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第4章 ドシアン

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第4章

 

 …翌朝は、さわやかな秋空が広がり、朝露に湿った草木や花々が、あの大空から射し込んで来る心地良い日光を、程よく浴びていた。庭に降り注ぐ秋の日射しが、なんとも言えず、さわやかで快かった。ぼくは、いつものように書斎にいて、本を読んでいた。掛け時計の針は、まだ九時にもなっていなかったろうか、ぼくはふと、けさ見た夢のことを思い出したりもしていた。そのときだった、

 “ただいま”と言う、静けさを破る一瞬の女の声で、ぼくが振り向いたのは。

 それは、部屋の中からではなく、外でしたので、ぼくは、とっさに窓の外を見やった。

 ちょうど、庭を囲む生垣の向こうに、確かに、彼女の姿を認められたのだ。

 リサは、半袖のしゃれたピンクの花柄模様のワンピースに、つばの広い帽子を斜めにかぶり、左手には大きなカバンを下げて、生垣越しに、こちらに向いて立っていた。その姿が、生垣の花や、葉の茂みによくマッチして、とても可憐だった。

 ぼくは、その姿を認めるなり、本を置いて、すぐ表へ飛んで行った。

 ぼくが表に飛び出したとき、彼女は、ちょうど荷物を脇に置いて、木の柵で出来た扉を手であけようとしているところだった。ぼくはすぐ、彼女のそばに歩み寄った。

 “やっと着いたわ”と、彼女は、にこやかな表情で、ぼくに向いて、言った、“荷物が多くてね、ここへ来るまでが大変”

 “何も歩いて来ることなんかなかったのに”と言って、ぼくは、まだ開いていない柵ごしに、まずは彼女の頬にキスをした、“音もなく、そこに現れるんだから、ぼくはビックリしたよ…”

 “やっぱりここへ来るのは、歩くのが一番よ”とリサは言った、“――でも、本当に久し振り。それなのに、ちっとも変わってはいないわね、ここへ来る途中の道も、この庭も…”

 ぼくは、柵の掛け金をはずして、彼女を庭の中に入れた。彼女は、中に一歩踏み出すなり、庭の様子を、生き生きした瞳で、眺め回した。

 “だってさ”と、ぼくは、彼女の持って来た大きなトランクを持ってやりながら言った、“お前が出て行ってから、まだ一年ちょっとしか経っていないんだから。そんなにすぐには変わらないさ”

 “一年ちょっとねえ…”と、リサは、少し感慨深げに、庭を眺めていた、“あっ、御免。荷物を持ってもらって”

 “いいさ、これぐらいのこと”と、ぼくは、嬉しそうに言った。そして、つくづく彼女の姿を眺めながら、ぼくは続けた、“お前、なかなかよく似合うね、その服…”

 “あっ、これ?”と、リサは初めて自分の服装に気づいたように、振り返って言った、“褒めていただいて、ありがとう。 仕事の関係で見つけた店で買ったのよ。着るのは今回が初めて。どう、似合うかしら?”


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 “なかなかのものだよ”と、ぼくは彼女を見つめて言った、“お前の可愛いらしさが一層良く、引き立っているよ。――ともかく、よく帰って来てくれた。家の中も、以前とちっとも変わってないよ。さっ、家の中に入ろう…”

 そう言って、ぼくは、片方の手をそっと、彼女の腰に回した。

 リサは、ぼくに引き寄せられるようにして、黙ったまま、ぼくと一緒に家の中へと向かった。

 

 家の中は、外と違って光が射さず、ヒンヤリとしていた。

 “随分と重いね、この荷物。中に一体、何が入っているんだい?”と、ぼくは、トランクを持ちながら、リサに言った。

 “ほとんど衣類よ”と、リサは答えた、“――でも、兄さんへのおみやげも持って来ているの”

 リサは、そう言って、家の中を見回した。

 “本当。少しも変わってはいないわね。あたしの寝室もそのまま?”

 “うん、あの当時のままさ。行ってごらん”と、ぼくは答えた。

 リサは、つかつかと自分の部屋のドアに向かった。        

 ドアをあけると、中は、カーテンを閉めてあるせいか、真暗だった。リサは、窓のところに歩み寄り、サッとカーテンをあけてから、窓を押しあけた。急に、明るい光が、しめったリサの部屋に射し込んだ。窓から身を乗り出すようにして外の景色を見つめるそんなリサの後ろ姿を、ドアの陰から、ぼくはじっと見つめていた。可愛い花柄のドレスが体にピッタリした彼女の伸び切った背中や、よく引き締まった腰、衣服に包まれた可愛いお尻の部分から伸びている細い二本の足などを目にして、リサがこの家にやって来たのだ、という実感を、そのとき、はっきりと感じた。リサは、両足を交差させるようにしばらく動かせた後、急に振り向いて、自分の部屋を見た。そして、ぼくに言った、

 “何もかも昔のままね”

 “ああ、いつでもお前が帰って来れるようにと、そのままにしてあるんだ”と、ぼくは答えた、“衣裳箪笥の中もそのままだよ、見てごらん”

 そう言われて、リサは、造り付けの箪笥に歩み寄り、扉をさっとあけた。中には、彼女が出て行く以前に着ていたドレスが、そのままの姿でハンガーに掛かっていた。それを、リサは、大きな瞳で、じっと見つめた。

 “ときどき風を通してもいるし、中には、今でも着れる服があるだろう”

 とぼくは、そんなリサを眺めながら、言った。

 “そうね、気に入ったのがあれば着てみるわ”と、リサは、ひとつひとつ手に取りながら、言った。

 そうして、全部のドレスを、確かめた後、リサは振り向いた。


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 “ベッドも、テーブルも、カーテンも、壁紙も、何もかも昔のまま”とリサは、部屋を見回しながら、ため息をつくように言った、“まるで昔に返ったみたい”

 ぼくは、リサのその様子を見て、にっこりとした。

 “みんな、お前の為さ”と、ぼくは言った、“お前がいつでも帰って来れるようにって、ちゃんと保存してあるんだ。お前が出て行ったからと言って、変えたところなど、一つもない…”

 “なんだか、あたしの為にそうまでしてもらって、気の毒みたい…”と、リサは、ポツリと言った、“――でも、このように昔のままの部屋を見ていると、ほっとすると同時に、何となく、怖いような気もして来るわ”

 “一体、この部屋のどこが?”と、ぼくは尋ねた。

 “いいえ、この部屋に以前住んでいたのが、あたしのようでもあるし、あたしでないような気もするからよ”と、リサはそれとなく、言った、“…でも嬉しいわ。昔のまんま残っているなんて。本当に、ここにいるとくつろいだ気持になってくるわ。壁の色といい、家具の匂いといい、あのときのままね。ありがとう、こんなに大事にしてもらって、兄さん”

 リサは、そう言って、ぼくを見つめた。

 “そうそう、その紙包みの中にね”と言って、リサは、部屋の中に運んで来た大きなバッグを指さした、“兄さんへのプレゼントが入っているの”

 “これかい?”と言って、ぼくは、彼女のバッグから大きな紙包みを取り出した。さわったところ、かなり重そうだった、“さっそくあけさせてもらうよ”と言って、ぼくは、すぐ包装紙を破りにかかった。

 やがて、中から現れたのは、陶器で出来た犬の置き物だった。

 “気に入るかしら?”と、リサは、心配そうにそれを見て言った、“メロランスの目抜き通りの店で見つけたものなの”

 “いや、なかなかいいよ”と、ぼくは、その置き物を手に取り、くるくる眺め回しながら言った、“なんてたって、可愛いリサからの贈り物なんだ。さっそく、居間のマントルピースの上にでも飾らせてもらうよ”

 “気に入ってもらってよかったわ”と、リサは、晴れやかに言った、“それから、毛糸で編んだセータもトランクの中にあるの。あとで見せるわ。それも気に入ってもらえるといいんだけど”

 “ぼくの為に編んでくれたのかい?”と、ぼくは驚いて言った。

 “そうよ、毎晩、寝る前にね”と、リサは答えた、“…でも毎日が忙しくて、結構日数を食ってしまったわ”

 “そうかい、ありがとう”と、ぼくは言った、“じゃそれも、さっそく着させてもらうことにするよ”

 そう言って、ぼくは、リサが部屋の真ん中に立っている姿を見た。彼女は、旅の疲れのせいで、ベッドに腰掛けるなりしてくつろぎたそうな様子だった。


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205

 “おっと、少し長居をしたようだね”と、ぼくはそのことに気がついて言った、“じゃ、ぼくは居間に行っているからね、お茶の準備でもしておくから、ちょっとしたらおいでよ”

 そう言って、部屋の外に出た。

 “ええ、そうするわ”と、リサは、くつろいだ表情になって、言った。

 “じゃ”と言って、ぼくは、彼女の部屋のドアをバタンと閉めた。

 

 このようにして、彼女の一年半ぶりの帰郷は実現し、この沈み切った我が家にも、再び活気のともし火が戻ったのだった。

 ぼくが居間で、お茶の用意をし、休憩していると、ドアの陰からリサが現れた。服装は、彼女が帰って来たときそのままで、変わらなかった。

 “本当に静かね、この一帯は”とリサは、来るなり、感心するように言った、“物音ひとつしない。都会にいるのと大違いね”

 “ああ、ときおり、カラスの鳴き声などが聞こえる以外はね”と、ぼくは言った。

 リサはやって来て、ぼくの横のソファーに腰掛けた。

 “この部屋も変わっていないわね”とリサは、ソファーに坐るなり、つくづくと部屋を見回しながら、言った、“あっあれ、あたしの買って来た置物?”

 “ああ、さっそく飾らせてもらっているよ”と、ぼくは言って、マントルピースの上の彼女の買って来た犬の置物を見た。

 “――でも、本当に久し振りね、こうして、この居間に、兄さんといるのは”と、リサは、ため息をつくように言った、“一年半振りなんて、とっても思えない。ここにいたのが、ついきのうのことのようにさえ思えるわ”

 “そうかい?”と、ぼくは言った、“でもぼくにとっちゃ、やっぱりお前は一年半ぶりのお客さ。この日が来るまで随分と長かった…”

 “あら、御免なさい、なかなか来れなくて”と、リサは、詫びるように言った。

 “何も詫びなくてもいいさ”と、ぼくは、にっこりして言った、“ぼくだってここにずっと暮らしていたわけじゃなかったんだからね。留守にしていた日も、結構多かった…”

 “じゃそんなとき、誰もいなくて、さぞかし淋しかったでしょうね”とリサは言った。

 “仕方がないさ、ぼくしか住んでいないんだもの”と、ぼくは言った、“ぼくが旅に出かければ、この家は誰もいなくなる、それは当たり前のことさ”

 リサは、自分に何か言われているように感じているのか、黙って聞いていた。

 “――でも、今は二人がこの家にいる。お前がこの家に来てくれて、嬉しいよ”と、ぼくは、正面からリサを見つめて言った、“あっ、お茶が冷めるよ、早く飲まないと”

 “ありがとう”と言って、リサは、ぼくの沸かした紅茶を口に運んだ。

 

 “それでどうなんだ? 久し振りに帰って来た感想は”と、しばらくして、ぼくは尋ねた。


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 “まるで夢のようね”と、リサはにっこりと微笑んで答えた、“まだ帰って来たんだという実感がそんなに沸かないわ。だって、ついきのうまで、都会の雑踏の中にいたんですもの。ここは、そこに比べて本当に静かね。まるで別世界に来たみたい。――でもやっぱり、ここに来てよかった。ほっとする感じよ”

 “夜汽車は疲れたかい?”と、ぼくは尋ねた。

 “ううん、別に”とリサは答えた、“出発が急だったからせわしなかったけれど、乗ってしまえば後はゆっくりできたわ”

 “――でも、久し振りに帰って来るって気持はどうだった?”と、ぼくはなおも尋ねた。

 “そうね…”と、リサは、考え込むように目を上に向けながら、少し間を置いてから、言った、“ちょうど一年半前に向かったのと逆の方向に帰るんだから、感慨もひとしおだったわ。まず最初に思ったのは、あの家はどうなっているだろう? と考えたわ。久し振りだし、家のイメージがすぐには思い浮かばなかったの。ともかくなつかしいっていう感じなの。――それから、あの家を出発した日のことも思ったわ。ちょうど一年半前の夜、兄さんに見送られながらあの家を出たんだって。あのとき、寂しくなるという気持と都会への期待の気持とが入り混じって複雑な気持だったけど、今回もそれと似た複雑な気持がしたわ。だって、よくよく考えてみると、あたしって、どちらか一方に全面的によりかかれない存在だっていうことに気づいたんだもの。あたしって、一見賑やかに見えそうだけど、田舎に帰りたいって思うような寂しい面も持っているのよ。その点、兄さんと同じね…”

 “そう。そんなことを思ったのか”と、ぼくは、感心したように言った、“じゃ、帰って来るのが寂しいって思ったのかい?”

 “いいえ、そればっかりじゃないわ”と、リサは、持ち前の陽気さで否定した、“だって、汽車の中ですぐお友だちが出来たもの。あたしがひとりで雑誌を読んでいると、三人連れの男の人が声を掛けてくれたわ。他に、近くに二人連れの女の人がいて、その人らと結構楽しく、ワイワイガヤガヤとやっていたもの。その男の人ら、学生だったけど、とっても陽気で楽しかったわ。女の人らは、片方の実家へ遊びに行く途中で、みんな寄って楽しくしゃべっていたわ。学生って、その人ら、文学部の専攻なんだけど、とっても面白いわね。文学の話しなんてそっちのけで、まったく女の子を口説くことしか考えていないんだもの。専らよく行く居酒屋の話しや、どの子が可愛いかったとか、どんなタイプの男が気に入るのだとか、そんな話しばっかりよ。でも、そんな話しの中で、ちょっぴり文学の一節が出て来るところなんか、やっぱり文学部の学生なのね。話し出したら止まらないところもあるけど、結構面白かったわ…”

 “…で、その人たちとどこで別れたの?”と、ぼくは尋ねた。

 “女の人らとは手前のN……駅で。学生たちとは、ドシアンで別れたわ。あの人たち、さらに、S……まで行くって言っていたもの。今回は、文学とは何んの関係もなく、登山が目的だっていうことなの”とリサは答えた、“…でもドシアンで別れるときになって急に住所を教えてくれ。必ず便りをよこすからって言ったわ。あの人たち、気があったのかしら?”


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 リサが楽しそうにそう言うのを、ぼくは黙って聞いていた。

 “で、教えたのかい?”と、ぼくは尋ねた。

 “だって、余りしつこくて断り切れなかったもの”とリサは答えた、“でも、住所はここじゃなくって、街の住所の方を教えておいたわ”

 “その様子じゃ、いつか尋ねて来るよ、家まで”と、ぼくは言った。

 “さあどうだか”と、リサは言った、“山を登ればあたしのことなんかすぐ忘れてしまうんじゃないかしら”

 “お前はいいよ、すぐ声を掛けてもらえるんだから”と、ぼくはひとり言のように言った、“お前のような女の子がひとりでいるのを誰も見逃しはしない。その学生だって決して忘れやしないよ。だって、お前をひと目見れば、男なら誰だって参ってしまうんだから…”

 リサはにっこりして、ぼくを見た。

 “そう言ってくれて、嬉しいわ”とリサは言った、“久し振りに兄さんに会って聞かせてもらった嬉しい言葉、大事にしておくわ。――ともかく、あの人たちのおかげでとても楽しい汽車の旅ができたわ。別れるときは、ちょっぴり寂しい気がしたくらい。でも本当によかった。汽車に乗って、本当にいい思い出ができたわ”

 “そうかい、それはよかったね”と、ぼくは言った、“その学生たちとまた会える日がいつか来るさ。出会いというものはそういうものなんだよ。ちょっとしたきっかけがまたいいんだ。ぼくだってそんな経験がないわけじゃない。――でも最近はとんとなくなってしまったね”

 “兄さんだって、女の子を口説いたこと、あるんでしょ?”と、リサは尋ねた。

 “昔はね。へただったけど、真剣になったことはある”と、ぼくは答えた、“でも相手は、身分が高過ぎて結局だめだったのさ。だって相手は、ちょっとした会社の重役の令嬢だったんだぜ”

 “ああ、あのカリーンっていう名の女の人のことなのね”とリサは、まじめな顔つきになって言った、“今、どうしているの?”

 “さあ、どこでどうしているのだか”と、ぼくは、苦々しく言った、“もう長いこと会ったことがないからね。きっと今頃は、誰かと結婚して、何児かの母親になっているんだろ”

 リサは、悲しげなまなざしでぼくを見つめていた。

 “結局兄さんは、あの女の人に、いいようにされただけなのね”と、リサは、ポツリと言った。

 “いいや、そんなことはないさ”と、ぼくは打ち消した、“でも、もともと結ばれるはずもない恋だったのさ。相手は年上だし、身分も上だし、どうしようもない壁が横たわっていたのさ。――でも、いっとき、ぼくの気持ちは真剣だった。生まれて初めて、恋のような感情を感じたのさ…”


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 “でも、相手はそれほど真剣だったかしら?”と、リサは言った。

 “確かに向こうは、ぼくより年上だし、ぼくよりはもう少し冷静だったさ”とぼくは答えた、“――でも、愛がなければ、あれほど長い交際を続けることはなかったはずさ。しかも、身分違いのぼくと交際することによる危険性を承知の上でさ…”

 “だからそれは、向こうにとっては、ほんの火遊びのつもりだったのよ”と、リサはきっぱり言った、“兄さんはまだ若かったし、向こうは向こうで遊ぶ金に困らなかったわけ。だから兄さんを真剣な恋にまで陥らせるそんな芸当まで出来たわけなのよ”

 “頼むから、ぼくのいい思い出をぶちこわすような言い方だけはよしてくれよ”と、ぼくは少しむっとなって言った、“確かに結果としてはお前の言う通りだったのかも知れない。でも、単なる遊びだけだった、その中に真剣な愛情なんて存在しなかったなんてことがどうしてお前に分かる? リサは、その場に居合わせたわけじゃあるまいに…”

 “兄さんの心に傷つけたのなら御免なさい”とリサは言った、“でもあの人のことは、遠くから見ていてもなんとなく分かるのよ。火遊びというのは確かに言い過ぎだったかも知れないけれど、何かこう…”

 “お前やセーラが、カリーンに対していい感情を持っていなかったことはよく分かるさ”と、ぼくは言った、“彼女がぼくを誘惑しているように見えていたからね。でも、ぼくもそんなに馬鹿じゃない。金があって、美しくて、しかも女学生の身分というものにあっさり参ってしまうほどにはね。むしろ最初の頃は、お前も知っての通り、やむを得ない事情もあったのさ。――でもそのうち情が移って来て、ぼくの方から彼女を誘惑したい、――そんな気持になって来たのさ。ぼくにだってプライドがあったからね、彼女に負けてばかりもいられないさ”

 “年上の女性を誘惑するなんて大したものね!”と、リサは、感心したように言った。

 “結局、男と女の関係は、化かし、化かされ合いなのさ”と、ぼくは言った、“そのことがあの経験の中でよく分かったね。確かにぼくは年下だし、不利な立場に置かれてはいた。でも、男と女なんて、あるところまでくれば、年なんか関係なくなるのさ。地位だってそうさ。ぼくは、そこのところをうまく利用しようとした。その為には絶対にこちらが卑屈になったり、折れようとしたりしないことなのさ。終始、対等か、それ以上だという態度を取り続けることだったのさ”

 “それで相手は折れたの?”と、リサは、興味深げに言った。

 “それが、相手もなかなかの曲者でね”と、ぼくは苦笑した、“なかなか、かわすところなんかよく心得ているのさ。だから、表面的な話しにはいくらでも応じても、肝腎なところになると、うまく話しをはぐらかせてしまうのさ”

 “面白いわね。兄さんとあの人の関係”と言って、リサは、おかしそうに笑った、“――でも、もう随分と前のことね、あの人がいた日なんて。長いあいだ忘れていたわ、あんな人がいたことなんか。兄さんはずっと忘れないでいたの?”


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209

 “ぼくも忘れていたさ”と、ぼくは答えた、“ほんのときたま思い出すことはあっても、またすぐ忘れてしまうさ。なんといってもあのカリーンは、もう過去の人なんだもの”

 “でも、会いたいとは思わない?”と、リサは尋ねた。

 “全くないことはない”と、ぼくは、少し考えてから答えた、“――でも、仮に会ったとしても、それだけのことさ。向こうが、昔のぼくを思い出し、ぼくが昔の彼女を思い出す――、ただそれだけのことで、現在はお互いに知りたいと思わないほど、バラバラの生活だろう…”

 リサは、感心するように、ぼくの話しを聞いていた。その真剣なまなざしの奥に、どんな考えが秘められていたのだろう…

 “一体、どこからこんな話しになったんだろうね”と、しばらくしてからぼくは言った、“そうか。お前の汽車の友人の話しからか。おっと御免ね、朝っぱらからこんな、私事めいたことを聞かせてしまったりして…”

 

 “それにしてもよく帰って来たねえ…”と、ぼくは、朝日の射すソファーに坐っている彼女を見つめながら言った、“お前の住む街で会って以来もう一年近く経っているんだが、お前自身は余り変わっていないな。そのあいだに何か変わったことでもあるのかい?”

 “色々とね。でも生活の基本は変わっていないわ”と、リサは明るい顔つきをして言った、“向こうでは色々と辛いこともあるけど、割と生活をエンジョイしている方よ… あっ、兄さん、これ着てみたら? 寸法が合っているか少し心配なの”

 リサが言ったのは、彼女の脇に置いてあった手編みのセータのことだった。白い紙包みの中から現れたのは、ベージュに赤や黄の幾何学模様の入った厚手のセータだった。

 “なかなかいい柄だね”と、ぼくはひと目見て、気に入って彼女に言った、“この大きさならぼくに充分さ”

 ぼくは彼女の手からそれを取ると、さっそく彼女の前で身に着けた。

 “どうだい、ピッタシだろう?”そう言って、ぼくは彼女の前に立って回ってみせた。

 “よかったわ、大き過ぎなくて”と、リサは言った、“柄も悪くないわね”

 “でもよく編めたねえ”と、ぼくは感心するように言った、“いつのまにこんなにうまくなったんだい?”

 “本を読んで勉強したの”とリサは答えた、“色んな図柄の編み方が載っているでしょ? その中から適当なのを選んで…”

 “ありがとう。大事にさせてもらうよ”と、ぼくは、それを脱ぎながら言った、“今年の冬はせいぜい利用させてもらうよ”

 そう言って、ぼくは彼女から紙包みをもらい、再び大切にそれをくるんだ。

 

 “それで、兄さんの方は相変わらず?”脱いだ服を着、セータを包み終わると、リサが尋ねた。

 ぼくは不意打ちを食らって、驚いたようにリサに言った。


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210

 “見ての通りだよ”と、ぼくは両手を広げて言った、“変わったことは何もない。毎日、散歩と読書と思索と… まるで哲学者か、詩人の生活だよ。何かぼくに適した仕事を、と思うこともあるんだけど、なかなかその気になれなくてね。――でも、この思い切りの自由を与えられて、ぼくは、色んな研究に励みたいとは思っているのさ。例えば、ぼくの知らない物理学の世界や、心理、あるいは、動植物の研究などをね。人間は、暇になれば暇なりに、いくらでもやることがでてくるものなのさ”

 “羨ましいわ、そんな自由があたえられて”と、リサはぼくを見て言った、“――でも、いつもひとりじゃ、寂しくはない?”

 “話し相手がいない、ということは確かに辛いことさ”と、ぼくはポツリと言った、

 “でも、今のところ自然が唯一、ぼくの話し相手なのさ。散歩に出て、空に浮かぶ雲や、小川のせせらぎ、あるいは、風にうねる草むら、一本の栗の木立、空をゆっくり舞うカラスの姿などを見ていると、本当に心が晴々としてくる。そしてもっと、自然の神秘について、その秘密を知りたい、という気になってくるのさ。都会でのあわただしいお前の生活からは想像もつかないことだろうけれど、小川の流れにじっと目を留め、流れに揺れる藻や、中に泳ぐめだかの様子などに一時間以上もじっとしていることもあるんだ。――でも、そんなときは、そのことに夢中になるけれど、それで満足しているわけでは決してない”

 “というと?”と、リサは尋ねた。

 “やっぱり、人間の世界を忘れるわけには行かないからさ”と、ぼくは答えた、“ぼくの中には、現在、矛盾した二つの感情があるのさ。一つは、人間世界から全く逃げ出したい、という欲求と、今ひとつは、社会のいろんな生活についてもっともっとよく知りたい、という欲求とがさ。これを解決するには、小説を読むのが一番いい。それは、自分がその社会に入らずして、その社会のいろんなことがよく分かるからね。でも、やはりそれだけでは不十分なのさ。最終的には、自分自身が社会の中に入って行かないと。しかし、その一歩寸前で、ぼくを引き止める力が働くんだ”

 “どうしてそんな力が働くの?”と、リサは尋ねた。

 “よく分からない”と、ぼくは答えた、“恐らく、社会生活がぼくに適していない、ということを、ぼくは本能的に悟っているからなんだ。人との交際べた、力がないのに、自分を防御する為のその攻撃性、等が益々人とぼくとの距離を遠ざけるのさ。このことは、都会にいて、いやというほど思い知った事柄なのさ。リサも知っているだろう? あの頃のぼくのすさんだ生活…”

 リサは黙ってうなづいた。

 “それで、都会生活は、ぼくに苦い思いしか残してはいないのさ。その中で、悪者になりながらも、尚しがみついて行くこともできただろう。しかし、ぼくには結局、そんな力はなかったんだ。――ぼくが今もって都市生活にためらいを感じるのは、そういう過去があるからなのさ。今から、社会の中で、どういう一歩を踏み出せばいいと言うのだろう? ぼくには全く手がかりがつかめないし、社会はまるで、雲の上のように、霧に包まれたものとなってしまっているんだ。


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そういう目から見れば、ぼくこそはまさに、都会から遠く離れた田舎で日なたぼっこを楽しんでいる、あのカフカの描いた、昆虫と大して変わらないとさえ言うことができるだろう。ぼくは恐らく、この虫なんだ…”

 “兄さんが虫!”と、リサは驚いて言った、“馬鹿なこと言わないでよ。虫だったらそんな風にペラペラしゃべることもできないでしょ”

 “ぼくは何も虫になりたいと言っているわけじゃない”と、ぼくは言った、“でも虫になるということがどういうことかよく分かる、ということを言っているまでなんだ。――ぼくはまた、おかしな話しをしてしまったようだね”

 リサは、そばで笑っていた。

 “平気よ”と、彼女はぼくを見て言った、“そんなところがいかにも兄さんらしいもの。都会ではめったに聞かれない面白い話しだわ。それを聞いて、私もやっと家に帰って来たという感じ――”

 “ぼくはね”と、ぼくは言った、“自分で自分が分からないんだ。このままじゃいけないことは分かっている。お前みたいに、何か職を見つけなくちゃならないことも分かっている。――でも、一体どんな職がぼくにふさわしいと言えるだろう!”

 “今のままで暮らせるんだから、何も無理をすることなんかないじゃないの”と、リサは言った、“そのうちきっといいアイディアが浮かぶに違いないわ”

 “ぼくの今の生活が決して豊かでないことはお前も知っての通りさ”と、ぼくは言った、“自分ひとりぐらいの生活はなんとかできても、それ以上のことはね。それ以上のことをするには、やはり自分で稼ぐ以外にはないのさ。ところがぼくは、金を稼ぐ能力に欠けているんだ…”

 “そんなことないわ”と、リサは強く否定した、“その気になれば人間、どんなことでもできるわよ。あたしだって今、辛いけど張り合いもあるわ”

 “お前をひとり、都会で苦労させて御免よ”と、ぼくは、しんみりと言った。

 “苦労なんてとんでもないわ”と、リサは否定した、“自分から買って出た職業よ。苦労なんて思ってないわ。そんなこと、考えたこともないの。だって、仕事で苦しむことがあるのは当たり前のことだし、それ以上に楽しいことの方が多いわ。そうでないと、今の仕事、とっても続けられやしない…”

 “ともかくぼくも、何んらかの形で社会に尽くさなければならないようだね”と、ぼくは言った、“生きている心地を味わう為にも、それは必要なことなんだ。ところがぼくとくりゃ、自分の中に、否定的な要素しか見い出すことはできないのさ”

 リサは、それに対しては、何も言おうとはしなかった。もう何度となく、繰り返されて来た文句だったし、その中身についても彼女はよく承知しているからだった。それで、リサは、話題を他に向けようとした。

 “それで、姉さんに会ったんですって?”


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212

 “そう、今年の春にね”と、ぼくは驚きもなくリサを見て言った、“いたって元気だったよ。お前はまだ会っていないんだろ? 早く会えるといいんだがね”

 何年もバラバラに生活して来たこの姉妹が、再会のことをどう考えているのか、当事者でなくても、興味のあることだった。

 “そうね”と、リサは、会うということに対しては、それほど気のない返事をした、“でも姉さん、あたしに会うの、迷惑に思うんじゃない?”

 “どうしてさ”と、ぼくは言った。

 “だって、あのとき、あたしたちを見捨てて行ったのは姉さんの方だったでしょ。今になって急に会うことに、どんな意味があるのかしら”

 “お前は、あのときのことを、未だに恨みに思っているのかい?”と、ぼくは言った。

 “いいえ、そういう意味じゃ”と、リサは答えた。

 “だったらなおさらのこと、会ってあげるべきじゃないのかい”と、ぼくは言った、“セーラはきっと、お前が来ないので、未だに恨まれていると思っているに違いないんだ。逆に、セーラからはお前に会いに行くわけには行かないさ。お前に会わせる顔はないと思っているんだからね…”

 リサは黙って、それには直接答えようとはしなかった。しかし、それも無理はない。長い歳月は、あれほど息が合っていたように見えた二人の姉妹をも、別々の生活へと追いやってしまったからだ。

 “それで姉さんは、今、病気のおばさんと二人で暮らしているんですって?”やがて、リサはポツリと尋ねた。

 “亡くなったよ。パイク夫人のことだろ?”と、ぼくは平然と答えた。

 リサの表情に、突然驚きの色が走るのが読みとれた。

 “つい最近、セーラからの手紙で分かったのさ”と、ぼくは続けた、“長いあいだ連れ添って来た仲だのに先立たれて途方に暮れている、ってそれには書かれていた。無理もない話しさ。――でも研究所の仕事や、村の子供に対する勤めも残っているから、当分は帰れそうにないということだった。彼女も孤独な人生を歩んでいるようなんだ。たまには尋ねて行ってやらないとね…”

 “そう。よく分かったわ”と、リサは答えた、“あたしもそのうち姉さんに会いに行くわ。約束する”

 それから、何か考え事をしているかのような顔をすると、少し間を置いてから、彼女はこう言ったのだった、“あたしたちの人生って、どれもこれも、あの澄んだ青空のようにすっかり晴れている、というわけには行かないのね…”

 

 “…久し振りに帰って来たんだ。夜行でやって来て疲れているかも知れないけれど、ちょっと散歩に出て見ようか”しばらくしてから、ぼくは言った。

 “いいわ”と、リサはほほえんで答えた。

 “田舎の方? それとも街の方?”


