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そういう目から見れば、ぼくこそはまさに、都会から遠く離れた田舎で日なたぼっこを楽しんでいる、あのカフカの描いた、昆虫と大して変わらないとさえ言うことができるだろう。ぼくは恐らく、この虫なんだ…”

 “兄さんが虫!”と、リサは驚いて言った、“馬鹿なこと言わないでよ。虫だったらそんな風にペラペラしゃべることもできないでしょ”

 “ぼくは何も虫になりたいと言っているわけじゃない”と、ぼくは言った、“でも虫になるということがどういうことかよく分かる、ということを言っているまでなんだ。――ぼくはまた、おかしな話しをしてしまったようだね”

 リサは、そばで笑っていた。

 “平気よ”と、彼女はぼくを見て言った、“そんなところがいかにも兄さんらしいもの。都会ではめったに聞かれない面白い話しだわ。それを聞いて、私もやっと家に帰って来たという感じ――”

 “ぼくはね”と、ぼくは言った、“自分で自分が分からないんだ。このままじゃいけないことは分かっている。お前みたいに、何か職を見つけなくちゃならないことも分かっている。――でも、一体どんな職がぼくにふさわしいと言えるだろう!”

 “今のままで暮らせるんだから、何も無理をすることなんかないじゃないの”と、リサは言った、“そのうちきっといいアイディアが浮かぶに違いないわ”

 “ぼくの今の生活が決して豊かでないことはお前も知っての通りさ”と、ぼくは言った、“自分ひとりぐらいの生活はなんとかできても、それ以上のことはね。それ以上のことをするには、やはり自分で稼ぐ以外にはないのさ。ところがぼくは、金を稼ぐ能力に欠けているんだ…”

 “そんなことないわ”と、リサは強く否定した、“その気になれば人間、どんなことでもできるわよ。あたしだって今、辛いけど張り合いもあるわ”

 “お前をひとり、都会で苦労させて御免よ”と、ぼくは、しんみりと言った。

 “苦労なんてとんでもないわ”と、リサは否定した、“自分から買って出た職業よ。苦労なんて思ってないわ。そんなこと、考えたこともないの。だって、仕事で苦しむことがあるのは当たり前のことだし、それ以上に楽しいことの方が多いわ。そうでないと、今の仕事、とっても続けられやしない…”

 “ともかくぼくも、何んらかの形で社会に尽くさなければならないようだね”と、ぼくは言った、“生きている心地を味わう為にも、それは必要なことなんだ。ところがぼくとくりゃ、自分の中に、否定的な要素しか見い出すことはできないのさ”

 リサは、それに対しては、何も言おうとはしなかった。もう何度となく、繰り返されて来た文句だったし、その中身についても彼女はよく承知しているからだった。それで、リサは、話題を他に向けようとした。

 “それで、姉さんに会ったんですって?”


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 “そう、今年の春にね”と、ぼくは驚きもなくリサを見て言った、“いたって元気だったよ。お前はまだ会っていないんだろ? 早く会えるといいんだがね”

 何年もバラバラに生活して来たこの姉妹が、再会のことをどう考えているのか、当事者でなくても、興味のあることだった。

 “そうね”と、リサは、会うということに対しては、それほど気のない返事をした、“でも姉さん、あたしに会うの、迷惑に思うんじゃない?”

 “どうしてさ”と、ぼくは言った。

 “だって、あのとき、あたしたちを見捨てて行ったのは姉さんの方だったでしょ。今になって急に会うことに、どんな意味があるのかしら”

 “お前は、あのときのことを、未だに恨みに思っているのかい?”と、ぼくは言った。

 “いいえ、そういう意味じゃ”と、リサは答えた。

 “だったらなおさらのこと、会ってあげるべきじゃないのかい”と、ぼくは言った、“セーラはきっと、お前が来ないので、未だに恨まれていると思っているに違いないんだ。逆に、セーラからはお前に会いに行くわけには行かないさ。お前に会わせる顔はないと思っているんだからね…”

 リサは黙って、それには直接答えようとはしなかった。しかし、それも無理はない。長い歳月は、あれほど息が合っていたように見えた二人の姉妹をも、別々の生活へと追いやってしまったからだ。

 “それで姉さんは、今、病気のおばさんと二人で暮らしているんですって?”やがて、リサはポツリと尋ねた。

 “亡くなったよ。パイク夫人のことだろ?”と、ぼくは平然と答えた。

 リサの表情に、突然驚きの色が走るのが読みとれた。

 “つい最近、セーラからの手紙で分かったのさ”と、ぼくは続けた、“長いあいだ連れ添って来た仲だのに先立たれて途方に暮れている、ってそれには書かれていた。無理もない話しさ。――でも研究所の仕事や、村の子供に対する勤めも残っているから、当分は帰れそうにないということだった。彼女も孤独な人生を歩んでいるようなんだ。たまには尋ねて行ってやらないとね…”

