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 “あたしには不可能よ。人を救うなんて”と、リサは、伸ばしていた膝を折り曲げて、そこに腕を回し、頬をすり寄せるようにして言った。

 静かで、穏やかな一日だった。川は、ゆったりと流れ、草むらや、枝の葉がときどき風にそよいだ。対岸の濃い森の色づきも、風にざわざわと揺れ、真青な空に浮かぶ雲も穏やかだった。しかし、それらの光景には、明らかに、忍び寄る冬の気配が、そして、この地表をおおう孤独が、感じられた。ぼくたちは、二人しても、なお孤独だった。青い空に向けて、風にそよぐ大小の木の葉が、この孤独感を、いや増した…

 “リサ”と言って、ぼくは、彼女の腰に手を回し、ぼくの方に引き寄せた。彼女のぬくもりが、ぼくの手の平や、体に伝わった、“ぼくたちは恋人じゃない。だから、結婚も、ハネムーンもぼくたちにはあり得ない。永久におあずけさ。いつもこのままの状態でしかないのさ。誰にも祝福されることなく、人目を忍んでいるようにね。それでもぼくたちは、二人さ。誰の目にも止まらずとも、この世の中で、ちゃんと、ぼくたちは生きている。――でも、生きているという実感を味わいたい。もっともっと味わいたいんだ。もっともっと生きて、生きまくって、満足な人生を送って、そうして死んで行きたいのさ。――それなのに、どうしてぼくには、それができないんだろう。いつもいつも、こんな孤独な人生を送っているんだろう…”

 リサは黙って聞いていた。ぼくたちの頭上には、やがて急に雲の影がおおい、風が周囲の木立や、草むらを震わせた。ただ、丘の上の方だけが、光に輝き、数本の落葉した異様な樹木の姿と共に、ぼくの目を誘った。リサは、ぼくに抱き寄せられるようにして、この静かな時を、生きていた。この、細くて、弱々しい体が、はるばると、この時の為に尋ねて来てくれ、しかも、ぼくが話しかけることが出来、信頼することのできる唯一の妹でもあった。ぼくは改めて彼女を見つめ、こんな可愛い、すべてを分かち合える妹がいたことを、神に感謝した。彼女の弱々しい姿は、それだけでも、ぼくに生きる勇気と力とを奮い立たせてくれるに十分なものだった。なぜなら、彼女は、この世で最もはかない姿に映るがゆえに、ぼくの助けを必要としていたのだから…

 “…ぼくのまだ見ぬ人、ぼくの知らない社会、この広い世の中には、そんなものが、まだまだいくらでもあるはずなんだ。ぼくは、そういう社会に向かって行きたい”とぼくは、心を込めて言った、“お前を見ていると、そうしなくちゃならない、という気がしてくるよ。お前の為にも、ぼくは、じっとしていてはならないんだ。何かしなくちゃならない。お前を、ここで、氷のように凍らせるわけには行かないからね。むしろ、喜べるようにしてあげなくちゃ。ぼくは今、そのことに気が付いたのさ。お前を見ていて、お前の美しい、優しい魂に触れることができて、そう気がついたんだ。お前のその心に、ぼくは答えなくてはね。お前の心は、何も言わなくとも、ぼくの心を突き通すに十分なのさ。ぼくは、お前のその目を見るだけで分かる。お前が、ぼくに何を言っているか、ということがね…”

 “兄さん”と、やがてリサは、ぼくの方を見て言った、“あたしと兄さんとは、長い付き合いだったわ。でもやがて、さよならを言わなくちゃならない。そのことは悲しい?”