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213

 “せっかく帰って来たんだから田舎がいいわ”と、リサは答えた。

 “じゃ、その辺を散歩してみよう”と、ぼくは言った、“ちょうど自転車が二つあるんだ。古い自転車と、お前の為にと買っておいた新しい自転車とがね”

 “本当? ありがとう”と、リサは笑顔で答えた。

 ぼくたちは、さっそく居間を後にし、表に出た。

 

 家の裏側の雑草が生い茂った所に、無造作に自転車が二つ置いてあった。雨ざらしにならないようにとぼくがカバーをとると、中から真新しい自転車が一台現れた。リサはそれを、驚きの目で眺めた。

 “これがお前の自転車さ”と、ぼくは、驚く彼女の後ろに立って、言った。

 “なかなか軽快な感じね。いつ買ったの?”と、リサは、自転車を見つめながら言った。

 “もう半年もなるかな”と、ぼくはそれとなく言った、“お前が、いつ帰って来るかも知れないと思って買っておいたのさ”

 “やっとそれが役に立つ時がやって来たわけなのね”

 “ああ”と、ぼくはにっこりして答えた、“乗ってごらんよ。ぼくもまだ少ししか乗ったことのない代物なんだ”

 リサはさっそく、自転車を手にとって、家の外へと押して行った。

 

 “それでどこへ行くの?”と、ぼくたちの自転車が家の外に出揃うと、リサが言った。“適当でいいよ。どこでも絵になるようなところだからね”と、ぼくは答えた。

 リサがまず、漕ぎ出した。続いてぼくも。

 秋のさわやかな風が、自転車で行くぼくたちにふりかかって来た。彼女の赤い花柄のスカートや袖が風に、まぶしいばかりに揺れた。ぼくはすぐ、彼女と並んで走った。

 “こうして自転車で田舎を行くのもいいだろう?”と、ぼくは言った。

 “都会では味わえない楽しみね”と、リサは、風に目を細めながら、笑顔で答えた。

 しばらく走って振り向いたとき、秋の光に輝いている我が家は、みるみる遠ざかって行った。色の濃いニレの樹木も、緑色の芝も、野原一面に敷き詰めた黄色い、名も知らない雑草の花も、みんな、秋の光に輝いていた。

 “リサはいまいくつ?”ぼくは、並んで走っている彼女を見て言った。

 “あら、忘れないでよ。今、二十一よ。――でも、もうすぐ二十二”

 “若いんだねえ…”と、ぼくはつくづく彼女を見やりながら言った、“でも若いっていいことさ。何につけても”

 

 しばらく走ると、やがて真青な清流が流れる川のほとりにやって来た。

 “ここらでひと休みするかい?”と、ぼくは彼女を見て言った。

 “ええ”と、リサは答えた。


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214

 対岸の川べりまで迫っているはんの木の色は濃いかった。それに劣らず、流れる川も呑み込まれそうになるほど濃い色をたたえているばかりか、草の色も、空の青さも、新鮮で、鮮やかだった。ぼくたちは、自転車を草むらに倒し、そのまま、川のほとりに駆けて行った。川は、遠くから見るより、遥かに大きな音をたてて流れて来た。川のほとりに来るなり、リサは、草むらに身を投げ出して、あお向きに横たえた。目の上には、一本の川柳の枝が、小さな葉をつけて、澄んだ青い空や、そこに浮かぶ白い雲をさえ切るように、虚空に延びていた。ぼくも、草むらに横たえているリサのすぐ脇に腰を降ろし、頭の後ろに手を回してうっとりと空を眺めている彼女の全身を見つめた。それは、自然に投げ出された、魅力的な一人の女の姿だった。

 “やっぱり田舎に来てよかったわ”と、やがて、何かに魅せられたかのように、彼女はつぶやいた、“ここにいると、本当に、都会の騒々しい生活なんかすべて忘れてしまいそう…”

 “そうかい”と、ぼくは、草花をむしりながら、満足深げに、彼女や、周囲の自然を見つめながら言った。小さな葉をつけた、一見裸同然の木の枝が、かすかに風に揺れていた。

 “ねえ、あたしがこんなところにいるなんて夢みたい”とリサは続けた、“友だちのポーラも田舎があるのよ。――でも家に帰れば、牛の乳しぼりとか、まき割りとか近所の人を招いてのパーティの為の料理の手伝いとか、雑用ばかりが待っていると嘆いていたけど、ここではそういうことが全くないのね。そして、心からくつろげる。全く何もせずに自然に触れるようなところなのね。そういうところは、兄さんのいるここしかないわ”

 ぼくは黙って、彼女が言うに任せていた。

 “この前ね”と、リサは続けた、“夏だけど、仕事仲間数人とキャンプに行ったの”

 “知ってるよ。手紙で拝見させてもらったもの”と、ぼくは答えた。

 “そこもきれいなところで、森や湖があったわ。釣りやボートやいろんな遊びをして結構楽しかった。男の友だちもいてね、みんな、ポーラやあたしに言い寄ってくるのよ。でも、単なる遊びだし、それ以上のことをさせなかったわ。――でも、今考えてみると、田舎に行っても都会にいるのと一緒で、本当にくつろぐということがなかったわ。確かに自然は静かだけど、みんなが騒々しくて、毎日が忙しかっただけ。そのときはそんなこと思わなかったんだけど、ここに来て初めて分かったわ。本当にくつろぐということがどういうことか、ということが…”

 “――でも、お前のような人間には、静か過ぎやしないだろうか…”と、ぼくはポツリと言った。

 リサは、黙って首を横に振った。

 “…ここには、ただ静かな空と、小川と、森しか存在しないんだ。それ以外には何もない…”

 “でも、あたしたちがいるじゃない”と、リサが言った。

 ぼくは、にっこりとして、リサを見た。


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215

 “昔のままさ”と、ぼくは、ポツリと言った、“ここにいるといつも昔に帰ってしまうんだ。ここの流れや風景は、昔も今も恐らく少しも変わってはいないだろう…”

 “それに、あの雲も…”と、リサは、うっとりと言った。

 “リサも同じさ”と、ぼくは言った、“昔、ぼくたちがいて、今も、こうして二人がいる。何か、不思議な結びつきがあるような気がしないかい?”

 “恐らくね”と、リサは言った、“何かあるのよ。あたしはやっぱり、兄さんのところへ帰って来る。どうしてかは分からないけど、きっと何かの力で引き寄せられるのね”

 ぼくはにっこり笑った。そして、川の流れや、その向こうの森に目を向けた。

 “…でも、この広い自然の中で二人だけというのは、素晴らしいことじゃないかい。こんな時って、めったにあるものじゃないよ”

 “それで?”と言って、リサは、横たえながら、ぼくを見た。

 “いずれ離れ離れになったとしても、こういう時があったということを忘れないようにすることさ”

 “忘れやしないわ”と、リサは強調した、“兄さんとのことは、ひとつひとつ全部覚えているわ。兄さんと一緒に暮らしていたときのことだって、もっと前のことだって…”

 “それじゃ、あんまり覚えて欲しくないことまで覚えられてしまっているようだね”と、ぼくは言った、“昔から、お前にはあまりいい兄じゃなかったから…”

 “そんなことないわ”とリサは言った、“兄さんのことは全部理解しているもの。昔の兄さんに少々乱暴なところがあったとしても、それは、生活状況がそうさせたんだから、仕方のなかったことよ”

 “いい妹を持って、ぼくは幸せさ”と、ぼくは言った、“それなのに一向、お前には兄らしいことはしてやれない…”

 “兄らしいことって何よ”と、リサは言った、“あたしには兄さんがいるというだけで十分よ。こうして帰って来る家があり、そこに兄さんが待っている、――それだけで十分よ。それ以上の何を要求する、というの”

 “ぼくは、お前を愛している”と、ぼくは言った、“他には何も与えられないけれど、ぼくがお前に与えられるのは、これだけなのさ…”

 “あたしだって、兄さんを愛している”と、リサは言った、“愛しているからこそ、こうして帰って来たのよ”

 “分かっているよ”と、ぼくは言った、“ぼくたちは昔も今も変わらず愛し合っているのさ。そしてそれは大切なことなんだ。特にぼくたちのようなもろい人間にあってはね。ぼくとお前とが兄妹だったということは、パパとママに感謝しなくちゃならないたまものなのさ。この絆をしっかりとつかんでおかなくちゃ。このめまぐるしい世の中においては、ただですら絆なんてもろいものなんだから。そうだろ、ぼくだけが昔のお前を知っているし、今のお前も知っている。だから、これから先のお前の人生をも知っておきたいんだ…”


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216

 “あたしもよ”とリサは言った、“これから先、たといどんな生活をするにせよ、兄さんのことは決して忘れたりはしないわ。――だって兄さんは、あたしにとって、唯一のかけがえのない兄さんなんですもの…”

 “ぼくにとっても、お前は大事な妹さ”と、ぼくは言った、“お前のこれからの人生を、たとい遠くからでもずっと見守ることは、兄として当然のことだろう?”

 “そうね”とリサは言った、“じゃあたしのこと、側面から応援しててよ”

 “ああ、応援しているよ。いつも、毎日…”と、ぼくは答えた。

 

 “ねえ”と、リサは急に体を起こして言った、“あたしたちは今、別々の生活をしているけれど、また元の生活に戻るかも知れない――そんな気がするの。社会に向かっていろいろとやってみたけど、結局、あたしたちは今、ここにいるのよ。こういうことって、確かにまれになってしまったけれど、でもやはり、あたしたちの原点はここだ、という気がするわ。この野原や森や小川や、あの澄んだ空などが、幼い頃からのあたしたちの原点なのよ。都会で忙しい毎日を過ごしていれば見失いがちだけれども、ふと今、そのことを感じたわ。ここに兄さんがいて、あたしがいる。それは、不思議でもなんでもなくて、当然の帰結なのかも知れない。だって、神様か何かが、もう何年も前から、あたしたちをこのように結びつけているからなのよ…”

 そう言いながらリサは、うっとりと川の流れる様子を眺めていた。

 “そう思うかい?”と、ぼくは、それとなくリサに言った、“確かにお前の言うように、二人きりでいることはまれになってしまった。それでも、ぼくとお前とが何かで結び合っているというのなら、それはきっとこの自然のせいなんだ。――だってぼくたちは幼い頃をずっと、このような自然に慣れ親しんで来たからさ。それは、そのあいだに骨の髄までしみ込んでしまって、そう簡単にぬぐい去れるものではなくなってしまっているんだ。たとい大人になって、別の生活に入ったところで、体のどこかでは残っていて、それがときどき呼びかけるのさ。昔、ぼくたちが一緒だったあの生活を忘れるなって…”

 “そうね。そうかもね…”なにかに魅せられたかのように言うリサの髪の毛が、かすかに風に震えていた、“ねえ、あたしたち、いつまでも一緒ということはないかも知れないけれど、これから先もずっと心を一つにしてましょうよ。小さいときから兄と妹だったんだし、この関係は一生変わることがないわ…”

 “もちろんだとも”とぼくは答え、手に摘んでいた黄色い草花を、彼女の髪の毛に挿してやった。

 “こうすると一段とお前が惹き立って見えるよ”と、ぼくは言った、“ねえもう少しよく見えるように、こっちへ顔を向けてごらん”

 言われるままにこちらへ向けたリサの顔は、秋の光の最も美しい瞬間にも増して、彼女の人生に於ける最も美しい瞬間のように、ぼくには思われたのだった。こんなに美しい彼女、少女らしく魅惑的な彼女を、ぼくは、この柔らかな秋の日々の中で、ほんの数日間しか見ることが許されないのだ。この美しいリサも、また三日もすれば、ぼくの下から去って行くだろう。


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217

そう思うと、秋の日ざしに照り映える彼女の花の姿も、ぼくにとって楽しいものではなく、むしろ苦痛を、やがて失われるものの苦痛を感じさせるものでしかなかった。そのことが、もどかしく、また、悲しかった…

 

 “…人生にはいろいろと、辛いことや、悲しいことがあるものなんだ”やがて、ポツリとぼくは言った、“とりわけ孤独の悲しみはねえ、不毛としか思われない…”

 ぼくは、目を細めて、うっとりと遠くを見つめている彼女をじっと見やりながら、さらに続けた。

 “人々が、自分たちの幸せの生活へ入って行くというのに、ぼくはいつもひとりで、それを遠くから見つめているだけでしかない。全く不毛としか言いようがないよ。街に出れば、特にそれを感じるから、ぼくは街に出て行くのが嫌いなんだ。人々の幸せそうな姿を見たって仕方がないからね。リサは聞いていなくていい。でも、ひとりでもしゃべらせてもらうさ。――時々、ぼくはどうしてこんなに孤独なのかと思うことがある。いつも、いつもひとりなのさ。誰とも交わらず、誰れにもめぐり会うことがない。世の中にはこんなにたくさん人々がいるというのに、ぼくはひとりぽっちなのさ。人々が言うように、別に理想が高いわけじゃない。恐らく――ぼくは無器用なんだ。世の中にうまく自分をはめ込んで行くことが、ぼくは苦手なのさ。世の中に出て、ぼくはいつも自分がはじき出されるのを、自分が用なしの人間であるのを、感じて来た… ぼくには何も、埋めるべき未来が待っていなかったのさ。だって、人との交わりのないぼくの人生に、どんな将来が約束されているというのだろう。いかなる指針もなく、全き自由の中にほうり出されたぼくには、自分で、一から始めるしかなかったのさ。ぼくは、誰かからこうすればいいなんて、教えられたことがない。全部、自分で見つけて行く他なかったんだ、それも、人との交わりのない孤独の中でね… そういう寂しさは、恐らくこれを経験した人しか分からないだろう。――ぼくは、誰かにこんなことを分かってもらいたいと思っているわけじゃない。ただこれは、ぼくにだけはめられた運命だと思って、黙って受容しているだけなのさ。だって、そのことを言える相手すら、もうぼくには誰もいないのだから…”

 秋の柔らかい光の中で、草むらに足を投げ出している彼女は、すぐそばに生えていたか細い草花に目を止め、それを指で触れながら、黙って、ぼくの話しを聞いていた…

 “本当の悲しみというものは”ぼくは、それとなく、続けた、“恐らく、この誰にも伝えることのできない悲しみなのさ。孤独の中に閉じ込められた悲しみと言ってもいいだろう。それは、聞いてくれる人の誰もいない、自分ひとりだけの悲しみなのさ。自分の泣いている姿が人に理解されるなら、そんな幸せなことはないのさ。しかし、自分の泣く姿が、自分ひとりだけのものなら、こんな悲しいことはない。人々の知られないところで泣いているとするなら、こんな悲しいことはないのさ。――ぼくはいつもひとりで、この悲しみを耐えて来た。人々の幸せそうな街が向こうに見えるのに、ぼくは、こちら側の荒野にひとりぽっちだったのさ。


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218

恐らくそれは、失恋の状態と言ってもいいだろう。自分の愛する人が飛行機で、別の人とハネムーンに飛び立つとき、失恋した男が、滑走路の外の路上から、ただひとり、その飛び立つ飛行機を見送っているときに感じるような悲しみなのさ。その男の悲しみは、自分ひとりだけで耐えるしかない悲しみなのさ。その飛行機は、明るい日射しをいっぱい浴びて、あのまっ青な大空に向かって、幸せを運んで飛んで行く。しかし、地上の荒野に残された男には、いかなる喜びも、希望も待ってはいないのさ。――ぼくは、その男が自分だと感じて来た。そして、飛び立つ飛行機は、ぼくの属さないこの世の中なのさ。それをつかもうとするぼくの指のあいだからすり抜けて、ぼくとは別の所に存在するこの世の中なのさ…”

 リサは、花をいじりながら、何か考えごとをしているようだったが、やがて振り向いて、ぼくを見つめながら、ひと言、ぼくに言った。

 “兄さんは、その飛行機に乗りたいとは思わないの?”

 優しい声だった。ぼくは、彼女の優しさに、心が痛くなるのを感じた。

 “乗れるものなら、乗ってみたかった”と、ぼくは弱々しく答えた、“――でも、もう不可能だろう。ぼくの人生は、メチャメチャだったからね。もう、元に戻してやり直すということはできない。ぼくは、もう過酷な運命に耐えて、しらけ切ってしまっているのさ。不幸なんて何も知らない幸せな人々が演ずるそんなお目出たい旅に同意することはできない。何も知らないうちなら、ぼくも、浮かれた気持で、そういうことも出来ただろう。でも、もう不幸というものを、知ってしまったのだ。後には戻れないよ…”

 “…でもどうして?”と、リサは、力を込めて言った、“どうして、そう簡単に諦めてしまうのよ。兄さんはまだ若いわ。これからだってチャンスがあるはずよ。人生を、今からもう一度やり直すことだって、できないことはないわ”

 “リサは何も知らないのさ”と、ぼくは言った、“ぼくの今迄の人生が、どんな人生だったかってことを。それは、ひと口に言って、呪われた人生で、ぼくは、自分の生活というものを、肯定する気にはなれないのさ。どう考えても、どのように見ても、肯定する気にはなれない。この社会との結びつきから言っても、そうなのさ。ぼくは幼い頃から孤独で、ひとりになるような、そんな定めだったのさ…”

 “そんな悲しいこと”リサの表情は、少し険しくなった、“どうしてそんな風に、惨めなほうへ考えてしまうのよ。あたしまで悲しい気持になって来そうだわ。お願いだからもう少し、気をしっかり持って”

 “持ちたいとは思うさ。でもすぐに波に押し戻されてしまう”と、ぼくは言った、“もう、そんなところまで来ているんだ。つまり、世の中におけるぼくの孤独――それは、ぼくの家の孤独でもあるのさ。分かるだろう? どう考えてみても、こんな孤独な家なんて他に存在しない。家族全員がみんなバラバラでさ、それぞれが孤独な星の下で育ち、いっぱしの悩みをかかえていて、お互い交わることもない。こんな家庭って、他にあるだろうか? つくづく思うに、ぼくが他の人々に似ていず、彼らと違って幸せをつかめない理由は、実は、そこのところから来ていたのさ。


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219

ぼくは、家庭の暖かさや、その他、世の中の楽しみというものも知らずに、たったひとりで、これまで生きて来たんだ。これから先、そんなことはなかったものにしろ、と言ってももう不可能なことだろう…”

 “でもどうして?”とリサは悲しそうな目をして、ぼくを見て言った、“あたしたちの人生って、兄さんが考えるほど不幸なものではなかったわ。世の中には、もっともっと悲惨な人たちだって、いくらでもいるはずよ。その人たちのことはどうなるの? 仮に一歩譲って、兄さんの言うように、あたしたちの人生が惨めだったとして、だからと言ってどう? あたしたちにはもう未来があってはならないの? そんな暗い人生なんていやよ。過去が暗ければ、その分未来を明るくしたい――それが人間というものでしょ。今までの境遇が惨めなら惨めなだけ、そこから脱出したい――そう願うのが当然であるはずよ。そうでないと、一生暗い気持に閉ざされて、それこそ本当に、気が滅入ってしまうわ…”

 “川は、静かに流れているねえ…”と、ぼくは、ぼんやりと斜面の下の川を眺めながら言った、“風だって静かだ。草むらが、あんなにゆるやかに揺れている。本当に、この周囲は静かさ… 何も感じさせないほど… …ぼくは、この静かな光景を眺めていると、何もかも忘れてしまいそうになるんだ。これまで生きて来た何もかもをね。そして、このさわやかな場所に今、ぼくはひとりぽっちでいる。今は、お前も一緒だけどねえ、それでいい。今が一番幸せだ、という気がして来るのさ。こういう状態が一生続いてもかまわない――これまでのいやな事を、思い出させさえしてくれなければねえ… それどころか、こんなときには別のことが、いろいろと頭に浮かんで来るのさ、これまで幸せだったときのこと、驚き、感動したこと、あるいは、悲しかったこと、又は、絶望したときのこと、ぼくの見た夢――それらがみないっしょくたになって、複雑な感情を伴って、ゆっくりと次第に早く、ぼくの頭の中で回り始めるんだ――しかも、ぼくは今、ここにいる。過去と現在……その意味はなんだろう? ぼくが今願うことは、このまま、いい天気がずっと続いて、日が暮れないで欲しい、ということなのさ。だって、こんな素晴らしい場所に、お前と二人きりでいられるんだからね。一日は短い。だからこそ、こんなときが、もっともっと続いて欲しい…”

 “…兄さんは、あたしが帰って来て、嬉しい?”と、リサは、ぼくを伺うように見て、言った。

 “ぼくが、お前をそばに置いて、幸せでないはずがないだろう”と、ぼくは、リサと、その背後に広がる青い空を見て、言った、“ここで、こうしているだけで、ぼくは幸せなのさ。ひとりでいるときには感じられない、不思議な暖かさ、喜び、充実感、そういったものが感じられて来るのさ。お前と二人になれば、何か、未来が見えて来るような気さえして来る。ひとりでいるときには想像もつかない、色んな可能性の開かれた未来がね… お前が、ぼくの妹でよかった。でなきゃ、この広い世の中で、ぼくは、本当に、ひとりぽっちになってしまうところだったからね。可愛いお前が、いつも、この暗い魂を救ってくれたのさ…”


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220

 “あたしには不可能よ。人を救うなんて”と、リサは、伸ばしていた膝を折り曲げて、そこに腕を回し、頬をすり寄せるようにして言った。

 静かで、穏やかな一日だった。川は、ゆったりと流れ、草むらや、枝の葉がときどき風にそよいだ。対岸の濃い森の色づきも、風にざわざわと揺れ、真青な空に浮かぶ雲も穏やかだった。しかし、それらの光景には、明らかに、忍び寄る冬の気配が、そして、この地表をおおう孤独が、感じられた。ぼくたちは、二人しても、なお孤独だった。青い空に向けて、風にそよぐ大小の木の葉が、この孤独感を、いや増した…

 “リサ”と言って、ぼくは、彼女の腰に手を回し、ぼくの方に引き寄せた。彼女のぬくもりが、ぼくの手の平や、体に伝わった、“ぼくたちは恋人じゃない。だから、結婚も、ハネムーンもぼくたちにはあり得ない。永久におあずけさ。いつもこのままの状態でしかないのさ。誰にも祝福されることなく、人目を忍んでいるようにね。それでもぼくたちは、二人さ。誰の目にも止まらずとも、この世の中で、ちゃんと、ぼくたちは生きている。――でも、生きているという実感を味わいたい。もっともっと味わいたいんだ。もっともっと生きて、生きまくって、満足な人生を送って、そうして死んで行きたいのさ。――それなのに、どうしてぼくには、それができないんだろう。いつもいつも、こんな孤独な人生を送っているんだろう…”

 リサは黙って聞いていた。ぼくたちの頭上には、やがて急に雲の影がおおい、風が周囲の木立や、草むらを震わせた。ただ、丘の上の方だけが、光に輝き、数本の落葉した異様な樹木の姿と共に、ぼくの目を誘った。リサは、ぼくに抱き寄せられるようにして、この静かな時を、生きていた。この、細くて、弱々しい体が、はるばると、この時の為に尋ねて来てくれ、しかも、ぼくが話しかけることが出来、信頼することのできる唯一の妹でもあった。ぼくは改めて彼女を見つめ、こんな可愛い、すべてを分かち合える妹がいたことを、神に感謝した。彼女の弱々しい姿は、それだけでも、ぼくに生きる勇気と力とを奮い立たせてくれるに十分なものだった。なぜなら、彼女は、この世で最もはかない姿に映るがゆえに、ぼくの助けを必要としていたのだから…

 “…ぼくのまだ見ぬ人、ぼくの知らない社会、この広い世の中には、そんなものが、まだまだいくらでもあるはずなんだ。ぼくは、そういう社会に向かって行きたい”とぼくは、心を込めて言った、“お前を見ていると、そうしなくちゃならない、という気がしてくるよ。お前の為にも、ぼくは、じっとしていてはならないんだ。何かしなくちゃならない。お前を、ここで、氷のように凍らせるわけには行かないからね。むしろ、喜べるようにしてあげなくちゃ。ぼくは今、そのことに気が付いたのさ。お前を見ていて、お前の美しい、優しい魂に触れることができて、そう気がついたんだ。お前のその心に、ぼくは答えなくてはね。お前の心は、何も言わなくとも、ぼくの心を突き通すに十分なのさ。ぼくは、お前のその目を見るだけで分かる。お前が、ぼくに何を言っているか、ということがね…”

 “兄さん”と、やがてリサは、ぼくの方を見て言った、“あたしと兄さんとは、長い付き合いだったわ。でもやがて、さよならを言わなくちゃならない。そのことは悲しい?”


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221

 “うーうん”と言って、ぼくは首を横に振った、“そのことは慣れているさ。お前を失うことも。――でもお前のことは、いつまでも、忘れないでいたいものさ…”

 “あたしも”とリサは言った、“兄さんのことは、いつまでも忘れないわ。たとい別々の生活をするようになってもね、どこかではつながっているのよ。頭の隅とか、心のどこかでね。これから先、いつでもどこかで、兄さんのことを考えていると思っていてちょうだい、お願いね…”

 “ああ、そう思わせてもらうよ”と、ぼくは言った、“思わせてもらうだけで、十分さ。お前の優しい心――それを感じさせてもらえるだけで、十分なのさ…”

 川は静かに流れ行く。このさわやかなそよ風と、うねり行く草むら。光に輝く、小さき花々。ぼくは確かに感じていた、心に立ち昇る恋と絶望とを。ぼくは今、初めて知った、このか弱い妹に恋を感じていることを。しかしそれは報われることのない恋。いずれ、離別と絶望に引き裂かれる運命にある恋だった。この悲しみを、どのようにして埋め合わせればいいと言うのだろう? 彼女に触れることはできても、彼女と話すことはできても、彼女の快活な姿を見て暮らす、ということだけは許されない… この苦しみを、どのようにして克服することができると言うのだろう? 美しい空の青さだけでは、また夕陽の輝かしいあかね色だけでは、満たされはしない。ぼくは、彼女のか弱い美しさと、心の優しさとに触れて心を揺り動かされ、やがて失われるべき恋に、身を焼かれる思いをする他はなかった。誰に向かってこの苦しい心のうちを、はり叫べばいいと言うのだろう? 一体、誰に向かって?

 “ねえ、リサ”と、ぼくは、心の中では、泣きながら言った、“お前はきれいだね。こんなきれいな妹を、きれいな妹が、誰かのものになるなんて、ぼくは悔しいな。そういう幸せな男の顔を見ることができたなら、ぼくは一生、そいつを恨んでやりたいぐらいさ。だって、こんなきれいなお前を、ものにすることができるんだからね。――でも、今の言葉、気にしないでね。馬鹿な兄が言っているたわごとだと思って、聞き流しておくれよね…”

 リサは黙ったまま、何も答えなかった。それでいいのだ、この場で彼女の声を聞けば、ぼくは本当に泣いてしまったことだろう。彼女のか弱い、しっとりした顔を見ているだけで、今は、泣かずにいることができたのだから…

 

 白い雲を映した小川が、ゆっくりと流れている。ぼくは、草むらから立ち上がって、リサに手を差し伸べた。彼女は、立っているぼくを見上げ、ぼくの手を取ってゆっくりと立ち上がった。スカートや背中についたほこりを払った後、彼女は周りを見回した。ぼくは、そんな、自然な彼女をじっと眺めていた。リサは、ぼくのまなざしを意識してか、ぼくの方に振り返るようにして言った、

 “まだどこか、ほこりがついている?”

 “いや、もう大丈夫さ”と、ぼくは、彼女の背中やスカートを見ながら答えた。


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222

 彼女は、今やすっかり向き直ると、ぼくに対峙するような恰好で言った、

 “それで、どこへ行くつもり?”

 ぼくは、草むらに立ちはだかっている彼女の全身をまじまじと見つめた、しかし、それは、彼女に悟られないようにほんの一瞬のことだった。

 “今から天国にでも行ってみるかい?”と、ぼくは言った。

 “行けるものならね”と、リサはにっこりして答えた。

 “お前って、いつもきれいだね”とぼくは、白状せずにはいられなかった。ぼくの目には、背景に草むらと小川があり、両足を少し開き加減に、青空に向かって突っ立っている彼女の姿が映っていた。リサの顔は、逆光となって少し暗かったが、美しいのには変わりがなかった。すぐ目の前にいるそんなリサを、ぼくは、どうすればいいと言うのだろう?

 “ちょっと変よ。兄さんって、急にあたしを見つめたりして”とリサは、当惑顔になって、ぼくに言った。

 “御免。あんまりお前が、きれいなもんだから”と、ぼくは言って謝った、“お前って、罪作りなところのある女さ、つくづく”と、ぼくは続けた、“お前のきれいさに心を奪われないような男なんて、どこにいるだろう?”

 “嬉しいわ。そんな言葉を言ってもらって”と、リサはにっこりして答えた、“でも、このまま立っているわけにも行かないわ。どうするの?”