 “そう。よく分かったわ”と、リサは答えた、“あたしもそのうち姉さんに会いに行くわ。約束する”

 それから、何か考え事をしているかのような顔をすると、少し間を置いてから、彼女はこう言ったのだった、“あたしたちの人生って、どれもこれも、あの澄んだ青空のようにすっかり晴れている、というわけには行かないのね…”

 

 “…久し振りに帰って来たんだ。夜行でやって来て疲れているかも知れないけれど、ちょっと散歩に出て見ようか”しばらくしてから、ぼくは言った。

 “いいわ”と、リサはほほえんで答えた。

 “田舎の方? それとも街の方?”


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 “せっかく帰って来たんだから田舎がいいわ”と、リサは答えた。

 “じゃ、その辺を散歩してみよう”と、ぼくは言った、“ちょうど自転車が二つあるんだ。古い自転車と、お前の為にと買っておいた新しい自転車とがね”

 “本当? ありがとう”と、リサは笑顔で答えた。

 ぼくたちは、さっそく居間を後にし、表に出た。

 

 家の裏側の雑草が生い茂った所に、無造作に自転車が二つ置いてあった。雨ざらしにならないようにとぼくがカバーをとると、中から真新しい自転車が一台現れた。リサはそれを、驚きの目で眺めた。

 “これがお前の自転車さ”と、ぼくは、驚く彼女の後ろに立って、言った。

 “なかなか軽快な感じね。いつ買ったの?”と、リサは、自転車を見つめながら言った。

 “もう半年もなるかな”と、ぼくはそれとなく言った、“お前が、いつ帰って来るかも知れないと思って買っておいたのさ”

 “やっとそれが役に立つ時がやって来たわけなのね”

 “ああ”と、ぼくはにっこりして答えた、“乗ってごらんよ。ぼくもまだ少ししか乗ったことのない代物なんだ”

 リサはさっそく、自転車を手にとって、家の外へと押して行った。

 

 “それでどこへ行くの?”と、ぼくたちの自転車が家の外に出揃うと、リサが言った。“適当でいいよ。どこでも絵になるようなところだからね”と、ぼくは答えた。

 リサがまず、漕ぎ出した。続いてぼくも。

 秋のさわやかな風が、自転車で行くぼくたちにふりかかって来た。彼女の赤い花柄のスカートや袖が風に、まぶしいばかりに揺れた。ぼくはすぐ、彼女と並んで走った。

 “こうして自転車で田舎を行くのもいいだろう?”と、ぼくは言った。

 “都会では味わえない楽しみね”と、リサは、風に目を細めながら、笑顔で答えた。

 しばらく走って振り向いたとき、秋の光に輝いている我が家は、みるみる遠ざかって行った。色の濃いニレの樹木も、緑色の芝も、野原一面に敷き詰めた黄色い、名も知らない雑草の花も、みんな、秋の光に輝いていた。

 “リサはいまいくつ?”ぼくは、並んで走っている彼女を見て言った。

 “あら、忘れないでよ。今、二十一よ。――でも、もうすぐ二十二”

 “若いんだねえ…”と、ぼくはつくづく彼女を見やりながら言った、“でも若いっていいことさ。何につけても”

 

 しばらく走ると、やがて真青な清流が流れる川のほとりにやって来た。

 “ここらでひと休みするかい?”と、ぼくは彼女を見て言った。

 “ええ”と、リサは答えた。


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 対岸の川べりまで迫っているはんの木の色は濃いかった。それに劣らず、流れる川も呑み込まれそうになるほど濃い色をたたえているばかりか、草の色も、空の青さも、新鮮で、鮮やかだった。ぼくたちは、自転車を草むらに倒し、そのまま、川のほとりに駆けて行った。川は、遠くから見るより、遥かに大きな音をたてて流れて来た。川のほとりに来るなり、リサは、草むらに身を投げ出して、あお向きに横たえた。目の上には、一本の川柳の枝が、小さな葉をつけて、澄んだ青い空や、そこに浮かぶ白い雲をさえ切るように、虚空に延びていた。ぼくも、草むらに横たえているリサのすぐ脇に腰を降ろし、頭の後ろに手を回してうっとりと空を眺めている彼女の全身を見つめた。それは、自然に投げ出された、魅力的な一人の女の姿だった。

 “やっぱり田舎に来てよかったわ”と、やがて、何かに魅せられたかのように、彼女はつぶやいた、“ここにいると、本当に、都会の騒々しい生活なんかすべて忘れてしまいそう…”