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 “うーうん”と言って、ぼくは首を横に振った、“そのことは慣れているさ。お前を失うことも。――でもお前のことは、いつまでも、忘れないでいたいものさ…”

 “あたしも”とリサは言った、“兄さんのことは、いつまでも忘れないわ。たとい別々の生活をするようになってもね、どこかではつながっているのよ。頭の隅とか、心のどこかでね。これから先、いつでもどこかで、兄さんのことを考えていると思っていてちょうだい、お願いね…”

 “ああ、そう思わせてもらうよ”と、ぼくは言った、“思わせてもらうだけで、十分さ。お前の優しい心――それを感じさせてもらえるだけで、十分なのさ…”

 川は静かに流れ行く。このさわやかなそよ風と、うねり行く草むら。光に輝く、小さき花々。ぼくは確かに感じていた、心に立ち昇る恋と絶望とを。ぼくは今、初めて知った、このか弱い妹に恋を感じていることを。しかしそれは報われることのない恋。いずれ、離別と絶望に引き裂かれる運命にある恋だった。この悲しみを、どのようにして埋め合わせればいいと言うのだろう? 彼女に触れることはできても、彼女と話すことはできても、彼女の快活な姿を見て暮らす、ということだけは許されない… この苦しみを、どのようにして克服することができると言うのだろう? 美しい空の青さだけでは、また夕陽の輝かしいあかね色だけでは、満たされはしない。ぼくは、彼女のか弱い美しさと、心の優しさとに触れて心を揺り動かされ、やがて失われるべき恋に、身を焼かれる思いをする他はなかった。誰に向かってこの苦しい心のうちを、はり叫べばいいと言うのだろう? 一体、誰に向かって?

 “ねえ、リサ”と、ぼくは、心の中では、泣きながら言った、“お前はきれいだね。こんなきれいな妹を、きれいな妹が、誰かのものになるなんて、ぼくは悔しいな。そういう幸せな男の顔を見ることができたなら、ぼくは一生、そいつを恨んでやりたいぐらいさ。だって、こんなきれいなお前を、ものにすることができるんだからね。――でも、今の言葉、気にしないでね。馬鹿な兄が言っているたわごとだと思って、聞き流しておくれよね…”

 リサは黙ったまま、何も答えなかった。それでいいのだ、この場で彼女の声を聞けば、ぼくは本当に泣いてしまったことだろう。彼女のか弱い、しっとりした顔を見ているだけで、今は、泣かずにいることができたのだから…

 

 白い雲を映した小川が、ゆっくりと流れている。ぼくは、草むらから立ち上がって、リサに手を差し伸べた。彼女は、立っているぼくを見上げ、ぼくの手を取ってゆっくりと立ち上がった。スカートや背中についたほこりを払った後、彼女は周りを見回した。ぼくは、そんな、自然な彼女をじっと眺めていた。リサは、ぼくのまなざしを意識してか、ぼくの方に振り返るようにして言った、

 “まだどこか、ほこりがついている?”

 “いや、もう大丈夫さ”と、ぼくは、彼女の背中やスカートを見ながら答えた。


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 彼女は、今やすっかり向き直ると、ぼくに対峙するような恰好で言った、

 “それで、どこへ行くつもり?”

 ぼくは、草むらに立ちはだかっている彼女の全身をまじまじと見つめた、しかし、それは、彼女に悟られないようにほんの一瞬のことだった。

 “今から天国にでも行ってみるかい?”と、ぼくは言った。

 “行けるものならね”と、リサはにっこりして答えた。

 “お前って、いつもきれいだね”とぼくは、白状せずにはいられなかった。ぼくの目には、背景に草むらと小川があり、両足を少し開き加減に、青空に向かって突っ立っている彼女の姿が映っていた。リサの顔は、逆光となって少し暗かったが、美しいのには変わりがなかった。すぐ目の前にいるそんなリサを、ぼくは、どうすればいいと言うのだろう?

 “ちょっと変よ。兄さんって、急にあたしを見つめたりして”とリサは、当惑顔になって、ぼくに言った。

 “御免。あんまりお前が、きれいなもんだから”と、ぼくは言って謝った、“お前って、罪作りなところのある女さ、つくづく”と、ぼくは続けた、“お前のきれいさに心を奪われないような男なんて、どこにいるだろう?”

 “嬉しいわ。そんな言葉を言ってもらって”と、リサはにっこりして答えた、“でも、このまま立っているわけにも行かないわ。どうするの?”

