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 “見ての通りだよ”と、ぼくは両手を広げて言った、“変わったことは何もない。毎日、散歩と読書と思索と… まるで哲学者か、詩人の生活だよ。何かぼくに適した仕事を、と思うこともあるんだけど、なかなかその気になれなくてね。――でも、この思い切りの自由を与えられて、ぼくは、色んな研究に励みたいとは思っているのさ。例えば、ぼくの知らない物理学の世界や、心理、あるいは、動植物の研究などをね。人間は、暇になれば暇なりに、いくらでもやることがでてくるものなのさ”

 “羨ましいわ、そんな自由があたえられて”と、リサはぼくを見て言った、“――でも、いつもひとりじゃ、寂しくはない?”

 “話し相手がいない、ということは確かに辛いことさ”と、ぼくはポツリと言った、

 “でも、今のところ自然が唯一、ぼくの話し相手なのさ。散歩に出て、空に浮かぶ雲や、小川のせせらぎ、あるいは、風にうねる草むら、一本の栗の木立、空をゆっくり舞うカラスの姿などを見ていると、本当に心が晴々としてくる。そしてもっと、自然の神秘について、その秘密を知りたい、という気になってくるのさ。都会でのあわただしいお前の生活からは想像もつかないことだろうけれど、小川の流れにじっと目を留め、流れに揺れる藻や、中に泳ぐめだかの様子などに一時間以上もじっとしていることもあるんだ。――でも、そんなときは、そのことに夢中になるけれど、それで満足しているわけでは決してない”

 “というと?”と、リサは尋ねた。

 “やっぱり、人間の世界を忘れるわけには行かないからさ”と、ぼくは答えた、“ぼくの中には、現在、矛盾した二つの感情があるのさ。一つは、人間世界から全く逃げ出したい、という欲求と、今ひとつは、社会のいろんな生活についてもっともっとよく知りたい、という欲求とがさ。これを解決するには、小説を読むのが一番いい。それは、自分がその社会に入らずして、その社会のいろんなことがよく分かるからね。でも、やはりそれだけでは不十分なのさ。最終的には、自分自身が社会の中に入って行かないと。しかし、その一歩寸前で、ぼくを引き止める力が働くんだ”

 “どうしてそんな力が働くの?”と、リサは尋ねた。

 “よく分からない”と、ぼくは答えた、“恐らく、社会生活がぼくに適していない、ということを、ぼくは本能的に悟っているからなんだ。人との交際べた、力がないのに、自分を防御する為のその攻撃性、等が益々人とぼくとの距離を遠ざけるのさ。このことは、都会にいて、いやというほど思い知った事柄なのさ。リサも知っているだろう? あの頃のぼくのすさんだ生活…”

 リサは黙ってうなづいた。

 “それで、都会生活は、ぼくに苦い思いしか残してはいないのさ。その中で、悪者になりながらも、尚しがみついて行くこともできただろう。しかし、ぼくには結局、そんな力はなかったんだ。――ぼくが今もって都市生活にためらいを感じるのは、そういう過去があるからなのさ。今から、社会の中で、どういう一歩を踏み出せばいいと言うのだろう? ぼくには全く手がかりがつかめないし、社会はまるで、雲の上のように、霧に包まれたものとなってしまっているんだ。


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そういう目から見れば、ぼくこそはまさに、都会から遠く離れた田舎で日なたぼっこを楽しんでいる、あのカフカの描いた、昆虫と大して変わらないとさえ言うことができるだろう。ぼくは恐らく、この虫なんだ…”

 “兄さんが虫!”と、リサは驚いて言った、“馬鹿なこと言わないでよ。虫だったらそんな風にペラペラしゃべることもできないでしょ”

 “ぼくは何も虫になりたいと言っているわけじゃない”と、ぼくは言った、“でも虫になるということがどういうことかよく分かる、ということを言っているまでなんだ。――ぼくはまた、おかしな話しをしてしまったようだね”

 リサは、そばで笑っていた。

 “平気よ”と、彼女はぼくを見て言った、“そんなところがいかにも兄さんらしいもの。都会ではめったに聞かれない面白い話しだわ。それを聞いて、私もやっと家に帰って来たという感じ――”

 “ぼくはね”と、ぼくは言った、“自分で自分が分からないんだ。このままじゃいけないことは分かっている。お前みたいに、何か職を見つけなくちゃならないことも分かっている。――でも、一体どんな職がぼくにふさわしいと言えるだろう!”

