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【9】

 次の日。時刻は××時。

 ここは、○○○○の●●●●である。ぜいらむ氏が「他言するな」というので、僕の語りも「駒.zone」誌上ではきっと、あちこち塗りつぶされていることだろう。一つだけヒントを出しておくと、ここは、何のことはない単なるファミ●スだった。

 中に入って席を取り、ダウンジャケットを脱いで背もたれにかけた。下はいつもとほぼ同じデザインの服装で、自分のファッションを自分で語ってもしょうがないので割愛するが、まぁ、

どこにでも売っていそうな、無個性というかいつも変わり映えのしない服を着ている。

 席についてとりあえずコーヒーを頼む。メイドじゃなくてウェイトレスさんが注文を取りにくるあたりはさすがファ●レスである。店内の空気も「萌え~」ではなく落ちついた家族の団欒の波動が広がっていた。よく見ると家族というよりカップル風の男女もいる。新婚さんなのかもしれない、と何となく思う。これからの新婚生活に胸を躍らせているのだろう。

「新婚さんか……いいなぁ、ラブラブで」

 僕の父と母は再婚なのだと聞いたことがある。父は最初の相手とは事情があって結婚後すぐ別れたのだという。どんな事情があったのかは聞いていないが、機会があれば話してくれることもあるだろう。

 そう言えば皆川許心(@MinagawaMotomi)さんがよくツイッターで「一人でご飯はイヤだなー」なんて呟いているが、そしてその呟きは遠まわしに辻村君に向けているのだと思うが、何しろ彼は皆川さんをフォローしていないらしいので(ブロックしているという噂もある)、その声が届くことはないんだろうなー……と思うけれど、それはまあそれとして、こういう場所に一人でいると、皆川さんの気持ちが痛いほどによくわかる。食事というのはとても日常的な行為だし、そして人は皆、その日常を分かち合える誰かを欲しているものだ。人は誰も一人では生きていけない。一人で生きようとする必要もない。一人で生きられないなら誰かに頼ってしまえばいいのだと思う。甘えかもしれないけれど、一人で解決出来ないことを無理に頑張らなくてもいいし、上手に他人に甘えることも幸せに生きていくためには必要なのではないかと、僕は思うのだ。

 この2年間、ずっとそうやって、僕は誰かに助けられながら生きてきた。助けられなければ生きてこれなかった。そういう出逢いを、僕はしてきたのだ。

 しかしこれからは、これまでのようなどこか殺伐とした出逢いじゃなくて、もっとこう、甘酸っぱい出逢いとか、人と人との暖かい触れ合いとか、そういうのがいいな……とも思う。

 切実に。かなり真剣に。……以下、色々と今後の人生設計について真剣に構想を練っているうちに、やがて僕の脳内では、僕と弥内さんが1個のコップに注がれたアイスティーに2本のストローを挿し、2人で仲良く飲み始めていた。首から上が、お湯が沸騰した薬缶のように火照り、左胸がまるで和太鼓の鼓動のように激しく鳴り始める。

 ――僕は父とは違う、一生あなたと添い遂げます! そう心に固く誓って。 ……ポケットの中の婚約指輪を握りしめながら、いよいよプロポーズの言葉を発しようとした。

 ――その時だった。

「なるほど……いかにも邪な妄想に耽っている……という顔をしている。しかも聞いていたとおり左腕がないな。 ……お主が香太郎か」

 中学2年3学期の数学の期末テストで赤点ギリギリの成績を取ってきた弟の今後の進路を本気で心配して、暗澹たる気持ちになっている3つ年上のお姉さんみたいな表情をして、その人は現れた。

 その人は僕の正面の席に腰を下ろした。

 一目見て、息を飲んだ。意表を突かれた。

 暗幕を連想せずにはいられない、漆黒で染め上げられた膝下丈の黒い長袖ワンピースとケープ付きコート。同じく深い黒の高帽子。その縁から腰までかかろうかというほどに長く伸びた絹のように滑らかなストレートのロングヘアーは、春の陽光のように光り輝くプラチナブロンドに染め抜かれていた。

 突然の謎の人物の登場に二の句が告げずに、ただただ唾を飲み込んでいると、その人の白い細面にそっと結わえられていたような唇が開き、その虚から、これから生き血をすすろうとする吸血鬼の牙のような八重歯が覗く。

 切れ長の瞳の奥から射してくる光は包容力があるようにも、高圧的であるようにも感じられた。率直な感想を言えば、殺人的とも言えるオーラがあって、じっと見つめられていると、いつか食べられてしまうのではないかという悪寒がした。性的な意味ではなくそのままの意味で。

ムシャムシャと。あるいはガツガツと。

「こんにちは」

 ――にっこりと。いや、むしろ……ニタリ、と、その人は嗤った。

 

「ぜいらむさん、ですよね?……あの、いつもお世話になっています」

 しどろもどろだった。当たり前である。目の前に突然、銀河鉄道から下車してきたような格好の人物が現れたら誰でも驚く。これを見て驚かないのは車掌と鉄郎ぐらいのものだ。

 が、その人は特に挨拶を返すでもなく

「ツイッターでも話したと思うが、縊鬼は危険だ。そして恐らく今回はあの生臭坊主は出てこないだろう…… ほっといても良かったのだが、気が向いたのでお主を助けることにしたらしい……いや助けることにした」

 しかし実在したのか「おぬし女子」。女子だったのかこの人。ていうか台詞がところどころ怪しい。怪しすぎる。ホントにぜいらむタソなのか?

「気が向いた?」

「うむ。直前にSHOGIウォーズで3連勝していて機嫌が良かったそうだ」

 SHOGIウォーズとは持ち時間10分切れ負けルールで行われる携帯端末用の通信対局アプリである。最近、将棋ファンにやたらと人気らしい。

 しかし危ねぇ……。負けてたら助けてもらえなかったのか。ありがとうSHOGIウォーズでぜいらむたんに負けてくれた人。これからも僕が妖怪の事件に巻き込まれた時は誰かぜいらむたんに負けてやってくれ。

「魔除けの霊符を持ってきた」

 スカートの中に手を差し入れてもぞもぞし始めた。何をやっとるんだ何を……。

 中から出てきたのは小さな木箱だった。将棋の駒箱2つ分くらいの大きさの白木の箱と蓋が臙脂色の紐で結ばれている。しかしどうなってるんだあの衣装。謎のお姉さんはかなりスレンダーな体型で、箱を収納するスペースがあったようには見えない。中に四次元ポケットでも入ってるんだろうか?

「霊符――ですか?」

 月萌の「お方様」が「護符」によって天野宗歩の呪いから逃れた話を思い出す。

「そう、霊符。今さらお主が魔法や呪法が使えるようになるわけでもあるまい。これを携帯して事にあたれば、後は心意気で何とかなるだろう」

 後は心意気なのか。それが一番問題のような気もするが。ぜいらむ氏(?)は紐を解いて蓋を外し、中から数枚の紙――霊符を取りだした。

「縊鬼対策だけでは物足りないかと思って、ついでなので色々持ってきた」

 ニタリ、と笑みを浮かべる。

「まずは『消滅衆悪章』。多くの悪難を消滅させる。まさに一家に一枚の有難い霊符だ」

 なるほど……これは汎用性が高いということか……。

「棋士としてはこれが良いのではないか?『精神百倍符』。棋力が上がるわけではないが、プレッシャーの掛かる状況で強い精神力が得られるらしい」

 なんとっ!来期、昇級の掛った対局をこれで乗り越えられるかもしれない!

「『比類敬恭符』。人に好かれ、一目置かれるようになる。キモオタロリコンがバレて棋界で白い目で見られている今の立場が少し改善されるかも……」

 おおっ! ていうか僕ってばいつの間にそんな立場に!?

「そしてこれが……思いを寄せる相手を自分に惹きつける効力があるという、ある意味禁断の『蠱惑誘引符』。これでお主の愛しいあの人も……後は言わなくても判るな?」

 何だと? 弥内さんが何だと!?……ぐはぁ! ぐはぁ! ぐはぁ!

 店内の暖房が効きすぎたせいだろうか、上せた僕が鼻血を吹いたので、ぜいらむタソがウェイトレスさんを呼んでくれた。いや、そこは人を呼ばずにそっとティッシュペーパーを渡してくださいよ……。

 鼻に丸めたティッシュを詰め込んだ姿で僕は言う。

「ぜひ欲しいです。何としても入手したいです、さぁはやくそれを寄こせください」

「無論だ。そのために私はここへ来たのだから。……1枚3万円」

 え?

「ちなみに税抜で」

 税抜か! じゃぁ税込で1枚3万1,500円か!……高っ。

「要らんのか?」

「要りますけど!」

 全部は買えない。財布の中身を確認すると全然入っていなかったので、一旦外へ出てATMまで走って預金を下ろし、帰る道すがらどの霊符を購入するか検討しつつ、また○○○○の●

●●●へと戻り、ぜいらむタソが効果を保証すると断言した霊符を1枚、購入したのだった。

「言っておくがその霊符は今はまだ、ただの紙切れだぞ?」

 ……え?

「別に詐欺を働いたわけではない。霊符というのは、御霊入れをしなければ効力を発揮しないと言っているのだ」

ミタマイレ、とは。

「話せば長くなる。御霊入れの作法についてはこの小冊子に書いてある。よく読んでおけ」

 ほぉほぉ……それは。

「……これは税抜5千円」

 やっぱり金取るのか!助けにきてくれたのか弱みに付け込まれているのか分からない。凄まじい商魂というか、このお金への執着は月子さんといい勝負である。金本月子さんと金取ぜいらむさんだった。なるほど2人は気が合うわけだ。きっと某SNSとやらできゃっきゃウフフとお金の話をしているに違いない。

 それにしても。

 こういうことに詳しい人だとは思っていたが、霊符なんてのを作れるほどの人だったなんてなー。びっくりだなー。ちょっと尊敬しちゃうかもなー。

「いや、それは私が作ったものではないぞ」

 は?

「ツイッターで知り合った陰陽師の方にお願いして譲ってもらった」

 陰陽師って実在したのか……。しかも陰陽師もツイッターやってるのか。

「しかもタダで。今度、礼を兼ねてネタツイートを連発してやらなくては……」

 何その転売。しかも元手はネタツイートかよ!どんだけ面白いんだよそのネタは!つぎゃらないと!

