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 “ああ、重い、重いよ”と、ぼくは大げさに言った、“でも、お前の柔らかい体を抱いていられるんだから、辛抱するよ”

 リサは笑いながら、目を空に向けた。ぼくはゆっくりと、彼女を抱いたまま、樫の木のそばで、まるで二頭の馬のように並んでいる、ぼくたちの自転車の方へと向かった。

 “さあ着いた”と言って、ぼくは、彼女を自転車のサドルの上に置いた、“お前が重いから、汗をかいたよ”

 “嘘!”と、リサは抗議した、“あたしってそんなに重くないはずよ。兄さんの腕がどうかしてるんじゃない?”

 “嘘。嘘だよ、御免”と、ぼくは軽く謝った、“本当は、お前は軽くて、とても抱き心地が良かった。こんないいことなら何度でもやらせてもらいたいぐらいさ。もっと強く抱き締めたり、空へほうり投げたり…”

 “そんなことされれば大変”とリサは言った、“そうされないうちに早く出発しましょ”

 そう言ってリサは、自転車を動かした。ぼくも、遅れては大変と、すぐ彼女に続いた。

 

 すぐ丘の細い道にやって来て、ふもとの方には、草に囲まれた大きな、澄んだ湖が横たわっているところを走るようになった。ぼくは前を走っているリサにそれとなく話しかけた。

 “分かったよ”とぼくは言った、“ずっとぼくは考えていたんだ。さっき、ぼくが言った言葉の意味を”

 “何?”と言って、リサは少し後ろを振り向くようにして走った。

 “いや、随分遠くまでやって来たと言った言葉の意味がさ”とぼくは少し声を大きくして前を行く彼女に向かって言った。

 しかし風を切って走る彼女には、少し届かないようだった。

 ぼくは、それにはかまわず続けた、“つまり、随分遠くまでやって来たと言う意味は、ぼくは世の中を十分に生きずに、逃げて来たという意味なのさ。それで、現在、孤独なんだ。――でも、今、やっと目が覚めたよ。ぼくはもう一度、冷静になって世の中というものを見つめ直す必要があるのさ。どうしてぼくは、こんな遠くまで逃げ込んで来なければならなかったのか、その理由についてもね。それが、随分遠くまでやって来たという、本当の意味なのさ。分かるかい? ぼくの言っている意味が…”

 “随分遠くが何なの?”リサにはやはり聞こえていないようだった。

 しかし、ぼくの言うことを聞こうとして振り向きかけたとたん、自転車は、道からそれて丘の斜面を下り始めた。リサの悲鳴と共に、急な斜面のせいか、自転車は益々勢いを増して、あのぽっかりと大きな穴を広げて待っている無気味な湖に向かって突っ走って行った。

 “リサッ気をつけろ!”と、ぼくは自転車を止めて叫んだ。


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 しかしとっさのことで救いに行くこともできなかった。ところどころ木が生えているその間をうまくくぐり抜けながら、リサの乗っている自転車はころがり落ちて行ったが、あと湖まで数メートルというところで、リサはキャッと叫びながら危機一発、自転車から脱出することができたのだった。自転車は、主がいなくなったままの形で、そのまま湖に突っ込んで行った。

 自転車から投げ出されたリサは、しかし、その場で倒れ伏していた。髪の毛を振り乱し、痛そうに、自分のももをさすっていた。

 ぼくはすぐ彼女の下へ駆けて行った。

 “大丈夫かい? どうもなかったかい?”とぼくは、倒れている彼女のそばへ行って、言った。

 “ちょっと、お尻を打ったらしいの”とリサは、哀れな姿を見せながら、ぼくを見上げて言った、“それに、自転車からほうり出されるとき、足を引っ掛けたらしいわ”

 見ると、可愛いくるぶしのところから、血がにじみ出ていた。ぼくはすぐハンカチを取り出して応急処置をした。

 “痛むかい? 他はどこか痛いところはないのかい?”とぼくは、彼女が痛々しそうにももをさすっている手を見つめながら言った。

 “ええ、大丈夫よ”と、リサは言った、“お尻を強く打ったらしいけれどもう大丈夫。でも驚いたわ。こんな怖いことなんて初めて…”

 そう言って彼女は、自転車が落ちて行った湖の方に目を向けた。ぼくも立って、自転車を見た。自転車は無残にも湖に突っ込み、かなり深く沈んで、すぐには引き上げられそうにもなかった。

 “御免。せっかくのまっさらな自転車だったのに…”とリサは、その様子を見て、申し訳なさそうに言った。

 “かまわないさ。お前が湖にはまらなかっただけでも不幸中の幸いというものさ”と言って、ぼくはリサを慰めた、“それで立てそうかい?”

