさ。それがなくてもやって行けるものなら…”

 “兄さんが何に苦しんでいるのか、あたしには分からない”リサは、心配気な瞳で、ぼくを見つめながら言った。

 “つまり、どうにもならないぼくの悲観論なのさ”と、ぼくは答えた、“他のことはともかく、ぼくは、この悲観論だけ消し去ることはできない。――人生を悲観的に見てしまうこの習性を、恐らくぼくは、あの苦難の青春時代に習い知ったのさ。それほど、ぼくのあの時代は暗く、絶望的だった。これを拭い去るには、もはや奇蹟を待つより他はない。だって、こんな暗い見方、生き方をするぼくを、社会の誰も歓迎はしてくれないし、受け容れてくれるはずもないのだからね。ぼくは知っているんだ。人生の絶望とは、この絶望的な気持ちからやってくるんだ、ということを――”

 リサは黙って聞いていた。風が、その髪の毛を顔に振りかけるその表情からは、歓びが消えていた。深刻な表情で、目は、遠くを、地平線の彼方を見つめていた。

 “…だって、もう二度と帰って来ない青春時代”と、ぼくは、真剣な表情で続けた、“あれが不幸でなかったと言えば嘘になるだろう。世の中には、そういう体験を知らずに過ごす人も多いだろうけど、不幸にして、ぼくは知ってしまったんだ。ほとんど自暴自棄の、未来のない、埋没した、暗い青春時代というものをね。それは、お前たちだって、見て知っているはずのものさ。幸い、お前は、心の中までは暗くならなかった。それで救われたのさ。ところがぼくと来れば、心の中まで、もう真暗だったんだ。実際の生活以上に、心の方が暗かったのかも知れない。ぼくが精神的になんとか立ち直ることが出来たのは、全く、お前たちのおかげだったと言っていいだろう。お前たちと出会わなければ、ぼくは今頃、どうなっていたか全く分からない…”

 “兄さんが暗かった時代は、あたしも知っているわ”と、リサは言った、“兄さんを立ち直らせる為に、姉さんが一番骨を折ったのよ。――でも、その青春時代が暗かったからと言って、今さらどうなのよ?”

 “ぼくは、その暗い青春時代を、いつまでも見続けて行きたい”と、ぼくはポツリと言った、“だって、忘れることは出来ないし、それどころか今だって確実にそのことは尾を引いているんだから。生活の安定した今だってね。


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ぼくの孤独癖、ときどき起こるどうにもならない悲観論――これを、キルケゴールは「憂欝」と名づけたけどね、それらは、あのとき体験した絶望の痕跡なのさ。それらは深ければ深いほど、大きければ大きいほど、ずっと後々まで長引いて行くものなんだ…”

 “それで兄さんは見つめて行こうって言うのね”とリサは小さく言った、“これから先もずーっと、世間から身を引いて、たったひとりで…”

 “この静かな大地を見つめていると”と、ぼくは言った。目は、広々とした、森や丘や、青がすむ地平線までも見つめていた。“ぼくは分からなくなって来るのさ。ぼくの過去は何んだったかって言うことがね。あの都会。あの裏通りのあのアパート。あそこで、寒い秋の午後過ごしたことは何んだったのだろう? ぼくは、お前たちが勤めに出かけた後、ひとりで出かけ、あてもなく街をさ迷い、早過ぎる夕暮れに、どこからともなくひとりで帰って来た。アパートには誰もいなかった。孤独を感じたのはそのときさ。昼間もずっと孤独で、人生について考え事をしていたけれどね、本当に孤独を感じたのは、誰もいないアパートの部屋に帰って来たそのときだったのさ。この世でぼくはひとりなのだということを強く感じた。街を通り過ぎる誰も、ぼくとは何んの関係もなくて、街は、ぼくの手の届かない、知らないところで営みを続けていた。街を歩いていてぼくの気を誘ったものと言えば、風に舞う落葉や、その日暮らしののら犬や、貧しい服装をして遊んでいる子供の姿ぐらいなものだった。ぼくは昼間、ずっと考えていたものさ、子供の頃考え、夢見ていた理想の生活、理想の街はどこに行けばあるのだろう? そんなものはもともとどこにも存在しないものだったのかも知れないけれど、それにしても現実は余りにもお粗末で、残酷なものだった。それを知れば知るほど、ぼくの孤独と絶望は深まって行ったのさ…”