 何だかんだで商談が成立してご機嫌になったぜいらむタソは、その後ランチを注文し、ゲ●ゲの鬼●郎の話題をのべつ幕なしに喋りながら、イタリアンハンバーグステーキのBセットをたいらげ、デザートのショコラケーキを幸せそうにほおばり、そして最後に、香ばしく匂いたつカプチーノをしっかり2杯飲み干していた。さらに3杯目のおかわりを頼んでいる。実に幸せそうである。普段、ちゃんと食事してないんじゃないかと心配になるくらいの、それはいい表情だった。そう、一人ではなく誰かと食事をしたいのは、こんな幸せそうな顔を見たいからなのかもしれないな、とそう思い、皆川許心(@MinagawaMotomi)さんの気持ちがさらによくわかったのだった。よし、今度食事に誘ってみるか。皆川さんじゃなくて月子さんを。

 ちなみに僕は生姜焼き定食と食後に焙じ茶だった。

 絵面は完全に銀河鉄道コ●プレお姉さんとの会食である。20代半ばから後半というところか。そもそも女性であったことに驚きを禁じ得ないのだが。……いや、そもそもこの人が本当に女性であるとは限らないし、実のところぜいらむタソ本人だという確証もないのだった。正体を知らない人物に対する予断は禁物だ。そのぐらいの慎重さを、僕はこの2年間の経験によって身につけていた。それに。

「その目で見たことは何も信じてはいけない」と、半年前にツイッターのインターフェースの向う側から、そう僕に教えてくれたのは他ならぬぜいらむタソ自身なのだから。

 しかし僕の周囲の人ってコスプレマニアばっかりだな……。おいおい、おかしいぞ?もしかすると、田沼泥鮒も本当は住職ではなくて、住職コスプレが趣味の変なおっさんなのかもしれない……。

「その霊符を持って、蒲尾向日葵と会うことだ。喧嘩をするんじゃなくてちゃんと将棋の対局をするのだぞ?」

 それはまるで姉が弟にちゃんと言い付けを守りなさいよ、と諭しているみたいな声色だった。

 あの日、向日葵ちゃんを泣かせた事を知っているのだろうな、と思った。別に喧嘩をしたいわけではないんだけど……。ていうか、将棋指さないとダメなんだろうか?

「思うに今回、縊鬼は誰かが将棋指してる時にしか現れていないようだし、そもそもお主の場合、将棋以外の用件で女子を誘うのは無理だろう?」

 すっかり非モテキャラにされていた。まぁ確かに僕はしゅう(@Syu_13th_month)さんじゃないので、いきなり向日葵ちゃんをデートに誘うとか無理だ。将棋を指そうと言うしか方法はなさそうだ。

「では香太郎……縁があれば、また会おう」

 3杯目のカプチーノを飲みほした謎のお姉さんは、何故か名残り惜しそうな口調でそう言うと、まるで封じ手の局面で別室へ向かう埴生名人を思わせるような優美な動作で立ち上がった。

 そして、にっこりと。 いや、むしろ……ニタリ、と。

 残酷さの漂う、そしてどこか蠱惑的な笑みを浮かべ、プラチナブロンドのロングヘアーをなびかせながら、このファミレス――○○○○の●●●●から出て行ったのだった。

 やっと終わった……と、安堵した。

 何だか地味に怖かった。ずっと怒られているというか、隙あらば小言を言われてしまいそうな、そんなオーラをずっと浴びていたような気がする。

 それから数十秒後。

 暗幕を思わせるような黒い不吉な姿が窓の外の雑踏に消えかかろうとするころになって。

 ようやく僕は重大な事に気づいたのだった。

「ここ!僕が支払うんですかっ!?」

  ――お二人様、合計4,680円(税込)だった。

 

 

【10】

 お膳立てをしてくれたのは辻村君だった。その日将棋会館で、相変わらず両足にスネコスリを巻き付かせたまま颯爽と闊歩する辻村充四段を見かけた僕は、藁にもすがるような思いで彼に相談を持ちかけてしまったのだ。何となく彼がスネコスリに憑かれる理由がわかったような気がする。

「……懸さんも、ああいう子が好みなんですか?」

 と、何だかロリコンをこじらせたアニメオタクを遠くからこっそり眺めるような視線で言われたりもしたが

「いや僕が愛する人は弥内さんだけだ」

 と即答するあたり、僕にもなかなか男らしいところがあるのだった。しかもその後すぐに「い、今の……弥内さんにはまだ内緒だからな!? 」

 と口止めするあたり、やはり僕には抜かりがない。この抜かりのなさが新人王戦優勝に繋がったといっても過言ではないだろう。我ながら「ものぐさ将棋観戦ブログ」でネタにしてもらいたいほどの抜かりのなさだった。

 

 ここは将棋会館2階の一室である。

 普段はアマチュア対象の将棋教室等が行われるその部屋で、長机の上の卓上将棋盤を挟んで僕は彼女と対峙していた。

 僕の正面に座っている小柄な少女は――蒲尾向日葵。

 やや暗めの黄色い魔法衣に同系色の三角帽子。首にはいつもの丸いペンダント。よく見ると丸の中に四角い図形が四つ並んでいた。彼女がいつも携帯している座布団の紋様――魔法陣とは印象が異なり、それはまるで日本の旧家に伝わる家紋のようにも見える。

 彼女はパイプ椅子の上に例の座布団を敷き、その上にちょこんと座って一心に盤上を注視していた……というか僕と視線を絶対に合わせたくないという空気がぷんぷんしていて地味に傷ついた。

 ――それはともかくとして、だ。

 な、何をした辻村充?一体どんなマジックを使ったというのだ!?周囲には誰もいない。部屋が貸切なのである。確かに僕は蒲尾向日葵と将棋を指したいので機会をつくってくれと頼んだが、この手際はいささか鮮やか過ぎるのではないか?女性の扱いに慣れているのだろうか。

 僕が見るところ辻村には角交換系の将棋で自陣角を打った後、その角の捌きにやや難があるような気がしているのだが、今日のこのセッティングの鮮やかさを見ていると、どうやら彼は角より女性の扱いの方が得意なようである。捌きのアーティストならぬ口説きのアーティストだった。もしかすると、しゅう(@Syu_13th_month)さんといい勝負かもしれない。

 くそー、辻村なんて爆発すればいいのに。しゅうさんは大爆発すればいいのに。……なんてことを悶々と考えていると。

「……あの……振に駒ですか?レディーファーストですか?」

 相変わらずの鼻声だった。

 ということで、ようやく僕は蒲尾向日葵との初対局にこぎつけることに成功した。謎のお姉さんの言いつけどおりに、ちゃんと将棋を指すことになったのだった。

「よろしくお願いします」「よのしくお願いします」

 作法に従い礼をする。レディーファーストルールで先手番となった蒲尾向日葵が、黄色い魔法衣の袖から伸びた瑞々しい右手を伸ばし、可憐な指で7七の歩をつまみあげて。

 ――ぺし

 という何だかよく判らない駒音とともに初手▲7六歩が指されて。

 対局が開始された。

 

 戦型は後手番である僕の「ゴキゲン中飛車」となった。ほとんど居飛車党の僕がこの戦型を選択した理由は勿論「向日葵ちゃん、君と将棋が指せて僕はとってもゴキゲンだよ♡ 」という遠まわしのアピールだったのだが、対する蒲尾女流名人の方は一刻も早くこの部屋を出なければ色んな意味で危機が訪れるとでも言わんばかりに甚だ不機嫌そうだった。

 ゴキゲン中飛車対フキゲン居飛車の対抗形だ。

 中央に飛車を配置し、角道は開けたまま5筋を伸ばして玉の囲いに移る。ゴキゲン中飛車お決まりの手順に対して女流名人は▲3七銀から▲4六銀の手順でスルスルと銀を前線に繰り出してきた。一時期大流行したゴキゲン中飛車の勝率を一気に引き下げた「超速」と呼ばれる手法である。そしてそれは、ゴキゲン中飛車を得意とし三段リーグ入り目前だった樹原九郎二段の調子を狂わせた悪夢のような作戦の名でもあった。

 あの日。将棋会館の一室で行われた練習将棋の一局で樹原は誰とどんな将棋を指していたのだろう?居飛車の戦型だったのか、それとも新しいアイデアが浮かんで、夢よもう一度とばかりにゴキゲン中飛車に打って出ていたのだろうか?樹原が指した最期の(いやアイツまだ死んでないけど)将棋の戦法を知りたいと、僕はその時切実に、そう思ったのだった。

「……何ということでしょう……樹原さんが自殺すぬ直前に私と指した将棋と全く同じ形になってしまいましたっ!」

「やっぱりお前が相手だったのか…… 」

 縊鬼に遭遇する直前に彼は蒲尾向日葵のすぐ近くにいたのだ。2人で将棋を指していたのだ。待てよ?辻村君が「懸さんも」とか言ってたな。「も」とは何だ「も」とは……もしかして、樹原も辻村君にセッティングしてもらったことがあるのか?

 ……そう言えば樹原から「死のうと思ったことはあるか?」と聞かれたのはいつだったか?、樹原は2回以上、もしかするとそれ以上、蒲尾と何度も会っているのかもしれない。

「ひょっとして樹原と同じ研究会に入ってたりする?」

「いえ、特にそういうわけではないですけど、樹原さんかなは将棋に限らずよくお誘いさねてました」

「将棋に限らずだって?」

「ここだけの話ですが、そねとなく『付き合ってください』的なことも言わねたかも」

 何だと!?

