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 “好きなようにしろよ”とぼくは言って、しっとりとして、のどかな田園風景の中を、ゆっくりと、大きな木立の見える丘に向かって、自転車を走らせて行った。

 それは、秋の穏やかな日の午後のことだった。もし誰か人がいたとしたら、のどかな田園風景の中を駆け抜けて行く一台の自転車の光景を目にしたことだろう。それは、忍び寄る寂しさの秋の空を背景に、精一杯朗らかに、楽しそうにふるまって、自転車に乗っている兄と妹との姿である。それは、この静かな田園に響き渡るただひとつの楽しげな声、幸せそうな点景となって、憂いを含んだ秋の大地の上を、静かに通り過ぎて行ったに違いない。前の兄は姿勢を正しく、しっかりとペダルを踏みながら、後ろの妹は、長い髪の毛やスカートの裾を風になびかせながら、やがて小さな寄り添う二つの影となって、この視界から消えて行ったことだろう。しかし、幸せそうなこの二人の先に待っているものは、希望? それとも絶望?

 

 絶望であるはずがない。こんなに二人、幸せなのだから…

 

 まぶしいばかりの緑地帯の輝きの中を、ぼくはリサを後ろに乗せて走った。冷たい風を正面から受けて、気持良かった。ぼくたちの行く先をさえ切るものは、青ずんだ丘や、地平線の他は、何もなかった。薄曇りの空からは光が射し込み、秋の神秘な美しさを感じさせた。この広い大地に、緑と森と光の他には何もなかった。ただ静けさと、神秘な美しさと、笑いの他には…

 

 “ねえ、あんなところに花が咲いている”と、リサは、道端の草むらに小さくまとまって咲いている黄色い草花を見つけて言った、“何んという花なんでしょうね。可愛いわ”

 “ほんとだね”とぼくもそれを見て言った、“小石のそばに咲いているのがきれいだね。でも、持って帰るわけには行かないよ”

 “そうね。自然のまま咲いているのが一番”と、リサは言った、“天気はいいし、景色は流れる。最高ね”

 “その分、ぼくがしんどい目しているのさ”と、ぼくは言った、“もう少し走ったら休ませておくれよ、頼むからね”

 “いいわ、お好きなように”とリサは楽しそうに答えた。

 

 しばらく走ってぼくたちは、自転車を草むらに倒し、急な斜面の岩膚に腰を降ろしていた。空気はヒンヤリして、少し肌寒くさえ感じられた。ぼくたちのずっと前方には、平坦な草地が、幾重にも幾重にも折り重なるように続いていて、うっすらとした地平線の彼方の方で消えていた。ゆるやかな斜面のところどころに森があり、農家が見え隠れしていた。煙突から煙を吐いている家もあった。ここから見ている限り、それらは一幅の絵のようにしか感じられず、生活の営みといったものは全く感じられなかった。


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 “少しは疲れがとれて?”とリサは、岩に軽く腰掛けた姿勢のまま、ぼくに尋ねた。

 ぼくは草むらに腰を降ろし、急な斜面に背をもたせかけていた。

 “実を言うとそんなに疲れてはいないのさ”とぼくは答えた、“ただ少し休憩がしたかっただけなんだ。なんとなく、急に思うことがあってね…”

 “何よ、それ?”とリサは尋ねた。

 “いや、別に大したことなんかじゃないんだ”と、ぼくは答えた、“ただ、この淡い秋の光が、ぼくを、思いがけない場所へ連れて行ったような気がしてね。それはここじゃなく、大きな街なんだ。つまり、お前たちと一緒にアパートで暮らしていたときのことをふと思い出してしまったんだ。どうしてかは知らないけれどね”