 “そうだね”と、ぼくは、我に返ったような気がして、言った、“きょうはこんなにいい天気なんだから、もう少し遠くまで行ってみようよ。ねっ、いいだろう? 久し振りにお前が帰って来たんだから、きょうは子供に返ったような気持で、ひとつ、地平線でも追いかけてみようじゃないか”

 リサは、心からあふれるような笑顔になって、ぼくに手を差し出して、言った、

 “いいわ。それじゃ、行きましょ”

 ぼくは、彼女の手を取ると、二人で、丘の、自転車を乗り捨ててある上の方まで足早に登って行った。

 

 再び、風を切る自転車の旅が始まった。道は細く、また上下左右にうねっていたので、漕いで行くのはひと苦労だった。しかし、なだらかな草むらと、森と、うろこ雲におおわれた、かすむような地平線と、その眺めの美しさに、疲れはいやされそうだった。リサは、ぼくのすぐ後ろを、風を切ってついて来た。ときどき見える彼女のきれいな足が、ぼくの目を楽しませた。時々ぼくは自転車を止め、下の方に広がる森や、民家や、向こうの丘などを指さし、彼女に場所の説明をしてやった。時折り空を横切って行くかっこうの巣が、あの森のどの辺にあるかまで、ぼくは知っていた。

 

 “もうこの辺でいいわ”とリサは言って、疲れたように、樫の幹に背をもたせかけると、地べたに両足を投げ出して、坐り込んだ。ただ、スカートだけは、めくれないように両手で、しっかりと押さえていた。


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223

それから、ぐったりとして、顔を空に向けると、まぶしそうに目を細めながら、空を見つめた。彼女のところには、木洩れ陽が射し込み、彼女の全身に、明るい光と影とのまだら模様を形づくっていた。

 ぼくも、自転車を置くと、彼女のそばまで歩いて行った。

 “疲れたかい?”と、ぼくは、彼女のそばに立つと言った。

 彼女は疲れ、暑そうだった。しかし、ぼくも、リサと同じように疲れていた。ぼくも、リサに習って、その場にしゃがむと、彼女の横に並んで坐った。そして、つくづくと周囲の景色を眺めた。周りは一面の草むらで、遠くには、青い、地肌がむき出しのそう高くない山が二つ、あいだに谷を造るように並んでいて、その谷間には、さらに遠くの、いっそう青い山と、その彼方の、うっすらと、筋のような雲とが見えていた。空気は澄んで、緑が美しかった。山のふもとの林の陰に、ほんの少し、民家の屋根がのぞいて見える。空は穏やかで、山の青さが素晴らしかった。

 リサは、ぼんやりと、穏やかな空を眺めていた。ぼくも、彼女と並びながら、彼女が見つめている淡い空の一点を見つめた。

 “ねえ、何か見えるかい?”と、ぼくは、それとなく尋ねた。

 “何も”と、リサは、うっとりとしながら答えた、“ただ、白い雲が見えるだけ。でも、帰って来て本当によかったわ。こんなにのんびりして、落ち着けることができるんですもの…”

 “そう思ってもらえて嬉しいよ”と、ぼくは言った、“忙しいお前にとっちゃ、ここは久し振りの田舎かも知れないけれど、ぼくにとっちゃここは、おなじみの場所なんだ。でも、いつ来てもいい。ここへ来るたびに、ぼくは、あの山の向こうに、あの谷間の向こうに見えるあの山の向こうまでも行ってみたい、という気にかられるんだ。そう高くなさそうな山だから、山頂まで登って降りて―― そうすれば気分も爽快だろうな。そんなことを考えるんだけど、実はまだ一度も実行したことがないんだ…”

 リサは、ぼくに言われるままに、青い岩肌の山の方に目を向けた。岩肌だけど、ふもとの方には美しい緑が広がっている。

 “兄さんって、いつもこんなところで、自然との対話をしているのね”と、リサは、ぽつりと言った、“でも、考えてみれば、それもなかなかいい生活ね。あたしも、つい一年程前、そんな生活をしていた頃のことを思い出すわ。でも、そんなことがあったって、まるで夢みたい”

 “夢じゃなく、本当にあったのさ”と、ぼくは言った、“お前は、ここへまではまだ来たことがなかったかも知れないけどね。――でも、この辺には、ぼくたちの知らない場所がまだいくらでもある。そしてそれぞれが、新しい発見でもあるし、驚きでもあるんだ。そういうものを次々にもたらしてくれるから、ぼくはここが好きさ。ぼくの心を、いつでも、帰ろうと思えば、童心に帰らせてくれるし、またある霊感を与えてもくれるんだ。そういうここが、ぼくは大好きさ”

 “他へは行こうとは思わないの?”と、リサは尋ねた。


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224

 “まだこの辺が、大きな魅力で包まれている限りはね”と、ぼくは答えた、“でも他にも、魅力に富んだ土地がいくつもあることを、ぼくは知っている。セーラがいた場所がそうだったし、ぼくたちの生まれ故郷だってそうだ。…いつか、生まれ故郷に行って見たいとは思わないかい?”

 それとなく水を向けた言葉に、リサは、黙って考え込むような顔になった。

 “そうね、いつか暇ができればね”と、リサはやがて言った、“もう随分長いあいだ行っていないんだから、故郷の様子も変わっているでしょうね。でも、一度は行ってみたいわ。それもひとりじゃなく、兄さんと一緒にね”

 “いつかお前は、そのことを言っていたことがあったんだよ”と、ぼくは、それとなくリサに言った、“――でもお前は、それを実現する前に、この家から出て行ってしまった”

 “あら、御免なさい”と言ってリサは、ぼくを見た、“そう言えば昔、兄さんにそんなことを言ったことがあるような気がするわ。でも、すっかり忘れてしまって。――でも、今度こそ本当よ。いつか、必ず行きましょうよ”

 “いつか必ずね”と、ぼくは答えた、“いつか、お前と二人きりで故郷に行ける日が来ることを、ぼくはこれからもずっと楽しみにしているからね。行ってみれば、なんだこれだけのことかとがっかりするかも知れないけれど、でもあそこは、なんと言ってもぼくたちのふるさとなんだからね。ぼくたちのあの家がまだそのまま残っていれば幸いさ。あそこには、ぼくたちの学校もあれば、よく遊んだ小川や森もある。パパの勤めていた町の高校もあれば、ママが一時働いていたあの汚らしい養鶏場は、今どうなっているだろうか?”

 “みんなきっと、今も残っているわよ”と、リサは答えた。

 “そうならいいんだけど”と、ぼくは言った、“こんな風に考えると、あの頃のふるさとの様子が目に映ってくるな。実は、ぼくは最近、おかしな夢を見たんだ。それは間違いなく、ふるさとのあの家だった。ぼくは、窓から身を乗り出すようにして、西の空を見つめていた。というのも、雲が厚くて、太陽の円い姿が、ほんのかすかにしか見えていなかったからさ。おかげで陰気な気分にさせられたし、実際、周りも陰気だった。ところが、おもての方から友だちの声が聞こえて、ぼくはその方に振り向いた。それは、こちら側とは反対側南の玄関の方から聞こえて来たんで、ぼくはそちらへすっ飛んで行ったんだけど、すると南側の窓から急に明るい日光が、パッと差し込んだんで、ぼくは驚いたのさ。今、向こう側で、沈み行くばかりの陰気臭い太陽を見ていたばかりじゃなかったのかい? それなのにこの明かりは、一体どこから来ているのだろう? しかしそのときはそんなに疑問にも思わず、友だちの待っている明るい外の方へ ぼくは飛んで行った”

 “つまり、太陽が二つあったというわけ?”と、リサは言った、“どこかの天体ならそんなところもあるかも知れないけれど、兄さんってときどき面白い夢を見るのね”

 “それがここじゃなく、あのふるさとの家だったというところに何か意味があるのさ”とぼくは言った、“お前は見ないのかい? ふるさとの夢なんか”


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225

 “だいたい夢って、見ることはあっても、朝まで覚えていることがないのよ”と、リサは言った、“毎日、どんな夢を見てるんでしょうね、あたしって”

 “お前のその頭を、ぼくのこの手で思い切り振ってやれば出て来るかも知れない”と、ぼくは言った、“一度、そうさせてくれるかい?”

 “やめてよ、そんな乱暴なことは”と、リサは恐れて言った、“そんなことされれば、目が回ってしまうじゃない”

 “やらないよ”と、ぼくは、向き直って言った、“こんなに景色のいいところなんだから、お前を悲しませるようなことは、何もやらないよ”

 

 “ぼくたちは、随分遠くまでやって来てしまった”しばらくしてから、ぼくは、ぽつりと言った、“そうは思わないかい?”

 “どういうこと? それは”と、リサは、疑問あり気に、ちらっとぼくを見て、言った。 “さっきお前は、一年程前にここに住んでいた頃のことを思い出す、と言ったね。でも、そのことは、もうあれから一年以上が過ぎたということを意味しているんだ”ぼくは言った、“あの頃からもう一年以上がだぜ…”

 “本当に早いわねえ”と、リサはしみじみと言った、“街にいると何も考えずに生活しているけれど、そのあいだにどんどん時が経ってしまうのねえ…”

 “…ここにいると、毎日がのんびりと過ぎて行く”と、ぼくは言った、“でも確実に一日の終わりはやってくるのさ。あるときは、憂いを帯びたような空の色を伴って、またあるときは、歓びとか、あこがれとか、希望の輝きを残しながらね。そのようにして、この辺も、徐々に暮れて行く。そのときが、一日でも一番美しい時さ。その美しいときが、ほんの少ししか続かないということが惜しまれるけどね。でもまた、翌朝は翌朝で、美しい朝が訪れる。そういう毎日を過ごしていると、次第に、そんな気がして来るんだ。ぼくたちは、随分遠くまでやって来てしまった、って。ここまでやって来る必要が、あったろうか、って…”

 “それ、どういう意味? あたしにはよく分からないわ”と、リサは言った。

 “お前も、一年以上も昔は、ここで生活していたことがあったんだ。そんな気になったことはなかったのかい?”と、ぼくは言った、“つまり、故郷を捨て、都会の生活も捨ててよくもまあ、こんな片田舎にまでやって来てしまったという、ぼくのこの人生のことを言っているのさ。ここまでやって来る必要があったのだろうか? もしそうなら、どうしてそこまでしなければならなかったのかって、つくづく考えるのさ。考えても答えは何も見つからないけれどね…”

 “人生って、そういうものなのよ”と、リサは言った、“あたしにもよくは分からないけど、人は、それぞれに生きて行く他はないわ”

 “正直な話し”と、ぼくは言った、“これからも先に人生があるなんて思うと、ぞっとするよ。だって何も、いいことなんて待っていそうもないんだからね。ぼくの人生はすべて、過去で終わってしまったんだ。


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226

つまり、ぼくの人生の一番いいときが、既に過去に存在したし、もうそれで十分だという気がするんだ。もう十分生きたという気がするからね、これ以上生きて、いいことがありそうな気がしないのさ。でも、今までの人生で満足しているわけじゃない。これでよかったなんて、とても言えそうもない人生だったし、昔のある時期を除いて、むしろ不満だらけの人生さ。それでときどきこう思うんだ。あの事件以降のぼくは、死んでしまったんだって。生きてはいないのさ。だから、これは不可能なことかも知れないけれど、それ以降のぼくの人生は、なかったものにして欲しいのさ。取り消しの効かないぼくの人生に、異議申し立てを行いたいんだ。そして、ぼくはもう一度、あの時点に戻って人生をやり直したい。それは、不可能なことだけれどもね。でも、やろうと思ってできないことじゃない。つまり、頭の中で、空想の中で、もう一度人生をやり直すのさ。恵みの少ないぼくに、幸いの多い人生を思い描くことは、困難を伴うだろうけれど、是非ともそうしたいと思うのさ。実際、ぼくが夢見、頭の中で考えているのは、こうなるわけのないもっと違ったぼくの人生なのさ。つまり、こんな風に孤独になるのじゃなくて、みんなと同じように生活をしているそんなぼくの姿なのさ。それは、今のぼくにはほとんど不可能なことかも知れないけれど、ぼくが空想の中ででも実現したい、もう一つのぼくの姿なのさ…”

 “兄さんはそれを、これから書こうと言うわけ?”とリサは、真剣な表情をして言った。

 “ああ、それがあるから、ぼくは今後も生き続けることができるのさ”

 “寂しい兄さん”とリサは言った、“兄さんはまだまだ色んな風に生きれるのに、そんな修道僧のような人生を選ぶなんて。兄さんは、兄さんが思っているほど孤独じゃないわ。ちゃんとあたしという妹がついているんですからね。それにあたしは、今までの人生を、恨んだり、悔やんだりなんかしない。でもそれは、人それぞれの考え方で、兄さんがそう思うのなら仕方がないわ。兄さんがこれから、そういう人生を選ぶと言うのなら、いいわ、あたしは黙って横から見守っていてあげる。応援もするわ。ねえ、こんなにか弱い妹が兄さんに声援を送っているのよ。それに答えるように、兄さんも頑張ってね”

 “そう言ってもらって嬉しいさ”と、ぼくは言った、“とくにお前のようなきれいな妹に言ってもらえるのはね。これから先、ほとんど無に等しいぼくの人生に張りができると言うものさ。もう生きる楽しみ、というものは期待できなくとも、これからは、書く楽しみ、空想の楽しみ、というものがぼくを待っている、というわけさ。これから何年生きれるかも分からない長い人生を、ぼくは執筆と、空想と、詩作にふけりながら過ごしたいと考えているのさ。そうしてこそ初めて、ぼくの人生の欠けていた部分は埋められ、満足の行くものになることができるだろう…”

 “兄さんがそう思うなら、そう思うようにやってよ”とリサは言った、“あたしも読者になるわ。姉さんだってきっと読者になってくれるに違いないわ。だから、いいものを作って。今から、それが出来る日が来るのを楽しみにしているわ。――でもただひと言、言わせてもらうわ。それに専念するのも結構だけど、他にも人生があるのだということを忘れないでね。例えば、あたしが今生きているような人生よ。人は生きて行くんだし、死んだ風に生きて行くことはできないものよ”


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227

 “今の言葉、肝に銘じておくよ”と、ぼくは言った、“ぼくは余りにも悲観的過ぎる。そうあってはならないと言うお前の言葉を、ちゃんと、ぼくの胸の中にしまい込んでおくよ”

 そう言って、ぼくは微笑みをリサに送った。ぼくがつい今しがた恋人のように感じた彼女、その彼女が、ぼくの心の中までも覗き込み、声援を送ってくれさえしてくれたのだ。この地上に、こんな幸せなことがまたとあるだろうか? ぼくはもう、きのうのように孤独ではなかった。きのうのように寂しいとは感じなかった。逆に、幸せで震えていた。こんなきれいで、心の優しい妹が、きょうこの日、ぼくの傍らで、この美しい草原の木陰に坐っていて、しかも肩を寄せ合うようにしながら、共に人生について語り合っていたのだから…

 

 “…ねえ、あの青い山を越えて、山の向こうのあの白い雲のところまで飛んで行きたい。そんな気がしないかい?”とぼくは、心が晴れて言った、“それは同時に、ぼくが今ここにいる、この現在をも飛び越えてしまうことを意味しているようにも思えるんだ。遠いあの雲が呼んでいるのは、ぼくの過去なのだろうか、それとも未来なのだろうか… あの山にさえ切られた向こうには、ぼくの過去があるし、未来もある。そんな気がするんだ。様々な過去、ぼくの人生の後ろ側の世界さ。それが、あの山を見ていると、その背後に見えて来るような気がするのさ。その一つ一つを、ぼくは書きたい。なぜって、その一つ一つは、ぼくの生きた証しなのだからさ。今も目に浮かぶ。遠いぼくの子供の頃――それはなんと、遠くへ行ってしまったのだろう。あの遠い、小さかった頃のお前が、今はこんなに大きくなって、ぼくの横にいる。おかげで、もうぼくは、小さかった頃の可愛らしかったお前の姿を、永久に見ることができないのさ。…しかし、あの山の向こうの雲の下には、小さなお前が今も住んでいるような、そんな気がするのさ。時って、不思議だとは思わないかい?”

 “あたしたちの子供の頃は、もう済んでしまったわ”と、リサは冷静に言った、“でもあたしたちの心の中には、まだ子供時分が生きている。兄さんがそれを復活させ、書きたいと言うのなら、誰もそれを止める者はいないわ。現実のあたしは、もう子供に戻ることは無理だけど、兄さんの頭の中で自由に、あたしを子供に戻してもらっても結構よ”

 “いや、今のお前はお前さ”と、ぼくは言った、“今のお前が一番きれいだよ。このときを逃すわけには行かない。あとになって、今のお前が一番きれいだったと思う日が、きっと来るはずさ。そんなときの為にも、今を見つめることが大切なのさ…”

 “あたしがおばあさんになれば、きっとあの頃は良かったって思うに違いないわね”と言って、リサは笑った、“ねえ、今を見つめることが大切だと言うのなら、もっとお互い、見つめ合いましょうよ。子供の頃がそうだったように。今、生きているあたしを見つめて。今、生きている兄さんを見つめるわ。あたしたちは今、生きているのよ。ここで、この今…”


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228

 “そうだね…”と、ぼくは言った、“お前ははるばると、久し振りに田舎に帰って来た。せっかく遠くから帰って来たんだから、もっと歓迎をしてやらなくっちゃ。さっき、ぼくは、故郷を捨て、都会を捨てて、と言った。ぼくはそれでお終いだけど、お前はさらに、この田舎まで捨てたんだから、そんなお前に、心から乾杯さ”

 そう言ってグラスをかかげるふりをすると、リサは、かたわらに坐ったまま笑顔で答えてくれた。ほの暖かい草むらに、爽やかな風が駆け抜け、なんと言うこともなく、心地良かった…

 

 “…ねえ、昔は、目の前に広がる草原や、向こうに見えるあの森のような所で、お前たちとはしゃぎ回ったものさ。そういう時代はもう帰っては来ない”と、ぼくは、ぽつりと言った、“でも、今は今で、今のお前がいい。せっかくお前はこの田舎に帰って来たんだから、もっと楽しい話しをしなくっちゃ”

 そう言って、ぼくはふと、リサの方に目をやった。彼女は、うっとりと、遠くの方を眺めている。その彼女の横顔は美しかったし、ぼくは、彼女の表情の奥に、ちらっと、自分たちの遠い、過去の時代を見る思いがした。

 “確かに人間は、詩だけでは生きては行けない”と、ぼくは言った、“またそれだけが人生だと言うわけでもない。もっと色々と人生というものがあるはずさ。これからもぼくは、色んなことを試して見たい… さあ、そろそろ行こうか、リサ”

 そう言って、ゆっくりと、ぼくは立ち上がった。立ち上がると、ぼくは、それとなく、草原の方に走った。それから振り返ると、彼女に向かって言った、

 “おいでよ、気持がいいよ!”

 リサは、ゆっくりと樫の木の根っこで立ち上がると、ぼくの方に向かって歩いて来た。

 “見て御覧”と、ぼくは、とぼとぼと歩いて来た彼女が来るなり言った、“見渡す限り草原さ。ここがぼくの世界で、この広い世界に、今、ぼくとお前しかいないのさ。ねえ、この素晴らしい空気を思い切り吸おうじゃないか”

 そう言って、ぼくは、両手を下に広げ、気持良さそうに目を閉じると、思い切り深呼吸をした。リサは、そんなぼくを、傍らに立って、ぽかんと見つめていた。

 ヒンヤリした風が心地良かった。

 “ねえ、それじゃ女王様”と言って、ぼくは彼女のそばに歩み寄ると、ひょいと彼女を両手で抱き上げた。

 リサは余りの突然で驚いた顔をしたが、すぐされるままになり、ぼくに抱かれたまま、片方の腕をぼくの背に回した。彼女の体重と感触とが、すぐぼくの両腕に伝わった。ぼくは彼女の愛らしい目や髪を見つめ、そして言った、“あの自転車の置いてあるところまで抱いて参じましょ”

 “あたしって、重い?”と、リサはにっこりして、ぼくに言った。


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229

 “ああ、重い、重いよ”と、ぼくは大げさに言った、“でも、お前の柔らかい体を抱いていられるんだから、辛抱するよ”

 リサは笑いながら、目を空に向けた。ぼくはゆっくりと、彼女を抱いたまま、樫の木のそばで、まるで二頭の馬のように並んでいる、ぼくたちの自転車の方へと向かった。

 “さあ着いた”と言って、ぼくは、彼女を自転車のサドルの上に置いた、“お前が重いから、汗をかいたよ”

 “嘘!”と、リサは抗議した、“あたしってそんなに重くないはずよ。兄さんの腕がどうかしてるんじゃない?”

 “嘘。嘘だよ、御免”と、ぼくは軽く謝った、“本当は、お前は軽くて、とても抱き心地が良かった。こんないいことなら何度でもやらせてもらいたいぐらいさ。もっと強く抱き締めたり、空へほうり投げたり…”

 “そんなことされれば大変”とリサは言った、“そうされないうちに早く出発しましょ”

 そう言ってリサは、自転車を動かした。ぼくも、遅れては大変と、すぐ彼女に続いた。

 

 すぐ丘の細い道にやって来て、ふもとの方には、草に囲まれた大きな、澄んだ湖が横たわっているところを走るようになった。ぼくは前を走っているリサにそれとなく話しかけた。

 “分かったよ”とぼくは言った、“ずっとぼくは考えていたんだ。さっき、ぼくが言った言葉の意味を”

 “何?”と言って、リサは少し後ろを振り向くようにして走った。

 “いや、随分遠くまでやって来たと言った言葉の意味がさ”とぼくは少し声を大きくして前を行く彼女に向かって言った。

 しかし風を切って走る彼女には、少し届かないようだった。

 ぼくは、それにはかまわず続けた、“つまり、随分遠くまでやって来たと言う意味は、ぼくは世の中を十分に生きずに、逃げて来たという意味なのさ。それで、現在、孤独なんだ。――でも、今、やっと目が覚めたよ。ぼくはもう一度、冷静になって世の中というものを見つめ直す必要があるのさ。どうしてぼくは、こんな遠くまで逃げ込んで来なければならなかったのか、その理由についてもね。それが、随分遠くまでやって来たという、本当の意味なのさ。分かるかい? ぼくの言っている意味が…”

 “随分遠くが何なの?”リサにはやはり聞こえていないようだった。

 しかし、ぼくの言うことを聞こうとして振り向きかけたとたん、自転車は、道からそれて丘の斜面を下り始めた。リサの悲鳴と共に、急な斜面のせいか、自転車は益々勢いを増して、あのぽっかりと大きな穴を広げて待っている無気味な湖に向かって突っ走って行った。

 “リサッ気をつけろ!”と、ぼくは自転車を止めて叫んだ。


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230

 しかしとっさのことで救いに行くこともできなかった。ところどころ木が生えているその間をうまくくぐり抜けながら、リサの乗っている自転車はころがり落ちて行ったが、あと湖まで数メートルというところで、リサはキャッと叫びながら危機一発、自転車から脱出することができたのだった。自転車は、主がいなくなったままの形で、そのまま湖に突っ込んで行った。

 自転車から投げ出されたリサは、しかし、その場で倒れ伏していた。髪の毛を振り乱し、痛そうに、自分のももをさすっていた。

 ぼくはすぐ彼女の下へ駆けて行った。

 “大丈夫かい? どうもなかったかい?”とぼくは、倒れている彼女のそばへ行って、言った。

 “ちょっと、お尻を打ったらしいの”とリサは、哀れな姿を見せながら、ぼくを見上げて言った、“それに、自転車からほうり出されるとき、足を引っ掛けたらしいわ”

 見ると、可愛いくるぶしのところから、血がにじみ出ていた。ぼくはすぐハンカチを取り出して応急処置をした。

 “痛むかい? 他はどこか痛いところはないのかい?”とぼくは、彼女が痛々しそうにももをさすっている手を見つめながら言った。

 “ええ、大丈夫よ”と、リサは言った、“お尻を強く打ったらしいけれどもう大丈夫。でも驚いたわ。こんな怖いことなんて初めて…”

 そう言って彼女は、自転車が落ちて行った湖の方に目を向けた。ぼくも立って、自転車を見た。自転車は無残にも湖に突っ込み、かなり深く沈んで、すぐには引き上げられそうにもなかった。

 “御免。せっかくのまっさらな自転車だったのに…”とリサは、その様子を見て、申し訳なさそうに言った。

 “かまわないさ。お前が湖にはまらなかっただけでも不幸中の幸いというものさ”と言って、ぼくはリサを慰めた、“それで立てそうかい?”

 “ええ、なんとか”と言って、リサは、ちょっと顔をしかめながら、なんとかぼくの手の支えもなく、起き上がった。しかし、ちょっと歩いたところ、左足を、ビッコを引き、見るからに痛々しかった、“大丈夫。なんとか歩けるわ。でも、自転車はもう使えないの?”

 “あの状態じゃねえ…”と、ぼくはもう一度、確認をして言った、“いいさ。ぼくの自転車に一緒に乗って帰ればいい。でも、荷台に坐ってもらわなくっちゃならないけど、大丈夫かい?”

 “なんとか行けそうよ”とリサは、笑顔で答えた。

 “それじゃ行こう”そう言ってぼくは、彼女が歩くのを見守った。

 リサは、痛々しそうに、左手でももをさすりながら、右の足首に血のにじんだハンカチを巻き付け、ビッコを引き引き、ゆっくりと歩き始めた。その哀れな姿が、なんとなく可愛く、滑稽だった。


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231

 

 自転車のそばへやって来ると、リサは哀れっぽく立ち、小さな荷台を見つめた。

 “どうやって乗るの?”と、リサは尋ねた。

 “ぼくが先、自転車に乗るからさ”と、ぼくは言った、“荷台から落ちないようにしっかりぼくにつかまるといい”

 “でも、揺れれば痛そうね”と、リサは、心配そうな顔をした。

 “文句は言わないこと”と言って、ぼくは自転車に乗って、しっかりと構えた。そして振り向き、リサが乗るのを見守った。

 リサは、仕方ないとあきらめたらしく、横向きにゆっくりと荷台に坐り、静かに腕をぼくの腰に回した。

 “あまり揺らして、落とさないようにしてね”と、リサは念を押した。

 “そうならないようにもっとしっかりつかんで”とぼくは言った。その言葉で、リサは、寄りかかるように一層強く、ぼくを抱いた、“そう。それじゃ行くよ”とぼくは言って、自転車をゆっくりと走らせた。

 

 自転車はリンゴの並木のあいだをぬって走り、だんだんと事故現場の湖から遠ざかって行った。リサは、自転車を残した静かな波打ち際を、その姿が見えなくなるまで、いつまでも見つめていた。それから何か感傷にふけるかのように、頭をぼくの背中に寄せつけた。ぼくにもそれが感じられた。いい気持だった。自転車は風を切って走り、空気も、周りの景色も、申し分なかった。しかもリサのぬくもりが、背中を伝わって、ぼくにも感じられて来た。

 “乗り心地はどうだい?”と、ぼくは自転車を走らせながら、言った。

 “思っていたよりはいいわ”と、リサは言った、“兄さんの運転って、意外とスムーズなのね”

 “お前が痛がらないようにって、慎重に運転しているからね”とぼくは言って、ぼくの前に回された、彼女の細い、白い腕を見た。

 “…でも、こんな風に乗るのって、久し振り。何年振りかしら?”と、リサは言った、“ずっと昔を思い出すわ。よく兄さんに自転車を乗せてもらったときのこと…”

 そう言や、そんな頃もあったね”と、ぼくは朗らかな口調になって言った。

 “兄さんはよく自転車に乗って、あちこち連れて行ってくれたじゃない”とリサは言った、“ちょうど今みたいにあたしが後ろに乗って、しっかり兄さんをつかんでて、まるで今と同じね。…でも楽しかったわ。今度はどこへ行くんだろうと、そんな期待みたいなものがあったりして…”

 “ぼくはただ、お前を乗せるのが楽しかっただけさ”と、ぼくは言った、“お前を後ろに乗せりゃ、行き先なんて自然に決まったものさ。きょうはあの橋を渡って、まだ行ったことのないあの森を探検しようとか、村のはずれの崩れかかった工場跡へ行ってみようとか、そんなあんばいさ。…でも、あの頃は本当に楽しかったな。一番楽しかった時代さ。家にはママがいて、パパがいて…”

 


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232

 “そうね。あたしも、兄さんの自転車に乗っているのが一番楽しかったわ”とリサは言った、“クラスの友だちにそのことを言ってやるとみんな羨ましがっていたわ。あたしもそんな風に乗って行きたいって、みんな言っていたわ”

 “お前、そんなこと、学校でしゃべっていたのかい?”とぼくは驚いて言った。

 “言っちゃ悪かったの?”と、リサは、背中から頭を離し、ぼくを伺うように言った。

 “そんなこと、みんなに知られているなんて、ぼくは知らなかった”とぼくは言った、“でもいいよ。お前がクラスメートに言いたくなった気持、分からないでもないからさ。ぼくだって、こんなに可愛い妹を自転車に乗せて連れて行ったことを、みんなに自慢してやりたかった…”

 “それで言ったの?”とリサは尋ねた。

 “いや、言わなかった”とぼくは答えた、“クラスの友だちでお前たちのファンが随分多いようだったけれどね、そんなこと言えば、周りからなにされるか分からないから黙っていたのさ。いずれにせよあの頃は、夢みたいな時代さ…”

 “夢の彼方に行ってしまった…”と、リサは再び、ぼくの背に頬を寄せると言った、“そう?”

 “そう”とぼくはうなづいた、“みんな夢の彼方へ行ってしまった… ぼくも、お前も、ママも、セーラも、学校も、家も、クラスメートも。みんな遠い昔の話しさ。でも、そういう時代があったということは、幸せなことさ。そうは思わないかい?”

 “そうね”とリサは言った、“でも、今だって同じよ。違いと言えば、学校も、クラスメートも、ママやパパの待っている家もないと言うだけ。そうでしょ?”

 “その違いが大きいのさ”とぼくは言った、“家には誰も待っていなくて、学校の親しい友だちもいないと言うのが大きいのさ。今はこの寂しい場所で二人きりなんだ…”

 “いいじゃない、二人きりだって”とリサは言った、“今は家に誰も待っていなくたって、そのうち、待ってくれる誰かを見つければいいじゃないの。兄さんの運転は、昔も今も少しも変わりないわ。あの頃の元気を、今だって出せないはずないじゃないの…”

 “そうだね”とぼくは言った、“こんなにいい天気なんだ。しかもお前を乗せて不満を言うようじゃ、神様に叱られるよね。あの頃と今とじゃ、違うんだ。その違いを、はっきりと認識しておかなくっちゃ…”

 “それで兄さん”とリサは、問いかけるようにぼくに言った、“きょうは自転車に乗っけて、あたしをどこへ連れて行ってくれるの?”

 “きょうかい?”と一瞬うろたえてぼくは言った、“きょうは魔法の国へ、と言いたいところだけど、残念ながらぼくの家にさせてもらうよ”

 リサは満足そうに頬をすり寄せ、一層強くぼくの体を抱いた。

 “余り強く抱くと危ないよ”と、ぼくは一寸バランスを失いそうになって言った、“もう少しお手柔かに…”

 “でも”とリサは言った、“兄さんを抱いていると、暖かくて、気持がいいんだもの”


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233

 “好きなようにしろよ”とぼくは言って、しっとりとして、のどかな田園風景の中を、ゆっくりと、大きな木立の見える丘に向かって、自転車を走らせて行った。

 それは、秋の穏やかな日の午後のことだった。もし誰か人がいたとしたら、のどかな田園風景の中を駆け抜けて行く一台の自転車の光景を目にしたことだろう。それは、忍び寄る寂しさの秋の空を背景に、精一杯朗らかに、楽しそうにふるまって、自転車に乗っている兄と妹との姿である。それは、この静かな田園に響き渡るただひとつの楽しげな声、幸せそうな点景となって、憂いを含んだ秋の大地の上を、静かに通り過ぎて行ったに違いない。前の兄は姿勢を正しく、しっかりとペダルを踏みながら、後ろの妹は、長い髪の毛やスカートの裾を風になびかせながら、やがて小さな寄り添う二つの影となって、この視界から消えて行ったことだろう。しかし、幸せそうなこの二人の先に待っているものは、希望? それとも絶望?