「……つ、付き合ってたの?」

「いえ、わたし、振に飛車男子はちょっと……」

「振り飛車男子ってなんじゃそりゃ。ていうか筋井先生に喧嘩売ってんのか?」

「筋井先生はベツバナです!」

 別腹なのかよ。食うのかよ。この魔女め。

 そうか、樹原は魔女っ子にご執心だったか。案外、あいつが居飛車党に転向しようとしていたのは向日葵ちゃんへの恋慕が原因だったのかもしれないな。

 恋は振り飛車党を盲目にするのだ。

「……念のために聞いておくけど、先日女子トイレで一人……」

「作田さんですよね。実はあの人も直前にわたしと対局してゴキゲン中飛車を指してました」

 あの人、作田さんって言うのか。やっと名前が判った。忘れないようにしよう。

「懸先生!……ゴキゲン中飛車は、ののわねていぬのです!危ないですかな、今すぐトウニョウしてください!」

「糖尿?」

「まいにました、と言えばいいんですっ」

「ふざけんな!」

 棋士は負けず嫌いなのだ。

「ていうか、そっちもお前絡みか。……蒲尾、お前、縊鬼の正体を知っているな?」

「イツキ?あのお化けのことですか? そ、そんなのしにません!」

 ”死にません”に聞こえるが、きっと”知りません”なのだろう。しかし化け物の存在は知っているらしい。

「どうにも怪しいな……ゴキゲン中飛車じゃなくてお前が誰かに呪われてるんじゃないのか?」

「ひ、ひどい!わたしだって気にしてぬのに!んもぉ!懸先生なんか首吊って死んじゃえ!」

 蒲尾向日葵が泣きだしてしまった。この時僕は、要するに月萌と話す時と同じノリで喋っていたわけで、よく考えたら腹黒い悪霊である月萌とは違い、純粋で傷つきやすい、まだ15歳の女子高生に向かって年上の男がとっていい態度ではないのだった。

 そうは言ってもこの時は頭に血が上っていたので、つい勢いで口喧嘩を続けてしまっていた。もう将棋どころではない。

「ひ、ひとに死んじゃえとか言っちゃいけないんだぞ!このコスプレ女!」

「コ、コスプネじゃないもん!て言うかコスプネして何が悪いんですか!?……なによ!そっちは一年中同じ服しか着ないくせに!大体ちゃんとおフノ入ってぬんですか?そう言えば何だか変な臭いがしますよ……うわっ何だか臭いですっ、この不潔男!」

「何を!これはいつもと同じ服に見えるかもしれないが全く同じ服じゃないんだぞ!つまり同じデザインの服を10着ぐらい部屋に常備しているという、いわばバッ●マン・システムなのだ!」

「は?バ●トマン・システム?何そねダサッ!しかも弱そう!っていうか臭そう!筋井先生の筋井システムの方が100倍かっこいいです!」

「将棋関係者にしか判らん上手いことを言うな!ていうかバット●ンと筋井九段を同じ文脈で語るな!あといちいち臭いとか言うなバカヤロウ!」

「何よっ!バカっていうほうがバカなのよ!懸のばーかばーか」

「そっちこそ、ばーかばーか!」

 小学生の会話だった。ていうかどっちもバカだった。

 その後も文字に変換すると「ふぎゃー!」とか「がおー!」としか表現しようのない不毛な会話を続けていると。今年度の新人王と現役の女流名人が微笑ましい口喧嘩をしていると。

 ――唐突に、ソレが現れた。

 ――出し抜けに。やぶから棒に。

 部屋の温度が一気に下がったような感覚が走り、首筋から背中にかけて強烈な寒気を覚える。 全身を震わせたその冷気が、頭の悪そうな会話でヒートアップしている僕たちの頭を瞬間冷却する。口角泡を飛ばして論戦(?)を展開していたバカ二人がさすがに異変を感じて部屋の入り口近くを見ると、そこにソレがいた。アレが、ふわりと浮かぶように、いた。

 平均的小学高学年生の身長程の大きさの凶悪な顔。不吉な白い死装束を纏い、見る者をうすら寒くさせずにはおかない圧倒的な負のエネルギーを放散して。

 赤ん坊の頭ほどの大きさの、ホウズキのように赤い目玉をぎらつかせた死神。

 ――そこにいたのは、縊鬼だった。

 

【11】

「懸先生、逃げてください!死にたくなけねばですけど!」

 振りかえると蒲尾向日葵はすでに僕の近くにはいなかった。縊鬼の現れた位置から最も遠い対角線上の部屋の角に魔法陣の描かれた座布団を敷いてその上にちょこんと正座している。体育座りだったらパンツが見えたのに……等という冗談を口にするヒマはなかった。縊鬼は僕を無視して一気に蒲尾の方へと突入していったのだ。

「そうだ!ぜいらむたんからもらった霊符!」

 あの時、ぜいらむタソ(?)から数々の霊符を提示されたものの、予算に限りのあった僕は、将棋指しらしい大局観と冷静な判断力でもって「蠱惑誘引符」を買ったのだが、そのときぜいらむタソから「……これは初回購入キャンペーンというか、特別サービスだ。事件が収束するまで肌身話さず持っていろ」と1枚の霊符を譲り受けていたのだ。さすがぜいらむタソ。ツイッターでは変態だが根は真面目で優しい。ツイッターでは変態だが根は真面目でとても優しい。ツイッターでは変態だが根は真面目でイザという時頼りになる。……しまった3回も誉めてしまったぜ!

 ということで特別サービスの霊符「除生死霊魂邪気御秘符」を取りだした。邪気の災いを祓い清める霊符。これで縊鬼を封じ込められる……はずであった。

 はずであったが大事なことを忘れていた。

「しまった!御霊入れしてない!」

 例の解説書を特別割引価格で買わされて一応は目を通していたのだが、何しろ暦がどうとか時間帯がああだとか、その他作法が細かすぎて、結局やっていなかったのだった。こんなことなら御霊入れまで委託しておけば良かったか……300万円ぐらい掛りそうな気がする。そんな大金はとてもじゃないが支払えない。新人王戦の賞金を使いはたしてしまいそうだ。

 護符、霊符の類は御霊入れをしなければただの紙切れだと、ぜいらむたんが言っていた。つまりこれは、今はただの紙切れなのだった。深く後悔し反省するとともに「蠱惑誘引符」だけはしっかり御霊入れをしておこうと、そう心に誓う僕だった。このように一度の失敗にめげず、次の機会にその反省点をしっかり活かそうとする心がけが新人王戦優勝という結果に繋がったと言っても過言ではないだろう。

 とは言え、霊符が使えなくなった今の僕は単なる役立たずのクズだった。紙切れ以下の紙クズだった。それでも、せめて応援だけでもしてあげようと思い

「蒲尾!!」

 と一応声だけは出してみたものの、だからと言って縊鬼が止まってくれるわけがないのだった。僕の心からの心配も虚しく、縊鬼が魔女っ子に襲いかかろうとしたその時。

「どっひぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーー」

 頭を抱えた蒲尾向日葵の叫び声が部屋中に響き渡ったその時。

 座布団の角から紫電が走った。バチバチバチィ……という雷音とともに房の一束が中空を舞い、床に焼け落ち、そして縊鬼の動きが停止した。

 なるほど、魔法陣とは縊鬼除けの結界だったのか……霊符より役に立ちそうだ。あの座布団、一体どこで手に入れたんだろう?

「やった!また助かった!ぜいなむたん、いつもあにがとう♡」

 ぜいらむタソかよ!何で僕にはあの座布団譲ってくれなかったんだよ!?

「15万円(税抜)支払った甲斐があにました!」

 高っ!ぜいらむたん、女子高生から15万円もせしめたのか……しかも(税抜)か!じゃぁ15万7千5百円か!……よく払えたなぁ。女流名人位戦の賞金って幾らだっけ?今度、賞金情報にやたら詳しい金本月子(@tsukiko_sann)さんに聞いてみよう。

 蒲尾向日葵から返り討ちを受けた縊鬼は、そのまま退散してくれるのかと思いきやそうはいかなかった。先日の女子トイレの時のように消えてくれたりはしなかった。縊鬼は……僕の方へと向かってきたのだ。

 そう……。こうやって縊鬼は――蒲尾を襲撃したものの、あの座布団の力で目的を果たせず……同心を誘惑し、その目的を果たせなかった代わりに別の者を自殺に追い込んだという江戸時代の説話と同じように……蒲尾の代わりに近くにいた樹原や作田さんを襲ったのだろう。蒲尾向日葵は2度襲われ2度助かり、2度他者がとばっちりを食った。そして今日が3度目なのだ。

 座布団の護法は、あくまでも一時的にその身を護るためだけのものであって、縊鬼を封印してしまうだけの力はないのだろう。15万円(税抜)もするのに。あるいは15万円(税抜)しかしないからなのか。どうでもいいが縊鬼が現れた時に向日葵ちゃんの近くにいた人間にとっては、それは災難だった。そしてその災難は今、僕の方へと向かってきているのだ。

 縊鬼の巨大な目玉と僕の視線が交錯する。その瞬間、二人の奨励会員を自殺未遂に追い込んだ死神――縊鬼の悪相から放たれる邪気が僕の全身に絡みついてきた。「首をくくれ」という声が、執着と悪念に満ちたおぞましい声が、頭の中で反響する。精神が蹂躙されていく。体中から力が抜け落ち、視界の明度が下がり、意識は徐々に揺らいでいった。

 ――これからどんなに頑張ってもタイトルなんか取れっこないよ埴生世代強すぎるもん

 ――左腕はもう元にはもどらないんじゃないか?……ハンバーグにされたらしいし

 ――三東先生の部屋のロフトには月子さんが装備されてていいなー

 ――それに引き換え僕の部屋には悪霊が憑いてるなんてイヤだなー

 ――部屋に悪霊が遊びにくるから毎日気が休まらないなー

 ――僕なんか一生彼女もいなくてさー、結婚とか出来そうもないなー

 ――いいなー辻村君ばっかモテて。辻村爆発!辻村爆発!辻村爆発!