 “ええ、なんとか”と言って、リサは、ちょっと顔をしかめながら、なんとかぼくの手の支えもなく、起き上がった。しかし、ちょっと歩いたところ、左足を、ビッコを引き、見るからに痛々しかった、“大丈夫。なんとか歩けるわ。でも、自転車はもう使えないの?”

 “あの状態じゃねえ…”と、ぼくはもう一度、確認をして言った、“いいさ。ぼくの自転車に一緒に乗って帰ればいい。でも、荷台に坐ってもらわなくっちゃならないけど、大丈夫かい?”

 “なんとか行けそうよ”とリサは、笑顔で答えた。

 “それじゃ行こう”そう言ってぼくは、彼女が歩くのを見守った。

 リサは、痛々しそうに、左手でももをさすりながら、右の足首に血のにじんだハンカチを巻き付け、ビッコを引き引き、ゆっくりと歩き始めた。その哀れな姿が、なんとなく可愛く、滑稽だった。


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 自転車のそばへやって来ると、リサは哀れっぽく立ち、小さな荷台を見つめた。

 “どうやって乗るの?”と、リサは尋ねた。

 “ぼくが先、自転車に乗るからさ”と、ぼくは言った、“荷台から落ちないようにしっかりぼくにつかまるといい”

 “でも、揺れれば痛そうね”と、リサは、心配そうな顔をした。

 “文句は言わないこと”と言って、ぼくは自転車に乗って、しっかりと構えた。そして振り向き、リサが乗るのを見守った。

 リサは、仕方ないとあきらめたらしく、横向きにゆっくりと荷台に坐り、静かに腕をぼくの腰に回した。

 “あまり揺らして、落とさないようにしてね”と、リサは念を押した。

 “そうならないようにもっとしっかりつかんで”とぼくは言った。その言葉で、リサは、寄りかかるように一層強く、ぼくを抱いた、“そう。それじゃ行くよ”とぼくは言って、自転車をゆっくりと走らせた。

 

 自転車はリンゴの並木のあいだをぬって走り、だんだんと事故現場の湖から遠ざかって行った。リサは、自転車を残した静かな波打ち際を、その姿が見えなくなるまで、いつまでも見つめていた。それから何か感傷にふけるかのように、頭をぼくの背中に寄せつけた。ぼくにもそれが感じられた。いい気持だった。自転車は風を切って走り、空気も、周りの景色も、申し分なかった。しかもリサのぬくもりが、背中を伝わって、ぼくにも感じられて来た。

 “乗り心地はどうだい?”と、ぼくは自転車を走らせながら、言った。

 “思っていたよりはいいわ”と、リサは言った、“兄さんの運転って、意外とスムーズなのね”

 “お前が痛がらないようにって、慎重に運転しているからね”とぼくは言って、ぼくの前に回された、彼女の細い、白い腕を見た。

 “…でも、こんな風に乗るのって、久し振り。何年振りかしら?”と、リサは言った、“ずっと昔を思い出すわ。よく兄さんに自転車を乗せてもらったときのこと…”

 そう言や、そんな頃もあったね”と、ぼくは朗らかな口調になって言った。

 “兄さんはよく自転車に乗って、あちこち連れて行ってくれたじゃない”とリサは言った、“ちょうど今みたいにあたしが後ろに乗って、しっかり兄さんをつかんでて、まるで今と同じね。…でも楽しかったわ。今度はどこへ行くんだろうと、そんな期待みたいなものがあったりして…”

 “ぼくはただ、お前を乗せるのが楽しかっただけさ”と、ぼくは言った、“お前を後ろに乗せりゃ、行き先なんて自然に決まったものさ。きょうはあの橋を渡って、まだ行ったことのないあの森を探検しようとか、村のはずれの崩れかかった工場跡へ行ってみようとか、そんなあんばいさ。…でも、あの頃は本当に楽しかったな。一番楽しかった時代さ。家にはママがいて、パパがいて…”

 


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 “そうね。あたしも、兄さんの自転車に乗っているのが一番楽しかったわ”とリサは言った、“クラスの友だちにそのことを言ってやるとみんな羨ましがっていたわ。あたしもそんな風に乗って行きたいって、みんな言っていたわ”

 “お前、そんなこと、学校でしゃべっていたのかい?”とぼくは驚いて言った。

 “言っちゃ悪かったの?”と、リサは、背中から頭を離し、ぼくを伺うように言った。

 “そんなこと、みんなに知られているなんて、ぼくは知らなかった”とぼくは言った、“でもいいよ。お前がクラスメートに言いたくなった気持、分からないでもないからさ。ぼくだって、こんなに可愛い妹を自転車に乗せて連れて行ったことを、みんなに自慢してやりたかった…”

 “それで言ったの?”とリサは尋ねた。

 “いや、言わなかった”とぼくは答えた、“クラスの友だちでお前たちのファンが随分多いようだったけれどね、そんなこと言えば、周りからなにされるか分からないから黙っていたのさ。いずれにせよあの頃は、夢みたいな時代さ…”

 “夢の彼方に行ってしまった…”と、リサは再び、ぼくの背に頬を寄せると言った、“そう?”