 “そうかい”と、ぼくは、草花をむしりながら、満足深げに、彼女や、周囲の自然を見つめながら言った。小さな葉をつけた、一見裸同然の木の枝が、かすかに風に揺れていた。

 “ねえ、あたしがこんなところにいるなんて夢みたい”とリサは続けた、“友だちのポーラも田舎があるのよ。――でも家に帰れば、牛の乳しぼりとか、まき割りとか近所の人を招いてのパーティの為の料理の手伝いとか、雑用ばかりが待っていると嘆いていたけど、ここではそういうことが全くないのね。そして、心からくつろげる。全く何もせずに自然に触れるようなところなのね。そういうところは、兄さんのいるここしかないわ”

 ぼくは黙って、彼女が言うに任せていた。

 “この前ね”と、リサは続けた、“夏だけど、仕事仲間数人とキャンプに行ったの”

 “知ってるよ。手紙で拝見させてもらったもの”と、ぼくは答えた。

 “そこもきれいなところで、森や湖があったわ。釣りやボートやいろんな遊びをして結構楽しかった。男の友だちもいてね、みんな、ポーラやあたしに言い寄ってくるのよ。でも、単なる遊びだし、それ以上のことをさせなかったわ。――でも、今考えてみると、田舎に行っても都会にいるのと一緒で、本当にくつろぐということがなかったわ。確かに自然は静かだけど、みんなが騒々しくて、毎日が忙しかっただけ。そのときはそんなこと思わなかったんだけど、ここに来て初めて分かったわ。本当にくつろぐということがどういうことか、ということが…”

 “――でも、お前のような人間には、静か過ぎやしないだろうか…”と、ぼくはポツリと言った。

 リサは、黙って首を横に振った。

 “…ここには、ただ静かな空と、小川と、森しか存在しないんだ。それ以外には何もない…”

 “でも、あたしたちがいるじゃない”と、リサが言った。

 ぼくは、にっこりとして、リサを見た。


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 “昔のままさ”と、ぼくは、ポツリと言った、“ここにいるといつも昔に帰ってしまうんだ。ここの流れや風景は、昔も今も恐らく少しも変わってはいないだろう…”

 “それに、あの雲も…”と、リサは、うっとりと言った。

 “リサも同じさ”と、ぼくは言った、“昔、ぼくたちがいて、今も、こうして二人がいる。何か、不思議な結びつきがあるような気がしないかい?”

 “恐らくね”と、リサは言った、“何かあるのよ。あたしはやっぱり、兄さんのところへ帰って来る。どうしてかは分からないけど、きっと何かの力で引き寄せられるのね”

 ぼくはにっこり笑った。そして、川の流れや、その向こうの森に目を向けた。

 “…でも、この広い自然の中で二人だけというのは、素晴らしいことじゃないかい。こんな時って、めったにあるものじゃないよ”

 “それで?”と言って、リサは、横たえながら、ぼくを見た。

 “いずれ離れ離れになったとしても、こういう時があったということを忘れないようにすることさ”

 “忘れやしないわ”と、リサは強調した、“兄さんとのことは、ひとつひとつ全部覚えているわ。兄さんと一緒に暮らしていたときのことだって、もっと前のことだって…”

 “それじゃ、あんまり覚えて欲しくないことまで覚えられてしまっているようだね”と、ぼくは言った、“昔から、お前にはあまりいい兄じゃなかったから…”

 “そんなことないわ”とリサは言った、“兄さんのことは全部理解しているもの。昔の兄さんに少々乱暴なところがあったとしても、それは、生活状況がそうさせたんだから、仕方のなかったことよ”

 “いい妹を持って、ぼくは幸せさ”と、ぼくは言った、“それなのに一向、お前には兄らしいことはしてやれない…”

 “兄らしいことって何よ”と、リサは言った、“あたしには兄さんがいるというだけで十分よ。こうして帰って来る家があり、そこに兄さんが待っている、――それだけで十分よ。それ以上の何を要求する、というの”

 “ぼくは、お前を愛している”と、ぼくは言った、“他には何も与えられないけれど、ぼくがお前に与えられるのは、これだけなのさ…”

 “あたしだって、兄さんを愛している”と、リサは言った、“愛しているからこそ、こうして帰って来たのよ”

 “分かっているよ”と、ぼくは言った、“ぼくたちは昔も今も変わらず愛し合っているのさ。そしてそれは大切なことなんだ。特にぼくたちのようなもろい人間にあってはね。ぼくとお前とが兄妹だったということは、パパとママに感謝しなくちゃならないたまものなのさ。この絆をしっかりとつかんでおかなくちゃ。このめまぐるしい世の中においては、ただですら絆なんてもろいものなんだから。そうだろ、ぼくだけが昔のお前を知っているし、今のお前も知っている。だから、これから先のお前の人生をも知っておきたいんだ…”



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