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 対岸の川べりまで迫っているはんの木の色は濃いかった。それに劣らず、流れる川も呑み込まれそうになるほど濃い色をたたえているばかりか、草の色も、空の青さも、新鮮で、鮮やかだった。ぼくたちは、自転車を草むらに倒し、そのまま、川のほとりに駆けて行った。川は、遠くから見るより、遥かに大きな音をたてて流れて来た。川のほとりに来るなり、リサは、草むらに身を投げ出して、あお向きに横たえた。目の上には、一本の川柳の枝が、小さな葉をつけて、澄んだ青い空や、そこに浮かぶ白い雲をさえ切るように、虚空に延びていた。ぼくも、草むらに横たえているリサのすぐ脇に腰を降ろし、頭の後ろに手を回してうっとりと空を眺めている彼女の全身を見つめた。それは、自然に投げ出された、魅力的な一人の女の姿だった。

 “やっぱり田舎に来てよかったわ”と、やがて、何かに魅せられたかのように、彼女はつぶやいた、“ここにいると、本当に、都会の騒々しい生活なんかすべて忘れてしまいそう…”

 “そうかい”と、ぼくは、草花をむしりながら、満足深げに、彼女や、周囲の自然を見つめながら言った。小さな葉をつけた、一見裸同然の木の枝が、かすかに風に揺れていた。

 “ねえ、あたしがこんなところにいるなんて夢みたい”とリサは続けた、“友だちのポーラも田舎があるのよ。――でも家に帰れば、牛の乳しぼりとか、まき割りとか近所の人を招いてのパーティの為の料理の手伝いとか、雑用ばかりが待っていると嘆いていたけど、ここではそういうことが全くないのね。そして、心からくつろげる。全く何もせずに自然に触れるようなところなのね。そういうところは、兄さんのいるここしかないわ”

 ぼくは黙って、彼女が言うに任せていた。

 “この前ね”と、リサは続けた、“夏だけど、仕事仲間数人とキャンプに行ったの”

 “知ってるよ。手紙で拝見させてもらったもの”と、ぼくは答えた。

 “そこもきれいなところで、森や湖があったわ。釣りやボートやいろんな遊びをして結構楽しかった。男の友だちもいてね、みんな、ポーラやあたしに言い寄ってくるのよ。でも、単なる遊びだし、それ以上のことをさせなかったわ。――でも、今考えてみると、田舎に行っても都会にいるのと一緒で、本当にくつろぐということがなかったわ。確かに自然は静かだけど、みんなが騒々しくて、毎日が忙しかっただけ。そのときはそんなこと思わなかったんだけど、ここに来て初めて分かったわ。本当にくつろぐということがどういうことか、ということが…”

 “――でも、お前のような人間には、静か過ぎやしないだろうか…”と、ぼくはポツリと言った。

 リサは、黙って首を横に振った。

 “…ここには、ただ静かな空と、小川と、森しか存在しないんだ。それ以外には何もない…”

 “でも、あたしたちがいるじゃない”と、リサが言った。

 ぼくは、にっこりとして、リサを見た。


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 “昔のままさ”と、ぼくは、ポツリと言った、“ここにいるといつも昔に帰ってしまうんだ。ここの流れや風景は、昔も今も恐らく少しも変わってはいないだろう…”

 “それに、あの雲も…”と、リサは、うっとりと言った。

 “リサも同じさ”と、ぼくは言った、“昔、ぼくたちがいて、今も、こうして二人がいる。何か、不思議な結びつきがあるような気がしないかい?”

