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 彼女は、今やすっかり向き直ると、ぼくに対峙するような恰好で言った、

 “それで、どこへ行くつもり?”

 ぼくは、草むらに立ちはだかっている彼女の全身をまじまじと見つめた、しかし、それは、彼女に悟られないようにほんの一瞬のことだった。

 “今から天国にでも行ってみるかい?”と、ぼくは言った。

 “行けるものならね”と、リサはにっこりして答えた。

 “お前って、いつもきれいだね”とぼくは、白状せずにはいられなかった。ぼくの目には、背景に草むらと小川があり、両足を少し開き加減に、青空に向かって突っ立っている彼女の姿が映っていた。リサの顔は、逆光となって少し暗かったが、美しいのには変わりがなかった。すぐ目の前にいるそんなリサを、ぼくは、どうすればいいと言うのだろう?

 “ちょっと変よ。兄さんって、急にあたしを見つめたりして”とリサは、当惑顔になって、ぼくに言った。

 “御免。あんまりお前が、きれいなもんだから”と、ぼくは言って謝った、“お前って、罪作りなところのある女さ、つくづく”と、ぼくは続けた、“お前のきれいさに心を奪われないような男なんて、どこにいるだろう?”

 “嬉しいわ。そんな言葉を言ってもらって”と、リサはにっこりして答えた、“でも、このまま立っているわけにも行かないわ。どうするの?”

 “そうだね”と、ぼくは、我に返ったような気がして、言った、“きょうはこんなにいい天気なんだから、もう少し遠くまで行ってみようよ。ねっ、いいだろう? 久し振りにお前が帰って来たんだから、きょうは子供に返ったような気持で、ひとつ、地平線でも追いかけてみようじゃないか”

 リサは、心からあふれるような笑顔になって、ぼくに手を差し出して、言った、

 “いいわ。それじゃ、行きましょ”

 ぼくは、彼女の手を取ると、二人で、丘の、自転車を乗り捨ててある上の方まで足早に登って行った。

 

 再び、風を切る自転車の旅が始まった。道は細く、また上下左右にうねっていたので、漕いで行くのはひと苦労だった。しかし、なだらかな草むらと、森と、うろこ雲におおわれた、かすむような地平線と、その眺めの美しさに、疲れはいやされそうだった。リサは、ぼくのすぐ後ろを、風を切ってついて来た。ときどき見える彼女のきれいな足が、ぼくの目を楽しませた。時々ぼくは自転車を止め、下の方に広がる森や、民家や、向こうの丘などを指さし、彼女に場所の説明をしてやった。時折り空を横切って行くかっこうの巣が、あの森のどの辺にあるかまで、ぼくは知っていた。

 

 “もうこの辺でいいわ”とリサは言って、疲れたように、樫の幹に背をもたせかけると、地べたに両足を投げ出して、坐り込んだ。ただ、スカートだけは、めくれないように両手で、しっかりと押さえていた。


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それから、ぐったりとして、顔を空に向けると、まぶしそうに目を細めながら、空を見つめた。彼女のところには、木洩れ陽が射し込み、彼女の全身に、明るい光と影とのまだら模様を形づくっていた。

 ぼくも、自転車を置くと、彼女のそばまで歩いて行った。

 “疲れたかい?”と、ぼくは、彼女のそばに立つと言った。

 彼女は疲れ、暑そうだった。しかし、ぼくも、リサと同じように疲れていた。ぼくも、リサに習って、その場にしゃがむと、彼女の横に並んで坐った。そして、つくづくと周囲の景色を眺めた。周りは一面の草むらで、遠くには、青い、地肌がむき出しのそう高くない山が二つ、あいだに谷を造るように並んでいて、その谷間には、さらに遠くの、いっそう青い山と、その彼方の、うっすらと、筋のような雲とが見えていた。空気は澄んで、緑が美しかった。山のふもとの林の陰に、ほんの少し、民家の屋根がのぞいて見える。空は穏やかで、山の青さが素晴らしかった。