 

 絶望であるはずがない。こんなに二人、幸せなのだから…

 

 まぶしいばかりの緑地帯の輝きの中を、ぼくはリサを後ろに乗せて走った。冷たい風を正面から受けて、気持良かった。ぼくたちの行く先をさえ切るものは、青ずんだ丘や、地平線の他は、何もなかった。薄曇りの空からは光が射し込み、秋の神秘な美しさを感じさせた。この広い大地に、緑と森と光の他には何もなかった。ただ静けさと、神秘な美しさと、笑いの他には…

 

 “ねえ、あんなところに花が咲いている”と、リサは、道端の草むらに小さくまとまって咲いている黄色い草花を見つけて言った、“何んという花なんでしょうね。可愛いわ”

 “ほんとだね”とぼくもそれを見て言った、“小石のそばに咲いているのがきれいだね。でも、持って帰るわけには行かないよ”

 “そうね。自然のまま咲いているのが一番”と、リサは言った、“天気はいいし、景色は流れる。最高ね”

 “その分、ぼくがしんどい目しているのさ”と、ぼくは言った、“もう少し走ったら休ませておくれよ、頼むからね”

 “いいわ、お好きなように”とリサは楽しそうに答えた。

 

 しばらく走ってぼくたちは、自転車を草むらに倒し、急な斜面の岩膚に腰を降ろしていた。空気はヒンヤリして、少し肌寒くさえ感じられた。ぼくたちのずっと前方には、平坦な草地が、幾重にも幾重にも折り重なるように続いていて、うっすらとした地平線の彼方の方で消えていた。ゆるやかな斜面のところどころに森があり、農家が見え隠れしていた。煙突から煙を吐いている家もあった。ここから見ている限り、それらは一幅の絵のようにしか感じられず、生活の営みといったものは全く感じられなかった。


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234

 “少しは疲れがとれて?”とリサは、岩に軽く腰掛けた姿勢のまま、ぼくに尋ねた。

 ぼくは草むらに腰を降ろし、急な斜面に背をもたせかけていた。

 “実を言うとそんなに疲れてはいないのさ”とぼくは答えた、“ただ少し休憩がしたかっただけなんだ。なんとなく、急に思うことがあってね…”

 “何よ、それ?”とリサは尋ねた。

 “いや、別に大したことなんかじゃないんだ”と、ぼくは答えた、“ただ、この淡い秋の光が、ぼくを、思いがけない場所へ連れて行ったような気がしてね。それはここじゃなく、大きな街なんだ。つまり、お前たちと一緒にアパートで暮らしていたときのことをふと思い出してしまったんだ。どうしてかは知らないけれどね”

 リサは興味ある瞳でぼくを見つめていた。

 “あの頃は寂しかった”と、ぼくはひとりでに続けた、“辛かった。どん底だった。しかし今となってはなつかしい気もするのさ。あんな時代もあったんだって。もう一度帰ってみたい気さえするよ。街にはなんでもあったからね。悲劇も、映画館も、飲み屋も、恨みも笑いも、みんな一緒くたなんだ。とくに、秋の裏通りは寂しかった。街のあいだを流れる川だってそうだ。表通りだって、人通りが少なければ同じことさ。あの頃に、ぼくは徹底的に、人間の悲しさというものを知ったんだ。いつもひとりで歩き、見て、知ったのさ。街で遊んでいるどの子も決して幸福にはなれないんだって。その見方は余りにも悲観的過ぎたけれども、少なくともぼくにとっては真実だったのさ。お前も、ぼくもセーラも、決して幸福じゃなかったんだからね…”

 “どうしてあたしたちが幸福じゃないって分かるの?”とリサは初めて口を利いた。

 “だってあの薄汚れたアパート”と、ぼくは言った、“あれを見るだけで幸福じゃないことぐらいすぐ分かるさ、馬鹿でもない限りはね。そこに押し込められた生活――それが、ぼくたちの青春時代だったのさ。暗くて、じめじめして、孤独で、金もなく、口を開けばいがみ合うばっかりの、恋も、歓びもない、そんな毎日だったのさ。――でも、今となればそれもなつかしい気がする。そこには少なくとも生活というものがあったんだからね。それに、人生に目標みたいなものもあった、つまり、一刻も早く、このような息詰まるような暗い人生に見切りをつけて、そこから脱するか、というような深刻な目標がね。しかもその目標が、夢のようでもあったけれど、大もうけをしてもっといい生活がしたいというような、きわめて現実的な目標でもあったのさ。考えることと言えば、金や女やぜいたくや、そんなことばかりだったのだからね。――でも今は、こんなに浮世離れしてしまって、ある意味では、あの頃よりもいっそう孤独な生活をしているんだ。それで、こんな光の日、ぼくはあの頃のことを思い出したりしては、なつかしがったりしているのさ…”

 “兄さんはもう一度、街には戻らないの?”と、リサはそれとなく尋ねた。

 しばらく考え込んだ後、ただひと言、

 “分からない”と、ぼくは、真剣な表情をしたまま答えた。


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235

 だって、本当に分からないからだ。既に苦い経験を積んでいるぼくに、都会で再び生きて行けるものか、全く見当もつかないからだった。無理して都会で住むよりも、こうして静かに田舎で暮らしている方が、今ははるかにいい。しかしこの生活は、未来へ羽ばたく為の小休止と言うよりも、もう死んだも同然なのだ。このような生活を今後も続ける限り、ぼくはもう、生きているとさえ言えない…

 “ぼくは生活がしたい”と、やがて、ぼくはポツリと言った。それは、心の奥底から込み上げて来たぼくの本音だった。“あの雲のようにふうわりした、捕らえどころのない、あいまいもことしたこんな生活じゃなくて、もっと地に着いた、強固な、そして生活実感のある、そんな生活なのさ。それをするには、恐らく、あのキルケゴールのように、ぼくは奇蹟を必要とするのかも知れない。つまり、失われたものをすべて回復する為には、ぼくには奇蹟が必要なのさ。それがなくてもやって行けるものなら…”

 “兄さんが何に苦しんでいるのか、あたしには分からない”リサは、心配気な瞳で、ぼくを見つめながら言った。

 “つまり、どうにもならないぼくの悲観論なのさ”と、ぼくは答えた、“他のことはともかく、ぼくは、この悲観論だけ消し去ることはできない。――人生を悲観的に見てしまうこの習性を、恐らくぼくは、あの苦難の青春時代に習い知ったのさ。それほど、ぼくのあの時代は暗く、絶望的だった。これを拭い去るには、もはや奇蹟を待つより他はない。だって、こんな暗い見方、生き方をするぼくを、社会の誰も歓迎はしてくれないし、受け容れてくれるはずもないのだからね。ぼくは知っているんだ。人生の絶望とは、この絶望的な気持ちからやってくるんだ、ということを――”

 リサは黙って聞いていた。風が、その髪の毛を顔に振りかけるその表情からは、歓びが消えていた。深刻な表情で、目は、遠くを、地平線の彼方を見つめていた。

 “…だって、もう二度と帰って来ない青春時代”と、ぼくは、真剣な表情で続けた、“あれが不幸でなかったと言えば嘘になるだろう。世の中には、そういう体験を知らずに過ごす人も多いだろうけど、不幸にして、ぼくは知ってしまったんだ。ほとんど自暴自棄の、未来のない、埋没した、暗い青春時代というものをね。それは、お前たちだって、見て知っているはずのものさ。幸い、お前は、心の中までは暗くならなかった。それで救われたのさ。ところがぼくと来れば、心の中まで、もう真暗だったんだ。実際の生活以上に、心の方が暗かったのかも知れない。ぼくが精神的になんとか立ち直ることが出来たのは、全く、お前たちのおかげだったと言っていいだろう。お前たちと出会わなければ、ぼくは今頃、どうなっていたか全く分からない…”

 “兄さんが暗かった時代は、あたしも知っているわ”と、リサは言った、“兄さんを立ち直らせる為に、姉さんが一番骨を折ったのよ。――でも、その青春時代が暗かったからと言って、今さらどうなのよ?”

 “ぼくは、その暗い青春時代を、いつまでも見続けて行きたい”と、ぼくはポツリと言った、“だって、忘れることは出来ないし、それどころか今だって確実にそのことは尾を引いているんだから。生活の安定した今だってね。


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236

ぼくの孤独癖、ときどき起こるどうにもならない悲観論――これを、キルケゴールは「憂欝」と名づけたけどね、それらは、あのとき体験した絶望の痕跡なのさ。それらは深ければ深いほど、大きければ大きいほど、ずっと後々まで長引いて行くものなんだ…”

 “それで兄さんは見つめて行こうって言うのね”とリサは小さく言った、“これから先もずーっと、世間から身を引いて、たったひとりで…”

 “この静かな大地を見つめていると”と、ぼくは言った。目は、広々とした、森や丘や、青がすむ地平線までも見つめていた。“ぼくは分からなくなって来るのさ。ぼくの過去は何んだったかって言うことがね。あの都会。あの裏通りのあのアパート。あそこで、寒い秋の午後過ごしたことは何んだったのだろう? ぼくは、お前たちが勤めに出かけた後、ひとりで出かけ、あてもなく街をさ迷い、早過ぎる夕暮れに、どこからともなくひとりで帰って来た。アパートには誰もいなかった。孤独を感じたのはそのときさ。昼間もずっと孤独で、人生について考え事をしていたけれどね、本当に孤独を感じたのは、誰もいないアパートの部屋に帰って来たそのときだったのさ。この世でぼくはひとりなのだということを強く感じた。街を通り過ぎる誰も、ぼくとは何んの関係もなくて、街は、ぼくの手の届かない、知らないところで営みを続けていた。街を歩いていてぼくの気を誘ったものと言えば、風に舞う落葉や、その日暮らしののら犬や、貧しい服装をして遊んでいる子供の姿ぐらいなものだった。ぼくは昼間、ずっと考えていたものさ、子供の頃考え、夢見ていた理想の生活、理想の街はどこに行けばあるのだろう? そんなものはもともとどこにも存在しないものだったのかも知れないけれど、それにしても現実は余りにもお粗末で、残酷なものだった。それを知れば知るほど、ぼくの孤独と絶望は深まって行ったのさ…”

 リサは黙って、ぼくの言葉に耳を傾けていた。

 “…でもまるで夢のように過ぎ去ってしまったあれらの日々”と、ぼくは、いとおしむように言った、“ぼくが置き去りにして来たあの都会での生活、それらは何んだったのだろう? 今、ここで暮らしていると、あの頃の生活が、まるで映画の場面のように、目に浮かんで来るのさ。ぼくは、あのすさみ切った心の時代に、ただひとつ、その中に射し込んで来る一条の光のようなものを感じさせてくれたものがある。それは、あの汚れて、疲れ切ったような建物の合間からのぞいて見える澄んだ青い空と、夢誘うような美しい雲の姿とだった。その美しい空を見るたびに、ぼくの心は無性に、あの子供の頃のような田舎の生活がしてみたい、と思うようになった。そこでは、不要なものは何もなくて、雲や空は一段と身近かなものとして感じられるようになるだろう。つまり、今、ここで、こうしているような生活を夢見たものなのさ。ところが、いざその夢が実現して、現在のような暮らしをしてみたところが、何もないということが分かるのさ。ここにあるのはただ、静かな自然と、空と、大地だけなんだからね。人生って、皮肉なものさ、全く…”

 “それは、兄さんが孤独だからよ”と、リサはポツリと言った、“孤独だから、何をしても満たされない…”


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237

 “あるいはそうかもね”と、ぼくは言った、“確かに子供の頃は満ち足りていた。そこには家族というものがあったからね。ところが今は、何もない。たったひとりぽっちさ。ひとりぽっちで、こんな寂しい大地に、ぼくは暮らしているのさ。こんなんじゃ何をしても、満たされるはずはないだろうね…”

 “そこまで分かっているんじゃ、兄さんもまた家族を造ればいいじゃない”と、リサは言った、“そうすれば、孤独や絶望なんてものは、いっぺんに吹っ飛んでしまうわ”

 “家族ねえ…”とぼくは考えるように言った。ぼくの家族って、どんなだろう? そのことを思うと、言葉を継ぐこともできなかった。ぼくがこの世で愛した女。それは何人かいた。しかしみんな、夢の中にとどまった。一緒に暮らすなどと言うことは思いも寄らないことだった。一つは体、一つは心が病んでいて生活は無理だったのだ。その状態は、今は続いていないと言うことはできない… そんなに簡単にできるものなら、ぼくは何も、苦しんだりはしない…

 “家族――そういうものがあればねえ…”と、しばらくしてからぼくは言った、“しかし、夢の又夢さ、今のぼくには。自分ひとりだけの生活でも、手一杯なのさ。誰かと一緒になるなんて、想像もつかないことなんだ…”

 “…でも、一人暮らしの限界を兄さんは知っているんでしょ”とリサは言った。 

 “いや、限界までは行っちゃいない”と、ぼくは否定した、“そこまで行けば、気が触れる、ということを意味するんだからね。ぼくは本当に、気が触れればどんなに幸せなことだろう、と思ったことがある。もう何も分からなくなって、昼と夜、都会と田舎、現実と夢との境界もなくなって、人の言葉も耳に入らなくなって、ただ静かに、時が過ぎ行くままに、あの終わりが来る日まで、余生を全うして行くだけの人生なんだからね。そうなれば何も思い悩むことなんかない。ただ時の流れるままに身をゆだねるだけでいいのさ。その心の中には、人生のたそがれに向かって、どんな神秘や、不可思議や、詩的イメージや、美の世界が住まわっているのか、もはや知るよしもない。しかしぼくは、その限界まではまだ行ってはいない。今のぼくは、孤独だけれども正気さ。ぼくの精神は、狂気になるには余りにも自我が強過ぎるんだ…”

 “それが、兄さんを人に近づけるのを困難にしているとも言えるんでしょ”とリサは言った。

 “あるいはね”とぼくは言った、“でも、どうしようもないんだ。確かにリサの言うようにぼくは、一人暮らしの限界というものを知っている。その行き着く先が狂気であるということも。今、自我が強いと言ったけれども、本当は、その反対なのさ。ただ単に強がりを見せているだけで、本当は不安で気も狂わんばかりなのさ。でも、今のぼくは、これしかできない。なんとか気をしっかり持ちつつ、この寂しい田舎で一人暮らしを続ける他ないんだ…”

 薄もやのかかったような空は、明るい日射しを送ったかと思えば、またすぐ日光のない膚寒い状態を作り出しもした。空は、一部の明るい箇所を除き、陰うつで、どんよりしたものになった。


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238

 “少し暗くなったようね”と、リサは気分を変えて言った、“そろそろここを立ち去りましょうか”

 ぼくも、周りの景色と共に、空を見上げた。ちょうど、あの頃見たような空だった。あのとき、ぼくは都会で暮らしていた。そして灰色の、苦の生活の中から、空を見上げ、田舎での静かな生活を渇望したのだった。あのとき、その同じ空が、こんな寂しい、無味乾燥な田舎にまで広がっていたのだとは、どうして思いつくことができただろう。寂しさや苦しみは、都会にいても、田舎にいても、結局同じことなのだ――その人自身が置かれている状況というものが変わらない限りは…

 “そうだね、そろそろ家に帰ろうか”そう言って、ぼくは立ちあがった。そして振り向き、リサを見つめて言った、“つい寂しい話しをしてしまって御免ね。こんなこと、言うつもりはなかったんだ。でも、心の中で感じている本当のことだから、それに、相手がお前だったから、つい洩らしてしまったのさ。余り深刻に考えないで、軽く流しておくれよ、ね”

 “いいのよ、気にしなくても”と言って、リサも岩から体を離して立ち上がった。“あたしだからと思って、何んでも話してよ。あたしたちは兄妹よ、秘密なんて必要がないのよ。気がねだってそうよ。あたしは何んでも聞くし、あたしだって、兄さんに相談もするわ”

 “ありがとう、そう言ってくれて”とぼくは言って、草むらに倒してあった自転車を起こした、“じゃ、気を付けて、後ろに乗りなよ”そう言って、ぼくはサドルにまたがった。

 リサは再び、ぼくを抱きかかえるようにして、自転車の後ろに腰掛けた。

 “ちょうどこんな空さ”と言って、ぼくは自転車を発進させた、“都会のまっただ中でぼくに虚しさを感じさせた帳本人は。あれからもう何年になるだろう。再び寂しい秋がやって来たんだ。時はくり返すと言うけれど、本当のことなんだね。そんな気がするよ。そうは思わないかい?”

 “寂しいこともあるけど、楽しいこともあるのよ”と、リサは言った、“それが人生というものよ…”

 ぼくたちを乗せた自転車は、冷たい風を切って、緑の丘の中を、どこまでも走って行った…

 

 その日の午後はゆっくりと過ぎて行った。家に戻って軽い昼食を終えてから、リサは庭に出て、そこに咲いている花や木を見て回わった。ぼくは、庭に出ているそんな彼女の姿を見ながら、レコードを聞き、本を膝に広げたまま、めい想にふけった。リサが帰って来て、再びあの日がよみがえったのだ。一年以上も前の、リサと二人で暮らしていたあれらの日々が… あのとき、ぼくも、暮らしながら、このような幸せな日々がいつまでも続いて行くとは思ってもいなかった。予期していた通り、やがてリサは都会へ行くと言い出し、この家から出て行った。


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239

それを初めて聞かされたときはショックだったし、生活の空虚さは、彼女が出て行ってからもしばらくの間は続いた。しかしそのうち、苦しさは癒え、ひとり暮らしの生活にも慣れるようになった。ひとり暮らしだからと言って、生き物は飼うまい、とぼくは決意した。生き物のやがて滅びる姿を見る悲しさを思うと、それに耐えられないと思ったからだった。ぼくは、リサが都会で暮らしている姿を想像し、それを支えに、ひとり暮らしの寂しさをも克服して来た。――そしてあれから一年が経った今、リサは再び、ぼくのふところへと帰って来たのだ、前よりも一層、女らしく、美しくなって…

 リサが、庭に生い茂った雑草の中に分け入り、そこに咲いている黄色い花を手にし、熱心に見つめている姿を窓から見ながら、あのときと一緒だとぼくは思った。一年前に目にした情景が再びよみがえったのだ。あの頃、そんな彼女の姿をどれほど多く目にし、また、心行くまで眺めていたことだろう。彼女は、ぼくに見つめられることを気にはしていなかったし、ぼくも、彼女を自然に見つめ、やがて夕暮れとなり、一番星が見えるまで、彼女を眺め暮らしていたのだった。彼女がそこに居て、呼吸をしていると思うだけでぼくは幸福だった。一日は、満たされた気持ちと共に暮れて行った。

 長いあいだ、そうした幸せを忘れていたが、今再び、あのときの幸せな気持ちをぼくは取り戻したのだった。彼女は、窓から眺めているぼくに気が付き、振り向いた。

 “ねえ、あれは何んという花なの?”と、リサは、ぼくの方にやって来て尋ねた。

 “さあ知らない。雑草だよ”と、ぼくは答えた、“お前がいた頃ほど、ぼくは庭の手入れをしていなくてね。御覧の通り、お前がいなくなってからというもの、雑草の天国になってしまったようだ。ときどき引き抜くんだけど、この通りさ”

 “そう言えば、あたしが出て行ったときに比べて草が多くなったみたいね”とリサは、つくづくと、感慨を込めた表情で庭を眺めた。

 “でも、それほど変わっちゃいない”と、ぼくはすぐ弁護した、“何もかも、お前が出て行ったとき、そのままさ。ぼくは別に、手を入れたり、変えようと思ったことなんか一度もないんだからね”

 “でも、庭って、手入れをしなければ自然に荒れて行くわ”と、リサは半分嘆くようにぼくに言った。

 “心配には及ばないさ。時々手入れをしているんだから”と、ぼくは、平然とした態度で答えた。

 

 リサはやがて、家の中に入り、ぼくのいる居間のソファーのところにやって来て、腰を降ろした。

 “ふーっ、疲れたわ”と、リサは腰を降ろすなり言った、“少し体が冷えたようだわ。兄さんはお風呂に入らないの?”

 ぼくはその言葉でリサの方を向いた、“風呂に入りたけりゃ先に入るがいい。ぼくは後からでいいさ”


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240

 “じゃお言葉に甘えさせてもらって”とリサは言って立ち上がった、“体も少し汚れたようだから今から風呂に入るわ”

 リサはそう言って、ひとり部屋から出て行った。ぼくは出て行く彼女の後ろ姿を、長い髪の毛を肩まで垂らし、黒いカーディガンとジーンズ姿の彼女の後ろ姿を、それとなく目で追った。彼女がドアから消え去ると、ぼくは、ひとりになった気分を味わった。しかしそれは、周りに誰もいない一人の気分ではなく、常にそこに誰かがいるという一人の気分だった…

 

 リサが浴室に入っている間、葉の散った寒そうな風景や風の音を聞きながら、ただぼんやりと時を過ごしていた。青い空には、ゆったりと白い雲が流れていた。すべてが昔のようで、現在という時間の中を過ぎて行っている。子供の頃、未知なる未来への願いを乗せて眺めた空も、苦い青春時代、絶望の底から見上げた空も、そして今、過去を振り返りつつ、その意味を確かめようと振り向き、見上げた空も、少しも変わってはいない。ただ、ぼくたちだけが、年をとって行っているにすぎないのだ。あらゆることが忘れ去られ、また別のことが生まれて来るだろう。しかし、ぼくとは関係のない、それら新しいことに、ぼくは興味を持てるのか? ぼくはあくまでも、自分の生きた軌跡にこそ、興味を振り向けるだろう。それは、ぼくの心の軌跡であると同時に、セーラとリサの生きた軌跡でもあるのだ…

 

 さて、ぼくは何を語ろうと言うのだろう? ついさっき、ぼくたちは、この寂しい家に帰って来たのだった。その家の庭は、荒れたようで、白い壁のところどころに汚れさえ付いていた。煙突のある瓦ぶきの落ち着いたこの家は、やがて訪れる冬を予感させるような荒涼とした風景の中に、ひっそりと建っていた。その見かけの古さと、寂しさの中に、遠い年輪を感じないでもない家ではあったが、そこへぼくたちは、自転車に乗って帰って来た。まるで子供のように無邪気に、顔をほてらせながら、庭の垣根の前に着くと、まず、リサが顔をほころばせながら跳び降りた。続いてぼくも。しかし、家は無言だった。物も言わず、まるで自己を閉ざしているかのように、冷たい季節風に吹きさらせながら、そこに建っていた。一方、ぼくらはまるで子供だった。子供のように楽しい、明るい気分になって、この寂しい場所に立つ一軒家に帰って来た。葉を落とした樹木が、風に揺れてざわざわと音を立てていた。黒い不気味な森が、家の裏手に、まるでこの吹きさらしの一軒家を呑み込むかのように、広がっていた。樹木は互いに葉を落とし、ぶざまに延びた枝どうしが、互いにこすれ合っていた。他の方向は、ただ広がる荒れ野と、ところどころに並んで立っている貧弱な木立の姿と… もしぼくらが、本当に子供だったとするなら、このようにして帰って来たとき、家の中から必ず女の呼び声がしたことだろう。そこの、表のドアが開いて、ママが姿を現したに違いない。そんな日も、遠い昔には確かにあったし、短い年月が、あの流れて行く雲のように、この冷たい季節風のように、いつのまにか、あれらの日々を、おおい隠してしまったのだ。


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241

我が家に注ぐ日射しは明るかったが、既にもう、かつてのようななごやかさは、この家からは失われていた。屋根の、壁の、窓の、光を反射した輝きは、ぼくには、冬を予感させる氷のように冷たい輝きにしか、感じられなかった。その瞬間、ついさっきまでの、リサと自転車に乗って帰って来たときの、無邪気な、子供のような、楽しく、また浮き浮きしていた気持ちは、突然、胸の中を一吹きの木枯らしが通り過ぎたように、消えてしまった。自転車から降りて、ぼくが急に浮かぬ顔になったので、リサは心配そうにぼくを覗き込んだ。しかし、ぼくにはその理由が言えなかった。そこのドアから、ママが姿を現さないその悲しみをリサに告げることはできなかった。家も庭も落ち着いてそこに存在し、秋のやわらかな日射しを浴びていたが、その快い情景が、実は寂しさ以外の何物でもないことをリサに言うことはできなかった。家も庭も、雑草も立っているぼくたちも、みんな、この逆巻く季節風に吹きさらされ、その中にいて、年月の素早さが人生を急速に枯らして行くのだということを、言うことはできなかった。その悲しみは、ただ胸の中にひとり、秘める他はなかった。ぼくはただ無言の表情のまま、自転車を手に持ち、木の柵をあけるように、リサに指示しただけだった。

 リサは、庭の木戸をあけ、入口にまで続く細い敷石の上に立って、荒涼とした周りを見渡した。それから振り向き、ぼくに言った、

 “何かあるの? 急に黙りこくったりして…”

 “いや、何もないさ”と、ぼくは、平気を装って言った、“もう少しその戸を開けてくれないか。この自転車が通れるように”

 リサはあわてて、木の柵を広げてくれた。

 そんなリサに、ぼくの心の中を伺い知ることはできなかった。ぼくは家に帰って来、風に舞い上がる落葉を目にしながら、人生の凍るような悲しさを、身にしみて感じていたのだった…

 

 自転車を家の裏手に置き終えると、リサに続いて、ぼくの家の中に入った。外は冷たく、非情な顔をしていたが、家の中もまた、冷たく、非情だった。

 

 ぼんやりと窓の外に目を向け、時の流れの非情さを感じていたとき、突然ドアの方で音がしたので振り向いた。

 見ると、リサだった。彼女は、まだほてった顔と、ぬれた髪の毛をしながら、バスローブを身につけ、タオルで髪の毛や、首すじを拭きつつ、部屋に入って来た。髪の毛からはしずくが垂れ、額からは湯気が出ているようだった。

 “暖かくていい気持ちよ”とリサは、タオルでかしげた頭を拭きながら言った、“でもね、さっき、自転車で事故をやったでしょ。お尻のところがあんまり痛むから見たら、案の条、青いあざが出来ていたわ。これくらいの”と言って、リサは、右手の人差指と親指とで丸をつくって見せた、“大きなあざよ”


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242

 “本当かい?”と、ぼくはリサを見て言った、“そりゃヒドイなあ。そのあざっていうのを、ぼくにも見せてよ”

 “いやよ”とリサは、驚いて言った、“あたしのお尻にできているのよ。兄さんに見せるわけには行かないわ”

 “そりゃ残念だ”と、ぼくはにっこりして言った、“でもそれじゃ、それが本当か嘘か、ぼくには分からないじゃないか”

 “別に分からなくていいでしょ”とリサは言った、“どうせ、そのうちほっときゃ消えてしまうものなんだから… でも本当のところ、まだ少し痛むわ”

 “だからさ、悪いようにはしないから、見せて御覧よ”と、ぼくはもう一度言った。

 リサは、赤いバスローブを着ながら、ぼくを見つめた。

 “それ、本気?”とリサは言った、“本当に、あたしのお尻が見たいの?”

 “ああ、見れるものならね”と、ぼくは言った。

 “やっぱりダメよ”と、リサは急に向きを変えて言った、“そんな恥ずかしいことって、あたしにはできないわ”

 リサはそう言って、居間の小さな鏡の前で、頭を忙しく拭き始めた。

 ぼくは、リサの姿を見るだけで、心が落ち着くのが感じられた。窓の外は、あんなに冷たく、白々しい風景で、窓辺に垂れ下がった木の葉も震えているというのに、部屋の中は、彼女がいるというだけで、何んと暖かなのだろう。彼女の動き、彼女の息づかい、その可愛い二本の足、ただそれを感じるだけで、ぼくに、人生の安心を与えてくれるのだった。さきほどまでの不安な、悲しい思いは消え、幸せな、楽しい気になってくるのだった。たとい今は、この白々しい世の中で彼女と二人だとしても、この家の中にいるぼくたち二人は、互いに手を取り合って、しっかりと生きているのだ。誰も、いかなる自然現象も、また空しさも、この、家の中でしっかりと息づいているぼくたち二人を打ち負かすことはできないだろう。窓の外に嵐が吹き荒れようと、魔の手が伸びようと、家の中にいるぼくたちは、このように安全なのだ。しかもぼくの心は、ここから、数百キロメートル離れたところに住んでいるセーラとも結ばれている…

 “ねえ、ぼくは幸せ者さ”と、ぼくは、ぼくに背中を向けて立っているリサに向かって、話しかけるように言った、“この家にお前がいるから幸せさ。他には何もいらない。この家に、お前がいるだけでいいんだ。それだけで、何もかも、すべてが満たされてしまう…”

 “そんなにあたしって、重要なの?”と言って、リサは髪の毛にブラシを当てながら、振り向いた。その大きな目の表情が、とても魅力的だった。

 “ああ、お前の存在は、ぼくの生きる源なのさ”と、ぼくは言った、“見てごらんよ。外はあんなに広々として、明るいけれど、何もない。――でも家の中には、ぼくのすべてがある。つまり、お前なのさ…”

 リサは、にっこりとしてぼくを見た。

 “相変わらずおかしなことを言う兄さん”と、リサは言った、“でも、あたしを愛してくれているということだけは分かって、嬉しいわ”


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243

 “ああ、お前を愛している。愛しているともさ”と、ぼくは言った、“心から愛している。お前は、ぼくのすべてでもあり、こんな暗いときの魔よけでもあるのさ”

 “魔よけ?”と、リサは、けげんな顔をして言った。

 “ああ魔よけさ”と、ぼくは答えた、“つまり、人生を虚しくしない為の魔よけなのさ。お前がいると、沈みがちなぼくの心も明るくなってくるからね。そういう意味での、お前は魔よけなのさ”

 “空しさよ去れ! って言うのね”とリサは明るく笑いながら言った、“あたしがそんな役を演じることができるのなら幸せだわ。とりわけ、兄さんの沈んだ気持ちをいやすことができるのならね。ね、その為にあたしがここにいる、と言うこともお忘れなくね”

 なんと心優しい妹なんだろう! ぼくは、再び向き直って髪の毛を解かしている彼女の後ろ姿を見ながら思った。彼女がこの家に帰って来たその理由は、これだったのだ。ひとりでいるぼくを救う為に、その為に彼女は帰って来、しかも今、ぼくの目の前にいる。こんな優しい、けなげな女が、この世の中の他のどこにいるだろう? 彼女はまるで、白馬の騎士であり、ジャンヌ・ダルクなのだ。孤独な城に駆けつけて来た救いの天使なのだ。ぼくは今初めて、そのことに気がついたのだった。そして、別に気取った風もなく、ごく普通に、バスローブを着て髪の毛をブラシですいている彼女の姿を見て、その優しさに、胸が熱くなるのを感じるのだった。

 

 …ぼくは、ぼんやりと窓辺に立って、ゆっくりと移り行く雲の様子を眺めていた。空をおおう分厚い灰色の雲が、窓の外に広がる世界を、寒々したものにさせていた。半分葉を落とした樹木の姿が、一層、寂しさを感じさせるのだろう。ぼくは、もはや、世の中の何も、欲しいとは思わなかった。何をしても、心を充たすものはなく、いつも孤独だった。人並みの生活、笑いや、冗談や、心の通い合う生活、といったものは、ぼくには無縁だった。ぼくの心は、いつも、あの風景のように冷たく、あの雲のように暗かった。かつて、何をしても満たされることはなく、いつも心に空虚を感じていた。この為に、ぼくは、人生に対する恐れを抱くようになった。かつて、世の中を生きて来たことに楽しみを見い出せなかったぼくが、これから先を生きて行くことに恐れを抱いたとしても、無理な話しではない。人並みをまねて、様々なことを試みたところで決して満たされることのなかったぼくが、今後、満たされることになるだろうという保障は何もない。この空虚、ぼくをずっと苦しみ続けて来た、この人生とのズレの感情の原因について、それが本当は何んであるか、についてぼくは知らないでもなかった。それは、ぼくには家族がいない、という唯一のことであり、それ故に、ぼくと同じような境遇にあった悪友たちとかつて行動を共にしたときでさえ、楽しかったどころか、空しさは一層広がるばかりだった。気持ちのすべてをぶっつけることのできる親も、ぼく自身を激励し、導いてくれるはずの親も、ぼくにはいなかった。親のなかったぼくが、いつも、あの寒い空のような感情を抱いて生きて来たぼくが、世間とのつながりを断たれてしまったぼくが、親になれるはずがない…


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244

 ぼくは、永遠にひとりぽっちだ、とそのときぼくは思った。ぼくを一番よく理解してくれているリサでさえ、このことまでは分かるまい。昔、ぼくたちは一緒の家族の中にいた。その頃は賑やかで幸せだった。しかしそれが突然崩壊し、めぐりめぐって、こんな寂しいところにぼくがひとり住むことになろうとは、そのときの誰が予期することができただろう。あの笑い、あの楽しみは、もう永遠に、あのときだけのもので、再び戻ることはない。そして今、ぼくはこんな寒空の下で、ひとり、孤独に泣きぬれている…

 

 別に、人の生活が羨ましいわけじゃない。だからと言って、ぼくは、ぼくなりの人生を歩んで行く他はないのだ。

 

 ぼくが孤独だった頃、ぼくは、ぼくの夢に出会って、幸せだった。また、永遠の空に出会って幸せだった。いずれも、この世の苦しみを、ほんの束の間でも、忘れさせてくれたのだから…

 

 空に、幾つもの雲が重なり、みんな、この寒さの中で凍えながら暮れて行く頃、ぼくは部屋にいて、リサと一緒だった。音楽はもう流れてはいなかった。音楽によって、夢を見ていた時代は、もう過ぎたのかも知れない。部屋の中は、窓の外で吹き荒れる風の音と、マントルピースの上の置き時計の音以外は、何も聞こえてはいなかった。リサが、そこのソファーに坐って、婦人雑誌を見ながら編み物を無心にしている表情は、昔を思い出させないでもなかったが、黒いカーディガンからブルーのシャツがのぞいて見える彼女の姿は紛れもなく、今のリサの姿だった。肩まで垂らした長い髪の毛や、編み棒を巧みに動かしている、その細い指や手首の動きが、この部屋の中で生きている彼女の魅力を感じさせた。

 

 彼女が訪れたこの日は、大した収穫もなく、暮れようとしていた。しかし、家の近くを回ったことで、彼女は喜んでくれたのだ。ほぼ一年ぶりの帰郷で、彼女は、よく通った道や、近くを流れていた小川や、今も変わらない森や丘の姿に、感嘆の声をあげてくれた。近くの農家の前も通ったし、彼女とよく散策し、木登りさえしたことのある高台へ通じる脇道へも入ったのだ。そのようにして、なんということもなしに、この日の大半は終わった。リサはそこにいたが、彼女は別に、この日のことを考えている様子もなかった。それで、ぼくは読んでいた本を置き、ふと、リサに尋ねてみた。

 “リサ、帰って来て、よかったかい?”

