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そう思うと、秋の日ざしに照り映える彼女の花の姿も、ぼくにとって楽しいものではなく、むしろ苦痛を、やがて失われるものの苦痛を感じさせるものでしかなかった。そのことが、もどかしく、また、悲しかった…

 

 “…人生にはいろいろと、辛いことや、悲しいことがあるものなんだ”やがて、ポツリとぼくは言った、“とりわけ孤独の悲しみはねえ、不毛としか思われない…”

 ぼくは、目を細めて、うっとりと遠くを見つめている彼女をじっと見やりながら、さらに続けた。

 “人々が、自分たちの幸せの生活へ入って行くというのに、ぼくはいつもひとりで、それを遠くから見つめているだけでしかない。全く不毛としか言いようがないよ。街に出れば、特にそれを感じるから、ぼくは街に出て行くのが嫌いなんだ。人々の幸せそうな姿を見たって仕方がないからね。リサは聞いていなくていい。でも、ひとりでもしゃべらせてもらうさ。――時々、ぼくはどうしてこんなに孤独なのかと思うことがある。いつも、いつもひとりなのさ。誰とも交わらず、誰れにもめぐり会うことがない。世の中にはこんなにたくさん人々がいるというのに、ぼくはひとりぽっちなのさ。人々が言うように、別に理想が高いわけじゃない。恐らく――ぼくは無器用なんだ。世の中にうまく自分をはめ込んで行くことが、ぼくは苦手なのさ。世の中に出て、ぼくはいつも自分がはじき出されるのを、自分が用なしの人間であるのを、感じて来た… ぼくには何も、埋めるべき未来が待っていなかったのさ。だって、人との交わりのないぼくの人生に、どんな将来が約束されているというのだろう。いかなる指針もなく、全き自由の中にほうり出されたぼくには、自分で、一から始めるしかなかったのさ。ぼくは、誰かからこうすればいいなんて、教えられたことがない。全部、自分で見つけて行く他なかったんだ、それも、人との交わりのない孤独の中でね… そういう寂しさは、恐らくこれを経験した人しか分からないだろう。――ぼくは、誰かにこんなことを分かってもらいたいと思っているわけじゃない。ただこれは、ぼくにだけはめられた運命だと思って、黙って受容しているだけなのさ。だって、そのことを言える相手すら、もうぼくには誰もいないのだから…”

 秋の柔らかい光の中で、草むらに足を投げ出している彼女は、すぐそばに生えていたか細い草花に目を止め、それを指で触れながら、黙って、ぼくの話しを聞いていた…

 “本当の悲しみというものは”ぼくは、それとなく、続けた、“恐らく、この誰にも伝えることのできない悲しみなのさ。孤独の中に閉じ込められた悲しみと言ってもいいだろう。それは、聞いてくれる人の誰もいない、自分ひとりだけの悲しみなのさ。自分の泣いている姿が人に理解されるなら、そんな幸せなことはないのさ。しかし、自分の泣く姿が、自分ひとりだけのものなら、こんな悲しいことはない。人々の知られないところで泣いているとするなら、こんな悲しいことはないのさ。――ぼくはいつもひとりで、この悲しみを耐えて来た。人々の幸せそうな街が向こうに見えるのに、ぼくは、こちら側の荒野にひとりぽっちだったのさ。


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恐らくそれは、失恋の状態と言ってもいいだろう。自分の愛する人が飛行機で、別の人とハネムーンに飛び立つとき、失恋した男が、滑走路の外の路上から、ただひとり、その飛び立つ飛行機を見送っているときに感じるような悲しみなのさ。その男の悲しみは、自分ひとりだけで耐えるしかない悲しみなのさ。その飛行機は、明るい日射しをいっぱい浴びて、あのまっ青な大空に向かって、幸せを運んで飛んで行く。しかし、地上の荒野に残された男には、いかなる喜びも、希望も待ってはいないのさ。――ぼくは、その男が自分だと感じて来た。そして、飛び立つ飛行機は、ぼくの属さないこの世の中なのさ。それをつかもうとするぼくの指のあいだからすり抜けて、ぼくとは別の所に存在するこの世の中なのさ…”

 リサは、花をいじりながら、何か考えごとをしているようだったが、やがて振り向いて、ぼくを見つめながら、ひと言、ぼくに言った。

 “兄さんは、その飛行機に乗りたいとは思わないの?”

