閉じる


<<最初から読む

23 / 221ページ

試し読みできます

224

 “まだこの辺が、大きな魅力で包まれている限りはね”と、ぼくは答えた、“でも他にも、魅力に富んだ土地がいくつもあることを、ぼくは知っている。セーラがいた場所がそうだったし、ぼくたちの生まれ故郷だってそうだ。…いつか、生まれ故郷に行って見たいとは思わないかい?”

 それとなく水を向けた言葉に、リサは、黙って考え込むような顔になった。

 “そうね、いつか暇ができればね”と、リサはやがて言った、“もう随分長いあいだ行っていないんだから、故郷の様子も変わっているでしょうね。でも、一度は行ってみたいわ。それもひとりじゃなく、兄さんと一緒にね”

 “いつかお前は、そのことを言っていたことがあったんだよ”と、ぼくは、それとなくリサに言った、“――でもお前は、それを実現する前に、この家から出て行ってしまった”

 “あら、御免なさい”と言ってリサは、ぼくを見た、“そう言えば昔、兄さんにそんなことを言ったことがあるような気がするわ。でも、すっかり忘れてしまって。――でも、今度こそ本当よ。いつか、必ず行きましょうよ”

 “いつか必ずね”と、ぼくは答えた、“いつか、お前と二人きりで故郷に行ける日が来ることを、ぼくはこれからもずっと楽しみにしているからね。行ってみれば、なんだこれだけのことかとがっかりするかも知れないけれど、でもあそこは、なんと言ってもぼくたちのふるさとなんだからね。ぼくたちのあの家がまだそのまま残っていれば幸いさ。あそこには、ぼくたちの学校もあれば、よく遊んだ小川や森もある。パパの勤めていた町の高校もあれば、ママが一時働いていたあの汚らしい養鶏場は、今どうなっているだろうか?”

 “みんなきっと、今も残っているわよ”と、リサは答えた。

 “そうならいいんだけど”と、ぼくは言った、“こんな風に考えると、あの頃のふるさとの様子が目に映ってくるな。実は、ぼくは最近、おかしな夢を見たんだ。それは間違いなく、ふるさとのあの家だった。ぼくは、窓から身を乗り出すようにして、西の空を見つめていた。というのも、雲が厚くて、太陽の円い姿が、ほんのかすかにしか見えていなかったからさ。おかげで陰気な気分にさせられたし、実際、周りも陰気だった。ところが、おもての方から友だちの声が聞こえて、ぼくはその方に振り向いた。それは、こちら側とは反対側南の玄関の方から聞こえて来たんで、ぼくはそちらへすっ飛んで行ったんだけど、すると南側の窓から急に明るい日光が、パッと差し込んだんで、ぼくは驚いたのさ。今、向こう側で、沈み行くばかりの陰気臭い太陽を見ていたばかりじゃなかったのかい? それなのにこの明かりは、一体どこから来ているのだろう? しかしそのときはそんなに疑問にも思わず、友だちの待っている明るい外の方へ ぼくは飛んで行った”

 “つまり、太陽が二つあったというわけ?”と、リサは言った、“どこかの天体ならそんなところもあるかも知れないけれど、兄さんってときどき面白い夢を見るのね”

 “それがここじゃなく、あのふるさとの家だったというところに何か意味があるのさ”とぼくは言った、“お前は見ないのかい? ふるさとの夢なんか”


試し読みできます

225

 “だいたい夢って、見ることはあっても、朝まで覚えていることがないのよ”と、リサは言った、“毎日、どんな夢を見てるんでしょうね、あたしって”

 “お前のその頭を、ぼくのこの手で思い切り振ってやれば出て来るかも知れない”と、ぼくは言った、“一度、そうさせてくれるかい?”

 “やめてよ、そんな乱暴なことは”と、リサは恐れて言った、“そんなことされれば、目が回ってしまうじゃない”

 “やらないよ”と、ぼくは、向き直って言った、“こんなに景色のいいところなんだから、お前を悲しませるようなことは、何もやらないよ”

 

 “ぼくたちは、随分遠くまでやって来てしまった”しばらくしてから、ぼくは、ぽつりと言った、“そうは思わないかい?”

