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第5章 リラン

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第5章

 

 …春の花々が、まるでその日の到来を待ちわびていたかのように、一斉に咲き出す頃、しかしまだ、冬の名残りの分厚い灰色の雲が、ゆっくりと空を流れて行くのを、ぼくはじっと窓から眺めていた。随分と長い冬だった。暗くて、重く、長い冬―― ぼくはその冬を、たったひとりでじっと耐え抜いた。様々な考えが横切り、様々な本を読んだ。しかし、そうした、余り事件のない生活の中で、ただひとつ確実なことは、自分の孤独、ということだった。――だが、春の息吹には、確実に、もうすぐそこまでやって来ている。ぼくは、庭に咲いたクロッカスや、紅いラナンキュラスや、スイセンの花などが、春の嵐に微妙に揺れている様をじっと眺めた。まだ空気は暖かくもなく、むしろ冷たかった。しかし、幾重にも重なって見えるあの雲の彼方には、きっと、喜ばしい春がひかえていることだろう。

 

 ぼくは窓から離れ、ソファーに腰を降ろした。テーブルの上には、時刻表がひとつ置かれてあった。それを手に取り、パラパラとページをめくった。出発の時刻を確認すると、もう一度、自分の部屋を見渡した。また、しばらく留守にすることになるこの家――そして、あの庭―― ぼくは、ぼんやりとそれらに目を向けた。時計の針が静かに時を刻む音。窓の外からは、春を喜ぶかのような小鳥の鳴き声も聞こえて来る。このようにして、この冬を過ごしたこの家とも、もうしばらくでお別れだ。誰れもぼくの旅立ちを見送ってくれないこの家、そしてあの庭。それらは、余りにも静かだ。この落ち着いた壁の色も、ソファーも、床に敷き詰められた絨毯も、壁に掛けられた絵や、フロアースタンド、窓に引き上げられたすだれも、余りにも静かな時の流れの中に溶け込んでいる。そして、窓の向うには、雑然とした庭の茂みの向うに、なだらかな丘の斜面や、森の立木の姿が見える。雨の日には、それらはぼうーっとかすんで、部屋の中でひとりいるぼくの心に、言い知れぬ孤独感を誘ったものだった。余りの孤独に耐えかねて、ぼくは、リサに、そして、セーラに電話したことがあった。両方とも、元気にやっている、生きの良い返事が返って来た。ぼくはかろうじて、雨の日の、憂欝な時を過ごすことができた。――しかし今や、その同じ庭にも、春の柔らかい日ざしが降り注いでいた。雲の切れ目の、青い空から降り注ぐその光は、まるで天使の恵みのようにさえ思われた。それは、春風にそよぐ、うっそうとした庭の花や、枝の葉を、美しく輝かせた。ぼくの目も、その庭の光によって、輝いた。もう春だ。春がすぐそこまでやって来ている…

 

 ぼくは自分の寝室に向かい、既に準備してあった旅行鞄を手に取ると、それをベッドの上に置き、中を開いて、もう一度中身を確認した。必要なものはすべて入っていた。それほど重くないように、本当に必要なもの以外はできるだけ省くことにした。しかしそれでも、持って行く本の数だけは、どうすることもできなかった。ぼくは、旅行鞄をきっちり締めると、窓辺に歩み寄った。庭の木の枝が、すぐそこまで伸びて来ていた。もう何度も見慣れた光景―― ぼくは、それをかき消すかのように、さっと窓のカーテンを引いた。


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 …家を出ると、空には徐々に青空が広がり、春の光が、庭の樹木や、花々を輝かせていた。とりわけ、煙突のある、土色の屋根をした、しっとりした我が家が、春の光に輝いているのが、印象的だった。戸締まりは、すべて済ませていた。また当分、この家を留守にすることになるだろう。この白い壁。そして、美しい春の花々―― のどかな午後だった―― 誰ひとりいず、誰ひとり、ぼくのこの旅立ちを見守る者もいなかった。しかし、これら、自分の住み慣れた家を見ると、ぼくは、いつも感じることだが、それを残して去るに忍びなかった。まるで、ぼくの分身のような、ぼくの家。そしてこの庭―― ぼくは、庭の樹木のすき間から空を仰ぎ見、それが、ぼくのこの旅立ちを祝福してくれているのを感じると、静かにその家を後にした…

 

 一ケ月、二ケ月、あるいはそれ以上。今度、ぼくがこの家に帰って来るのは、いつになるか分からなかった。だから、人知れず、静かな自然に囲まれた、まるで農家のような我が家を、一人にしておくのが、忍びなかった。だけども、そんなことに心を縛られていたのでは、何ひとつ、行動を起こすことができない。一つの悲しみがあればこそ、新たな喜びもあるのだ。ぼくはその喜びに向かって、旅立とうとしていた。思えば昨年の秋の終わりに、リサと歩んだあの道を、今、ぼくは歩んでいた。道端には、あのときとは違って、春の花が咲き、気候もいっそう穏やかになっていた。民家の多少見えて来たところまでやって来て、今一度、ぼくは自分の通って来た道を振り向いた。舗装した田舎道は一本、まっすぐ後ろの丘の方から走って来ていた。あの丘の向うに、ぼくの、誰にも知られない、孤独の家がある。それにしても、緑はなんと豊かなんだろう。左手の低く盛り上がった丘には、半分ほど森のような濃い緑でおおわれ、あとの半分は、明るい牧場におおわれていた。その丘のふもとに、いくつかの、思い思いの方向に向きを変えて建った、二階建の民家が見えていた。道を横切るように電線が、空を走っていた。これが、いずれは寂しい、ぼくの家に通じる道であり、それは同時に、駅にも繋がっていた。

 

 …あの心地よい我が家を離れて、ぼくはどこへ行こうとしているのだろう? ぼくは、駅のベンチにひとり腰掛けながら、そんなことを考えていた。ここから遥か遠いリディアのふるさとへ、ぼくは向かおうとしていた。そこでどんなことが起こるか、知る由もなかった。しかしそこには、かつてぼくたちが住んだことのある二つの家が、今も存在するはずだった。ぼくの心は自然、この明るい春の光に打たれて、なつかしい思いと、期待とにふくらんで行くのだった。そしてリサに報告しよう。ぼくたちのふるさとが、今、どんなに変わっているか、あるいは変わっていないか、ということを―― ぼくはそれを見い出すのが楽しみだった。そして、ぼくたちの母、リディアが、青春時代を過ごしたというあの村の様々な場所に触れるのが、今から楽しみだった。


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 やがて、あのときと同じように汽車が入って来、ぼくは、晴れ渡った空の下で、汽車に乗り込んだ。乗り込み際振り向くと、今しがたいたベンチの脇の草むらに、名も知らぬ、小さな、青い花が、陽光を浴びて風に揺れていたのが印象的だった。この静かな駅で、ぼくの旅立ちを見送る者はひとりもなく、あの花だけが、無言の表情で、ぼくの乗車の様子を見守ってくれていた。

 

 ぼくが、余り乗客のいない、ガラーンとした座席のひとつに腰掛けるや、列車はゆっくりと動き始めた。ぼくの席は窓際だったが、もう窓の外を見ようとは思わなかった。もう何度も見慣れた光景――それに、残して来た我が家が今、郷愁を誘うと困るからだった。それで、窓から射し込む光を感じながら、ぼくは、膝の上に本を広げた。旅の時間潰しにと持って来た本のうちの一冊だったが、たまたま手に取ったその本は、たちまちぼくの心を奪い、列車の時の経つのも忘れさせた。ときどき目が疲れて、窓の外の景色を見、今が鉄橋を走っているとか、広い果樹園のそばを走っているとかが分かった以外、その本の世界に心を奪われ続けた。それは、そう長くない中編の小説だったが、題名は、「デイジー・ミラー」と言った。もう百年以上も前に読者を勝ち得たこの本は、今も決して、その輝きを失ってはいなかった。この小説のヒロイン、デイジー・ミラー。彼女のあふれるばかりの美しさや、生き生きとした魅力、については忘れることがないだろう。生真面目なウィンターボーンを通して語られる彼女の生き様は、その最初の登場のとき以来、読者の心を離すことがない。こんな美しい彼女なら、たとい初対面でも付き合いを願いたいと思うウィンターボーンに対して、願ってもないことだが、彼女の方から誘いの言葉をかけてくれるその自然さ。その自然なふるまいが、やがて、社交界の醜聞となり、彼女の命取りとなるのだが、それは、彼女の社交好きな性格が成させるごく自然な行動以外の何ものでもなかったのだ。彼女には、ごく簡単に誰ともお友だちになれるそんな性癖が備わっている。とりわけ美しいが故に、男はすぐ彼女と親しくなるのだろう。しかしそれは、――当時の社会習俗についてぼくはほとんど何も知らないのだが、当時のヨーロッパにおけるアメリカ人の社交界において、彼女は蓮葉な女であり、醜聞の種以外の何ものでもなく、社交界の人々のつれない仕打ちを受け、やがて完全に、社交界から締め出されてしまうことになる。しかし彼女の自然な性格は、それでいじけることもなく、社交界の外で、ジョヴァネリという愉快なイタリア人との交際に活路を見いだして行く。それは、彼女がアメリカの社交界で得たごく自然なふるまいを、そのままこのヨーロッパでも延長しているに過ぎず、なんの悪意も、大胆さも、情熱も秘められているわけでもなく、言わば、彼女の「無邪気さ」そのものなのだ。しかしそれは同時に、旧弊じみた当時のヨーロッパ化されたアメリカ人の社交界に受け容れられることはなく、彼女の経験不足、あるいは未熟さゆえに、彼女は、人々の鼻つまみ者となって行くのだ。このように見て行くと、彼女の「死」そのものに、特別意味があるわけではない。


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ある社会状況の中に投げ込まれた一人の女の生き様として、興味を持たせるのに成功した小説として、読むことができるだろう。――ともかく、それを読み終えたとき、列車はなおも走り続けていたが、陽が段々と傾き、丘の上に、うっすらと森に囲まれた城塞が、まだ衰えることのない陽光を浴びて、そびえているのを目にして、ぼくは、一世紀前の当時の時代と、その時代を、ほんの短く生きたデイジー・ミラー、あるいは、デイジー・ミラーのような少女に思いを馳せた。目の前をかすめて行く光景は、すべて「自然」の風景以外の何ものでもなかったが、ぼくの脳裏は完全に、この小説からのみ知られる、当時のヨーロッパ社交界と、その風景へと向けられるのだった。そのように美しく、そのように無邪気にふるまうことのできた少女が、昔、どこかにいたのだし、今も、どこかにいるのかも知れない。ぼくは、本を読み終えて、彼女の生き生きとした、悲劇的な人生が、いつまでも、余韻を伴って、心に残るのを感じた。何か、感動すべきものに出会ったときにいつも感じる、あの、一種、茫然とした状態だった。心はそれに捕らわれ、もうそれ以外のことは考えることもできない… しかし、どうして今、「デイジー・ミラー」なのか? と問われれば、ぼくは、その答えを知らない。旅の準備に、たまたま、ぼくの旅行鞄に紛れ込んだ一冊だったのだし、その内容について、あらかじめ知って読んだわけでもなかった。ただ、その題名に惹かれて読んだのかも知れないが、この、無邪気と、奔放さの典型であるような「デイジー・ミラー」の名だけは、永く、ぼくの記憶に残ることになるだろう。最後に、この種のアメリカ娘が、1860年代には、ヨーロッパのそこここに見られたが、70年代になると、急にパッタリと見られなくなってしまったという後日談が、何か、ぼくの心を暗いものにした。そうした、短い一時代を生きた典型を、このような芸術的な作品の中に結晶できたということは、それだけでも、値打のあることだ、と言うことができるだろう。実は、ぼくの求めていた作品は、そのような作品だったかも知れないのだ… まだ、読み終えて間もなく、列車が走っているとき、是非この一冊を、リサに勧めてやろうと、ぼくはその場で決意した。

 

 長い列車の旅だった。途中、いくつかの大きな駅に止まり、そして、最後の駅で汽車を乗り換えた。陽春の、最後の光が、美しい空を背景に、地平線へと沈むと、やがて闇が訪れた。ぼくは、寝台車を離れ、予約していた食堂車へと向かった。既に食堂車は、人々で混雑しており、ウェイターやウェイトレスが、忙しそうにテーブルのあいだを往き来していた。ぼくは、白いテーブルクロスにおおわれた、二人掛けのテーブルが空いているのを目にすると、そこに腰を降ろした。さっそくウェイターがやって来、ぼくは、ディナーとワインとを注文した。他のテーブルでは皆、楽しそうにしゃべり合っているのに、このテーブルだけが、向かいに人がいないのが、寂しかった。ぼくは、暗闇ガラスに、自分の姿や、車内の賑やかな様子が映っているのを目にしながら、ふと、デイジー・ミラーのような美しい少女が、向かいの席に坐ってくれないだろうか、と空想した。そんなことにでもなれば、この旅はとんでもない方向へ行くことになるかも知れない。だがもし、そんな彼女が目の前に現れれば、ぼくはどのように応対することができるだろうか?


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ウィンターボーンのように、ごく自然に行くか、どうかは疑問だった。あの、初めての出会い、導入部をよく思い起こしてみよう。最初は弟が現れ、それから姉、デイジー・ミラーが現れたのだ。白いモスリンの服装の、輝くばかりの美しさを伴って。その彼女が、一向、ウィンターボーンに気を惹かれる様子はなかったのだが、ウィンターボーンの方は、彼女のまばゆいばかりの美しさを目にした瞬間、身も心もすっかり奪われてしまったのだ。こういう出会いは重要である。なぜなら、それは、人々の青春時代にしか、あるいは、いつまでも心に青春時代を持ち続けている人にしか経験できない、初々しい出会いだからである。ウィンターボーンは、このチャンスを捕らえて離さなかった。彼は、積極的に彼女に話しかけ、その当時としては、というより今でも、ぶしつけなことであり、困難なことでもあるのだが、ウィンターボーンはそのようにして、彼女と友だちになることに成功したのだった。しかしぼくが、そのように出来るかは疑問だった。美しい少女を前にすれば、恐らくぼくは、言葉を失ってしまうであろうから。それに、自分のように孤独で、将来のない人間が、どのようにして、美しい彼女を、明るい気分にさせることができるというのだろう? それは、ウィンターボーンにしてもできなかったことであり、ただ、あの美男のイタリア人、ジョヴァネリにして初めて可能なことであったのだ。恐らく、無邪気で、快活なデイジーを楽しませられるのは、いつの時代でも、そのような種族の人々であり、そうでない自分には不可能なことだ、と悟った。

 

 このように、デイジー・ミラーに源を発した空想は、広がって行くばかりだった。食事は運ばれて来たが、相変わらず、向かいの席と、白いテーブルクロスの一角は、空いたままだった。ぼくはふと、自分の過去を振り返った。ぼくの人生には、様々な女が現れては消えた。確かに、多くの女の中で、ぼくの心を感動させるような女が現れることは、まれだった。しかし、そのような女も、現実にはいたのだし、デイジー・ミラーのように、ただ美しさだけで、感動させるような女もいれば、この小説のように、現実そのものではなくとも、そのような女性をほうふつとさせるような作品によって、女に感動させられるようなこともあった。ぼくは、このように感動を与える女について、もっと深く知りたいと思った。どうして彼女らは、ぼくに感動を与えるのだろうか? その理由は、何んだろうか? これは決して、どうでもいいことではなかった。なぜならこの問題は、ぼくの人生の重要な部分を占める、解決不可能な、永遠のテーマのように思えていたからである。そればかりでなく、この問題を解決しない限り、即ち、もう女のことで頭を悩まされるようなことがなくならない限り、次のステップへと進むことは、不可能なことのように思われた。ぼくが、普通のサラリーマンや、技術者になろうとするのではなく、創作に固執しようとするのも、まさに、女のためなのだ。この世に女というものが存在せず、その存在を知りもしなかったとするなら、ぼくは、小説を読もうとも、書こうとも思わなかっただろう…


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 結局、デイジー・ミラーのような少女は現れなかった。ぼくは空しく食堂車を引き上げ、食堂車の賑わいからも去って、孤独な、自分の寝台車へと戻った。そしてまだ時刻は早かったが、ベッドの上に、ゴロリと横になった。さっきの賑わいがまるで嘘のような、ここは静けさだった。ぼくはひとり、またもひとりになった。ただ列車の響だけが、その振動と共に耳に聞こえて来る。ベッドのランプは薄明るく、自分の寝息が聞き取れそうだった。明日になれば、ぼくは、目的地のリランに着くだろう。そこで、まず、予約してあるホテルに行き、それから一切の行動を開始するだろう。何ひとつ見落とさず、何ひとつ聞き逃しはしない。――しかし、そこで誰に会うというのだろう? ぼくたちのことは何ひとつ知らない村人。あるいは少しは覚えてくれているかも知れない村人。きっと、昔の多くの顔ぶれはもう変わってしまっていることだろう。そんな村の中へ分け入って、ぼくは何をしようとしているのだろうか? ただ昔にもう一度触れ合いたい、そんなものでいいのだろうか? ぼくが触れ合いたいと本当に願っているものは、そのような、もう過ぎ去ってしまった過去ではなく、あの小説に出て来たような、美しくて、無邪気で、何ひとつ罪の意識を持たない、あのような少女ではなかったのか? しかしそれは、小説にして初めて可能な人物像であって、実際には、なかなか存在しないのではないだろうか? ぼくが惹かれ、感動したのは、小説上のデイジー・ミラーであって、実際に、そのような少女が現れたとしても、ぼくはそれほど感動しないのではないだろうか? それについては、答えは見つからなかった。しかしただひとつ確かなことは、ぼくがこれから成そうとしていることは、すべて空しい、という意識だった。なぜなら、思い出はすべて死者であり、ぼくは、死者を相手に、これから行動を起こそうとしているのだから。――しかし、ぼくが本当に求めているものは、やはり生きている人、生きている人と出会い、そして、共に生きる、ということなのだ…

 

 その後、夜が更けるにつれ、デイジー・ミラーの亡霊が、何度もぼくのもうろうとした意識の中で横切り、一度も見たことのないはずの彼女が、肉体と表情とを伴って、ぼくのそばに現れたような気がした。そのたびにぼくは目が覚め、いま、自分が汽車のベッドの上に寝ているのだ、ということに気が付くのだった。しかし、意識は再び、夢の中へと入り、彼女の声や、その生き様が、繰り返し、ぼくの目や耳に聞こえ、重い心のぼくを悩まし、あるいは、興奮し続けるのだった。デイジー・ミラーという魔物は、ぼくにとって何んだったのか、それはついに結論が出ないままだった…


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 …朝になって、汽車は、遠くに森におおわれた小高い丘のような山を背景に、一面、麦畑やじゃがいも、その他の畑で区切られた、広い平野のまっただ中を走っていた。ふぞろいに建ち並ぶ農家や、植林された見事な、さんざしや、樫の木立がある他は、一面、手入れのよく行き届いた畑が広がっているだけだった。ぼくは、つい今しがた目が覚めたばかりで、窓から外を眺めていた。既に晴れ上がった空の下で、朝の日射しが、明るく、広がる畑を一面、照らしていた。やがて、遠方の、森におおわれた丘陵のふもとに、ひと際高く、空を突き刺すような、教会の尖塔が見えて来た。恐らくそれは、名も知れない村の教会だろうが、その光景は、早くも、やがて訪れるはずのリトイアの村への思いとも重なって、憧れと、なつかしい思いとが交錯するような気分を引き起こさせた。ぼくの気持は早くも、ぼくの第二の故郷、リトイアヘと羽ばたいて行った。――もう心には、昨晩あれほど夢中にさせたデイジー・ミラーのことは、すっかり消え去っていた。小説には小説の世界があるかも知れないが、やはり、ぼくの心を捕らえて離さないものは、目の前に展開する、このような現実なのだ。列車のゴーゴーいう響き、窓の外に広がる、明るい、伸びやかで、のどかな光景は、全くの春を感じさせ、ぼくに、さわやかさをもたらしてくれた。野原のところどころに咲く、あの紅い花の群れは、スミレ、そして、あの黄色い花の群れは、きんぽうげ、なのだろうか? それらが、楽しそうに、早朝の、春の風に揺れている。きっと、ぼくがこれから向かうリトイアの村も、このような花や木におおわれていることだろう。列車と平行して走る小川も素晴らしかった。広い平野のまん中に、青い空を反映し、キラリと光って見える小川は、とうとうと、冷たい水をたたえていた。あれは単なる小川か、それとも運河なのだろうか? 列車は、相当の速度で走っているに違いなかったが、風景は一向、変わることがなかった…

 

 …そのようにして、長い列車の旅も終わりに近づきつつあった。静かに広がる田園地帯と、その田園地帯のあいだをゆったりと流れる中程度の広がりを持つ川の向うに、遠くの、森におおわれたなだらかな山と、丘陵のような山とが交錯するところ、うっすらと、もやにおおわれたような町が見え始めて来た。なだらかな丘陵に沿って、建物の白い壁や、川にかけられた石造りの橋などが、段々と具体的に見えて来る。町の中央辺りに、他の建物に交じって、教会の尖塔らしきものが見え、あそこが町の中心地らしいと分かった。このように、うすもやに包まれて、次第にはっきりと、その全貌を現して来る、田園とその向こうに広がる美しい湖とに囲まれた町が、人口10万を越えるリランの町だった。ぼくの目は、鏡のような川面の向こうに見えるリランの町の広がりに、しばらくじっと釘づけになった。

 ――列車はやがて、吸い込まれるように、その町の中に入って行き、速度をゆるめると、やがて現れた駅の横で、ゆっくりと停車した。ぼくは、胸を踊らせながら、荷物を手に取り、他の乗客と共に、列車から降りた。なんというまばゆさ、駅に茂っているシラカバの緑の濃さ、そして、ここから見える、町並みの屋根の輝かしさ、だったことだろう。


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ぼくは、数年振りに、この町へ帰って来たのだった。建物のすべてが、まるで昔に戻ったように、古い色調で統一されていた。昔見たときもそうだったが、ここでは頑強に、新しい波をかぶるのを拒んでいるかのようだった。列車から降りた人は、そう多くはなかった。ぼくは、自分が降りた列車を振り返り、いつか、リサと旅をして、見知らぬ町で降りたときのことを思った。あのときは、ぼくに続いて、リサが、あの列車の降車口から降りて来たものだったが、この日は、知っている顔に出会うことはなかった。ただ、ポーターに荷物を頼む乗客、駅まで迎えに来ていた若い妻と、その子供たちと、久し振りに帰って来た父親との再開とその笑顔、といった光景が、ちらほらと見られるだけだった。ここまで旅にやって来た若い男女のグループの姿も見られたが、彼ら、静かに歩いて行く乗客のあとに続いて、ぼくも駅の出口へと向かった。列車は停止したままで、すぐには動きそうもなかった。ぼくの帰郷を歓迎するいかなる人もこの駅にはなく、ただ、春の日射しの中の静かな駅の風景だけが、印象的だった…

 

 ホテルは、駅から賑やかな市街地をタクシーで五分ほど駆け抜けたところで、川のほとりの、向かいに、花壇や彫像のある小さな広場に面したところに、建っていた。青い切り立ったような屋根と、煉瓦造りの壁の、いかにも重厚な感じの建物だった。ぼくは、タクシーに、料金とチップとを払い、ホテルの中に入って行った。

 

 案内された部屋は、ベッドやテーブルが置いてあるごく普通の、簡素な部屋だったが、ただ窓から見える景色が素晴らしかった。ここからはすぐ、町の中心を流れる川を見下ろすことが出来、窓の下の方に眺めることのできる船着き場のボートや、対岸の樹木におおわれた古めかしい建物や、素晴らしい聖堂の様子などが、一望の下に見渡すことができた。空は穏やかで、対岸では、岸辺を散策する人の姿も眺められた。ぼくは窓を押し開き、外のさわやかな空気を吸い込むと、部屋に戻り、ベッドの上に身を投げ出した。しばらく滞在することになるこのホテル。ぼくは、その古びた模様の壁紙や、白い机、肘掛け椅子、ランプシェードの様子などをじっと眺めた…

 

 …春のさわやかな、冷たい風が室内を吹き抜け、出窓に置いてある鉢植えのゼラニウムの花を揺らし、その風は、ベッドに身を投げ出しているぼくのところにまでやって来た。なんとものどかで、さわやかな気分だった。部屋の窓の外から聞こえてくる様々な小さな音と共に、この風は、ぼくに何か、遠い思いを呼び起こさせた。それは、遥か昔の、子供の頃の気分なのかも知れない… ベッドから窓から見える青空を見、静かに時を刻んで行くぼくの脳裏には、そんな様々な思いや、断片が交錯した。二階の階段から降りて来たママの足。晴れ渡った空の下で、洗濯物を乾していた彼女。家族連れ立ってピクニックへ行ったときの思い出。静かな、小さな清流が流れていた、森と草原。ぼくたちは、敷布を広げ、お弁当を食べた。二階の小さなぼくの部屋で、床に坐りながら、熱心に本を読んでいたぼく自身。


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窓の外は、さわやかな青い空と、ハンノキの目も覚めるような緑の林がおい茂っており、ぼくは、何ひとつ思い煩うこともなかった。ハンノキ林は、木陰を作り、その木陰の下に、まだ幼いセーラやリサの妹たちがいた。彼女たちは、子犬と戯れて、遊んでいたのだ。――そんな遠い、幸せな日々が、確かに昔、あったのだ。あれは、夢だったのだろうか? もう二度と訪れることのない、はかない夢にすぎなかったのだろうか? しばし、ぼくは夢のような思いにふけった後、ふと、今自分が、年を取って、このホテルの部屋にいることに気が付いた。窓から聞こえて来る小さな、現実音に耳をそば立て、ぼくは言い知れぬ、孤独と、空虚さとを感じた。もう誰もいない。あの、優しい思い出を包んでいるのは、このぼくひとり、ひとりぽっちなのだ…

 

 …そう言えばけさ、ぼくは不思議な夢を見た。夢にうなされて目が覚めたとき、ぼくは、悲しみの余り、心が打ち震えていたことに気が付いたのだ。有名な人が亡くなった、という記事を目にして、ぼくはハッとなったのだ。あの人ならよく知っている。彼女がまだ若い頃、世に登場した頃は、素晴らしく美しかったのだ。その頃の写真は、残らず切り抜きとして、保存していたはずだ。ぼくは、どこかの引き出しをかき分け、中からそのスクラップを取り出すと、もう一度、じっくりとその写真を見つめた。確かに美しい。その写真のうち、いくつかは、生き生きした、美しい笑顔を、こちらに向けていた。こんなに美しく、愛らしかった彼女は、もう二度と、世に出ることもないだろう… ぼくは写真を閉じ、まだ彼女のいるところへ行くことにした。あれから年をとったとはいえ、そんなにふけていたわけでもない。幸い彼女の亡くなっているところは、ここからそんなに遠くはない。そして遂にぼくはやって来た。表には、彼女を偲ぶ大勢の人が詰めかけ、並んでいた。最後まで品を失わなかった彼女にふさわしい、感じのいい、モダンな屋敷だ。ぼくは人々のいる、表の入口に向かった。するとそこでは、すすり声が屋敷内から聞こえて来ていた。無理もない。あれほどの彼女が、たったまだ、こんな若い年齢で、あの世の人となってしまったのだ。そのすすり泣きは、この入口のところまで伝播し、入口に立っていた知人や、若いメイドまで泣かせるに至った。若いメイドは立っていることも出来ず、入口の床の上に泣き伏してしまった。その悲しい感情は、ぼくにもよく分かった。ぼくも泣きたいぐらいだった。ハンカチで目頭を押さえ、そうして彼女が眠っているはずの、明るい光に包まれた、屋敷の中へと、ぼくは入って行った…

 

 夢はそこで覚めた。だから、彼女の死に姿を見たわけではない。だが目が覚めたとき、胸が痛くなるような、強い、悲しい感情に捕らわれていたことは確かだった。どうして、それほどまで悲しかったのだろう? また、それほどまで、悲しい夢を見なければならなかったのだろう? 恐らく、若かった頃の彼女の美しさと、その突然の死の中に、ぼくは、世のはかなさの集約のようなものを、見てとったからなのだろう。美しいものも、年には勝てず、やがて死に至る。――これの意味するものを、ぼくは夢の中で見、心の底から感じとったのだ…


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 そんなことが、静かに、ベッドに横になっているぼくの頭の中を流れて行った。なんと冷たい、さわやかな風なのだろう。その一吹き、一吹きが、ぼくに、別の思いを運んでくれそうだ。ぼくは目を閉じ、雨の中を濡れて帰った日のことを思った。小川の両岸は、雨にけむっていた。傘を失い、芝生の敷き詰められた、丸く刈られた樹木の横を、誰も乗っていず風に揺れているブランコの横を、雨に打たれながら、ぼくはひとり、とぼとぼと帰って行った。周りの景色は、すべて雨にかすみ、家や樹木の黒い陰が、恐ろしい魔物のように見えたことはなかった。また、あのときほど、孤独と悲しい思いを感じたことはなかった。しかし、雨にぬれた樹木の枝や葉は美しく、地面に咲いている草花も美しかった。そして、雨にぬれた迷路のような公園の茂みの向こう側から、傘をさしたママとぼくの妹が、このぼくを迎えに、歩いてやって来るのだ。その姿はまるで、茂みに咲いたもうひとつの花のように、美しかった。

