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 “今の言葉、肝に銘じておくよ”と、ぼくは言った、“ぼくは余りにも悲観的過ぎる。そうあってはならないと言うお前の言葉を、ちゃんと、ぼくの胸の中にしまい込んでおくよ”

 そう言って、ぼくは微笑みをリサに送った。ぼくがつい今しがた恋人のように感じた彼女、その彼女が、ぼくの心の中までも覗き込み、声援を送ってくれさえしてくれたのだ。この地上に、こんな幸せなことがまたとあるだろうか? ぼくはもう、きのうのように孤独ではなかった。きのうのように寂しいとは感じなかった。逆に、幸せで震えていた。こんなきれいで、心の優しい妹が、きょうこの日、ぼくの傍らで、この美しい草原の木陰に坐っていて、しかも肩を寄せ合うようにしながら、共に人生について語り合っていたのだから…

 

 “…ねえ、あの青い山を越えて、山の向こうのあの白い雲のところまで飛んで行きたい。そんな気がしないかい?”とぼくは、心が晴れて言った、“それは同時に、ぼくが今ここにいる、この現在をも飛び越えてしまうことを意味しているようにも思えるんだ。遠いあの雲が呼んでいるのは、ぼくの過去なのだろうか、それとも未来なのだろうか… あの山にさえ切られた向こうには、ぼくの過去があるし、未来もある。そんな気がするんだ。様々な過去、ぼくの人生の後ろ側の世界さ。それが、あの山を見ていると、その背後に見えて来るような気がするのさ。その一つ一つを、ぼくは書きたい。なぜって、その一つ一つは、ぼくの生きた証しなのだからさ。今も目に浮かぶ。遠いぼくの子供の頃――それはなんと、遠くへ行ってしまったのだろう。あの遠い、小さかった頃のお前が、今はこんなに大きくなって、ぼくの横にいる。おかげで、もうぼくは、小さかった頃の可愛らしかったお前の姿を、永久に見ることができないのさ。…しかし、あの山の向こうの雲の下には、小さなお前が今も住んでいるような、そんな気がするのさ。時って、不思議だとは思わないかい?”

 “あたしたちの子供の頃は、もう済んでしまったわ”と、リサは冷静に言った、“でもあたしたちの心の中には、まだ子供時分が生きている。兄さんがそれを復活させ、書きたいと言うのなら、誰もそれを止める者はいないわ。現実のあたしは、もう子供に戻ることは無理だけど、兄さんの頭の中で自由に、あたしを子供に戻してもらっても結構よ”

 “いや、今のお前はお前さ”と、ぼくは言った、“今のお前が一番きれいだよ。このときを逃すわけには行かない。あとになって、今のお前が一番きれいだったと思う日が、きっと来るはずさ。そんなときの為にも、今を見つめることが大切なのさ…”

 “あたしがおばあさんになれば、きっとあの頃は良かったって思うに違いないわね”と言って、リサは笑った、“ねえ、今を見つめることが大切だと言うのなら、もっとお互い、見つめ合いましょうよ。子供の頃がそうだったように。今、生きているあたしを見つめて。今、生きている兄さんを見つめるわ。あたしたちは今、生きているのよ。ここで、この今…”


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 “そうだね…”と、ぼくは言った、“お前ははるばると、久し振りに田舎に帰って来た。せっかく遠くから帰って来たんだから、もっと歓迎をしてやらなくっちゃ。さっき、ぼくは、故郷を捨て、都会を捨てて、と言った。ぼくはそれでお終いだけど、お前はさらに、この田舎まで捨てたんだから、そんなお前に、心から乾杯さ”

 そう言ってグラスをかかげるふりをすると、リサは、かたわらに坐ったまま笑顔で答えてくれた。ほの暖かい草むらに、爽やかな風が駆け抜け、なんと言うこともなく、心地良かった…

 

 “…ねえ、昔は、目の前に広がる草原や、向こうに見えるあの森のような所で、お前たちとはしゃぎ回ったものさ。そういう時代はもう帰っては来ない”と、ぼくは、ぽつりと言った、“でも、今は今で、今のお前がいい。せっかくお前はこの田舎に帰って来たんだから、もっと楽しい話しをしなくっちゃ”

 そう言って、ぼくはふと、リサの方に目をやった。彼女は、うっとりと、遠くの方を眺めている。その彼女の横顔は美しかったし、ぼくは、彼女の表情の奥に、ちらっと、自分たちの遠い、過去の時代を見る思いがした。

 “確かに人間は、詩だけでは生きては行けない”と、ぼくは言った、“またそれだけが人生だと言うわけでもない。もっと色々と人生というものがあるはずさ。これからもぼくは、色んなことを試して見たい… さあ、そろそろ行こうか、リサ”

 そう言って、ゆっくりと、ぼくは立ち上がった。立ち上がると、ぼくは、それとなく、草原の方に走った。それから振り返ると、彼女に向かって言った、

 “おいでよ、気持がいいよ!”