 リサは、ぼんやりと、穏やかな空を眺めていた。ぼくも、彼女と並びながら、彼女が見つめている淡い空の一点を見つめた。

 “ねえ、何か見えるかい?”と、ぼくは、それとなく尋ねた。

 “何も”と、リサは、うっとりとしながら答えた、“ただ、白い雲が見えるだけ。でも、帰って来て本当によかったわ。こんなにのんびりして、落ち着けることができるんですもの…”

 “そう思ってもらえて嬉しいよ”と、ぼくは言った、“忙しいお前にとっちゃ、ここは久し振りの田舎かも知れないけれど、ぼくにとっちゃここは、おなじみの場所なんだ。でも、いつ来てもいい。ここへ来るたびに、ぼくは、あの山の向こうに、あの谷間の向こうに見えるあの山の向こうまでも行ってみたい、という気にかられるんだ。そう高くなさそうな山だから、山頂まで登って降りて―― そうすれば気分も爽快だろうな。そんなことを考えるんだけど、実はまだ一度も実行したことがないんだ…”

 リサは、ぼくに言われるままに、青い岩肌の山の方に目を向けた。岩肌だけど、ふもとの方には美しい緑が広がっている。

 “兄さんって、いつもこんなところで、自然との対話をしているのね”と、リサは、ぽつりと言った、“でも、考えてみれば、それもなかなかいい生活ね。あたしも、つい一年程前、そんな生活をしていた頃のことを思い出すわ。でも、そんなことがあったって、まるで夢みたい”

 “夢じゃなく、本当にあったのさ”と、ぼくは言った、“お前は、ここへまではまだ来たことがなかったかも知れないけどね。――でも、この辺には、ぼくたちの知らない場所がまだいくらでもある。そしてそれぞれが、新しい発見でもあるし、驚きでもあるんだ。そういうものを次々にもたらしてくれるから、ぼくはここが好きさ。ぼくの心を、いつでも、帰ろうと思えば、童心に帰らせてくれるし、またある霊感を与えてもくれるんだ。そういうここが、ぼくは大好きさ”

 “他へは行こうとは思わないの?”と、リサは尋ねた。


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 “まだこの辺が、大きな魅力で包まれている限りはね”と、ぼくは答えた、“でも他にも、魅力に富んだ土地がいくつもあることを、ぼくは知っている。セーラがいた場所がそうだったし、ぼくたちの生まれ故郷だってそうだ。…いつか、生まれ故郷に行って見たいとは思わないかい?”

 それとなく水を向けた言葉に、リサは、黙って考え込むような顔になった。

 “そうね、いつか暇ができればね”と、リサはやがて言った、“もう随分長いあいだ行っていないんだから、故郷の様子も変わっているでしょうね。でも、一度は行ってみたいわ。それもひとりじゃなく、兄さんと一緒にね”

 “いつかお前は、そのことを言っていたことがあったんだよ”と、ぼくは、それとなくリサに言った、“――でもお前は、それを実現する前に、この家から出て行ってしまった”

 “あら、御免なさい”と言ってリサは、ぼくを見た、“そう言えば昔、兄さんにそんなことを言ったことがあるような気がするわ。でも、すっかり忘れてしまって。――でも、今度こそ本当よ。いつか、必ず行きましょうよ”

 “いつか必ずね”と、ぼくは答えた、“いつか、お前と二人きりで故郷に行ける日が来ることを、ぼくはこれからもずっと楽しみにしているからね。行ってみれば、なんだこれだけのことかとがっかりするかも知れないけれど、でもあそこは、なんと言ってもぼくたちのふるさとなんだからね。ぼくたちのあの家がまだそのまま残っていれば幸いさ。あそこには、ぼくたちの学校もあれば、よく遊んだ小川や森もある。パパの勤めていた町の高校もあれば、ママが一時働いていたあの汚らしい養鶏場は、今どうなっているだろうか?”