 ――あぁ……あと一局だけでもいいから将棋指したかったな……

 ――死んだら住職の言ったように輪廻転生して生まれ変わったりするのかな

 ――あ、そうだ……生まれ変わったら、袴になりたい

 そんな言葉たちが頭の中でグルグルしていた。思い返せばそれは。その思いは。

 ……ただの愚痴で。

 ……ひとりよがりで。

 ……悩みですらない悩みで。

 ……乗り越えられるはずの問題で。

 ……乗り越えれらなければ、受け入れるしかない現実であって。

 ……受け入れようと思えば受け入れられるはずの小さな小さな障害で。

 それでも僕はその時、その思いに囚われてしまっていた。その重さに潰されていた。この程度の重さにすら耐えられずに僕は「死のう」と、そう呟いていたのだった。

 気がつくと奇妙な感覚に捉われていた。はるか上空から、将棋会館の2階にいる自分自身の姿を眺めているのだ。懸香太郎はどこから取り出したのか、いつの間にか太い荒縄を持って長机の上に立っていた。天井の排気溝の隙間から縄の一端を通して下に垂らす。先方を固く結んで輪を作り、その中に首を通した。その時、長考寺の住職の「首くくるヒマがあるなら、まぁ坐れ」という言葉を何となく思い出したりしたけれど、もうどうにもならなかった。僕の眼下にいる懸香太郎は

「弥内さん、先立つ不孝をお許しください」

 とわけのわからないことを呟いて。

 強く、勢いよく、自分が立っている長机を蹴り倒した――。

 

「――――螺旋運命(スパイラル・ミゼラブル)!!!!」

 

 グワキャ!という鈍い音とともに視界が急降下する。上空にあった僕の意識は消えさっていた。肉体の感覚が戻ると、荒縄の輪の位置で停止するはずだった――その位置で首からぶら下がるはずだった僕の身体は、そうはならずに高速で床まで落下していた。

「ぐはっ」

 急激に夢から醒める。したたかに強打した腰、それと後頭部を代わる代わる右手でさすりながら振りかえると、そこには。

 

 透き通るような白地に薄緑色の鶴を染め抜いた千早。鮮やかに映える紅い――緋袴。黒の浅沓。水引で結わえたツーサイドアップの髪を微かに揺らし、肩に担いだ斧の柄を両手でしっかり握りしめ、朱色に染まる双眸で射るように敵を視る巫女装束の少女――そこに、月萌が立っていた。

 

「ちょっとそこの縊鬼!懸さんはアナタの獲物ではありません!わたしのお方様のい……あ……えーと、えーっと……以下略です!」

 悪霊が何やら不穏なセリフを吐いていた。

「とにかく!」

 月萌は右肩にかついだ斧の柄を片手で抑えると、縊鬼へ向かって左手を伸ばし、それからビシィィィィィっという感じで、というか今しがた発した怪しいセリフをごまかそうとする気満々の様子で、元気ハツラツ敵を指差した。

「さぁ!アナタの詰みを数えなさい!」

 こうして文字にしないと判りにくいのだが、仮面ラ●ダーWの決め台詞を将棋風味に改変していた。というか「ツミ」の音は同じなので、事実上の丸パクリだった。

 天井の荒縄を結んだあたりを見るとざっくり割れている。月萌が荒縄ごと叩き割ってしまったのだ。いずれにせよ……動機が何であれ、彼女は半年前の事件の時と同じように、またあのおかしな斧で、僕を救ってくれたらしい。いやしかしこの天井どうしよう?事務室に報告したら修繕費用を弁償させられそうで怖かった。一体幾ら掛かるのだろうか?月子さんに聞いた話だと三東先生に上目遣いでおねだりすればいくらでもお金を貸してくれるらしいのだが。

 ……額によっては相談してみるか……。

 縊鬼の処遇は月萌に任せることにして、とりあえず僕は蒲尾向日葵へ声をかける。

「蒲尾!大丈夫か?」

「見てのとおに、わたしは全然平気です。懸先生こそ大丈夫なんですか?」

 確かに蒲尾より自分のことを心配してろ、という話だった。

「そねよに……あのおかしなコスプネ女は誰なんですか?」

 魔女っ子は自分のことを棚にあげていた。この厚かましさが女流名人位奪取に結び付いたといっても過言ではないような気がする。

「……視えるのか?」

「あんなに大暴ねしてぬのに見えないわけないでしょう?」

 おっしゃるとおりだった。というかそもそも彼女には縊鬼が視えていたのだから、同じように月萌が視えても不思議ではない。常人には視えないはずの、この世ならざる存在を彼女は知覚出来るのだろう。魔女っ子コスプレはダテじゃない。

「先日話しただろ?あの子が……僕の左腕を叩き斬った悪霊だよ……」

 これ以上ないというくらい判りやすい、これ以上があるとすれば筋井九段の解説しかないだろう、というくらい判りやすく過不足なく月萌を紹介した僕に向かって、向日葵ちゃんは

「ほぇ?」

 とカードキャ●ターさ●らみたいな声を発してきょとんとしていた。

 一方、月萌はのたうち回る縊鬼を、まるでネズミをいたぶる猫のような表情で追いまわしながらとても楽しそうに紅の斧(アックス・トルネード)を振り回していた。というか床を叩き割っていた。

「妖魔連斬(ダークムーン・ワルツ)!」

 ドカ。

「妖魔連斬(ダークムーン・ワルツ)!」

 バキ。

「妖魔連斬(ダークムーン・ワルツ)!」

 ボコ。

「妖魔連斬(ダークムーン・ワルツ)!」

 ガキィ。

 一振りごとに床に穴が空いていく。霊的な存在同士の戦いなのに、化け物二人は全くの無傷のまま、将棋会館の2階の一室の床にだけ物理的なダメージが蓄積していくその光景はワルツというより、つるはしで掘削工事をしているみたいだった。

 ……もうこの部屋は修繕とかじゃなくリフォームした方がいいな。料金は三東先生持ちで。

 そうやって、その後もしばらくの間ドカバキドカバキと工事を続けていた月萌だったが、やがてそれにも飽きてきたらしく、今度はこちらへ無茶ぶりをしてくるのだった。

「懸さん!このままではラチがあきません。穴はあいてもラチはあきません。ってことで懸さんが縊鬼を羽交い絞めにしておいてください!」

「つまり僕が後ろから取り押さえてる間に、お前が奴を封じ込めると?」

「いえ、わたし封じるとかそういうの出来ませんので、懸さんもろとも叩き斬る勢いで!」

「僕を助けに来たんじゃないのかお前は!?」

 そもそも片腕のない僕に羽交い絞めは無理なのだ。こうなったらもう、向日葵ちゃんを連れて部屋から逃げ出そう、そうしよう、とそう決心した矢先に。

「懸先生、こねであのお化けの動きを止めなねぬかもしねません」

 蒲尾向日葵が座布団を僕に差し出してきた。一つだけ残った房が淡い光を放ち始めている。

 ――そうか。蒲尾を縊鬼から守った雷光。どういう経緯なのかは謎のままだけど、ぜいらむタソが向日葵ちゃんに託した……というか15万円(税抜)で売りつけたマジック・アイテム。

 恐らくこれまでの自殺未遂事件の都度、彼女を死神から守ってきた護法。その角に取り付けられた房の一つ一つが、彼女の生命を繋ぎとめてきたのだろう。座布団を受け取った僕は、つい今しがたまで向日葵ちゃんが座っていたせいで生温かさの残っているその感触を楽しむ暇もなく縊鬼へと突進すると、顔だけが巨大な悪念の塊のような化物のその背後から忍び寄り、座布団越しにしがみついた。

 バチバチバチバチッ!!――紫電が走り、その場で縊鬼が固着する。

 その時僕の全身を刺激した微かな電流は割と気持がよくて、何だか肩こりが治ってしまいそうだった。



「月萌!房は1つしか残ってないんだからな!一発で仕留めろよ!」

「承知しました!ところで懸さん、わたしがガン●ムで一番好きなキャラはリュ●さんです!」

「犠牲になって死ぬのは嫌だーーーーーー!!!!!」

「喰らえぇぇ!!!」

「ぬううううあああああああああああああ!」

 奇しくもハモ●のマゼラ・●ップにコア・ファイ●ーで体当たりをかまして名誉の戦死を遂げた●ュウさんと同じ叫び声をあげている僕のことなどこれっぽっちも気にかけていないとしか思えないようなもの凄い勢いで、月萌は「紅の斧(アックス・トルネード)」を容赦なく振りおろして――。

「妖魔連斬(ダークムーン・ワルツ)!」

 ざっくりと。

 ばっくりと。

 2人の奨励会員を自殺未遂へと追い込んだ憎っくき悪鬼の、その巨大な頭を叩き斬ったのだった。

「ッ!?……って………………ほえ?」

 真っ2つに割れ、少しずつその輪郭が薄らいでいく縊鬼の残骸を前に茫然としつつ、ここぞとばかりに向日葵ちゃんの台詞をマネしてみた相変わらず抜かりのない僕に向かって、ツーサイドアップに髪をまとめ上げた巫女装束の幽霊少女がにっこりと笑いかけてきた。

「懸さん…… 大丈夫だったみたいですね?」

「……あぁ、当たらなければ、どうということはない」

 ここで放った赤い彗星シャ●のセリフは、腰を抜かしてへたり込んでいる僕の、精一杯の強

がりだった。

 

 

【12】

「さぁみんな! 腹筋タイム♡ 始まるよ〜!」

「……お前、中継見てる?」

 動画配信サイトで『フッキン・アイドル 憑く!突く!ツクモさん!』 を観ていた僕は、千場さんからの電話を受けて、慌てて別のブラウザを起動し、棋王戦最終局の中継サイトにアクセスした。なお『フッキン・アイドル』を放送しているサイトは「ニコ●コ動画」ではなく「似孤似孤動画」だった。検索エンジンにも引っ掛からない謎のサイトで、何故アクセスできてしまったのか僕にも判らない。魔界からの通信を偶然キャッチしてしまったとしか思えない。

 さて、棋王戦の方は綾小路棋王の手中に残った最後のタイトルの行方を懸けた大一番である。 局面を見ると、棋王の「ゴキ中」だった。先手の銀の動きに呼応して、角道を止める手法に出ている。――環流、と言うのだそうだ。環五段が研究会等で指していた手で、「超速」に対して「ゴキ中」側が提示した最新の対策だった。公式戦に登場するのはこれが初めてなのだという。この新手法に綾小路棋王はタイトル防衛を託したのである。これが成功すれば、また「ゴキ中」が勢いを取り戻すかもしれない。

「まぁこうやってさ、対策の対策のそのまた対策、って感じで、将棋の定跡の進歩は止まらないよな」

「ですね。必勝戦法なんてないです、将棋には」

 横目で『フッキン・アイドル』をチラチラ観ながらも、僕は将棋の定跡の変遷に思いを馳せるのだった。

「アイツも中継見てるだろうな……」

 樹原は「超速」対策に行き詰まって居飛車への転向を模索していたと、今でも千場さんは思っているのだろう。実は”魔女っ子に恋して居飛車転向”だったのかもしれないのだが……。真相は闇の中だ。あえて暴くことでもないだろうし、それを暴く権利は僕にはない。あの時、樹原に「まぁ坐れ」と言ってやれなかった僕には、その資格はないのだった。

「樹原のことだけど……何で自殺しようと思ったのか覚えてないって言ってるらしい。心因性のショックとか後遺症とかで記憶がなくなったのかな?」

 樹原はきっと”縊鬼の声”を聞いたに違いないのだが、その記憶もないということか。それはそれで都合がいいのかもしれない。あんなモノ憶えていたって何もいいことはないし。機会があったら樹原本人に聞いてみるか。会ってもらえるかどうか怪しいけど。最初に相談を受けた時、あんなふざけた受け答えをした僕を樹原はどう思ったのか。どう思っているのか。

