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 “でも、相手はそれほど真剣だったかしら?”と、リサは言った。

 “確かに向こうは、ぼくより年上だし、ぼくよりはもう少し冷静だったさ”とぼくは答えた、“――でも、愛がなければ、あれほど長い交際を続けることはなかったはずさ。しかも、身分違いのぼくと交際することによる危険性を承知の上でさ…”

 “だからそれは、向こうにとっては、ほんの火遊びのつもりだったのよ”と、リサはきっぱり言った、“兄さんはまだ若かったし、向こうは向こうで遊ぶ金に困らなかったわけ。だから兄さんを真剣な恋にまで陥らせるそんな芸当まで出来たわけなのよ”

 “頼むから、ぼくのいい思い出をぶちこわすような言い方だけはよしてくれよ”と、ぼくは少しむっとなって言った、“確かに結果としてはお前の言う通りだったのかも知れない。でも、単なる遊びだけだった、その中に真剣な愛情なんて存在しなかったなんてことがどうしてお前に分かる? リサは、その場に居合わせたわけじゃあるまいに…”

 “兄さんの心に傷つけたのなら御免なさい”とリサは言った、“でもあの人のことは、遠くから見ていてもなんとなく分かるのよ。火遊びというのは確かに言い過ぎだったかも知れないけれど、何かこう…”

 “お前やセーラが、カリーンに対していい感情を持っていなかったことはよく分かるさ”と、ぼくは言った、“彼女がぼくを誘惑しているように見えていたからね。でも、ぼくもそんなに馬鹿じゃない。金があって、美しくて、しかも女学生の身分というものにあっさり参ってしまうほどにはね。むしろ最初の頃は、お前も知っての通り、やむを得ない事情もあったのさ。――でもそのうち情が移って来て、ぼくの方から彼女を誘惑したい、――そんな気持になって来たのさ。ぼくにだってプライドがあったからね、彼女に負けてばかりもいられないさ”

 “年上の女性を誘惑するなんて大したものね!”と、リサは、感心したように言った。

 “結局、男と女の関係は、化かし、化かされ合いなのさ”と、ぼくは言った、“そのことがあの経験の中でよく分かったね。確かにぼくは年下だし、不利な立場に置かれてはいた。でも、男と女なんて、あるところまでくれば、年なんか関係なくなるのさ。地位だってそうさ。ぼくは、そこのところをうまく利用しようとした。その為には絶対にこちらが卑屈になったり、折れようとしたりしないことなのさ。終始、対等か、それ以上だという態度を取り続けることだったのさ”

 “それで相手は折れたの?”と、リサは、興味深げに言った。

 “それが、相手もなかなかの曲者でね”と、ぼくは苦笑した、“なかなか、かわすところなんかよく心得ているのさ。だから、表面的な話しにはいくらでも応じても、肝腎なところになると、うまく話しをはぐらかせてしまうのさ”

 “面白いわね。兄さんとあの人の関係”と言って、リサは、おかしそうに笑った、“――でも、もう随分と前のことね、あの人がいた日なんて。長いあいだ忘れていたわ、あんな人がいたことなんか。兄さんはずっと忘れないでいたの?”


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 “ぼくも忘れていたさ”と、ぼくは答えた、“ほんのときたま思い出すことはあっても、またすぐ忘れてしまうさ。なんといってもあのカリーンは、もう過去の人なんだもの”

 “でも、会いたいとは思わない?”と、リサは尋ねた。

 “全くないことはない”と、ぼくは、少し考えてから答えた、“――でも、仮に会ったとしても、それだけのことさ。向こうが、昔のぼくを思い出し、ぼくが昔の彼女を思い出す――、ただそれだけのことで、現在はお互いに知りたいと思わないほど、バラバラの生活だろう…”

 リサは、感心するように、ぼくの話しを聞いていた。その真剣なまなざしの奥に、どんな考えが秘められていたのだろう…

 “一体、どこからこんな話しになったんだろうね”と、しばらくしてからぼくは言った、“そうか。お前の汽車の友人の話しからか。おっと御免ね、朝っぱらからこんな、私事めいたことを聞かせてしまったりして…”

 

 “それにしてもよく帰って来たねえ…”と、ぼくは、朝日の射すソファーに坐っている彼女を見つめながら言った、“お前の住む街で会って以来もう一年近く経っているんだが、お前自身は余り変わっていないな。そのあいだに何か変わったことでもあるのかい?”

 “色々とね。でも生活の基本は変わっていないわ”と、リサは明るい顔つきをして言った、“向こうでは色々と辛いこともあるけど、割と生活をエンジョイしている方よ… あっ、兄さん、これ着てみたら? 寸法が合っているか少し心配なの”

 リサが言ったのは、彼女の脇に置いてあった手編みのセータのことだった。白い紙包みの中から現れたのは、ベージュに赤や黄の幾何学模様の入った厚手のセータだった。

 “なかなかいい柄だね”と、ぼくはひと目見て、気に入って彼女に言った、“この大きさならぼくに充分さ”

 ぼくは彼女の手からそれを取ると、さっそく彼女の前で身に着けた。

 “どうだい、ピッタシだろう?”そう言って、ぼくは彼女の前に立って回ってみせた。

 “よかったわ、大き過ぎなくて”と、リサは言った、“柄も悪くないわね”

 “でもよく編めたねえ”と、ぼくは感心するように言った、“いつのまにこんなにうまくなったんだい?”