 …そういった日は、現在というこの日からは、遥か昔へと切り離されてしまった。今残っているのは、ただその日の記憶だけだが、どれほど確かかどうかは、もう分からない。あんなことがあった日から、どれほど多くの日々が流れ去ったことだろう。あの頃いたママが、まだ子供の頃だった村のすぐそばまで、ぼくは帰って来ていた。思えば、その村は、その日々からどれほど多くの歳月が流れ去っていることだろう。だが人は年を取っても、村は朽ち果てることはないのだ。今も、その当時の家が残っているだろうし、その当時の廃墟の岩陰には、今もその当時と同じように、小さな花が咲いていることだろう。その当時流れていた清らかな小川は、今も同じ音をたてて、きっと流れているだろう。ぼくは、ぼくの知らない昔に存在していたその村へ帰ろうとしていた。リトイアの、さらに小さなサビーノの村へと。ぼくが現在いるこのホテルから、そこへは、もうすぐそこだという思いが、ぼくの胸を震わせた。長い年月の後、ぼくは再び、ママが育ち、旅立った故郷へと帰って来たのだ。めぐりめぐったあげく、結局、自分の思い出の場所へと帰って来る。人生とは、そうしたものなのだろう。長い年月の後、自分のふるさとのことを思わない人はいない…

 

 ぼくはなおも、横になり続けた。いつかリサと旅をした時のことが頭を過った。彼女とホテルに泊まり、彼女は入るなり、シャワーを浴び、そのあいだぼくは、窓辺に立って、窓の外を眺めていた。あの頃はまだ二人で、ぼくは幸せだった。そんな日もあり、そしてもっと遠い日もあった。セーラ。彼女らと会ったときの思い出。彼女らは、海辺からそう遠くない、日のよく当たる、木のおい茂った屋敷で、何不自由なく暮らしていたのだった。学校に通い、ピアノと乗馬とを習っていた。庭は広く、庭に出ている彼女らは、まるで二葉の蝶だった。ぼくはもちろん、そんな彼女たちの姿を目にしたことはない。しかし彼女らの話しから、そうした光景は目に浮かんで来るようなのだ。


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そして――もっと古い時代があった。ぼくたちの本当の故郷、オディープにいた頃の幸せの日々。川辺で彼女らを待たせ、魚を釣っていたときの思い出。二人の妹は、釣りには興味を示さず、土手の草むらで、持って来た本を膝の上に広げ、読んでいたのだった。そして時折り、「釣れた?」とか、「まだ?」とか、ぼくに向いて尋ねるのだった。日射しがきつく、恐らくじっとしていることに耐えられなかったのだろう。ぼくはもう一度川に向かって竿を投げ、魚が釣れるまではもう少し時間がかかることを示した。――そんなことがあった日々。オディープは、ぼくたちの出生の土地だった。美しい自然に囲まれた、素晴らしい場所だった。しかしその頃、オディープでの誕生よりも前にも歴史があり、親たちの人生や故郷があったのだとは考えることもなかった。自分たちのふるさとだけで満足していたし、親のふるさとまで考える余裕はなかった。しかしぼくは今、ようやく、母親が過ごしたふるさとへ足を踏み入れようとしている。ママが子供の頃、ぼくと同じような幼少期を過ごしたかも知れないママのふるさとへ、ぼくは足を踏み入れようとしている。その頃、まだ幼かったママは、学校の往き帰りの花の咲く野道で、あるいは小さな池のほとりで、その幼い胸に将来に対するどんな夢を描いていたのだろうか? そんなことを、今から想像するのが楽しみだった。

 

 ぼくはベッドから降り、もう一度窓に歩み寄って、窓の下の船着き場や、ゆったりと流れる***川や、対岸のよく茂った樹木、それと同じような色をした屋根のある建物、岸辺をゆっくりと往来する人々の姿、などを眺めた。空は、うっすらとよく晴れていた。風が、川の表面を波立たせ、樹木の葉をざわざわと揺らめかした。この空、この晴れた空の下の、あの向こうにママの故郷が存在し、それは今、このぼくを呼んでいるようにも思えた。そう思うと、ぼくの頭は、様々な想像を取り混ぜた思い出でいっぱいになり、いても立ってもいられなくなってしまった。ぼくは、窓を閉め、暗くなったホテルの部屋から出ると、階段を駆け降り、一気に、ホテルの外の広場へと飛び出した。予約し、乗ることになっていたタクシーが一台、ホテルの前に止まっていた。外に立ってぼくを待っていた中年の運転手に、ぼくは行き先を告げた。

 “色々と行くところがあるんだけど、まず、ロアズマヘ行ってくれるかい?”

 “ロアズマだね”と言う、運転手の声がはずんだ。

 ぼくは今、見知らぬ街の見知らぬ場所へ旅立とうとしていた。タクシーは、れんが造りの、古めかしい建物のあいだを走って行った。目に飛び込んで来るものすべてが、目新しく、新鮮で、爽快な気分をぼくに与えた。裏街の、テントの下でかばんや、皮製品、花などを売っている露店商。それを、物珍しげに見つめる街の人。表通りを飾るショーウィンドの華やかさ。陶器や、時計や、ベーカリーや、いかにも、人々の息遣いが感じられてくる、活気にあふれた街だった。タクシーは、落ち着いた建物が両側に並ぶメインストリートを走った後、やがて、両側街路樹の並ぶ静かな通りへと入って行った。ぼくはぼんやりと、街路を歩く婦人や子供や、その他の人々の姿を眺めていた。


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297

 太っちょの、威勢の良さそうな、帽子をかぶった運転手が、ぼくに話しかけて来た。

 “この街は初めてかね? なかなかいい街だろ”

 “いいえ、初めてじゃないです”と、ぼくは、そう大きくない声で答えた、“昔、ここからそう遠くないレビエに住んでいたし、そのずっと前には、リトイアの近くのサビーノの村にも、少しばかり住んでいたことがあるんです。だから初めてじゃないけど、まるで初めて見るように新鮮で、いい街だ…”

 “ほう、サビーノの村か”と運転手は、感心したように言った、“あそこはなかなかいい村だ。意外と思うだろうが、実は、オレもあそこの村は知っている。というのも、オレの妻の妹が、リトイアに嫁いでいてな、あそこへ尋ねて行ったときに一度、みんなでピクニックに行ったことがあるのさ。余り人の住んでいないところだけど、なかなかいいところさ。――それであんたは、そこの出身らしいけれど、尋ね人か、何かなのかい?”

 “いいえ、それに近いけれど、それそのものじゃありません”とぼくは、それとなく答えた。

 “それにしてもひとりで。どこから来たんだね?”と運転手はなおも尋ねた。

 “ドシアンからです”と、ぼくは答えた。

 “へえ~。随分遠くからなんだね”と、運転手は驚いたように言った、“レビエとも言っていたけれど、あそこもなかなかいいところだ。湖畔際の町でね。なかなかいい町に住んでいたんだね。――でもどうしてそこへ行かないで、ロアズマなんかに行くのだい?”

 “レビエにもいずれ行くつもりです”と、ぼくは答えた、“――でも、いろいろと訳があってね、ロアズマヘまず行きたいんですよ”

 “ふ~ん。面白いね”と、運転手は、ひとり言のように言った、“君の目的が何んだか分からないけれど、この旅は何んだか面白くなりそうだ。気に入ったね。単なる観光でもなけりゃ、何か目的がありそうだからね”

 “別にそれほど大したものじゃなく、個人的なものです”と、ぼくは言った、“ああそれから――ロアズマに着いたら、まず、ミリエルの繊維会社の方へ行ってもらいたいんです”

 “ミリエルの繊維会社?”運転手は、急に顔を曇らせて言った、“ミリエルの繊維会社って、随分昔、あれは確か戦前につぶれてしまった会社じゃないか。今は確か、その広い跡地だけが残っているに過ぎなくて、建物なんてひとつも残ってはいないよ。もっとも基礎の部分は一部残っているかも知れないけれど、草がぼうぼうさ。それでもいいのかい?”

 “ええ、そのことは知っているんです”と、ぼくは答えた、“この前も、何度か行ったことがありますから。――でも、ぼくが行きたいのは、その工場の跡地から少し離れたところにある、元ミリエル家の城館なんです。今は、誰の手に渡っているかは知らないけれど、この前来たときは確か、オーナーは、パーシバルとかいう人に代わっていました”

 “ああ、あの建物のことか”と、運転手は納得したように言った、“それなら確かに今もある。大きな、なかなか立派な館だ。


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298

確か今も、君の言ったような名の人が住んでいるはずだ。――でもそこに用があるって、さっきから余り人の知らないミリエルって名を出しているが、そのミリエル家と君とは、何か関係があるのかい?”

 “ええ、実は、そこで生まれた娘が、ぼくの母親でした…”ぼくは、それとなく、しかし、きっぱりとそれだけ答えた。

 “へえー、それじゃ”と、運転手は二度、驚いたように言った、“あの、何かい、戦前には名の聞こえたという、あの資産家の孫が君だ、というわけなのかい?”

 “今も会社があれば、の話しですけれどね”と、ぼくは、少し照れるように笑いながら答えた。

 “今では知る人も少ないだろうけれど、ミリエルといえば、このリランでは、戦前、なかなか名の知れた名家だったという話しじゃないか。オレも詳しいことは知らないけれど、ちょっとは聞いてはいるんだ。――でも聞くところによると、会社がダメになったのは、一族のあいだで何かゴタゴタが持ち上がって、それで傾いたという話しじゃないか。君は、そこのところは知っているのかい?”

 “ええ聞きました”と、ぼくは静かに答えた、“全部ね。――でも、人に言えるような内容でもないです”

 “まあいいだろう。内輪のもめごとは余り人に言えたものではないからね”と、運転手は、気よく引き下がって言った、“――それで、君の母親が当主の娘だという話しだが、今も元気にしているのかい?”

 “実は、その母親の行方の手がかりをつかむ為にやって来たんです”とぼくは、正直に白状した。

 その瞬間、運転手の頬にピクッとけいれんが走るのが、バックミラーを通して、ぼくの目に見えた。

 “ああ、そういうことだったのか”と運転手は落ち着いた声で言った、“それで、あちこちへ行かなくちゃならんのだね。そういうことなら話しは簡単さ。この車で、できる限り、君のお手伝いをしよう…”

 “そうですか。助かります”と、ぼくは丁寧に答えた。

 タクシーは、一本まっすぐ延びた道に沿って、ポプラや糸杉などの木立のある景色のいい、麦畑やその他の畑におおわれた静かな平地を走っていた。振り向くと、少し下方のところに、リランの街並が、うっすらと、一見してそれと分かる、森におおわれたなだらかな丘陵地のふもとに、広がって見えていた。少しばかりあいた窓から冷たい風が入り込み、ぼくの頬を打った。相変わらず陽気な運転手は、鼻歌まじりの声をたてながら、ひたすらハンドルを握り、車を走らせ続けていた。大きな荷台のある青色のトラックが、向こうから走って来て、勢いよくこの車とすれ違って行った。沿道に咲く美しい草花や、明るい民家が、次々と後ろへ滑り去って行く。素晴らしい空と、素晴らしい眺めと、素晴らしい気分だった…


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299

 

 タクシーはやがて本道からそれると、静かな、まるで山の中に入り込んだかのような印象を与える、深く森におおわれた道を走るようになった。ニレの樹に混じって、ところどころに見えるすももやはしばみの樹が美事だった。やがて、それらの樹林帯が急に跡絶えたところに、一見、広々とした牧草地を思わせるような場所に出たが、ところどころにある朽ち果てた建物の壁の跡が、すぐそれが工場の跡であることを思わせた。舗装道路は、そのそばを通って、さらにその向こうの奥地へと続いていた。

 

 “君の言っていた工場跡というのはここだろう?”と、運転手は、車を走らせながら、沿道の荒れ果てた土地に目くばせをして言った。

 そう言えば、ぼくは思い出した、レオノールが亡くなったその夏、レビエの家からはるばると、リサの手を引いてこの地にやって来た日のことを。あの日の印象が、鮮やかにぼくの心によみがえって来た。日射しは強く、空は澄んでいて素晴らしかった。周りが余り静かなので、車をそこに止めて降りたぼくは、自分の目を疑ったほどだった。ここが、この地が、あの、レオノールが言っていた会社の跡だったのだろうか。今はただ、雑草におおわれた広々とした土地に、崩れ落ちた壁の跡が、ところどころほんの少し、当時の名残りをとどめているだけだった。ぼくはまるで、心の糸が切れたさすらい人のように、リサの手を取って、雑草におおわれた瓦れきの跡を、とめどもなく、あちこち歩き回った。不承不承ぼくに手を引かれるリサは、ふに落ちない表情で、そんなぼくを眺めていた。ぼくは荒涼とした敷地のまっただ中に立って、周りを見渡し、道の向こうの森や、あの、雲の浮かぶ澄んだ空からさえも、ただ小鳥の小さな鳴き声が聞こえてくる以外は、当時この工場で生き、働いていた人々の、ほんのささいな息づかいさえ聞こえて来ないことを確認した。どんなに耳を澄まし、目をこらしても、無残にも打ち砕かれた工場の跡地以外には、何も認めることはできなかった。ただ、崩れ落ちた石の壁の角に、他の雑草に混じって、可憐な忘れな草が咲いているのが、ふとぼくの目に止まり、ぼくの心を惹きつけた。そうだ、今はこれだけなのだ。これが、当時の歴史を物語るすべてなのだ――ぼくは、その花を見入りながら、そんな気がして来、それから再び、とめどもなく広い、雑草におおわれた工場跡や、遠くの森や、打ち捨てられたような自分の車や、リサや、青くかすんだ空の方へと目をやるのだった…

 

 ぼくはそれが、今目にしているこの光景だと思って、再び驚かずにはいられなかった。あの日と少しも変わってはいない。あのとき、リサと来て見た光景と少しも変わってはいない。まるで数年前に来て目にしたのが嘘であるかのような、静かで、少しも変わることのない、荒れ果てた光景だった。

 “どうだい? 降りてみるかい?”運転手は、振り向き、気を利かして言ってくれた。

 “いいえ、いいです”と、ぼくは答えた。


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300

 車は、そう言う間にも走り続け、今は全く人気のない広大な工場跡の荒れ野を横にしながら、やがて次の目的地へ通じる、エニシダや樫の木の茂っている森のあいだの道へと向かって行った…

 工場跡を去って数分もすると、やがて、森を抜けたところに、落ち着いた、静かな民家の並ぶところに出、それに沿ってしばらく走ると、再び、森のような樹木に包まれたところに、堂々とした館の鐘楼が、その先端に、美しい空を背景に、美事な旗をなびかせている様が、目に飛び込んで来た。――それが、ぼくが目的としてやって来たものの一つ、元ミリエル家の館であることは間違いなかった。車が近付くにつれ、それは、明るい日射しに打たれたその姿の全貌を見せてくれるに至った。背の高い樫の木やニレの木のあいだに建っているその姿は、堂々として美事だという他はなかった。周りに敷き詰められた放牧用の草の色と同じような美しい緑をした大きな屋根、一際目立つ八角形の塔の屋根、それに比べればそれほど大きく見えない鐘楼、そして、歴史を刻む古色そうぜんとした壁と、魅惑的な、白くふち取りをした夢を誘うような沢山の窓――それらはどれひとつとして無駄はなく、その形態の美しさで、ぼくの目を奪うに十分だった。その堂々とした館が、澄み渡った空の下で、日を浴び、ぼくの目の前で、まぶしいばかりに輝いていた。それを包むかのような美事な樫の木の林も、周りに広がる美しい草地も、すべてが魅惑的で、夢のようだった。それらすべてが、明るい日の光に溶け込み、昼の眠りのような世界の中で、静かに呼吸をし、息づいているかのようだった。数百年もの昔から、このような姿であり、恐らく、まだ幼かったリディアが暮らしていた頃もこのようだったことも、容易に想像することができた。

 

 やがて、車は、美事に刈り込まれている草のあいだに白く、まっすぐ延びている道を通って、まだ光が斜めに射し込み、古びた壁や、いくつもの窓に光の陰影を投げかけている、その屋敷の立派な表玄関の前まで来ると、静かに止まった。

 ぼくは、運転手にしばらく待ってもらうように頼むと、車からひとりで降りた。

 しばらく門の前にたたずみ、青い空の下に誇らしげに舞う、鐘楼の旗や、空に突きたてるような塔の先端などに目をやった後、ぼくは、この静かな館の中や、周辺から、何か聞こえてくるのではないかと、耳を澄ました。しかし、館の後ろに茂っている樹木の枝を飛びかう小鳥の鳴き声以外には、何も聞こえては来ず、静かだった。きっと当時も、このように静かだし、このように明るく、そして、このように美しかったのだろう。広々とした敷地の、美事な草の上に、樹木の影が投げかけられ、空気は澄んで、さわやかだった。樹木の緑の陰影が美しく、また、それほど大きくもなく、しっとりとした館が、この自然によく調和していた。

 

 ぼくが門を叩くまでもなく、門の前で周りを見渡し、立っていると、急にドアが開き、中から、黒い服がよく似合う、もうそれほど若くはないが、美しいと言える婦人が姿を表した。


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301

 “何か御用でしょうか?”その婦人は、ぼくを見るなり言った。

 “手紙を差し上げておいたと思いますが、ぼくは、ホールバラと申します。シレール・ホールバラです。一度、中をお見せ願いたいと、また何か聞けはしないかと思ってやって参りました…”

 “ああ、あなたが手紙の持ち主さんでいらっしゃったんですか”とその婦人は、ぼくを見ながら言った、“さあどうぞ。どうぞ中へお入り下さい。――それからタクシーの運転手さんも、うちのものが紅茶でも用意しますから、どうぞ一緒にお入りください”

 そう言って、婦人は館の中に消え、ぼくや、それから運転手も車から降りて、一緒に館の中に入ることにした。

 中に入ると、まず、その館の広さに圧倒されてしまいそうになった。広々としたホールに、驚くほど高い天井、そこからは、美事なシャンデリヤが吊り下げられ、古めかしい壁には、幾つもの絵が掛けられてあった。二階へ上がる階段が、ホールの右手の方まで延びて来ていて、それは、二階の幾つもの部屋へとつながっていた。

 ぼくたちはまず、左手の、大きなドアに仕切られた書斎へと案内された。

 婦人は、メイドにお茶を持って来るように言いつけると、書斎の、ぼくたちが坐ったソファーの向かい側に腰を降ろした。室内には、立派な家具、調度があり、窓からは、美しい外の様子が眺められた。

 “ちょうど主人が、商用で今、出張中なのです”と、婦人は坐るなり、ぼくに向いて言った、“――それで、用というのは、昔、この館に住んでいらしたある方を捜していらっしゃる、ということだったのですね”

 ぼくはうなずいた。

 “確かに昔、ミリエルという人々が住んでいた、ということは聞いています”と、婦人は続けた、“でも、あたしの主人がこの家を買ったのは、その人たちからじゃなかったのです。オルフという人で、鉱山業で成功した人でした。ところが、この家を手放さなければならない事情が出来て、急いで売りたがっていました。そこへ、主人が、不動産屋を通じて買い取ったのでして、わたしたちと、ミリエルの人たちとは、直接のつながりはないのです。――ですから、余り多くのことをお答えすることはできないと思いますわ”

 “ええ、それは承知しています”と、ぼくは答えた、“実は、数年前にも、ぼくはこの館を訪れたことがあったのです。そのときは、妹と一緒でした。そのときの表札も、ちょうどあなたと同じパーシバルと言う名前でしたが、ちょうど留守のときで、誰にもお会いすることができなかったんです。でも、今、初めてお会いすることができて、光栄に思っています…”

 “いいえ、こちらこそ”と、婦人は言った、“――ですから、詳しいことを、少しでも 多く知りたいと思いなさるのなら、前の所有者のオルフさんに伺ったほうがいいと思うんですよ”

 “その人は今、どこにいるのです?”と、ぼくは尋ねた。


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302

 “それが残念ながら、詳しいことは分からないんです”と、婦人は、気の毒そうに言った、“何やら、アフリカの方へ行って、それからまた戻って来ているとも聞いているんですが、詳しいことはどうも…”

 “アフリカへ!”と、ぼくは、驚いたように言った。

 “あなたが驚かれるのも無理はないと思います”と、婦人は言った、“ですが、もう少し詳しいことを知りたければ、不動産屋に電話なさるがいいでしょう。不動産屋の電話番号は、ここに書いてあります。あなたの為にって、主人がメモ書きしておいてくれたんです”

 そう言って、婦人は、ぼくに小さな紙きれを渡してくれた。それには、不動産屋の名前と住所、それに電話番号とが走り書きしてあった。ぼくは、丁寧に礼を言うと、それをポケットにしまい込んだ。

 紙切れをポケットにしまい込むと、ぼくは言った。

 “…恐らく、その鉱山主が、ミリエル家の後に、この館を買った最初の人だと思いますが、きっとその人も余り多くは知らないでしょう。ミリエルの最後の主が館を去ってから、しばらくのあいだは空き屋だったと聞いていますから… いずれにしても古い話しです”

 “それであなたは、ミリエル家の中でも、リディアという娘と、ミリエル家に仕えていた執事の娘、クリスという人の生活に、特に関心がおあり、ということなんですね”と、婦人は、ぼくの送っておいた手紙を手に取り、読みながら言った、“でも、リディアという娘が、あなたのお母さんだということは分かりますが、どうして、執事の娘の、クリスさんのことまで、関心がおありなんですか?”

 “それは、そのクリスさんが、ぼくの母親の、実の母親だからです”と、ぼくは冷静に答えた。

 その瞬間、婦人の顔にも、また運転手の顔にも、驚きの表情が横切るのが認められた。

 “――でもあなたは、あなたの母親リディアさんは、ミリエル家の長女であって、そんな、召使の娘の子だとは、書いておられませんでした”と、婦人は驚いた表情のまま言った。

 “これには、いろいろと深いわけがあるんです”と、ぼくは冷静に答えた、“ただぼくとしては、複雑ないきさつになるに至ったその当時の人々の生活ぶりや足跡を、少しでも詳しく尋ねてみたいと思ってやって来ただけなんです。お手紙にも書いてさしあげたと思いますが、もう一つの点、ぼくの母や、その母が住んでいた部屋などを見せてもらうわけにはゆきませんでしょうか…”

 “ええ、それはかまいませんが”と、婦人は、優しく言った、“この家を買い取ったとき、部屋の改装などをしましたから、その当時そのままの姿ではございませんよ。――でも、安心下さい。家具・調度などは、前のが余り素晴らしかったからそのままにしておきましたが、前の所有者も、同じような理由で、以前のを引き継いだということです。きっと最初の所有者の趣味がよっぽどよかったということなんでしょうね。


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303

ですから、それらは、あなたの言う、ミリエルさんの時代から、私の主人が手を入れた寝室の一部などを除いて、当時のものを使っているということができますわ。そういうことでかまいませんのでしたら、どうぞ、どこでも好きなように見て下さい…”

 “ええ、助かりました。ありがとうございます”と言って、ぼくは、心の底から礼を言った。

 やがて運ばれて来た、紅茶と、茶菓子を口にしながら、ぼくたちはしばらくのあいだ、その場に残って雑談をした。現在出張中のこの館の主が、保険会社の社長であることや、現在メロランスに行っていることや、また、二人の、小学校に通う娘がいて、まだ学校に行っている最中だ、ということなどが分かった。また、運転手にも、元気な男の子が二人いて、町の学校に通っていることも分かった。ぼくが現在、ひとりで、孤独に暮らしていることを知り、彼らは、そのことに同情してくれている様子だった。――しかし何よりも、ぼくの語る、ミリエル家にまつわる話しの方が、彼らの興味を惹いたようだった。

 “もし、どうしても当時のことが知りたいというのなら”と、パーシバル夫人は、ぼくに言った、“この近くの古老のシェーファさんに聞くといいでしょう。あの人ならずっと昔からここにお住まいだし、当時のこともよく記憶されておいででしょう。あたしの紹介だと言えば、快く応じてくれるはずですよ”

 そう言って、パーシバル夫人は、古老の住む家の場所をぼくに教えてくれた。この辺の地理に不案内なぼくには、その場所はピンと来なかったが、代わりに、運転手の方がすぐ呑み込んでくれた。

 “それじゃそろそろ行きましょうか”と、パーシバル夫人は、時機が来たのを見計らって言った。

 ぼくたちは立ち上がって、パーシバル夫人の後に続いた。

 “さて、どこから参りましょうか?”と、パーシバル夫人は、書斎から出て、ホールに立つとぼくに尋ねた。

 “どこからでも結構ですが”と、ぼくは言った、“できれば、ぼくの母親が住んでいた寝室からお願いしたいものです”

 “寝室ね”と、パーシバル夫人はうなずいた、“それなら二階にありますが、あなたのお母さんがどこにいらしたのかは存じ上げてないんですが…”

 “だいたい分かっているんです”と、ぼくは答えた、“母親がピアノを習っていたという部屋もね。――それは、階段を上がって、左側の最初の部屋だと聞いています”

 “偶然ですわね”と、パーシバル夫人は、驚いたように言った、“実はうちでも、その部屋を、子供の勉強部屋に使っているんですよ。よろしければ、その部屋から参りましょうか”

 “ええ、結構です”と、ぼくは答えた。

 そのあいだにも、ぼくたちは、ホールに延びた広い階段を、ゆっくりと上がっていた。飛入りで見学することになった運転手も、豪華なホールのあちこちを、珍しそうに眺めていた。


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304

 “さあここです”と、階段を上がってすぐ左手の部屋のドアをあけて、パーシバル夫人はぼくに言った。

 あけられたドアの中から、青い壁の部屋が現れた。突き当たりには花を活けた窓が見え、机やピアノや、その他の家具があった。壁には円い肖像画や、風景画などが掛けられ、別の面には鏡も掛かっていた。部屋の隅に置かれたソファーも青い色をしており、全体としてのイメージは爽やかで、こぎれいな感じだった。今は誰もいないその部屋を見るなり、ぼくの耳には、あのママの声が聞こえて来るような気がした。

 「…ママはね、昔、大きなお屋敷で楽しく暮らしていたのよ。部屋も数え切れないぐらいたくさんあって、召使や女中もいたわ。ママの部屋は、二階の階段を上がって左側の隅のところで、その奥が両親の寝室だったわ。他に、ママの勉強部屋もあって、それは、階段を上がってすぐ左手のところで、ちょうどママの寝室の隣だった。他にも、ママのおじさんに当たる人の部屋や、書斎や居間や食堂などがあって、そりゃ立派なものだったのよ。今から思い出すと、本当に、あの頃が一番幸せだったようね…」

 ぼくが今、目の前にしているのは、まさにその勉強部屋だった。

 「…その部屋にはピアノがあってね」と言うママの声が、再び耳に聞こえて来た、「毎夕方、決まった時間に先生がやって来る他――女の、若い、割にきれいな先生だったわ―― 優しかったママとか、若い女中の方などと、よくおしゃべりをして遊んだりしたものよ。それに、窓から見える景色が素晴らしかったわ。そりゃ大きなお庭に、池があって、その隅に、立派な彫像などがあるのよ。雨の日なんか、水面が一面雨に打たれて、水面に浮かぶ睡蓮の葉が本当に美しかったわ…」

 “よろしいですか?”と、ぼくは、パーシバル夫人に断って中に入ると、まっ先に窓辺に歩み寄って、ママの言っていた睡蓮の池が見えるか、窓から庭を見下ろした。間違いはなかった。思っていたほど大きな池ではなかったが、確かに池は存在し、光に輝く白いローマ風の彫像と共に、今もなお池の水面に、睡蓮の葉が浮かんでいるのだった。ぼくはその光景に、胸が熱くなる思いがして振り向いた。パーシバル夫人と運転手の二人は、ドアからまだそれほど部屋の中に入って来てはいなかった。今の子供は気まぐれと見え、床の上に無造作に、かかしのようなぬいぐるみや、木製のトラックなどがほったらかしにされていた。

 “なかなかいい眺めですね”と、ぼくは、パーシバル夫人に振り返って言った、“あの彫像は昔からのものですか?”

 “ええ、庭に関しては一切、手をつけてはおりませんわ”と、パーシバル夫人は答えた、“池も、植木も昔からあの通りだったそうですから、きっとあなたのお母さんも、同じ池を見ておられたんじゃないですか?”