 優しい声だった。ぼくは、彼女の優しさに、心が痛くなるのを感じた。

 “乗れるものなら、乗ってみたかった”と、ぼくは弱々しく答えた、“――でも、もう不可能だろう。ぼくの人生は、メチャメチャだったからね。もう、元に戻してやり直すということはできない。ぼくは、もう過酷な運命に耐えて、しらけ切ってしまっているのさ。不幸なんて何も知らない幸せな人々が演ずるそんなお目出たい旅に同意することはできない。何も知らないうちなら、ぼくも、浮かれた気持で、そういうことも出来ただろう。でも、もう不幸というものを、知ってしまったのだ。後には戻れないよ…”

 “…でもどうして?”と、リサは、力を込めて言った、“どうして、そう簡単に諦めてしまうのよ。兄さんはまだ若いわ。これからだってチャンスがあるはずよ。人生を、今からもう一度やり直すことだって、できないことはないわ”

 “リサは何も知らないのさ”と、ぼくは言った、“ぼくの今迄の人生が、どんな人生だったかってことを。それは、ひと口に言って、呪われた人生で、ぼくは、自分の生活というものを、肯定する気にはなれないのさ。どう考えても、どのように見ても、肯定する気にはなれない。この社会との結びつきから言っても、そうなのさ。ぼくは幼い頃から孤独で、ひとりになるような、そんな定めだったのさ…”

 “そんな悲しいこと”リサの表情は、少し険しくなった、“どうしてそんな風に、惨めなほうへ考えてしまうのよ。あたしまで悲しい気持になって来そうだわ。お願いだからもう少し、気をしっかり持って”

 “持ちたいとは思うさ。でもすぐに波に押し戻されてしまう”と、ぼくは言った、“もう、そんなところまで来ているんだ。つまり、世の中におけるぼくの孤独――それは、ぼくの家の孤独でもあるのさ。分かるだろう? どう考えてみても、こんな孤独な家なんて他に存在しない。家族全員がみんなバラバラでさ、それぞれが孤独な星の下で育ち、いっぱしの悩みをかかえていて、お互い交わることもない。こんな家庭って、他にあるだろうか? つくづく思うに、ぼくが他の人々に似ていず、彼らと違って幸せをつかめない理由は、実は、そこのところから来ていたのさ。


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ぼくは、家庭の暖かさや、その他、世の中の楽しみというものも知らずに、たったひとりで、これまで生きて来たんだ。これから先、そんなことはなかったものにしろ、と言ってももう不可能なことだろう…”

 “でもどうして?”とリサは悲しそうな目をして、ぼくを見て言った、“あたしたちの人生って、兄さんが考えるほど不幸なものではなかったわ。世の中には、もっともっと悲惨な人たちだって、いくらでもいるはずよ。その人たちのことはどうなるの? 仮に一歩譲って、兄さんの言うように、あたしたちの人生が惨めだったとして、だからと言ってどう? あたしたちにはもう未来があってはならないの? そんな暗い人生なんていやよ。過去が暗ければ、その分未来を明るくしたい――それが人間というものでしょ。今までの境遇が惨めなら惨めなだけ、そこから脱出したい――そう願うのが当然であるはずよ。そうでないと、一生暗い気持に閉ざされて、それこそ本当に、気が滅入ってしまうわ…”