 “みんなきっと、今も残っているわよ”と、リサは答えた。

 “そうならいいんだけど”と、ぼくは言った、“こんな風に考えると、あの頃のふるさとの様子が目に映ってくるな。実は、ぼくは最近、おかしな夢を見たんだ。それは間違いなく、ふるさとのあの家だった。ぼくは、窓から身を乗り出すようにして、西の空を見つめていた。というのも、雲が厚くて、太陽の円い姿が、ほんのかすかにしか見えていなかったからさ。おかげで陰気な気分にさせられたし、実際、周りも陰気だった。ところが、おもての方から友だちの声が聞こえて、ぼくはその方に振り向いた。それは、こちら側とは反対側南の玄関の方から聞こえて来たんで、ぼくはそちらへすっ飛んで行ったんだけど、すると南側の窓から急に明るい日光が、パッと差し込んだんで、ぼくは驚いたのさ。今、向こう側で、沈み行くばかりの陰気臭い太陽を見ていたばかりじゃなかったのかい? それなのにこの明かりは、一体どこから来ているのだろう? しかしそのときはそんなに疑問にも思わず、友だちの待っている明るい外の方へ ぼくは飛んで行った”

 “つまり、太陽が二つあったというわけ?”と、リサは言った、“どこかの天体ならそんなところもあるかも知れないけれど、兄さんってときどき面白い夢を見るのね”

 “それがここじゃなく、あのふるさとの家だったというところに何か意味があるのさ”とぼくは言った、“お前は見ないのかい? ふるさとの夢なんか”


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 “だいたい夢って、見ることはあっても、朝まで覚えていることがないのよ”と、リサは言った、“毎日、どんな夢を見てるんでしょうね、あたしって”

 “お前のその頭を、ぼくのこの手で思い切り振ってやれば出て来るかも知れない”と、ぼくは言った、“一度、そうさせてくれるかい?”

 “やめてよ、そんな乱暴なことは”と、リサは恐れて言った、“そんなことされれば、目が回ってしまうじゃない”

 “やらないよ”と、ぼくは、向き直って言った、“こんなに景色のいいところなんだから、お前を悲しませるようなことは、何もやらないよ”

 

 “ぼくたちは、随分遠くまでやって来てしまった”しばらくしてから、ぼくは、ぽつりと言った、“そうは思わないかい?”

 “どういうこと? それは”と、リサは、疑問あり気に、ちらっとぼくを見て、言った。 “さっきお前は、一年程前にここに住んでいた頃のことを思い出す、と言ったね。でも、そのことは、もうあれから一年以上が過ぎたということを意味しているんだ”ぼくは言った、“あの頃からもう一年以上がだぜ…”

 “本当に早いわねえ”と、リサはしみじみと言った、“街にいると何も考えずに生活しているけれど、そのあいだにどんどん時が経ってしまうのねえ…”

 “…ここにいると、毎日がのんびりと過ぎて行く”と、ぼくは言った、“でも確実に一日の終わりはやってくるのさ。あるときは、憂いを帯びたような空の色を伴って、またあるときは、歓びとか、あこがれとか、希望の輝きを残しながらね。そのようにして、この辺も、徐々に暮れて行く。そのときが、一日でも一番美しい時さ。その美しいときが、ほんの少ししか続かないということが惜しまれるけどね。でもまた、翌朝は翌朝で、美しい朝が訪れる。そういう毎日を過ごしていると、次第に、そんな気がして来るんだ。ぼくたちは、随分遠くまでやって来てしまった、って。ここまでやって来る必要が、あったろうか、って…”

 “それ、どういう意味? あたしにはよく分からないわ”と、リサは言った。

 “お前も、一年以上も昔は、ここで生活していたことがあったんだ。そんな気になったことはなかったのかい?”と、ぼくは言った、“つまり、故郷を捨て、都会の生活も捨ててよくもまあ、こんな片田舎にまでやって来てしまったという、ぼくのこの人生のことを言っているのさ。ここまでやって来る必要があったのだろうか? もしそうなら、どうしてそこまでしなければならなかったのかって、つくづく考えるのさ。考えても答えは何も見つからないけれどね…”