 “ええ、この池のことは聞いていました”と、ぼくはしんみりと答えた、“初めて目にして、ぼくが想像していた通りだということが分かりました。その通りに今もあることを知って、何んだか不思議な気持がしています”


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305

 二人は、その言葉を聞いて笑っていた。

 “でも、この部屋は、お母さんがいた頃とは、だいぶ変わっているんじゃないかしら?”と、パーシバル夫人は、落ち着いた表情で言った、“ソファーも、勉強机も、ピアノもわたしたちが持ち込んだものですし、絨毯だって敷き変えましたわ。強いて変わっていないもの、というなら、この壁の色ぐらいなものじゃないでしょうか。ここの部屋は昔からブルーだったということですよ”

 ぼくはその言葉でもう一度、この部屋を眺めた。

 今の子供が使い、一見、何んの変わりばえもしないこの部屋も、数十年前には、まだ幼かったママが使っていたのだった。恐らく、壁にはめられた暖炉だけは、今も、その当時の姿を見せているのだろう。現在の姿からは、昔ママが使っていた頃を想像することは不可能に近かったが、ただ、窓際の、さりげなく花を活けた花瓶を見ていると、当時のママが、そこのピアノのところに坐って、女の先生にレッスンを受けているときの姿が、目に浮かんで来るような気がした…

 一瞬目を閉じると、

 “もう結構です”と、ぼくは言った。

 

 その部屋を出、ぼくたちは、パーシバル夫人に案内されるまま、次の部屋へと向かった。

 “あなたの言っておられる部屋は、現在は使っておりません”と、パーシバル夫人は、廊下を歩きながら、その部屋に着く前に言った、“わたしたちも余り入ったことがないんですよ。今は物置きに利用していますが、あなたの期待に添うことができますか”

 そう言って夫人は、廊下の隅のドアの前に立ち、ドアをあけた。

 中は真暗だった。

 しかしすぐパーシバル夫人は、窓に歩み寄って、カーテンを開けた。昼間の明るい日射しが、室内を浮かび上がらせた。部屋は、それほど大きくはなかったが、足の踏み場もないほど、白いシーツでおおいをした、ソファーやテーブルやキャビネットなどが置かれていた。寝室の面影は全くなかった。しかし、ママが言っていた言葉からすると、この部屋に間違いはなかった。ただ、壁に掛けられた古い額が、当時を忍ばせるような気がした。窓のすぐ向うでは、よく茂ったかばの木が、その美事な葉を風に揺らしていた。窓から見える空は青く、白い雲が浮かんでいた。恐らくママも、幼い頃、この部屋から窓の外を仰ぎ見、あのような空を目にしていたことだろう… この部屋にベッドはなく、ただ他の家具が雑然とあるばかりだった。現在のこの光景からは、ママが寝ていたその姿すら、想像することは出来なかった。――でも間違いなくママはここに住み、毎朝のすがすがしい目覚めを経験していたに違いなかったのだ。そして、目が覚め、まっ先に見たかも知れない、年を刻んだ天井に目をやった。ベッドの置かれていた位置はすぐ分かった。恐らくここだろう。他では、家具の配置上不可能になるのだった。ぼくは再び窓辺に寄り、さっきの池が、あの部屋よりは遠のいたものの、ここからも十分眺められることを確認した。


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306

 “どうです? こんな有様じゃ、何んの助けにもならないでございましょ?”と、パーシバル夫人は、窓辺に立って、ぼくに言った。

 “いいえ、これで十分です”と、ぼくは答えた、“部屋の様子が変わるのは仕方がありません。ただその部屋を見ることが出来ただけでもぼくは幸せです…”

 

 ぼくはその部屋とも別れた。夢にまで描いていた部屋だったが、こうして、余りにも変わり果てた部屋を見てみると、見ない方がよかったかも知れない、という気さえした。いつまでも、夢のままの状態に置いておいたほうがよかったかも知れない。――しかし、ひとたび廊下に出ると、その立派なシャンデリアや、美事な手摺り、重厚なドアや廊下の壁に至るまで、立派な彫刻や細工がほどこされ、ママの言っていたことが夢ではなく、現実そのものの姿で迫って来るような気がして来るのだった。ママが何百回、いや何千回となく通ったに違いない、この廊下や階段は、今も、当時そのままの姿で残されていた。あの華麗なシャンデリアはもちろん、廊下のところどころに置かれている机や、ソファーなども、恐らく、当時もそのままに置かれていたに違いない。そう思うと、すでに変わってしまった部屋を見るよりも、この屋敷の内部の方が、遥かに大きな感動を呼ぶのだった。

 “他の部屋はよろしいんですか?”と、パーシバル夫人はドアを閉めるなり、ぼくに尋ねた。

 “ええ、この階は、これで結構です”と、ぼくは答えた、“――ですが、手紙にも書きましたように、食堂や居間、それに、昔、ここで執事をしておられたガラハ氏とその娘が住んでいたという部屋を是非見せていただきたいんです。その部屋は、この屋敷の離れにあると聞いていましたが…”

 “ああそれでしたら”と、パーシバル夫人は、気が付くものがあったように言った、“それに該当しそうな建物が一軒ありますが、今は誰も使っていない部屋ですよ。長いあいだ使っていないものですから、中はどうなっているものか。確か、前の持ち主ですら使っていなかったということですから、そこだけは、昔の面影をかなりとどめているんじゃないかしら? わたしもあそこだけはめったに入ったことがないんですよ”

 “もしそうなら助かります”と、ぼくは胸を踊らせて言った。もし昔のままなら、これほど幸せなことはない。なぜならそこは、ママの本当の母親、クリスチーヌ・ガラハが暮らしていたところなのだから。

 “でもそこは後回しにして、食堂から行くことにしましょうか?”と、パーシバル夫人は言った。

 “ええ、結構です”と、ぼくは答えた。

 

 食堂は、階段を降りて、一階の奥にあった。パーシバル夫人がドアをあけると中から美事な食堂が現れた。


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307

中央に、白いテーブルクロスを掛けた、椅子が優に十は置くことのできる大きな、丸みを帯びたテーブルがあり、その上には、燭台や、水差しや、花が飾ってあった。向かって左手のところには落ち着いた暖炉があり、右側の壁には、黒光りしている背の低い棚があり、それらの上にも、花や、装飾用の皿や、銀の燭台などが置いてあった。しかし何よりも目を惹いたのは、美事なシャンデリアと、壁に掛けられた、森の風景のタペストリーだった。ぼくは、その豪華さにしばらく目を奪われた。しかし、今目にするこの食堂の光景は、昔のときとは随分と異なっているに違いない。突き当たりに見える窓の向うの、樹木におおわれた庭の光景だけが、かろうじて当時を忍ばせてくれるような気がした。

 “ここの食堂も”とパーシバル夫人が言った、“いろいろと手を入れましたけど、でも、この中央のテーブルと、暖炉だけは昔のままだと思いますよ。余り立派だから変えるに忍びなかったんです。他は随分と変わっているでしょうけどね…”

 その言葉で、ぼくはじっと中央の丸みを帯びた、リネンの白いクロスにおおわれたテーブルと、黒い唐草模様のレリーフをほどこした暖炉とを眺めた。恐らく、ぼくの母親も幼い頃、ここで食事をし、このテーブルや暖炉に手を触れたりもしていたのだろう。しかしその当時、この食堂が、他にどのように飾り立てられていたのか知る由もなかった。ただ、ぼくは、樹木がいっぱい茂っている余りにも美事な窓の外の様子に心が惹かれ、ちょうどあった横のドアから、庭に出てみたくなった。

 “外に出てみてもいいですか?”と、ぼくは、振り向いて、パーシバル夫人に尋ねた。

 “ええどうぞ”と、パーシバル夫人は、快く承諾してくれた。

 ぼくはドアのところに歩み寄り、取手を取って、ドアをあけ、外に歩み出た。恐らく、ママもここを通って何度も外に出たであろうドア。庭への第一歩を踏み出すと、昼の日射しが、樹木や花や庭の芝生に降り注ぎ、まぶしかった。窓のすぐ下には、壁に沿って長い植え込みがあり、そこには数種類の黄色や赤や白いアネモネが咲いていて、風に揺れていた。食堂の窓のところは特に樹木が多く、潅木の下には、しだなどがおい茂っていた。しかし、ぼくの目を止めたのは、さっき、二階から見下ろすことになったかなりの広がりを持った蓮池だった。池のほとりにも様々な花が咲いており、さっき目にしたローマ風の彫像が、静かに池のそばに立っていた。ぼくの体は自然、その方向へと向うのだった。屋敷からそう離れていない池のほとりまで来ると、ぼくは足を止めた。そして、さっきは遠くに見えた蓮池を間近かに感じ、水面に浮かぶ睡蓮や、又、水に反映するスイセンや、イリスの花と共に、自分の姿をも見つめた。恐らくママもこの池で、このように自分の姿を見つめたことだろう。この、昔から存在し、変わることのない池については、何度もママから聞かされたものだった。今、その池のほとりに立って、何んとも言い表しようのない思いが胸に込み上げて来るのを感じた。ママは、まだぼくが生まれる遥か前、ほんの子供のときに、この池のそばで、両親や、家庭教師や、恐らくは女中たちに囲まれて、戯れていたのだろう。そうした遥か昔に、この庭でくり広げられた光景が、この明るい日射しの中で、ぼくの目に浮かぶような気がした。


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庭の向うで、ひと際高く、まっ直ぐに上にのびるように、美事に茂るニレの木や、どっしりとした、いくつもの煙突や、破風のある、レンガ造りの、沢山の白い窓が目を惹く、土色の館を見ていると、ここが本当にその場所なのだ、という実感がいよいよ強まって来るのだった。ぼくの目は自然、さっき足を踏み入れることになった二階の勉強部屋の窓、そして、ママの寝室の窓へと向き、それからさらに、大きな芝色の屋根よりも、もっと高く茂る樹木や、尖塔や、その上に広がるまっ青な、美しい空へと向かうのだった。

 そんなぼくの様子を、ドアのところから出て来たばかりのパーシバル夫人と、運転手の二人は、きつねにつままれたような表情で眺めていた。ぼくの、何かにつかれたようなその仕種に、恐らくあっけにとられたのだろう。二人は、言うべき言葉を持たないかのように、ただ、ぼくを見つめていた。その、沈黙のひとときを破ったのは、ぼくの方だった。

 “間違いありません”と、ぼくは、二人の方に向いて言った、“ここは、ぼくの母親が昔、口にしていたところです。――でもここは、ぼくが想像していたよりも、もっと広く、もっと美しいところでした。母親が、こんな素晴らしいところで暮らしていたなんて、思いも及ばなかったことです。本当に素晴らしいところです。何もかも…”

 その言葉で、パーシバル夫人の顔はほころんだ。

 “何んでしたら、庭に出たついでに、離れの屋敷の方へ案内しましょうか。すぐそこなんです”

 “ええ、是非お願いします”と、ぼくは答えた。

 夫人は、睡蓮の池に続く、庭に造られた小川のような細長い水路に沿って、塔の向う側へと、ぼくたちを案内した。

 すると、母屋と直角に連なるような形で、壁の色も、屋根の色も、ほぼ母屋と同じような造りをした、小さな館が現れた。それを目にしたとたん、ぼくには何んとも言えない感慨のようなものが、胸の中を走り去るのを感じた。本館とは別棟のこの小さな、しかし感じのよい館――その周囲を取り巻くようによく茂った樫の木が明るく輝いていたが、この館こそは、その後に続くすべての物語の発端ともなるべき舞台を提供したものなのだ。ぼくはそれを見るなり、この館こそは、レオノールがぼくに聞かせてくれたあの館であることを確信した。そうだ、間違いなくこの館なのだ、あのガラハ父娘が暮らし、この館の主に仕えて働くために住んでいた館なのだ。ぼくの関心は、母屋よりもむしろ、この小さな、しかし魅力的な別棟にあった。なぜなら、この館こそは、ぼくの母の母、クリスチーヌ・ガラハが暮らしていた館なのだから…

 ガラハ父娘が、どういうきっかけで、いつからこの館に住むようになったかについてまでは、ぼくも、詳しいことは聞いていなかった。しかしここの父娘が、ミリエル家の当主と、長男のモーリスに特に可愛がられていたことは、何度もレオノールから聞いて知っていた。ぼくは館の前に立ち、もう遥か昔の、ガラハ父娘や、ミリエル家の人々や、まだ若かったレオノールや、その姉が生きていた時代に思いを馳せようとした。この館を見ていると、なぜかしら、まるでその時代に居合わせているかのような、そんな気がしてくるのだった。


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309

恐らくそれは、レオノールの話しが余りにも生々しく、また、感動に満ちた内容だったからだろう。ぼくはとりわけ、まだ若かったレオノールがこの館に訪れ、そこで恐るべき光景――即ち、クリスチーヌと、モーリスの弟のバランとが、レオノールの気持を踏みにじるような情事を楽しんでいる光景を目にし、悲しみ、嘆願しながら追いすがろうとする半裸姿のクリスチーヌを振り切るようにして飛び出したのが、この館であることに思いを致した。その決定的な出来事のあった日から、この館はもう何十年経過しているのだろう。その館の屋根や壁は、明るい日射しを浴び、そういう事件など、まるでなかったように、無言の沈黙を続けているようだった。

 “何かありましたのですか?”と、パーシバル夫人は、ぼくの突然の静止をいぶかしむように、ぼくに尋ねた。

 “いえ、なんでもありません”夫人の声で突然、夢を破られ、現実に引き戻されたような気持になって、ぼくは答えた、“ただ少し、あることを思い出しただけです”

 “言いましたように、ここがその離れです”

 “ええ、見たとたん、そうだと分かりました”とぼくは落ち着いて答えた、“窓も、煙突も、なかなか素敵な館ですね。こんなところで暮らせたなんて、なかなか幸せなことです”

 “あなたのおっしゃるガラハとかいう執事は、本当にこの離れに暮らしていたのですか”と、パーシバル夫人は、ぼくの話しに、興味ありげに尋ねた。

 “ええ、だと思います”と、ぼくは答えた。

 “――でもここは、恐らく、あなたの期待に沿うようにはなってはいないでしょう”と、夫人は、気の毒そうに言った、“確か、この前に一度入ったところでは、この中は、アトリエになっていたみたいです。前の所有主の娘さんが、ここを改造して、自分の絵を画くアトリエに変えてしまったようですよ。だから、昔の家具などは何もなくて、古びたイーゼルとか、絵具のチューブとか、そんなのがころがっていたみたいです…”

 “アトリエに!”と、ぼくは驚いたように言った。

 しかしそうかも知れない。所有者が変われば、何もかも一変してしまうことも、やむを得ないことなのだ…

 

 パーシバル夫人と運転手に続いて、ぼくも、その別棟の入口に向かった。夫人は入口に立ち、ドアをあけかけたが、ドアには厳重に鍵が掛けられていて、開かないことが分かった。

 “御免なさい。うっかりして”と、夫人は振り向き、ぼくたちに謝った、“長いあいだ入ったことがないものだから、鍵が掛かっていたのも忘れていたんです。家の鍵は確か、主人が保管していますから、あるかないか調べて来ます。直ぐ戻って来ますから、そのあいだしばらく、ここでお待ち願いますか”

 “ええ、御迷惑をおかけします”と、ぼくは答えた。


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310

 “いいえ、すぐですから”夫人はそう言うなり、ぼくたち二人をその場に残して、館の方へと小走りに去って行った。

 “随分立派な館だねえ”と、夫人が去ってしまうと、運転手がぼくに言った、“庭も広くてきれいし、こんなに広ければ、人を呼んで野外パーティでも、できそうだね”

 野外パーティ! ぼくはそのことで、あることを思い出した。そしてもう一度、池や、その向うに広がる、芝生の色が美しい、広大な庭園を眺めた。広い、芝生の周りに縁どられた花壇や、刈り込みなどを目にして、そうだ、ここであの、盛大な、結婚披露パーティが行われたのだ、ということを思い出した。それはもう、何十年昔のことだろう。レオノールの姉、アヌーザと、ここの当主の長男であり、ミリエル繊維会社の副社長でもあったモーリスとが結ばれ、その披露パーティが行われたのは、まさしくここだったのだ。それは、ぼくの母リディアが生まれる、まだ一年以上も前のことだった。レオノールによれば、それは盛大なパーティだったそうだ。庭には、白塗りのしゃれたテーブルがいくつも並べられ、その上に、美事という他はない料理がいくつも並べられ、シャンペンやワインでみんなは乾杯し、楽しげな、愉快な饗宴がくり広げられた。楽士たちも呼ばれ、彼らの奏でる音楽に乗せて、みんなは踊ったりもしたということだ。しかし、その中心にはもちろん、アヌーザとモーリスがいた。彼等は、みんなから祝福を受け、みんなの前でキスをするようにせがまれもした。祝福の花束を持った、幸せ一杯の上品で、美しいアヌーザと、その横に、できるだけ落ち着きを保とうとしている、やや緊張気味のモーリスとが座っている光景は、レオノールから何度も聞かされ、目に浮かぶまでさえなっていた。しかし、それがここなのだ、ということについては、今の今まで思い浮かばなかった。

 「…あれは、ミリエル家の館の、大きな池がすぐ近くに見降ろせるところだった」と、レオノールは言っていた。

 村の教会で結婚式を挙げた後、二人がやって来たのは、まさにこの館の庭であり、レオノールの言葉から察すると、広い庭園の中でも、ちょうどあの池の向う側辺りの芝生が特に美事なところで、宴会は催されたのだ。

 ぼくはその場に立って、じっと、ユリやスイセンやサクラソウなどの花々が、その周囲に美事に咲いている、澄んだ水をたたえた、美しい睡蓮の池を眺めた。ちょうどあの池の、向う側辺りに沢山のテーブルが並べられ、賑やかに披露宴がくり広げられたのだろう。そのずっと先には、幾種類かのとうひや、ヒマラヤ杉や、樫や、その他の樹木が、一定の間隔を置いて茂っており、恐らく、木陰となってちょうどいいあの下辺りにも、テーブルが並べられ、饗宴が楽しまれたであろうことが推察された。芝生の切れ目の、庭の端辺りにも、アザミやデイジー、アマリリスなどの花々が、他の草に混じって、所狭しと咲いていた。実になごやかで、素晴らしい光景だった。ちょうどその前日は雨が降って、披露パーティが危ぶまれたということだったが、その当日は素晴らしく晴れ渡ったということだ。だからその日もきっと、この日のようによく晴れていたに違いない。季節もちょうど春で、この日のように、至るところ、春の花々が咲いていたことだろう。


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この広くて、素晴らしい庭が、あのとき以来、どのような変貌を遂げたのかぼくは知らないが、恐らくそんなに変わっている風には見えなかった。ただあのとき、レオノールが目にした光景――忘れ難い光景と違うただひとつの点は、あの賑やかな宴席も、それに列席した人々の姿も、楽士もメイドも花嫁の姿もなくて、今はただ静かな庭園が日を浴びて、そこにあるということだけだった。しかしあの日、レオノールは、あの晴れやかな、生涯忘れることのできない宴席の場で、初めて、若くて、美しいメイドのクリスチーヌ・ガラハと出会ったのだった。

 ――それが、この場所であり、この美しい庭園だったと知って、ぼくはまるで、夢のような気分に誘われた。確かに、結婚の披露パーティが盛大に催されるには、余りある庭園であり、ここでそれが取り行われたのはもう間違いのないことだった。だとするなら、レオノールはどこに腰掛け、人知れず客の注文の料理などを運んでいたクリスチーヌとは、どこで、どのようにして出会ったのだろう。また、クリスチーヌが、二人の結婚を祝う為に、得意のピアノを弾いて、素晴らしい歌声を聞かせたのはどこだったのだろう? いずれにせよ、レオノールとクリスチーヌとがここで出会うことは、レオノールの姉アヌーザの婚約の日から、既に運命づけられていたのだった。二人はその日、ここで運命的に引き合わされ、その後に起こったすべての事件が、この美しい庭園である、この場所から始まることになったのだった… そう考えると、ぼくはもう一度つくづくと、春の日を浴びた、美しい花に飾られた睡蓮の池や、その向うに広がる穏やかな芝生、木立の群れなどを眺めずにはいられなかった。

 

 “それで、この庭で何かあったのかね”不意に運転手がぼくに尋ねた。

 “いえ、聞いた話しを、ちょっと思い出していただけです”と、ぼくは落ち着いて答えた。

 “まあ、こういう大きな館と広い庭園なら、ちょっとした話しの一つや二つぐらいはあるだろう”と、運転手は言った、“余り詮索するのはよすがね、でも、もしよければ、少しぐらい聞かせてくれてもいいと思うんだが…”

 それでぼくは、ここで結婚披露宴があったことを、ほんの少しのあいだ、彼に語って聞かせることにした。

 

 しばらくすると、パーシバル夫人が、塔の下にあるドアから姿を現した。いそいそとやって来る夫人の手には、古びて黒光りした鍵がしっかりと握られていた。

 “お待たせして、御免なさい”とパーシバル夫人は、やって来るなり言った、“うちの主人ったら、鍵をみんないっしょくたにしているもんだから、見つけ出すのが大変。でも、やっと見つかったようですわ。ホラ、この通り”

 そう言って、パーシバル夫人は、その大きな鍵を、ぼくたちの目の前にさし出した。それからすぐ、ぼくたちの立っている前を通り越して、別棟のドアの所へと向かった。


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312

 

 やがて、掛け金のはずれる大きな音が聞こえ、長年眠りをむさぼっていたドアがゆっくりと開いた。中は真暗で、すぐには中の様子が分からなかった。夫人が中に入り窓のカーテンを開けると、昼のまぶしい光りが射しこみ、暗い室内が照らし出された。長年の眠りから覚まされた、このヒンヤリした室内を目にして、まず最初に思ったことは、夫人の話しから予想していた室内のほこりっぽさがほとんどない、ということだった。今は使われてはいないが、荒れるままにしていたわけでは決してなかったのだ。窓から射し込む明かりと共に現れた、古めかしい、黒光りして堂々とした正面のドアや、白い壁、市松模様の床などは、今すぐにでも人が住める、という感じを与えた。実際、入った入口のすぐ横にはテーブルが置かれ、人の気配が感じられた。確かにここには、昔、人が住んでいたのだ。白い壁に掛けられた鹿の角で、当時の人の生活ぶりが忍ばれた。しかし、それらの品々は、恐らく、クリスチーヌの代のものではないのだろう。恐らく、ミリエル家が去った後住むことになった鉱山王の娘が使っていたものなのだろう。ぼくには、その娘が行った改造の部分と、そうでない部分とを見分けることはできなかった。夫人の案内で奥に進むにつれ、ここが、幸いにも、古い造りそのままになっていることが分かった。新しい感じのする床はともかく、このドアや、壁や、天井は、恐らくクリスチーヌが生きたその当時そのままに、残っているのだろう。ところどころ、漆喰壁がはがれ、その下地がむき出しになっているのを見るにつけ、その思いを強くした。次に、ぼくたちの来たところは、炊事場だった。最初に目についた古めかしいかまども、当時そのままである思いを強くした。ただ、クリスチーヌの頃には炊事に使われていたこのかまども、鉱山主の娘の代になって、陶器を焼くのに使われていたことが分かった。彼女の落とし物である陶器の破片が、かまどの近くに落ちているのが見つかったからだった。

 ぼくたちは、当時の調理場と玄関に連なる食堂兼居間とをつぶさに見て、当時のガラハ父娘の生活ぶりがどんなものであったか、しのばれるような気がした。本館のすぐ脇にあるこの小さな館で、ガラハ父娘は、すべての勤めを終えた後、ほっとひと息をつくように、この部屋の中で、細々と暮らしていたのだ。

 一階の部屋を隅々まで見終えた後、ぼくたちは二階に上がることにした。古めかしい階段の手すりや、一段一段、きしむような音のするこの板張りの階段は、恐らく当時もそのまま存在し、クリスチーヌやその父が、何度も往復したものだろう。そして恐らく、レオノールも足で踏んで二階に上がり、クリスチーヌの部屋で起こっていたことを目にして、急いで駆け降りて行ったのも、この階段なのだ。ぼくたちは一歩一歩まさにその部屋に近づこうとしていた。ただ、ぼくは階段の上がりしな、ふと階段の横に古めかしい食器戸棚があることに気がついた。もちろん中は空だったが、これは、ガラハ父娘が使っていたものなのだろうか。もしそうだとするなら、これほど、当時を忍ばせるものはないのだ。

 夫人に続いて、ぼくは、一歩一歩、クリスチーヌが寝ていた寝室に近づこうとしていた。それこそは、レオノールとクリスチーヌとの仲が、決定的になった寝室なのだ。


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レオノールは何も知らずに二階へ上がって行き、その中で行われていることがどんなに見るに耐え難いことかも知らずに、幸せな気分で、手を掛けた寝室のドアが、もうすぐそこに迫っていた。レオノールはそこで、愛しいクリスチーヌが、事もあろうに彼女のベッドの上で、ミリエル家の二男、バランと無理やり寄り添っている姿を目にしたのだった。無理やり、という言葉には意味がある。レオノールは彼女が強引に寄り添わされていることに気づきはしたが、その光景そのものがいまわしく、そのことを認めたくはなかったのだ。ぼくはまさに、その問題の寝室に立ち合おうとしていた。夫人がドアの前に立ち、ゆっくりと扉をあけた。その扉の奥に向かって、ぼくの目は輝きを増した。あのときの光景が、レオノールの口を通して、ぼくの目には見えるような気がした。木製の粗末なベッド、ほとんど飾り気のない質素な寝室に、クリスチーヌとバランがいて、こちらを向いている。そしてクリスチーヌの表情は、とりわけ悲しそうで、何か嘆願しているようにさえ感じられる。そのクリスチーヌは、下着のままの姿で、しかもそのスリップのストラップの片側は、はずれている。――ぼくは、寝室の扉が開かれると同時に、そんな光景を扉の向う側に想像した。だが、目にしたものは、使い古されて光っている板張りの床と、白い漆喰の壁、板張りの天井、そして格子状の窓の他は何もない、空っぽの部屋だけだった。ぼくは、その何もなさに驚いた。ぼくが想像していた、彼女たちの生き生きした生活ぶりやドラマが、この空っぽの部屋を目にして、一気にどこかへ吹き飛んでしまったような感じだった。想像していたものが消え、あるのはただ、何もない部屋という、現実の姿だけだった。――しかしそれでも、今、ぼくは祖母クリスチーヌが暮らしていた寝室に立っているのだと知り、嬉しいような、悲しいような、複雑な感情が、胸に込み上げて来るのを感じた。この冷たい、静かな部屋――外からの明かりが、床や天井に光りと影の部分とを造っているこのくたびれたような部屋で、クリスチーヌは暮らし、愛や苦悩や不安の日々を送っていたのだと思うと、なんとも言えぬ思いが込み上げて来るのだった。ぼくはゆっくりと光りの射す窓辺に歩み寄った。外は明るく、もう春だった。この二階の窓からも、睡蓮の浮かぶ爽やかな池や、光り輝く芝生や、それらを取り巻くように咲いている色とりどりの美しい花々や、敷地の周囲によく茂っている木立などがよく見渡すことが出来た。恐らくクリスチーヌも、その青春の日々を、こうした風景を目にし、過ごしたことだろう――未来に降りかかる運命も知らず、ただ淡い光りのような希望を、自分の将来に託しながら… 彼女とレオノールとの運命的なドラマは、あの庭で始まり、この部屋で終止符を打ったのだった。その結果、リディアという一人の少女が生まれ、その少女も、やがてこの館を離れ、数奇な運命の手に導かれて行くことになる。ぼくは今、それらすべての発祥の地にいることを知り、胸が熱くなるのを感じた。ここが、数十年前には、レオノールから聞かされた人々が生活し、互いに関係し、あるいは、すれ違いながら、それぞれの人生を生きていた場所だった。館の所有者、ミリエル氏は勿論のこと、その長男、モーリス、弟バラン、執事のガラハや、家政婦、コック、メイド、花嫁のアヌーザ、その弟レオノール、ミリエル株式会社の重役ブロート、そして忘れることのできない、執事の娘、クリスチーヌをも含めて、彼らが互いに交錯し、生活していたのは、まさにこの場所だった。


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314

それから数十年が過ぎた今、この静かな館や、庭園の静まりようを目にしていると、それらの出来事はまるで嘘のようにさえ感じられた。しかし、それらの出来事が風化し、忘れ去られようとしている今もなお、数十年も昔にこの世を去ったクリスチーヌや、その他の人々の亡霊が、この館のどこかに存在し、それぞれの苦悩や、悲しみの声をたてているような、そんな気が、ぼくにはして来るのだった…

 

 “それで、何かお感じになりまして?”

 窓のそばに立って、じっと庭を見つめているぼくに向かって、不意に、パーシバル夫人が声を掛けた。振り向くと、パーシバル夫人が部屋の中央に立ち、その後ろのほぼドアのところに、帽子を手にした運転手が、こちらを見て、立っていた。

 “ええ、やはりね”と、ぼくはしみじみと答えた、“なんと言っても、ぼくの祖母が暮らしていた部屋ですから… それにしても、ここから見える庭園の景色も、素敵ですねえ…”

 そう言って、ぼくは夫人の注意を庭園の方へ向けた。

 “誉めて下すってありがとう”と、夫人は、笑顔で答えた、“でも、もとはと言えば、あなたの祖父のミリエルさんが暮らしていた頃から、既にあった庭ですわ。こんなに素敵な庭、本当に誰が考え出したんでしょうね…”

 “ぼくの祖母も、こんな素敵な庭を眺めることが出来て、幸せだったと思います”とぼくは、それとなく言った。

 “それで、こんなことお聞きしてよろしいでしょうか”と、夫人は、何気なく、尋ねた、“そのクリスチーヌという人は、どなたと御結婚なさったのです?”