 リサは、ゆっくりと樫の木の根っこで立ち上がると、ぼくの方に向かって歩いて来た。

 “見て御覧”と、ぼくは、とぼとぼと歩いて来た彼女が来るなり言った、“見渡す限り草原さ。ここがぼくの世界で、この広い世界に、今、ぼくとお前しかいないのさ。ねえ、この素晴らしい空気を思い切り吸おうじゃないか”

 そう言って、ぼくは、両手を下に広げ、気持良さそうに目を閉じると、思い切り深呼吸をした。リサは、そんなぼくを、傍らに立って、ぽかんと見つめていた。

 ヒンヤリした風が心地良かった。

 “ねえ、それじゃ女王様”と言って、ぼくは彼女のそばに歩み寄ると、ひょいと彼女を両手で抱き上げた。

 リサは余りの突然で驚いた顔をしたが、すぐされるままになり、ぼくに抱かれたまま、片方の腕をぼくの背に回した。彼女の体重と感触とが、すぐぼくの両腕に伝わった。ぼくは彼女の愛らしい目や髪を見つめ、そして言った、“あの自転車の置いてあるところまで抱いて参じましょ”

 “あたしって、重い?”と、リサはにっこりして、ぼくに言った。


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 “ああ、重い、重いよ”と、ぼくは大げさに言った、“でも、お前の柔らかい体を抱いていられるんだから、辛抱するよ”

 リサは笑いながら、目を空に向けた。ぼくはゆっくりと、彼女を抱いたまま、樫の木のそばで、まるで二頭の馬のように並んでいる、ぼくたちの自転車の方へと向かった。

 “さあ着いた”と言って、ぼくは、彼女を自転車のサドルの上に置いた、“お前が重いから、汗をかいたよ”

 “嘘!”と、リサは抗議した、“あたしってそんなに重くないはずよ。兄さんの腕がどうかしてるんじゃない?”

 “嘘。嘘だよ、御免”と、ぼくは軽く謝った、“本当は、お前は軽くて、とても抱き心地が良かった。こんないいことなら何度でもやらせてもらいたいぐらいさ。もっと強く抱き締めたり、空へほうり投げたり…”

 “そんなことされれば大変”とリサは言った、“そうされないうちに早く出発しましょ”

 そう言ってリサは、自転車を動かした。ぼくも、遅れては大変と、すぐ彼女に続いた。

 

 すぐ丘の細い道にやって来て、ふもとの方には、草に囲まれた大きな、澄んだ湖が横たわっているところを走るようになった。ぼくは前を走っているリサにそれとなく話しかけた。

 “分かったよ”とぼくは言った、“ずっとぼくは考えていたんだ。さっき、ぼくが言った言葉の意味を”

 “何?”と言って、リサは少し後ろを振り向くようにして走った。

 “いや、随分遠くまでやって来たと言った言葉の意味がさ”とぼくは少し声を大きくして前を行く彼女に向かって言った。

 しかし風を切って走る彼女には、少し届かないようだった。

 ぼくは、それにはかまわず続けた、“つまり、随分遠くまでやって来たと言う意味は、ぼくは世の中を十分に生きずに、逃げて来たという意味なのさ。それで、現在、孤独なんだ。――でも、今、やっと目が覚めたよ。ぼくはもう一度、冷静になって世の中というものを見つめ直す必要があるのさ。どうしてぼくは、こんな遠くまで逃げ込んで来なければならなかったのか、その理由についてもね。それが、随分遠くまでやって来たという、本当の意味なのさ。分かるかい? ぼくの言っている意味が…”

 “随分遠くが何なの?”リサにはやはり聞こえていないようだった。

 しかし、ぼくの言うことを聞こうとして振り向きかけたとたん、自転車は、道からそれて丘の斜面を下り始めた。リサの悲鳴と共に、急な斜面のせいか、自転車は益々勢いを増して、あのぽっかりと大きな穴を広げて待っている無気味な湖に向かって突っ走って行った。

 “リサッ気をつけろ!”と、ぼくは自転車を止めて叫んだ。


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 しかしとっさのことで救いに行くこともできなかった。ところどころ木が生えているその間をうまくくぐり抜けながら、リサの乗っている自転車はころがり落ちて行ったが、あと湖まで数メートルというところで、リサはキャッと叫びながら危機一発、自転車から脱出することができたのだった。自転車は、主がいなくなったままの形で、そのまま湖に突っ込んで行った。

 自転車から投げ出されたリサは、しかし、その場で倒れ伏していた。髪の毛を振り乱し、痛そうに、自分のももをさすっていた。

 ぼくはすぐ彼女の下へ駆けて行った。

 “大丈夫かい? どうもなかったかい?”とぼくは、倒れている彼女のそばへ行って、言った。

 “ちょっと、お尻を打ったらしいの”とリサは、哀れな姿を見せながら、ぼくを見上げて言った、“それに、自転車からほうり出されるとき、足を引っ掛けたらしいわ”