 “そうだね”と、ぼくは、我に返ったような気がして、言った、“きょうはこんなにいい天気なんだから、もう少し遠くまで行ってみようよ。ねっ、いいだろう? 久し振りにお前が帰って来たんだから、きょうは子供に返ったような気持で、ひとつ、地平線でも追いかけてみようじゃないか”

 リサは、心からあふれるような笑顔になって、ぼくに手を差し出して、言った、

 “いいわ。それじゃ、行きましょ”

 ぼくは、彼女の手を取ると、二人で、丘の、自転車を乗り捨ててある上の方まで足早に登って行った。

 

 再び、風を切る自転車の旅が始まった。道は細く、また上下左右にうねっていたので、漕いで行くのはひと苦労だった。しかし、なだらかな草むらと、森と、うろこ雲におおわれた、かすむような地平線と、その眺めの美しさに、疲れはいやされそうだった。リサは、ぼくのすぐ後ろを、風を切ってついて来た。ときどき見える彼女のきれいな足が、ぼくの目を楽しませた。時々ぼくは自転車を止め、下の方に広がる森や、民家や、向こうの丘などを指さし、彼女に場所の説明をしてやった。時折り空を横切って行くかっこうの巣が、あの森のどの辺にあるかまで、ぼくは知っていた。

 

 “もうこの辺でいいわ”とリサは言って、疲れたように、樫の幹に背をもたせかけると、地べたに両足を投げ出して、坐り込んだ。ただ、スカートだけは、めくれないように両手で、しっかりと押さえていた。


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それから、ぐったりとして、顔を空に向けると、まぶしそうに目を細めながら、空を見つめた。彼女のところには、木洩れ陽が射し込み、彼女の全身に、明るい光と影とのまだら模様を形づくっていた。

 ぼくも、自転車を置くと、彼女のそばまで歩いて行った。

 “疲れたかい?”と、ぼくは、彼女のそばに立つと言った。

 彼女は疲れ、暑そうだった。しかし、ぼくも、リサと同じように疲れていた。ぼくも、リサに習って、その場にしゃがむと、彼女の横に並んで坐った。そして、つくづくと周囲の景色を眺めた。周りは一面の草むらで、遠くには、青い、地肌がむき出しのそう高くない山が二つ、あいだに谷を造るように並んでいて、その谷間には、さらに遠くの、いっそう青い山と、その彼方の、うっすらと、筋のような雲とが見えていた。空気は澄んで、緑が美しかった。山のふもとの林の陰に、ほんの少し、民家の屋根がのぞいて見える。空は穏やかで、山の青さが素晴らしかった。

 リサは、ぼんやりと、穏やかな空を眺めていた。ぼくも、彼女と並びながら、彼女が見つめている淡い空の一点を見つめた。

 “ねえ、何か見えるかい?”と、ぼくは、それとなく尋ねた。

 “何も”と、リサは、うっとりとしながら答えた、“ただ、白い雲が見えるだけ。でも、帰って来て本当によかったわ。こんなにのんびりして、落ち着けることができるんですもの…”

 “そう思ってもらえて嬉しいよ”と、ぼくは言った、“忙しいお前にとっちゃ、ここは久し振りの田舎かも知れないけれど、ぼくにとっちゃここは、おなじみの場所なんだ。でも、いつ来てもいい。ここへ来るたびに、ぼくは、あの山の向こうに、あの谷間の向こうに見えるあの山の向こうまでも行ってみたい、という気にかられるんだ。そう高くなさそうな山だから、山頂まで登って降りて―― そうすれば気分も爽快だろうな。そんなことを考えるんだけど、実はまだ一度も実行したことがないんだ…”

 リサは、ぼくに言われるままに、青い岩肌の山の方に目を向けた。岩肌だけど、ふもとの方には美しい緑が広がっている。

 “兄さんって、いつもこんなところで、自然との対話をしているのね”と、リサは、ぽつりと言った、“でも、考えてみれば、それもなかなかいい生活ね。あたしも、つい一年程前、そんな生活をしていた頃のことを思い出すわ。でも、そんなことがあったって、まるで夢みたい”