 不意に尋ねられた質問に、ぼくは再び夫人を見つめ、答えた。

 “結婚した相手は、ブロート。M・ブロートという、ここの会社の重役でした。しかしその結婚は、不幸な結婚に終わりました。もともと、結婚のときに彼女の気持は、完全に覚めていましたし、以前の約束と、父親への義理だてから、仕方なく踏み切ったような結婚だったのですから”

 “そうですか”と、夫人は、気の毒そうに言った、“――でも、お二人の間に、お子さんがお産まれになったんでしょう? あなたのお母さまも含めて…”

 “ところがそうじゃないんです”と、ぼくは言った、“二人の間には子供は出来ませんでした”

 そう言ったとたん、夫人の表情には、驚きが見られた。

 “それじゃ、あなたのお母さんは”と、夫人は、つい口をすべらせた。

 “そう。私生児だったんです”と、ぼくは冷静に答えた、“それは、ブロートと結婚する前に、すべてが片づいていたことなんです。祖母は、結婚前に、ぼくの母を産み、それを、子供のいなかったミリエル家の長女として、その家に託したんです。それらは極秘のうちに行われたことだけれども、そういういきさつで、ぼくの母は、ミリエル家の娘だ、という風になったんです…”


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 そこまで言ったとき、夫人の表情と、運転手の表情には、驚きの様子がありありと伺われた。

 “…でもそれなら、クリスチーヌさんは、随分とお苦しみになったことでしょうね”と、夫人は、痛ましそうな表情で言った。

 “ええ、そうだと思います”と、ぼくは冷静に答えた、“でも、仕方がなかったんだと思います。そういう運命だったんですから…”

 “それで、お父さんの方は、結局、分からずじまいなんですか?”夫人は再び、それとなく尋ねた。

 “いいえ、分かっています”と、ぼくはきっぱり答えた、“それがレオノール・フローバで、ミリエル家に嫁いだ花嫁の弟に当たる人だったんです。ぼくはその人から、すっかり、全部を話してもらいました。どういういきさつで知り合い、どういういきさつで別れることになったかについてまで、全部をね。――でも、それを話している時間は今はありません”

 “そうですね”と、夫人は、納得したようにうなずいた、“それで、その不幸なクリスチーヌさんが住まれていた部屋が、この部屋だというわけなんですね”

 “そうです”と、ぼくはうなずいた。

 夫人も今や、ぼくの話しから、このすりきれた部屋を違った目で見ているようだった。まるで、光の当たったその白い壁や、鈍く光った床のところに、クリスチーヌの亡霊が存在しているかのように…

 

 “でも古い話しです”と、ぼくは話題を変えて言った、“その後、ここをアトリエにしたという、芸術家膚の若いお嬢さんについては、何か御存知ですか?”

 “ええ、なかなか活発なお嬢さんだったそうですよ”と、夫人は答えた、“いつも男のお友達を連れて来ては、ここで食事をしたり、おしゃべりをしたりして、作品の製作に精を出していたそうです。男のお友達も一人や二人じゃなく、何人も連れて来て、しかも、そのガールフレンドまで呼んだということだから、ほとんど毎日、その顔ぶれが変わっていた、ということだそうですよ。本当に、賑やかな毎日だったそうです…”

 “そうですか”と、ぼくは、思いがけない事実を前にして、言った。

 この静かで、昔からそのままであるような部屋も、鉱山主が住んでいたある時代に、そのような賑やかな声や、笑い声をたくさん響かせていた一時期があるらしいのだ。それは、クリスチーヌが生きた時代と、どれほど変わっていたことだろう。今再び、この部屋は無用のものとなり、当時の静けさに戻っていたが、ぼくもそろそろ、この思い出深い、憂いを含んだ部屋から、立ち去らねばならないときがやって来ていた。


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 “そうですか。じゃきっと”と、ぼくは言った、“ここでは、ある者はイーゼルを立てて油絵を描き、別の者は、粘土をこねて陶器をつくったり、めいめい、思い思いの生活を楽しんでいたんでしょうね。きっと賑やかで、楽しかったことでしょう。そのような生活は、なかなかいいものです。羨ましい限りです。――でも、余りお邪魔をしていてはなんですから、ここを出ましょうか”

 そう言ってぼくたちは、運転手を先頭に、この部屋から出ることにした。

 最後にぼくが部屋を出たとき、振り向き様に見た、カーテンのない、春の光りがいっぱい射し込んでいる、冷たい部屋の様子が、なんとも言えず、わびしげに、悲しげに感じられるのだった…

                             

 ぼくたちは再び、黒ずんだあのところどころ傷のついた階段を降り、一階のフロアーを通って、館の外に出た。パーシバル夫人がドアを閉め、館の中が再び、暗い静けさを取り戻すのとは対照的に、館の外は、まぶしいほどに明るかった。庭に一面敷き詰められた芝生が美事に色づき、周りを花々で飾られた池の水面も、太陽の反射で、キラキラと輝いていた。しかしぼくは、すぐには本館の方に入るのではなく、ニレやブナやその他の樹木におおわれた広大な庭の方へ行きたくなった。どうにも止まらぬ思いが込み上げ、ぼくは、夫人に許しを請うた。

 “…すみませんが、あちらの庭の方へ寄せてもらってもよろしいでしょうか”

 “ええ、かまいませんわ”と、パーシバル夫人は、気のよい返事をしてくれた、“それでしたらわたしが案内しましょう…”

 “ええ、助かります…”

 

 一本だけすくっと立ち上がったようなニレの樹のそばを通って、ぼくたちは美事な紫陽花の咲く花壇へと入って行った。そこは、色とりどりの、様々な花の咲く、まるで楽園だった。デイジーやパンジーやバラなどが一斉に咲き匂い、まるで森のような庭のあちこちに、美事な花を咲かせていた。ぼくたちは、その間を縫うように続く、細い芝生の道を、花壇を楽しみながら歩いて行った。夫人は、それらを眺めながら、庭師が絶えず手入れに来てくれていること、また自分自身は、日に最低一回は、ここを通って、このような花の庭を目にするのを、楽しみにしている、とぼくたちに語ってくれた。

 “…それにしても、素晴らしい庭ですなあ”と、運転手も感心して言った。彼は、空をさえ切るかのようにからみ合う、樹木の先の枝ぶりに目を向けた。

 ぼくは、この花園から咲き匂う、なんとも言えぬ匂いを鼻でかぎ、庭園のふんいきの全体を、ぼくの全身で感じ取ろうとした。ここはまた、幼いリディアが遠い昔の日々を過ごし、戯れたに違いない庭園でもあるのだ。そこのバラの園の陰に隠れていたかも知れず、いたずらっぽくリディアが、その陰からパッと姿を現すような、そんな気さえして来るのだった。


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 やがて、園内を廻ってやって来たところは、チューリップや、スイセンや、ユリの花などが、コーナごとに整然と咲いていて、また、円く刈ったスイカズラの樹がおどけたモンスターのように並んでいる楽しい庭だった。そこにはまた、恐らくさっきの庭から引いて来ていると思われる、小川のような水路が庭園を横切っていて、その際にイリスの花が並ぶように咲いていた。水は澄んでいて、美しい青空を映し、ぼくは思わず、そのそばに歩み寄り、美事なイリスの花を眺め入った。すべてが素晴らしくて、申し分のない庭だった。こんなに広々としていて、変化に富んでいる庭なら、何日暮らそうとも、見飽きることはないだろう。

 やがてぼくたちは、一見テラス風になっていて、月桂樹や、柳の樹の茂っている、白いベンチやテーブルの置いてあるところへやって来ると、庭巡りに疲れた為か、そこに腰を降ろした。すぐ近くにも、ナデシコやパンジーの花々が咲いていて、その姿が美事だった。パーシバル夫人は、メイドにお茶を持って来させると言って席を立ち、夫人が去った後、しばらく、静かな時が流れた。しかしすぐ、夫人は館から姿を現し、晴れやかな表情で、ぼくたちのところにやって来た。彼女は、ぼくたちの坐るベンチとは、直角に並ぶベンチに腰を降ろし、ぼくの方に向いて言った、

 “この庭、お気に召しまして?”

 “ええ、もちろんです”と、ぼくは満足気に答えた、“本当に、素晴らしいお庭ですね。一ぺんに気に入りました…”

 “…それで、あなたはこれから、どうなさるおつもりですか?”

 と夫人は、それとなく尋ねた。

 ぼくはしばらく考えを整理してから、ゆっくりと、一語一語かみしめるように言った、

 “この館のことは、もうだいたい分かりましたから、あとは、あなたのおっしゃっておられた、村の老人の家にでも尋ねて、昔あったことのほんの少しでも、その老人の口から聞き出したいことぐらいなものです。きっとその老人は、ぼくの母の幼い頃の姿を見ておられたでしょうし、その他、クリスチーヌやレオノールのこと、その他、ミリエル家にまつわるぼくの知らないことまで、知っているかも知れません。そうしたことを聞くことができれば、幸いです”

 “わたしどもの館にも”と、パーシバル夫人は言った、“時々、珍しいお方がお訪ねになりますけど、あなたのような方は初めてです。もしよろしければ、今、どのようにお暮らしなのか、聞かせていただきません?”

 それでぼくは仕方なく、現在は独りで寂しい田舎に暮らしていること、妹のうち一人は、メロランスに、もう一人は、温泉地近くのルブライラに住んでいることを話した。生い立ちについても、子供の頃に父親に先立たれ、母親リディアが行方不明となって、以後消息がつかめていないことを語った。今から数年前、貧しい暮らしの中に突然レオノールからの便りが舞い込み、余命幾莫もなかったレオノールが伝えてくれた遺産で、現在は細々と暮らしている、ということもぼくは言った。


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 “そうですか”

 と、パーシバル夫人は、ぼくの話しを聞き終えると、さも納得したように、うなずきながら、答えた。

 “それで、あなたはそのお母さんを捜していらっしゃるんですね?”

 ぼくは、パーシバル夫人の顔を見つめながら、うなづいた。

 運転手は、メイドが運んで来てくれたコーヒと茶菓子を交互に手で取りながら、ぼくの方を、興味ありげな表情で見つめていた。

 “そうです”と、ぼくは言った、“過去のことを知れば、何んらかの手がかりがつかめるかも知れないと思いまして… でも、なかなかむつかしいことだとは思っています”

 “正直な話し、わたしは、お母さんの話しは初めて耳にしました”と、夫人は静かに言った、“なにせ、途中からこの館に参ったものですから。恐らく、うちの主人に尋ねても、ほとんど何も知らないだろうと思います。うちの主人も、ここでは全くの部外者なんですから。――でも、あなたのお話しには、なかなか興味がありますわ。本当に、あなたのお母様が、見つかればいいですのにね…”

 “リトイアの近くのサビーノの村が、母の出身地でもあります。これからそこへも行って、色々と伺おうとも思っています”と、ぼくは、自分の決意を語った。

 “あなたのお母さんはリトイアにも住んでおられたんですか?”と、パーシバル夫人は、少し驚いたような顔をして、言った。

 “ええ、母はミリエル家の両親が亡くなった後、しばらく、叔父のレオノールに引き取られてレビエに住んでいましたが、間もなく、レオノールと一緒に、レオノールの伯母が住んでいたリトイアヘ向かったんです”と、ぼくは言った、“それはまだ母が、八つのときでした”

 “――でも、レオノールさんは、叔父じゃなくて、本当のお父さんだったのでしょう?”

 と、パーシバル夫人は冷静に言った。

 “母は何も知らなかったんです”と、ぼくは、しみじみと言った、“レオノールもずっと本当のことを言わなかったものだから、母はただ、レオノールのことを、とっつきにくい、こわい、頑固な叔父さん、と感じていたようです。でも、身なし児の自分を引き取り、育ててくれたから、感謝だけはしていたようです”

 “何も知らないなんて、お気の毒に!”と、パーシバル夫人は、額にしわを寄せて言った。

 “これには色々と事情があったんです”と、ぼくは言った、“もしおいやでなければ、全部話してもかまいませんが…”

 “ええ、結構ですよ”と、パーシバル夫人は、ぼくの方を見、大きくうなずいた。

 それで、ぼくは、ひと息ついてから、話しを始めた。

 “クリスチーヌ・ガラハは、さっきも言いましたように、結局、M・ブロートと結ばれました。でも、この結婚は、もともとブロートの出世の為に利用された、政略的なもので、愛情のゆえに結ばれたものではありませんでした。


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それに、ブロートには別に、愛人さえいたようです。そんな事情で、クリスチーヌの結婚生活は決して幸せなものではなかったようです。しばらくして、社長のミリエル氏が死に、相次いで、クリスチーヌの父、ガラハ氏も亡くなってしまうと、こわい者がいなくなってしまったとばかり、クリスチーヌに対する虐待すら始まったんです。ブロートと、ミリエル家の二男バランとは、もともと通じ合っていた仲でしたし、今になって、クリスチーヌの過去の情事のことをあばき立て、責めて、虐待を始めたんです。ブロートにとって、ミリエル氏が死んだ今、クリスチーヌは不用の存在でした。クリスチーヌは、ブロートの立派な屋敷に住ませてもらっていましたが、その虐待たるや、クリスチーヌは、そこの女主人というよりは、女中のような扱いを受けていた、ということです。ごく親しい女中以外に頼る者とて他になく、クリスチーヌはやがて病を得、しばらく後に、亡くなりました…”

 春の日射しが降り注ぐテラスの上で、パーシバル夫人と、運転手の二人は、ぼくの話しを熱心に聞いていた。

 “それで、それからどうなりましたんですか?”と、夫人は尋ねた。

 “クリスチーヌの死を知って、誰よりも驚き、心の底から、後悔し、悲しんだのは、レオノール・フローバその人でした。つまり、ぼくの祖父レオノールは、姉アヌーザの話しから、今や一切が明らかとなり、クリスチーヌの死を、心の底から後悔し、嘆き、悲しんだんです”

 “…レオノールとクリスチーヌの出会いは、ここの館の庭園で始まりました”と、ぼくは、ひと息ついてから続けた、“ちょうど表の、池のあるあの広い庭園だと思いますが、今も昔も少しも変わってはいないようです。ちょうど、レオノールの姉、アヌーザの結婚式の日が、二人の出会いの始まりでした。クリスチーヌがここの館のメイドとして、結婚披露パーティの下働きをしていたその姿が、レオノールの目に止まったのです。そればかりでなく、忙しい仕事の合間をぬって、祝福された二人の為に、彼女が美事にピアノを演奏したことも、彼に深い印象を残したようです。その日から、二人の関係が始まりました。クリスチーヌがピアノのレッスンを受けに館の外へ出て行っているのを知り、機会を伺って、出会いのチャンスを作ったのは、レオノールの方でした。そうして、二人の、秘密の交際が始まりました。秘密というのも、クリスチーヌは既に、商用で一年ほど出張に行っているブロートという男と婚約しており、行く行くは結婚することになることが公然の事実となっていたからでした。しかし、二人の出会いによって、事情は一変してしまいました。レオノールが、姉の結婚式の当日に、既にひと目ぼれしてしまったことを告白すると、クリスチーヌの方も、レオノールのことはその日に気づき、感じのよい人だという印象を持っていたことを告げたのでした。それに、クリスチーヌの婚約というのも、出世を狙うブロートが、ミリエル氏に受けの良い執事ガラハの娘を嫁に迎えれば、出世に役立つだろうという政治的な意図から出たもので、クリスチーヌも、将来が有望なブロート氏という、その肩書に引かれて、父親に言われるままに、何も分からないまま、婚約を引き受けた、というだけのことでした。


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もともと、心から願っての結婚、というようなものじゃなかったんです。でも今や、レオノールとの出会いによって、初めてクリスチーヌは、愛に目覚め、結婚の意味を知ったんです。――しかし、事はそう簡単には運びませんでした。二人のあいだに横たわる、ブロートとの婚約、という障害があったからです。これは既定の事実で、クリスチーヌの父親も、ミリエル氏もそのように考え、事が運ばれていたからです。クリスチーヌには、自分にはとりわけ優しかった父親の意向にそむいてまで、レオノールの下へ走る勇気はなかなか出て来ませんでした。また、レオノールの姉アヌーザが、ここの館に暮らしているミリエル氏の長男であり、副社長でもあるモーリスの妻であり、現在も円満に暮らしていることを思うと、その夫婦生活に水を差すような、レオノールとの情事を出来るだけ表ざたにしたくない、というのもその理由のひとつでした。そのような理由で、どっちつかずの煮え切らない日々が、どんどん過ぎて行きました。ただ、逢引だけは続けていました。祖父はとうとう待ち切れなくなって、レビエの湖畔のほとりに、二人の為の小さな、しかしなかなかしゃれた、一軒の家を建てました。そしてクリスチーヌの来る日をひたすら待ち望んだのですが、ついに、日曜日に一度だけ、クリスチーヌをその家に呼ぶことができたんです。そして、思う存分、二人きりの楽しい生活を、満喫することが出来ました。――しかし、二人の幸せな日々が続いたのもそれまででした…”

 ぼくはそう言って二人の顔を見、それから、風にそよぐ、月桂樹の枝や葉や、アザミの花を眺めた。二人の目が、興味に輝いているのを知ると、ぼくは続けた。

 “それというのも、ミリエル家の二男であるバランが、二人の情事に感づいたからです。二男は、ミリエル氏から何かにつけ、優等生である長男と引き比べられ、一種の劣等感さえ抱いていたようでしたが、将来のポストを狙うブロートとは通じ合っていたようです。ブロートを、ガラハの娘と結婚させようという計画も、実は、二人の密談の中から出て来たようなものなのです。その弟が、二人の情事に気づき、このままでは自分たちの計画がだいなしになってしまうことを恐れて、二人の仲を裂く策に打って出たんです。まずクリスチーヌを呼びつけ、このことをみんなに触れ回るかも知れないと言っておどし、しかしもし、このまま二度とレオノールと会わないと約束するなら、今までのことはなかったものとして、黙っていてあげよう、と言ったのでした。クリスチーヌは、一晩悩んだあげく、結局、レオノールに会いに行くことはやめました。ところがその日はちょうど、レオノールが最後の決心を固めていた日に当たっていました。つまり、ブロートとの関係をきっぱり精算する為に、クリスチーヌの父ガラハ氏に一切を打ち明けようと、クリスチーヌと約束していた日に当たっていたのです。レオノールは、期待に胸踊らせながら、約束の場所に来ましたが、クリスチーヌはいませんでした。それで、不審に思った祖父は、クリスチーヌが通っている音楽家の教室へ駆けて行くと、そこで、一通の手紙を手渡されました。それは、クリスチーヌが、涙ながらに書いて、少年に届けさせた、「しばらくはお会いすることができません」という内容の手紙でした。しかし、レオノールは、そんなことであきらめるような男ではなく、手紙には伏せてある内容の裏に何かあるに違いないと直観して、すぐミリエル家のこの館へ駆けて来ました。しかし、そこで目にした光景が、一切を決定づけました”


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321

 “レオノールが館に来たとき、邸内は静かでした”と、ぼくは続けた、“それでためらうことなく、クリスチーヌがいるはずの別棟に向かったんです。それはさっき、ぼくたちが寄せてもらったあの館です。ドアは開いていたので、中へは簡単に入れました。そして、足音をたてないように階段を上がって行くと、やがて、クリスチーヌの部屋の方から耳なれない男の声が聞こえて来るようでした。不審に思って祖父はその部屋に近付き、ドアごしに中の様子を伺おうとしますが、やはりその声が聞こえて来ます。それで、思い切ってドアをあけると、彼女のベッドの上に、うなだれた彼女と、彼女の肩に手を回し、何か慰めているようなバランの二人が、互いに寄り添うように腰掛けている姿が目に飛び込んで来、それを見るなり、狂ったように祖父は叫び、振り向いて階段を駆け降りて行ったんです。クリスチーヌはあわてて部屋を飛び出し、祖父を呼び戻そうとしましたが、もう後の祭りでした。祖父は、裏切られたという思いと、失恋の痛手とで、しばらくは、回復する見込みも立ちませんでした。人生に対する絶望と怒りとから、以後、生活も次第に乱れて行くようになりました。そんなある日、クリスチーヌが不意に、祖父の家に尋ねて来てあのときのいきさつを告白し、「あれは、あの弟バランに脅迫されて仕方なくやったことで、自分の気持は変わりないから、もう一度思い直して欲しい」ことを訴えたが、祖父は、鬼のような気持になって、聞き入れようとはしませんでした。クリスチーヌはなおも、このままではブロートと結婚することになってしまうと言って嘆願しようとしたが、祖父は、あのときの光景を思い出すと、どうしてもクリスチーヌを許す気にはなれませんでした。とうとうクリスチーヌは、門の前で訴えることの空しさを悟ったためか、うなだれて去って行こうとしましたが、そのときただひと言、「あなたの子供が出来た」ということを口にしたのです。祖父は、驚きはしましたが、別にクリスチーヌを呼び止めようとはしませんでした。むしろ悪魔的な気持になって、やがて、クリスチーヌがひとり、非難の矢面に立たされるのを、愉快に思ったくらいなのです。そしてそれが、クリスチーヌとレオノールとの最後の別れとなりました…”

 運転手は、カップの中のコーヒの黒い表面をじっと眺めながら、聞いていた。夫人は、テーブルの上に両ひじをきちんと突いて、両手を組むような恰好で、静かにぼくの話しを聞いていた。

 “祖父の生活は、その日以来、いっそう乱れて行くばかりでした”と、ぼくは続けた、“そして間もなく、ミリエル家に嫁いでいる姉から、祖父は、とんでもないことを聞かされることになりました。それというのも、ガラハの娘クリスチーヌのお腹が急に大きくなって、やがて、父が誰とも知れない子供が生まれたが、ちょうど自分たちのあいだに子供が出来なくて困っている最中だったので、極秘のうちに、そのこどもをもらうことにした、という内容でした。そして、その子供は女の子で、ミリエル氏とも相談して、リディアという名を授けた、ということでした。このことは、婚約者ブロートの耳に知れたら大変ですので、すっかり極秘のうちに行われた、ということです。


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クリスチーヌはもちろん、父、ガラハ氏にすっかりしぼられたが、父親については一言も言わなかった、ということでした。祖父は、そのことを姉から聞かされても、別に驚きはしませんでした。ただ、ブロートとの結婚の日どりを、それとなく尋ねただけでした。姉アヌーザの結婚の日からほぼ一年が経過した春に、結婚式がとり行われるということでした。姉は祖父に、「あの子を祝ってあげる為に来ない?」と、結婚式に参加することを勧めたが、祖父は、つくろい笑いをしながら、きっぱりと断りました”

 “クリスチーヌと祖父との出会いは、以上のようないきさつです”と、ぼくは言った、“祖父はその後も、たびたび姉の館に行っては、自分の娘であるリディアが姉の胸に抱かれているのを見て来ましたが、そんなある日、姉の口から、クリスチーヌの死んだことを聞かされました。しかも姉は、クリスチーヌに忠実だったメイドからこっそり教えてもらって、すべてを知っていました。クリスチーヌがうわごとのあいだずっと、リディアとレオノールの名を呼び続けていたことを。そして、クリスチーヌがいかにレオノールを愛し、リディアのことをいとおしみ、またいかにブロートから虐待を受けていたかを話し、どうしてこのことをもっと早く告げてくれなかったのか、と言って、祖父をなじりまでしました。しかし、祖父には今や一切が明らかとなりました。クリスチーヌの愛が今や本物であったことを知り、さっそくクリスチーヌが葬られている墓の前へ行っては、おいおいと泣きました。しかし、その悲しみと後悔の中からやがて生まれて来たことは、ブロートに対する憎しみと、復讐の念でした。やがてブロートが、まだまぶたの下の涙が乾きやらぬうちに、早々と別の女と再婚したことを知るや、この思いがいっそう燃えさかりました…”

 ぼくがそこまで話したとき、パーシバル夫人と、運転手とは熱心に聞いていた。風がさわやかで、柳の枝が美しく揺れていた。テラスのそばに咲いているデイジーや、スイセンの花もなかなか美事だ。夫人は、テーブルの上にメイドが置いて行ったマスカットを手に取ると、取りたてで新鮮だからおいしいですよ、とぼくに言って勧めてくれた。ぼくはそれを手に取り、ひと粒を口に入れた。とても冷たくて、口ざわりが良く、おいしかった。

 “…それは気の毒な話しですね”と、パーシバル夫人はぼくを見ながら同情するようなまなざしで言った、“とりわけ、クリスチーヌさんは、気の毒な死なれ方をされました”

 “ええ、それについてはもう少し、詳しい話しがあるんです”と、ぼくは冷静に言った、“実は、ぼくの母は、自分の母クリスチーヌの死を、目撃さえしているのです”

 そう言ったとき、パーシバル夫人と運転手の目は、驚いたように、一段と目が大きくなった。

 “さっき、クリスチーヌは病を得て死んだ、と言いましたが、死因は病死ではなく、自殺だったんです”と、ぼくは続けた、“夫の虐待や病が彼女を絶望の余り、死に追い込んだ、と言えなくもありませんが、ともかく、クリスチーヌは病気によって死んだのではありませんでした。夫の冷たい仕打ち、娘、リディアと会えない寂しさ、レオノールとの情事の破綻、そして、自分の体を蝕む病などが全部重なって、彼女の精神を絶望的な状況へと追いやったのでしょう。


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それは、彼女が結婚して三年目のもう秋も終わろうとしている頃の朝でした。日がようやく明けかけようとしている早朝に、例によって、夫のいない館を、クリスチーヌは、人目を忍ぶようにして、裸足のまま飛び出したんです。服装も、ベッドから飛び起きたままの、白い、夜着のままの姿でした。館の裏手の方には、静かな森のあいだに、寂しい、きれいな小川が流れていました。きっとそこへ行けば、今も見られるはずですが、そこはよく霧が発生するんです。その日もちょうど霧が発生していて、早朝と重なったこともあって、視界がよく効きませんでした。クリスチーヌは、その人気のない、静かな小川の方に向かって行き、そのまま帰らぬ人となってしまったんです。――遺書もなく、事故死だという意見もありましたが、それではどうして、そんな早朝に、夜着のままの姿で、小川に行ったかが理解出来ません。それはともかく、その日の朝に限って、ぼくの母は、母親アヌーザに連れられて、その小川の下流のところまで、早朝の散歩にやって来ていたのです。野原に咲き、秋の風に震えている可愛い花を見ては、心を驚かせていたのでしょう。ところが、小川の向うの方で、村人たちがひとかたまりになって何か話し合っているのを見て、ぼくの母とアヌーザとは好奇心に惹かれ、彼らのいるところまでやって来たのです。こんな早朝に人々が群らがっているというのも変でしたが、母が、大人たちの足のあいだをかき分けて向うに出て目にしたのが、水にぬれたまま、丘に引き上げられ、草むらに横たわっているクリスチーヌの、まるで眠っているような亡骸だったのです。彼女は、家の裏手の森のところで身投げをし、そのまま、ゆっくりとここまで流されて来たんです。もちろんアヌーザの方はすぐクリスチーヌだということに気づき、母をその場から引き離しました。アヌーザにしてみれば、母の実母の死をこんな形で見せることになるなんて、とてもできなかったのでしょう。母には、知らない女の人だ、ということで押し通しましたが、この日の出来事は、母の最も幼い日の記憶として、しっかりと脳裏に刻み込まれたのでした…”

 “じゃあ、あんたのお母さんは、その日の事を記憶しておいでなんですか?”と、夫人は、大きな目をして、ぼくに尋ねた。

 “ええ、記憶していたようです”と、ぼくは答えた、“実はぼく自身も、幼い頃そのような経験をしたことがあるんです。そのときに、ぼくのショックを包み隠そうとの配慮からか、母も、自分の幼い日の経験を語ってくれたことがありました。ぼくはそのとき、もう普通の子供の年齢に達していましたが、母はまだ、たったの三才のときでしたが、そういう強烈な経験は、脳裏から消えることがないんですね。母は、そのとき目にした光景を、可成り詳しく記憶していたようです。しかし、そのとき目にした若い女が、実母だったということは、誰にも教えてもらわなかったから、未だに母は、何も知らないはずです…”

 “そうですか…”と、夫人は、大きくうなずいた、“それじゃなお一層のこと、あなたは、お母さんに会う必要があるんですね…”

 “ええ”と、ぼくはうなずいた、“…きょうの帰りがけにでも、ぼくはその小川へ寄ってみるつもりです。ここからは、そう遠くないところにあるはずですから。ついでに、クリスチーヌが三年間暮らしていた館と、クリスチーヌの眠っている墓地に行くことができれば幸いです。クリスチーヌのいた館は、今も、誰かの手に渡って、あるはずですから…”


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 “あなたのおっしゃっている館はきっと”と、パーシバル夫人は、ぼくの言葉に割って入った、“ダーシさんの館に違いありません。裏手に森ときれいな小川があると言えば、あの方の館以外には、この辺で思い当たりませんわ。あの方のことはよく存じあげていますから、行かれるのなら、こちらからお電話でも差し上げてあげましょうか?”