 リサは興味ある瞳でぼくを見つめていた。

 “あの頃は寂しかった”と、ぼくはひとりでに続けた、“辛かった。どん底だった。しかし今となってはなつかしい気もするのさ。あんな時代もあったんだって。もう一度帰ってみたい気さえするよ。街にはなんでもあったからね。悲劇も、映画館も、飲み屋も、恨みも笑いも、みんな一緒くたなんだ。とくに、秋の裏通りは寂しかった。街のあいだを流れる川だってそうだ。表通りだって、人通りが少なければ同じことさ。あの頃に、ぼくは徹底的に、人間の悲しさというものを知ったんだ。いつもひとりで歩き、見て、知ったのさ。街で遊んでいるどの子も決して幸福にはなれないんだって。その見方は余りにも悲観的過ぎたけれども、少なくともぼくにとっては真実だったのさ。お前も、ぼくもセーラも、決して幸福じゃなかったんだからね…”

 “どうしてあたしたちが幸福じゃないって分かるの?”とリサは初めて口を利いた。

 “だってあの薄汚れたアパート”と、ぼくは言った、“あれを見るだけで幸福じゃないことぐらいすぐ分かるさ、馬鹿でもない限りはね。そこに押し込められた生活――それが、ぼくたちの青春時代だったのさ。暗くて、じめじめして、孤独で、金もなく、口を開けばいがみ合うばっかりの、恋も、歓びもない、そんな毎日だったのさ。――でも、今となればそれもなつかしい気がする。そこには少なくとも生活というものがあったんだからね。それに、人生に目標みたいなものもあった、つまり、一刻も早く、このような息詰まるような暗い人生に見切りをつけて、そこから脱するか、というような深刻な目標がね。しかもその目標が、夢のようでもあったけれど、大もうけをしてもっといい生活がしたいというような、きわめて現実的な目標でもあったのさ。考えることと言えば、金や女やぜいたくや、そんなことばかりだったのだからね。――でも今は、こんなに浮世離れしてしまって、ある意味では、あの頃よりもいっそう孤独な生活をしているんだ。それで、こんな光の日、ぼくはあの頃のことを思い出したりしては、なつかしがったりしているのさ…”

 “兄さんはもう一度、街には戻らないの?”と、リサはそれとなく尋ねた。

 しばらく考え込んだ後、ただひと言、

 “分からない”と、ぼくは、真剣な表情をしたまま答えた。


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 だって、本当に分からないからだ。既に苦い経験を積んでいるぼくに、都会で再び生きて行けるものか、全く見当もつかないからだった。無理して都会で住むよりも、こうして静かに田舎で暮らしている方が、今ははるかにいい。しかしこの生活は、未来へ羽ばたく為の小休止と言うよりも、もう死んだも同然なのだ。このような生活を今後も続ける限り、ぼくはもう、生きているとさえ言えない…

 “ぼくは生活がしたい”と、やがて、ぼくはポツリと言った。それは、心の奥底から込み上げて来たぼくの本音だった。“あの雲のようにふうわりした、捕らえどころのない、あいまいもことしたこんな生活じゃなくて、もっと地に着いた、強固な、そして生活実感のある、そんな生活なのさ。それをするには、恐らく、あのキルケゴールのように、ぼくは奇蹟を必要とするのかも知れない。つまり、失われたものをすべて回復する為には、ぼくには奇蹟が必要なのさ。それがなくてもやって行けるものなら…”

 “兄さんが何に苦しんでいるのか、あたしには分からない”リサは、心配気な瞳で、ぼくを見つめながら言った。

 “つまり、どうにもならないぼくの悲観論なのさ”と、ぼくは答えた、“他のことはともかく、ぼくは、この悲観論だけ消し去ることはできない。――人生を悲観的に見てしまうこの習性を、恐らくぼくは、あの苦難の青春時代に習い知ったのさ。それほど、ぼくのあの時代は暗く、絶望的だった。これを拭い去るには、もはや奇蹟を待つより他はない。だって、こんな暗い見方、生き方をするぼくを、社会の誰も歓迎はしてくれないし、受け容れてくれるはずもないのだからね。ぼくは知っているんだ。人生の絶望とは、この絶望的な気持ちからやってくるんだ、ということを――”