 “今のままで暮らせるんだから、何も無理をすることなんかないじゃないの”と、リサは言った、“そのうちきっといいアイディアが浮かぶに違いないわ”

 “ぼくの今の生活が決して豊かでないことはお前も知っての通りさ”と、ぼくは言った、“自分ひとりぐらいの生活はなんとかできても、それ以上のことはね。それ以上のことをするには、やはり自分で稼ぐ以外にはないのさ。ところがぼくは、金を稼ぐ能力に欠けているんだ…”

 “そんなことないわ”と、リサは強く否定した、“その気になれば人間、どんなことでもできるわよ。あたしだって今、辛いけど張り合いもあるわ”

 “お前をひとり、都会で苦労させて御免よ”と、ぼくは、しんみりと言った。

 “苦労なんてとんでもないわ”と、リサは否定した、“自分から買って出た職業よ。苦労なんて思ってないわ。そんなこと、考えたこともないの。だって、仕事で苦しむことがあるのは当たり前のことだし、それ以上に楽しいことの方が多いわ。そうでないと、今の仕事、とっても続けられやしない…”

 “ともかくぼくも、何んらかの形で社会に尽くさなければならないようだね”と、ぼくは言った、“生きている心地を味わう為にも、それは必要なことなんだ。ところがぼくとくりゃ、自分の中に、否定的な要素しか見い出すことはできないのさ”

 リサは、それに対しては、何も言おうとはしなかった。もう何度となく、繰り返されて来た文句だったし、その中身についても彼女はよく承知しているからだった。それで、リサは、話題を他に向けようとした。

 “それで、姉さんに会ったんですって?”


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 “そう、今年の春にね”と、ぼくは驚きもなくリサを見て言った、“いたって元気だったよ。お前はまだ会っていないんだろ? 早く会えるといいんだがね”

 何年もバラバラに生活して来たこの姉妹が、再会のことをどう考えているのか、当事者でなくても、興味のあることだった。

 “そうね”と、リサは、会うということに対しては、それほど気のない返事をした、“でも姉さん、あたしに会うの、迷惑に思うんじゃない?”

 “どうしてさ”と、ぼくは言った。

 “だって、あのとき、あたしたちを見捨てて行ったのは姉さんの方だったでしょ。今になって急に会うことに、どんな意味があるのかしら”

 “お前は、あのときのことを、未だに恨みに思っているのかい?”と、ぼくは言った。

 “いいえ、そういう意味じゃ”と、リサは答えた。

 “だったらなおさらのこと、会ってあげるべきじゃないのかい”と、ぼくは言った、“セーラはきっと、お前が来ないので、未だに恨まれていると思っているに違いないんだ。逆に、セーラからはお前に会いに行くわけには行かないさ。お前に会わせる顔はないと思っているんだからね…”

 リサは黙って、それには直接答えようとはしなかった。しかし、それも無理はない。長い歳月は、あれほど息が合っていたように見えた二人の姉妹をも、別々の生活へと追いやってしまったからだ。

 “それで姉さんは、今、病気のおばさんと二人で暮らしているんですって?”やがて、リサはポツリと尋ねた。

 “亡くなったよ。パイク夫人のことだろ?”と、ぼくは平然と答えた。

 リサの表情に、突然驚きの色が走るのが読みとれた。

 “つい最近、セーラからの手紙で分かったのさ”と、ぼくは続けた、“長いあいだ連れ添って来た仲だのに先立たれて途方に暮れている、ってそれには書かれていた。無理もない話しさ。――でも研究所の仕事や、村の子供に対する勤めも残っているから、当分は帰れそうにないということだった。彼女も孤独な人生を歩んでいるようなんだ。たまには尋ねて行ってやらないとね…”

 “そう。よく分かったわ”と、リサは答えた、“あたしもそのうち姉さんに会いに行くわ。約束する”

 それから、何か考え事をしているかのような顔をすると、少し間を置いてから、彼女はこう言ったのだった、“あたしたちの人生って、どれもこれも、あの澄んだ青空のようにすっかり晴れている、というわけには行かないのね…”

 

 “…久し振りに帰って来たんだ。夜行でやって来て疲れているかも知れないけれど、ちょっと散歩に出て見ようか”しばらくしてから、ぼくは言った。

 “いいわ”と、リサはほほえんで答えた。

 “田舎の方? それとも街の方?”


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 “せっかく帰って来たんだから田舎がいいわ”と、リサは答えた。

 “じゃ、その辺を散歩してみよう”と、ぼくは言った、“ちょうど自転車が二つあるんだ。古い自転車と、お前の為にと買っておいた新しい自転車とがね”

 “本当? ありがとう”と、リサは笑顔で答えた。

 ぼくたちは、さっそく居間を後にし、表に出た。

 

 家の裏側の雑草が生い茂った所に、無造作に自転車が二つ置いてあった。雨ざらしにならないようにとぼくがカバーをとると、中から真新しい自転車が一台現れた。リサはそれを、驚きの目で眺めた。

 “これがお前の自転車さ”と、ぼくは、驚く彼女の後ろに立って、言った。

 “なかなか軽快な感じね。いつ買ったの?”と、リサは、自転車を見つめながら言った。

 “もう半年もなるかな”と、ぼくはそれとなく言った、“お前が、いつ帰って来るかも知れないと思って買っておいたのさ”