 “ええ、そうしてもらえれば、助かります”と、ぼくは素直に感謝の意を表した。

 柳の葉のあいだから洩れる光りが、真白なテーブルの上に当たって、光と影の織り成す模様が、ふとぼくの気を惹いた。編み籠に盛られたマスカットの冷たい色や、白いコーヒ茶碗などが、なんとも言えず新鮮だった。春のさわやかな光――そして、そよ風に揺らぐ白や黄色や紫など、様々な色をしたパンジー、スイトピー、アガパンサスの花々。季節はさわやかで、うっとりするような日射しの中のひとときだった。しかし、テーブルの向うには、パーシバル夫人が、そしてこちら側には、帽子をかぶり、あごひげを生やした運転手がぼくの話しを聞いていた。もう一昔も前に、この地で息づき、そして、滅び去ってしまった人々の物語を――

 若いメイドが、向うの木の陰になった館の入口のそばで、こちらを向いて立っていた。ただ夫人の次の合図を待つ為にのみ立っている、何も知らない彼女こそは、あのときのクリスチーヌと同じことをくり返す、現在のクリスチーヌと言うことが出来るのかも知れない…

 “マニエーラ!”夫人は、その若いメイドを呼ぶのに、そういう名前で呼んでいた。若くて、ふっくらとし、愛きょうのあるそのメイドの名は、クリスチーヌではなく、マニエーラだった。彼女は、お茶を運び、果物を運び、パーシバル夫人の言うことに、一つ一つ素直に従い、働いていた。ぼくが、そんな彼女の中に、昔のクリスチースの面影を認めたとしても、どんな不思議があるだろう!

 “でも、まだ話していませんわね、どうして、あなたのお母さんが、実父のレオノールさんと暮らすようになったか、ということを”

 パーシバル夫人は、日射しが暑いのか、扇子であおぎながら、ぼくに言った。

 “ええ、話しがあっちこっち脱線してしまって”と、ぼくは言った、“そのことを今からお話ししましょう”

 ぼくは冷たい飲物を飲み、一息入れると、それから話し始めた。

 “クリスチーヌが亡くなったことを知り、墓の前へ行って悲しむと共に、ブロートヘの復讐をレオノールが誓ったことは、さき程言いました。それはその後、半年も経たぬうちに実現したのです。ちょうど、おりしも不況が社会を取り巻いていた時代で、社会のあちこちで労働争議が頻発していました。ここ、ミリエル家の会社でも例外ではありませんでした。社内では、不況を乗り切る為、思い切った首切りをすべしと主張する、副社長のバランや専務ブロートなどの強硬派と、縮小は止むを得ないが、労働者の主張にも耳を傾けねばならないと主張する社長モーリスを初めとする穏健派とに分かれていました。


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とりわけ、専務のブロートは、血も涙もないということで、労働者たちのあいだでも評判が悪い男でした。そんなある日、会社で、団体交渉が開かれようとしていました。交渉を一目見ようとひしめく労働者たちのあいだに、見慣れぬ顔がひとつありました。それはレオノールで、どういうわけか、労働者たちのあいだに紛れ込んでいたのです。やがて、交渉の時刻がやって来て、会社のお歴々が奥のドアから姿を現しました。社長のモーリスもいれば、副社長のバラン、あの評判の悪い専務ブロートも、続いて部屋に入って来ました。そのときです、労働者の陰から、突然、ものすごい形相をしたレオノールが飛び出して来、ブロートと顔を合わせました。ブロートは、レオノールを一目見るなり、「お前は、あの女の…」と言いかけましたが、そのときはもう既に遅かったのです。レオノールの手には拳銃が握られ、それは、ブロートめがけて火を吹いたからです。余りの突然のことで、誰もレオノールを捕らえようとはしませんでした。労働者たちも、撃たれた相手が相手だけに、撃ったレオノールをそのまま見過ごそうとしました。レオノールはそのまま逃げましたが、間もなくして警官につかまりました。彼は、ブロートをしとめ、クリスチーヌの仇を討ったと思いましたが、実際は弾はそれ、致命傷には至らなかったのです。しかし、彼は逮捕され、殺人未遂の罪で、懲役五年の刑を言い渡されました…”

 “懲役五年も!”と、パーシバル夫人は、驚いた表情をして言った。

 “ええ、祖父は、その刑に素直に服しました”と、ぼくは、冷ややかに答えた、“――それから五年が経ち、世の中もすっかり変わってしまいました。いっときの争議も治まり、社会は再び平和を取り戻していました。レオノールの心も、この五年間ですっかり変わってしまっていましたが、何よりも変わっていたのは、リディアがもう八つにもなり、すっかり娘らしく、成長している姿でした。レオノールは、そんな娘の成長した様を、館の物陰から、こっそりと、何度も目にしていました。それというのも、あの事件を起こした都合上、館に、正式に立ち入ることを許されなかったからです。それで、こっそりと立ち寄っては、リディアが庭で楽しそうに遊んでいる姿を見、胸をなでおろしていました。リディアの成長こそは、レオノールの希望であり、いつかは、本当のことを、一切合切、リディアに話してやろう、と心に決めていました。ときには、彼女の二階の勉強部屋から――さっき見せてもらったあの部屋ですが、彼女が弾くピアノの音色にじっと聞き入り、館の外の壁のところに立って、心のなごむ思いがした、ということもありました。娘らしく成長したリデイアの顔は、見れば見るほど、あのクリスチーヌにそっくりですし、またそうなってくれることを、彼は願っていたのです。レオノールは、これからは心を入れ換え、リディアの為に生きようと、決心しました”

 “…ところがそうこうしているうちに、思いがけない事件がもち上がったのです”と、ぼくは続けた、“レオノールが出所して、まだ日が浅いうちに、今度は姉アヌーザと、ミリエルの会社を継いだ夫、モーリスのあいだに事件が起こりました。二人が、リディアを残して、館の近くを散歩していたときに、何者かに襲われ、殺されてしまったのです。


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犯人はすぐには上がりませんでした。強盗に襲われたという説も、一時は上がりました。いずれにせよ、ピストルで撃たれ、二人とも即死の状態でした。この為に、リディアは、一ぺんに両親を失ってしまい、それまでの幸せな状態から、身なし児というどん底の状態になってしまったのです。しかも、館には弟がいて、会社はこの弟が継ぐことになったから、リディアの立場はますます弱いものとなって行きました。両親の葬儀の後、リディアの処遇のことが問題となりましたが、レオノールが、リディアの叔父に当たる、ということで、結局、レオノールがリディアの面倒を見る、ということに決まったのでした…”

 “…それで、あなたのお母さんは、叔父、というより、真実の父親であるレオノールさんのところへ行くことになったのですね”と、パーシバル夫人は、納得したように、ぼくを見つめながら言った、“でも、そのことを、あなたのお母さんには一言もおっしゃらなかったのですか?”

 “ええ、姉アヌーザが死んだ今となっては、レオノールが唯一人知っている事実であり、レオノールも、いつかは話そうと、その機会を伺ってはいたようです”と、ぼくは答えた、“ぼくの母は、死んだ両親を愛していたあまり、レオノールのことをそれほど尊敬してはいなかったようですし、レオノールの方でも、このまま他人扱いを受けているようではダメだ、とも思っていたようです。ところが、その適当な機会をつかめないうちに、ぼくの母は大きくなり、やがて、家を出て行ってしまったのです…”

 “あなたのお母さんは、家を出てしまわれたのですか?”と、パーシバル夫人は、驚いたように目を大きくして尋ねた。

 “ええ、十七才のときに”と、ぼくは落ち着いた表情で答えた、“それまではずっと、リトイアのサビーノ村で、レオノールと暮らしていたんです。レオノールは他に、レオンという、ぼくの母よりは二つ年上の少年も引き取っていましたから、実際は三人で暮らしていました。母は、レオノールのことをずっと他人だと思っていましたし、余りいいようにも思っていませんでしたから、家にいるのや、とりわけ、村での生活が耐え難かったのだと思います。そんなやかやで、母が十七のときに、家を飛び出してしまいました。――ぼくは、今度の旅で、母が十七になるまで暮らしていたサビーノの村にも寄ってみるつもりです…”

 “…そういうことですか”と、パーシバル夫人は、ひと息ついてから言った、“あなたのお話し、よく分かりました。そういう話しが、何十年も前に、この屋敷の周りにあったなんて、わたくし、何も知りませんでした。それにしても、随分と興味深いお話しでした”

 “――でもそれは、本当にあったことです”と、ぼくは語った、“ぼくも初めて聞かされたときは、面白い話しだな、と思い、その真実の程を疑いもしましたが、嘘、偽りはありません。亡くなる直前の老人の話しには、嘘はないはずですから…”

 “ところで、あんたのお母さんの両親が犯罪に巻き込まれ、殺されたという話しだが、犯人は結局、見つからなかったのかね?”

 そう尋ねたのは、運転手だった。


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327

 同時に、運転手の目も、パーシバル夫人の目も、ぼくの方に注がれた。

 “それは、ミリエル家の二男の、あのバランでした”と、ぼくは答えた、“バランが犯人だったのです。そのことをレオノールは、自分が受刑者の身であり、イールでの生活が耐え切れなくなって、ぼくの母と一緒に、叔母の住むサビーノ村へ行こうと決心した直後に知りました。――バランが、早く会社を乗っ取ろうと、そういう暴挙に出たのです。しかし、バランの逮捕により、ミリエルの会社は、急速に傾いて行ったようです。その後のことについては、ぼくは何も知りません…”

 “同族の経営になる会社なら、恐らく、倒壊するのも早いだろう”と、運転手はしみじみと言った、“昔、ミリエルの会社があったとは聞いていたが、そういう形で潰れたのだとは知らなかった。――しかし、よくある話しとは言え、恐ろしい話しだ…”

 

 ぼくたちは、木洩れ陽がまぶしく照らす白いテーブルのあるベンチに坐り、ぼくの口から語られた、二昔前の重苦しい話しから、今、ようやく解放された気分だった。昔にも、このような平和なひとときが、恐らく存在しもしただろうが、このときほど、平和のありがたさを、しみじみと感じたことはなかった。葉におおい尽くされた柳の枝が風に揺れ、ナデシコやユリの花が、生き生きとした表情を、このぼくたちの方に向けていた。メイドのマニエーラは、まだ館の戸口のところに立って、ぼくたちの方を浮かぬ表情で眺めていた。空は青く、抜けるように、爽やかだった…

 

 “もうよろしいんですか。とってもおいしいですよ”と、パーシバル夫人は再び、テーブルの上に置かれたマスカットを、ぼくたちに勧めてくれた。

 “ええ、けっこうです。とても、おいしいでした”と、ぼくは、丁寧に答えた、“――でも、いつまでもお邪魔する、というわけにも参りません。この辺で、そろそろ失礼させてもらおうと思いますが…”

 “あら、もう帰られるのですか?”と、パーシバル夫人は、さも残念そうな表情をして言った。

 “ええ、残念ですが”と、ぼくは言った、“他にも行かねばならないところがあるのです。きょうは、こんなに素晴らしい天気ですし、この日が終わらないうちに行ってみたいところがあるんです…”

 “それは残念ですわ”と言って、パーシバル夫人は手を差し出した、“あなたのお話しには大変、胸を打たれるところがありました。――ですから是非またもう一度、このうちへお立ち寄りになって下さい。あなたがまた来られるのを、楽しみにしておりますわ…”

 “それは光栄です”と言って、ぼくは、夫人の差し延べた手を取り、固く握手をし、そして、立ち上がった。

 運転手も、ぼくたちに続いて立ち上がった。


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328

 木陰の風が、冷たく、爽やかだった。春の風が、こんなに涼しく、爽やかだと感じたことはなかった。月桂樹の木の葉も色づき、芝生の緑も鮮やかだった。ぼくは、これから過去をさぐりに行こうというのに、まるで未知なる未来へ向かって行くかのように、心は晴れやかだった。――この日、耳にし、目にしたことを、ぼくは誰に語るだろう? リサにだろうか? それとも、今は姿を現さない、あのママにだろうか?

 

 ぼくたちが茂みを通り、再び屋敷の中に入ったとき、パーシバル夫人の好意で、現在の調理場を、ほんの少しだけ、見せてもらった。そこでは、古びた、見すぼらしい木のテーブルや、流し、食器棚、などが無造作に置かれ、下働きの少し肥え気味の女が、一生懸命、じゃがいもの皮を剥いていた。かつては、この場所で、あのクリスチーヌも働いていたはずだった。しかしこの若い女に、そんな娘が昔いたことなど、どうして知り得よう? ぼくは、壁に掛けられた数多くの鍋や、スプーン類、それに、もう数十年も使い古されたかも知れない、オーブンやレンジなどを、つぶさに眺めた。古ぼけた、大きな柱時計が、今もなお、静かに時を刻んでいたのが印象的だった。

 

 …このようにして、ぼくたちは、パーシバル夫人に見送られて、昔日の名残りをとどめる、今はほとんど知る人のない、ミリエル館を去った。パーシバル夫人は、戸口まで見送りに出て来、ぼくたちの車が、大きな塀に囲まれた鉄製の門の外に出るまで、名残り惜しそうに、いつまでも手を振り続けていた。ぼくたちを乗せた車が門の外に出て、門を完全に閉められてしまうと、ぼくは初めて、この館がぼくに与え続けた、昔の亡霊たちによる一種の夢状態から覚めたことを感じた。車は、館から出ると、素晴らしいプラタナスの並木のあいだを走り始めた。次々と、日光を遮る、空におおいかぶさるような樹木の蔭が、車の窓を過り、日陰の涼しさとあいまって、ぼくを、一種の陶酔状態へと運んで行くのだった。館から去って、何が、そのような気持ちへと、ぼくを追いやったのかは分からない。しかしそのとき、ぼくは感動的で、しかも、幸福だった。ぼくはうっとりと、車のシートにもたれ、窓の外の、静かで、美しい並木や、その向うに広がる牧歌的な景色を見やった…

 

 やがて車は、静かな、美しい川が、ところどころ樹木の茂った原野のあいだを、ゆっくりと流れているところに差しかかった。その川の色は、目も覚めるほど、青く、澄んでいた。あの川こそは、クリスチーヌが死に、流された川に相違なかった。ぼくの目は、黒々とした樹木の林と、川の流れとの対照が鮮やかで、美しい、その川の風景に釘づけとなった。川に差しかかった以上は、クリスチーヌが晩年暮らしていたブロートの館も、そう遠くはないだろう。ぼくたちを乗せた車は風を切って走り、空は、青く、澄んでいて、白い雲が流れていた。


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329

 

 川に沿って車が上流へと向かうと間もなく、緑深い森林地帯へと差しかかったが、その直後に、一段と緑の濃い一角に、屋敷らしいものが見え隠れするようになって来た。美事な芝生と、樹木とのコントラストが美しいその奥に、青みがかった緑色の屋根とベージュ色の壁をした館が、今やはっきりと見えて来た。それは、川からは数百メートルも奥まったところに存在していたが、今や疑いはなかった。いくつかの棟が寄せ集まるように立っているその館こそは、クリスチーヌが晩年を過ごした館だった。

 “あれがそうです”と、ぼくは運転手に言った。

 “また、なかなかきれいな建物だねえ”と、運転手は、近付きつつある館を見ながら言った。

 “ええ、静かで、本当に美しいところです”

 そうしているうちにも車は、美事な樹木と芝生とに導かれて、館のゲートまでやって来た。こちらへせり出すように立っている両サイドの館と、ひかえめだが美しい建物の正面が、ぼくたちの目の前に立ちはだかり、その背後は深々とした森におおわれていた。ぼくはベルを鳴らし、家人を呼んだ。この素晴らしい館から、どんな人が姿を現すのだろう。少なからず、ぼくには興味があった。昔なら、ここにはクリスチーヌが住んでいて、彼女が姿を現したはずなのだ。彼女は、美しい黒髪をした美人タイプの娘だった。細面の白い顔、聡明そうな広い額と、キリッとした目つき――ぼくは、クリスチーヌの顔について、レオノールから聞かされ、或る程度の想像はついていたが、一枚の写真もなく、本当の顔は見たこともなかった。しかし、想像上では、彼女は美しく、薄幸の瞳をたたえており、ぼくにとって、永遠の女性を思わせた。そしてもし、そこの館から、長い黒髪をたたえた彼女が姿を現したとするなら、どれほど驚くべきことだろう…

 しかし、静かな館からやがて姿を現したのは、女ではあったが、想像上のクリスチーヌとは似ても似つかぬ中年の、血色のよい、よく太った婦人だった。彼女は、パーシバル夫人から連絡を受けていた為か、笑顔をいっぱい浮かべて、ぼくたちのところにやって来た。

 “どうぞ、どうぞお入り下さい。あなた方のことは、パーシバル夫人から聞いて知っていますのよ。なかなか興味深い話しをなされたとか…”

 そう言って彼女はゲートを開き、ぼくたちを邸内へと招き入れてくれた。

 “いいえ、ほんのちょっと、昔住んでいた人の部屋が見たくて、ここへやって来ただけです”と、ぼくは言った。

 “ええ、ええ、いいですよ”と、彼女は、にこにこしながら言うのだった、“その話しについてなら、興味深いことがあるのですよ。後でお見せ致しましょう…”

 “それはなんです?”と、ぼくは聞いたが、彼女は、それについては言おうとはしなかった。

 

 間もなく、室内に案内されると、中は薄暗くはあったが、豪華な家具といい、シャンデリアといい、ゆったりしたカーテンといい、なかなかのものだった。美事に磨き抜かれたテーブルや、ピアノ、色彩鮮やかな絨毯が、ぼくの目をそそった。


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330

ぼくはさっそく、寝室のことを尋ねたが、彼女は快く、案内してくれた。円い幾何学模様が美しい真ちゅうの手すりのついた白い階段を上がって行くと、やがて、クリスチーヌがいたと思われる寝室へとぼくたちは案内された。

 “今、あたしどもが、使っている寝室ですが、恐らく、ここがあなたが言われるお方がお暮らしになっておられた寝室でしょう…”

 そう言って開けられたドアの奥から現れた光景は、天蓋付きの刺繍入りのベッド、白い板壁、背の高い押し開きの窓、両側にたくし寄せられた赤いカーテン、薄い緑色の絨毯、黒く磨き抜かれた机と椅子、フロアースタンド、壁に掛けられた一枚の静物画など、ぼくの心を驚かせるものがあった。当時の様子とは同じでないかも知れないが、恐らく、それほど違ってもいないだろう。ミリエルの館から迎え入れられたクリスチーヌは、ここで密かな生活を営み、日々の、ため息や、憂いや、歓びや、苦悩の暮らしをしていたのだ。彼女の一喜一憂の、その息づかいさえもが、聞こえてくるような、そんな気さえもした。薄明るい室内の重苦しさとは対照的に、押し開かれた窓の外の、樹木がしたたる明るい光景が、何んとも言えずさわやかで、晴れ晴れとした気持ちにするのだった。おそらくクリスチーヌも、あの窓から外を見、遠くミリエル館にいるリディアのことや、レビエに住むレオノールのことに思いを馳せたことだろう。――しかし、この周囲は余りにも静かで、彼女の心を、孤独に、寂しく、沈うつにさせるには十分な環境だった。周囲には、ただ静かな森が広がるばかりで、彼女の孤独な気持ちに答えるものは何もない――ただ広がる青空と、遠くを流れる澄んだ青い川を除いては。そんな彼女が、精神的に頼るべきものを持たず、窮地に立たされたとしても、どんな不思議があるだろう? ――この、落ち着いた、静かな部屋をつぶさに見て、ぼくは、そんな気がした。彼女は、この薄明るい室内で最後の夢を見、死への旅路へと、ここから飛び出して行ったのだ…

 

 “あなたの期待に反するかも知れませんが、ここの家具は、全部わたしどもが搬入したものでございますのよ”と、ダーシ夫人は、親切に言ってくれた。

 “いいえ、かまいませんよ”と、ぼくは、振り向いて言った、“これだけでも十分、当時のことが忍ばれますから…”

 実際そうだった。当時のクリスチーヌのベッドが、このベッドと違ったとしても、どれほどの差があるというのだろう? そんなことは問題ではなかった。ただ、この白い壁の部屋、これらの家具で、クリスチーヌの生きた時代が感じられ、その息づかいさえ感じられるなら、それだけでも十分だった。

 “どうもありがとうございました”ぼくは十分に見終えると、振り向き、ダーシ夫人に丁寧に礼を言った。

 ぼくたちは再び、真ちゅうの手すりの白い階段を降り、一階の居間へと案内された。

 白い、刺繍が美事な椅子に腰掛けると、ダーシ夫人は、さっそくぼくに話しかけて来た。


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331

 “…それで、あなたが、昔、ここで暮らしておられた奥さんのお孫さん、というわけなんですね”と、ダーシ夫人は言った、“お母さんは元気にしていらっしゃるんですか?”

 “多分、そのはずですけど…”と、ぼくはとまどわずに答えた、“現在は行方知れずなんです…”

 “ああそうですか”と、夫人は、悪い質問をしたとばかり、口をつぐんだ。

 “…でも、クリスチーヌさんのことは、幸いよく分かっているんですのよ”と、夫人は、心持ち表情を和らげ、話題を変えて言った、“もう古い話しですけど、クリスチーヌさんに仕えていた女中が――アンナという名前でした――、クリスチーヌさんがお亡くなりになった後にやめさせられてしまったんですが、巡り巡ってまたこの屋敷で雇われることになったんです。わたしどもが、それとは知らずに雇ったんですよ。昔、この屋敷で働いていた、ということを聞いたもんですからね。アンナは、口の堅い、余りしゃべらない女中でしたが、ただクリスチーヌさんのことだけは、いつまでも慕い、心に残っていたようです。アンナの口から、よくクリスチーヌさんのことを聞かされました。アンナは、クリスチーヌさんのことになると、とたんに雄弁になったのです…”

 “そうですか…”と、ぼくは、意外なことを聞かされ、驚いたように言った。クリスチーヌに女中がいたことは知っていたが、その女中がどんな運命をたどったかについてまでは、ぼくは知らなかったのだ…

 “それで、どんなことを聞かされました?”と、ぼくは、ダーシ夫人に尋ねた。

 “クリスチーヌさんは、まず、とってもお美しい、聡明な方だったようです”と、ダーシ夫人は、それとなく語った、“それに、辛抱強くて、わたしならあんな仕打ちを受ければ、とっても我慢できないって、アンナはよく語っていました”

 “あんな仕打ち?”

 “ええ、夫が、クリスチーヌさんを冷たくあしらったんです”と、ダーシ夫人は答えた、“あんなに美しくて、優しい人なのに、どうしてか、アンナは分からないって、言っておりました。きっと、御主人に女がいるに違いないって、女の直観から、アンナは言っていました。そうでないと、クリスチーヌさんが冷たくされる理由が分からないのです。――ともかく、夫は家に帰っても、クリスチーヌさんとはほとんど口をききません。そればかりか、用事があると言って、すぐ家を出て行く始末です。そういうわけで、クリスチーヌさんと、アンナが一緒に過ごす日が多かったようです。クリスチーヌさんには子供さんがいませんでしたから、いつもひとりで、寂しくしておられたようです。最初は、父親のいる、現在のパーシバルさんが住んでおられる館まで、そう遠くないというのと、寂しさを紛らせる為、帰ったりもしておられたようですが、そのうち、御主人によって帰ることを禁じられてしまいました。それで、アンナを連れて、館の外の、近くの森へ行って、茸刈りをしたり、木の実を摘んだりするのを、唯一の楽しみにしていたようです。――でも、結婚はしたものの、御主人は、家庭ではクリスチーヌさんのことは、一顧だに払わなかったようですよ。アンナがそう言っていました。


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332

時折、会社の人がやって来られたり、クリスチーヌさんと一緒にパーティに出席しなければならなくなったときだけは、急に優しくふるまったりするんですけど、そうでないときは、忙しいという理由で、クリスチーヌさんとはほとんど一緒に過ごそうとはしませんでした。だから、あんな結婚生活なんてない、とアンナが言っていました。クリスチーヌさんは、いつもひとりで、自分の部屋か、居間にいて、本を読んだり、編み物をしたりして、時を過ごしていたようです。そうそう、言い忘れましたが、クリスチーヌさんは寝室すら、御主人とは別の部屋で、まるで、同じ天井の下に住む赤の他人のような暮らし振りだったようですよ…”

 ぼくは黙って聞いていたが、ダーシ夫人の語る内容から、少しでも、クリスチーヌの当時の暮らし振りが、目に映ってくるような気がした。

 “…ところが、ある日を境に、御主人の、クリスチーヌさんに対する扱いが一層ヒドくなったんです”と、ダーシ夫人は続けた、“その日には、クリスチーヌさんに対する暴力沙汰すら起こりました。その日までは、クリスチーヌさんにつれなくすることはあっても、暴力を働くということはなかったんです。――ところが、クリスチーヌさんの父親が亡くなって、一週間も経つか経たないうちに、急に御主人が、クリスチーヌさんの過去のことを暴いて、クリスチーヌさんを何度もぶったということです。そして、もう二度と見たくないと言って、御主人は、自分のいるあいだは、クリスチーヌさんを、部屋に閉じ込めてしまった、ということです。それ以来、食事はおろか、顔も合わさなくなってしまったようです。ただですら正常な夫婦生活とは言えないのに、こうなってしまっては何もかもおしまいです。本当のところ、御主人は、クリスチーヌさんと別れたかったのでしょう。アンナが、そう言っていました。あらゆるヒドい仕打ちも、クリスチーヌさんと別れる為だって。しかし、唯一の親戚であるお父様を亡くされたクリスチーヌさんには、もはや行くところなんて、どこにもなかったんです。――しばらくは、クリスチーヌさんも、そのヒドい仕打ちに耐えておられました。アンナも、御主人様の目を盗み、そっとクリスチーヌさんの部屋に、差し入れの食事を運んだりもしました。しかし、部屋の中のクリスチーヌさんは、すっかりやつれ、食事ものどを通らない程だった、ということです。顔や、細い美しい腕も、御主人に殴られた、あざのあとが痛々しく、とても見てはいられないって、アンナは言っていました。しばらくは、ショックの日が続きましたが、その後、もう主人がいないに等しい状態での、以前の普通の生活に戻ることができました。御主人に絶縁状をたたきつけられたにせよ、昼間は、主人はいなくて、クリスチーヌさんは、自由に屋敷内を歩き回ることができたんですから。一時は真剣に離婚のことも考えておられたようです。アンナに、冗談に、この家から去ったら寂しくない? って、言ったりしていたということですから。それから間もなくして、クリスチーヌさんは、いつものように、アンナを連れて、森へ散歩に出掛けられました。ところが運悪く、帰るときになって雨が降って来、二人ともずぶぬれになってしまったのです。もともと丈夫な方ではなかったクリスチーヌさんは、それがもとで風邪をひかれ、初めはそれほどでもないと思われたのに、思いの他長引くことになってしまったのです。風邪の他に、心労などが重なり、クリスチーヌさんは、ベッドに伏せがちな日が続くようになりました。


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333

高熱の日も何日か続き、医者も診断に困っていたようです。病状が良くなれば、転地療養も必要だ、とも言っていました。クリスチーヌさんはそんな状態でベッドに寝込んでしまっているのに、肝心の御主人が、見舞いの一つもやって来ないって、アンナはわたしに、何度も言っていました。あんな薄情な旦那様ってどこを捜しても他にいないって。――でも結局、その雨が、クリスチーヌさんの命取りになってしまったのです。クリスチーヌさんは、気落ちの上、病までも得てしまって、生きる気力さえお失いになってしまい、結局、自殺してしまわれたのですから…”

 ぼくたちは、しんみりと、その話しに聞き入っていた。ぼくに、言うべき言葉は何もなかった、ただ、クリスチーヌの晩年の状態が具体的に明らかになったという以外には…

 “アンナはそのことで、いつも悔やみの言葉を吐いていました”と、ダーシ夫人は続けた、“あの日の朝、奥さんの物音に気づきさえすれば、制止することもできたのに、ってアンナはいつも言っていました。そうでなくても、それらしい徴候を感じ取り、事前に手を打つべきだったって、そうも言っておりました。――でも実際は、それらしい徴候は、何にも感じ取れなかったんです。クリスチーヌさんは、病状の谷間のときには、回復の希望を強く持っておられたようですし、アンナと会うときはいつも笑顔で迎え、そんな深刻な気持を胸の中に秘めていたなんて、誰にも、おくびだに出さなかったのですから。ですから誰も、クリスチーヌさんが死ぬなんて予測できなかったし、誰もが、クリスチーヌさんの回復を確信していたということです。クリスチーヌさんの心の中に、それほど深い亀裂が生じ、悩んでおられたことなど、誰にも測り知れないことだったのですね。――葬儀は、ごくしめやかに行われたということです。参列者の数も少なく、生前ごく親しくしておられた人々だけが集まって、棺が、墓地へ運ばれて行きました。そのときは、さすがに主人のブロートさんも葬儀に参列されました。しかし、棺の中に眠っているクリスチーヌさんが、そのことを喜ばれているかは疑問だ、とアンナは言っていました。もともと愛情がなかったうえの、形だけの参列だったのですから。ごく少数の列が、川を伝って、下流の教会の墓地へと運ばれて行きました。クリスチーヌさんの墓は、生前慕っていた父親の墓地の隣がいいだろうということになって、それだけはしぶしぶブロートさんも同意なさって、結局、父親の墓の隣に埋葬されることになりました。それは、冷たくて、風の強い、実に悲しい日だったと、アンナはわたしに語ってくれました…”

 “そうですか…”と、ぼくはしみじみと答えた、“そのアンナさんのおかげで、ぼくの知らなかったことまで、よく分かりました。貴重なお話し、ありがとうございます…”

 “いいえ、これもみんな、アンナさんとお会いしたから、知り得たことなのですよ”と、ダーシ夫人は優しく答えてくれた、“でも、このようなお話し、誰かに語ることになるなんて思ってもみないことでしたけど、こんなところでお役に立つことになるなんて、全く、嬉しい限りですわ…”

 “ええ、その話し、十分お役に立ちました”と、ぼくは答えた、“ところで、そのアンナさんなんですけど、今はどうなされているのです?”