 “そう”とぼくはうなづいた、“みんな夢の彼方へ行ってしまった… ぼくも、お前も、ママも、セーラも、学校も、家も、クラスメートも。みんな遠い昔の話しさ。でも、そういう時代があったということは、幸せなことさ。そうは思わないかい?”

 “そうね”とリサは言った、“でも、今だって同じよ。違いと言えば、学校も、クラスメートも、ママやパパの待っている家もないと言うだけ。そうでしょ?”

 “その違いが大きいのさ”とぼくは言った、“家には誰も待っていなくて、学校の親しい友だちもいないと言うのが大きいのさ。今はこの寂しい場所で二人きりなんだ…”

 “いいじゃない、二人きりだって”とリサは言った、“今は家に誰も待っていなくたって、そのうち、待ってくれる誰かを見つければいいじゃないの。兄さんの運転は、昔も今も少しも変わりないわ。あの頃の元気を、今だって出せないはずないじゃないの…”

 “そうだね”とぼくは言った、“こんなにいい天気なんだ。しかもお前を乗せて不満を言うようじゃ、神様に叱られるよね。あの頃と今とじゃ、違うんだ。その違いを、はっきりと認識しておかなくっちゃ…”

 “それで兄さん”とリサは、問いかけるようにぼくに言った、“きょうは自転車に乗っけて、あたしをどこへ連れて行ってくれるの?”

 “きょうかい?”と一瞬うろたえてぼくは言った、“きょうは魔法の国へ、と言いたいところだけど、残念ながらぼくの家にさせてもらうよ”

 リサは満足そうに頬をすり寄せ、一層強くぼくの体を抱いた。

 “余り強く抱くと危ないよ”と、ぼくは一寸バランスを失いそうになって言った、“もう少しお手柔かに…”

 “でも”とリサは言った、“兄さんを抱いていると、暖かくて、気持がいいんだもの”


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 “好きなようにしろよ”とぼくは言って、しっとりとして、のどかな田園風景の中を、ゆっくりと、大きな木立の見える丘に向かって、自転車を走らせて行った。

 それは、秋の穏やかな日の午後のことだった。もし誰か人がいたとしたら、のどかな田園風景の中を駆け抜けて行く一台の自転車の光景を目にしたことだろう。それは、忍び寄る寂しさの秋の空を背景に、精一杯朗らかに、楽しそうにふるまって、自転車に乗っている兄と妹との姿である。それは、この静かな田園に響き渡るただひとつの楽しげな声、幸せそうな点景となって、憂いを含んだ秋の大地の上を、静かに通り過ぎて行ったに違いない。前の兄は姿勢を正しく、しっかりとペダルを踏みながら、後ろの妹は、長い髪の毛やスカートの裾を風になびかせながら、やがて小さな寄り添う二つの影となって、この視界から消えて行ったことだろう。しかし、幸せそうなこの二人の先に待っているものは、希望? それとも絶望?

 

 絶望であるはずがない。こんなに二人、幸せなのだから…

 

 まぶしいばかりの緑地帯の輝きの中を、ぼくはリサを後ろに乗せて走った。冷たい風を正面から受けて、気持良かった。ぼくたちの行く先をさえ切るものは、青ずんだ丘や、地平線の他は、何もなかった。薄曇りの空からは光が射し込み、秋の神秘な美しさを感じさせた。この広い大地に、緑と森と光の他には何もなかった。ただ静けさと、神秘な美しさと、笑いの他には…

 

 “ねえ、あんなところに花が咲いている”と、リサは、道端の草むらに小さくまとまって咲いている黄色い草花を見つけて言った、“何んという花なんでしょうね。可愛いわ”

 “ほんとだね”とぼくもそれを見て言った、“小石のそばに咲いているのがきれいだね。でも、持って帰るわけには行かないよ”

 “そうね。自然のまま咲いているのが一番”と、リサは言った、“天気はいいし、景色は流れる。最高ね”

 “その分、ぼくがしんどい目しているのさ”と、ぼくは言った、“もう少し走ったら休ませておくれよ、頼むからね”

 “いいわ、お好きなように”とリサは楽しそうに答えた。

 

 しばらく走ってぼくたちは、自転車を草むらに倒し、急な斜面の岩膚に腰を降ろしていた。空気はヒンヤリして、少し肌寒くさえ感じられた。ぼくたちのずっと前方には、平坦な草地が、幾重にも幾重にも折り重なるように続いていて、うっすらとした地平線の彼方の方で消えていた。ゆるやかな斜面のところどころに森があり、農家が見え隠れしていた。煙突から煙を吐いている家もあった。ここから見ている限り、それらは一幅の絵のようにしか感じられず、生活の営みといったものは全く感じられなかった。



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