 リサは黙って聞いていた。風が、その髪の毛を顔に振りかけるその表情からは、歓びが消えていた。深刻な表情で、目は、遠くを、地平線の彼方を見つめていた。

 “…だって、もう二度と帰って来ない青春時代”と、ぼくは、真剣な表情で続けた、“あれが不幸でなかったと言えば嘘になるだろう。世の中には、そういう体験を知らずに過ごす人も多いだろうけど、不幸にして、ぼくは知ってしまったんだ。ほとんど自暴自棄の、未来のない、埋没した、暗い青春時代というものをね。それは、お前たちだって、見て知っているはずのものさ。幸い、お前は、心の中までは暗くならなかった。それで救われたのさ。ところがぼくと来れば、心の中まで、もう真暗だったんだ。実際の生活以上に、心の方が暗かったのかも知れない。ぼくが精神的になんとか立ち直ることが出来たのは、全く、お前たちのおかげだったと言っていいだろう。お前たちと出会わなければ、ぼくは今頃、どうなっていたか全く分からない…”

 “兄さんが暗かった時代は、あたしも知っているわ”と、リサは言った、“兄さんを立ち直らせる為に、姉さんが一番骨を折ったのよ。――でも、その青春時代が暗かったからと言って、今さらどうなのよ?”

 “ぼくは、その暗い青春時代を、いつまでも見続けて行きたい”と、ぼくはポツリと言った、“だって、忘れることは出来ないし、それどころか今だって確実にそのことは尾を引いているんだから。生活の安定した今だってね。


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ぼくの孤独癖、ときどき起こるどうにもならない悲観論――これを、キルケゴールは「憂欝」と名づけたけどね、それらは、あのとき体験した絶望の痕跡なのさ。それらは深ければ深いほど、大きければ大きいほど、ずっと後々まで長引いて行くものなんだ…”

 “それで兄さんは見つめて行こうって言うのね”とリサは小さく言った、“これから先もずーっと、世間から身を引いて、たったひとりで…”

 “この静かな大地を見つめていると”と、ぼくは言った。目は、広々とした、森や丘や、青がすむ地平線までも見つめていた。“ぼくは分からなくなって来るのさ。ぼくの過去は何んだったかって言うことがね。あの都会。あの裏通りのあのアパート。あそこで、寒い秋の午後過ごしたことは何んだったのだろう? ぼくは、お前たちが勤めに出かけた後、ひとりで出かけ、あてもなく街をさ迷い、早過ぎる夕暮れに、どこからともなくひとりで帰って来た。アパートには誰もいなかった。孤独を感じたのはそのときさ。昼間もずっと孤独で、人生について考え事をしていたけれどね、本当に孤独を感じたのは、誰もいないアパートの部屋に帰って来たそのときだったのさ。この世でぼくはひとりなのだということを強く感じた。街を通り過ぎる誰も、ぼくとは何んの関係もなくて、街は、ぼくの手の届かない、知らないところで営みを続けていた。街を歩いていてぼくの気を誘ったものと言えば、風に舞う落葉や、その日暮らしののら犬や、貧しい服装をして遊んでいる子供の姿ぐらいなものだった。ぼくは昼間、ずっと考えていたものさ、子供の頃考え、夢見ていた理想の生活、理想の街はどこに行けばあるのだろう? そんなものはもともとどこにも存在しないものだったのかも知れないけれど、それにしても現実は余りにもお粗末で、残酷なものだった。それを知れば知るほど、ぼくの孤独と絶望は深まって行ったのさ…”