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334

 “もう亡くなりました”と、夫人はきっぱりと答えた、“――この屋敷でね。病気になってから、わたしが田舎に帰ることを勧めたんですが、アンナは強く拒みました。田舎に帰っても知っているものがほとんどいないし、ここが自分のふるさとみたいなものだから、ここで死なせてくれと言ってね。結局、その通りになりました。ただ、お墓だけは、田舎にありますけどね…”

 “…そうですか”と、ぼくは言った。貴重な証人に既に死なれてしまっていたことが、限りなく残念な気がした。もしアンナが生きていたら、ぼくは喜んで、彼女の下へ飛んで行ったことだろう… しかし今は、クリスチーヌも、アンナも、同じく、天国にいるのだ…

 “それでですね”と、ダーシ夫人は、顔をほころばせながら、突然、ぼくに言った、“お話しがもうひとつあるんですの。それはきっと、あなたが喜ばれると思いますけど、アンナが死ぬまで持っていた大切な品です”

 そう言って、ダーシ夫人は、席を立ち、部屋の隅の箪笥へと向かった。そして、引き出しの中から、しばらくしてから、何か品物を取り出したが、それは、小さな額に入れられた、一枚の写真のようでもあった。ダーシ夫人はそれを持って、再びぼくたちのいるところへ戻って来たが、それをぼくたちのいるテーブルの上に置いた。

 “この人を御存知ですか?”と、夫人は、テーブルに置いた額に写っている、一人の若い婦人を指さして、言った。

 ぼくにはすぐ分かった。この変色した古い写真に写っている一人の若い婦人は、ぼくがこれまで見たくても見れずに、夢に描く他はなかった、紛れもなく、あのクリスチーヌその人だったのだ…

 

 彼女は確かに、ぼくが想像していたように美しかった。人に挑むような目つき、真直ぐに結ばれた口、その口の方向に延びている、触れてみたくなるような、柔かな鼻、ふっくらとした頬や、少しとんがった顎、美事に波打ち、肩にまで垂れている髪の毛など、すべての点で、申し分なく美しかった。レオノールが愛したのがこの娘だと知って、ぼくは少なからず、ショックを感じた。そしてもちろん、ぼくの母の母である人―― 秀でて、聡明そうな額など、母を思わせるところもあったが、目や口元に若干類似性が認められる以外は、全体として、重なるところが少ないように思われた。それにしても、もし母が、この写真を見たとしたら、どのように思うことだろう。――クリスチーヌが正面を向いたこの写真は、いつ撮られたものかは分からなかった。しかし、背景にある室内の家具の様子などから、この家に移り住んでからのものに相違ないと推測された。とするならこのクリスチーヌは、亡くなる何ヶ月前のクリスチーヌということになるのだろうか?

 

 ぼくが黙って写真に見入っているのを見て、ダーシ夫人は、それとなく言った。

 “これがクリスチーヌさん、その人なんですのよ。実にお美しい方です。アンナによれば、実際はもっと美しくて、素晴らしい方だったそうです。――でもこの写真からでも十分、その人の人柄が忍ばれます…”


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 “この人が、ぼくの祖母に当たる人なんて、今まで見たこともありませんでした”と、ぼくは、ショックを隠し切れない様子で言った、“――でも、こんな写真が残っていたなんて、全く、思いも寄らないことでした…”

 “これは、今ではもう、あなたのものですよ”と、ダーシ夫人は、顔をほころばせながら言った、“アンナが残してくれた形見ですし、今ではもう、わたしどもの手元に残しておく理由はありません。ここに映っているのはあなたの祖母なんですし、これは、あなたのものです…”

 “本当に、もらってもいいんですか?”と、ぼくは再び驚いて言った。

 ダーシ夫人は、大きくうなずいた。

 ぼくは、嬉しさを隠すことができなかった。こんな素晴らしい写真に出会い、こんな素晴らしいプレゼントにめぐり会えるなんて、予想だに出来ないことだったからだ。ぼくはそれを手に取り、しっかりと胸の中に抱いた。

 “本当に有り難うございます”と、ぼくは言ったが、感謝の言葉が見当たらず、ただ言葉につまってしまうばかりだった、“この感謝の気持、なんて言葉に表していいものやら… ”

 ダーシ夫人も、運転手も、そんなぼくを、かたわらで見つめながら、にっこりと微笑んでいた…

 

 再び外に出たとき、日射しが明るく、正面に茂るイチイの木立がまぶしかった。また、白いバラの花が、涼しそうに風に揺れていた。

 “もう帰られるんですか?”と、ダーシ夫人は、名残惜しそうにぼくに言った。

 “ええ、いつまでもお邪魔するわけには参りませんから”と、ぼくは、丁寧に言った、“本当に、大切な品と、貴重な話し、有りがとうございました”

 ぼくは何度も礼を言って、見送る夫人と別れ、待っている車の方に向かった。

 “妹さんによろしく。それから、もしお母さんにお会いになったなら、お母さんにもよろしく”

 ダーシ夫人は、そう言って、ぼくに手を振った。

 “ええ、そうします”

 ぼくはそう言って車に乗ったが、ぼくだって、この館から離れるに忍びなかった。ぼくの祖母クリスチーヌが数ヶ月過ごしたこの館について、もっと詳しく知り、もっと長く浸ってもいたかった。ここをひとたび離れれば、今度来るのはいつのことになるものか、全く分からなかった。そうであればこそ、もっと長く、滞在していたかった。若い祖母の数奇な運命を担うことになったこの館に、ぼくはもっと、隅々まで知り尽くすまで、滞在していたかった。この写真に写っている美しい女性が住んでいたことがしみついているこの館に、もっともっと触れていたかった。まるで、この館全体が、クリスチーヌそれ自身であるかのように―― 


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336

実際、ぼくが車に乗って去るときに感じたのはそのことだった。明るい日ざしに輝いている樹木や、ベージュの壁をした瀟洒な館や、その広々とした庭を見渡して、ぼくが感じたことは、それらすべてがこの写真の女性に結びついている、ということだった。いやむしろ、彼女の肉体は滅んでも、彼女の魂だけは、それら無言の物体の隅々にまで、しみ渡り、今や、彼女自身になり切ってしまい、彼女の息づかいさえ、そこから感じられてくるほどなのだ。ぼくが見れば見るほど感じられて来たことは、それら館や樹木や庭が、もはやクリスチーヌとは別のものではなく、クリスチーヌそれ自身だ、ということだった。それらは何も口にはしないけれど、ぼくには何かを、語りかけているように思われた。それは、彼女の悲しい境遇かも知れず、彼女の青春時代に愛したこと、歓んだことかも知れなかったが、春風の成す木の葉のざわめきのせいか、ぼくにはよく聞き取ることができなかった…

 “…それで、どうするんだね? 墓地へ行くのかい?”と、運転手は尋ねた。

 “ええ、――でもその前に、館の裏の森を通って下さい。ぼくの祖母がよく散歩をした森というのを、この目でよく確かめてみたいものですから…”

 “ああ、いいですよ”と、運転手は快く引き受けてくれた。

 

 森は、美しい森ではあったが、ごく普通の、ブナ林が、こんもりと、地面をおおい尽くすような森であった。ぼくは、森のそばに車を止めてもらい、ひとりで、森の中に分け入った。道端の日光の輝きとは異なって、ブナの森の中は、幻想的な光に満ちていて、上空の、緑したたる葉のすき間から見える、透きとおるような空の青さと対照的に、地面の奥の方は、不気味な暗さに満たされていた。しかし、全体として柔かな光に満たされていて、空気もヒンヤリとして、心地よかった。しばらく歩くと、もうさっそく、枯葉の間に、茸が顔を出しているのが見つかった。ぼくは、その場にしゃがんで、しばらく、その土地の茸が生えている様子を観察した後、そっと引き抜いた。そのようにして、しばらく森の中をうろついた後、ぼくは再び車のところにやって来た。

 運転手が退屈そうに座席にもたれて、ぼくを待っていた。ぼくは、両手にたくさんの茸を抱えていた。運転手が、ぼくの茸を珍しそうに見ると、ぼくはこう言った、

 “ねえ、これ、全部あげますよ。家に持って帰れば、奥さん、きっと喜ぶに違いないですよ”

 運転手は驚いたような表情をして、ドアを開けた。

 “いいのかね、全部もらっても”

 “ええ、どうせぼくは、ホテルで食事をするんですから…”

 運転手は礼を言って、ぼくから茸を受け取った。

 ぼくは車に乗ると、村の花屋さんにまず寄ってもらうよう、運転手に言った。


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337

 

 車は再び、澄んだ川沿いに走り始めた。森の奥のクリスチーヌの館がだんだんと遠ざかり、しまいに見えなくなってしまった。周りは、静かな草地と、ところどころに茂る林だけの、見通しのいい平地が広がっていた。やがて、村らしい建物の群れが見えて来、車は、それに吸い込まれるように、中へ入って行った。

 村の建物は、まるで何世紀も生きて来たように、くすんでいた。狭く、曲がりくねった街道沿いに、様々な形をした建物が思い思いの軒を連ねている。壁の色も色あせ、汚れが目立っている。しかし、その古さや、つたの葉をからませた壁や、街道沿いに見せるいくつもの窓の様子などが、なんとも言えぬ趣をこの村に与えているのだった。酒場があり、ホテルがあり、雑貨屋があり、そして、花屋があった。花屋の前で車を止めてもらい、ぼくは花屋に入って行った。そして、美しい花束を二つ買って、再び車に乗った。

 

 ぼくが最初に告げた場所は、教会の墓地ではなく、クリスチーヌの死体が発見されたとされる川沿いの場所だった。ぼくは、是非ともその現場に行きたかった。場所については、幸い、ダーシ夫人がアンナから聞いて知っていて、ぼくに教えてくれたのだった。少し分かりにくい場所だったので、一緒に行こうとまで言ってくれたが、ぼくは丁寧に断った。ダーシ夫人は、その代わりに、ぼくにちょっとした地図を書いてくれた。その地図だけが、場所を知らせる唯一の手がかりだった。ダーシ夫人の語ってくれたところでは、村からそう遠くないところの河原で、一箇所、川の奥へ島のように突き出たところがある、ということだった。流されて来たクリスチーヌの体は、その半島のように延び出たところに引っかかり、早朝、野良仕事に出て来た村人に見つかったのだ…

 ぼくを乗せた車は再び、川沿いの道を勢いよく風を切って走った。やがて、それらしい目印の小屋と、木立とが見えて来た。地図では、その付近で降りれば、川へ出っ張った場所はすぐ見つかる、と書いてあった。ぼくは運転手に、車を止めるように言い、花束をひとつ持って車から降りた。川に向かって歩いて行くぼくの後を追うように、運転手も駈けて来た。

 “死者の霊を弔うのに、わたしも参加させてくれないか”と、運転手が言った。

 “いいですよ”と、ぼくは返事をした。

 道路から川まで、草深いところを歩いて行かなければならなかったが、それらしい場所は、間もなく分かった。これは、ダーシ夫人も気づいていないことかも知れないが、一本の大きな柳の木が川べりに茂っている、すぐ近くの場所が、目ざすところだった。美しい水面に、柳の木はその姿を映し、そこからそう離れていないところに、確かに、川に出っ張った場所があった。しかし、そこももちろん、深い草におおわれていた。ぼくは、クリスチーヌが流れ着いたと思われる場所までやって来ると、足を止め、川の中に目をやった。そこには、かすかなさざ波を受けて、自分自身が映っていた。水は、透明で、川床が透けて見えていた。小さなメダカが流れを避けて、泳いでいる様が、水面を通して、見えていた。何十年も昔には、恐らくこの場所に、うつ伏せになったクリスチーヌの死体が流れ着いたのだ。


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338

そして、ぼくの母が、早朝の散歩の途中、陸に引き上げられたクリスチーヌの遺体と対面したのも、この場所で、だった。それにしても今は、なんと明るい日射しが、この川面に注いでいることだろう。静かに揺れ動く水面が、時々、まぶしいほどの光を、キラリとぼくの目に反射する。ぼくはそっと花束を、クリスチーヌが流れ着いたと思われる場所に置くと、合掌し、目を閉じた…

 目を閉じて、どれほどの時が流れただろうか、限りない静けさと、沈黙。気が付くと、後ろで、運転手が帽子を手に、頭を垂れて黙祷していた。ぼくは、彼をそっとしたまま、その場を立ち去ろうとした。彼は、足音で気づき、目をあけた。

 “ここなんだね、例の場所は”と、運転手は、ぼくを引き止めるように言った、“ここは何度も走ったことがあるが、そんな言われのある場所だとは知らなかった”

 “恐らく、今の誰れも、そんなことは知りませんよ”と、ぼくは答えた、“そんな古い、昔話しをむし返しに来るぼくの方がおかしいんです…”

 “そんなことはないよ”と、運転手は言った、“大いに興味ある話しだ。人の話しとは言え、なかなかのものだ…”

 “さあ、もう戻りましょ”と、ぼくは言った。

 運転手は、まだ何かあるのではないかとその場に居たそうだったが、やがて仕方なくぼくの後について来た。

 車に乗ると、運転手は、すぐぼくに話しかけて来た。

 “確か、その御婦人が亡くなられたのは晩秋と言うことだったね。だとするなら、今と違って、水は凍るように冷たかったはずだ。その頃にゃ、この辺は雪さえ降るほどなんだからね。――気の毒に、よほど思い詰めることがあったんだろう…”

 “思い詰めることなんかなければ、人は、自殺したりはしませんよ”と、ぼくは答えた。

 

 車は再び走り始めた。広々とし、ところどころに森の見える平地の眺めはすがすがしかった。その中を、ゆるやかなカーブを描きながら、空の青さを映したような、鏡のようになめらかな、川幅のそう広くない川が、ゆったりと流れていた。車の走る、よく舗装された道は、その川と離れたり、近づいたりしながら、村へと向かっていた。

 やがて再び、村の入り組んだ、狭い目抜き通りを通り、村のはずれの教会へと車は向かった。全体がくすんだような村を通り抜けると、やがて、うっそうと繁った森のような樹木のあいだに、目ざすべき教会が姿を現した。全体が土色の、どっしりした石造りで出来た、二つの尖塔のあるこの教会は、その白さや、建物の様式から、歴史を感じさせた。とりわけ、先端に十字架のついている、空に突き立てるような二つの尖塔が、ぼくの目を奪った。車から降り立つと、ぼくは、そのすぐ真下に立って、その塔の雄大さを眺めた。鋭い角度で切り立ったような屋根や、その下の、四方に目を向けている丸みを帯びた高窓など、見れば見るほど、心を奪い取るような何かがあった。しかし、この教会は、規模としては、そう大きなものではなかった。明るい光に輝いた、尖塔や、教会堂の壁が、ぼくの目にはまぶしかった。


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小さいが、均整の良くとれているこの美しい、歴史的な教会こそは、クリスチーヌがそこで結婚式を挙げ、そしてまた、今も眠っている墓のある、教会だった。ぼくは、中を見るのが待ち切れなくなり、教会の中へと向かった。

 ――教会の中は、息を呑むほど、美しかった。きらびやかさとは正反対のその素朴な簡素さが、ぼくの心を奪ったのだ。いくつものアーチ状の梁をめぐらせた背の高い、石造りの天井の下に、礼拝堂があり、そのずっと先の方、一番奥に、光が満ちるような大きな高窓を背景に、美事な祭壇が飾られてあった。身廊の両側に並べられてある長椅子は、歴史が浸み込んだような、古びた木製だった。礼拝堂の中は静かで、ぼくの靴音だけが、音響効果のよい、この石造りの建物の中で、響き渡った。気が付くと、誰もいないと思われた、ガラーンとした礼拝堂の最前列に、白くて、背の高い、六本の蝋燭が目を惹く祭壇に向かって、一人の、黒い頭巾をかぶった婦人が、真剣に祈りを捧げている姿が、目に入って来た。ぼくは音を立てまいと足を止めた。そして、ほぼ中段ほどの長椅子のところに来ると腰を降ろし、この飾り気のない、静かな、ヒンヤリとした礼拝堂の敬けんな雰囲気を膚で感じ、四方の窓から射し込む柔かな光が廊下の一部を照らしている様子に、一種の神秘性さえ感じられるのだった。壁の上段の方に掲げられている聖者たちの彫像が、無言のまなざしを、この礼拝堂に投げかけていた。いつか、クリスチーヌも、結婚の前や後に、この礼拝堂にやって来ては、一人、祈りを捧げていたのかも知れない――ぼくの思いは、そんな遥かな思いへと向けられた。それにしても、最前列の婦人は、なおも祈りを続けていた。誰か、亡き人への祈りなのだろうか、それとも、自分の悔悟に対するざんげなのだろうか… その後ろ姿からは、年齢を推し測ることもできなかったが、ぼくにはなぜか、彼女が、昔のクリスチーヌと重なって見えて来るのだった。ぼくは、その場で目を閉じ、しばらく黙祷をした後、その場を立って、静かに礼拝堂から外に出た。

 外に出ると、礼拝堂の内部のじめじめした雰囲気とは違って、光に満ち、生き返るのを感じた。青い空に雲が沸き上がり、それは、まるで生き物のように、姿を変えつつ、移動を続けていた。教会堂のすぐそばに生える雑草が、光を浴び、風に揺れていた。運転手も、ぼくについて、外に出て来た。そのとき、手に本を持った神父が庭を横切ろうとしたが、ぼくたちが、側廊の出口に立っているのを見ると、気安く話しかけて来た。

 “あなた方は、村の人じゃないですね。何か御用ですか?”

 “ええ、ここに眠っているクリスチーヌ・ガラハさんの墓参りの為に、やって来ました”

 と、ぼくは答えた、“あるいは、クリスチーヌ・ブロートとなっているかも知れませんが…”

 “クリスチーヌ・ブロート”と、神父は天を仰ぐように、記憶の糸をたどりながら言った、“ああ、知っています。その人の墓なら、ちょうど教会の裏の墓地にあります。なんでしたら、案内しましょうか?”

 ぼくは喜んで、その神父の親切を受けることにした。

 墓地は、歴史を刻むようなこけむした煉瓦の塀に囲まれて、その奥の、樹木や、雑草などで、うっそうとしたところに存在した。


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340

そのほとんどが、木の陰となり、光が射し込まず、ただでさえ陰気な墓地が、いっそう、じめじめとした印象を与えるのだった。丸みを帯び、奇妙な形をした墓標の群れが、一見して、ここを墓地だと感じさせた。そのどれもが、色あせ、何か文字が書いてあるが、それがすぐには判読できないほど、風化の中にさらされているようだった。しかし、ところどころには、木の葉の陰から、光が射し込み、そういうところの雑草や墓標は、何かしら、明るくて、救われたような気にさせられるのだった。そして、クリスチーヌの墓は、まさに、その日の当たったところに存在した。

 神父が、様々な墓の間を縫って先に行き、ぼくたちは、その後に続いた。ぼくの手には、しっかりと花束が握られていた。

 “クリスチーヌさんのことは、まだわたしが小さい頃、母から聞いたことがあります”と、神父は案内の途中、おもむろに言った、“気の毒な運命をたどられたことが、一時、村人たちの話題にもなったようです。あなた方はもちろん、御存知でしょうね”

 “ええ、知っています”と、ぼくは答えた。

 “わたしも子供ながら、クリスチーヌさんが亡くなったのを悲しんだのを覚えています”と、神父は、ぼくのことは、余り気にもかけずに続けた、“なかなか美しいお方でしたからね。わたしも、あの方が村を歩いてなさった姿を何度か見かけたことがあって、そのたびに、美しい方だと感嘆したものでした。子供心ながら、強い印象を残したのですね。それに、とってもお優しい方で、見知らぬわたしにも、気持よく心を掛けて下さいました。本当にお若いのに、気の毒な亡くなり方をされました。――もうあれから何十年経ったことやら。それで、今ではすっかりクリスチーヌさんのことは忘れかけていましたが、あなたのおかげで、また思い出しました。彼女のことは、まるで昨日のことのように、今でもはっきり思い出すことができます。――それにしても、今どき、クリスチーヌさんの墓に参りに来られるなんて、失礼ですが、あなたは、どういう関係の方なんですか?”

 “クリスチーヌさんは、ぼくの祖母に当たる人なんです”と、ぼくは、平然と答えた。

 “じゃ、あなたは、あの方のお孫さんなんですか!”と、神父は、驚いたように、ぼくの顔を見て、言った。

 “あの方に、お孫さんがいたとは知りませんでした”と、神父は一息つくと言った、

 “そうとは知らず、失礼をいたしました。――でも、あの方がお亡くなりになったとき、子供さんがいたとは聞いたことがなかったのですが…”

 それでぼくは手短かに、クリスチーヌが結婚する前に既に子供がいたこと、そうなるに至ったいきさつについて、この年の頃、そろそろ老境にさしかかっている神父に、話して聞かせた。

 神父は、ぼくの話しに対して、半信半疑の面持だったが、最終的には信じてくれたようだった。そして、しきりに、“そういう話しは初めてだ”と言って、感心しているようだった。

 “――でも、ぼくも知りたいんです”と、ぼくは、全部を話し終えてから言った、“生前のクリスチーヌのことを。


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341

今まで会った人は全部、直接会った人じゃなかったんですけど、今初めて、生前のクリスチーヌさんを見た、というあなたにお会いしたんです。それだけでも、ぼくは感激です。ですから、そのときの様子を、もっと詳しく、ぼくにお聞かせ願いたいんです。生前のクリスチーヌさんって、どんな人だったかを”

 “それを話す前に、もう着きました”と言って、神父は、雑草におおわれるようにして立っている二つの、色あせた墓標を指さした。それは、さっきまでのうっそうとした場所とは違って、光が当たり、一種明るい雰囲気に満たされて、存在していた。ぼくは、その墓標に歩み寄り、手に持っていた花束をそっと添えた。歩み寄ると、墓標には、はっきりと次の文字が読みとれた。

 「クリスチーヌ・ブロート ここに眠る。1907~1932」

 そして、その横の墓標には、父、パトリック・ガラハの名を読み取ることができた。

 ぼくは、しっかりと、並んで立っている石の墓標を、そしてその下に茂っている数種類の雑草や、置いたばかりの花束の花が、風に揺れている様子を、眺め入った。光を浴びて、そこにある墓標は、ただ静かなだけで、いかなるクリスチーヌの思いも、ぼくに呼び覚ましはしなかった。

 “それにしても気の毒なことです。あの美しい方が、早くして亡くなられたなんて… 普通なら、今も十分生きておられる年齢だったのに”ポツリと、神父はつぶやくように言った。

 “それで、どんな感じの人だったのです?”とぼくは、それとなく尋ねてみた。

 “そう、とっても気だてのいい、優しいひとでした”と、神父は思い出すように言った、“今でも、あの美しい笑顔は、はっきりと思い出すことさえ、できます。ちょうど魚釣りをしていたわたしに優しく声を掛けて下さり、どんな魚が釣れるだの、餌は何だの、どういう風にして釣るだの、興味深そうに話し掛けました。それがきっかけとなって、わたしとは、ちょっとした知り合いになったのです。それはまだ、クリスチーヌさんが結婚する以前のことでした。時々、川沿いの道を通ることがあり、手にかかえていたバスケットの中の、取りたてのりんごを、わたしに下さったこともありました。彼女は、溌剌として、明るく、村の誰からも愛されるような、そんな感じの女性でした。ここは、今以上に小さな村でしたから、たいていの村人とは顔見知りであり、クリスチーヌさんも例外ではなく、よく、村人の家の前で立ち止まって、農夫や、農夫のおかみさんらと話をしている光景を見かけました。そんなとき、彼女は、手まね、身振りを交えて、とっても生き生きと語りかけていました。彼女は、人を楽しませる話術にたけていました。ですから、彼女の話しを聞く村人たちは、必ずと言っていいほど、満足の微笑みを浮かべていたものです。もちろん彼女には、いかなる悪気も、よこしまな心もなく、素直そのものでした。わたしがよく見かけた彼女の姿は、つばの広い帽子に、両肩をふくらませた短い袖と、腰をキュッと締めて、ふっくらしたスカートをしている、ちょうどあの、花売り娘がよく着ていたような、そんなドレスを着た彼女の姿でした。しかしそれがまた、一番彼女によく似合っていました。わたしは、明るい光の中を、そんな姿をした彼女が歩いて行く後ろ姿を、何度も、ほほえましい気持で、目にしたものでした…”


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342

 今では、そのクリスチーヌが、目の前の丸みを帯びた不揃いな墓標の下で、父親と並んで眠っていた。誰も訪れる人がないと見えて、墓石は風化にさらされて傷み、周りは雑草が生えるに任されていた。しかし、明るい日ざしの下で、墓石を取り囲むようにたくましく茂っている雑草を見ると、クリスチーヌの墓標は、生きていることの楽しさを、生命の持つ大切な意味を、ぼくに語りかけているように思われた…

 

 ふと、墓標から顔を上げると、樹木のシルエットとなった墓地の奥の方に、ぼくたちが今しがたそこからやって来たあの美しい、ゴシックの教会が、光を浴び、小麦色に輝いているその様が、ぼくの目に飛び込んで来た。それは驚き、というより、まさに“生命”との出会いだった。重苦しい墓の呪縛から解放されて、生きることの歓びを告げる、その“しるし”との出会いだった。クリスチーヌは亡くなったが、ぼくは、生きていてよかった、と思った。少なくとも、クリスチーヌの悲しい運命や、今ここに生きていることの感動を、ぼくは味わうことができるのだ。まるであの青い空に浮かんでいる白い雲のように、ぼくは今、純粋な感動にひたることができるのだ。――ぼくは、亡くなったクリスチーヌのその分まで、余計に生きなければならない、という気がした。なぜなら、もう彼女のことを思い、語ってあげることができるのは、このぼくしかいない、という気がしたからだった。しかし実際は、ぼくの登場によって、埋もれていた神父の心をも呼び覚ましたのだ…

 “…死んでしまえばそれまでです”と、神父は、ポツリと言った、“このように墓の中に入ってしまわれれば、もうそれ以降の地上の人生はないのです。そう思えば、人はもっと長く生きるべきです。少なくとも、人並みに人生が全うできるほどの長さにね… クリスチーヌさんは、余りにも早くお亡くなりになってしまわれた。それは、神さえ望まれなかった死であるはずです。生きていれば、どんな運命を全うできたかも分からないのに、残念です。――実に残念なことです…”

 そう言って悲しむ神父の言葉の中には、単に宗教的にではなく、個人的にクリスチーヌの死をいとおしむ気持が込められているように、ぼくには思われた。

 “しかし、神の望みにならない死というものがあるのですか?”と、ぼくはそれとなく、尋ねてみた。

 “すべては、運命の成すがままです”と、神父は答えた、“しかし、中には、わたしどもの理解を越えた死というものがあるのです。とりわけ、クリスチーヌさんのような死は、神が望むはずはありません… さあ、もうよろしいですか?”