 “川は、静かに流れているねえ…”と、ぼくは、ぼんやりと斜面の下の川を眺めながら言った、“風だって静かだ。草むらが、あんなにゆるやかに揺れている。本当に、この周囲は静かさ… 何も感じさせないほど… …ぼくは、この静かな光景を眺めていると、何もかも忘れてしまいそうになるんだ。これまで生きて来た何もかもをね。そして、このさわやかな場所に今、ぼくはひとりぽっちでいる。今は、お前も一緒だけどねえ、それでいい。今が一番幸せだ、という気がして来るのさ。こういう状態が一生続いてもかまわない――これまでのいやな事を、思い出させさえしてくれなければねえ… それどころか、こんなときには別のことが、いろいろと頭に浮かんで来るのさ、これまで幸せだったときのこと、驚き、感動したこと、あるいは、悲しかったこと、又は、絶望したときのこと、ぼくの見た夢――それらがみないっしょくたになって、複雑な感情を伴って、ゆっくりと次第に早く、ぼくの頭の中で回り始めるんだ――しかも、ぼくは今、ここにいる。過去と現在……その意味はなんだろう? ぼくが今願うことは、このまま、いい天気がずっと続いて、日が暮れないで欲しい、ということなのさ。だって、こんな素晴らしい場所に、お前と二人きりでいられるんだからね。一日は短い。だからこそ、こんなときが、もっともっと続いて欲しい…”

 “…兄さんは、あたしが帰って来て、嬉しい?”と、リサは、ぼくを伺うように見て、言った。

 “ぼくが、お前をそばに置いて、幸せでないはずがないだろう”と、ぼくは、リサと、その背後に広がる青い空を見て、言った、“ここで、こうしているだけで、ぼくは幸せなのさ。ひとりでいるときには感じられない、不思議な暖かさ、喜び、充実感、そういったものが感じられて来るのさ。お前と二人になれば、何か、未来が見えて来るような気さえして来る。ひとりでいるときには想像もつかない、色んな可能性の開かれた未来がね… お前が、ぼくの妹でよかった。でなきゃ、この広い世の中で、ぼくは、本当に、ひとりぽっちになってしまうところだったからね。可愛いお前が、いつも、この暗い魂を救ってくれたのさ…”


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 “あたしには不可能よ。人を救うなんて”と、リサは、伸ばしていた膝を折り曲げて、そこに腕を回し、頬をすり寄せるようにして言った。

 静かで、穏やかな一日だった。川は、ゆったりと流れ、草むらや、枝の葉がときどき風にそよいだ。対岸の濃い森の色づきも、風にざわざわと揺れ、真青な空に浮かぶ雲も穏やかだった。しかし、それらの光景には、明らかに、忍び寄る冬の気配が、そして、この地表をおおう孤独が、感じられた。ぼくたちは、二人しても、なお孤独だった。青い空に向けて、風にそよぐ大小の木の葉が、この孤独感を、いや増した…

 “リサ”と言って、ぼくは、彼女の腰に手を回し、ぼくの方に引き寄せた。彼女のぬくもりが、ぼくの手の平や、体に伝わった、“ぼくたちは恋人じゃない。だから、結婚も、ハネムーンもぼくたちにはあり得ない。永久におあずけさ。いつもこのままの状態でしかないのさ。誰にも祝福されることなく、人目を忍んでいるようにね。それでもぼくたちは、二人さ。誰の目にも止まらずとも、この世の中で、ちゃんと、ぼくたちは生きている。――でも、生きているという実感を味わいたい。もっともっと味わいたいんだ。もっともっと生きて、生きまくって、満足な人生を送って、そうして死んで行きたいのさ。――それなのに、どうしてぼくには、それができないんだろう。いつもいつも、こんな孤独な人生を送っているんだろう…”

 リサは黙って聞いていた。ぼくたちの頭上には、やがて急に雲の影がおおい、風が周囲の木立や、草むらを震わせた。ただ、丘の上の方だけが、光に輝き、数本の落葉した異様な樹木の姿と共に、ぼくの目を誘った。リサは、ぼくに抱き寄せられるようにして、この静かな時を、生きていた。この、細くて、弱々しい体が、はるばると、この時の為に尋ねて来てくれ、しかも、ぼくが話しかけることが出来、信頼することのできる唯一の妹でもあった。ぼくは改めて彼女を見つめ、こんな可愛い、すべてを分かち合える妹がいたことを、神に感謝した。彼女の弱々しい姿は、それだけでも、ぼくに生きる勇気と力とを奮い立たせてくれるに十分なものだった。なぜなら、彼女は、この世で最もはかない姿に映るがゆえに、ぼくの助けを必要としていたのだから…