 見ると、可愛いくるぶしのところから、血がにじみ出ていた。ぼくはすぐハンカチを取り出して応急処置をした。

 “痛むかい? 他はどこか痛いところはないのかい?”とぼくは、彼女が痛々しそうにももをさすっている手を見つめながら言った。

 “ええ、大丈夫よ”と、リサは言った、“お尻を強く打ったらしいけれどもう大丈夫。でも驚いたわ。こんな怖いことなんて初めて…”

 そう言って彼女は、自転車が落ちて行った湖の方に目を向けた。ぼくも立って、自転車を見た。自転車は無残にも湖に突っ込み、かなり深く沈んで、すぐには引き上げられそうにもなかった。

 “御免。せっかくのまっさらな自転車だったのに…”とリサは、その様子を見て、申し訳なさそうに言った。

 “かまわないさ。お前が湖にはまらなかっただけでも不幸中の幸いというものさ”と言って、ぼくはリサを慰めた、“それで立てそうかい?”

 “ええ、なんとか”と言って、リサは、ちょっと顔をしかめながら、なんとかぼくの手の支えもなく、起き上がった。しかし、ちょっと歩いたところ、左足を、ビッコを引き、見るからに痛々しかった、“大丈夫。なんとか歩けるわ。でも、自転車はもう使えないの?”

 “あの状態じゃねえ…”と、ぼくはもう一度、確認をして言った、“いいさ。ぼくの自転車に一緒に乗って帰ればいい。でも、荷台に坐ってもらわなくっちゃならないけど、大丈夫かい?”

 “なんとか行けそうよ”とリサは、笑顔で答えた。

 “それじゃ行こう”そう言ってぼくは、彼女が歩くのを見守った。

 リサは、痛々しそうに、左手でももをさすりながら、右の足首に血のにじんだハンカチを巻き付け、ビッコを引き引き、ゆっくりと歩き始めた。その哀れな姿が、なんとなく可愛く、滑稽だった。


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 自転車のそばへやって来ると、リサは哀れっぽく立ち、小さな荷台を見つめた。

 “どうやって乗るの?”と、リサは尋ねた。

 “ぼくが先、自転車に乗るからさ”と、ぼくは言った、“荷台から落ちないようにしっかりぼくにつかまるといい”

 “でも、揺れれば痛そうね”と、リサは、心配そうな顔をした。

 “文句は言わないこと”と言って、ぼくは自転車に乗って、しっかりと構えた。そして振り向き、リサが乗るのを見守った。

 リサは、仕方ないとあきらめたらしく、横向きにゆっくりと荷台に坐り、静かに腕をぼくの腰に回した。

 “あまり揺らして、落とさないようにしてね”と、リサは念を押した。

 “そうならないようにもっとしっかりつかんで”とぼくは言った。その言葉で、リサは、寄りかかるように一層強く、ぼくを抱いた、“そう。それじゃ行くよ”とぼくは言って、自転車をゆっくりと走らせた。

 

 自転車はリンゴの並木のあいだをぬって走り、だんだんと事故現場の湖から遠ざかって行った。リサは、自転車を残した静かな波打ち際を、その姿が見えなくなるまで、いつまでも見つめていた。それから何か感傷にふけるかのように、頭をぼくの背中に寄せつけた。ぼくにもそれが感じられた。いい気持だった。自転車は風を切って走り、空気も、周りの景色も、申し分なかった。しかもリサのぬくもりが、背中を伝わって、ぼくにも感じられて来た。

 “乗り心地はどうだい?”と、ぼくは自転車を走らせながら、言った。

 “思っていたよりはいいわ”と、リサは言った、“兄さんの運転って、意外とスムーズなのね”

 “お前が痛がらないようにって、慎重に運転しているからね”とぼくは言って、ぼくの前に回された、彼女の細い、白い腕を見た。

 “…でも、こんな風に乗るのって、久し振り。何年振りかしら?”と、リサは言った、“ずっと昔を思い出すわ。よく兄さんに自転車を乗せてもらったときのこと…”

 そう言や、そんな頃もあったね”と、ぼくは朗らかな口調になって言った。

 “兄さんはよく自転車に乗って、あちこち連れて行ってくれたじゃない”とリサは言った、“ちょうど今みたいにあたしが後ろに乗って、しっかり兄さんをつかんでて、まるで今と同じね。…でも楽しかったわ。今度はどこへ行くんだろうと、そんな期待みたいなものがあったりして…”

 “ぼくはただ、お前を乗せるのが楽しかっただけさ”と、ぼくは言った、“お前を後ろに乗せりゃ、行き先なんて自然に決まったものさ。きょうはあの橋を渡って、まだ行ったことのないあの森を探検しようとか、村のはずれの崩れかかった工場跡へ行ってみようとか、そんなあんばいさ。…でも、あの頃は本当に楽しかったな。一番楽しかった時代さ。家にはママがいて、パパがいて…”

 



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