 リサは、不意打ちを食らった為か、驚いたような目をぼくに向けた。そして、編み物を膝の上に乗せると、彼女は、ため息をつくように、目を閉じるようにして、言った。

 “ええ、楽しかったわ”と、彼女の顔はほころんだ、“街にいたときには想像もつかない生活よ。静かだし、空気もいいし、兄さんの連れて行ってくれたところだってよかったわ。すべての点で満点よ”


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245

 “そう言ってもらえればぼくも嬉しいよ”とぼくは言った、“でもきょう連れて行ったところって、別に大したところじゃないんだ。本当に何もないところばかりでね。でもあしたは、この前約束したように乗馬クラブへ行ってみようよ。ここからそう遠くないところにあるのさ。そしてよければ、ぼくたちも馬に乗ってみようよ”

 “本当?”とリサは、目を輝かせたように言った、“乗馬って本当に久し振りよ。うまく乗れるかしら? それで兄さんの方は、練習を積んだの?”

 “ああ約束通り、少しはね”と、ぼくは笑いながら答えた、“お前がかなり行けそうなことを言っていたから、それに遅れを取るまいと、少しは経験を積んださ…”

 “でもあたしも、ここ何年って乗っていないのよ”とリサは言った、“伯母さんの家に住んでいた頃、ちょっと乗れるようになったぐらいで、うまく乗れるか…”

 “何、それぐらいの経験を積んでおれば大丈夫さ”とぼくは言った、“すぐ乗れるようにもなるし、できれば遠乗りにも行って見よう…”

 リサは嬉しそうな顔をして、窓の外を見た。外の木立は、葉を落とした黒いシルエットとなり、空がゆっくりと暮れていた。最後の薄紫色の反映が空をおおい、西の空へと向くにつれ、それは、だいだい色へと変わっていた。しかし、その明るい場所も、もうしばらくだろう。秋の厳しい寒さが、暗い空の色からもにじみ出、もう間もなく、闇がおおい尽くすだろう。このようにしてこの日も、吹き荒れる風と共に暮れて行こうとしているのだ。リサは、まだ完全には暮れぬ外の景色の丘の向うへと、早くも胸を踊らせているようだった。しかし、その丘の上には、早くも一番星が輝き始めていた。ぼくたちがこの昼、訪れた小川や、草原や、森は、今まさに、夕闇におおわれて、深い眠りにつこうとしていた。もう外は、その大部分が闇の中だ。そのうち、太陽の最後の叫び声すら、完全に消してしまうことになるだろう。しかし、ぼくたちのこの部屋の中は、シャンデリアの白い明かりが輝き渡り、部屋の隅まで明るかった。

 “あした、晴れるといいわね”と、リサは、窓から目をぼくの方に向けて言った、“馬に乗れば、きょうよりもずっと遠くまで行くことができるわ。ねえ、海まで行ければいいんだけどね…”

 “それはちょっと無理さ”とぼくは答えた、“車をぶっ飛ばしても軽く一時間以上はかかるんだからね。でも、あちこち行けるのは確かさ。そのことはぼくも余りやったことがないんだ”

 “じゃ、あしたを楽しみにしているわ”と言って、リサは立ち上がった、“そろそろ夕飯の支度をしなくちゃね。材料は冷蔵庫に入っているの?”

 “お前が来ることを思って、要る物は買っておいたさ”と、ぼくはソファーに坐りながら言った。

 そう言うと、リサは、まるで一年前の生活が戻ったように、黙って台所の方へと向かうのだった…


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246

 

 

 

 この明るい日射しの中を、ぼくたちは駆け抜けた。空気は冷たく、馬も、ぼくたちも白い息を吐いていた。空はよく晴れ、一段と空気は冷えていた。もうどこまで来たろうか、何度も丘を越え、森の中を通って、ここまでやって来た。朝の森の中は、青白い木洩れ陽が射し込み、神秘的ですらあった。振り向くと、リサが、姿勢を正しく、すぐ後ろに、たずなを引いたままの姿で、いた。馬は、元気にあふれているせいか、しきりに首をひねり、一時たりとも、じっとしてはいなかった。そして今は、遥か彼方を見晴るかせる丘の上にぼくたちはいた。リサは、ぼくより少し離れて、後ろ側にいた。緑の牧草地や、森や垣根などが、一望の下に見下ろすことができた。空は青く、広い大地の上を、白い雲がぽっかりと浮かんでいた。

 

 この日の朝、目が覚めると、空が晴れていることはすぐ分かった。薄いカーテンから射し込む光ですぐ分かったのだ。ベッドから起きるとその足で窓辺に歩み寄り、わずかにカーテンを引いてみた。うっすらと朝がすんだ空がゆっくりと明けて行くようだった。しかし、樹木も、雑草も、みんな寒さに凍えているみたいだった。こんな朝、昔なら、セーレンが喜んだことだろう。そしてぼくに、散歩に連れて行くよう、大声を張りあげて催促したに違いない。しかし今は、その物の気配もなく、静かだった。しかしすぐ思い出した。けさは、隣の部屋でリサが眠っていることを。昨夜は、ウィスキーを飲みながら、リサと色んなことを話し、割と早く眠りに着いたことを覚えている。リサはきっとまだ、自分の部屋で眠っているに違いない。しかしけさは、早く出発することを言っておいたはずなのだ…

 斜面の少し後方で、背筋をピンと伸ばし、たずなを引いたままの恰好で馬の上に静止しているリサの表情は、澄み切った空を背景に、さながら春を呼ぶかのごとくだった。彼女の赤いキュロットが、栗毛の明るい馬の体に、まぶしく輝いていた。朝の光が斜めから射し込み、彼女の左半身と馬体とを照らすと共に、その影を明るい草の上に投げかけていた。ぼくはたずなを引いたものの、目標が定まらなかった。このまま一気に、ふもとの、ぼくの見知らぬ村へ降り下って行こうか? それとも再び後ろの丘を越え、さらに知らない別の村へと駆けて行こうか? ふもとの、互いに肩を寄せ合ったような小さな村も、丘の向うの濃い森の緑も、両方ともが誘惑に満ちていた。ぼくたちは、この明るい丘の上で、両方の誘惑で、動きが取れなくなってしまった。

 “ねえ、随分遠くへ来てしまったようだね”と、ぼくはリサに向かって言った、“来た道をちゃんと覚えているだろうか?”

 “分からなくなれば、途中で聞けばいいわ”とリサは答えた。

 “でも随分走ったねえ”とぼくは言った、“リサは疲れないかい?”

 “ううん、大丈夫よ”と微笑みながら、リサは答えた。


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247

 “でも”と、ぼくは、リサの足下で、両足を交互に動かしている馬の姿を見ながら言った、“あのセーレンが生きていればねえ。そうすれば、こんなに遠くまでも、連れて来ることが出来たんだ。馬二頭と、ぼくたち二人と、セーレン。なんだか、ここまで来て歓んでいるセーレンの姿が目に浮かびそうだ…”

 この言葉は、少し、ぼくたちの心をしんみりさせたようだった。

 “こんなに晴れていて、お空はきれいよ”と、リサは言った、“きっとセーレンも、あの空のどこかから、あたしたちのことを見つめているはずよ”

 “そうだといいんだが”と、ぼくは言った、“でも本当は、土の中に眠っているんだよな。帰りに、セーレンのお墓に寄ってみようじゃないか。長いこと行っていないからね。セーレンとは数年間一緒に暮らし、別れてしまった友だちさ。ものを言うこともなく、無邪気で、可愛らしかった。あんなにいい友だちって、そうざらに見つかるわけはない。もし、あのセーレンに言葉というものがあったとしたら、何をしゃべっただろうか? でも、何もしゃべらずに一生を終えたということが素晴らしいのさ。セーレンのその魂や、気持だけが、痛いほどよく分かるのだから…”

 “セーレンが死んで、あたしたちが生きている”とリサは言った、“でも、セーレンの魂は、いつもあたしたちと一緒よ”

 “そして、ここがその舞台さ”と、ぼくは言った、“セーレンが生きていたときの。もし、セーレンがもっと長生きしていたなら、ぼくはここまで連れて来たに違いない。――でも、それが果たせなかったというのは、少し悲しいな”

 “一生って、短かければ短いほど、悲しいわ”と、リサは言った、“その分だけいろんな可能性が見えて来るからよ。でも、セーレンがここまで来れたとしても、それがどうなの? 世界を一歩踏み越えただけのことで、さらに果ては、向うまで広がっているわ。そして、その世界には行けずに死んでしまうかも知れない。そのときは幸せで、それ以前は幸せでないなんて、言えないはずよ。結局、セーレンには、あの一生しかなかったと思う他はないわ。それであきらめるなり、悲しむしかないのよ…”

 “あの一生しかなかった”と、ぼくはくり返した、“しかし、短かくて、悲しいな。あれが人間なら、耐えられないよ。あれが犬だから、犬だからこそ、悲しいし、また、耐えることもできるんだ… ともかくぼくたちは、あのセーレンと共に過ごした一時期があった。そしてそのセーレンは、先にこの世を去ってしまったが、その魂は不滅で、今もここにある。そういうことだね?”

 リサは黙ってうなずいた。

 “あの空の向うか、あの雲の白い輝きのどこかに、セーレンは今もいるのさ”と、ぼくは言った、“そう思うと、心も慰められる。セーレンの短い一生が、決して短い一生ではなかったという思いに捕らわれるのさ。セーレンの魂は不滅で、永遠だし、今も、ぼくたちと共にここにいるのさ…”


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248

 “さあそれじゃ、輝き渡る雲の方にでも走ってみようか、リサ”とぼくは、元気を取り戻して、リサに言った。そして、リサに一瞥をくれると、馬のたずなを引き、丘の上の方に向かって、駆け上がって行ったのだった…

 

 …どこまでも明るく、緑色の絨毯のような牧草地が広がっていた。ぼくたちを乗せた二頭の馬は、土を蹴って、空と大地とが交わる広大な地平線に向かって駆けていた。身を切るような冷たい風が、ぼくたちの膚に襲いかかったが、防寒着と運動しているおかげで、寒いとは感じなかった。丘の上には、ところどころ、林や森に覆われ、さらにその向うの丘や、なだらかな大地へと続いていた。もうここまで来れば、人一人、住んでいる気配も感じられなかった。しかし、空は青く澄んでいて、大地は明るく、静かだった。馬のいななきと共に、ぼくは馬を止めた。リサも、すぐぼくの後ろに付いて来ていた。彼女の青い上着が、緑の草地の中で、一段とまぶしく感じられた。

 “随分といいところねえ…”と、リサは、周りを見渡しながら、言った、“気持が洗われるみたい…”

 “まだ奥の奥がありそうだ”と、ぼくは、丘と丘とが交わり、谷間のようになった遠景の、青がすんだ緑地を眺めながら言った、“この調子じゃ、どこまで行ってもきりがないようだね。一層のこと、この馬に羽でも生えて、ペガサスのようにあの大空の上から眺められればいい…”

 リサは、にっこりと、笑顔をぼくに向けた。彼女は心からここに来たことを歓び、堪能しているようだった。彼女がこのように、幸せな瞬間を生きてくれていることが、ぼくには嬉しかった。

 

 青い空には白い雲が流れ、美しい絵模様を見せてくれていた。昨晩、あれほど真暗で、冬のオリオンや、しし座のレグルスなどを輝かせていた空も、今は、一点の曇りもないほど澄み渡り、その心を透明にするような青さが、爽やかだった。そして、動くにつれ、様々に変化するあの真白な雲―― 緑色一色の大地と大空との鮮やかなコントラストといい、ここには、言いようのない美しさしかなかった。

 

 “ともかく、みんな必死なのさ”と、ぼくは、しばらくしてから言った、“生きることに… そのことを考えると、ぼくは冷汗を感じることさえあるんだ”

 “どうして?”と、リサはこちらを向いた。

 “だって”と、ぼくは言った、“ぼくは何もしていないんだ、世の中に役に立つ何も…”

 風が、草原に伸びる背の高い雑草を揺らしていた。丘の斜面には、数本の木立が、しっかりと根づいて茂っていた。その向うには、どこの農家のものか、木の柵がめぐらせてある。リサは、風に揺れる雑草と、草地とのあいだのところで、馬を操っていた。

 “ぼくが付き合っているのは、この広い草原と、あの青い空だけさ。一見平和そうに見えるこの生活も、いつまで続くか、ぼくにも分からないからさ”と、ぼくはしみじみ言った、“だって、世の中は絶えず揺れ動いているからなんだ。


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249

ぼくは平和が欲しい。心からの平和が欲しい。だけど世の中を見るがいい。かつてそんな平和が、この世の中に存在しただろうか…”

 リサは、馬を操ったまま、じっとぼくを見つめていた。

 ぼくは話しを続けた。

 “みんな必死に生きるからこそ、この世の中は戦場なんだ。そこから抜け出すことは不可能さ。…このぼくだって。ぼくは世の中から抜け出すことばかり考えて来た。恐らく、環境や生い立ちが、ぼくを世の中と合わせず、孤独へと駆り立てたのだろう。ぼくは、世の中を生きる為には、余りにも夢想的で、余りにもロマンチストだったんだ。世の中を生きるということは大変だ、この戦場を戦い抜くには相当の苦労を覚悟せねばならぬ、という意識は、早い頃から芽生えていた。だからこそ、生活を直視するのが耐え難いからこそ、ぼくは美しいもの、世の中とは関係のないものばかりを見ようとしたんだ。およそ芸術と名のつくすべてのものは、そういうものの集合だった。それらは絶対に、生きたものじゃなかったが、だからこそ、ぼくの心に安らぎを与えてくれたんだ。安らぎと束の間の夢をね。でも絶えず、現実に引き戻された。現実の耐え難い生活にね。そして絶えず、現実と夢とのギャップは広がって行くばかりだった。ぼくは、夢を見、それを愛した瞬間から、戦いをやめたのさ。だって、夢と現実とは、絶対に相容れることのない二つのものだからさ。現実は戦い、でも夢は愛なのさ。――しかし、こんな生活がいつまでも続くなんてぼくも思ってはいない。もしそれでも夢を愛するなら、その夢を守る為に、やはりこの現実と戦わねばならないんだ。そう考えると、ぼくは気が遠くなるのさ。とほうに暮れてしまうのさ。分かるかい? リサ。今のこの生活は、永久的なものじゃあり得ないし、増して、きっちりと守られているわけのものでもない。いつ、何者かがちん入して来ないとも限らないし、誰かのせいで、この生活がかき乱されるかも知れないのさ。ぼくは、その不安を感じている。長生きはしたい。でも、明日にもこの命は、ないかも知れないんだ。世の中の動きや、人々の生活を見るにつけ、ぼくはそう感じるのさ。心にどうきを感じるほどに、本当に平和な生活というものはあり得ないのだ、と…”

 “無論、ごく限られた、恵まれた人々にはそういう生活もあったかも知れない”とぼくは続けた。風に、雑草の穂が揺れているのをいとおしむように見つめながら… “この草、この太陽、このすがすがしい空気。いつもそれらに囲まれて生活ができるならどれほど幸せなことだろう。だけど、そういう生活が可能となるのは、社会的に成功したごく一部の人々に限られるのさ。しかしそういう人々だって、そういう生活に到るまでにはどれほどの忍耐と労苦の生活を強いられたことだろう。その上に咲いた花なら確かに美しいかも知れない。だけど、それを眺める彼は、既に年寄りさ。余命幾ばくもない。余生を夢想的に生きるには、余りにも年を取り過ぎているし、ロマンチストになるには、余りにも現実主義が身にしみ込んでしまっていることだろう。それが悪い、というわけじゃない。ただ、そういう生活が誰にも保障されているわけでもないし、とりわけぼくには保障されていない、ということが言いたいのさ。


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250

ぼくは戦ってはいない。だから、社会的な成功もあり得ないし、そこから生ずる諸々の恩恵に浴する、ということもあり得ないのさ…”

 “兄さんは、そのことが悔しい?”と、リサは尋ねた。

 “もしこのまま死ねばね、死に切れないさ”と、ぼくは言った、“だってぼくはまだ、何もしていないんだ。世の中の役に立つ、ということもなかったし、ただ、夢を見て来ただけなんだ…”

 “でも、大多数がそういう生き方じゃない? 自分の夢を、世の中に役立てて、しかも成功する、なんて人はそう多くないわ…”と、リサはさとすように言った。

 “ぼくはね”と、しみじみ、ぼくは言った、“別に有名になりたいわけじゃない。社会的に成功したい、と言っているわけでもない。――でもただ、自分の人生に納得したいのさ。納得の行く人生を送りたいのさ。そして、あわよくば、ごく少数の理解者とがね。理解者のない人生なんて、およそ耐えられそうもないからね。じゃ、何を理解すればいいか、と言えば、ぼくのこの、矛盾した、引き裂かれた精神を、なのさ。デリケートで、すぐにでもこわれてしまいそうなこの精神を、なのさ。およそ実生活には役に立ちそうもない、夢見ることしか知らないこの精神を、なのさ。それは、地上から遊離して浮かび上がった、今にも消えてしまいそうな、迷える魂とでも言うべきだろうか、その魂をもって、その魂のまま、生きて行くこのぼくを理解してもらいたいんだ。こんな精神を理解できる人なんて、ほとんどいないだろうけれど、また理解したところで、得るものなど何もないだろうけれど、ぼくはその精神だし、その精神であることを直視する他、あり得ないんだ。ぼくのこの体は、確かにこの世の中のものさ。でも心は絶えず、そこから抜け出ようとばかりしている…”

 “どうしてそんなに抜け出そうとばかり思うの?”と、リサは心配そうに尋ねた。

 “だって、この世の中が余りにも耐え難いからさ”と、ぼくは言った、“余りにも否定的な面が多過ぎる。ぼくは、自分を取り巻いているこの社会や秩序を決して肯定することはできない。ファウストのように、これでよし、と言うわけには行かないのさ。だからと言って、もう社会を見ることもせず、自分の小さな環境の中に閉じこもることもできないのさ。結局、ぼくが願うことは、この悩める精神を楽にしてもらうこと、地上のあらゆる争いや、いざこざや、悩み事や不安から抜け出て、きれいさっぱり忘れてしまうこと、そしてあの青空のように澄んだ心になり切ること、なのさ。だけど、そんなこと可能だろうか?”

 “まず無理な話しね”と、リサはきっぱりと言った、“相当恵まれた人ならともかく、あたしたちじゃダメね。兄さんも言ったように、あたしたちの生活って、崖っぷちの上に立っている家のように心もとないものだし、いつその崖が音をたてて崩れるかも知れないほど不安なものよ。それを本当に確かなものにする手だてなんて、どこにもない。ただ、それを、少しでもそれに近づける為には、兄さんも言ったように、現実を直視し、戦う以外にはないわ…”


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251

 “リサもそう思うかい?”と、ぼくは言った、“…でも、ぼくは何もできやしないよ。行動を起こすことなど何も。ぼくは昔から、人と争うことができない運命なんだ…”

 

 “…この晴れ渡った空”と、ぼくは、ぽつりと言った、“昔は平和だった。ぼくも、そんな日々に帰りたい”

 馬が、潅木の茂みに入って、何か鼻で匂いを嗅いでいるのを眺めながら、ふと、そんな気がするのを感じた。背後の、なだらかな牧草地の丘の上には、互いに密集し合ったように数本の樫の木が、何もないところで、ひと際目立って、そびえているが、それも、ここから見ると小さく見える。その彼方には、青い空と、丘から盛り上がったような白い雲以外には、何もない。ただ、手前の方の潅木の茂みの中には、ひょろりと伸びた一本のブナの木が、丘の水平線に対し、ただひとつ、垂直を保っているのが、気を惹くばかりだった。全部日光を浴びて、冬の太陽の恵みを受けている。一本のブナのひょろりとした幹や、枝は、陽を浴びたところは明るく、日陰は暗くなっているのが、ここからよく見える。ここは、なんと、のどかで、明るく、平和なんだろう。こんなところなら、いつまでいてもかまわない…

 “ねえ、こうして見ていると”と、ぼくは言った、“ときどき昔に返った気がするのさ。もう何年も前の、セーラやママがいた頃の冷たい冬の日…”

 “それがどうしたというの?”と、ぼくから少し離れたところで、馬に乗っているリサが言った。

 “思い出してみても仕方のないことだけれどもね”とぼくは言った、“でも、あの頃は何をしていたのだろう? と思うのさ。場所もこんなに静かなところじゃなく、もう少し人の多いところだった。でも、朝は冷たかった。吐く息は白く、ママは朝早くから台所仕事をしていた。まだパジャマ姿のままのセーラも、黙々と、それを手伝っていた。ぼくがいつも思い出すのは、あの頃の、陰欝な空の暗さと共に、労苦に満ちたママやセーラの姿なのさ。でも、確かに、ぼくたちの一家に、不安と、暗い陰がさしていたのは事実だったけれども、そんな日ばかりじゃなかった。何よりも、健康的で明るいお前がいたし、日射しにいたお前の姿は、まるで野に咲く花のようだった。ママだって、そんなぼくたちを見ることで、心を慰められたのは間違いがない。そうさ、苦しい労働の一週間の後の、そして、ぼくたちにとっちゃ、毎日の学校の後の休みの日には、ママの顔がパッとほころんだのを、ぼくは覚えている。パパがいなかったものだから、ママが中心になって、一日の手配をしてくれた。きょうは買物。きょうはピクニック。きょうは、おじさんの家へ会いに行くのよ、など。でも、そういう日は、ぼくたちにとっても楽しい日だったが、ぼくの心は自然、ひとり遊びの方へ向いて行った。もちろん、放課後、友だちとサッカーをして遊んだり、お前たちと遊んだりするのも好きだった。でも夜は、とりわけ、夕食の後は、もう友だちもなく、自分たちの世界に閉じ篭もるのが好きだった。覚えているだろう? よく人形を持ち合って、軍隊遊びをしたときのことを。ぼくはいつのまにか、お前が大事にしていた人形を、奪い取ってしまった”


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252

 “奪われたときは腹が立ったけど、その後、兄さんが大事にしてくれたからいいわ”

 リサは、にっこりして答えた。

 “大事にし過ぎるぐらいにね”と、ぼくは言った、“そしてその楽しみが、友だちとの出会いよりも何よりも、ぼくの心を形成して行った。あとで考えると、あのブロンテ姉妹と同じなのさ。つまり、その楽しみはやがて、ぼくの心を、外の楽しみへとは導かさずに、空想の楽しみへと導いて行ったのさ…”

 “それはともかく”と、ぼくは続けた、“空想が結局、孤独なことだ、と気がついたのは、もっと後のことさ。しかしあの頃は、ぼくは何も知らなかった。すべてが夢のようで、明るく、楽しく、幸せに満ちていた。ちょうどこの日のようにね、空がすっかり晴れ上がって、心が浮き浮きするような日だってあったはずなのさ。斜めに射し込んだ太陽の光線がほんの小さな小川の川面を照らし、同時に、川べりに茂った草をも照らす。周りは一面、草原で、太陽光線を受けた空の雲や、ところどころに立っている樹木が黄色に輝く。そんな美しい光景の中にいたときのことを思い出すよ。そのとき、ぼくたちがどこにいて、何をしていたのかは、もう覚えていない。でも、あの冬の朝、朝の日射しの中で、セーラは、鉢を置き換えに、家の裏へと運んだが、その陰が、明るい木の柵に映っていた。その時、ぼくがどこにいたのかは覚えていない。でも、それを思い出して今感じるのは、あの頃はみな働いていた、そして生活をしていた、という実感なのさ。生活をする、というのは素晴らしいことなのさ。とりわけ、みんなで仕事を分担しながら働く、家族の中での生活、というものはね…”

 “確かにここには生活臭はないわ”とリサは、静かな美しい潅木の茂みと、ブナの木立と、広がる草原を見つめながら言った、“…でも、子供の頃の生活と、大人になってからの生活とは、おのずと変わるものよ。今は、今の生活がある。一見、つかみどころのない、空気のように軽い生活だとしても、それは、未来に対する準備だと考えればいいじゃない”

 “どんな未来さ?”と、ぼくは尋ねた。

 “さあ、分からない”と、リサは言った、“でも、それぞれに未来はあるはずよ。いつまでも過去に目を縛られていないで、兄さんはもっと、未来に目を向けるべきよ”

 “ぼくの未来”と、ぼくは言った、“それはもはや、過去との出会いのない未来であることだけは確かさ。そう思うと、もっともっとあの時代を生きていればよかった、そういう気がして来るな。でも――もう過ぎ去ったんだし、あきらめねばならない。あの時代は、もう二度と、来ることもないのさ…”

 “でも、時って、そんなに非情なものでもないわ”と、リサは言った、“あたしたちに同時に、未来というものまで、与えてくれているんですからね。その未来は、兄さんのすべてよ”

 “すべて?”と、ぼくは尋ね返した。


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 “そう、すべて”とリサは言った、“いつまでも過去にこだわるのも、そこからふっ切れて、新しい道を模索するのも、兄さん次第よ。もっと自由な気持ちになりなさいよ。そうすれば、沈んだ気持なんて、なくなるわ”

 “自由ね”と、ぼくは言った、“確かに自由はいいものさ。自由とは何よりも可能性を意味するのだからね。でも、その可能性は、何もしなければ無意味だし、何かしたところで、たったこれだけのものだったのか、と気がつくのがおちなのさ。――でも、人生には、何も生み出さない空虚な自由、というものがあってもいいと思うのさ、ちょうど今のようにね”

 “ああ、この遠乗りのこと?”とリサは聞き返した、“でもこれは、決して無意味じゃないわよ。気持ちをすっきりさせてくれるし、しかも楽しいわ”

 “ぼくだって同じさ”と、ぼくは言った、“ただ、自転車と違って、可愛いお前に触れられないのが残念だけれども…”

 “触れようと思えば触れられるわ”と、リサはにっこりして言った。

 しかし、ぼくが馬を彼女に近づけると、リサは、ひょいと体をかわすように自分の馬を遠ざけた。

 “こら、逃げる気か?”と、ぼくは戯れながら言った。

 “だって”とリサは、笑いながら言った、“そう易々とつかまらないわ”

 “じゃ、今度はつかまえてやる”そう言うや、ぼくは、彼女の馬を追いかけた。

 リサは、あわててたずなを引き、馬の向きを変えて、丘に向かって逃げようとした。

 しかしひと足早かったぼくの馬が、すぐ彼女の馬に追いついた。そして、ぼくが彼女に腕を伸ばし、彼女がそれをよけようと体をねじらせたとたん、彼女の叫び、そして、馬のいななきと共に、リサが、馬の向う側へ落馬する姿が目に入った。

 ぼくは驚いて馬から飛び降り、向うで倒れているリサのところへ駆け寄った。主人のいなくなった二頭の馬は、数歩向うで所在なさそうに立っていた。リサは、草むらで、うつ伏せるように倒れていたが、今は、上半身を左手で支え、起こしていた。

 “ヒドイわ”と、リサは、泣きそうな声になりながら、駆けつけたぼくに言った。

 “ごめん、ごめん”と、ぼくは言った、“こんな風になるなんて、思わなかったから、体は、どうもないかい?”