 “…ぼくのまだ見ぬ人、ぼくの知らない社会、この広い世の中には、そんなものが、まだまだいくらでもあるはずなんだ。ぼくは、そういう社会に向かって行きたい”とぼくは、心を込めて言った、“お前を見ていると、そうしなくちゃならない、という気がしてくるよ。お前の為にも、ぼくは、じっとしていてはならないんだ。何かしなくちゃならない。お前を、ここで、氷のように凍らせるわけには行かないからね。むしろ、喜べるようにしてあげなくちゃ。ぼくは今、そのことに気が付いたのさ。お前を見ていて、お前の美しい、優しい魂に触れることができて、そう気がついたんだ。お前のその心に、ぼくは答えなくてはね。お前の心は、何も言わなくとも、ぼくの心を突き通すに十分なのさ。ぼくは、お前のその目を見るだけで分かる。お前が、ぼくに何を言っているか、ということがね…”

 “兄さん”と、やがてリサは、ぼくの方を見て言った、“あたしと兄さんとは、長い付き合いだったわ。でもやがて、さよならを言わなくちゃならない。そのことは悲しい?”


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 “うーうん”と言って、ぼくは首を横に振った、“そのことは慣れているさ。お前を失うことも。――でもお前のことは、いつまでも、忘れないでいたいものさ…”

 “あたしも”とリサは言った、“兄さんのことは、いつまでも忘れないわ。たとい別々の生活をするようになってもね、どこかではつながっているのよ。頭の隅とか、心のどこかでね。これから先、いつでもどこかで、兄さんのことを考えていると思っていてちょうだい、お願いね…”

 “ああ、そう思わせてもらうよ”と、ぼくは言った、“思わせてもらうだけで、十分さ。お前の優しい心――それを感じさせてもらえるだけで、十分なのさ…”

 川は静かに流れ行く。このさわやかなそよ風と、うねり行く草むら。光に輝く、小さき花々。ぼくは確かに感じていた、心に立ち昇る恋と絶望とを。ぼくは今、初めて知った、このか弱い妹に恋を感じていることを。しかしそれは報われることのない恋。いずれ、離別と絶望に引き裂かれる運命にある恋だった。この悲しみを、どのようにして埋め合わせればいいと言うのだろう? 彼女に触れることはできても、彼女と話すことはできても、彼女の快活な姿を見て暮らす、ということだけは許されない… この苦しみを、どのようにして克服することができると言うのだろう? 美しい空の青さだけでは、また夕陽の輝かしいあかね色だけでは、満たされはしない。ぼくは、彼女のか弱い美しさと、心の優しさとに触れて心を揺り動かされ、やがて失われるべき恋に、身を焼かれる思いをする他はなかった。誰に向かってこの苦しい心のうちを、はり叫べばいいと言うのだろう? 一体、誰に向かって?

 “ねえ、リサ”と、ぼくは、心の中では、泣きながら言った、“お前はきれいだね。こんなきれいな妹を、きれいな妹が、誰かのものになるなんて、ぼくは悔しいな。そういう幸せな男の顔を見ることができたなら、ぼくは一生、そいつを恨んでやりたいぐらいさ。だって、こんなきれいなお前を、ものにすることができるんだからね。――でも、今の言葉、気にしないでね。馬鹿な兄が言っているたわごとだと思って、聞き流しておくれよね…”

 リサは黙ったまま、何も答えなかった。それでいいのだ、この場で彼女の声を聞けば、ぼくは本当に泣いてしまったことだろう。彼女のか弱い、しっとりした顔を見ているだけで、今は、泣かずにいることができたのだから…

 

 白い雲を映した小川が、ゆっくりと流れている。ぼくは、草むらから立ち上がって、リサに手を差し伸べた。彼女は、立っているぼくを見上げ、ぼくの手を取ってゆっくりと立ち上がった。スカートや背中についたほこりを払った後、彼女は周りを見回した。ぼくは、そんな、自然な彼女をじっと眺めていた。リサは、ぼくのまなざしを意識してか、ぼくの方に振り返るようにして言った、

 “まだどこか、ほこりがついている?”

 “いや、もう大丈夫さ”と、ぼくは、彼女の背中やスカートを見ながら答えた。



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