 “どういうこと? それは”と、リサは、疑問あり気に、ちらっとぼくを見て、言った。 “さっきお前は、一年程前にここに住んでいた頃のことを思い出す、と言ったね。でも、そのことは、もうあれから一年以上が過ぎたということを意味しているんだ”ぼくは言った、“あの頃からもう一年以上がだぜ…”

 “本当に早いわねえ”と、リサはしみじみと言った、“街にいると何も考えずに生活しているけれど、そのあいだにどんどん時が経ってしまうのねえ…”

 “…ここにいると、毎日がのんびりと過ぎて行く”と、ぼくは言った、“でも確実に一日の終わりはやってくるのさ。あるときは、憂いを帯びたような空の色を伴って、またあるときは、歓びとか、あこがれとか、希望の輝きを残しながらね。そのようにして、この辺も、徐々に暮れて行く。そのときが、一日でも一番美しい時さ。その美しいときが、ほんの少ししか続かないということが惜しまれるけどね。でもまた、翌朝は翌朝で、美しい朝が訪れる。そういう毎日を過ごしていると、次第に、そんな気がして来るんだ。ぼくたちは、随分遠くまでやって来てしまった、って。ここまでやって来る必要が、あったろうか、って…”

 “それ、どういう意味? あたしにはよく分からないわ”と、リサは言った。

 “お前も、一年以上も昔は、ここで生活していたことがあったんだ。そんな気になったことはなかったのかい?”と、ぼくは言った、“つまり、故郷を捨て、都会の生活も捨ててよくもまあ、こんな片田舎にまでやって来てしまったという、ぼくのこの人生のことを言っているのさ。ここまでやって来る必要があったのだろうか? もしそうなら、どうしてそこまでしなければならなかったのかって、つくづく考えるのさ。考えても答えは何も見つからないけれどね…”

 “人生って、そういうものなのよ”と、リサは言った、“あたしにもよくは分からないけど、人は、それぞれに生きて行く他はないわ”

 “正直な話し”と、ぼくは言った、“これからも先に人生があるなんて思うと、ぞっとするよ。だって何も、いいことなんて待っていそうもないんだからね。ぼくの人生はすべて、過去で終わってしまったんだ。


試し読みできます

226

つまり、ぼくの人生の一番いいときが、既に過去に存在したし、もうそれで十分だという気がするんだ。もう十分生きたという気がするからね、これ以上生きて、いいことがありそうな気がしないのさ。でも、今までの人生で満足しているわけじゃない。これでよかったなんて、とても言えそうもない人生だったし、昔のある時期を除いて、むしろ不満だらけの人生さ。それでときどきこう思うんだ。あの事件以降のぼくは、死んでしまったんだって。生きてはいないのさ。だから、これは不可能なことかも知れないけれど、それ以降のぼくの人生は、なかったものにして欲しいのさ。取り消しの効かないぼくの人生に、異議申し立てを行いたいんだ。そして、ぼくはもう一度、あの時点に戻って人生をやり直したい。それは、不可能なことだけれどもね。でも、やろうと思ってできないことじゃない。つまり、頭の中で、空想の中で、もう一度人生をやり直すのさ。恵みの少ないぼくに、幸いの多い人生を思い描くことは、困難を伴うだろうけれど、是非ともそうしたいと思うのさ。実際、ぼくが夢見、頭の中で考えているのは、こうなるわけのないもっと違ったぼくの人生なのさ。つまり、こんな風に孤独になるのじゃなくて、みんなと同じように生活をしているそんなぼくの姿なのさ。それは、今のぼくにはほとんど不可能なことかも知れないけれど、ぼくが空想の中ででも実現したい、もう一つのぼくの姿なのさ…”

 “兄さんはそれを、これから書こうと言うわけ?”とリサは、真剣な表情をして言った。

 “ああ、それがあるから、ぼくは今後も生き続けることができるのさ”