 “恐らくね”と、リサは言った、“何かあるのよ。あたしはやっぱり、兄さんのところへ帰って来る。どうしてかは分からないけど、きっと何かの力で引き寄せられるのね”

 ぼくはにっこり笑った。そして、川の流れや、その向こうの森に目を向けた。

 “…でも、この広い自然の中で二人だけというのは、素晴らしいことじゃないかい。こんな時って、めったにあるものじゃないよ”

 “それで?”と言って、リサは、横たえながら、ぼくを見た。

 “いずれ離れ離れになったとしても、こういう時があったということを忘れないようにすることさ”

 “忘れやしないわ”と、リサは強調した、“兄さんとのことは、ひとつひとつ全部覚えているわ。兄さんと一緒に暮らしていたときのことだって、もっと前のことだって…”

 “それじゃ、あんまり覚えて欲しくないことまで覚えられてしまっているようだね”と、ぼくは言った、“昔から、お前にはあまりいい兄じゃなかったから…”

 “そんなことないわ”とリサは言った、“兄さんのことは全部理解しているもの。昔の兄さんに少々乱暴なところがあったとしても、それは、生活状況がそうさせたんだから、仕方のなかったことよ”

 “いい妹を持って、ぼくは幸せさ”と、ぼくは言った、“それなのに一向、お前には兄らしいことはしてやれない…”

 “兄らしいことって何よ”と、リサは言った、“あたしには兄さんがいるというだけで十分よ。こうして帰って来る家があり、そこに兄さんが待っている、――それだけで十分よ。それ以上の何を要求する、というの”

 “ぼくは、お前を愛している”と、ぼくは言った、“他には何も与えられないけれど、ぼくがお前に与えられるのは、これだけなのさ…”

 “あたしだって、兄さんを愛している”と、リサは言った、“愛しているからこそ、こうして帰って来たのよ”

 “分かっているよ”と、ぼくは言った、“ぼくたちは昔も今も変わらず愛し合っているのさ。そしてそれは大切なことなんだ。特にぼくたちのようなもろい人間にあってはね。ぼくとお前とが兄妹だったということは、パパとママに感謝しなくちゃならないたまものなのさ。この絆をしっかりとつかんでおかなくちゃ。このめまぐるしい世の中においては、ただですら絆なんてもろいものなんだから。そうだろ、ぼくだけが昔のお前を知っているし、今のお前も知っている。だから、これから先のお前の人生をも知っておきたいんだ…”


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 “あたしもよ”とリサは言った、“これから先、たといどんな生活をするにせよ、兄さんのことは決して忘れたりはしないわ。――だって兄さんは、あたしにとって、唯一のかけがえのない兄さんなんですもの…”

 “ぼくにとっても、お前は大事な妹さ”と、ぼくは言った、“お前のこれからの人生を、たとい遠くからでもずっと見守ることは、兄として当然のことだろう?”

 “そうね”とリサは言った、“じゃあたしのこと、側面から応援しててよ”

 “ああ、応援しているよ。いつも、毎日…”と、ぼくは答えた。

 

 “ねえ”と、リサは急に体を起こして言った、“あたしたちは今、別々の生活をしているけれど、また元の生活に戻るかも知れない――そんな気がするの。社会に向かっていろいろとやってみたけど、結局、あたしたちは今、ここにいるのよ。こういうことって、確かにまれになってしまったけれど、でもやはり、あたしたちの原点はここだ、という気がするわ。この野原や森や小川や、あの澄んだ空などが、幼い頃からのあたしたちの原点なのよ。都会で忙しい毎日を過ごしていれば見失いがちだけれども、ふと今、そのことを感じたわ。ここに兄さんがいて、あたしがいる。それは、不思議でもなんでもなくて、当然の帰結なのかも知れない。だって、神様か何かが、もう何年も前から、あたしたちをこのように結びつけているからなのよ…”

 そう言いながらリサは、うっとりと川の流れる様子を眺めていた。

 “そう思うかい?”と、ぼくは、それとなくリサに言った、“確かにお前の言うように、二人きりでいることはまれになってしまった。それでも、ぼくとお前とが何かで結び合っているというのなら、それはきっとこの自然のせいなんだ。――だってぼくたちは幼い頃をずっと、このような自然に慣れ親しんで来たからさ。それは、そのあいだに骨の髄までしみ込んでしまって、そう簡単にぬぐい去れるものではなくなってしまっているんだ。たとい大人になって、別の生活に入ったところで、体のどこかでは残っていて、それがときどき呼びかけるのさ。昔、ぼくたちが一緒だったあの生活を忘れるなって…”