 ぼくも、ここを去ることに同意した。今度訪れるのはいつになることやら。去って行くとき、ぼくはもう一度振り向いたが、明るい日射しの中で、雑草におおわれ、他の墓標に混じって、ひっそりと、太陽に相対して立っているのが、印象的だった。その上に置いたぼくの花も、春風に揺れながら、次第に遠ざかって行った…


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343

 

 ぼくはその後、ミリエル家の墓をも神父に案内してもらった。神父は、ミリエル家についても子供の頃の記憶や、知識があり、喜んで案内してくれた。場所は、奥の方にあったクリスチーヌの墓所から離れて、むしろ教会に近い場所に、他の墓標に混じってあった。こちらの方は、よく茂った樹木の茂みの陰にあり、じめじめした印象を与えた。父、エドガー・ミリエル氏の他、モーリス及び、ぼくの大伯母に当たるアヌーザの名も見られた。これらの墓を、もしぼくの母リディアが見れば、どのように思うだろうか? そうでなくても、セーラやリサに見せてやりたい気持がした。

 再び教会の前に来て、青い空に突き刺すような塔の先を目にし、ぼくは、死者たちの世界から、生き返って今、生命を享受しているのを感じた。生きていて、このように美しい尖塔を目にすることが出来るのは、何んと素晴らしいことだろう。空の青さも、教会の小麦色の壁も、緑したたる庭の樹木も、なんと生命に満ち、生き生きとしていることだろう。教会は、死者を葬るばかりのところではなく、人生の門出である結婚や、赤子の誕生を司るところでもあるのだ。そして、喜びに満ちたレオノールの姉、アヌーザも、クリスチーヌも、この教会で結婚式を挙げたのだった。その日もきっと、この日のように空は晴れて、明るかったことだろう。この二組の結婚は、内容において違ったものだったが、花嫁のそれぞれの胸の内にあった期待と不安において、それぞれ共通したものがあったはずなのだ。その両方の花嫁も、今はこの教会の墓地に眠っていた。生と死――ぼくは、そうした人間のドラマから解放されて、今、青い空の下で明るく輝いている教会の下にいた。

 

 “どうもいろいろと、ありがとうございました”と、ぼくは神父に礼を言った。

 “いいえ。また来ることがありましたらいつでも、わたしのところへ訪ねに来て下さい”と、神父は笑顔で答えた。

 “ええ、そのときには是非”と言うと、ぼくは神父と握手をして別れた。

 神父は教会の扉のところに立ち、黒い僧衣と、片手に本を持って、もう一方の手を振りながら、いつまでも、ぼくが去って行くのを見送ってくれた。恐らくぼくが彼に与えたことは、クリスチーヌの孫に出会ったという印象を、強く彼に残したということなのだろう…

 

 こうして、この日の旅の行程はすべて終わった。ぼくは、この収穫多い日に出会ったすべての場所や、すべての人のことを、様々に胸に巡らせながら、幸せな気持で帰途についた。ロアズマの村を去り、中都市リランヘと向かう車の中で、ぼくは、段々と日が傾いて行く夕暮れを迎えた。町が近づくにつれ、あれほど晴れていた空にも雲が出て、広々とした畑や、森林に投げかける夕陽の光が美しかった。一日が暮れる頃は、どんな春の日でも、人の心を寂しくさせるものだ。ぼくも、夢中だったこの日を振り返り、少しばかり、心の寂しさのようなものを感じた。


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344

それは、車がその方向に走っているあの美しい夕陽が、永遠への誘いをぼくに感じさせた為だろうか、それとも、この旅が、たった自分一人で続けられているせいなのだろうか… ぼくは一人に慣れていたが、このときほど、人生のはかなさと、寂しさとを感じたことはなかった。ぼくを乗せた車は、追おうとしても追い切れるはずのない夕陽に向かって、その最後の光が投げかける美しい大地の中を、まるで、手に入れることができるはずのない永遠を追いかけるかのように、寂しいホテルの一室が待っている、リランの町へと走って行った。その寂しい気持の中で、ぼくが思ったことは次のことだった、

 ホテルに着けば、このことをさっそく妹たちに電話をしよう。少しでもぼくのこの旅が、分かってもらえる相手が、ぼくには必要なのだ。それはぼくのリサ、そしてセーラなのだ…

 

 日はどんどんと暮れて行く。ぼくは、リランの町に近づくにつれ、周囲の風景が、そしてあの美しい雲までが、やがて夜の闇に包まれて行こうとしているのを、どれほどの恐れと、いとおしさの気持で、迎えたことだろうか。まるで夕暮れは、大地ばかりではなく、ぼくの精神までをも、窒息させようとしているかのようだ。恐ろしい夜の悪魔――それが、生きようとするぼくの意志をもくじこうとする。クリスチーヌも、この大地で、そのような夕暮れを、何度か迎えたはずなのだ。美しいが、残酷な匂いもする、この春のたそがれを――

 

 趣のある食堂での孤独な食事を終えた後、ぼくは、自分の部屋に戻って来た。明かりをつけると、クリーム色に花柄模様の柔らかいベッド、赤いカーぺットに、胡桃の木の簡素な机、椅子、そして、白いレースのカーテンなどが、目に飛び込んで来た。これが、今晩相手をする、ホテルのぼくの部屋なのだ。ぼくは、カーテンをあけ、窓を開くと、川向うに広がるこの町の夜景を見、夜空の星を眺め、冷たく新鮮な空気を、胸いっぱい吸い込んだ。そしてしばらく、それらの快い景色を眺めた後、ぼくはベッドのところに戻って来て、枕元の受話器を手に取った。

 うまく行けば、リサの住むアパートにつながるはずだった。

 しばらく、呼び鈴のうなる音が続いた。リサは、留守なのだろうか?

 しかしやがて、確かな手ごたえがあり、受話器を取る者がいた。

 “もし、もし。どなた?”それは、紛れもないリサの声だった。

 “ぼくだよ、久し振り”と、ぼくはホッとして言った、“今、どこから電話しているか分かるかい?”

 “兄さんなの?”と、リサが、ちょっと面食らったように言うのが聞こえた、“今、どこなの?”

 “どこか、当てて御覧よ”と、ぼくは言った。

 リサは黙ったまま答えられなかった。


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345

 “リランさ”と、ぼくは、勝ち誇ったように言った、“今、リランのホテルの部屋から電話しているんだ”

 “リラン?”と、リサは驚いたように言った、“じゃ、兄さんが前から行くって言ってたところに行ったのね。今、着いたところ? それとも、もう行ったの?”

 “行って来たさ”と、ぼくは、歓びを隠し切れずに言った、“いろんな所へね。ママが住んでいたミリエルの館にも、中へ入らせてもらったし、祖母クリスチーヌの暮らしていたブロートの館にも行ったし、墓参りもしたよ。全部回るのに、まる一日もかかってしまった”

 “へえ~、そんなたくさん行ったの”と、リサは興奮して言った、“スゴイッ! それじゃ随分いろんなことが分かったでしょ。祖母の住んでいたブロートの館って、どんななの? 大きな館なの?”

 “ああ、なかなかいいところにあって、大きさもまあまあさ”と、ぼくは答えた、“でも、いっぺんには全部、語り切れないぐらいだよ。ブロートの館は、静かな森の奥の方にあるのさ。お前も一度訪れるといい。そうすりゃ、祖母のいろんな思いが込みあげてくるからさ。それにそうそう”と言って、ぼくは枕元に置いてあった、古ぼけた額を手に取って見た、“そのブロートの館で、祖母の写真をもらったんだ。一枚しかない大事なものだったんだけど、大事に保管してくれていた現在のそこの館の夫人が、ぼくにくれたんだ。初めて見たけど、祖母の顔は、ぼくが想像していたよりも美人だったよ…”

 “本当? 今、それを持っているの?”と、受話器の中で、リサが言った。

 “ああ、今、見ているところさ”ぼくは、古ぼけた額に写っている若い女の姿を見つめながら言った。

 “本当?”と、リサは、声をはずませて言った、“あたしも是非見たいわ。でも、電話じゃ無理ね。どんな人か、ちょっとでも特徴を話してよ”

 “額が広くて、聡明そうな顔だよ”と、ぼくは言った、“目も鋭くて、鼻もきれいだし、頬もふっくらとしている。――しかし、こんなこと、口でいくら言ってもダメだよ。実物を見ない限りは。一度、実物を見にでも、またおいでよ…”

 “どこへ?”とリサは言った、“行きたいのはやまやまだけど、色々と忙しくてね。――でも、いつかまた見れる日を楽しみにしているわ。今度会うときがあったら、真先に見せてよ。約束ね”

 “ああ、分かってる”と、ぼくは答えた。

 ぼくは、落ち着いた、暖かい、クリーム色の壁や、花柄模様のベッドを照らすスタンドのほのかな明かりを、じっと見つめた。この部屋にはリサはいず、ただ、彼女の声がぼくの持つ受話器を通して、聞こえて来るに過ぎない。開け放された暗い窓からは、夜の冷たい風が、ぼくのいる、ベッドのところまで入って来ていた。

 “もう食事は済んだの?”と、リサは話題を変えて言った。

 “ああ、たった今”と、ぼくは答えた。


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346

 テーブルの置時計を見ると、もう八時半を、少し過ぎていた。

 “ここのホテルの自慢の料理、ウズラの焼いた料理がなかなかうまかったよ。それとワインとで、すっかりいい気持さ”

 “結構、いい生活をしているのね”と、リサは、弾んだ声でぼくに言った。

 “そちらはもう終わったのかい?”と、ぼくは逆に、尋ねた。

 “ええ、きょうは外食して来たところ”と、リサは、あっさり答えた、“兄さんほどじゃなく、簡単に済ませたわ。帰って来て、今、シャワーを浴びようとしていたところよ”

 “そうかい、それはお邪魔したね”と、ぼくは言った。

 “いいのよ。大事な話しですもの”と、リサはすぐ分かってくれた。

 “それでね、いいかい?”と、ぼくは続けた、“きょう一日、余りに多くを周り、多くの出会いがあって、そのときは忙しくて何も考える暇もなかったけど、ホテルに帰って来て、ひとりぽっちになったとき、クリスチーヌの生きた人生って、何んだろうって、つくづくそういう気がして来たのさ。ひいては、それは、ママの、そして、ぼくの、人生の問いかけにもなる。もっとも、そんなに大そうな事でもないけどね。――でも、そういう気がしたのさ。きょうは、本当に、充実したいい日だった。よく晴れてくれたし、こんなに多くのものを、一度に見せてくれる日って、めったにないからね。ぼくは、この日ばかりは、夢の世界へ飛ぶことができたよ、とりわけ、クリスチーヌの生きていたその時代に。――でも、その日の終わりが来、街へ帰って行く車の中で、夕空を見ると、なんとも言えない、寂しさのようなものを感じた。それがどういう感情なのか、今でもハッキリと説明することは出来ない。でもおぼろげながら、どうやら、この日一日の、クリスチーヌとの短い出会い、そして別れが元となって、複雑な感情へと昇華させたらしいことが、ようやく分かって来たんだ。人間って、ときにはそういう気持になることもあるだろう。センチメンタルな、そんな感情に…”

 “この日一日の体験が、兄さんに、いろんな作用を及ぼしたようね”と、受話器のリサは言った、“でも、いいことじゃない。それが結局、センチメンタルな感情を兄さんに与えるとしても、めったに経験できない、貴重な体験なんですもの…”

 “ぼくもそう思う”と、ぼくは答えた、“お前の言う通りで、ぼくの心はむしろ、晴々しているさ。こんな体験は、ぼく以外の誰にも体験できない。この広い世の中で、ぼくだけが、ただ一人、体験しているのさ。――でも、できれば、お前と一緒に旅をしたかった…”

 それはぼくの、心から出た、本心の声だった。

 “あら、ダメよ”とリサは、驚いたように言った、“この前も言ったように、今は忙しくてダメ。でも、あたしだって、本当は兄さんと同じように、先祖をめぐってみたい気持はあってよ”

 ――しかしそれは、リサが無理に、ぼくに合わせているように、ぼくには聞こえた。いいんだよ、リサ、何も無理にそこまで合わせなくても。ぼくには、お前の気持が、手に取るようによく分かっているんだ…


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 “その言葉だけでもぼくは嬉しいよ”と、ぼくは冷静に答えた、“外はもう真暗さ。お前とぼくとは、きょう、違った一日を経験しただろうけれど、いま、この同じ夜を迎え、そのうえ、このように電話でつながってもいるのさ。全く不思議なものだねえ、人間の運命って。そして全く測り知れないさ、人間の心って。もう電話は切るけれど、今晩は、クリスチーヌのことを、ぼくなりに整理してみるつもりなのさ。それが指し示している、深い、深い意味を、ぼくは、じっくりと考えてみたいのさ。それじゃリサ、また電話をするよ”

 “ええ、また何か分かったら、あたしにも聞かせてよ”とリサは言った、“あたしも今晩、兄さんの旅のことを、じっくり考えてみるわ。そして、分からないことがあれば、また聞くかも知れない。本当に、あたしも行ってみたいわ。これは本当よ”

 “じゃあね、リサ”と、ぼくは言った、“おやすみ”

 “ええ兄さんこそ”とリサが言った、“おやすみなさい”

 そうして受話器をおろした。忍び寄る、春の夜の気配が確実に、窓の外の暗黒から、この明るい部屋に押し寄せていた。再びひとりになった、ホテルの部屋のベッドに坐っていたぼくは、孤独だった…

 

 ぼくは何が言いたいのか? 自分でも分からない。ぼくが求めているものは? それは分からない。しかしぼくが逃れたいと思っているものは、間違いなく、この孤独だった。しかしそれは常に、ぼくに押し寄せて来た。押し戻そうと何度試みても、何度も押し戻され、そのたびに、相手は強く、力を増してくるのだった。最初はひたひたと、足下に押し寄せていたものが、今は胸、あるいは、鼻の位置までつかり、息もするのが困難、という有様なのだ。ぼくは本当に孤独だし、死にそうなほど、孤独だった。

 

 ぼくはそれで、今度は、セーラにも電話をしてみたが、いつまで呼んでもセーラは出て来ず、どうやら留守のようだった。ぼくはがっかりして、受話器を置いた。そして、ゴロリとベッドに横になり、クリーム色の落ち着いた天井を見つめながら、この日一日の出来事、昔、セーラと過ごした日々のこと、あるいはもっと遠い子供の頃のことなど、いろいろと頭をめぐらせた。――そのうち、ぼくは、クリスチーヌに出会いたいという願望が、心の奥底に芽生えていることが、だんだんと明らかとなった。その願望は、今すぐにでも幽霊となってもかまわないから、この部屋のそこの隅にでも立って現れて欲しいという願望となって現れたのだった。もちろん、クリスチーヌの幽霊など、現れるはずもなかった。ぼくの気持は揺れ動き、また明日があるのだ、ということで希望を持った。明日もまた、ぼくは行動を開始するだろう。今度は、ぼくたちが、そう遠くない日まで住んでいたレビエの館へと行ってみるつもりだ。そしてその先は――いよいよママが子供の頃を過ごした、リトイアのサビーノの村へぼくは行く。そのことを思うと、ぼくの心は言い知れぬ、鼓動を打つ、わくわくした気持になって来るのだった…


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348

 

 …朝、目が覚めると、白いレースのカーテンから、淡い光が室内に充満していた。カーテンの向うはもう明るく、対岸の教会やその他の建物の様子が、かすかに、カーテンを透けて見えていた。ぼくはぼんやりと、ベッドに身を横たえたまま、両側に束ねられた朱色の厚地のカーテンと、窓の中央に引かれた、薄いレースのカーテンの様子などを見つめた。室内は明るく、穏やかな光に包まれており、もう完全な夜明けだった。昨晩感じた、孤独な不安感は、もうこの朝によって、完全に消失していた。ぼくはゆっくりと起き上がり、窓辺に歩み寄って、さっとレースのカーテンを引いた。すると窓の外に、朝方のすがすがしい川の光景が、目に飛び込んで来た。朝の川は、春風に打たれて、一面さざ波を立て、対岸の樹木の列も、ざわざわと音をたてているようだった。対岸のあちこちに見える教会の尖塔は、夢見るように美しく、澄んだ、青い空に向かって突き立てていた。なんと美事な、落ち着いた街なのだろう。ぼくは、窓の外の、晴れ晴れとした光景を眺めながら、思った。振り向いて時計を見ると、もう八時だった。きょうは土曜日。あるいは、リサは休みかも知れない。そう思って、ベッドのそばの電話のところまで戻って来ると、ぼくは受話器を取り、ダイヤルを回した。

 

 しばらくすると、受話器を取る者がおり、そこから聞こえて来た声は、リサの声だった。

 “もしもし、どなた?”彼女の声は、生き生きとはずんでいた。

 “ぼくだよ、リサ”と、ぼくは言った、“きょうは土曜日だから、休みかと思って”

 “ええ、そうよ。もう起きたの?”と、リサは言った。

 “うん、今起きたところさ”と、ぼくは答えた、“ここの朝は、余り気持がいいから、それを伝えたくて、お前に電話したんだ。きょうの朝は、余り急がないのかい?”

 “ええ、別に予定ってないわ”と、リサは答えた、“でも、友達と、もうすぐ出掛けるけれどね”

 “そうかい。じゃ、手短かにぼくは話すよ”と、ぼくは言った、“ぼくはこれまで、随分といろんな朝を経験して来た。そして、たいていの朝は、ぼくの心をすがすがしいものにさせてくれるのさ。朝は一日の始まりで、原点なんだからね。そして、この日起こるべき一日のことを思うと、心はわくわくするのさ。そんなところなんて、まるで子供みたいなものさ。そしてきょうは久し振りに、そんないい朝を迎えることができた。そんなときは必ず思い出すのさ、こんないい朝って、ぼくの過去のどんな場合にあったろうかって。すると、いろんな朝を思い出す。一番近いのでは、お前が家に帰って来た翌日に迎えたあの朝さ。それ以外にも、お前と旅をしたときに味わったすがすがしい朝もあった。山深いホテルで味わった、新鮮な朝さ。それは確かに、空気がきれいなほど、人里から離れれば離れるほど、いい朝を迎えられる、というわけなのさ。特別なのでは、山道で踏み迷い、ママらと洞窟の中で迎えた朝のことを思い出すよ。


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349

あれはずっと昔の子供の頃で、それだけに一層、新鮮で、強烈に、ぼくの胸に刻み込められることになったのだろうけれど、あれだけは例外さ。だって、あんな経験なんて、めったに経験できるものじゃないんだからね。原始時代ならいざ知らず、現代において、見知らぬ洞窟で一夜を明かすなんて、およそあり得ないことだからね。――でもあれは、貴重な経験で、しかも、ぼくの一生でも最も素晴らしい朝だった、と今でも思っているよ。本当に、自然の中の、しかも、最も恵まれた夜明けの経験だった。あの経験だけは、思い出すごとに、感動と驚異の目でもって、思い出さずにはいられない。その外にも、貧しいアパートでの朝のことも思い出すよ。全く、いろんなことがあった朝。そして今、このホテルでの朝があるのさ。朝って、本当に素敵だね。毎日がそうだというつもりはないけれど、そういう特別な朝というものもあるっていうことなのさ。朝っぱらからおかしなことを電話して、御免よ”

 “いいえ、面白いわ”とリサは言った、“兄さんの感動がここにも伝わって来るみたい。きっと素晴らしいところにいるんでしょうね。都会に縛られているあたしには羨ましいぐらい。本当に羨ましいわ”

 “ともかく、朝、目を覚まして、そういうことが言いたかったのさ”と、ぼくは言った、“そしてぼくはこれから、お前と昔いた、あのレビエに行く。あの頃の思い出にふけってみるつもりさ。あそこは美しいし、本当に、都会とは違ったよさが、周囲に満ち満ちているところさ。ぼくはきょう、そこへ行くことができるのを、幸運だと思っているよ。だってこんないい春に、ぼくはあの思い出の地へ行くことができるのだから。でき得べばお前も一緒に、と言いたいところだが、そうも行かないだろうしね。でも、心はお前と一緒のつもりさ。それで電話をしたんだ。このことだけは是非、お前に伝えておきたいからね”

 “そう。ありがとう”とリサは言った、“今からレビエに行けるなんて、本当に羨ましいわ。だから兄さん、行けないあたしの分まで行って、よく観察してよ。そして話を聞かせて頂戴。それを楽しみに待っているわ”

 “うん、そうするつもりさ”と、ぼくは答えた、“それじゃ、余り邪魔をしてもなんだし、この辺で切るよ。――でも、今晩また電話をするからね。そのときにまたゆっくりと話すことにするよ。それじゃね”

 “ええ、じゃ、今晩ね”とリサは言った、“兄さんの電話、待っているわ。それじゃまた”

 電話はそこで切れた。ぼくは窓辺に歩み寄り、すっかり晴れ渡った、美しい、真青な空を見上げた。一日の始まり。きょう行く場所に、何が待っているのだろう? そう思うだけで、心は、自然と沸き上がるあの雲のように、わくわくとして来るのだった。

 

 空が、まぶしいほどに青かった。ぼくは車の中にいた。運転手は昨日と同じ運転手、ベルノ氏だった。この日、行くべきルートはいろいろ考えられたが、何はともあれ、まず、レビエのぼくたちの館を見てみたかった。きのうに比べれば、距離は遠かったが、それほど遠いというわけでもない。


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350

生涯に二度、クリスチーヌが訪れたという、湖畔近くの素晴らしい木造の館。ぼくの心は早くも、昔、ぼくとリサが暮らしたこともあるその館へと飛んでいた。今は誰が暮らしているのだろう。クリスチーヌは、一度目は、レオノールと愛を結ぶ為に、そしてもう一度は、永遠の別れの為に、あの館に訪れたのだ。ぼくは、その部屋の隅々まで、記憶をたどり、思い描くことができた。そこへ、早く行きたかった。そしてもし願わくば、あそこの生活を、もう一度、取り戻してみたかった。あの事件さえなければ、リサが、ぼくの旧友からの暴行を受けるというあの事件さえなかったならば、ぼくたちは今でも、平和に、あそこに住むことができたかも知れないところなのだ。

 車は、素晴らしい農村のあいだを縫って走っていた。周りは一面、緑の畑が続いていた。沿道に茂る濃い雑木林を抜け、ポプラの木の茂る、さわやかな家畜小舎の見える、有刺鉄線を張りめぐらせた牧場を通り、次々と変わる風景の中を、ほとんど車の走らない舗装道路に沿って、風を切ってタクシーは、軽快な速度で走った。ぼくは、シートにもたれかけ、次々と変わり行く、春のさわやかな景色を眺めていた。しかし、流れ行く景色を見つめるぼくの心の内は、なんと雄大に、大きくふくらんでいたことだろう。

 

 長い距離を走り、ついにぼくは、憧れの湖畔までやって来た。ここの湖は、いつ見ても美しい。水は澄んでいて、敷き詰められたような砂利が、ゆるやかに波打つ水面から透けて見える。湖畔の少し沖あいには、葦が茂り、遥か向うの岸辺には、したたるばかりの緑と、その緑の間から勇壮に姿を現す、真白な壁がまぶしいばかりの僧院と、そして、空は澄んで、雲がさわやかだった。車を止めて水辺までやって来たぼくは、思わず、水に手をつけてみた。冷たくて、気持ちがいい。

 “それで、君の言っている館というのは、この近くなのかね”と、降りて来た運転手が、ぼくを見て言った。

 “ええ、もうすぐです”と、ぼくは振り向いて、言った。

 沖合には、白い帆をなびかせたヨットが見える。ここはなんと静かで、のどかで、平和なんだろう。ぼくは、この湖を再び目にして、その昔、リサと一緒に暮らしていた日々のことを、ふと思い出した。あの頃が、ぼくの人生の第二の幸福期―― 本当に幸せで、何不自由なく、思い煩うこともなく、暮らすことができた。彼女の明るい笑顔が、ふと、ぼくの心の中を過った。そう、ぼくは今、その館へ帰ろうとしているのだ…

 

 湖が見え隠れする、雑木林の曲がりくねった道をしばらく走ると、やがて、森の茂みのあいだから、あのなつかしい二階建ての、破風のある館が姿を現した。それは、湖畔からは少し奥に引っ込んだ、小高いところにあり、背後には、深い森と、地層が向き出しとなった、ほぼ絶壁に近い山が見えていた。それにしても、あのときと少しも変わってはいない。館の手前の芝生の緑が、まぶしいほどだった。ぼくを乗せたタクシーは、次第にその館へと近付いて行った。現在は、誰か住んでいるのだろうか? ぼくにはそれが一番気がかりだった。


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351

 

 タクシーは家の前で止まった。それと共に、家に誰か住んでいることが分かった。ぼくは車から降り、なつかしい館の全貌を見つめながら、玄関のドアへと歩み寄った。するとそのとき、中から、笑いながら勢いよく飛び出して来る子供がいた。まず最初に、年の頃五つぐらいの、黒っぽい上着と、薄いブルーのズボンをはいた男の子が飛び出して来たかと思うや、続いて、その子よりは体も大きく、年の頃十ほどには見える、髪の毛を長くし、薄いピンクのセーターと、短い真赤なスカートをはいた女の子が笑いながら、その男の子を追いかけて行き、ちょうど家の前の芝生の上で追いつき、その男の子を芝生の上で倒すや、お互いにキャーキャーと騒ぎながら、とっ組合いを始めるのだった。年の頃十ほどの女の子が、騒いでいる拍子に、赤いソックスの可愛い足や、スカートの奥のパンツが見えたりするのが、ぼくの目に、いささかまぶしかった。芝生の上で、互いに組みつき、ころがったりしているこの二人は、きっと、姉と弟なのだろう。ぼくは、彼らのそばに歩み寄り、家の人のことを聞こうとした。しかしそうするまでもなく、玄関から、二人の騒動をとがめるかのように、一人の若い婦人が姿を現した。黒いモダンなドレスで身を包んでいた彼女は、なかなかの美人だった。彼女は、子供のところへ行こうとするよりも前に、ぼくの存在に気づいたのか、振り向いた。

 “何か御用なんですか?”彼女は、ぼくと、ぼくの後ろにあるタクシーを見ながら、怪げな表情をして言った。

 “実は”と、ぼくは言った、“昔、この家に住んでいた者なんです。事情があって手放したんですが、もう一度見たくてやって来ました。今は、あなた方がお住まいなんですか?”

 “ええ、そうですけど”と言う彼女の表情は変わらなかった。

 しかし、ぼくが怪しい者ではないらしいと分かると、彼女の態度は幾分やわらいだ。さっきまでほたえていた子供たちも、今は騒ぎをやめ、芝生の上に足を投げ出した恰好で、いきなり登場したぼくの方を見つめていた。

 “わたしどもは五年程前に、この家を買い取りました”と、ぼくが尋ねるまでもなく彼女は言った、“今も、とってもこの家を気に入っています。まあ、お入りください”

 彼女はそう言って、ぼくを家の中に案内した。

 

 そうして案内された家の中は、家具、調度を除いて、昔と少しも変わっていないことに気がついた。この玄関。そして、この居間。昔通り、簡素で、飾り気のないところなど、少しも変わってはいなかった。ただ、置いてある家具や、ソファーなどが、少しモダンで、以前よりやや明るい感じがするところが、異なっていた。家人の趣味なのか、壁にはやたらと、モダンな絵や、人物の写真のような額が飾られていた。ぼくたちが案内されたのは居間だった。そこの、ゆったりしたソファーに腰を降ろすと、子供を追っ払ったばかりの若い夫人が、ぼくたちのところにやって来て、腰を降ろした。

 “それで?”と、彼女は言った、“昔、ここでお住まいだったんですか?”


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352

 “時期的に言えば、きっとあなた方が、ぼくたちが出て、最初に買い取られた人のはずです”と、ぼくは言った。

 “でも、どういうわけで、また、この家を見に来られたんですか?”と、彼女は尋ねた。

 “いえ、とりたてて、これといった理由はありません”と、ぼくは落ち着いて答えた、“ただ、旅の途中でこの近くを通りかかったものですから、ついなつかしくなって、寄ったまでです…”

 “じゃ、旅をしていらっしゃるんですね”と、彼女は言った、“現在のお住まいは遠いんですか?”

 “ええ、ドシアンからです”と、ぼくは答えた。

 “そんなに遠いところから!”と、彼女は、驚いたように言った。

 “実はね”と、ぼくは正直に言うことにした、“旅と言っても、普通の旅じゃないんです。実は、ぼくは、自分の過去を尋ねる為に、ここまでやって来たのです。自分の過去、と言っても、ぼく自身のではなく、ぼくの親の過去です。その場所が、この辺に集中しているものですから、ついでに、と言ってはなんですが、この家にも寄せてもらったわけなのです…

 彼女は、納得したようにうなづいた。

 “失礼ですが、御両親はおられるのですか?”と、彼女は尋ねた。

 “ぼくの父親は亡くなりました、まだ子供のときに”と、ぼくは答えた、“そしてぼくの母もまた、まだ子供のときに、行方不明となってしまったんです…”

 彼女は、悪いことを聞いたとばかり、表情を曇らせた。

 “それで、過去を尋ねにいらっしたのですね”と、しばらくしてから、彼女は言った、“それで、場所はどの辺なんです?”

 “母が昔住んでいたところは”と、ぼくは言った、“リトイアの近くのサビーノの村です。――でもその他に、母の両親がいたロアズマの村へは、つい昨日、行って来たばかりです。実は、この家は、ずっと昔、母の父親が、ぼくにとっては、祖父ですが、その人が建てた家だったんです…”

 “そうですか!”と、彼女は驚いたように言った、“その話しは、今初めて聞きました。 ――でも、なかなかセンスのある、いい家で、みんな気に入っているんです。あなたは、ここには、かなり長い間、過ごしていらしたんですか?”

 “いいえ、ほんの半年間程のあいだだけです”と、ぼくは静かに答えた、“事情があって、引っ越しのやむなきに至ったんですが、今でも、いい思い出として残っています。二階の書斎はまだ残っているでしょうか? あそこから見える湖の景色は、何んとも言えぬ、味わいの深いものでした…”

 “もちろんですとも”と、若い婦人は答えた、“あなたのおっしゃっている部屋は、今では、子供用に使わせてもらっているんです。あなたのおっしゃる通り、あそこから見える景色は、素晴らしいものですわ。


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353

本当のところ、わたしどもが使いたいぐらいなんですけど、どういうわけか、子供の部屋になってしまいました。なんでしたら、お見せしましょうか?”