「昨日退院したけど対局はまだ無理だってさ。そりゃそうだ。……で、奨励会はしばらく休会するそうだ」

 後遺症は……多少手の痺れがあるという。唯一の救いは本人が将棋を指したがっているらしい、ということだろうか。彼がまだ将棋を指したいと、そう思ってくれていることが嬉しい。同じ将棋指しとして素直に喜ばしかった。一方、作田さんの方は樹原よりも症状は軽く、もう普通に生活できているとのことだったが、聞けば田舎へ帰ることにしているそうだ。それもまた仕方のないことだ。あの事件を、そして縊鬼の声を各人がどう受けとめたかなんて僕には決して知りえない。僕が立ち入れるスペースはそこにはない。

「じゃぁな。たまには研究会に顔出せよ?」

 はーい、と言いながら、僕は棋王戦の中継サイトを映しだすブラウザをタスクバーに納めて『フッキン・アイドル』を全開にした。

  ……やべぇ、これ面白ぇ!月萌さんが「FKN48」としてデビューする日は意外に近いのかもしれない。

「それにしても……」

 腑に落ちないことが残っていた。向日葵ちゃんの座布団の房の数が合わないのである。

 僕が蒲尾向日葵と最後に会った時、房は2つ残っていた。今回、縊鬼は”蒲尾向日葵を襲い、撃退された後、別の誰かを襲う”パターンだった。樹原は少なくとも2回、縊鬼に行き逢っているはずだから、作田さんの分を合わせるとそれで最低3回。その全てに蒲尾向日葵が関わっていたのなら、僕と会う前に座布団の房は既に1つだけになっているはずである。だが、実際には2つ残っていた。つまり、蒲尾向日葵が最初に襲われた時、彼女――と樹原を救ったのは座布団の護法以外の何か、という可能性があるのだ。

 そして最大の謎は”何故、蒲尾向日葵は縊鬼に狙われていたのか?”という点だ。都合4回彼女は狙われているわけで、いくらなんでもしつこすぎる。

「まさか……膝小僧が欲しかったとか……」

 あの縊鬼、下半身がほとんどなかったし。女子高生の膝に憧れていたのかもしれない。いやそんなまさか。気持ちはわかるけど。

「うーん、どう考えてもぜいらむタソが絡んでるよなー」

 ”1回目”の時、何らかの方法で向日葵ちゃんを救い、死神に取り憑かれてるとか何とか言って、あのマジックアイテムを売り付けたのだろう。15万円(税抜)で。詳しい経緯は判らないし、向日葵ちゃんもこのことについては話してくれないので、何があったのか判らないままだけど。

「まぁいいか」

 何にせよ……ぜいらむタソは僕を、そして蒲尾向日葵を、氏なりのやり方で救ってくれたのだから。約2名、棋士としてはほぼ再起不能に陥った者がいるのは残念なことではあったが、それでも生命は救われた。何より、将棋界の明日を担う期待の若手棋士と女流名人の健康的な膝小僧が守られたのだから良かった良かった。

「あ、そう言えばまだぜいらむタソに報告してなかったな」

 連絡手段はツイッターしかないので、いつものようにDMを送った。

 実は御霊入れをサボってしまったこと。月萌が現れて『紅の斧』を振り回したこと。何だかんだで助かったこと。そして未だ効力を試していないあの霊符を使うのが楽しみだ――そんな話を。

 しばらくして返事が返ってきた。返ってきたが、そのDMときたら、縊鬼の蘊蓄の続きとか、それに関連して行逢神がどうとかいう妖怪ツイートが果てしなく続くのだった。

「そんなことより向日葵ちゃんの座布団のこととか聞きたいんだけど、そんな空気じゃないな、これは……ブロックしようかな……」

 とそんな悪態をついた僕は、数分後そんな自分を大いに恥じることになる。

 何故なら。

 妖怪DM39連発の後、最後に送られてきたメッセージにこそ、重大な情報が記されていたのだから。

「そうか……問題にすべきは座布団じゃなかったのか……」

 ていうか、その情報いつから知ってたんだろうと思うが。もっと早く言えよとも思ったが。そもそもこの人は、いつから何をどこまで知ってこの件に関わっているのだろう? ……まぁいいや。何だかんだで今回も色々と助けてもらった。いつもながら、ぜいらむタソには感謝感謝である。

 

「な、なに言ってるんですか!縊鬼やっつけたのわたしじゃありませんか!」

 バン!バン!バン!とツーサイドアップの幽霊巫女がテーブルを叩いていた。

「いつからいたんだお前は!勝手に入るなと何度言えば……」

 慌てて画面を覗いたら、幸い『フッキン・アイドル』の放送は終了していた。さすが今年度の新人王戦で優勝しただけあって、僕には運も味方してくれているのだった。

「僕もろとも叩き斬る勢いだったじゃないか」

「あれは冗談に決まっているでしょう?」

 月萌さんが朱色の瞳の三白眼になっていた。やっぱり本気で叩き斬るつもりだったんだな……。

「いやぁ、まぁ助けてもらって感謝してるよ、ありがとな」

 一応、礼を言っておいた。何だかよく判らないけれど、僕はいつも色んな人に助けてもらっているな、とそれは素直にそう思う。色んな人に素直に騙されてる感もするんだけど、きっとそれは気のせいなんだろう。

 それはそれとして、いきなり部屋に入ってくるのはもういい加減にして欲しい。

「今さら何を言ってるんですか?まんざら知らぬ仲でもあるまいし」

「いや、まぁ確かに知人ではあるけれども」

  知人ではあるが友人ではない。むしろ仇敵と言ってもいい。……ってこのやりとりはずっと前にもあったような気がするな。第2章あたりで。

 それにしても、月萌はいったい何度この部屋に忍び込んだのだろうか?彼女は、いつの間にか見たこともないような怪しげなルータを設置してPC周辺機器のほとんどをワイヤレス化してしまっている。ケーブル類がほとんどなくなってすっきりしたのは確かなのだが、それはそれとして、何となく部屋の中に知らない荷物が増えた気がする。部屋の奥に変な柄のボストンバッグとかあるし。

「しかし懸さん、この部屋も手狭になってきましたねぇ。……そろそろ新人王戦の賞金をぱーっと使って引っ越しませんか?」

 ……何言ってんだコイツ?

「懸さん」

 カタカタカタ……と、恐らくはブログ記事を書き始めたのであろう月萌のキータッチの音が響く中、大橋分家の元メイドは

「月子は、三東先生の家のロフトに住んでるそうですよ?」

 とのたまったのだが、聴こえないフリをした。フリじゃなくて本当に聴こえなかった。幽霊の言葉は全て幻聴なのだ。

 そう言えば月萌は、長考寺に入れなくなった……って言ってたな。「帰る場所」がないのかもしれない。ここより他に行く所がないのかもしれない。……いや居候先を探してないで早く成仏しろよ、とも思うが。……待てよ?もしかしたら本格的に僕に取り憑く気なのかもしれないぞ。そもそもこいつ悪霊だし。

 ――ところで。実は、僕の懐には「禳精魅鬼符」という霊符が入っている。雑霊、妖怪、死霊などの訪れを断ち、身を守る効力があるのだという。

 そう……つまりこれは月萌封じの霊符なのである。あの時、ぜいらむ氏(?)に土下座して定価の半額以下という格安で売ってもらっていたのだ。相変わらず僕は何事にも抜かりがない。

 ちなみにぜいらむ氏(?)との会食シーンでこのことを語っていないのは月萌を欺くための一種の叙述トリックという奴で、彼女がこれ以上僕に取り憑く気ならこっちにも考えがあるということだ。…… まぁ、しばらくは様子見で。

 いざとなったら住職かぜいらむタソに相談してみよう。正直、この幽霊少女は僕の手に余る。

 頼れる人には頼りまくろう。僕はもう自分一人では生きていけない。困ったら誰かに助けを求めよう。その代わり自分が手を差し伸べて救える人がいたら、これからは目を背けずに手を差し伸べよう。

 それが僕の樹原へのせめてもの罪滅ぼし……になるのかどうか判らないけれど。一人では乗り越えられない問題も、人と人のつながりがあれば乗り越えられるかもしれない。助からない生命も助かるかもしれない。救いようのない状況から救ってあげられるかもしれない。

 ふと、住職のあの言葉を思い起こす。

 あの時、住職は「人の絆は悪念の連鎖で繋がっている」と言ったのだった。また「無意識のうちにはびこる悪念が、奨励会員たちの周囲に死神を呼び寄せたのかもしれない」とも。

 そうなのかもしれない。人が心の奥で一瞬たりとも悪念を抱かないなんて僕は断言できない。

 だけど、それでも僕は人の善意を信じたいのだ。

 そして僕は棋士だ。棋士だから、何より将棋が好きで、強い奴と力一杯、心一杯、体一杯、手当たり次第にぶつかり合いたいという、そんな将棋指しの本能を信じているのだ。

 因縁生起 ―― じゃなくて。

 因縁生棋。

 棋士はきっと将棋を指すことで繋がれるはずだと、そう思う。そう思うことにしよう。

 そう思うことにしたので僕は早速ケータイを取り出して、世界一可愛い白鬼院りりち●様の待受画像をしっかりと舐めるように眺めてからアドレス帳を開き、そこに映ったある名前を選択してTELを入れた。今回の事件のもう一人の被害者であり当事者でもある人物。二人の奨励会員を巻き込んだことで、恐らくは僕以上に心に深い傷を負っているであろう一人の少女。……だからこそ、今の僕が手を差し伸べてあげるべき少女。

「蒲尾か?……あぁその件は全部終わったよ。もう何も心配しなくていい。うん、終わった。全部解決」

 僕の自己犠牲を厭わない崇高なる行為の結果、縊鬼を退散させたあの日、部屋を無茶苦茶にしたことを理事にこっぴどく叱られたりしながらの混乱の中、どさくさに紛れて女流名人のケー番を聞き出していたのだった。「妖怪のことも含めて色々後始末があるから後でまた連絡する」とか何とか言いながら。相変わらず僕には抜かりがない。この抜かりのなさがあれば、来季順位戦で僕が昇級するのは間違いないと、そう断言しても過言ではあるまい。「ものぐさ将棋観戦ブログ」の順位戦展望記事が今から楽しみだ。UPされたら、正座して拝読させていただこう。