 “そうね。そうかもね…”なにかに魅せられたかのように言うリサの髪の毛が、かすかに風に震えていた、“ねえ、あたしたち、いつまでも一緒ということはないかも知れないけれど、これから先もずっと心を一つにしてましょうよ。小さいときから兄と妹だったんだし、この関係は一生変わることがないわ…”

 “もちろんだとも”とぼくは答え、手に摘んでいた黄色い草花を、彼女の髪の毛に挿してやった。

 “こうすると一段とお前が惹き立って見えるよ”と、ぼくは言った、“ねえもう少しよく見えるように、こっちへ顔を向けてごらん”

 言われるままにこちらへ向けたリサの顔は、秋の光の最も美しい瞬間にも増して、彼女の人生に於ける最も美しい瞬間のように、ぼくには思われたのだった。こんなに美しい彼女、少女らしく魅惑的な彼女を、ぼくは、この柔らかな秋の日々の中で、ほんの数日間しか見ることが許されないのだ。この美しいリサも、また三日もすれば、ぼくの下から去って行くだろう。


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そう思うと、秋の日ざしに照り映える彼女の花の姿も、ぼくにとって楽しいものではなく、むしろ苦痛を、やがて失われるものの苦痛を感じさせるものでしかなかった。そのことが、もどかしく、また、悲しかった…

 

 “…人生にはいろいろと、辛いことや、悲しいことがあるものなんだ”やがて、ポツリとぼくは言った、“とりわけ孤独の悲しみはねえ、不毛としか思われない…”

 ぼくは、目を細めて、うっとりと遠くを見つめている彼女をじっと見やりながら、さらに続けた。

 “人々が、自分たちの幸せの生活へ入って行くというのに、ぼくはいつもひとりで、それを遠くから見つめているだけでしかない。全く不毛としか言いようがないよ。街に出れば、特にそれを感じるから、ぼくは街に出て行くのが嫌いなんだ。人々の幸せそうな姿を見たって仕方がないからね。リサは聞いていなくていい。でも、ひとりでもしゃべらせてもらうさ。――時々、ぼくはどうしてこんなに孤独なのかと思うことがある。いつも、いつもひとりなのさ。誰とも交わらず、誰れにもめぐり会うことがない。世の中にはこんなにたくさん人々がいるというのに、ぼくはひとりぽっちなのさ。人々が言うように、別に理想が高いわけじゃない。恐らく――ぼくは無器用なんだ。世の中にうまく自分をはめ込んで行くことが、ぼくは苦手なのさ。世の中に出て、ぼくはいつも自分がはじき出されるのを、自分が用なしの人間であるのを、感じて来た… ぼくには何も、埋めるべき未来が待っていなかったのさ。だって、人との交わりのないぼくの人生に、どんな将来が約束されているというのだろう。いかなる指針もなく、全き自由の中にほうり出されたぼくには、自分で、一から始めるしかなかったのさ。ぼくは、誰かからこうすればいいなんて、教えられたことがない。全部、自分で見つけて行く他なかったんだ、それも、人との交わりのない孤独の中でね… そういう寂しさは、恐らくこれを経験した人しか分からないだろう。――ぼくは、誰かにこんなことを分かってもらいたいと思っているわけじゃない。ただこれは、ぼくにだけはめられた運命だと思って、黙って受容しているだけなのさ。だって、そのことを言える相手すら、もうぼくには誰もいないのだから…”