 “やっとそれが役に立つ時がやって来たわけなのね”

 “ああ”と、ぼくはにっこりして答えた、“乗ってごらんよ。ぼくもまだ少ししか乗ったことのない代物なんだ”

 リサはさっそく、自転車を手にとって、家の外へと押して行った。

 

 “それでどこへ行くの?”と、ぼくたちの自転車が家の外に出揃うと、リサが言った。“適当でいいよ。どこでも絵になるようなところだからね”と、ぼくは答えた。

 リサがまず、漕ぎ出した。続いてぼくも。

 秋のさわやかな風が、自転車で行くぼくたちにふりかかって来た。彼女の赤い花柄のスカートや袖が風に、まぶしいばかりに揺れた。ぼくはすぐ、彼女と並んで走った。

 “こうして自転車で田舎を行くのもいいだろう?”と、ぼくは言った。

 “都会では味わえない楽しみね”と、リサは、風に目を細めながら、笑顔で答えた。

 しばらく走って振り向いたとき、秋の光に輝いている我が家は、みるみる遠ざかって行った。色の濃いニレの樹木も、緑色の芝も、野原一面に敷き詰めた黄色い、名も知らない雑草の花も、みんな、秋の光に輝いていた。

 “リサはいまいくつ?”ぼくは、並んで走っている彼女を見て言った。

 “あら、忘れないでよ。今、二十一よ。――でも、もうすぐ二十二”

 “若いんだねえ…”と、ぼくはつくづく彼女を見やりながら言った、“でも若いっていいことさ。何につけても”

 

 しばらく走ると、やがて真青な清流が流れる川のほとりにやって来た。

 “ここらでひと休みするかい?”と、ぼくは彼女を見て言った。

 “ええ”と、リサは答えた。


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 対岸の川べりまで迫っているはんの木の色は濃いかった。それに劣らず、流れる川も呑み込まれそうになるほど濃い色をたたえているばかりか、草の色も、空の青さも、新鮮で、鮮やかだった。ぼくたちは、自転車を草むらに倒し、そのまま、川のほとりに駆けて行った。川は、遠くから見るより、遥かに大きな音をたてて流れて来た。川のほとりに来るなり、リサは、草むらに身を投げ出して、あお向きに横たえた。目の上には、一本の川柳の枝が、小さな葉をつけて、澄んだ青い空や、そこに浮かぶ白い雲をさえ切るように、虚空に延びていた。ぼくも、草むらに横たえているリサのすぐ脇に腰を降ろし、頭の後ろに手を回してうっとりと空を眺めている彼女の全身を見つめた。それは、自然に投げ出された、魅力的な一人の女の姿だった。

 “やっぱり田舎に来てよかったわ”と、やがて、何かに魅せられたかのように、彼女はつぶやいた、“ここにいると、本当に、都会の騒々しい生活なんかすべて忘れてしまいそう…”

 “そうかい”と、ぼくは、草花をむしりながら、満足深げに、彼女や、周囲の自然を見つめながら言った。小さな葉をつけた、一見裸同然の木の枝が、かすかに風に揺れていた。

 “ねえ、あたしがこんなところにいるなんて夢みたい”とリサは続けた、“友だちのポーラも田舎があるのよ。――でも家に帰れば、牛の乳しぼりとか、まき割りとか近所の人を招いてのパーティの為の料理の手伝いとか、雑用ばかりが待っていると嘆いていたけど、ここではそういうことが全くないのね。そして、心からくつろげる。全く何もせずに自然に触れるようなところなのね。そういうところは、兄さんのいるここしかないわ”

 ぼくは黙って、彼女が言うに任せていた。

 “この前ね”と、リサは続けた、“夏だけど、仕事仲間数人とキャンプに行ったの”

 “知ってるよ。手紙で拝見させてもらったもの”と、ぼくは答えた。

 “そこもきれいなところで、森や湖があったわ。釣りやボートやいろんな遊びをして結構楽しかった。男の友だちもいてね、みんな、ポーラやあたしに言い寄ってくるのよ。でも、単なる遊びだし、それ以上のことをさせなかったわ。――でも、今考えてみると、田舎に行っても都会にいるのと一緒で、本当にくつろぐということがなかったわ。確かに自然は静かだけど、みんなが騒々しくて、毎日が忙しかっただけ。そのときはそんなこと思わなかったんだけど、ここに来て初めて分かったわ。本当にくつろぐということがどういうことか、ということが…”

 “――でも、お前のような人間には、静か過ぎやしないだろうか…”と、ぼくはポツリと言った。

 リサは、黙って首を横に振った。

 “…ここには、ただ静かな空と、小川と、森しか存在しないんだ。それ以外には何もない…”

 “でも、あたしたちがいるじゃない”と、リサが言った。

 ぼくは、にっこりとして、リサを見た。



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