 “骨折はしていないようよ”とリサは言った、“でも、唇を切ったんじゃない?”

 そう言って、リサは、ひと差し指で、自分の口をぬぐいながら、その唇をぼくに見せた。

 “どれどれ、と言って、ぼくは彼女の顔をのぞき込んだ。

 髪の毛の一部が、彼女の顔をおおい、ヒドイ有様だった。彼女の唇の左下辺りが、わずかに血をにじませていた。ぼくはついでに、目も覗き込んだが、目には異常がないようだった。ぼくは早速、自分のハンカチを取り出し、それで、彼女の切れた唇を拭いてやった。

 “傷は、大したことないよ”と、ぼくは冷静に言った、“でも、きのうといい、きょうといい、事故続きで、お前にとっちゃついていない日になったね”


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 “そうよ、せっかくの帰郷なのに”と、リサはつまらなさそうに言った、“これじゃ先が思いやられそうよ”

 “何もそんなに悲観的にならなくても”と、ぼくは、リサを慰めるように言った、“見てごらんよ、周りはこんなにいい眺めさ。空もよく晴れている。馬から降りたついでに、ゆっくり眺めようじゃないか”

 リサは、うつ伏せ気味の体をすっかり起こし、折り曲げていた足も伸ばすと、右手をかざしながら、まぶしそうに青い空を見上げた。それから、自分の馬が逃げたのではないかと気にするかのように、振り向いた。馬はちゃんとそこにいた。黒っぽいつやのあるでん部と、長い尻尾とを彼女の方に向けながら。やがてリサは、ところどころ泥のついた惨めな服装と、髪の毛の乱れた惨めな顔をしながら、朗らかそうな笑顔に変わった。

 “こっけいね、あたしが落馬するなんて”とリサは言った、“でも、体はどうもないようだし、ここは晴れて、いいところよ。こんなところで馬に乗れるなんて、あたしも幸せね”

 “体は本当に大丈夫かい?”と、ぼくは再度心配そうに尋ねた。

 “大丈夫よ、なんなら立ってみせましょうか”

 そう言ってリサは立ち上がり、体をしゃんとさせた。

 “地面が、柔らかい草原だから助かったのよ”とリサは言った。

 しかし、体のあちこちが汚れているのに気が付くと、リサは泥を払い落としにかかったので、ぼくも手伝ってやった。

 “ねえ、あたしを触るなんて、変なことを言うからよ”と、リサは、泥を払い落としながら言った、“もういいわ、それで満足したでしょ?”

 ぼくが彼女の体に触れ、泥を払うのを指摘してか、リサはそう言った。

 “そんなつもりで泥を払ったんじゃないよ”と、ぼくはむくれたように言った。

 リサは、それには答えず、体を伸ばすと、馬の方を向いた。

 “さあ終わったわ。出発しましょうか”とリサは言い、馬のいるところへと向かった。

 その瞬間、彼女の後ろ姿を見ながら、彼女を、この草むらに押し倒したい欲望にかられた。そして彼女の切った唇に触れて、甘いキスをしてみたい、そんな気持がした。しかし、そんなことがどうして出来るだろう。この太陽と、草原の輝きと彼女―― その秩序をこわすわけには行かないのだ…

 やがてリサは、鐙に足をかけ、馬に飛び乗ると、振り向いた。そして、ぼくが、茫然と立っているのをけげんな顔をしながら、リサは言った、

 “兄さんは乗らないの?”

 “いや、ちょっと他のことを考えていてね”と、ぼくは言った。

 “どんなこと?”とリサは尋ねた。

 “いや、何んでもないさ”と、ぼくは答えた。“ただね”と、ぼくは思い切って言うことにした、“お前の柔らかい頬にキスをしてみたい、と思ったのさ”


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 “なんだ、そんなこと”と、リサは安心したように言った、“そんなことならかなえてあげるわ。まず、馬に乗りなさいよ”

 ぼくは言われたまま、馬に乗った。

 すると、平行になった馬の向うから、リサは体を乗り出し、頬をぼくに寄せた。ぼくは、その頬にキスをしてやった。彼女の柔らかい頬の感触は、冷たい空気と溶け合って、今感じるすべての眺めよりも優って、素晴らしいものだった。彼女は幸せそうに、ぼくの唇から、頬を遠ざけた。そして、たずなをしっかりと握りしめると、

 “さあ行きましょ”とのかけ声と共に、馬を、丘に向けて、駆け始めた。

 ぼくもすぐたずなをとると、馬を彼女の後に向け、追いかけた…

 

 リサが踊るように馬を駆けさせ、ぼくもその後を追いかけた。彼女のたずなさばきはなかなかのもので、彼女の髪の毛や、馬のたてがみや、尻尾が、虚空に揺れ、まるで流れる絵のごとくだった。しかし、ぼくはついて行くのがやっとで、ゆっくりとそんな姿を鑑賞しているわけにも行かない。リサは笑いながら、

 “こっちよ”と、ときどき振り返りながら叫ぶが、

 “もう少しゆっくりお願いするよ”と返すのがやっとだった。 

 彼女の髪の毛や、青い背中が、冬の日ざしの中で、まぶしく揺れた。リサは、さっきの落馬の仕返しをせんとばかり、難しいコースを走り、ぼくの悲鳴に近い言葉にも、笑顔で答え、耳を貸すことはなかった。そのとき、彼女の天使のような笑顔の裏に、小悪魔が宿っていることを、ぼくはつくづく感じずにはいられなかった。リサはきっと、今度はぼくが落馬することを祈り、または、楽しみにしているに違いないのだ…

 でもぼくは、遅れることなく、必死について行った。枝が真直ぐ横に延びた、丘の上の樫の木立の横を、枝に頭をとられることなく、風のように通り過ぎたし、大きくほじくれ返った草地の穴をも、ためらうことなく、飛び越えた。まるで障害レースをやっているようだ、と恐怖が胸をかすめたとき、ふとそう感じた。しかし、リサは全く平気だった。まるで草原を舞う蝶々のように、ヒラリヒラリと、すべての障害をかわしながら、土の盛り上がったところも、短い林の中も、背のそう低くない潅木の茂みも、そして、広い草原の中を、駆け抜けて行った。

 

 “少し疲れたわ”と言って、急にリサが馬を止めたところは、ふもとに、小さな林に囲まれて農家の屋根がいくつか見える、小高い丘の上だった。周りは一面、牧草地だったが、冬のせいか、家畜の姿は一頭も見えず、ただ車が一台止まっているのが見えるばかりで、あたりはひっそりしていた。

 “ねえ、あそこへ行ってみない”と、リサは、何を思いついてか、急にそう言った。

 “どうしてさ?”と、ぼくは、不思議な顔をして、尋ね返した。

 “だって、面白そうだからよ”と、リサは、目を輝かせながら、言った、“こっちへ帰って来る機会があっても、農家を見る機会ってあまりないわ。農家って、どんなのか見てみたいの”


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256

 “でも、人の家だぜ”と、ぼくが余り乗り気でないのも聞かずに、リサはさっと、馬に乗ったまま、ふもとへ駆け降りて行った。ぼくも、彼女をひとりにするわけにも行かず、後をついて行かないわけには行かなかった。

 リサは、木の囲いのそばまでやって来ると、馬から降り、横木にたずなを結びつけた。それから、興味深げに、牛舎に向かった。辺りは静かで、ときどき、牛のうめき声が聞こえてくるぐらいだった。しかし、屋根に延びた煙突から立ち登る煙を見れば、母屋に人が住んでいるらしいことは分かった。ぼくも、たずなを結びつけると、すぐリサの後を追いかけた。

 リサは、すでに牛舎に着き、毛並のいい、全身が赤く、頭や腹だけが白い斑模様となった牛たちが、飼料の干し草を食べているのを、目を皿のようにして見つめていた。

 ぼくは彼女の側に寄り、

 “面白いかい?”と声を掛け、それから、彼女と一緒になって牛を見つめた。

 “気がついた?”と、リサは、小さな声で、ぼくに言った、“後ろの柵の向うにはにわとりがいるわ”

 その言葉で、ぼくは振り向き、石造りのお母屋の壁の一角を金網で仕切ったところに、十数羽のにわとりが、餌をつっ突いているのを目にした。

 “本当だ”と、ぼくも小声で答えた。

 “ねえ、牛って”と、リサは、牛舎の柵に寄りかかりながら、顔をほころばせて言った、“面白いわねえ。ただ干し草を食べて、口から唾液を垂らして、時折りしっぽを振って、目をこちらに向けているけど、何も思い煩うものはないみたい。あの目はあたしたちを見ているのかしら? でも、何も感じていないみたいよ。本当に鈍感ね”

 “お前みたいな美女を前にしても、何ら感じていないんだからね”と、ぼくは口を合わせて言った。

 “本当よ”とリサは言った、“でも素敵ね。周りに余り影響されずに、悠々としていられるんだから。あたしたちみたいな悩みって、ないのかしら?”

 “あるいはね”と、ぼくは言った、“でも、牛になりたいなんて思わないだろう。牛って哀れなものさ。乳を搾られ、最後には死が待っているだけなんだから…”

 “でも牛って、心は優しそうよ”とリサは言った。

 “確かにね”と、ぼくは言った、“でも、優しいだけではダメなのさ。ただ、哀れなだけさ。ぼくの気持としちゃ、牛にも、もっと闘志を持ってもらいたいね。いやならいやと、はっきり言えるぐらいのね。でも、この状態じゃ、人のいいなりのままじゃないか”

 “でもそんなことになれば困るのはあたしたちじゃない?”と言って、リサはぼくを見た、“今だって、こんな風に見ていられないことになるわよ”

 “せいぜい困らせればいいさ”と、ぼくは言った、“それが牛の権利の主張ならばね。ぼくなら、牛のような人生は耐えられないな。そんな人生があるのだと思っただけでも悲しくなってくる…”


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257

 “でも、牛がそんな風に感じているって、考えられないわ。とリサは言った、“むしろ、悩みもなくて、毎日、悠々としていられるんだから、素晴らしいことじゃない。あたしたちみたいに、毎日、あくせくしたり、つまらないことで思い悩んだり、悲しんだりするそんな人生を、あの牛の目は、嘲笑しているみたいよ。むしろ、こっち側こそが哀れだって、言っているみたい”

 “そんな鷹揚な気持になれればねえ”と、ぼくは言った、“人間にそんな気持が備われば申し分ないさ。でも、残念ながら、人間はそうも行かない。絶えず努力を積まないとね。そうでないと、生きている実感が沸かないのさ。そうじゃないかい? リサ”

 “兄さんの言う通りよ”と、リサは、ぼくを見て言った、“人間は牛にはなれない。あくせくして、自分の手柄を自慢したり、人をそそのかしたり、人を刺激したり、それが人生というものよ”

 “そうさ、人に刺激されることがなければ、進歩というものもないのさ”と、ぼくは言った、“優れた人というものは、絶えず自分を恥じ入らせる鏡さ。そういう人を持たないと、自分を引き上げることはできない…”

 “兄さんには、そういう人がいるの?”と、リサは、ぼくを見て、尋ねた。

 “昔は、歴史上の人物たちがぼくの師だったけどねえ”と、ぼくは言った、“でも、それだけじゃ片手落ちだということに気がついたのさ。自分の生きている身の周りにそういう人がいないとね。残念ながら今はいない。でも、そういう人を見つける努力はしているのさ”

 “それは女の人?”と、リサは尋ねた。

 “ぼくにとって女は”と、ぼくは言った、“永遠のテーマなのさ。賢い女。貧しい女。哀れな女。美しい女。醜い女。みんな、関心の対象さ。そして、彼女らが、ぼくに刺激を与えるんだ…”

 “面白いこと、言うじゃない”と言って、リサは笑った、“それで何か、進歩のあとが見られるの?”

 “彼女らのことを思うと、何かしら、頑張らなくちゃならない、という気がしてくるのさ”と、ぼくは、冷静に言った、“ぼくの出来ることは限られている。でも、その範囲で、最大限の努力をしなくちゃならない、という気がしてくるのさ。そしてもし何もしていないとするなら、そういう自分が腹立たしく思えてくるんだ…”

 “女の人の為に何かする、ということは、いいことよ”と、リサは言った、“でも、すべての人の為に、というわけには行かないでしょ。せいぜい一人、か二人。それぐらいでしょ?”

 “いや、ぼくは、ぼくに刺激を与えてくれたすべての人の為に、何かをしたいのさ”と、ぼくは、力強く言った、“彼らが刺激を与えてくれたのにはなにか意味があるのさ。それが、ときには優しさだったり、頑固さだったり、あるいはうぬぼれであったりすることもあるのさ。


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でもその中に、何かぼくを感じさせる意味が隠されているのさ。ぼくは、その意味をつかみ取りたい。そしてそのことによって、ぼくは、どういう人に関心を寄せ、そして、それはなぜなのか? ということに迫ってみたいのさ。いずれにせよ、ぼくは、ぼやぼやしちゃいられない。絶えず向上をしていないとね…”

 “兄さんは、そういう人々の為に、何をしてあげられる、と思う?”と、リサは、ズバリ、尋ねた。

 “さあ”と、ぼくは言った、“大して何も、してあげられそうもない。中には、もうこの世の人でない人もいるからね。そういう人の為には、せいぜい冥福を祈ってあげるぐらいさ。――でも、今も生きている人の為には、ぼくは、手に職を持っている人間でもなければ、金持でもないから、やはり、彼女や彼らの幸せを祈るばかりさ。だって今のところ、他に何も、できそうもないんだからね…”

 “ねえ、牛がさっきからあたしたちを見ているようだけど”とリサは言った、“あたしたちの会話を聞いていたって、何も分かってはいないわねえ。ただのんびりと、干し草を食べているだけ。ねえ、兄さん、今は何もできなくていいから、将来は何かできる兄さんになってね。これは、あたしからのお願い”

 そう言ってリサは、さわやかな笑顔をぼくに向けた。

 “ああ”と、一瞬うろたえて、ぼくは答えた。

 ぼくだって、何かしなければならないのは分かっている。世の中の役に立つ何かを。彼女たちの為ばかりでなく、人々の役に立つ何かを。しかしそれがなかなか見い出せないで悩んでいるのだ。ぼくは失業者で、喪失者だ。ある意味でいうなら、この牛どもよりも哀れな存在なのかも知れない。この状況を克服する道は、それはあるのだろうか?

 “いずれはね”と、ぼくは、リサを安心させるように答えたが、心の中は、言いようのないほど、暗かった…

 

 “君たち、そこで何をしているんかね”

 その言葉で驚いて振り向くと、そこに、青い上っ張の中に白いシャツをのぞかせた、あまり上等とは言えない服装の、髪の毛の薄く、白くなった老人が姿を現した。

 ぼくもリサも、そのいかにも農家風の、頑丈そうな老人の姿を見て、あわてた。

 “あそこにつないであるあの馬は、君たちのものかね”

 そう言って老人は、道の方を指さした。

 ぼくは驚きで目をまるくしながら、うなずいた。

 “一体、何んの用だね”老人は、険しい顔をしながら言った。

 “いや、その”と、ぼくは、声をつまらせながら、やっとの思いで言った、“たまたまこのそばを通りかかったら、この家があったものだから、珍しいからのぞいて見ようということになって…”

 “それで人の家の庭に勝手に入り込んだのかね”と老人は、ますます顔を険しくして言った。


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 “あの、何か飲物を下さい”そう言ったのはリサだった、“あたしたち、とってものどが乾いているんです”

 “ほう、どこから来なさった”と、老人は、今度はリサに興味を示しながら言った、“それならそうと、初めから言えばいいのに。さっ、ともかく、家の中に入りなさい。ここにいれば寒いだろ。何か飲物を作ってあげよう…”

 その言葉で、ぼくたちは互いに顔を見合わせた。ともかくこの危機をうまく切り抜けたのだ。ぼくたちは、農家の老人の言葉に従うことにした。

 石造りの家の入口の周囲にはつたの葉をからませてあり、その白いドアの中へとぼくたちは案内された。リサは興味深げに家の外を眺め、それから中に入った。家の中は質素そのもので、ぼくたちの通された居間の壁には、花柄模様の壁紙が貼られ、部屋の隅には大きな箪笥がひとつ、樫の木材のテーブルがひとつ、あとは椅子などが置かれていたが、すべてが、古さの中でくすんで見えた。その椅子のひとつに、老人の妻らしい年老いた女が座っていた。老人は入るなり、ぼくたちを、その老婆に紹介した。

 “こちらは、馬に乗って来られた…”

 “ホールバラです”と、ぼくは、自分から名乗りをあげた、“そして、こちらはぼくの妹です”

 “遠くから来られたようだが、どこから来たのかね”と、老人は、ぼくたちを見て、尋ねた。

 “ドシアンの近くの寒村です”とぼくは答えた。

 “ああ、あのドシアンから”と、老人は驚いたように言った、“よくこんなところへ来たもんだ。さあ、お前や、この客人に何か暖かい飲み物でも出しておくれ”

 老婆は、椅子から立ち上がると、軽く一礼し、何も言わずに居間から出て行った。

 

 老婆が出ると、老人は、ぼくたちを椅子に坐らせた。

 “それで”と、老人は、ぼくたちを眺めつつ、椅子に坐りながら、言った、“きょうは、お二人で、乗馬遊びなのかね?”

 老人は、どうやらぼくたちのことを、金持の道楽息子や令嬢と間違えているようだった。

 “そういうわけじゃないけど”と、ぼくは、その誤解を、あえて解きほぐそうとはせずに言った、“妹が、休暇を兼ねて帰って来たので、馬に乗って案内してあげただけです”

 “それにしても随分遠くまで来たもんだ”と、老人は言った、“だいぶ時間がかかったろう。それじゃ、腹もすいているんじゃないのかね”

 “いいえ大丈夫です”と、ぼくは言った、“すぐ帰らせてもらいますから”

 “まあ、そう遠慮はせずに”と、老人は言った、“それで、この可愛らしいお嬢さんは”と言って、リサの顔を見た、“休暇ということだが、街に住んでおられるのかね”

 “メロランスです”と、今度はリサが言った、“そこで、雑誌のジャーナリストの仕事をしているんです”


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260

 “はあ、若いのに感心だなあ”と、老人は言った、“それで、兄さんの方は?”

 “ぼくは目下失業中です”と、ぼくは、少々苦笑いをしながら、言った。

 “それはいかんな”と、老人は語気を強くして言った、“それじゃ、生活はどうしているんだね?”

 “親の遺産が少々ありましてね”と、ぼくは、言わなくていいことまで、答えてしまった。

 そのとき、老女が、ティーポットに紅茶を入れて、やって来た。ぼくたちの前に、ティーカップが並べられ、それに、熱いティーが注がれた。

 “もしその気があるなら、うちへ来て働かんかね”と、老人は、カップに砂糖を入れながら、まだ全くの初対面だというのに、ぼくに言った。

 ぼくは答えに窮した。農作業と言えば、昔、畑の仕事を少しばかりしたことがある。しかし、厳しい冬の寒さで手はひび割れ、余りいい記憶としては残ってはいない。

 “ええ、その気になれば…”とだけ、ぼくは答えた。

 “今は、どこの農家でもそうだが、人手が足りんのだよ”と、老人は、ぼくを見て言った、“うちは御覧の通り、婆さんと、今出かけている一番末の息子と三人だけだ。その息子も、いつこの家を出るものやら。忙しいときは、近所の若い者にも手伝ってもらっているが、いつまでもこういう状態でいるようではなあ…”

 “どんな仕事をするんです?”と、ぼくは念のため、聞いてみた。

 “これからは冬場で余り仕事はないが”と、老人は言った、“それでも、牛や羊に餌をやったり、乳を搾ったり、その他、身の回りの世話などで、結構忙しい。またときには、牛市に行って、新しいのを買って来なくちゃならないからな。今、息子が出かけているのはその用事だ。でも、とりわけ夏場は忙しい。干し草を刈らなくちゃならないからな。そのときは、猫の手も借りたいぐらいだ”

 “牛って、何頭ぐらいいるんです?”と、ぼくは聞いてみた。

 “現在は、肉牛が二十二頭、乳牛が五頭、というところかな”と、老人は、ごく事務的に答えた、“それに肉用の羊が六十五頭、豚が十頭、他に、鶏がいる。もっとも、鶏と豚は、自家用だがね”

 “そういうことなんですか”と、ぼくは言った、“結構忙しそうなんですねえ…”

 “君は、こういう仕事はしたことがないのかね”と、老人は言った。

 “もちろんです”と、ぼくは答えた。

 “ドシアンの近くに住んでいるということだが、農家ではないのかね”と、老人はなおも尋ねた。

 “ぼくたちはそこに住んでいるけど、よそ者ですから”と、ぼくは答えた。

 “うちの主人はね”と、そのとき、老人の横に坐ったおかみさんが、口をはさんだ、“口はうるさいけど、なかなかいい人なんですよ。


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働き者で、頑固なところもあるけれど、面倒見はいい方よ。でも、この人の口に乗せられてはダメですよ。農家の仕事って、それは大変なんですから”

 “これ、婆さん”と言って、老人は、おかみさんに注意をした、“さあ、どうぞ、暖かい紅茶でも飲んで下さい”

 “ええ、いただきます”と言って、ぼくは暖かいティーカップを口へと運んだ。

 

 “この可愛いお嬢さんだが”と、しばらくしてから老人は、紅茶をすすっているリサを見て、言った、“メロランスでジャーナリストをやっているということだけど、大変なんだろうね”

 “ええ、でもまだほんの駆け出しですから”とリサは素直に答えた、“原稿が期限に間に合わなかったり、インタビューをとちったりで、先輩に迷惑ばかりかけています”

 “まあ、まだ若いんだからな”と老人は言った、“それで何をつくっているんだね?”

 “婦人雑誌です”と、リサは答えた、“主にファッション関係だけど、その他のこともやります。例えばインテリアとか、料理のことや、旅行案内、家庭訪問など”

 “家庭訪問ね”と、老人は言った、“じゃ、うちの家の感想はどうなんだね。農家のファッションについてどう思うね”

 リサはとまどいを見せながらも、部屋の様子を見回しながら言った、

 “ええ、なかなかいいじゃないかしら。いかにも落ち着いて、無駄がなく、古びたところって、とっても素敵だわ。都会のあたしたちには、こういう建物って、とっても落ち着いていて、貴重だわ。おじさんの服装だって、シンプルで、作業によく適しているんじゃないかしら。要は、ファッションなんて大げさに考えなくても、その場に適している服装をしていればいいのよ。それがときには、あたしたちに影響を与えることだってあるわ”

 “面白いね”と老人はニヤリとしながら言った、“若い娘ならともかく、農業にファッションなんて必要ないよ。わしは昔からずっと、この服装のままだ…”

 

 “ありがとうございました”とぼくは、そろそろ潮時だと思って声をかけた。

 “おやおや、もう帰る気なのかい”と、老人は驚いたように言った、“何かうまいものでも御馳走しようと思っていたのに…”

 “いえ、結構です”と、ぼくは言った、“余り長居をすれば、帰りが遅くなりますから…”

 そう言って、ぼくはリサの肩を叩き、ぼくたちは立ち上がった。

 

 老人と一緒に、ぼくたちが玄関から出ようとしたとき、表で急にトラックのうなり声が聞こえたので、その方を見ると、数頭の子牛を荷台に乗せた小型トラックが家の前に止まるのが見えた。そしてすぐ、中からは、ジャージィに皮ジャンパー、それに作業ズボンをはいた、まだ年若い男が姿を現した。彼は、車から飛び降りるなりすぐこちらへやって来た。


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262

 “おやじ、買って来たぜ”と、爺さんを見て言ったが、すぐぼくたちの存在に気がついたようだった。彼は、けげんな目で、ぼくたちをまじまじと見つめた。

 “この人たちは通りがかりの人だ”と、爺さんは、彼を安心させるように言った、“もう帰られるそうだ。あの馬に乗って、ドシアンの近くからやって来られたんだ”

 “それじゃ”と、ぼくたちは、老人に、丁寧にお礼をして別れると、馬のいるところへと向かった。

 若い男は、あっけにとられたような表情で、いつまでもぼくたちの、とりわけ、可愛いリサの様子を見つめていた。

 

 ぼくたちは、たずなをはずすと、再び馬にまたがった。そして、馬の向きを変えると、そのまま、丘に向かって、馬を走らせた。

 

 “ねえ、農家って、行ってみて面白かったかい?”とぼくは、農家が、後ろで遠ざかるのを脇目にしながら、リサに言った。

 “ええ、気に入ったわ”と、リサは、明るい表情を見せながら、ぼくに答えた。

 “確かにね。でも、生活するとなりゃ大変だ”と、ぼくは言った、“あそこの婆さんがはしなくも言っただろう。ああいう生活は大変なのさ”

 “兄さんも雇ってもらったら”と、リサは、冗談めかせて言った。

 “無理だね”と、ぼくは答えた、“ぼくには、あの激しい労働にはついて行けないよ”

 “大丈夫。十分ついて行けるわよ”と言う、リサの声の響きと共に、ぼくたちを乗せた馬は、晴れた、雲の穏やかな空の下、緑の澄んだ草原の中を駆けて行った。

 

 …ぼくたちはこうして家に戻って来た。楽しい遠乗りだった。いくつもの丘を越え、樫やサンザシやハリエニシダなどの樹林を通り、潅木や雑草の茂みを駆け抜けて来た。あの夢のような農家の出来事も、ここからは遠いところのように思われた。帰りがけに、農家の婆さんが、鶏たちに餌を与えていた様子が、今も脳裏に浮かんで来た。ぼくたちは約束通り、帰る途中、セーレンの墓に立ち寄った。それは、ふもとに民家のある牧場を見はるかす、雑草のよく生い茂った、一見何んの変哲もない高台の上の、一本のサンザシの木の下にあった。ここは、ぼくの家からもそう遠くなく、生前は、よくこの犬と遊びに来たところだった。ここがこの犬のお気に入りの場所でもあり、ぼくの気にも入っていたので、セーレンが死んだとき、ここへ埋めることにしたのだった。今は、雑草におおわれながら、わずかに盛り上がった土が、その存在を示していた。秋のほの暖かい日ざしが、そこにも降り注ぎ、心地良い風が、辺りの雑草を揺らしていた。ぼくは、馬から降りてその場所に来ると手を合わせ、祈りの為に頭を垂れた。リサは、ここへ来るまでの途中、野に咲いていた白い花を、そっと、その盛り土の上に乗せた。そして二人で、犬の冥福を祈った。


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あのセーレンは、近所の人に顔を会わすことがあったとしても、ほとんど、ぼくたち二人だけしか知らない。ぼくたち二人と共に、この静かな野に生き、そして、この世界しか知らずに、冥府へと行ってしまったのだ。この暖かい秋の日ざしが、祈っているぼくに、当時の、まだセーレンが生きていた頃を、呼び覚ませた。リサが、ぼくと並んで、膝まずくようにして、目を閉じながら、祈っていた。秋の明るい日ざしが、祈っているリサを照らし、彼女の姿を、この緑の野の中で浮かび上がらせていた。ぼくもリサも、この沈黙した盛り土と共に、しばらくのあいだ、静かな時の流れの中にいた。――風が通り過ぎ、沈黙の、セーレンとの接触の時は終わった。

 “さあリサ、行こうか”と、ぼくは言った、“ここは、ぼくたち二人だけの思い出の場所だ。いつまでも忘れることのない。また、いつか来ようよ…”

 リサは無言のままゆっくりと立ち上がり、もう一度しっかりと、草の生えたその盛り土を見つめると、去って行くぼくの後ろにやって来た。

 “セーレンともしばらくお別れね”と、リサは言った、“でも、こんないいところで眠っていられるんだから、セーレンも幸せよ”

 “人はどこで死ぬかも知れない”と、ぼくは言った、“でもできるなら、ぼくもこんなところで永久の眠りにつきたいな”

 “あたしも同感”と、リサはにっこりして言った、“どちらが早く死ぬか知れないけれど、お墓はいい所に建てたいわね”

 “そうだね”と、ぼくは答えた。

 

 雲は素早く流れ去って行く。時の流れのなんと素早いことか。ぼくたちは家にいて穏やかな空や、庭の風景を眺めていた。

 “それで、あたしが行ってしまってからどうするの?”と、リサは尋ねた。

 “ひとりきりになる”と、ぼくは答えた、“――でも、また旅にでるさ。今度は長い旅。この前は、セーラを見つけたんだから、今度はママさ。ママを見つける為に、長いひとり旅に出る。ただし、春になってからだけどね。それが今から楽しみさ”

 “じゃ、寂しくはないのね”とリサは言った、“あたしはそれを心配しているのよ”

 “そりゃ確かにリサが行ってしまえば寂しくなる”と、ぼくは言った、“でもそんなこと言ってもどうしようもないだろう。お前がいずれ帰って行くのは、初めから分かっていたことなんだから。ぼくはひとりでも、生活はして行けるさ…”

 “ここでの生活は楽しいわ”とリサは言った、“だって、忘れていたいろんなことを、思い出してしまうんですもの。――でも、もうあしたで終わりね”

 “あしたになれば帰ってしまうのかい?”と、ぼくは尋ねた。

 “そう。あしたの午後の汽車でね”と、リサは言った。

 “じゃ、それまで、まだ一日以上あるし、ゆっくりして行けばいいさ”と、ぼくは言った、“大丈夫。お前が行ってからも、ぼくにはぼくの生活があるし、春になれば、さっきも言ったように旅に出るつもりさ…”


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264

 “そのときには、あたしに連絡してね”と、リサは言った。

 “ああ、忘れずにするよ”と、ぼくは言った、“それから旅先からもね、ひとつひとつお前に連絡するよ”

 “きっとよ”と、リサは念を押した。

 “きっとさ”と、ぼくは答えた、“今度は長期に渡るかも知れないから、ぼくとしても、お前に常に居場所を知らせておきたいのさ”

 “分かったわ”と、リサは安心したようにぼくを見、それからもう一度、秋の寂しい庭の様子や、生垣や、遠景の野を眺めた。

 

 リサは、ぼくにコーヒをついでくれた。花柄模様の白い食器から立ち昇る湯気が、なんとも言えず暖かで、コーヒを注ぐ彼女の細い手が、透き通るように美しかった。午後の日ざしは穏やかで、白いレースのカーテンを通して窓から射し込む光のせいで、部屋の中は明るかった。しかし、秋の日ざしは強くはなく、うっすらと空をおおった雲のすき間から、その淡い光を、この地上に投げかけていた。神秘的なまでに静かな午後、ぼくは、リサと二人っきりだった。耳をすますと、遠くから、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。あれは、つぐみか、みそさざいだろうか? 秋の、冷たく、淡い日射しが、この地を、一層他の世界と切り離されたように、感じさせた。

 “こんなところで一日いると、気が滅入ってしまわない?”とリサが言った。

 “ぼくは待ち望んでいる、早く春が来ることをね”と、ぼくは答えた、“草が伸び、花々が一斉に咲き始めるあの春が来ることをね。――でも、今は秋さ。辛抱強くそのときが来るのを待つしかないさ。お前が家を出て行ってからというもの、ぼくは毎日、この静けさと、周りの人気なさとに対面しているんだ。でも、それが辛いと思ったことは一度もない…”

 リサは、黒いカーディガンを引っかけ、窓の外に振り向いた。

 “まるでここは別世界ね、都会とは”と、リサは窓の向うに振り向いたまま言った、

“都会では、今も人々は忙しそうにしているわ。でも――ここは、なんとゆっくりと、時間が過ぎるんでしょう!”