 “よろしいんですか?”と、ぼくは尋ねた。

 “ええ、少しぐらいなら、別にかまわないでしょう”と、若い婦人は答えた。

 そう言って婦人は、立ち上がり、奥の部屋へ行って、子供たちと何か、二言、三言、会話をかわしているようだった。しばらくすると、彼女は笑顔で、ぼくたちのいる居間に戻って来た。

 “今、子供に話して来ました。別にかまわないから、どうぞということです。――でも相手は子供でも、一言、断りを入れておかなくてはね”と言って、彼女は、にっこりした、“それじゃ、案内しましょうか”

 ぼくたちは一緒に立ち上がり、彼女の後に続いた。

 なつかしい木製の階段が、やがて、ぼくの前に現れた。二階から、その階段を伝って、さっきの男の子がゆっくりと降りて来た。きっと、自分の部屋が見せられる、というので片づけ物をしたのだろう。その表情は楽しそうではなく、上がって行くぼくたちとのすれ違い様、恨むような目つきで、ぼくを見た。さらに、階段の一番上には、姉の方が、例の赤いスカートをつけた姿で、ぼくたちが上がって来るのを、静かに見下ろしていた。しかし、なんとなつかしい手すり、そして、この壁なのだろう。そのひとつ、ひとつが、ぼくには見覚えがあった。ほんの半年程の間だけだったが、ぼくとリサとは、この階段を、何度行き来したことだろう。二階の階段の上から見降ろす、十才ぐらいの少女。その少女が、かつては、リサであったこともあったのだ。ぼくは、そんなことがあった日を、胸に思い描こうとした。

 そしてとうとう、二階のあのなつかしい部屋へと、ぼくはやって来た。

 窓が、そして、その向うに茂る樹木が、いきなり目に飛び込んで来たその光景が、あの頃と少しも変わっていないことに、ぼくは驚いた。中の家具は、子供用にきちんとアレンジされていても、部屋そのものは、少しも変わってはいないのだ。ぼくはすぐ、窓辺に歩み寄った。すると、あのなつかしい光景が――春のうららかな日にはうっとりと眺め、また、雨の降る曇り空のときは、沈んだ面持で、そして、リサと共に眺めたこともあったあの光景が、再現されたことを知った。窓のすぐ外側に茂るシナの木も、そしてその向うに茂る柳の木も、昔のままで、心なしか、一層たくましく茂っているように、ぼくには思われた。そしてその向うに、深くて、暗い雑木林のあいだに、まるで真夏の海のように青い、澄んだ湖が波を立て、帆をつけたヨットがその上を横切って行く様が、ぼくの目に飛び込んで来た。空も、雲ひとつないほどに澄み、庭の木々がまぶしく、そして揺れ、申し分ないほど爽やかだった。ぼくは、それらを、かつての自分の部屋から眺め、あの当時とほとんど何も変わっていないことを知った。――何も、ここにいる人たちの生活を変えようという気持はない。しかし、彼らが来る以前にも、ここには、幸せというものが存在したことを、言いたいのだ。


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354

あの当時は、ぼくとリサの二人だけの生活だった。レオノールが病院で悲しい死を遂げた後、急に、この辺りには春が訪れたみたいだった。まるで、レオノールを冬が連れ去ったみたいに、もうレオノールの痕跡はなく、庭には一斉に花が咲き出し、暖かくて、歓喜の春がやって来て、自然、ぼくたちの心もほころんだ。やがてリサは、リランの遊園地に職を見つけ、ぼくは、ここで静かに、読書をし、心の整理を行った。

 ――それが、一番幸せな日々だった。午前中、音楽を聞き、読書に疲れると、ぼくはよく、湖畔に散歩に出掛けた。静かに波が音をたてている波打ち際に立ち、広い湖と、大きな空を見つめていると、それまでぼくを悩ませていた観念も、過去も消え、心は自然と、ほぐれてくるのだった。ぼくは、波打ち際に沿ってゆっくりと歩き、河原の砂利や、湖畔に生える葦や、水鳥たちの飛び立つ様などを眺めた。ときおり、人々もやって来、恋人たちや、家族連れ、あるいは、子供たちだけで遊んでいる人々と、すれ違った。ぼくは彼らを見、それまでぼくを苦しめて来た暗い過去から、ぼくを解きほぐそうとし、もっと、本当の幸せへと、自分を向かわせねばならないと思った。まだセーレンが生まれる前だったが、リサが、この波打ち際で、子犬と戯れていた。小さい子供たちが、子犬と遊んでいたのを見つけ、彼女は思わず、その中に入って行ったのだ。そんな日もあった。ぼくは、楽しそうに子犬と遊んでいる中腰の彼女を見、もっともっと、この幸せは広がって行かねばならないことを思った。しかし、そんなことについて彼女に言うことは、ほとんどなかった。ぼくは彼女の日常の生活の話しを聞き、楽しい遊園地での出来事を聞くだけで、心は満たされた。彼女の楽しい思いが、ぼくにも伝わって来、ぼくの生活も満たされた。――そうして、静かな波打ち際で、一日は暮れて行き、ぼくは夕陽を見つめながら、湖畔に立つ、我が家へと帰って行った。すると、その頃になると、風が出て来、庭のすべての木々をざわざわと揺らす頃になって、一日の勤めを終えたリサが、歩きながら帰って来るのだった。たいてい何か買物をし、手には新鮮な果物とか、ワインとか、その他の品物を持ちながら… そうして一日は過ぎ行き、夜が訪れた。空には美しい星々がいっぱい輝き出し、周囲は恐ろしいほど、闇に包まれて、静かだった。しかし、近くに他の人々の家もあるせいか、寂しい、という気持は、一日もしたことがなかった。家の中は明るく、しかもリサがいて、テレビを見たり、音楽を聞いたり、ワインを飲んだりして、過ごした。 

 …ぼくは、そんな日のことが、明るい窓の外を眺めながら、ふと、脳裏に過るのを感じた。しかしもちろん今は、その日から随分隔たり、変わってしまったことを感じた。ただ庭には美しい花々が――黄色いくさのおうや、赤いせんのうなどの野性草、アネモネや、キンギョソウや、クレマチスなどの花、そして忘れられないあの白いバラの花までが、今は春だとばかり咲いているのが、ぼくの目に止まった。他の花々は、いくらか入れ替えがあったとしても、あのバラの木と、バラの花だけは、今も変わってはいない。リサは、あの庭に出て、そして、心地よさそうに、バラの花の匂いを嗅いだのだ…

 空は青く、風がさわやかだった。ぼくは思わず、窓から体を乗り出し、空と、庭と、それらの花々を眺めた。


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355

 “本当にいい眺めですわねえ、ここから見ていると”と、不意に、若い夫人が声を掛けた、“そしていつも思うんですよ、この庭を見るたびに。うちの子供って、幸せ者だって。それなのに子供らは、庭のことなんか、ほとんど関心がないんですねえ…”

 ぼくはその言葉で振り向いた。明るさに目が慣れていたせいか、少し暗い室内に立っているそのほっそりした婦人の姿が、一瞬、ある人に見えて、ぼくはドキリとした。しかしすぐ彼女がここの家の他人だと分かって、ぼくの心は平静に戻った。しかし同時に残念でもあった。そのとき、ぼくが見たものは、母親の幻であり、ぼくが残念だったのは、ここに、ぼくたちが住んではいない、という事実だった。だが、この婦人たちの幸せの領域を、今さら、ぼくたちがどうして侵すことかできよう?

 “子供たちって、概して、そういうものですよ”と、ぼくはしみじみと言った、“あとで大きくなってから、初めて、子供の頃の良さというものが分かって来るんです…”

 “そうだとよろしいんですけど”と言って、婦人はにっこりと笑った。

 ふと、ドアのところを見ると、さっきの姉がそこに立って、自分の部屋に他人がちん入しているのを不服そうに、ぼくを見ていた。ぼくは、彼女の恨むような視線に気づき、いつまでもここにいることはできないことを悟った。

 “どうも有り難うございました。ぼくは、丁寧に婦人に礼を言い、出しなに、小さな姉の頭をなでてやって、部屋から出て行った。

 

 他にも、あのなつかしい、書斎や台所、そしてバス・ルームまで見せてもらって、ぼくたちは居間に来た。それぞれの部屋は、この家の住人によって、ぼくたちの頃とは異なった装いをしていたが、それでも、壁や床や天井など、当時の面影を残しているところもあり、なつかしい思いをさせてくれた。あの事件のあった台所は、今も、昔と変わらぬ姿を見せてくれたことに、驚きもし、また同時に、感謝もした。バス・ルームも、置いている物さえ異なれ、浴槽などは、当時そのままだった。ぼくはかつてここで、何度、快い入浴を楽しんだことだろう。リサもここで、ぼくと同じ入浴を楽しんだはずなのだ。しかし、もともと狭い部屋だった書斎は、ここの主人は電機に強いと見え、ぼくの頃よりは、かなり本の数が減り、その代わり、オーディオやその他の音響製品などで、部屋がふさがっている、という感じだった。もちろん、ぼくが部屋の隅に置いていた机も椅子も、影も形もなかった。その代わり、厚い敷布か敷かれ、床に直に坐り、音楽を楽しんでいるようだった。

 ぼくはもうそれだけで十分満足することができたので、帰ろうと思ったが、若い婦人が、ぼくを引き止め、もう一度、居間へ案内した。縞模様のゆったりしたソファーにぼくたちが腰を降ろすと、肘掛け椅子に若い婦人は腰を掛け、ぼくに話しかけて来た。

 “ここには、半年程おられた、ということですが…”

 “そうです。事情があって、手放さねばなりませんでした”と、ぼくは落ち着いて答えた、“本当なら、もっともっと、ここで暮らしていたかったんですが…”

 そう言うと、婦人はにっこりとほほえんだ。


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356

 “もし、そういう事情がなければ、あたしたち、ここに暮らすことはありませんでしたわね”と、婦人は、笑顔のままで言った、“でも、あなたと、見ず知らずのわたしどもが、この家が元でお会いした、というのも何かの縁です。また見たい、というのであれば、いつでも来て下さって結構ですよ”

 “ええ、そう言ってもらって、嬉しいです”と、ぼくは答えた、“――でも、もう当分は、来ることもないでしょう。ここはあなたの家ですし、よその者がお邪魔すれば悪いでしょうしね。それはそれとして、ぼくはここから見える湖にも、後で寄ってみたいと思っています”

 “ええ、なかなかいい湖ですよ”と、婦人は言った、“向こうにはきれいなお山が見えて、なかなかの壮観です。これからは鱒がとれて、よく釣りに出かける人の姿も見かけますのよ。岸から釣ったり、小船に乗って釣ったりで、なかなかのんびりしたいい光景です。うちの主人も釣りが好きで、よく釣りに出かけたりするんですよ”

 “それはいい趣味ですねえ”と、ぼくは言った。

 …窓から外には、日射しのいい、緑濃い、いい庭が見えていた。同じ家の中でも、住人が変われば、生活、風習も、これほど変わるとは、誰が予期できたことだろう。この家を初めて建てたレオノールに、現在のこのような生活を予想することが出来ただろうか?

 若い婦人は、なおも、自分たちの生活のことや、ぼくのことを聞き出そうとしたりしたが、ぼくはただ形式的に答えるだけで、関心は既に他に移っていた。かつてここに住んでいた頃、それほど強く感じなかったことだが、ここには、あのクリスチーヌが二度、訪れたことに今、強い関心を抱いていた。クリスチーヌは、一度は、この家の中に通され、この家の各部屋を見て回ったかも知れないのだ。しかし、そんなことを、現在の住人はもちろんのこと、この辺に住む誰が知っているだろう。そのうち、ぼくとリサがここで暮らしていた、ということさえ忘れ去られてしまうような、そんな時代がやって来るだろう。その頃には、この辺りは、またどれほど変わってしまっていることだろう。――しかし今は、クリスチーヌがこの部屋にも訪れたかも知れないということが、ぼくの心を捕らえた。すると、ぼくの、天井や壁や床や、窓の外を見る目も、自然変わってくるのだった。そして、出来れば、その時の状況を再現してみたかった。若き日の、レオノールの得意気な表情や、そして美しいあの好奇心に満ちたクリスチーヌが、生きて再び、この部屋の中で姿を現して欲しかった。しかしそれは、我がままなぼくの、かなうことのない、不可能な夢に過ぎないのだろうか…

 “…それで、この前は、山の中で迷いかけましてねえ。あれっ、聞いていらっしゃらないんですか”

 婦人の、驚きとも、非難とも取れる声で、ぼくはふと、我に返った。

 “ええ、済みません。ちょっと他のことを考えていたものですから”と言って、ぼくは謝った。


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357

 “この婦人は、家族揃って、山へハイキンクに行ったときのことを話して下さってるんだよ。とてもいい話しだ”と言って、運転手がぼくに、婦人の話しの内容を教えてくれた。

 “そうですか。それはいいですねえ”と言って、ぼくは相づちを打ったが、話しもそれで終わることになった。

 ぼくは、その親切な婦人に何度も礼を言い、立ち上がった。

 

 いざ家を去ることになった、明るい、窓の大きな玄関のところにやって来ると、ぼくは立ち止まった。入口の、別にこれといって特徴のない、格子窓状の両開きのドア。その透き通ったガラスの向こうに、かつては、帰って来たリサが姿を現すこともあったが、その遥か昔には、クリスチーヌが、晴れた庭の緑を背景に、姿を現したこともあったのだ。それは、ほんの二度、たった二度だけだった。ぼくはそのとき、言い知れない感情が込み上がって、その場に居合わせたい、という気がした。一度でもいいから、クリスチーヌが、ガラスのドアの向こう側に姿を見せて欲しい、という強い思いがして来たのだった。しかし、そんなことはおよそ、不可能なことだった。ぼくはただ、今見える、明るいドアの外の景色から、それがどんな状況だったかを、想像する他はなかった。二度目にクリスチーヌがやって来たときも、空はきっと、この日のように晴れていたに違いない。庭の樹木も、風に揺れる花々も、この日のように、光り輝いていたに違いない。しかし、二度目のときクリスチーヌは、ただ玄関のドアを叩くだけで、家の中に入ることはついになかったのだ。レオノールの冷たい声を浴び、あきらめた表情で、このドアから去って行く、そんなクリスチーヌの後ろ姿が、この明るいガラス張りのドアを通して、光まぶしい庭のどこかに見えるような、そんな気がした。

 

 “さようなら”と言って、ぼくは、玄関に立ちつくす若くて、きれいな婦人と別れた。この家から去るのがつらいような、いつまでも心に残る別れだった。去り際になって、家の子供が、好奇のまなざしで玄関まで出て来、ぼくに手を振ってくれた。ぼくも手を振り、彼らとの束の間の出会いと、その別れを惜しんだ。

 それに反し、運転手は割り切ったものだった。彼は、車のドアを開け、ぼくがやって来るのを待った。“そう急ぐなよ”と、ぼくはその車を見て、心の中で思った。ぼくは、次には、よくこの辺を散策した、湖のほとりに行きたかったのだ。歩いてでも十分行ける距離だ。車に乗ると、すぐそのことを言った。彼はその通りに少しだけ、車を移動してくれた。

 

 岸辺の波は、穏やかに砂利を洗っていた。水に手を浸すと冷たかった。なつかしい。ただなつかしかった。リサと一緒にここを歩いた日――そんな日のことが急に思い出されて、とてもなつかしくなった。ぼくは無意識に、砂利の一つを手に取り、それを力いっぱい沖に向かって投げつけた。石が遠くに落ち、幾重もの水の輪を描いた。すると、空しい気がした。ここで、こうして、一人でいるのが、なぜとはなしに空しかった。


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358

運転手が、向こうの松林の陰に止めた車のそばに立って、タバコに火をつけながら、そんなぼくを見つめていた。それから、彼は、まぶしそうに空を見上げた。本当にいい空だ。まっ白な雲が、青い空に浮かんでいる。水は、澄んで、きれいで、どこまでも、あの、遠くに山が幾重にも重なって見える対岸の、青味がかった水平線まで、続いていた。岸辺の周囲は、たいてい深い緑におおわれていて、家らしい家は、ほとんど見えることがない。それらは、ぼくのこの家と同様、深い樹木の陰に隠れているのだ。それでも時折り、垂直な樹木の陰に、白い、民家らしいものが、ちらほら見える。この湖は、全く無人の湖ではないのだ。――でも昔は、まるで無人の湖かのように、ぼくはリサと、この湖を占領したことがあったのだ。それほど静かで、人影を見ることは、めったになかった。それで、リサと、石を投げたり、追いかけっこをしたりして、ここで遊んだ。そんなときがあったのがまるで嘘であるかのように、波は静かに、岸辺の砂利を洗っていた。昔と変わらず、今も静かだ、ただ遠くから、水鳥の鳴き声が聞こえて来る以外は…

 

 …そうしてぼくはタクシーに乗った。ぼくの幸福な思い出の残る湖を後にして、一路リランヘと走るタクシーの中で、ぼくは、やけくそな気持になり、どうとでもなれ、という気持だった。たった今味わった、ぼくのこの辛い気持を、いったい何が、慰めてくれるというのだろう。ぼくはシートにもたれ、まだその姿を見せてくれる、流れ行く湖の景色を見るよりは、いっそのこと、目を閉じてしまいたい気持だった。そんな、辛い気持を引き起こす景色など、見るぐらいなら、見ない方がよっぽどましだ。そう、ぼくは、動くタクシーの中で、本当の、現在の自分の孤独を、見つめたのだ…

 

 クリスチーヌもレオノールも、もうこの世にはいない。そして、ママも、セーラも、リサも、みんな、このぼくから離れようとして行っているみたいなのだ。だとするなら、残されたぼくは、ひとりぽっちで、どうして生きて行くことが出来るだろう…

 人間は孤独なとき、本当に絶望的な気持になるときがあるものなのだ。しかしそれが、本当に救いなきとき以外は、その、どん底の状態から、必ず浮かび上がる。ぼくもそうだった。車の外が、春の明るさで満ちていたから、その光に誘われて、ぼくの沈んだ気持も這い上がった。まるで暗い地底の洞窟の底から這い上がって来たかのように…

 

 ぼくはこの日の午後、再びリランに戻って来て、タクシーの運転手と別れた。なぜかしら、その日の午後を、ひとりで過ごしたい衝動にぼくはかられたのだ。リラン市街で、見ておきたい場所の移動は、バスや、別のタクシーでも十分行うことができる。ぼくが昼食後、まず行ったのは、リサがかつて勤めていたレストランのある公園だった。ここへは、時々移動遊園地がやって来て、乗り物や、射撃などの店が並び、人々をしばらくのあいだ賑やかせることがあった。春からはその季節に当たっていて、リサが、リランで初めて職を捜したのも、その遊園地でだった。


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359

彼女は、遊園地の賑わいのあいだ、くるくる回る乗物の係を担当し、遊園地が去った後は、公園のレストランに職を見い出した。深い森におおわれたような公園は、まだ、移動遊園地が来る時期ではないせいか、し~んとしていたが、かつてリサか勤めていたレンガ造りの小さなレストランは、今も営業を続けていた。ハウスの前の野外テーブルに幾人かの客が腰掛け、ぼくもついなつかしくなって、空テーブルのうちのひとつに腰を掛けた。間もなくして、かつてのリサぐらいの若い娘が注文を取りに来たが、ぼくは、コーヒだけを注文して、レストランを取り巻くように茂っている木々に目を向けた。さわやかな風と、柔らかい日射しとが、このテーブルにいるぼくのところに降りかかって来た。穏やかな春の日射しが、心地よくぼくを酔わせた。ぼくは椅子に腰掛け、やがて若いウェイトレスが持って来たコーヒをすすりながら、これから行くべき道筋について考えた。――レオノールが五年も刑に服したという、街はずれの刑務所は、これから行かなければならないところだった。もちろんその中にいる現在の受刑者たちに会いに行く為ではない。だから、外から見るだけにとどめるだろう。それから先は? レオノールの勤務先だが、一時、勤めていたことのある小さな出版社など、現存するかも疑わしく、捜し出すことは困難なことだろう。いずれにせよ、この日の午後は、大した用事はない。ぼくはただのんびりと、かつてリサも勤めたことのあるこのカフェレストランの野外テーブルで、春の公園の静かな景色を眺めているだけだった…

 

 そのようにして一日が過ぎ、そして夜になった。ホテルの華麗な食堂での孤独な夕食後、ぼくは自分の部屋に戻って来、ベッドの上にゴロリとあお向けに寝た。薄い、クリーム色の天井が、ぼくの目を優しく包んでくれた。窓には薄いレースのカーテンが、風のせいか、かすかに揺れていた。ぼくは目をあけたまま、この日一日の出来事を、そしてこの旅の意味するところのものを、その他、人生の全般について考えをめぐらせた。

 公園のあと、郊外の刑務所を、高いコンクリートの塀とその上に有刺鉄線をめぐらせた頑丈な壁に守られた刑務所を訪れ、しばらくのあいだ外から眺めたが、ただ壁の上の空が青いという以外、なんの感慨も、感情も浮かんでは来なかった。人が死ねば、それら物体は、もはやなんの意味も成さなくなってしまうのだ。レオノールがもしそこに閉じ込められているものならば、ぼくは喜んで会いに行きもしただろう。だがレオノールが閉じ込められていたのは、もう何十年も昔のことなのだ。ただぼくは、刑務所の入口の鉄格子を目にしたとき、ふと、自分がかつて、牢獄に閉じ込められていたときのことを思い出した。あのときはまだ何も分からず、ただ生きるのが必死で、罪も犯しはした。そして、セーラが、リサが、面会に来てくれたのだ。それは、暗い、青春の思い出のひとつだった。しかし、今となっては、あのような刑務所暮らしが、なつかしく感じられた。脱出口のない絶望の状況が、まるで神にまみえる直前の兆しのように、ぼくには思われたのだ。人は、どん底になればなるほど、不思議なことだが、幸福というものや、その貴さが、目に見えて来るものなのだ。満たされた状況にあるときには、決してそれは見えて来はしない。ぼくは、冷たい刑務所の中で、もう少しで、神を見ることができたかも知れず、もう少しのところで、幸せな死というものを迎えることができたかも知れなかったのだ。


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360

しかし、その死んだ状況からぼくを蘇らせたのは、他ならぬ妹たちだった。彼女らが、暗い井戸の底のぼくに声を掛け、ロープを降ろし、底に沈んでいるぼくの救出にかかったのだ。ぼくはもう、光というものは、地上の光ではなく、神の光だとばかり信じ切っていたのに、再び地上の光に打たれて、目がくらむと同時に、生き返る思いがした。それこそはまさに、神における復活の経験だった。帰って来たところは、やはり貧しいアパートには違いなかったが、そこには妹たちがいて、ぼくは、地上の生活の良さというものを、しみじみと味わった。――そんな時期があったことが、今となってはなつかしかった。いろいろなことがあったぼくの生活。なぜ人は、色々なことを経験し、年を取って行くのだろう。なぜ、クリスチーヌとレオノールは死に、それっきりなのだろう。それっきり、長い歴史の中から、永遠に姿を消さねばならないのだろう。ぼくが、本当の復活を願うとするなら、それは、彼らの人生ではなかったろうか。しかし、人は、死ねば美しい存在となるのかも知れないが、生きていれば、鼻もちならぬ存在であったかも知れないのだ…

 …ぼくはふと、自分の人生の原点に、「人形の死」があったことを思い出した。あの強烈な思いは、いまだに忘れることがない。遠い、遠い、まだ幸福のただ中にあった幼い日々の中の亀裂―― それが、どのような迂余曲折をたどってかは知らないが、ぼくのその後の人生に、深い爪痕を残そうとは思いもよらないことだった。それは、その後の母との別れ、犬の死、レオノールの死、などによって強化されて行ったのだ。その最初の経験である「人形の死」は、それほど大きな衝撃を、ぼくの心の中に残したのだった…

 様々な、消えては浮かぶ追憶の中から、やがて、一人の少女が浮かび上がって来た。それは、ぼくのリサだった。他の、様々に出会った女や、少女たちのことを思い出しているうちに、彼女のことをすっかり忘れていたのだ。しかし、彼女はいた。今も、ここから何百キロも離れたところで、生活をしているはずだった。その彼女は、どんな生活をしているのだろう? そのことこそは、これまで、余り考えることのないことだった。しかし、このときになって、ふと、ぼくは彼女の生活のことが気になった。あの広い都会で、若い娘が一人、どのようにして生きて行っているのだろう? しかし、彼女のことを余り気にしなかったのには理由があったことにすぐ気がついた。ぼくは、彼女なら大丈夫だと、半ば安心していたのだ。誰にでも愛される彼女の性格。並の男ならきっと目をつけずにはいられない、その可愛らしさ。彼女は、女としての魅力なら、たいていのものが備わっていた。彼女は可愛いだけではなく、男心を虜にするような不思議な魅力さえあるように思われる。その人なつっこさや、美しい笑顔を目にすれば、普通の男なら、彼女のことをほおっておけなくなることだろう。だから、彼女の生活の中で、常時ひとりしか男がいない、ということは考えられないことだった。彼女なら、常時、2~3人は相手にしているに違いない。広い都会の中で、様々な誘惑の手が、彼女のところに延びて来ているに違いない。むしろぼくが心配すべきなのは、彼女がその選択を誤らない、というそのことだけだったのだ。だが表面上は愛想が良く、人なつっこい彼女も、その機転の効く頭の中で、様々に考えをめぐらせていることだろう。


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361

彼女は、様々な男の誘惑の中から、賢明な相手を選び出すであろうし、選択に過ちが起ころうとは思われなかった。だから、彼女なら都会でも十分にやって行ける、とぼくは確信していたのだ。彼女はむしろ、都会に向いている、とさえ言うことができるだろう。そしてもし彼女を成功に導くことがあるとするなら、それは、男なら一度は惹きつけずにはおかない彼女のその美貌なのだ。彼女の美しさは、全く申し分がなかったし、ぼくだって、かつて何度か、彼女はぼくの妹ではなく、恋人であったなら、と思ったことがあるほどなのだ。彼女の雰囲気の中には、そんな、男を虜にせずにはおかないような悪魔的なものが、ひそんでいるようにさえ思われる。リサに武器があるとするなら、まさにそれなのだ、とぼくは思った。それが、常時、男を惹きつけるのに役に立つだろうし、彼女を成功にも導くだろう。しかし、同じものが、彼女を破滅に導くかも知れないのだ。彼女の賢明さから見れば、それはほとんどあり得ないように思われたが、しかし、わずかな可能性として残されるような気がした。だが、二、三の危機はあるにしても、おおむね、順風満帆で、彼女は生活をして行くに違いない。そのことを思うと、ぼくは少し羨ましい気さえして来た。ぼくにはあんなに冷たかった同じ都会が、美しい彼女には優しさの微笑みを投げかけるとは。しかし、ぼくの為にではなく、彼女のために、それはいいことなのだ。――ぼくは、彼女の、毎日の、生き生きした生活ぶりのことを想像した。彼女のあのアパートで毎朝目覚め、同宿の女友だちポーラと軽い朝食を済ました後、ショルダーバックを肩に下げて、生き生きと、勤め先を目ざして、部屋を出て行くだろう。歩道でも、地下鉄の中でも、肩をいからせ、さっそうと風を切って歩く彼女の姿は、充実そのものなのだ。通勤途上で、後ろから、誰か知り合いの男から声を掛けられでもすれば、彼女は喜んで振り向くことだろう。彼女のその笑顔には幸せが満ちあふれ、男は、彼女と並んで歩くだけで、その幸せが伝わってくるだろう。周りの光景も、パン屋や衣料品店、そばをかすめて走って行く車も、早朝の交通整理のおまわりさんも、他の歩行者たちも、街路樹も、みんな、幸せに包まれたものとして、その男の目に映ってくることだろう。なぜならそこに、幸せの原因である、美しいリサがいるからだ…

 ――ぼくは、そのような、美しいリサと話すことのできる男のことを、羨ましいと思った。ぼくは、ぼくとは異なった世界の中で生きて行く彼女のことを思うと、寂しい気持になるのを禁じ得なかった。彼女は「都会向き」であり、そしてぼくは、自分でもよく承知していることだが、「田舎向き」なのだ。この溝は、どのようにしても、埋まることはない。

 ぼくはなおも、彼女の、張りのある、充実した生活のことを、想像した。さっそうと街を歩く彼女。職場での、なごやかで、時には冗談も飛びかう、楽しい会話。そして、きびしいが、大いに心を燃えさせてくれる取材に、職場を飛び出して行くことだろう。あるデザイナーに、最近の流行をインタビューし、カメラに写し、再び職場に戻ってからレポートに書き、そして編集委員に提出して、雑誌の編集作業に、彼女自身も加わる。それが彼女の仕事なのだ。


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362

仕事は、夜遅くまで食い込み、議論を重ねることもあるし、早く引けたときには、女友だちや、職場の同僚たちと、レストランへ食事に出かけることもあるだろう。仕事の関係で、同僚の紹介で、全く見知らぬ人と、出会うこともあるだろう。それが、都会に埋没した彼女の生活なのだ。そんな中へ、都会のはぐれ者であるぼくが入って行く余地など、どこにあるだろう? ――それでも彼女は、電話をすれば、必ず、電話の受け口に出、きちんとぼくに応対してくれるのだった。ぼくは、そんな心優しいりサに、感謝すべきなのだろうか?

 そういう、意味あいが飛びかい、忙しさが常に追いたてている生活とは、正反対の世界にぼくはいた。振り返って自分のこのホテルの部屋を見れば、静寂そのもので満たされていた。まるで時計が止まったみたいに、忙しさなど、どこにも見られなかった。――しかし、そこにはっきりと読み取れるのは、寂しさと、そして、悲しさと、だった…