「あのさ……ウチの……千場さんと一緒にやってる……研究会があるんだけど、入らない?」

 今度は噛まずに言えた!「男子三日会わざれば刮目して見よ」とはまさに僕のためにある言葉なのだった。どうだ?辻村!僕にも言えたぞ!……とこんなところで辻村充と張りあいながら、そして月萌の刺すような(というか射殺すような)朱色に染まった視線を浴びながら、僕は向日葵ちゃんからの

「……け、研究会ですかっ!?わ、わかにましたっ!よ、よのしくお願いしますっっ」

 という言質を取ったのだった。いや言質というのは言いすぎだが。それにしても相変わらずの鼻声だ。風邪が治っていないのだろうか? 暖めてあげたくなるなぁ。特に膝のあたりを。

 何故か心臓の動悸がおさまらない中、僕はこっそりと2年前に知ったツイッターまとめサイト「togetter・消えた大橋分家の墓の謎」にアクセスしていた。

「確かあのまとめの中に写真が載っていたような記憶が……」

 大橋分家に関するツイートが続々と呟かれる中ひっそりと差し込まれた一つの呟き。生前の月萌とも因縁浅からぬ関係にある、江戸時代の天才棋士にして、月萌の「お方様」・大橋宗珉を死に追いやったとされる謎の人物・天野宗歩。その墓に刻まれた家紋は「丸に隅立て四つ目」なのだという。その紋は……蒲尾向日葵の、あのペンダントに刻まれていたものではなかったか?

 

 さきほどもらったぜいらむタソからの最後のDMをモニタに表示する。もう一度そのメッセージを読み返してみる。その言葉の意味するところを噛みしめながら。

 そしてモニタ越しに、ブログ記事の執筆に勤しむ月萌の表情を伺いながら。

 

 そのDMには、こう書かれていた。

 

「ところで懸さん、これは知人の、とあるお寺の生臭坊主に聞いた話なのですが……蒲尾向日葵さんの母方の姓は……『天野』というらしいですよ」

 

 (了)

 

イラスト:まるぺけ

 

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 この物語はフィクションです。実在の人物、寺院、経典、ツイッター、ネット将棋サイト等とは関係ありません。実在するツイッタラーさんがゲスト出演していますが、ツイッター上でそうしたやりとりがされたわけではなく、また作中でのキャラ描写とご本人は一切関係ありません。いずれもご本人の了承を得た上で の単なる楽屋ネタであることを申し添えます。

 「謝辞」
発表の機会をいただいた駒zone編集部の皆様へ。
本作へのゲスト出演にご快諾いただいた皆様へ。
そして年末のご多忙の最中にたくさんのイラストと貴重なご助言をいただいた、まるぺけ様へ。
その他、執筆にあたってご支援いただいた全ての皆様へ。
心より感謝申し上げます。

[参考文献]

霹靂火雷公「陰陽符聚」 http://p.booklog.jp/book/42315

大宮司朗(2011)「増補改訂 霊符全書」学研

九燿木秋佳(2004)「陰陽道呪占具四宝真書[第3版]」二見書房

京極夏彦/多田克己編(1997)「竹原春泉 絵本百物語 -桃山人夜話-」国書刊行会

村上 健司(2011)「怪しくゆかいな妖怪穴」毎日新聞社

水木しげる/村上健司(2005)「日本妖怪大事典」角川書店

清水らくは「五割一分」/「七割未満」http://rakuha.web.fc2.com/

shogitygoo「ものぐさ将棋観戦ブログ集成」http://p.booklog.jp/book/50363

yamajunn21「銀冠ショップ」http://www.upsold.com/dshop/mygoods/yamajunn21

togetter「『ファンシーショップ・銀冠』へようこそ!」http://togetter.com/li/44902

togetter「消えた大橋分家の墓の謎」http://togetter.com/li/38257

「平成23年の地域における自殺の基礎資料」 http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/toukei/index.html

「社会実情データ図録」http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/index.html


将棋短歌


応募いただいた短歌、ツイッターで「#将棋短歌」を付けて詠まれた短歌からピックアップさせていただきました。

七割未満(六)

   七割未満(六)

清水らくは


 ジャガジャーン、というギターの音。アンコール三曲目、今度こそ最後の音だろう。

 拍手の中、手を振りながら帰っていく三人。汗だくだった。

「ねえ、どうだった? どうだった?」

 隣で沖原が目をキラキラさせている。それも当然、ライヴに誘ってきたのは沖原さんなのだ。

「良かったよ」

「でしょー」

  今日の沖原さんは変な英語の描かれた白いシャツに襟が豹柄の白いカーディガン、赤いチェック柄のサスペンダー付き赤と黒が折り重なるイレギュラーヘムのス カート、ドット柄のファー付きブーツという出で立ちだった。かなり過激な格好に見えたけど、会場に来てみたら溶け込んでいた。

 さきほどまで演奏していたのは、シカゴスプレーというスリーピースバンドだ。ギターボーカル・キーボード・ベースというあまり見たことのない構成だったけれど、三人のバランスが良くて、聴いていてとても心地よかった。

 ライブハウスを出ると、辺りは真っ暗、上空には丸っこい月が光っていた。

「遅くなったね。電車はどれ?」

「何言ってんの、だべるところまでがライブですよ」

「遅いと親心配しないの?」

「……しないよ」

 沖原さんは少しうつむいた。

「帰らない日もあるし」

「不良なんだ」

「そう。不良品」

 自分だって家族のもとへ帰るわけじゃない。これ以上この話はしないでおこうと思った。

「辻村はさ……棋士で決まりなんでしょ」

「何が」

「しょーらい」

「そりゃあ、ね」

「いいなー」

 沖原は喋りながらも、一直線にコトールコーヒーに向かっている。人の話を聞かないんじゃない、聞くことを省くタイプのようだ。

「みっちゃんは、意外としっかりしてるよね」

「意外とって」

「だって、いろいろと苦手そうなのに得意なもの見つけてるじゃん。私はわかんないからなー」

 店内に入った沖原は、何やら呪文のようなものを唱えている。注文するだけで疲れてしまうため、こういう店はできれば避けてきた。

「みっちゃんはどうするの?」

「あ……同じのを」

 出てきたのはソフトクリームの下にコーヒーが添えられているような飲み物だった。 いや、飲み物なのかこれ。

「あ、あそこ空いてる」

 奥の席へと駆けていく沖原。俺はプレートを持ってその後を追う。
「……辻……村?」

「あ、皆川さん」

 なんと、目の前に皆川さんがいた。今から出るところだったのだろう、バックを手にして席を立ったところだった。

「だれ、知り合い?」

 そして、空になったカップを捨てた後、こちらに向かってくる男性がいた。小顔で妙な形の淵なしメガネをかけている。

「あ、あの……弟弟子」

「へー……あ、見たことあるな。辻村……君?」

「はい。失礼ですが僕も見たことあるような気が……」

「ああ、俺は蔦原。囲碁棋士」

 そうだ、蔦原二段だ。雑誌の若手特集で見たような気がする。

「そうでしたか。改めまして、辻村充です」

「あれだ……高校生棋士なんだよね」

「でした。中退しました」

「あら」

 俺たちが話している間、皆川さんはそわそわしているように見えた。こちらを見たり、奥の方を覗いてみたり。

「あ、すみません。人を待たせてるんで」

「ああ、呼び止めてごめんね」

「皆川さんもまた」

「え……あ、うん。またね」

 店を出る二人。ひょっとして付き合ってるのかな。

「ごめんごめん」

「誰?」

「姉弟子……えーと、将棋の知り合いと、囲碁の人」

「ふうん。めっちゃにらまれた」

「え」

「彼女かと思っちゃった。綺麗だよね、あの人」

「まあね。化粧濃いけど」

「うん」

 沖原は、皆川さんが立っていた場所をずっと見ている。そんなに気になる感じだったろうか。

 俺はと言えば、この店の雰囲気に慣れない。だいたい知り合いにあってしまうような店は俺にとっていい店ではない。

「さ、復習よ」

「え」

「ライブの感想を話し合うの。とことん楽しまなきゃ」

「はあ」

 ライブにも感想戦があるとは知らなかった。しばらくこの店から逃れることはできなさそうだ。

 

 

 バトル・サンクチュアリ。

 この名前を聞いて、将棋の団体戦だとわかる人がいるだろうか。

 橘さんいわく、「12人参加だから思いついた」そうだが、まったく意味が分からない。

 とにかく、『将棋宇宙』企画の大会が決まり、俺は川崎さん、皆川さんと一緒に「関東若手チーム」として出場することになった。

「いやあ、それにしてもすごいなあ」

 目の前でうなっているのは若竹四段。関西若手チームの一人で、今日は対局で遠征してきていた。似合っているとは言えないツーブロックの髪を撫でながら、メンバー表を食い入るように見ている。

「たしかに、びっくりですねえ」

  俺らが驚いているのは、ベテランチームのメンバーだった。大将は赤松九段。二冠を獲ったこともある強豪である。現在もB級一組上位で昇級争いを繰り広げて いる。そして、副将、古溝八段。いわゆる「定家世代」の一人で、何度もタイトル戦に登場している。毎年高勝率で、若手の壁になっている存在である。早指しとはいえ、この二人がいる時点でベテランチームが優勝の大本命だろう。

 しかし最も驚いたのは、女性枠である。峰塚女流四冠。最強の人が出てきてしまった。絶対王者ともいえる存在であり、タイトルをほぼ独占しているため若手は対戦することすらできない。おそらくはそのことを踏まえて、橘さんが口説き落としたのだろう。

「水仙と女帝かあ」

 水仙とは関西若手チーム代表の上園水仙女流初段、女帝ととはもちろん峰塚さんのことだ。

「皆川さんもか……」

 やはり、実力差は相当ある。そしてもう一人はつっこちゃん。彼女は一度ネット対局で皆川さんには勝っている。プロ四段を目指す、ということは峰塚さんに軽くあしらわれるわけにはいかないだろう。

 チームとしては苦戦必至だが、外から見れば面白い対戦だともいえる。若手がどこまで女帝に通用するのか。

 まあ、その前に自分のことを考えないといけない。古溝八段とそこにいる若竹四段、そして奨励会チームの岩井三段と対戦することになる。三人とも初対局であり、今から棋譜を研究しないといけない。