 “お前はやはり、都会に帰りたいかい?”と、ぼくは尋ねた。

 リサは振り向き、ぼくを見た。

 彼女の顔は、明るい窓とその向うの景色を背景にして、白いはずの膚も、少し暗く感じられた。しかし、その表情はよく分かった。

 “やっぱりあたしにはね”とリサは、正直に答えた、“都会が向いているようよ。何やかやがあって、面白いもの”

 “ぼくも都会が嫌いじゃないさ”と、ぼくは言った、“――でも、充分に自分の時間というものが欲しいんだ。自分の心の真実を見つける為にね。その為にも、こうして、世間から引っ込む他ないのさ。――でも、都会は、時折りの気晴らしには持って来いの場所だ”


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 “いいわ、兄さんが何んて言ってくれようと”と、リサは言った、“あたしは都会が好きよ。もちろん、田舎も好き。でも、余り静か過ぎるところはねえ。あたしは、ひとりで何かするより、誰かと何かしていることの方が好きよ”

 “ぼくも、人が嫌いじゃない”と、ぼくは言った、“でも、自分を見つめる為には、ひとりになる他ないのさ。ぼくは、どちらかと言えば、ひとりでいる時間の方が好きなんだ。そのとき、いろんなことが頭に浮かんで来るし、楽しいことも、幸せなことも、詩的な情景も、みんな、ひとりの中から生まれて来るのさ…”

 “じゃ、あたしの存在って、兄さんにとって何?”と、リサは尋ねた。

  ぼくはリサをじっと見つめ、それから言った、

 “お前は、何よりもまず、ぼくの妹。ということは、ぼくの恋人でもあるし、ぼくと世間とを結びつけてくれるパイプの役割をも果たしてくれているのさ。お前は、ぼくにとって、欠かせない存在なのさ…”

 “あたしにとって、兄さんは”と言ってリサは、次の言葉を考えるように、一瞬口を止めた、“やっぱり、あたしの兄さんよ。昔からの経験を共有している、一番古いお友だち。そんな、昔のことを話せる人って、やっぱり兄さんしかいないわ”

 “人間同士が共通の経験を持つということは、なかなかあり得ないものさ”とぼくは言った、“そんな中で、ぼくたちが共通の経験を持っているということは、貴重なことなんだ。そういう経験は、苦しいものであれ、楽しいものであれ、大切にしなくっちゃね”

 

 秋の午後はゆっくりと過ぎて行く。ぼくは、部屋のソファーに坐っているリサを見、リサは、窓の外に広がる秋景色を眺めていた。ぼくたちは、とりとめのない話題で、午後を過ごした。リサの、都会での生活の話し。彼女は今も、あの高層マンションの十二階の部屋で、ポーラと一緒に暮らしている、ということだ。

 “それで、男友だちって、いくらでもいるんだろ?”と、ぼくは、それとなく尋ねた。

 “仕事上でのね”と、リサは、まじめな顔をして、答えた、“でもときどき、食事に誘ってくれたり、ドライブに連れて行ってくれたことはあるわ”

 “でも、たいていはポーラと一緒。洋服のショッピングに行ったり、夕飯の買い出しに行くのも、彼女と一緒よ。晩御飯は、彼女と交替で作り合っているわ”とリサは続けた、“彼女とは、境遇が似通っているせいか、割と馬が合うのね”

 “ポーラとは、一緒の仕事なのかい?”と、ぼくは尋ねた。 

 “いいえ、彼女とは仕事は別よ”と、リサは答えた、“彼女も、スタジオを飛び出して、今は、小さな洋品店で働いているわ。あたしもときどき、彼女の店に寄ったりしているけれどね”

 “それで、確か、ルナールとか言った男がいたろう”と、ぼくは言った、“あの男とは、今も付き合っているの?”


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 “ええ、ごくたまにね”と、リサは、余り言いたくなさそうに、視線を下に向けて答えた、“あの人自身、いま、生活が余り芳しくなさそうなのよ。トラブルに巻き込まれて、今、少しやけ気味なのよ。アルコールばっかり飲んでいるっていう話しよ”

 “うまく行ったり、行かなかったりだね”と、ぼくは同情して、言った、“じゃ、今付き合っているのは、別の人なんだね”

 “たいていグループでよ”と、リサは、はっきりと答えた、“そのときはポーラも一緒だし、ポーラの友だちのマルカも、あたしの同僚のアメリアも、みんな一緒よ。この夏にキャンプに行ったのも、その人らと同じ連中よ…”

 “お前の賑やかな生活の様子が目に浮かんで来そうだ”と、ぼくは言った、“ところがぼくの方は、見てのとおり、何も賑やかなものはない。ただ静けさと、冷たい空気と、旅の思い出の珍しい品々と、時計の音だけ。――でも、そんな中で、時折り思い出すことは、レオノール爺さんの夏の別荘での、お前との生活のことさ。あのレビエの別荘での生活は、ほんの短い期間で終わってしまったけれど、生活の変動期でもあり、一番幸福な時期のひとつだったし、今でもまるで夢のように思い出されるのさ…”

 リサは、そのレビエという名を口にすると、少し考え込むように黙ってしまった。この家に代わってからも、ほとんどその名を口にすることもなく、まるで記憶から消してしまうかのように、互いに思い返すこともなく過ごして来た名前だった。レビエの別荘――それは、ぼくの生活上での最高の幸せを意味すると同時に、その結末と別れは、悲壮なもので終わっていた。つまり、リサは、そこで、暴行を受けたのだ。

 しかしリサは、今回は、その暴行のことだけを切り離して、考えてくれた。

 “そうね”とリサは言った、“確かにそうね。ここもいいけど、あそこはもっと素敵だったわ。二階の窓から、柳やカシの木の林ごしに湖が見えたし、花だって、庭にここに負けないくらい咲いていたわ。それに、あのお爺さんの思い出の土地だったんですものね… あたしたちが昔いたリトイアだって、そう遠くはなかったし”

 “そうさ、ぼくたちのもう一つの原点があそこにあったのさ”と、ぼくは言った、“あの頃も、あの近くを訪れて感慨にふけったものだが、ぼくはもう一度、その感慨を新たにしたいと思っている。この春にはひとりで、あのリラン湖畔のレビエに訪れてみるつもりさ。あそこからそう遠くないリトイアは、ママがその昔、娘時代を過ごしたところでもあったし、その他にも、色々と思い出深いことがあるところなんだからね…”

 “あの別荘は、もう誰かの手に移っているのね”と、リサは残念そうに言った。

 “でも、夏以外は、恐らく使われていないさ”と、ぼくは言った、“だから、こっそりと中に入ってみることもできる…”

 “書斎が二階にあって、兄さんは一生懸命、お爺さんの話しを書き留めていたわね”と、リサは言った、“あたしはあたしで、働きもしないで、とりとめのない生活をしていたわ。それまでやりたくても出来なかったことを、もう一度やろうと試みたり。本当に、あの頃が一番幸せだったかも知れないわ”


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 “二階の書斎の窓から眺められた湖の光景だけは、忘れることができないよ”と、ぼくは、なつかしそうにあの頃の情景を思い出しながら、言った、“忘れたくても、忘れることが出来ない。背の高い柳や、カシの木の重なり合った明るい葉の緑ごしに、きらきらと輝くような真青な湖面、美しく澄んだ空などが見えるんだ。ときおり、ヨットのセーリングの光景すら、そのわずかに樹木の間から見える湖面に、見ることができた。万事がゆったりと、穏やかに、幸せに満ちながら、過ぎて行った… あんな時を過ごすことができるなんて、もう二度と出来ないかも知れない。ぼくは、暇があればいつも、二階の書斎にいて、柔かな、窓から射し込む、季節の光を浴びながら、その美しい景色を眺め、思い暮らしたものさ。あの頃はまだ、レオノール爺さんがいたし、ぼくたちは毎日、決まった時刻に、入院先の病院へ見舞いに行く以外は、これといった義務を負ってはいなかった。だからそれ以外は、二階の書斎に駆け込み、それまでしたくても出来なかったこと、つまり、書きたいという衝動を、心ゆくまで満足させることにしたのさ。しかしまずは、レオノール爺さんの話しを書き留めることから始めることにした”

 “それで書けたの?”とリサは、ぼくの顔を見て尋ねた。

 “いやまださ”とぼくは、リサに一瞥して答えた、“他にも、いろいろと忙しいことがあってね。まず、いろいろと勉強しなくちゃならなかったのさ。それに、爺さんの話しも、実地に調査して、検証してからでないと、本当のことだと納得して書くわけには行かないさ。――でも、爺さんから聞いたことは全部ノートにとってあるし、その気にさえなれば、いつでも書き始めることはできるのさ”

 “それで行くのね、この春に…”とリサは、しんみりと言った、“あたしも行ってみたいところだけど、行けそうもないわ。仕事の方がね”

 “分かっている”とぼくは答えた、“今回も、ぼくひとりだけで行くよ。それで充分さ。レビエの別荘や、昔、ママが住み、ぼくたちもいたことのあるあのリトイアヘは、早春の、雑草や木々の花々が一斉に芽ぶく頃に行ってみたいものさ。きっと、素晴らしい体験になるに違いないさ。今から待ちどおしいぐらいだ。ママが昔通い、ぼくたちも通ったことのある、あの由緒ある古い校舎や、爺さんの言っていたあの大きな館、あの頃から雑草におおわれていた会社跡や、ママが通ったことのあるリトイアの高等学校など、今も、あの当時そのままに残っているはずなんだ。ぼくはあそこへ訪ねてみたい。そして、ぼくたちの昔の頃や、もっと以前の、まだぼくたちが生まれていなかった頃の、ちょうどママが生きた当時の空気に触れ、思いを馳せてみたいものなのさ”

 “きっと、素晴らしい経験になるわね”と、リサは目を輝かせながら、自分が行けないのがちょっと口惜しそうに、言った。

 “そう”と、ぼくは楽しそうに言った、“でも、ただ残念なのは、あの事件のおかげで、引越しを余儀無くされてしまったことさ”

 そう言って、しまったとぼくは思った。リサの表情に、かすかに曇りがさすのが認められたからだった。ぼくは、言うべきではなかったことを、ついうっかり、口走ってしまったのだ。


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 しかしその瞬間、ぼくの脳裏には、あのいまわしい日の光景がはっきりと浮かんだのだった。もう夏も終わりの午後、家の静まり返った明るい庭には、陽光が燦々と降り注いでいた。ぼくは、その余りの静けさにとまどいながらも、家に帰って来た身を休めようとした。しかし、玄関のドアは開け放され、また、開かれた窓から外に向かってカーテンがなびいている様子を目にすると、一瞬、何か不吉な予感がしないでもなかったが、ぼくはためらうことなく、家の中に入って行った。し~んとした、いつも見慣れた部屋。何ひとつ変わったことはなさそうだったが、しかしその奥で、開かれた、明るい台所から目に飛び込んで来た光景は、家具の配置は、何ひとつ乱れてはいないのに、その隅の勝手口の扉が開け放されたままになっているそのすぐ手前のところで、まるで死んだように倒れているリサの姿だった。しかもその姿は普通ではなく、よく見ると、衣服が乱れていたばかりか、引き裂かれたところさえあり、露わな足や肩に大きなあざのような青いキズを認めることができた。彼女はうつ伏せに、向う向きに、ぐったりと倒れていた。ぼくは、その光景の、余りの唐突さに、唖然となると同時に、この台所の余りの静けさや、開け放された勝手口の扉の向うに覗いて見える、夏草や樹木の明るい輝き、それに、窓から射し込む、柔かな、神々しい光を浴びて、白く反射する、真新しい家具や食器類の無言の表情などに幻惑されて、思わず、我を忘れたように、みとれてしまうほどだった。しかしすぐ我を取り戻し、ぼくは、彼女の下へ駆け寄った。彼女を抱き起こすと、彼女の呼吸ですぐ生存を確かめることができたが、リサは完全に気を失っていた。しかしそれも無理はない、彼女の服は引き裂かれ、彼女が暴行を受けたことは一見して明らかで、唇や額からは血がにじみ出、せっかくの美しい、白いドレスも、血と泥にまみれていた。ところどころ露出した彼女の膚のいたる所、青いあざがついていた。ぼくはすぐ彼女を抱きかかえ、彼女の寝室のベッドヘと、リサを運んで行った…

 それが、すべての始まりだった…

 

 “…あの事件のことは、あまり口にしないで”と、リサは真面目な表情になって言った、“あんまり思い出したくないのよ…”

 “ああ、悪かったよ”と言って、ぼくは謝った、“でもさ、あの一事を除いて、すべてが素晴らしいところだった。リサだって、そうとは思わないかい?”

 “そうねえ”と、リサの表情に明るさが戻り、彼女は言った、“確かにいいところだった。まるで天国にいるような毎日ね。なんにも思い煩うこともなく、好きなことをして、生活をすることが出来たんですもの。あんな、夢のような日々なんて、もうめったに訪れるものじゃないわ”

 “ぼくだってときどき思い出すのさ。あの幸せに満ちた日々のことをね”と、ぼくは言った、“音楽はモーツァルト、まるでモーツァルトのフルートとハープの協奏曲のような気分の毎日だった。光は明るく、まぶしいぐらいだった。


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269

とりわけ、二階の書斎のあの窓辺に、緑いっぱいの木の葉を通して射し込む、柔かな光はね。机の上には、彫刻や時計の置物や、花瓶があり、それらが、光を浴びてまぶしく輝くのさ。床は板張りの簡素な部屋だったけど、物を書くには、これまでの一番いい環境だった。窓から見降ろすと、芝生の庭には、春の花々が咲き誇り、樹木はこれ以上ないほど、葉をつけ、茂っていた。ぼくは窓を開け、春の、なんとも言えず心地良い空気と、花々や樹木のかぐわしい香りを、いつも、胸いっぱい吸い込んで暮らしたものさ。ときおり、創作に疲れると、ぼくは階段を降り、一階の応接室で、モーツァルトの音楽などを聞いて、心を休めた。何ひとつ、辛いと思うようなものはなかった。それまでの都会の暮らしに比して、まるで天国のような日々だった。家の中はいつもし~んとしていて、ただ時折り、モーツァルトの音楽だけが、家の片隅から、緑いっぱいの庭に向かって、鳴り響いたものだった。それを、応接室のソファーで聞いていると、やがてまぶたが自然と閉じて来た。そんな日々にぼくの脳裏にかすめたのが、ぼくたちの幼い、子供の頃の情景だった…”

 “いいわねえ、そんな日もあったのね”と、リサはにっこりして言った、“あたしはその頃、勤めに出ていたわ。街の遊園地で、子供たちの相手ばかりしていた。でも、遊園地も明るくて、結構楽しかったわ”

 “あの遊園地かい?”と、ぼくは、リサの顔を見つめて言った、“花壇に、花がいっぱい咲いていた湖のほとりの遊園地―― ぼくが陽気に誘われて行くと、確か遊園地のレストランにお前がいたね。野外のテーブルに坐ると、お前が冷たい飲物を持って来てくれたりして。でも、それも、お前の仕事の一部だったのさ…”

 リサは、にっこり笑った。

 “あんな日々があったなんて信じられない”と、ぼくは続けた、“書斎の窓から素晴らしい庭や、晴れ渡った空を見つめていると、自然と、昔の、子供の頃に目にした情景が、二重映しとなって、目の前に浮かんで来るのさ。その頃には、庭に、ママがいる姿も見ることができたけれどもね、もう、そのとき既にママの姿を見ることは出来なかった。――しかし、快い風が、その当時の記億を、様々に呼び覚まさせてくれたものさ。四季折々に、お前たちと遊んで暮らした日のこと。ママと喧嘩をして家を飛び出し、森の中に入って、ママを心配させた日のこと。村の小学校の校庭で、友だちとサッカーの遊びをしたときのこと、などさ。随分様々な思い出があることが、そのときになって初めて分かった。都会の苦しい、まるで闇のような生活の向うに、まるでオアシスのような幸せな生活があったことを、そのときに思い出したのさ。――でも、それらはもう、雲をつかむような昔の話しで、その頃には、その当時の名残が何か存在するとすれば、ただお前ひとりでしかなかった。しかし、二百年以上も昔の音楽が今に伝わるように、ぼくは、その当時の記憶を、なんとかして今に伝えたいと、そのとき、真剣になって思ったものさ…”

 “それで、何かしたの?”と、リサは尋ねた。


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270

 “ああ、詩をいくつかね”と、ぼくは答えた、“でもそれだけで、大した収穫は得られなかった。なんと言っても、勉強の方で、いろいろと忙しかったからね。――でも、そういう生活が、あの爺さんが死に、あの事件でピリオドを打つまで続いたのさ。今でも、あの当時の幸せな生活のときのことを、なつかしく思い出すことがあるよ”

 “今だって、悪くないじゃない”とリサは言った。

 “ああ、最初は、お前がいたし、犬も、この家に来た”と、ぼくは言った、“――でも今は、犬もいないし、お前もいない。寂しい限りさ”

 そう言うと、リサはしんみりした表情になった。

 “つい最近ね”と、ぼくは続けた、“不思議と夢を見たのさ。それも、学校の友だちと、広い村の校庭でサッカーをしている夢―― 面白いだろう? どうしてこんな夢を見てしまったのだろう。ぼくは、相手のブロックを破る為にボールを蹴ったり、コーナーキックや、スローイン、そしてついには、相手の空中高く蹴り上げたボールをとる為に、ぼく自身、空高く舞い上がってしまったのさ”

 リサは黙って耳を傾けていた。しかしやがて、

 “ほら、何か聞こえるんじゃない?”とリサは言った。

 “何がさ”と、ぼくは聞き返した。

 “風の音よ”と、リサは答えた、“風が木を揺らしているのね。さっきはあんなに穏やかだったのに、本格的な冬が、やって来るのかも知れないわね”

 その言葉で、ぼくは、窓の外を見た。

 空は明るく、穏やかだったが、その透明な青さの彼方に、厳しい冬の到来を見ることができるのだった。北風が、庭の雑草や樹木を揺らし、ぼくの家の窓をも震わした。寒く、厳しい冬の訪れとともに、今、この部屋にいるリサは、もうあと、ほんのわずかな時間の後、この家から去って行こうとしている。ぼくには、そんな彼女を引き止めるすべはなかった。彼女とほんの僅かな間、昔話をしたとしても、それがどんな意味を持つというのだろう? 冬の到来は、ぼく自身の冬の到来でもあった。たったひとりぽっちの、孤独の冬を、もうすぐぼくは迎えようとしている…

 

 寂しさ――しかし、美しい冬になるだろう、今年の冬は… もう何年も過ごして来た冬と変わりなく、しかしほんのちょっぴり変化のある冬。人々は、この冬を過ごし、ぼくもまた過ごす。何年も前には、ママやパパ、家族の者がみんな揃って楽しんだ冬があった。雪深い宿で、雪景色を楽しんだ冬があった。また、雪が降り積もった家の庭で、真白な雪を喜んだ冬があった。それらは、遠い思い出として、今も脳裏に残っている。それから、リトイアの爺さんの家で過ごした厳しい冬があった。それは、パパが亡くなって、火が消えたような家の中で、ママたちと過ごした冬の、次の年の冬だった。その次には、セルッカの都会の冬があった。それは、ぼくの生涯の冬の中でも、最悪の冬といえるものだろう。悪友はいたが、心を分かち合えるような友は誰もなく、都会のまっただ中で、たったひとりぽっちで、孤独に、絶望に打ちひしがれながら、その冬を過ごした。それから、セーラやリサと過ごすことになった冬――そんな冬があった。


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271

それも決していい生活とは言えなかった。それらはすべて、過去の記憶の中に滑り込み、今、再び、生まれてから何度目かの冬を迎えようとしている。今年は、寒さの厳しい、孤独な、寂しい冬になりそうだ…

 

 “ねえ、久し振りだから、音楽を聞いてみないかい?”と、やがてぼくは言った、“昔よく聞いた、モーツァルトの「フルートとハープの為の協奏曲」をさ。あのレコードも、今も、その辺のどこかに眠っているはずさ。最近はほとんど聞くことがなくってね”

 “そうね”と、リサの顔はほころんだ。

  ぼくはさっそく、レコードケースのところへ行き、少しほこりのかぶった箱の中に、目ざすレコードを捜しにかかった。やがてそれは、他のレコードのあいだから姿を現した。最近は、めったに動くことのないプレーヤの上に、そのレコードを乗せ、スイッチを押した。やがて流れて来た響きは、かつてよく耳になじんだことのある、あの流麗で、妙なるモーツァルトの調べだった。

 ぼくは、リサのいるところに戻ってくると、彼女と並ぶように、ソファーの上に坐った。

 “これね、昔、兄さんがよく聞いていた曲は”と、リサは、ぼくに笑顔を向けて言った。

 “あれ? 題名をよく知らなかったのかい”と、ぼくは少し意外そうな顔をして、言った、“そうだよ。あの大天才が、弱冠二十二才のときに作った曲さ。素晴らしい、のひと言に尽きるね。たった、こんな年でこんな曲を作ることができるんだから。恐らく、これを演奏している中で、作曲者の年齢より若い者は誰もいないだろうね”

 “昔には、素晴らしい天才がいたのね”と、リサはしみじみと言った、“その天才のほとばしりみたいなものが、この曲からは聞きとれるような気がするわ”

 “だから、ぼくはこの曲が好きさ”と、ぼくは言った、“二百年も生命を得続けているこの曲は、恐らく永遠だろうね…”

 

 そのようにして、まるで昔を取り戻したかのような、リサとの楽しい午後のひとときは過ぎて行った。窓の外は穏やかで、流れて来る曲はさわやかだった。リサは、そのあいだ、ジャケットのモーツァルトの肖像を、食い入るように眺めていた。ぼくは、しかし、目を部屋の隅にやり、うっとりした、夢誘うようなこの日の午後を、もっと長く、もっと確かに、味わっていたかった…

 

 ぼくが浴室に入ったのは、その後だった… 少し開け放された窓からは、まっ青な美しい空が広がっていた。浴槽から立ち昇る湯気が、その小さな窓のところで、出ようか、出るまいかと格闘をしていた。ぼくは、浴槽につかり、すべてが新鮮な気持に浸っていた。この小さな一角には、ぼくのすべて、ぼくの過去のすべてが存在しているようだった。昔、ママの裸を初めて目にしたのも、このような浴室だった。子供の頃、まだ昼日中、ママに言われてしぶしぶ、泥だらけの体を洗う為に入ったのも、このような浴室だった。小さな浴室に射し込む昼の光を受けて、周りのすべてが生きているんだと感じたのも、このような浴室でのことだった。


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272

その頃、未来は光であり、窓から射し込んで来る光のように、得体は知れないが、遠くから誘い込む、呼びかけのように、ぼくには感じられた。――今も、当時と同じ光が、この浴室内にも存在していた。冷たい風が吹く窓の外は明るく、真っ青な空に、白い雲がたなびいている。しかもこの日、この幸せな日、同じこの小さな家に、あのリサがいるのだ。そう思うと、何かしら、ぼくは幸せだった。かつて、彼女がいたときのように、彼女や、セーラやママがいたときのように、この家の周りに、何か小さな事件が待っているようで、ぼくの心は、小さな期待で踊った。そう、幸せとは、子供の頃のような幸せ――それをぼくは、今、不思議と思い出し、この狭い浴槽の中で、感じられてくるのだった。子供の頃に夢をはぐくんだ、様々な、未知なる国への憧れ――その名から心をときめかす、オルレアンや、カルカソンヌの光輝くばかりの美しい街並。それらは、本やママの口から語り聞かされ、ぼくの心の中で、憧れと夢はふくらむばかりだった。その他、様々な国の、幸せの待っている場所へぼくは行きたかった。とりわけ、病床に伏しているとき、その夢は、いっそう大きくふくらんだ。その状況は今も、少しも変わってはいない。この辺ぴな田舎屋敷の、小さな浴槽につかっていて、この未知なる国への憧れ、旅への誘いは、今も、ぼくの心を捕らえて離さなかった。そこへ行けば、結局大したことがないことが分かるのに、それでも、ぼくの気持は変わらないのだ。ぼくは浴槽につかりながら、子供の頃の自分と、現在の自分とのあいだに、年齢による隔てさえ忘れさせてしまうような、不思議な一致点があることを見い出した。しかし、今は、リサがこの家に来ている。その限りにおいて、ぼくの幸せは不動のものなのだ。でも、――リサがこの家から去ったなら、そのときには再び、ぼくは旅に出よう…

 

 浴室から戻って来ると、リサが居間にいた。冬の明るい日ざしが、居間の向うの、窓ガラスに見える、木の茂みや庭の草の上に降り注いでいた。その明るい光の反映が、この冷たい居間にも伝わってくるかのようだった。室内の家具や、花の活けた花瓶が、窓の外の光を受けて、冷たく光っていた。しかし、室内が冷たいのでは決してなかった。暖炉にくべてあるマキのおかげで、快適なくらい、暖かかった。ぼくが部屋のドアをあけると、ソファーに坐っていたリサが、振り向いた。

 “どう? スッキリした?”と、彼女は尋ねた。

 “ああ、いい湯だった”と、ぼくは、顔をほてらせながら答えた。

 それから、ぼくは、彼女のそばに歩み寄り、彼女のそばに立ってリサを見下ろすように視線を落とすと、そのままの姿勢で言葉を続けた、

 “浴室の中でいろんなことを考えた”と、ぼくは言った、“実に様々なことさ。空想の世界飛翔と言ってもいいな。ぼくは、いろんな国のいろんな所へ行くのさ。でも実際は、ここにいて、こんな辺ぴな、寂しいところにいる。しかし、結局、ここが一番いいのさ。お前がこの家にいたからね…”

 リサは、にっこりと笑った。

 


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273

 “そう、結局は、愛情よ”と、リサは答えた、“そこに愛さえあれば、たといどんなところにいても、その人は幸せなはずよ。別に、とりたてていい暮らし向きをしなくってもね”

 “お前の言う通りさ”と、ぼくは言った、“でも、人間の心は揺れ動くのさ。絶えず揺れ動く。ひとつとして定まることがない。つまり、絶え間ない欠如なのさ。ぼくは、この欠如から逃れたい…”

 “何を言ってるのよ、兄さん”と、リサは、にっこりして言った、“もっと、頭を冷やしなさいよ。そうすりゃ、ここがどういうところで、兄さんのいるところがどういうところかが、分かってくるわ”

 “そりゃ分かっているよ。ここは田舎の寂しい一軒家さ”と、ぼくは答えた、“でもここは、すべての出発点でもある。帰着点とは、ぼくは考えたくないのさ。今は、ぼくの寂しさの最低にいるけれどもね、今に春が来れば、植物が一斉に芽をふき出すように、ぼくも活動を開始するつもりなのさ。余りにも過剰な空想―― そして、それによる欠如感。それを打ち破るには、ただ、この活動しかないのさ…”

 “そう。家にじっと籠もっていれば、人間はだんだんと陰気になって行くわ”と、リサは言った、“だから、たまには外に出て、みんなと交わらなくっちゃ”

 “いいテーマだねえ”と、ぼくは言った、“外へ連れて行ってくれるのが、リサのようなお姫様なら、ぼくも喜んでお伴もしよう。――でもたいていは、気晴らしと、馬鹿話ししか、そこには待ってはいないのさ…”

 “――でも、外には、いいこともあるわよ、きっと”と、リサは言った、“兄さんの思うような理想はないかも知れないけれど、少なくとも、兄さんを、思い出と、後悔のくびきから救い出してくれるだけのものは、そこにあるはずよ”

 “そう、ぼくもそれを信じている”と、ぼくは答えた、“孤独な家の扉よ、開かれ。されば、新しい世界が眼前に開けん、さ。…ぼくを、この孤独の館から連れ出してくれるのが、お前でなくて残念だねえ”

 “あたし?”と、リサは驚いたようにぼくを見上げた。それから、気を落ち着かせてから、リサは言った、“本当はそうしてあげたいんだけど、あたし一人の力じゃ、どうすることもできないわ”

 “分かっているよ”と、ぼくは優しく言った、“この閉ざされた扉は、自分で開けるさ。そしてこの家から出て行く。次の春が来ればね。――でもそのときが来るまでは、この陰気な家で、ぼくはひとりさ。春に備えて、色んな準備をする為にもね…”

 リサは黙って、ぼくの言葉に耳を傾けていた。それから、しばらくすると、おもむろに彼女は言った、

 “一日って、過ぎるのは早いわぁ。ホラもう、庭の木に西陽がさしているのよ。そのうち、日が暮れて、きょうという日もお終いね…”


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274

 “ぼくたちの時間って、そんなものさ”と、ぼくは、立ち尽くしたまま言った、“何もしないうちに、じき、時は経ってしまうのさ。そう考えると、一瞬一瞬を、おろそかにすることは、できないねえ…”

 

 ふと、窓の外を見ると、西の空は言いようのない美しさを見せていた。まるで山脈のように盛り上がった雲の頂上辺りに、既に太陽は隠れ、頂上近くを、薄い綿のような広がりをもつ淡い金色で包んでいた。その美しさは、まるでそこに雪山が存在しているかのような、清澄とさわやかな山脈のただ中にいるような錯覚に捕らわれそうだった。しかし、光と雲の織り成すその感動的な饗宴も、ほんの一瞬のことで、やがて、頂上の、輝くばかりに美しい黄金色の光が失われて行くと共に、段々と、周囲は、薄暗く、暮れて行きそうだった。秋の日が暮れるのは早い。もう空は、幾はけかのペンキを塗ったような地平線近くの薄い雲の色と共に、同じような暗さで、段々と暮れて行くのだから… そのうち、何もない空には、明るい一番星が輝き始める。多分あれは、金星だろう。そうしているうちに、二つ、三つと増えて行き、周囲の森が黒い塊に変わるのと引き換えに、満天の星となるだろう。ぼくらは、そこまで見つめてはいなかった。部屋の暗さと共に、カーテンを引き、部屋の中に明かりをともしたのだから…

 

 “きょうも終わってしまった”と、ぼくはカーテンを締め終え、立ったまま、リサの方に振り向いて言った。

 “そのようね”と彼女は、ぼくに向き直って言った、“でも楽しかったわ、この一日――長いようで、短い。ほんとにすぐね”

 “ああすぐさ”と、ぼくは言った、“一日なんて、過ぎるのはすぐさ。このようにして、毎日が過ぎて行き、きょうもまた、さ。――でも、この一日は、いつもとは違った。お前がいたおかげで、楽しい思いをさせてもらったよ”

 そう言うとリサは、にっこりと微笑んだ。

 “さて、それじゃ”と言って、リサは立ち上がった、“食事の準備の、残りの仕上げをしなくちゃね”

 “そうていねいにしてもらわなくてもいいよ”と、立ったリサを見て、ぼくは言った、“夕食は簡単でいいんだ、簡単で…”

 “…でも、久し振りなんだから、兄さんに栄養をつけてあげなくっちゃ”と、リサは言った、“こんな家庭料理って、また、ここ当分は味わえないのよ”

 “そう言や、その通りだな”と言って、ぼくは笑った。

 

 リサが台所へ出てしまうと、ぼくは、居間にひとり残って思った、最近はろくすっぽ、うまい家庭料理を味わったことがない。外食か、自分のまずい手料理か、そんなところですませて来た。その生活は、まるでセルッカにいた頃の、貧しいひとりぽっちの生活と、それほど大差はない。今もぼくは、独身である以上、この食生活に関しては、貧しいのだ…


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275

 

 しかし、昨夜に続いてきょうも、リサの手料理を食べさせてもらうのだと思うと、ぼくは嬉しかった。その為の材料は、事前に買ってあって、冷蔵庫にほうり込んである。リサはそれを見て、適当に調理するだろう。昔この家に一緒に住んでいた頃、リサがしていたごく普通のことだったのだ。

 

 ぼくはしばらく居間にいたが、彼女のことが気になり、ちょっと台所をのぞいてみた。 タイルと、小節が目につく、さわやかな板張りの台所では、リサがひとり、オーブンの前に立って、忙しそうに、調理にいそしんでいた。壁にはめられたガラス窓の向こうは、もう真暗だった。ガスレンジの上では、ぐつぐつと鍋が煮え、リサはときどき、オーブンの中をのぞき込んでは、鍋をかきまぜている。やかんが、しゅんしゅんと音をたてていた。ぼくは、ほんのしばらく、彼女の後ろ姿を見ていたが、その彼女が、やがて振り向いた。目と目が合うと、彼女は、ぼくに言った、

 “何か御用?”