 “夢じゃなく、本当にあったのさ”と、ぼくは言った、“お前は、ここへまではまだ来たことがなかったかも知れないけどね。――でも、この辺には、ぼくたちの知らない場所がまだいくらでもある。そしてそれぞれが、新しい発見でもあるし、驚きでもあるんだ。そういうものを次々にもたらしてくれるから、ぼくはここが好きさ。ぼくの心を、いつでも、帰ろうと思えば、童心に帰らせてくれるし、またある霊感を与えてもくれるんだ。そういうここが、ぼくは大好きさ”

 “他へは行こうとは思わないの?”と、リサは尋ねた。


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 “まだこの辺が、大きな魅力で包まれている限りはね”と、ぼくは答えた、“でも他にも、魅力に富んだ土地がいくつもあることを、ぼくは知っている。セーラがいた場所がそうだったし、ぼくたちの生まれ故郷だってそうだ。…いつか、生まれ故郷に行って見たいとは思わないかい?”

 それとなく水を向けた言葉に、リサは、黙って考え込むような顔になった。

 “そうね、いつか暇ができればね”と、リサはやがて言った、“もう随分長いあいだ行っていないんだから、故郷の様子も変わっているでしょうね。でも、一度は行ってみたいわ。それもひとりじゃなく、兄さんと一緒にね”

 “いつかお前は、そのことを言っていたことがあったんだよ”と、ぼくは、それとなくリサに言った、“――でもお前は、それを実現する前に、この家から出て行ってしまった”

 “あら、御免なさい”と言ってリサは、ぼくを見た、“そう言えば昔、兄さんにそんなことを言ったことがあるような気がするわ。でも、すっかり忘れてしまって。――でも、今度こそ本当よ。いつか、必ず行きましょうよ”

 “いつか必ずね”と、ぼくは答えた、“いつか、お前と二人きりで故郷に行ける日が来ることを、ぼくはこれからもずっと楽しみにしているからね。行ってみれば、なんだこれだけのことかとがっかりするかも知れないけれど、でもあそこは、なんと言ってもぼくたちのふるさとなんだからね。ぼくたちのあの家がまだそのまま残っていれば幸いさ。あそこには、ぼくたちの学校もあれば、よく遊んだ小川や森もある。パパの勤めていた町の高校もあれば、ママが一時働いていたあの汚らしい養鶏場は、今どうなっているだろうか?”

 “みんなきっと、今も残っているわよ”と、リサは答えた。

 “そうならいいんだけど”と、ぼくは言った、“こんな風に考えると、あの頃のふるさとの様子が目に映ってくるな。実は、ぼくは最近、おかしな夢を見たんだ。それは間違いなく、ふるさとのあの家だった。ぼくは、窓から身を乗り出すようにして、西の空を見つめていた。というのも、雲が厚くて、太陽の円い姿が、ほんのかすかにしか見えていなかったからさ。おかげで陰気な気分にさせられたし、実際、周りも陰気だった。ところが、おもての方から友だちの声が聞こえて、ぼくはその方に振り向いた。それは、こちら側とは反対側南の玄関の方から聞こえて来たんで、ぼくはそちらへすっ飛んで行ったんだけど、すると南側の窓から急に明るい日光が、パッと差し込んだんで、ぼくは驚いたのさ。今、向こう側で、沈み行くばかりの陰気臭い太陽を見ていたばかりじゃなかったのかい? それなのにこの明かりは、一体どこから来ているのだろう? しかしそのときはそんなに疑問にも思わず、友だちの待っている明るい外の方へ ぼくは飛んで行った”

 “つまり、太陽が二つあったというわけ?”と、リサは言った、“どこかの天体ならそんなところもあるかも知れないけれど、兄さんってときどき面白い夢を見るのね”

 “それがここじゃなく、あのふるさとの家だったというところに何か意味があるのさ”とぼくは言った、“お前は見ないのかい? ふるさとの夢なんか”



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