 “本を読んで勉強したの”とリサは答えた、“色んな図柄の編み方が載っているでしょ? その中から適当なのを選んで…”

 “ありがとう。大事にさせてもらうよ”と、ぼくは、それを脱ぎながら言った、“今年の冬はせいぜい利用させてもらうよ”

 そう言って、ぼくは彼女から紙包みをもらい、再び大切にそれをくるんだ。

 

 “それで、兄さんの方は相変わらず?”脱いだ服を着、セータを包み終わると、リサが尋ねた。

 ぼくは不意打ちを食らって、驚いたようにリサに言った。


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 “見ての通りだよ”と、ぼくは両手を広げて言った、“変わったことは何もない。毎日、散歩と読書と思索と… まるで哲学者か、詩人の生活だよ。何かぼくに適した仕事を、と思うこともあるんだけど、なかなかその気になれなくてね。――でも、この思い切りの自由を与えられて、ぼくは、色んな研究に励みたいとは思っているのさ。例えば、ぼくの知らない物理学の世界や、心理、あるいは、動植物の研究などをね。人間は、暇になれば暇なりに、いくらでもやることがでてくるものなのさ”

 “羨ましいわ、そんな自由があたえられて”と、リサはぼくを見て言った、“――でも、いつもひとりじゃ、寂しくはない?”

 “話し相手がいない、ということは確かに辛いことさ”と、ぼくはポツリと言った、

 “でも、今のところ自然が唯一、ぼくの話し相手なのさ。散歩に出て、空に浮かぶ雲や、小川のせせらぎ、あるいは、風にうねる草むら、一本の栗の木立、空をゆっくり舞うカラスの姿などを見ていると、本当に心が晴々としてくる。そしてもっと、自然の神秘について、その秘密を知りたい、という気になってくるのさ。都会でのあわただしいお前の生活からは想像もつかないことだろうけれど、小川の流れにじっと目を留め、流れに揺れる藻や、中に泳ぐめだかの様子などに一時間以上もじっとしていることもあるんだ。――でも、そんなときは、そのことに夢中になるけれど、それで満足しているわけでは決してない”

 “というと?”と、リサは尋ねた。

 “やっぱり、人間の世界を忘れるわけには行かないからさ”と、ぼくは答えた、“ぼくの中には、現在、矛盾した二つの感情があるのさ。一つは、人間世界から全く逃げ出したい、という欲求と、今ひとつは、社会のいろんな生活についてもっともっとよく知りたい、という欲求とがさ。これを解決するには、小説を読むのが一番いい。それは、自分がその社会に入らずして、その社会のいろんなことがよく分かるからね。でも、やはりそれだけでは不十分なのさ。最終的には、自分自身が社会の中に入って行かないと。しかし、その一歩寸前で、ぼくを引き止める力が働くんだ”

 “どうしてそんな力が働くの?”と、リサは尋ねた。

 “よく分からない”と、ぼくは答えた、“恐らく、社会生活がぼくに適していない、ということを、ぼくは本能的に悟っているからなんだ。人との交際べた、力がないのに、自分を防御する為のその攻撃性、等が益々人とぼくとの距離を遠ざけるのさ。このことは、都会にいて、いやというほど思い知った事柄なのさ。リサも知っているだろう? あの頃のぼくのすさんだ生活…”

 リサは黙ってうなづいた。

 “それで、都会生活は、ぼくに苦い思いしか残してはいないのさ。その中で、悪者になりながらも、尚しがみついて行くこともできただろう。しかし、ぼくには結局、そんな力はなかったんだ。――ぼくが今もって都市生活にためらいを感じるのは、そういう過去があるからなのさ。今から、社会の中で、どういう一歩を踏み出せばいいと言うのだろう? ぼくには全く手がかりがつかめないし、社会はまるで、雲の上のように、霧に包まれたものとなってしまっているんだ。


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そういう目から見れば、ぼくこそはまさに、都会から遠く離れた田舎で日なたぼっこを楽しんでいる、あのカフカの描いた、昆虫と大して変わらないとさえ言うことができるだろう。ぼくは恐らく、この虫なんだ…”

 “兄さんが虫!”と、リサは驚いて言った、“馬鹿なこと言わないでよ。虫だったらそんな風にペラペラしゃべることもできないでしょ”

 “ぼくは何も虫になりたいと言っているわけじゃない”と、ぼくは言った、“でも虫になるということがどういうことかよく分かる、ということを言っているまでなんだ。――ぼくはまた、おかしな話しをしてしまったようだね”

 リサは、そばで笑っていた。

 “平気よ”と、彼女はぼくを見て言った、“そんなところがいかにも兄さんらしいもの。都会ではめったに聞かれない面白い話しだわ。それを聞いて、私もやっと家に帰って来たという感じ――”

 “ぼくはね”と、ぼくは言った、“自分で自分が分からないんだ。このままじゃいけないことは分かっている。お前みたいに、何か職を見つけなくちゃならないことも分かっている。――でも、一体どんな職がぼくにふさわしいと言えるだろう!”