「そういえばさ、金本さんって一緒に研究会してるんでしょ」

「はい」

「皆川さんは姉弟子で」

「そうですね」

「ややこしない?」

「え」

「こう、女の子はなんやかんやなときがあるやんか」

「なんやかんや……」

 皆川さんはともかく、つっこちゃんにはそういうややこしさはまったくない気がする。見た目や性格は本当に女の子らしいのだけれど、将棋に取り組む姿勢は完全に「四段」、もしくはその先をを目指したものだ。

 ……つまり、俺自身皆川さんがややこしいかもしれないことは否定できない。
「特に皆川さんは気が強そうやし」

「確かに」

「あれやで、メンタリティっちゅうのが大事やからね。団体戦は特に」

「そうですねぇ」

 そんな気がしてきた。もちろん俺と川崎さんが頑張ることも大事だが、どうすれば皆川さんが気持ちよく指せるか、というところが鍵となるだろう。

 しかし、改めて考えるとどうすればいいのかよくわからない。長い付き合いだけれど、皆川さんについてはよくわからない点も多いのだ。

「辻村君は女心についても要研究やな」

 若竹先輩も詳しいようには見えませんけどね、という言葉は飲みこんだ。上下関係については研究済みなのである。

 

 

 引力を感じた。

 いつも歩かない場所。何気なく通り過ぎようと思っていたのだけど、立ち止まってしまった。背中を引っ張られるようにして、振り返る。

 ガラス越しに、店の中が見えた。白と黒を基調にしたインテリアに、白と黒を基本とした服が陳列されている。色合いはとても地味なのに、目を惹かれるのはその形からだろうか。気が付くと俺はすでに、店の中に入っていた。

 この感じは何だろう……そうだ、先日聴いたギターだ。落ち着いた中にもエッジが利いていて、内側からロックが響いてくるような気がする。

 俺は、一着のピーコートを手にしていた。一列に並んだ飾りボタンが、果てしなくかっこいい。値段は……16万円。銀行から下ろせば、買える。

 店を出て、ATMを探して走った。運命の出会いを感じながら。

 

 

 いよいよ一回戦。関東若手チームは、奨励会チームとの対戦である。

 負けるわけにはいかないのだが、楽な戦いとも言えない。三段といえばプロと遜色ない力を持っているからだ。

 大将戦は、川崎対磯田。磯田三段は、新人戦でプロに何勝もしている。俺も三段リーグで負けたことがある。ちなみに名前が「瑠宇徒」と珍しいことから、将棋ファンからの認知度も高いようだ。

 副将戦は、辻村対岩井。岩井三段は14歳。若い。公式戦ではまだ自分より若い人と対局していないので、貴重な体験になりそうだ。

 女性枠は、皆川対金本。再戦である。前回はネット対局だったので、対面しての勝負は初めてということになる。

 ベテランチーム対関西若手チームの対局は別室ということになり、対局室には三つの盤が並べられた。いつもと大して変わらないのだけれど、これから団体戦をするんだ、という気分が高まってきた。

 のだが。

「大丈夫かなあ」

 川崎さんが心配そうに扉の方を見る。無言で控室を出て行った皆川さんは、すでに二十分ほど戻ってきていない。そういえば顔色があまり良くなかったし、挨拶の声も小さかった。体調が悪いのだろうか。

 奨励会員たちはすでに全員対局室に入っているようだ。雑誌に棋譜が載るということ自体が初めてということで、三段二人は相当気合が入っているようだ。つっこちゃんはいつも通りちょっとおどおどしていたけれど。

「辻村!」

 突如戻ってきた皆川さんは、なぜか俺の名を叫んだ。

「な、なに」

「あ、あのね、気にしてないし、気にしなくていいから!」

「え?」

「それだけ。さ、頑張ろ」

 一人で勝手に納得して、何やら頷いているいる皆川さん。川崎さんもぽかんとしている。

 とはいえ気にしている余裕もない。時間が近付いてきたので、三人で対局室へと向かう。

 部屋に入ると、対局相手、記録係、そして記者の上石さんがすでに準備万端で待ち構えていた。それぞれ一礼をして、上座に着く。

 団体戦は大将戦だけ振り駒を行う。川崎さんの歩がつまみあげられて、シャカシャカと混ぜられる。歩が二枚。俺は後手、皆川さんは先手だ。

 岩井三段はブレザー姿、中学校の制服だった。若さをアピールされているかのようだ。

「それでは、始めてください」

 よろしくお願いします、と皆が頭を下げる。岩井君は少し息を吸って、ゆっくりと吐きながら初手を指した。川崎さんのところを見ると既に四手進んでいた。皆川さんは目をつぶったまままだ駒に手を触れていなかった。

 俺のところは角換わりへ進んでいった。後手番の千日手狙い待機戦法で行く予定だったのだが、岩井君はすぐに気合よく仕掛けてくる。そうだった、彼は定跡を気にしないんだった。とらわれない、のとは少し違う。あんまり定跡を研究していないっぽいのだ。それでも若さは彼に抜群のひらめきを与える。無理っぽい仕掛けも、こちらが受け間違えれば破壊力のある攻めになる。

 ただ、とても落ち着いていた。強い人とだけでなく、級位者と研究会をしていたことが役立っている。大振りを避けるすべを学んだのだ。

 川崎さんのところは相振り飛車。普段指さない戦法だから、何か思うところがあってのことだろう。勝つのは当たり前、勝ち方が問題、ということかもしれない。

 皆川さんはゴキゲン中飛車、つっこちゃんは玉頭位取りで対抗していた。昔よく指されていた形だけど、今はめっきり見なくなった。相手に捌かれたら終わりの危険な指し方なのだ。でも、彼女らしいともいえる。つっこちゃんに最新形は似合わない。

 岩井君はどんどん攻めてくるけれど、どんどん苦しくなっていった。それは、かつての俺の姿でもあった。同年代では誰も受け止められない重いパンチも、プロにとっては普通のジャブなのだ。

 決め手は自陣飛車だった。何もさせない。

「……負けました……」

 一番早く終わった。内容自体は危なげなかったけれど、勝てるまではやはり緊張した。

「負けました」

 連鎖反応のように、磯田三段も頭を下げた。悪い局面をずっと粘っていたようだが、岩井君の投了に気持ちが切れたのかもしれない。

 チームの勝利は決まった。残るは女性枠。局面は、少し皆川さんがよさそうだった。馬を作られているものの、飛車交換に持ち込んで側面から攻めていけそうだ。玉頭戦に持ち込むのが居飛車側の狙いだが、飛車を渡した状態では反動もきつい。これは皆川さんやったか……と思ったのだが……

 つっこちゃんの目は、じっと自陣の右側をとらえていた。いったいそこに何があるというのか、俺にはよくわからなかった。そして細い腕が左側に伸びて、馬をつまんだ。右下へと引っ張られてくる馬。

 ▲3九馬。

 十秒ほど、凝視してしまった。一秒も考えなかった。今からまさに玉頭を攻めようとしていた馬。自玉の守りにも利いていた馬。それを、単騎遠い場所へと引っ込ませたのである。

 皆川さんも目を丸くしていた。予想していなかったのは明らかだ。

 そして、じっくりと考えてみると好手かもしれなかった。相手に飛車を打ちこませないようにし、自分はゆっくりと攻めていけばいい、そういう考え方なのだろう。いやでも、最善手だとは思えない。

 皆川さんも必死で手を作ろうとするけれど、相手に歩を渡すのは危険でもあった。龍は作れたものの駒を取れない。そしてついにつっこちゃんに攻めの番が回ってきた。攻め方もセンスがいいし、3九馬は遠くまで利き相手の逃げ道を塞いでもいた。

 全員が見守っていた。空気が、盤に吸い込まれていくようだった。

 皆川さんも頑張った。だから、美しく終局していった。

「負けました」

 下げた頭を、なかなか戻せないようだった。

 実力差があるのだ。そうとしか言いようがなかった。

 結果は2勝1敗、勝ち点2。優勝を目指すには苦しい出だしなのかもしれない。

 ただ、そんなことよりも。勝負の世界は厳しい、ということを実感していた。多分もう、皆川さんはつっこちゃんに勝てない。

 残酷な企画だ。けれどもこれを乗り越えたとき、皆川さんは何かを手に入れているかもしれない。

 ちなみに隣は2-1でベテランチームの勝ちだったらしい。若竹四段が古溝八段に一発入れ、残り二つはベテランが力を見せた、ということのようだ。やはり女流四冠の壁は厚かったようだ。

 次戦は、関西若手チームとの対戦。絶対に負けたくない相手だ。そして皆川さんの真価が問われる対局になるだろう。

 

 

「辻村……」

 ひどい顔をしていた。悲しそうなことはもちろんだけれど、髪はぼさぼさ、目元にはあざができていた。

「けがはないの?」

「してるかも。でも、ここまでは歩いてこれた」

 突然呼びされた。住宅地の公園で、彼女は待っていた。

「勘違いしないでよ、彼氏じゃないから。今は付き合ってないはずの人」

「そう」

「大事なところだから」

「女の子を殴るやつは関係なくくずだよ」

 少しだけ微笑んだものの、すぐに険しい顔に戻った。そういえば中学生の時、よくこんな顔をしていた気もする。

「なんでこうなっちゃうんだろうねー」

「わかってるんじゃない?」

「え」

「考えれば、わかるかもよ」

「そうかな」

 会わなければ、殴られない。簡単なことだけれど、きっと簡単ではない。俺には恋愛のややこしいことはよくわからないけど、やっぱり、殴るような男に近付く必要なんて一つも思い浮かばない。

「みっちゃんはさ……ちょっと謎だった」

「え、なんのこと」

「きっと頭いいはずなのに、成績はたいしたことなくて、でもなんか頑張ってる感じがしてさ、今から思えば将棋だったんだけど」

「まあ、そうかな」

「うらやましいって言うか、うん……いいなって思った」

「そんなことないよ」

「いや、いいよ」

 月は薄かった。星はいくつか見えるけれど、名前とかは知らない。沖原さんは、ブランコに腰を掛けた。遠い街灯の光が、片方の頬を照らす。

「あのさぁ……」

「なに」

「みっちゃんは、やっぱりいろいろ勉強しなきゃいけないことあるわ」

「よくわかんない」

「いいよ。来てくれてすっごい嬉しいから」

 東京の夜は、思ったよりも暗いのだ。空が狭いからだろうか。

 俺もブランコに座った。何か見たことがある光景だと思っていたのだけれど、それは、カーテンを付ける前の俺の部屋だった。何かが怖くて、何かを得たくて、カーテンを付けなかった。