 秋の柔らかい光の中で、草むらに足を投げ出している彼女は、すぐそばに生えていたか細い草花に目を止め、それを指で触れながら、黙って、ぼくの話しを聞いていた…

 “本当の悲しみというものは”ぼくは、それとなく、続けた、“恐らく、この誰にも伝えることのできない悲しみなのさ。孤独の中に閉じ込められた悲しみと言ってもいいだろう。それは、聞いてくれる人の誰もいない、自分ひとりだけの悲しみなのさ。自分の泣いている姿が人に理解されるなら、そんな幸せなことはないのさ。しかし、自分の泣く姿が、自分ひとりだけのものなら、こんな悲しいことはない。人々の知られないところで泣いているとするなら、こんな悲しいことはないのさ。――ぼくはいつもひとりで、この悲しみを耐えて来た。人々の幸せそうな街が向こうに見えるのに、ぼくは、こちら側の荒野にひとりぽっちだったのさ。


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恐らくそれは、失恋の状態と言ってもいいだろう。自分の愛する人が飛行機で、別の人とハネムーンに飛び立つとき、失恋した男が、滑走路の外の路上から、ただひとり、その飛び立つ飛行機を見送っているときに感じるような悲しみなのさ。その男の悲しみは、自分ひとりだけで耐えるしかない悲しみなのさ。その飛行機は、明るい日射しをいっぱい浴びて、あのまっ青な大空に向かって、幸せを運んで飛んで行く。しかし、地上の荒野に残された男には、いかなる喜びも、希望も待ってはいないのさ。――ぼくは、その男が自分だと感じて来た。そして、飛び立つ飛行機は、ぼくの属さないこの世の中なのさ。それをつかもうとするぼくの指のあいだからすり抜けて、ぼくとは別の所に存在するこの世の中なのさ…”

 リサは、花をいじりながら、何か考えごとをしているようだったが、やがて振り向いて、ぼくを見つめながら、ひと言、ぼくに言った。

 “兄さんは、その飛行機に乗りたいとは思わないの?”

 優しい声だった。ぼくは、彼女の優しさに、心が痛くなるのを感じた。

 “乗れるものなら、乗ってみたかった”と、ぼくは弱々しく答えた、“――でも、もう不可能だろう。ぼくの人生は、メチャメチャだったからね。もう、元に戻してやり直すということはできない。ぼくは、もう過酷な運命に耐えて、しらけ切ってしまっているのさ。不幸なんて何も知らない幸せな人々が演ずるそんなお目出たい旅に同意することはできない。何も知らないうちなら、ぼくも、浮かれた気持で、そういうことも出来ただろう。でも、もう不幸というものを、知ってしまったのだ。後には戻れないよ…”

 “…でもどうして?”と、リサは、力を込めて言った、“どうして、そう簡単に諦めてしまうのよ。兄さんはまだ若いわ。これからだってチャンスがあるはずよ。人生を、今からもう一度やり直すことだって、できないことはないわ”

 “リサは何も知らないのさ”と、ぼくは言った、“ぼくの今迄の人生が、どんな人生だったかってことを。それは、ひと口に言って、呪われた人生で、ぼくは、自分の生活というものを、肯定する気にはなれないのさ。どう考えても、どのように見ても、肯定する気にはなれない。この社会との結びつきから言っても、そうなのさ。ぼくは幼い頃から孤独で、ひとりになるような、そんな定めだったのさ…”

 “そんな悲しいこと”リサの表情は、少し険しくなった、“どうしてそんな風に、惨めなほうへ考えてしまうのよ。あたしまで悲しい気持になって来そうだわ。お願いだからもう少し、気をしっかり持って”

 “持ちたいとは思うさ。でもすぐに波に押し戻されてしまう”と、ぼくは言った、“もう、そんなところまで来ているんだ。つまり、世の中におけるぼくの孤独――それは、ぼくの家の孤独でもあるのさ。分かるだろう? どう考えてみても、こんな孤独な家なんて他に存在しない。家族全員がみんなバラバラでさ、それぞれが孤独な星の下で育ち、いっぱしの悩みをかかえていて、お互い交わることもない。こんな家庭って、他にあるだろうか? つくづく思うに、ぼくが他の人々に似ていず、彼らと違って幸せをつかめない理由は、実は、そこのところから来ていたのさ。



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