 “寂しい兄さん”とリサは言った、“兄さんはまだまだ色んな風に生きれるのに、そんな修道僧のような人生を選ぶなんて。兄さんは、兄さんが思っているほど孤独じゃないわ。ちゃんとあたしという妹がついているんですからね。それにあたしは、今までの人生を、恨んだり、悔やんだりなんかしない。でもそれは、人それぞれの考え方で、兄さんがそう思うのなら仕方がないわ。兄さんがこれから、そういう人生を選ぶと言うのなら、いいわ、あたしは黙って横から見守っていてあげる。応援もするわ。ねえ、こんなにか弱い妹が兄さんに声援を送っているのよ。それに答えるように、兄さんも頑張ってね”

 “そう言ってもらって嬉しいさ”と、ぼくは言った、“とくにお前のようなきれいな妹に言ってもらえるのはね。これから先、ほとんど無に等しいぼくの人生に張りができると言うものさ。もう生きる楽しみ、というものは期待できなくとも、これからは、書く楽しみ、空想の楽しみ、というものがぼくを待っている、というわけさ。これから何年生きれるかも分からない長い人生を、ぼくは執筆と、空想と、詩作にふけりながら過ごしたいと考えているのさ。そうしてこそ初めて、ぼくの人生の欠けていた部分は埋められ、満足の行くものになることができるだろう…”

 “兄さんがそう思うなら、そう思うようにやってよ”とリサは言った、“あたしも読者になるわ。姉さんだってきっと読者になってくれるに違いないわ。だから、いいものを作って。今から、それが出来る日が来るのを楽しみにしているわ。――でもただひと言、言わせてもらうわ。それに専念するのも結構だけど、他にも人生があるのだということを忘れないでね。例えば、あたしが今生きているような人生よ。人は生きて行くんだし、死んだ風に生きて行くことはできないものよ”


試し読みできます

227

 “今の言葉、肝に銘じておくよ”と、ぼくは言った、“ぼくは余りにも悲観的過ぎる。そうあってはならないと言うお前の言葉を、ちゃんと、ぼくの胸の中にしまい込んでおくよ”

 そう言って、ぼくは微笑みをリサに送った。ぼくがつい今しがた恋人のように感じた彼女、その彼女が、ぼくの心の中までも覗き込み、声援を送ってくれさえしてくれたのだ。この地上に、こんな幸せなことがまたとあるだろうか? ぼくはもう、きのうのように孤独ではなかった。きのうのように寂しいとは感じなかった。逆に、幸せで震えていた。こんなきれいで、心の優しい妹が、きょうこの日、ぼくの傍らで、この美しい草原の木陰に坐っていて、しかも肩を寄せ合うようにしながら、共に人生について語り合っていたのだから…

 

 “…ねえ、あの青い山を越えて、山の向こうのあの白い雲のところまで飛んで行きたい。そんな気がしないかい?”とぼくは、心が晴れて言った、“それは同時に、ぼくが今ここにいる、この現在をも飛び越えてしまうことを意味しているようにも思えるんだ。遠いあの雲が呼んでいるのは、ぼくの過去なのだろうか、それとも未来なのだろうか… あの山にさえ切られた向こうには、ぼくの過去があるし、未来もある。そんな気がするんだ。様々な過去、ぼくの人生の後ろ側の世界さ。それが、あの山を見ていると、その背後に見えて来るような気がするのさ。その一つ一つを、ぼくは書きたい。なぜって、その一つ一つは、ぼくの生きた証しなのだからさ。今も目に浮かぶ。遠いぼくの子供の頃――それはなんと、遠くへ行ってしまったのだろう。あの遠い、小さかった頃のお前が、今はこんなに大きくなって、ぼくの横にいる。おかげで、もうぼくは、小さかった頃の可愛らしかったお前の姿を、永久に見ることができないのさ。…しかし、あの山の向こうの雲の下には、小さなお前が今も住んでいるような、そんな気がするのさ。時って、不思議だとは思わないかい?”