 “今のままで暮らせるんだから、何も無理をすることなんかないじゃないの”と、リサは言った、“そのうちきっといいアイディアが浮かぶに違いないわ”

 “ぼくの今の生活が決して豊かでないことはお前も知っての通りさ”と、ぼくは言った、“自分ひとりぐらいの生活はなんとかできても、それ以上のことはね。それ以上のことをするには、やはり自分で稼ぐ以外にはないのさ。ところがぼくは、金を稼ぐ能力に欠けているんだ…”

 “そんなことないわ”と、リサは強く否定した、“その気になれば人間、どんなことでもできるわよ。あたしだって今、辛いけど張り合いもあるわ”

 “お前をひとり、都会で苦労させて御免よ”と、ぼくは、しんみりと言った。

 “苦労なんてとんでもないわ”と、リサは否定した、“自分から買って出た職業よ。苦労なんて思ってないわ。そんなこと、考えたこともないの。だって、仕事で苦しむことがあるのは当たり前のことだし、それ以上に楽しいことの方が多いわ。そうでないと、今の仕事、とっても続けられやしない…”

 “ともかくぼくも、何んらかの形で社会に尽くさなければならないようだね”と、ぼくは言った、“生きている心地を味わう為にも、それは必要なことなんだ。ところがぼくとくりゃ、自分の中に、否定的な要素しか見い出すことはできないのさ”

 リサは、それに対しては、何も言おうとはしなかった。もう何度となく、繰り返されて来た文句だったし、その中身についても彼女はよく承知しているからだった。それで、リサは、話題を他に向けようとした。

 “それで、姉さんに会ったんですって?”


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 “そう、今年の春にね”と、ぼくは驚きもなくリサを見て言った、“いたって元気だったよ。お前はまだ会っていないんだろ? 早く会えるといいんだがね”

 何年もバラバラに生活して来たこの姉妹が、再会のことをどう考えているのか、当事者でなくても、興味のあることだった。

 “そうね”と、リサは、会うということに対しては、それほど気のない返事をした、“でも姉さん、あたしに会うの、迷惑に思うんじゃない?”

 “どうしてさ”と、ぼくは言った。

 “だって、あのとき、あたしたちを見捨てて行ったのは姉さんの方だったでしょ。今になって急に会うことに、どんな意味があるのかしら”

 “お前は、あのときのことを、未だに恨みに思っているのかい?”と、ぼくは言った。

 “いいえ、そういう意味じゃ”と、リサは答えた。

 “だったらなおさらのこと、会ってあげるべきじゃないのかい”と、ぼくは言った、“セーラはきっと、お前が来ないので、未だに恨まれていると思っているに違いないんだ。逆に、セーラからはお前に会いに行くわけには行かないさ。お前に会わせる顔はないと思っているんだからね…”

 リサは黙って、それには直接答えようとはしなかった。しかし、それも無理はない。長い歳月は、あれほど息が合っていたように見えた二人の姉妹をも、別々の生活へと追いやってしまったからだ。

 “それで姉さんは、今、病気のおばさんと二人で暮らしているんですって?”やがて、リサはポツリと尋ねた。

 “亡くなったよ。パイク夫人のことだろ?”と、ぼくは平然と答えた。

 リサの表情に、突然驚きの色が走るのが読みとれた。

 “つい最近、セーラからの手紙で分かったのさ”と、ぼくは続けた、“長いあいだ連れ添って来た仲だのに先立たれて途方に暮れている、ってそれには書かれていた。無理もない話しさ。――でも研究所の仕事や、村の子供に対する勤めも残っているから、当分は帰れそうにないということだった。彼女も孤独な人生を歩んでいるようなんだ。たまには尋ねて行ってやらないとね…”

 “そう。よく分かったわ”と、リサは答えた、“あたしもそのうち姉さんに会いに行くわ。約束する”

 それから、何か考え事をしているかのような顔をすると、少し間を置いてから、彼女はこう言ったのだった、“あたしたちの人生って、どれもこれも、あの澄んだ青空のようにすっかり晴れている、というわけには行かないのね…”

 

 “…久し振りに帰って来たんだ。夜行でやって来て疲れているかも知れないけれど、ちょっと散歩に出て見ようか”しばらくしてから、ぼくは言った。

 “いいわ”と、リサはほほえんで答えた。

 “田舎の方? それとも街の方?”



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