 リサは黙って、ぼくの言葉に耳を傾けていた。

 “…でもまるで夢のように過ぎ去ってしまったあれらの日々”と、ぼくは、いとおしむように言った、“ぼくが置き去りにして来たあの都会での生活、それらは何んだったのだろう? 今、ここで暮らしていると、あの頃の生活が、まるで映画の場面のように、目に浮かんで来るのさ。ぼくは、あのすさみ切った心の時代に、ただひとつ、その中に射し込んで来る一条の光のようなものを感じさせてくれたものがある。それは、あの汚れて、疲れ切ったような建物の合間からのぞいて見える澄んだ青い空と、夢誘うような美しい雲の姿とだった。その美しい空を見るたびに、ぼくの心は無性に、あの子供の頃のような田舎の生活がしてみたい、と思うようになった。そこでは、不要なものは何もなくて、雲や空は一段と身近かなものとして感じられるようになるだろう。つまり、今、ここで、こうしているような生活を夢見たものなのさ。ところが、いざその夢が実現して、現在のような暮らしをしてみたところが、何もないということが分かるのさ。ここにあるのはただ、静かな自然と、空と、大地だけなんだからね。人生って、皮肉なものさ、全く…”

 “それは、兄さんが孤独だからよ”と、リサはポツリと言った、“孤独だから、何をしても満たされない…”


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 “あるいはそうかもね”と、ぼくは言った、“確かに子供の頃は満ち足りていた。そこには家族というものがあったからね。ところが今は、何もない。たったひとりぽっちさ。ひとりぽっちで、こんな寂しい大地に、ぼくは暮らしているのさ。こんなんじゃ何をしても、満たされるはずはないだろうね…”

 “そこまで分かっているんじゃ、兄さんもまた家族を造ればいいじゃない”と、リサは言った、“そうすれば、孤独や絶望なんてものは、いっぺんに吹っ飛んでしまうわ”

 “家族ねえ…”とぼくは考えるように言った。ぼくの家族って、どんなだろう? そのことを思うと、言葉を継ぐこともできなかった。ぼくがこの世で愛した女。それは何人かいた。しかしみんな、夢の中にとどまった。一緒に暮らすなどと言うことは思いも寄らないことだった。一つは体、一つは心が病んでいて生活は無理だったのだ。その状態は、今は続いていないと言うことはできない… そんなに簡単にできるものなら、ぼくは何も、苦しんだりはしない…

 “家族――そういうものがあればねえ…”と、しばらくしてからぼくは言った、“しかし、夢の又夢さ、今のぼくには。自分ひとりだけの生活でも、手一杯なのさ。誰かと一緒になるなんて、想像もつかないことなんだ…”

 “…でも、一人暮らしの限界を兄さんは知っているんでしょ”とリサは言った。 

 “いや、限界までは行っちゃいない”と、ぼくは否定した、“そこまで行けば、気が触れる、ということを意味するんだからね。ぼくは本当に、気が触れればどんなに幸せなことだろう、と思ったことがある。もう何も分からなくなって、昼と夜、都会と田舎、現実と夢との境界もなくなって、人の言葉も耳に入らなくなって、ただ静かに、時が過ぎ行くままに、あの終わりが来る日まで、余生を全うして行くだけの人生なんだからね。そうなれば何も思い悩むことなんかない。ただ時の流れるままに身をゆだねるだけでいいのさ。その心の中には、人生のたそがれに向かって、どんな神秘や、不可思議や、詩的イメージや、美の世界が住まわっているのか、もはや知るよしもない。しかしぼくは、その限界まではまだ行ってはいない。今のぼくは、孤独だけれども正気さ。ぼくの精神は、狂気になるには余りにも自我が強過ぎるんだ…”

 “それが、兄さんを人に近づけるのを困難にしているとも言えるんでしょ”とリサは言った。

 “あるいはね”とぼくは言った、“でも、どうしようもないんだ。確かにリサの言うようにぼくは、一人暮らしの限界というものを知っている。その行き着く先が狂気であるということも。今、自我が強いと言ったけれども、本当は、その反対なのさ。ただ単に強がりを見せているだけで、本当は不安で気も狂わんばかりなのさ。でも、今のぼくは、これしかできない。なんとか気をしっかり持ちつつ、この寂しい田舎で一人暮らしを続ける他ないんだ…”

 薄もやのかかったような空は、明るい日射しを送ったかと思えば、またすぐ日光のない膚寒い状態を作り出しもした。空は、一部の明るい箇所を除き、陰うつで、どんよりしたものになった。



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