 “あたしたちの子供の頃は、もう済んでしまったわ”と、リサは冷静に言った、“でもあたしたちの心の中には、まだ子供時分が生きている。兄さんがそれを復活させ、書きたいと言うのなら、誰もそれを止める者はいないわ。現実のあたしは、もう子供に戻ることは無理だけど、兄さんの頭の中で自由に、あたしを子供に戻してもらっても結構よ”

 “いや、今のお前はお前さ”と、ぼくは言った、“今のお前が一番きれいだよ。このときを逃すわけには行かない。あとになって、今のお前が一番きれいだったと思う日が、きっと来るはずさ。そんなときの為にも、今を見つめることが大切なのさ…”

 “あたしがおばあさんになれば、きっとあの頃は良かったって思うに違いないわね”と言って、リサは笑った、“ねえ、今を見つめることが大切だと言うのなら、もっとお互い、見つめ合いましょうよ。子供の頃がそうだったように。今、生きているあたしを見つめて。今、生きている兄さんを見つめるわ。あたしたちは今、生きているのよ。ここで、この今…”


試し読みできます

228

 “そうだね…”と、ぼくは言った、“お前ははるばると、久し振りに田舎に帰って来た。せっかく遠くから帰って来たんだから、もっと歓迎をしてやらなくっちゃ。さっき、ぼくは、故郷を捨て、都会を捨てて、と言った。ぼくはそれでお終いだけど、お前はさらに、この田舎まで捨てたんだから、そんなお前に、心から乾杯さ”

 そう言ってグラスをかかげるふりをすると、リサは、かたわらに坐ったまま笑顔で答えてくれた。ほの暖かい草むらに、爽やかな風が駆け抜け、なんと言うこともなく、心地良かった…

 

 “…ねえ、昔は、目の前に広がる草原や、向こうに見えるあの森のような所で、お前たちとはしゃぎ回ったものさ。そういう時代はもう帰っては来ない”と、ぼくは、ぽつりと言った、“でも、今は今で、今のお前がいい。せっかくお前はこの田舎に帰って来たんだから、もっと楽しい話しをしなくっちゃ”

 そう言って、ぼくはふと、リサの方に目をやった。彼女は、うっとりと、遠くの方を眺めている。その彼女の横顔は美しかったし、ぼくは、彼女の表情の奥に、ちらっと、自分たちの遠い、過去の時代を見る思いがした。

 “確かに人間は、詩だけでは生きては行けない”と、ぼくは言った、“またそれだけが人生だと言うわけでもない。もっと色々と人生というものがあるはずさ。これからもぼくは、色んなことを試して見たい… さあ、そろそろ行こうか、リサ”

 そう言って、ゆっくりと、ぼくは立ち上がった。立ち上がると、ぼくは、それとなく、草原の方に走った。それから振り返ると、彼女に向かって言った、

 “おいでよ、気持がいいよ!”

 リサは、ゆっくりと樫の木の根っこで立ち上がると、ぼくの方に向かって歩いて来た。

 “見て御覧”と、ぼくは、とぼとぼと歩いて来た彼女が来るなり言った、“見渡す限り草原さ。ここがぼくの世界で、この広い世界に、今、ぼくとお前しかいないのさ。ねえ、この素晴らしい空気を思い切り吸おうじゃないか”

 そう言って、ぼくは、両手を下に広げ、気持良さそうに目を閉じると、思い切り深呼吸をした。リサは、そんなぼくを、傍らに立って、ぽかんと見つめていた。

 ヒンヤリした風が心地良かった。

 “ねえ、それじゃ女王様”と言って、ぼくは彼女のそばに歩み寄ると、ひょいと彼女を両手で抱き上げた。

 リサは余りの突然で驚いた顔をしたが、すぐされるままになり、ぼくに抱かれたまま、片方の腕をぼくの背に回した。彼女の体重と感触とが、すぐぼくの両腕に伝わった。ぼくは彼女の愛らしい目や髪を見つめ、そして言った、“あの自転車の置いてあるところまで抱いて参じましょ”

 “あたしって、重い?”と、リサはにっこりして、ぼくに言った。



読者登録

sylaireさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について