 “いや、何かぼくに、手伝うことがないかと思って”と、ぼくは答えた。

 “いいわ。もう少し時間がかかるから”と、リサは答えた、“そのうち、出来上がったら、兄さんに、テーブルへ運んでもらうわ”

 “そうかい、それじゃ”と、ぼくは答えた、“出来上がるのを、もう少し、楽しみにしておくよ”


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276

 …次の日の朝は、いい朝だった。ぼくがベッドで目を覚ましたとき、窓からは明かりが射し込んで、壁やベッドや絨毯を、柔らかい光で包んでいた。白く輝いて見える窓は、レースのカーテンごしに光にあふれ、その向こうには、まるで光の国が存在するかのように思われた。いずれにせよ、外はきっと、いい天気だろう。いつものくせで、ぼくはすぐには起きようとはしなかった。部屋の隅の、テーブルに置かれた、花瓶の中の、片側だけが光を浴びた可愛らしい花々や、壁に掛けられた額入りの絵などを、それとはなしに見つめながら、早朝の目覚めのひとときを、こうしてベッドに横たえたまま、ぼんやりと過ごすのが好きだった。しかし、目は自然、明るく輝いた窓の方に引き寄せられた。そこでは、花柄に似せた、レースのカーテンのモザイク模様が、窓からの光を浴びて、ほのかに、あるいは、くっきりと浮かび上がって見えていた。そしてあの、光にあふれた窓の向こうには、どんな国が、このぼくを待っているのだろう? その向こうが、本当はどんなのかを知っているくせに、ぼくは、そういうことを想像するのが好きだった。見えないがゆえに想像する。窓の、あふれるばかりの光は、心を引きつけ、ぼくを想像へとかりたてるのに充分だった。――しかし、レースの緩衝作用のせいか、室内を包む柔らかな光の感じが、またなんとも言えず、素晴らしかった。総体として、ブルーの色調で統一してあるこの部屋の中は、窓の輝くばかりの明るさとは対照的に、秋の落ち着いた感じを、ちょっぴり感じさせ、とりわけ陰になった部分は、その印象を強めるのだった。ぼくは、この窓内の、柔らかい色調や家具に包まれて、しばし、平和で夢見るような気分に浸っていた。

 そしてやがて、現在も、この同じ屋根の下にいるリサのことを思った。彼女は、多分まだ眠っているだろう。彼女の好きな、ピンクの色調で統一された、彼女の部屋の中で、彼女も同じように、柔らかな光に包まれて… そう思うと、ぼくは、彼女の部屋を覗きたくなった。昔なら、あのアパートの狭い部屋に閉じ込められていた頃なら、彼女らの寝姿を見るには、ちょっと洗面所へ行く用事があればよかった。彼女らのベッドルームは、その通路をも兼ねていたのだ。しかし今は、そうする為には、隣の部屋までわざわざ出向いて行かねばならない。それは、もっと以前の、ぼくたちの子供の頃に似ていた。あのときなら、確かに、二階のぼくたちの部屋は分離されていたし、妹らの部屋へ行くには、隣までわざわざ出向いて行かなければならなかった。そして今、ぼくはちょうど、あのときの気分に戻ったような、ちょっとした冒険とスリルとを味わう気分になった。ぼくは再び今、子供に戻ったのだ。――やがて、ぼくはむっくりとベッドから起きると、部屋のドアのところに歩み寄り、ドアを開けた。それから、まだ、早朝の冷たさの残っている薄暗い通路を横切り、リサの部屋のドアの前で足を止めた。やがて、息を殺して、静かに真ちゅうのノブを回すと、それは意外と簡単に回るのだった。彼女は、部屋の鍵をかけてはいなかった。ぼくはそっと、部屋のドアを開けた。すると、ぼくの部屋と同じように、早朝の柔らかい光に包まれた部屋の中の、彼女のピンクのベッドの上で、リサは、顔を半分向こう向きに、安らかな状態で眠っていた。ぼくは、部屋の中に入り、ドアをそっと閉めると、音をたてないようにゆっくりと、彼女のそばに歩み寄った。


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しかし彼女は、ぼくの気配に影響されたのか、まだ眠ったまま、こちら向きへ寝返りを打った。光を浴びた明るい顔が、急に日陰になり、暗くなった。しかしぼくが、彼女の頬にキスをするには、その方が好都合だった。ぼくは、背中に窓からの光を浴び、掛け布団から、半分肩と腕とをのぞかせた状態で眠り続けている彼女のそばまで来ると、朝方の柔らかい光に包まれて、日陰となった彼女の寝顔の頬にそっと唇を近づけ、そしてキスをした。その一瞬の接触で、閉じられていた彼女の目が、驚いたように開かれた。余りの突然のことで、彼女は訳が分からなかったのだろう。しかし目はあけられ、ちょっと何かを考えるように、ベッドの上の一点を見つめていた。

 が、それほど大きな動作にはつながらなかった。

 “なにがあったの?”と、彼女は横になったまま、開いた目で、ぼくを見つめて言った。

 “もう朝だということを知らせに来たのさ”と、ぼくは、絨毯にひざまづき、彼女を見つめながら、落ち着いて言った。

 “そうか、ここは、あたしたちの家だったのね”と、リサは、やっと思い出したように言った、“それで兄さんがいるのね”

 “そうさ、不思議かい?”と、ぼくはおかしそうに言った。

 “それで、あたしに何かした?”リサは、ぼくの質問には答えず、そう尋ねた。

 “ああ、お前の可愛い頬にキスをした”と、ぼくは冷静に答えた。

 “だと思った”と、リサは答えた、“何か、触れたような気がしたもの。――もう朝なのね。それにしても、兄さんのその頭。髪の毛が立ったままじゃないの。寝起きそのままね”そう言って、初めてリサは、おかしそうに微笑んだ。

 “いけない!”と言って、突然、ぼくは頭に手を当てた。

 “でもそう言っているお前だって”と、ぼくも言った、“髪の毛がバラバラじゃないか。まぶただって、まだ眠そうだしね”

 “だって兄さんが急にやってくるんですもの”と、リサは言った、“手入れすることもできないんだから仕方がないわ”

 

 ぼくは、そんな彼女に微笑んだ後、ベッドから離れ、レースのカーテンが締めてある窓辺に寄った。それから、前から気になっていた外界を見る為に、カーテンをさっとあけた。窓の外は期待通りの明るい朝が広がっていた。澄んだ青い空。美しい森。

 “リサ、見て御覧、素晴らしい朝だ”と、ぼくは、窓の外を見つめながら言った。

 “そうね、いい朝のようね”とリサの声が、後ろからした。

 振り向くと、彼女はまだベッドに横になったまま、しかし、出した腕を頭の後ろに添え、向きをこちらに変えて、ぼくと窓の方に目を向けて、答えていた。ぼくの方から見ると、彼女は朝の明るい光に包まれて、ベッドの上に、ポッと浮かび上がるかのようだった。

 “こちらへ来て、見て御覧よ、すがすがしい朝さ”と、ぼくは、リサを促すように言った。


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278

 しかしリサは、朝の心地良さのせいか、ベッドから起きようともせず、答えた。

 “いいわ。ここからでもよく見えているもの。本当に気持のいい朝ね…”

 ぼくは振り返って、窓からもう一度外を見、穏やかな空や、光に輝いた庭に咲く花や、遠くの森や草地などを見つめながら、リサも、もうすぐこの家から出て行くのだ、と思った…

 

 この日の朝食は簡単だった。明るい朝のテーブルに、リサと二人で向き合って食事をした。木目模様のテーブルの上には、鉢植えの花が飾られ、リンゴやオレンジのフルーツも皿の上に盛ってある。キッチンと隣り合せのこのダイニングの窓からは、すぐ裏側に茂っている樹木の枝や葉がからみ合っている姿が見え、この食堂を、いっそう明るいものにしていた。一方、奥の、キッチンに通じる裏の戸口の窓ガラスからは、別の一角の樹木の様子が見え、ぼくの心を、さらになごませるのだった。いつもなら、ひとりで朝食をとって来たこのダイニングだったが、この日はリサがいた。彼女は黙々と、ナイフとフォークで肉を切り、野菜を口に運んでいた。中央の皿に盛りつけられたローストもまたたく間に消え、あとはパンと野菜と水とが残るばかりだった。ぼくはふと、鉢植えの花から、彼女のフォークを握った手の上に目が落ちた。ブルーのブラウスをのぞかせ黒いカーディガンを着たリサは、そこにいた。しかし、この食堂や、向こうのキッチンは、ぼくたちがいるにもかかわらず、静かだった。仕切り台に置かれた花瓶の花や、花模様の壁紙や、板壁など、あちこちに貼ってある額などの賑やかさにもかかわらず、静かで、無言の表情を保っていた。しかしあすは、この食堂やキッチンも、一層静かになるだろう…

 

 やがて、ぼくたちは食事を終え、リサは立って食器をキッチンヘ運ぼうとした。ぼくもすかさずそれを手伝おうと立ち上がったが、リサはちらっとそんなぼくを脇目に見た。

 “洗うのはあたしがするから、兄さんはそれを運んでくれるだけでいいわ”

 そう言ってリサは、流し台までやって来た。

 ぼくも、彼女に続いて、運んで来た食器を流しに重ねて置いた。それから、彼女に何か語りかけようとしたが、言葉もなく、再びテーブルに戻った。

 ぼくはくつろぐべく、椅子にもたれ、片方の腕を、もうひとつの木製の椅子の背を、肘掛け代わりにして置き、ゆっくりと、窓の方に目を見やった。窓の外は明るく、枝の葉が、風に揺らめいていた。ふと目を室内に向けると、キッチンではリサが、食器を洗っているその後ろ姿が、目に入って来た。グリーンの落ち着いた色調の中で、黒いカーディガンとジーンズの彼女が、裸足で、黙々と働いている様は、ぼくに、何んとも言えない感じをもたらした。もう午後にはいなくなる彼女――その彼女が、今、ここで立ち働いているのだとは何んと奇妙なことだろう。彼女が、残りかすをポイッと、くず篭に捨てる光景を目にして、ぼくは遠い日のことを思った。彼女も、一年も前の日には、このような、同じ姿を毎日、見せてくれていたものだ。だがそれも、今では何んと、貴重なものになってしまったことだろう…


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279

 “ねえ、リサ”と、ぼくはリンゴをひとつ手に取ると、テーブル越しにリサに声を掛けた。

 食器を拭いていたリサは、その声で振り向いた。

 “リサって、いつ見ても可愛いね。お前の姿は、この部屋にピッタシだ”

 “それはどうも”と、その言葉に対しては、リサは笑顔で答えた。

 “ぼくはね”と、ぼくは、テーブル越しにリサを見つめたまま言った、“お前に去られると寂しくなると思う… でも、それは仕方ないことだね”

 リサは心配そうにいっそうこちらに振り向いた。それどころか、彼女は手を拭き、こちらへやって来た。そしてリサは、テーブルに腰掛けているぼくを、立ったまま見降ろすように言うのだった。

 “何を言っているのよ。兄さんはひとりじゃないわ。どこに行っても、あたしがついているんですものね。大丈夫、兄さんをひとりにしやしないから。あたしがここを去っても、また来ればいいじゃないの。あたしもなるべく、また帰ってくるようにするわ。なんと言っても、ここが一番、居心地がいいんですものね。ねえ、あたしが行くからと言って、気を落とさないで。そんな寂しそうな顔をしないで、もっと明るい顔になってよ”

 その言い種は、ぼくの目には、まるでママのように映った。ママがいつの間にか、この瞬間、リサの身を借りて、ぼくに語りかけているのだ…

 ぼくは無理に、明るい顔をリサに向けた。

 “そうだね。お前はまた、街に帰って行く。そして、ぼくはひとり、ここに残る。それは運命のなせるわざで、仕方のないことさ。――きょうは、お前が出掛けるのを、駅まで見送らせてもらうからね…”

 “ええ、ありがとう”と、リサは笑顔で答えた。

 “さあ、もう少しよ”と言ってリサは、急に体の向きを変えた、“この家でのあたしの仕事も”

 そう言って彼女は、再び、この家での最後の仕事の皿拭きに戻るのだった。

 ぼくは、テーブルに残ったまま、ぼんやりと、そんなリサの姿を眺めた。そして再び、目を窓の外にやった。窓の外に見える、からみ合った樹木の枝や葉、あしたからのぼくの友だち。しかしぼくが欲しいのは、やはり生きた人間、リサのような友だちなのだ…

 

 その後、リサはしきりに自分の部屋で荷造りを始めていた。ぼくが彼女の部屋を覗くと、彼女のベッドの上は、旅行かばんと、衣類や何やかやでごった返していた。リサは別に、気が滅入るわけでもなく、それをひとつひとつかたずけていた。ぼくに、何か手伝うことがないかと尋ねても、兄さんは、向こうの部屋でゆっくりしておいてと言う返事が返ってくるばかりだった。


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280

 

 その日の午後、ぼくたちは田舎の駅のレストランにいた。白い、三角形の壁が特徴的な、なかなか感じのいい店だった。カーテンを押し広げられた窓からは、庭や、窓辺に植えられた花壇の葉が、茂って見えていた。周りには人気がなく、樹木や、茂みの香りがいっぱいの、いかにも田舎のレストランという感じだった。暖かい日には、屋外のテーブルに出ることもできるのだが、この日は、外に出ている客はいなかった。

 

 円いテーブルを囲んで向かいに坐っているリサのすぐ脇には、旅行かばんが置いてあった。ここまで、ぼくが運んでやったかばんだ。ぼくは、このレストランで一番いい昼食を、リサの為に注文した。サーモンを中心とした料理と、上等のワインとを…

 

 “いよいよ、お前ともお別れだね”と、ぼくはポツリと言った。

 リサは、ナイフとフォークで、クリーム・ソースのかかった、美味しそうなサーモンを切っているところだったが、その手を休めて、ぼくを見た。

 “この前、お前と別れたのは、メロランスの駅でだった”と、ぼくは続けた、“あのときは、お前が見送ってくれたけれど、今度は逆だね。もうあれから、一年になろうとしているなんて… そのあいだにいろんなことがあった。とくに、セーラに会えたのが、大きな事件だった”

 “姉さんは、帰って来ないの?”と、リサは尋ねた。

 “当分はね”と、ぼくは、それとなく答えた、“だけど、向こうからなかなか来れないようなら、ぼくの方から出向いて行ってやるよ。本当は、一度でもいいから、早く帰って来て欲しいんだけどね、お前みたいに”

 “そうね、そうなる日が来ることを祈っているわ”と、リサは答えた。

 “それでお前は、街に帰ってからまた仕事かい?”

 “ええ、忙しくなると思うわ”と、リサは答えた、“――でも、ここに帰って来られて、いい気分転換にはなった”

 “気に入ったんなら、またおいでよ”と、ぼくはすかさず言った、“昔はお前も、ここで暮らしていたんだしね。別にこれと言って、特徴のない村だけど、田舎風の生活を味わうには、ここが一番さ。都会に疲れたときでもいい、そんなときにでもまた尋ねてもらえれば、本望さ…”

 “そうね、またそんなときにね”と言って、リサは、優しい微笑みを、ぼくに向けた。

 

 “…ぼくもこれから忙しくなる”と、しばらくしてからぼくは言った、“この冬は、思い切り本を読みたいし、それからまた旅さ。窓の外の、あの草木が一斉に花咲く頃にね。――でも、それまでは、長い、孤独な冬となるだろう…”

 “また、兄さんも、たまには街へやって来てよ”と、リサは優しく言った、“街も、兄さんが思っているほど、捨てたものじゃないわ。結構面白くてよ。兄さんが来てくれれば、あたしがまた兄さんを、街へ案内してよ”


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281

 “ああ、そのうち、またね”と、ぼくは答えた。

 そう答えたものの、ぼくはどうしていいか分からなかった。これからの長い冬、リサがいなくなってから、どのようにして、過ごして行こう?

 リサの傾けるワイングラスが、窓からの淡い光に反映して、キラッと輝くのが、ぼくに、悲しい思いを感じさせた。

 自然は、あんなに息づいているのに、人生は、こんなに歓びに満ちているというのに、なぜかしら、ぼくの心は重い。

 

 ――ぼくの母、リディア。ぼくは、リディアの人生の後をたどらねばならないと思った。彼女の人生をたどることが、今後のぼくの人生の、指標ともなるだろう。ぼくはもはや、自分の人生を切り開いて行くことはできない。しかし、人の人生の後なら、たどって行くことができるのだ…

 

 “それで、リサ”と、ぼくは言った、“何をするにせよ、お前が街で、成功し、幸せになることを祈っているよ”

 そう言うと、リサはにっこりした。

 “そう言ってもらって、嬉しいわ”と、リサは答えた、“今は、雑誌関係の仕事だけど、将来は自分の事務所を持って、うんとお金をもうけるの。それがあたしの夢よ。うまく行くかどうかは分からないけど…”

 “大丈夫。お前ならできるさ”と、ぼくは、リサを励ました、“そしてもし、いい家にでも住めるようになったら、ぼくを招待しておくれよ。ぼくは遠からず、その日が来ることを待っている”

 リサは、ワインでほんのり赤味の差した笑顔をぼくに向けた。

 “いいわねえ、そんな生活ができれば…”と、リサは言った、“でもそんなのは将来の夢としてとっておいて、今は、現在の仕事に打ち込むことだけよ。――兄さんも、今の仕事が、いつかは花開くことを祈っているわ…”

 “ぼくの仕事?”と、ぼくは驚いたように言った、“何かを書く、ということかい? 確かに、心の中には、モヤモヤとしたものがいっぱいあるんだけど、それをうまく表現する力がぼくにはまだ不足しているんだ。物事を感じる心は人一倍だと自負しているけれど、ぼくはまだまだ経験不足の身さ。何事につけても―― しかしぼくは、人生を、もっと、人一倍感じたい。何が真実であり、何が幸福かをね。たとえば、昔、ママがよく言っていた、幼い頃の火祭りの体験さ。成人してから、ふるさとに戻っても、それが何よりも一番楽しい経験だった、とママはぼくに語っていた。人生には、いつまでも心に残る、そういう思い出というものがあるものなのさ。そして、それらをしっかりとつかんでいる限り、人生はまっすぐに進んで行く。


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282

ところが、何んらかの原因で、それらを見失ってしまうと、つまり、過去からのつながりを失ってしまうと、人生は、思いもよらぬ方向へと行ってしまうものなのさ。ぼくが考えたいのは、その辺のところなんだ。人生の連続性と、不連続性と…”

 “相変わらず兄さんは、面白いことを考えているのね”と言って、リサは笑った、“そういうところが、兄さんの面白いところ”

 “笑い事じゃない。真面目な話しさ”と、ぼくは、真剣な顔をして言った、“なぜなら、ぼく自身が、この不連続の経験に悩ませ続けられているんだからね。ぼくはもはや、ここがぼくのふるさとだ、と言えるようなふるさとを持ってはいないのさ。ぼくは今や、過去はおろか、どこからも切り離されて、ひとりいる孤独の身さ。だからこそぼくが思うのは、自分の故郷ではなく、ママの故郷に注意を向けることなんだ。そこでなら、ぼくの求めている真実の、何んらかの解決の糸口が見つかるかも知れない…”

 “じゃ、春になれば、兄さんは、ママの故郷に行くつもりなのね”と、リサはしんみりと言った。

 “そう。そしてそこで、ママを知っているという、色んな人に会ってもみたい”と、ぼくは、目を輝かせながら言った、“もちろん、その経験については、お前にも、逐一報告するつもりだよ。そして、その調査を終えてから、お前の言うように、もう一度、お前のいるメロランスヘ、お前に会いに行ってもいい。何んなら、そこで写した写真も持って行ってあげるよ”

 “そう。嬉しいわ”と、リサの顔は、ほころんだ、“その日が早く来ることを、あたしも、兄さんと一緒に、心待ちにしているわね”

 

 “空はいい天気で晴れている”と、ぼくはしばらくしてから言った、“まるでお前が出発するのを喜んでいるようだ”

 リサは、笑顔を輝やかせながら、ぼくを見た。

 “お前が来た三日間というもの、ずっといい天気にめぐまれた”と、ぼくは続けた、

“それは、お前の幸福の為に、わざと、お日様がとっておいてくれた快晴なのさ。――でも、お前も知っての通り、ここがいつも晴れているとも限らない。むしろ、雨が降ったり、雲が出たりのうっとおしい天気も、随分多いものさ…”

 “この三日間というもの、いい思い出になったわ”と、リサは、嬉しそうに言った、“夏には、みんなとキャンプに行ったけど、ここが本当の田舎という気がする。ここへ帰って来ることができるから、あたしも都会で、一生懸命になるような気がするのね”

 “いいことさ、ふるさとを持つ人間は…”ぼくは少し、リサを羨ましそうに言った、“でもぼくだって、持っていないわけじゃない。ぼくたちの第二の故郷、リトイアはね、あそこには、色んな思い出が詰まっている。とりわけ、ママの思い出がいっぱいさ。ぼくたちのあそこでの生活はヒドかったけれど、今になって考えてみれば、あそここそはママが、少女時代の大半を過ごした故郷だったのさ。それに、ママが生まれ育ったというリラン近郊の大きな館や、会社の工場跡。リトイアの高校など、興味の尽きるところはないさ…”


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 “レオノール爺さんの言っていたあの話しは本当なのかしら?”とリサは、真剣な表情になって言った。

 “嘘じゃないだろうさ”と、ぼくは答えた、“あの爺さんの語ってくれたことは、すべて本当の話しさ。だからこそ、ぼくはもう一度、あの話しに出て来る舞台のひとつひとつをこの足でたどってみたい。本当は、あれを聞かされたとき行くべきだったんだろうけれど、あのときは、思いがけない生活ができた嬉しさで、そこまでは余り気が回らなかったのさ。こういうことは、往々にして、時が経ち、落ち着いた頃に、後で、じんわりと、身にしみて感じられて来るものなのさ…”

 “あたしがいなくなってから、急にそんな気がして来たのね”と、リサは、しんみりとした表情で言った。

 “いや、そういうわけじゃない”と、ぼくはきっぱりと否定した、“そういう計画は、前々からあったのさ。そして――本当は、お前のいたうちに、お前と二人で実行してみたかった”

 “それができなくて御免なさい”と、リサは、気の毒そうに言った。

 “いいさ”と、ぼくは、元気をつけるように言った、“何度も言っているように、ぼくはひとりで充分。そして、今度こそは頻繁に、お前に電話をするかも知れないからね”

 “ええ、待ってる”と、リサは、にっこりして、ぼくに答えた。

 

 “夢と希望”と、ぼくは、少ししてから言った、“そういう人生はいいねえ。できればぼくも、そういう人生を送りたい。ぼくがセルッカにいた頃よく夢に見た、幼い、リトイアにいた頃の夢――ぼくはそこへ会いに行くのさ。ただ、ぼくらの本当の故郷、オディープだけは、お前の為にとっておこう。あそこは、お前たちと行くときにしか、値打のないところなんだからね”

 “なかなか行けなくて御免なさい”と、リサは言った、“そのうち、また機会ができたら、兄さんに連絡するわ”

 “いつでもいいけど、ぼくはその日を待っている”と、ぼくは答えた。

 

 以上が、リサの帰郷のすべてだった。彼女が帰るこの日、レストランの外は、まるで祝福するかのように、太陽が燦々と降り注ぎ、花壇や、テラスの茂みも美しかった。世の中には、様々な経験をし、数奇な運命をたどる人もいる。例えば、最近知った、H・ハラーのチベットでの運命がそうだ。リダ・ラーンの収容所から脱走した彼らの前に立ちはだかっていた運命は、まるでこの世のものとは思われない。今でこそ、チベットは知られているが、大戦をはさんだその当時は、まるで異星での体験のようだったに違いない。苦しいことの方が多かったが、それと引き換えに、美しい経験もしているのだ。ぼくも彼のように、とは言わないが、それとどこか似たような経験が欲しい。


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284

 故郷を訪ねることがそれだ、とは言わない。しかし、旅や冒険は、人生に何かをもたらすものなのだ…

 

 “もう行く時刻だ”と、ぼくは時計の針を見て言った。

 “早いわねえ”そう言って、リサは立ち上がって、旅行鞄を持とうとした。

 しかしすかさず、彼女の手の上に、ぼくの手が伸びて、触れ合った。

 “せめてプラットホームまで、ぼくに運ばせておくれよ”ぼくは言った。

 

 レストランから出ると、外はまぶしいばかりだった。テラスには、人気のないテーブルと椅子とが無造作に配置されている。テラスや花壇の緑も、またまぶしいほどだった。そのまぶしい緑を通して、このレストランの白亜の壁もまた、まぶしく輝いている。空は、雲ひとつないほど快晴だった。

 

 ぼくたちはプラットホームにやって来た。何んの変哲もない、田舎の駅。隅には、自転車や、古い貨車が、まるで打ち捨てられたように置かれている。対面には、緑多い丘のような山がそびえている。時間的余裕は、もうほとんどなかった。ぼくたちがプラットホームに来るや間もなく、前の方に貨車を連結した列車が入って来た。一年半も昔、リサを見送ったこの駅から、今再び、リサは去って行こうとしているのだ。リサは、ぼくの手からしっかりと、自分の旅行鞄を受け取った。

 “楽しかったわ”と、リサはにっこりしながら言った、“兄さんもまた、街へやって来てね。必ずよ”

 “ああ。きっとだ”そう言ってぼくは、彼女の頬にキスをした、“このキスを、しばらく忘れない為の、お前の味として残して置くよ”

 リサは、一段と明るい笑顔となった。

 しかしもう、ゆっくりしている時間はない。他の乗客が乗り込んだ後、リサは客車のステップに足をかけた。そして、そのステップから振り向き、ぼくを見た。

 “じゃあね、電話を待っているわ”

 そう言って、リサは手を振りかけた。そのとき、列車は音もなく、ゆっくりと動き始めた。ぼくも思わず、手を振った。

 “ああ、必ず電話をするよ”と、ぼくは言った、“お前だってまた何かあれば、電話をしてくれよ。ね”

 “ええ、そうするわ”

 そう言って手を振るリサを乗せた列車が、次第に遠ざかって行く。

 ぼくは大きく手を振った。リサはやがて、列車の中に姿を消し、列車も、小さく、小さく去って行った。後に残されて、茫然と立っているぼくのところへ、荷物を手押し車に乗せて運んで来たポーターが、きょとんとした目で見つめているのが印象的だった…


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285

 

 …こうして、ぼくは再び、ひとりに戻った。すぐには寂しいという気持が湧かなかった。空が思いがけなく晴れていたせいもあるだろう。それに、ぼくはひとりになっても、やるべきことが待っていた。その為に、彼女が帰ってしまったからといって、感傷的な気持に浸る気にもなれなかったのだ。ここまで彼女と来た道のりを、ぼくはひとりで歩いて帰った。途中、小道の脇に茂る潅木の間で、一本、葉をいっぱいつけたハンノ木のすき間からこぼれ落ちる、明るい、夢誘うような木漏れ陽が素晴らしかった。よく見慣れた丘の風景や、そんな樹木に感動を覚えながら、長い時間かかって、ぼくは家に帰って行った…

 

 そのときに、ぼくの脳裏に、どういうことが去来していたのかはもう忘れてしまった。ぼくの頭を横切ったのは、リサと過ごした三日間の楽しい生活。あるいは、これから取りかかろうとしている、ぼくの母、リディアとレオノールの物語、のことだったのかも知れない。それとも、リサと夜、音楽を聞き、ブランデーを傾けながら、とりとめもなく語り合った楽しい夜のことだったのかも知れない。いずれにせよ、この三日間というものは、まるで夢のように過ぎ去ってしまった。彼女との別れはあっけなく終わってしまったが、その日の夕暮れ、リサのいなくなった家の窓から、遠くの丘や森が、ゆっくりと暮れて行くのを、何か心に穴を空けられたような思いで、見つめていたのを覚えている。確かに、リサが去ったということは、ぼくにとっては痛手だったのだ。昼間、あれほど明るかった空にも、ゆっくりと宵の気配が忍び寄り、光が薄くなって行くにつれ、単に心の闇がおおうばかりではなく、本当の闇が、この地をおおい尽くすことになるだろうという思いが、強くした。それは、この地をやがて真白に染める、厳しい冬の到来を意味していたのだ。

 

 この寂しい別れの日の夜をどのようにして過ごしたのかは知らない。しかしその後、リサからの音信は絶えてなかったし、ぼくからも、リサに電話することはなかった。

 ぼくはひたすら、うっとおしい雨の日を、そしてそれがやがて雪に変わる日を、じっと家の中で耐え抜いて行く決意をした。やがて訪れる春の、行動の日が、ぼくのところにやって来るのを待ちながら…


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