 リサは黙って、ぼくの言葉に耳を傾けていた。

 “…でもまるで夢のように過ぎ去ってしまったあれらの日々”と、ぼくは、いとおしむように言った、“ぼくが置き去りにして来たあの都会での生活、それらは何んだったのだろう? 今、ここで暮らしていると、あの頃の生活が、まるで映画の場面のように、目に浮かんで来るのさ。ぼくは、あのすさみ切った心の時代に、ただひとつ、その中に射し込んで来る一条の光のようなものを感じさせてくれたものがある。それは、あの汚れて、疲れ切ったような建物の合間からのぞいて見える澄んだ青い空と、夢誘うような美しい雲の姿とだった。その美しい空を見るたびに、ぼくの心は無性に、あの子供の頃のような田舎の生活がしてみたい、と思うようになった。そこでは、不要なものは何もなくて、雲や空は一段と身近かなものとして感じられるようになるだろう。つまり、今、ここで、こうしているような生活を夢見たものなのさ。ところが、いざその夢が実現して、現在のような暮らしをしてみたところが、何もないということが分かるのさ。ここにあるのはただ、静かな自然と、空と、大地だけなんだからね。人生って、皮肉なものさ、全く…”

 “それは、兄さんが孤独だからよ”と、リサはポツリと言った、“孤独だから、何をしても満たされない…”


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 “あるいはそうかもね”と、ぼくは言った、“確かに子供の頃は満ち足りていた。そこには家族というものがあったからね。ところが今は、何もない。たったひとりぽっちさ。ひとりぽっちで、こんな寂しい大地に、ぼくは暮らしているのさ。こんなんじゃ何をしても、満たされるはずはないだろうね…”

 “そこまで分かっているんじゃ、兄さんもまた家族を造ればいいじゃない”と、リサは言った、“そうすれば、孤独や絶望なんてものは、いっぺんに吹っ飛んでしまうわ”

 “家族ねえ…”とぼくは考えるように言った。ぼくの家族って、どんなだろう? そのことを思うと、言葉を継ぐこともできなかった。ぼくがこの世で愛した女。それは何人かいた。しかしみんな、夢の中にとどまった。一緒に暮らすなどと言うことは思いも寄らないことだった。一つは体、一つは心が病んでいて生活は無理だったのだ。その状態は、今は続いていないと言うことはできない… そんなに簡単にできるものなら、ぼくは何も、苦しんだりはしない…

 “家族――そういうものがあればねえ…”と、しばらくしてからぼくは言った、“しかし、夢の又夢さ、今のぼくには。自分ひとりだけの生活でも、手一杯なのさ。誰かと一緒になるなんて、想像もつかないことなんだ…”

 “…でも、一人暮らしの限界を兄さんは知っているんでしょ”とリサは言った。 

 “いや、限界までは行っちゃいない”と、ぼくは否定した、“そこまで行けば、気が触れる、ということを意味するんだからね。ぼくは本当に、気が触れればどんなに幸せなことだろう、と思ったことがある。もう何も分からなくなって、昼と夜、都会と田舎、現実と夢との境界もなくなって、人の言葉も耳に入らなくなって、ただ静かに、時が過ぎ行くままに、あの終わりが来る日まで、余生を全うして行くだけの人生なんだからね。そうなれば何も思い悩むことなんかない。ただ時の流れるままに身をゆだねるだけでいいのさ。その心の中には、人生のたそがれに向かって、どんな神秘や、不可思議や、詩的イメージや、美の世界が住まわっているのか、もはや知るよしもない。しかしぼくは、その限界まではまだ行ってはいない。今のぼくは、孤独だけれども正気さ。ぼくの精神は、狂気になるには余りにも自我が強過ぎるんだ…”

 “それが、兄さんを人に近づけるのを困難にしているとも言えるんでしょ”とリサは言った。

 “あるいはね”とぼくは言った、“でも、どうしようもないんだ。確かにリサの言うようにぼくは、一人暮らしの限界というものを知っている。その行き着く先が狂気であるということも。今、自我が強いと言ったけれども、本当は、その反対なのさ。ただ単に強がりを見せているだけで、本当は不安で気も狂わんばかりなのさ。でも、今のぼくは、これしかできない。なんとか気をしっかり持ちつつ、この寂しい田舎で一人暮らしを続ける他ないんだ…”

 薄もやのかかったような空は、明るい日射しを送ったかと思えば、またすぐ日光のない膚寒い状態を作り出しもした。空は、一部の明るい箇所を除き、陰うつで、どんよりしたものになった。


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 “少し暗くなったようね”と、リサは気分を変えて言った、“そろそろここを立ち去りましょうか”

 ぼくも、周りの景色と共に、空を見上げた。ちょうど、あの頃見たような空だった。あのとき、ぼくは都会で暮らしていた。そして灰色の、苦の生活の中から、空を見上げ、田舎での静かな生活を渇望したのだった。あのとき、その同じ空が、こんな寂しい、無味乾燥な田舎にまで広がっていたのだとは、どうして思いつくことができただろう。寂しさや苦しみは、都会にいても、田舎にいても、結局同じことなのだ――その人自身が置かれている状況というものが変わらない限りは…

 “そうだね、そろそろ家に帰ろうか”そう言って、ぼくは立ちあがった。そして振り向き、リサを見つめて言った、“つい寂しい話しをしてしまって御免ね。こんなこと、言うつもりはなかったんだ。でも、心の中で感じている本当のことだから、それに、相手がお前だったから、つい洩らしてしまったのさ。余り深刻に考えないで、軽く流しておくれよ、ね”