 沖原さんのことをゆっくり知っていこう。そう思った。

 

 

 マンションの玄関前に、人影が見えた。怪しい。だがそう思ったのも一瞬で、その背格好から、そのたたずまいから誰だかわかって腰を抜かしそうになった。定家五冠だ。

 定家さんは俺を見つけると、にやり、と笑った。怖い笑みだ。

「辻村君、遅いじゃないか」

「定家さん、なんでこんなところに……」

「もちろん君を待っていたんですよ」

「僕を?」

「見させてもらったよ。君たちの棋譜を」

「え、それって……」

「とりあえず、家に入れてくれると嬉しいんだけど」

「え、は、はい……」

 オートロックにナンバーを入力して、将棋界の宝を俺の住むマンションへと招き入れる。どうやってここを知ったのか気になるところだったが、定家さんが知りたいと言えば誰だって教えてしまうだろう。

「いいマンションですね。一人で住んでるんですか」

「はい」

「まだ高校生でしたよね」

「やめました」

「そうですか。それもまたいい。辻村君は学校に行くよりもいろいろな人と会う方が勉強になるタイプだと思いますよ。私はね、学校が楽しかった。当時将棋はあまり好きではなくてね。でもあなたは将棋が好きそうだし、行かなくてもいいでしょう。ちなみに昔川西さんという先輩がいたんだけど、学校に行くふりをして麻雀ばかりやっていたということで、先輩たちは武勇伝として語るんだけどそれで成績が上がったわけでもなく……」

 ちーん。

「この階です」

「ほう」

 定家さんは放っておくといつまでも喋り続けるので有名だった。誰かがギネスにも載るんじゃないかと言っていた。

「ここです。そこそこきれいにはしてありますのでどうぞ」

「まあ、君はそうでしょうねえ」

 とはいえ、五冠を迎え入れるにふさわしい部屋なわけがない。とりあえず座椅子を引っ張り出し、腰掛けてもらった。

「ふうん」

「あの、お茶を入れますから……」

「いいですよ、私はお茶は飲まないので。コーヒーも牛乳も飲みませんよ」

 そういえば定家さんは対局の時、外国のミネラルウォーターを大量に持参することで有名だった。そしてそんなものはわが家にあるはずもない。

「そんなに長居はしません。君にアドバイスを与えに来ただけですから」

「アドバイス?」

 定家さんは俺に座るようにと合図したので、対面して腰掛けることになった。対局もしたことがないのにこのような状況になるとは。

「バトル・サンクチュアリ、君たちはまだあの企画の恐ろしさをわかっていないようなのでね。団体戦というのは、自分が勝ってもチームが負けることがある。自分が負けてもチームが勝って喜んでいることがある。自分の力ではどうしようもないところで勝負が動いていくというのは、恐怖じゃないですか」

「それは……」

「君達はただ対局に没頭しているつもりかもしれませんが、世間は団体の結果にも注目する。このままいけば皆川さんは勝てないでしょう。それが原因で優勝できなかったら……彼女本人だけでない、あなたと川崎君も傷を負うことになる」

 言っていることは、まあ、そうなのかもしれない。ただ根本的に、なぜわざわざそんなことを言いに来たのかがわからない。

「それを伝えて……僕に、何を望んでいるんですか」

「つまらないじゃないですか、こんなところで若手がつまずいたら。君と川崎君は、いずれ私に挑戦できる器だ。でもここで余計な傷がつけば、それが五年遅れるかもしれない。少なくとも名人挑戦は、五年遅れるでしょうね」

「なんでそんなことが」

「いいかな、順位戦で二年に一回ずつ昇級する人がいますか? 多くの人は一気に駆け上がっていく。一度つまずくと何年も足踏みする。勝率六割を超えている若手が一度も昇級しないままベテランになっていく時代です。彼らは一流になれる実力があった。それなのにいろんなことがきっかけで取り残されてしまった。そういうのは、あんまり見たくないんですよ」

 目つきがあまりにも鋭かったので、俺はまるで射止められた獲物のように身動きが取れなくなった。

「いいですか、私は中学の時、全国大会に出れなかった。エリートとは縁遠かった。でも、その後は全てのチャンスをつかんだんです。君たちはエリートとして出発できたのに、多くのチャンスを逃して、一流になる途上で迷っているように見えます。私は同世代とやるのは飽きてきたんですが、待っても待っても誰もやってこない。だから特別に、アドバイスしに来たんですよ」

 そこまで話すと名人は立ち上がった。

「あとはあなた次第です。では……五年以内にタイトル戦で会えるのを待っていますよ」

 そのまま定家さんは帰ってしまった。残された俺は、しばらく金縛りにあったままだった。


バトル・サンクチュアリ一回戦

   少女の追い越すスピード ――バトル・サンクチュアリ・一回戦――
上石三郎

 棋士たちによる団体戦、バトル・サンクチュアリが開幕した。

 大ベテランから奨励会員まで、十二人のプロが今まで誰も経験したことのない聖域(サンクチュアリ)で戦う、というのがこの企画の売り文句である。

 そのあたりは『将棋宇宙』で触れられていると思うので、『駒.zone』では注目の一局を中心に一回戦の結果を確認していきたい。

ベテランチーム2勝(2点) - 1勝(1点)関西若手チーム

赤松九段○-●新井五段
古溝八段●-○若竹四段
峰塚女流四冠○-●上園女流初段 

 事実上の決勝戦とも言われたこの対戦は、ベテランが底力を見せた。

 大将戦では赤松九段が終始新井五段を圧倒した。早指しでも力の差を見せつけたことになる。新井五段は目立つ活躍が多いもののムラがあり、勝率が伴わないことから「打点王」というありがたいのかどうかよくわからないあだ名を付けられている。今回は打点も挙げられなかった。やはり常に一定以上の力を出せる安定感が必要となるだろう。

 副将戦では若竹四段が意地を見せた。難しい局面が続いたが、きっちりと古溝玉を寄せきった。実績はそれほどでもないが、実力はずば抜けているとの噂であり、若竹四段の今後に期待である。また、古溝八段としては負け越すわけにはいかず、残り二戦は非常に緊張したものとなるに違いない。

 女性枠は、峰塚女流四冠の強さばかりが目立った。局面的には上園女流初段が食いついていた場面もあった。しかし、常に四冠が冷静に対処し、最後は相手が自爆するのを見るばかりだった。上園さんは期待されている若手だが、今回ばかりは悔しさにまみれたことだろう。それを味わえるだけでも、この企画はいいものだったと言える。

 こうしてベテランチームが勝ち点2、関西若手チームが勝ち点1となった。参照すれば勝ち点5なので、一気に逆転が可能であり、まだまだ今後どうなるかわからない。


関東若手チーム2勝(2点) - 1勝(1点)奨励会チーム

川崎五段○-●磯田三段
辻村四段○-●岩井三段
皆川上流1級●-○金本3級

 今回最も注目されたのが、奨励会チームではないだろうか。プロ相手にどこまで力が通用するのか。特に三段陣は、四段以上の力がありながら上がれない者が出ざるを得ない、と言われている。その真偽を図る意味でも画期的な対戦であったと言える。
 
 大将戦は、川崎五段が丁寧な指し回しを続けた。磯田三段も鋭い手を放ったものの届かず。力の差がはっきりと出ていた将棋だった。将来タイトル挑戦も期待されているだけに、川崎五段はこんなところで負けるわけにはいかなかっただろう。

 副将戦、辻村四段は序盤からリードを保った。目立つ将棋ではないが、常にきっちり読んでいるのがわかる。対する岩井三段は最年少三段で才能は誰もが認めるところだが、まだ粗さがあるように見受けられる。辻村四段に軽くいなされているように見えたが、これでは天才と呼ぶのはまだ早そうだ。

 さて、今回は女性枠、皆川女流一級と金本3級の将棋に特に注目してみたい。

 二人はネット棋戦の竹籠杯で対戦経験がある。その時は金本3級が勝ったが、その後皆川さんの成長も目を見張るものがあるとの評判だった。関東の若手女流棋士には他にも活躍する者も多かったが、将来への期待を込めての選出だったと思う。それに対し金本さんは関東奨励会所属唯一の女性であり、また経歴が謎のベールに包まれている。アマチュア大会には一切出場したことがなく、将棋関係者が全く知らない中入会。最新定跡に詳しい若手の中で、古典的な将棋を好んで指している。

 また、皆川さんは辻村四段の姉弟子であり、辻村四段と金本さんは研究会仲間である。辻村四段は二人を共によく知る関係性であり、本局のキーマンであったとも言えるのではないか。

 将棋は皆川さんのゴキゲン中飛車に、金本さんの玉頭位取りという戦型になった。ゴキゲンが流行り始めた頃によく見られた形であり、金本さんらしい戦型選択と言える。皆川さんの方は慣れない形に少し面食らったのだろうか、序盤から小刻みに時間を使っていた。

 馬を作られ少し抑え込まれ気味だった皆川さんだが、飛車交換に持ち込み勝負形になったかと思ったのが図1。


  後手からは次に飛車を打ちこみ桂香を拾う手や、角をぶつける手がある。うまくさばいたかと思ったが、次の手がハイライトだった。図1の局面から金本さんが指したのは▲3九馬。(図2)

  
  なんと玉頭と敵陣右辺をにらんでいた馬を、自陣深くまで引き上げたのである。指されてみるとなるほどという手で、これで後手からの飛車打ちを消している。それでも先手が特に有利になったという局面ではないが、皆川さんは方針を決めなければならず、かなり迷わされたことだろう。歩を使って打開を図るが、渡した歩は玉頭攻めに逆用されることとなった。

 図2のような陣形は、研究の果てには現れないだろう。女性初の正会員という期待とともに、将来もっと上で活躍できるだけの才能を金本さんは持っているかもしれない。

 他方皆川さんは金本さんに連敗となってしまった。このまま差を付けられては、女流棋界で活躍することにも支障が出るだろう。次戦は峰塚女流四冠と。勝つつもりで挑んでほしい。


 一回戦を終え、ベテランチーム・関東若手チームが2点、関西若手チーム・奨励会チームが1点となった。どのチームが3勝して5点をもぎ取るか、それが次戦以降の見どころである。



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