 “人生って、そういうものなのよ”と、リサは言った、“あたしにもよくは分からないけど、人は、それぞれに生きて行く他はないわ”

 “正直な話し”と、ぼくは言った、“これからも先に人生があるなんて思うと、ぞっとするよ。だって何も、いいことなんて待っていそうもないんだからね。ぼくの人生はすべて、過去で終わってしまったんだ。


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つまり、ぼくの人生の一番いいときが、既に過去に存在したし、もうそれで十分だという気がするんだ。もう十分生きたという気がするからね、これ以上生きて、いいことがありそうな気がしないのさ。でも、今までの人生で満足しているわけじゃない。これでよかったなんて、とても言えそうもない人生だったし、昔のある時期を除いて、むしろ不満だらけの人生さ。それでときどきこう思うんだ。あの事件以降のぼくは、死んでしまったんだって。生きてはいないのさ。だから、これは不可能なことかも知れないけれど、それ以降のぼくの人生は、なかったものにして欲しいのさ。取り消しの効かないぼくの人生に、異議申し立てを行いたいんだ。そして、ぼくはもう一度、あの時点に戻って人生をやり直したい。それは、不可能なことだけれどもね。でも、やろうと思ってできないことじゃない。つまり、頭の中で、空想の中で、もう一度人生をやり直すのさ。恵みの少ないぼくに、幸いの多い人生を思い描くことは、困難を伴うだろうけれど、是非ともそうしたいと思うのさ。実際、ぼくが夢見、頭の中で考えているのは、こうなるわけのないもっと違ったぼくの人生なのさ。つまり、こんな風に孤独になるのじゃなくて、みんなと同じように生活をしているそんなぼくの姿なのさ。それは、今のぼくにはほとんど不可能なことかも知れないけれど、ぼくが空想の中ででも実現したい、もう一つのぼくの姿なのさ…”

 “兄さんはそれを、これから書こうと言うわけ?”とリサは、真剣な表情をして言った。

 “ああ、それがあるから、ぼくは今後も生き続けることができるのさ”

 “寂しい兄さん”とリサは言った、“兄さんはまだまだ色んな風に生きれるのに、そんな修道僧のような人生を選ぶなんて。兄さんは、兄さんが思っているほど孤独じゃないわ。ちゃんとあたしという妹がついているんですからね。それにあたしは、今までの人生を、恨んだり、悔やんだりなんかしない。でもそれは、人それぞれの考え方で、兄さんがそう思うのなら仕方がないわ。兄さんがこれから、そういう人生を選ぶと言うのなら、いいわ、あたしは黙って横から見守っていてあげる。応援もするわ。ねえ、こんなにか弱い妹が兄さんに声援を送っているのよ。それに答えるように、兄さんも頑張ってね”

 “そう言ってもらって嬉しいさ”と、ぼくは言った、“とくにお前のようなきれいな妹に言ってもらえるのはね。これから先、ほとんど無に等しいぼくの人生に張りができると言うものさ。もう生きる楽しみ、というものは期待できなくとも、これからは、書く楽しみ、空想の楽しみ、というものがぼくを待っている、というわけさ。これから何年生きれるかも分からない長い人生を、ぼくは執筆と、空想と、詩作にふけりながら過ごしたいと考えているのさ。そうしてこそ初めて、ぼくの人生の欠けていた部分は埋められ、満足の行くものになることができるだろう…”

 “兄さんがそう思うなら、そう思うようにやってよ”とリサは言った、“あたしも読者になるわ。姉さんだってきっと読者になってくれるに違いないわ。だから、いいものを作って。今から、それが出来る日が来るのを楽しみにしているわ。――でもただひと言、言わせてもらうわ。それに専念するのも結構だけど、他にも人生があるのだということを忘れないでね。例えば、あたしが今生きているような人生よ。人は生きて行くんだし、死んだ風に生きて行くことはできないものよ”



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