 “いいのよ、気にしなくても”と言って、リサも岩から体を離して立ち上がった。“あたしだからと思って、何んでも話してよ。あたしたちは兄妹よ、秘密なんて必要がないのよ。気がねだってそうよ。あたしは何んでも聞くし、あたしだって、兄さんに相談もするわ”

 “ありがとう、そう言ってくれて”とぼくは言って、草むらに倒してあった自転車を起こした、“じゃ、気を付けて、後ろに乗りなよ”そう言って、ぼくはサドルにまたがった。

 リサは再び、ぼくを抱きかかえるようにして、自転車の後ろに腰掛けた。

 “ちょうどこんな空さ”と言って、ぼくは自転車を発進させた、“都会のまっただ中でぼくに虚しさを感じさせた帳本人は。あれからもう何年になるだろう。再び寂しい秋がやって来たんだ。時はくり返すと言うけれど、本当のことなんだね。そんな気がするよ。そうは思わないかい?”

 “寂しいこともあるけど、楽しいこともあるのよ”と、リサは言った、“それが人生というものよ…”

 ぼくたちを乗せた自転車は、冷たい風を切って、緑の丘の中を、どこまでも走って行った…

 

 その日の午後はゆっくりと過ぎて行った。家に戻って軽い昼食を終えてから、リサは庭に出て、そこに咲いている花や木を見て回わった。ぼくは、庭に出ているそんな彼女の姿を見ながら、レコードを聞き、本を膝に広げたまま、めい想にふけった。リサが帰って来て、再びあの日がよみがえったのだ。一年以上も前の、リサと二人で暮らしていたあれらの日々が… あのとき、ぼくも、暮らしながら、このような幸せな日々がいつまでも続いて行くとは思ってもいなかった。予期していた通り、やがてリサは都会へ行くと言い出し、この家から出て行った。


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それを初めて聞かされたときはショックだったし、生活の空虚さは、彼女が出て行ってからもしばらくの間は続いた。しかしそのうち、苦しさは癒え、ひとり暮らしの生活にも慣れるようになった。ひとり暮らしだからと言って、生き物は飼うまい、とぼくは決意した。生き物のやがて滅びる姿を見る悲しさを思うと、それに耐えられないと思ったからだった。ぼくは、リサが都会で暮らしている姿を想像し、それを支えに、ひとり暮らしの寂しさをも克服して来た。――そしてあれから一年が経った今、リサは再び、ぼくのふところへと帰って来たのだ、前よりも一層、女らしく、美しくなって…

 リサが、庭に生い茂った雑草の中に分け入り、そこに咲いている黄色い花を手にし、熱心に見つめている姿を窓から見ながら、あのときと一緒だとぼくは思った。一年前に目にした情景が再びよみがえったのだ。あの頃、そんな彼女の姿をどれほど多く目にし、また、心行くまで眺めていたことだろう。彼女は、ぼくに見つめられることを気にはしていなかったし、ぼくも、彼女を自然に見つめ、やがて夕暮れとなり、一番星が見えるまで、彼女を眺め暮らしていたのだった。彼女がそこに居て、呼吸をしていると思うだけでぼくは幸福だった。一日は、満たされた気持ちと共に暮れて行った。

 長いあいだ、そうした幸せを忘れていたが、今再び、あのときの幸せな気持ちをぼくは取り戻したのだった。彼女は、窓から眺めているぼくに気が付き、振り向いた。

 “ねえ、あれは何んという花なの?”と、リサは、ぼくの方にやって来て尋ねた。

 “さあ知らない。雑草だよ”と、ぼくは答えた、“お前がいた頃ほど、ぼくは庭の手入れをしていなくてね。御覧の通り、お前がいなくなってからというもの、雑草の天国になってしまったようだ。ときどき引き抜くんだけど、この通りさ”

 “そう言えば、あたしが出て行ったときに比べて草が多くなったみたいね”とリサは、つくづくと、感慨を込めた表情で庭を眺めた。

 “でも、それほど変わっちゃいない”と、ぼくはすぐ弁護した、“何もかも、お前が出て行ったとき、そのままさ。ぼくは別に、手を入れたり、変えようと思ったことなんか一度もないんだからね”

 “でも、庭って、手入れをしなければ自然に荒れて行くわ”と、リサは半分嘆くようにぼくに言った。

 “心配には及ばないさ。時々手入れをしているんだから”と、ぼくは、平然とした態度で答えた。

 

 リサはやがて、家の中に入り、ぼくのいる居間のソファーのところにやって来て、腰を降ろした。

 “ふーっ、疲れたわ”と、リサは腰を降ろすなり言った、“少し体が冷えたようだわ。兄さんはお風呂に入らないの?”

 ぼくはその言葉でリサの方を向いた、“風呂に入りたけりゃ先に入るがいい。ぼくは後からでいいさ”



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