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駒zoneと私~ちょっと私的な清水らくは論

【「駒.zone」と私~ちょっと私的な清水らくは論】
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 「駒.zone」編集長・清水らくは氏から初めて「駒.zone」への参加を打診されたのは今となっては懐かしいVol.1企画「ツイッター三択将棋」でのことだった。記念すべき創刊号である。なぜ私に声をかけてくださったのかその真意は判らないけれど、いや何となくわかるけれど、いずれにせよそれはツイッターのとりなす不思議な縁であり、そしてあの時のらくはさんの「選択」がなければ恐らく今自分が見ているこの世界の風景は全く違ったものになっていただろうと思うと奇妙な感覚を味わったりもする。
 清水らくは氏は「駒.zone」創刊以前から既に、小説や詩を多数発表(投稿、入選歴あり)されていた。創作についての自身のエピソード、考え方、感じ方、これからの希望、夢、そういったことの諸々をツイッターを通して語る氏の言葉は、多くの人が目にされていたと思う。そう言えば「駒.zone」プロジェクトもツイッター上の何気ない一言から始まったのだった。
 やがて「駒.zone」が創刊され、多くの人の暖かい支援とらくは氏を初めとしたレギュラースタッフ陣のたゆまぬ努力の元、今に至るまで刊行されつづけている。将棋ファンとしての想いと文芸愛好家としての想い。それらが融合した素晴らしい活動だと思う。こういう将棋の楽しみ方があっただなんて……例えばプロ棋士の方々はこういう将棋ファンの在り様を想像したことがあっただろうかと、プロ棋士ツイッタラーのどなたかに尋ねてみたいと常々思っている。
 また「駒.zone」の旗揚げを決意されたらくはさんの行動力に敬礼したいとも常々思っているのだが、後者の方は遠慮することはなさそうなので、明日にでも熊本の方角に向かって敬礼しておくことにしよう。
 さて、そんな「将棋クラスタ文芸部の旗手」らくはさんのツイートを眺めていて「何だか、らくはさん楽しそうだなー」と思って「小説寄稿させてくださいな」と連絡したのが確か Vol.2公開直後だったと思う。だが私は、すぐにそのことを後悔するハメになった。公開直後すぐに後悔直後だった。
 ところで。
 私と「文芸」ということで言えば、中学生の時に「ミステリ研究会」的な何かしらをしていたことがあったのだが、これはミステリを読んで「殺人トリック」にハマった馬鹿数名が、ひたすら「完全犯罪トリック」を考え続けるだけの活動だった。ミステリ作品は読んでいたけれど「文芸活動」であったとはとても言えない。むしろ「犯罪活動」と言った方が分野的に近いと言える。ただしそのトリックを実行に移してはいないので警察が我々を逮捕することは出来ないだろう。
 というわけで(?)私が「駒.zone」に寄稿した小説はVol.3の「ツクモさん、指しすぎです」というものであったのだが、実は初めはミステリを寄稿するつもりだったし書き始めてもいたのである。
 絶対に発表しないつもりなのでここでプロットのネタばらしをしてしまうと、それは――。
「将●連●会●が●●の●●で殺害された。警察の捜査は難航しやがて自殺説まで浮上する。会●の死に不審を抱いたミステリファンの新四段・江戸川垂歩(仮名)はその謎に挑み、やがて『真犯人は●流棋士全員による共謀』という驚愕の真実に突きあたる……というのが実はミス・リードで江戸川垂歩(仮名)は単なるアホ。事件の真相に気付くもそのあまりに哀しい真実を前に、それを公表することにためらいを覚えた観戦記者・「団栗饂飩」記者(仮名)は、名人戦最終局の観戦記にメッセージ(暗号)を記すのだった……。
ちなみに真犯人は、江戸川垂歩四段(仮名)が●イ●タ●で●●ロ●している●●●●ーの●●●の●謀」
 というものだった。どうだ面白そうだろう?絶対発表しないけど。ていうかもう出来ないけれど。
 小説を寄稿しようと思った時に考えたこと、それは「ツイッターの将棋TLの雰囲気を何とか持ちこめないものか?」ということだった。元がツイッターでの呟きをきっかけにして始まった企画であるし、ここはひとつ「ネタは全部ツイッターから拾う」の精神で書いてみよう、と。
 結果的に妖怪うんちくだらけになってしまった。当たり前である。だって私のTLは7割方、妖怪やそれに類する話で溢れているのだから。あとガンダムとか。
 さて、小説を書き始めてみて初めて気がついたことがある。ちょっとだけ悩んだこと、後悔したこともあった。
 後悔したことは「これを寄稿することで、らくはさんに(もの凄く色んな意味で)迷惑が掛からないか」ということである。気の迷いで「寄稿します」だなんて言わなければ良かったと、これはかなり本気で後悔した。「駒.zone」というのは、将棋と文芸を楽しむためのプラットフォームなのであって、迷惑だとか何とかそんなことは気にせずに気軽に楽しめばいいと思うのだが、深夜に一人思索に耽っているとつい色々と余計なことが頭をよぎってしまう。小心者なのである。田沼泥鮒に「坐禅組んでみない?」と言われてしまいそうだ。
 ただ、編集者側の立場にたって言えば、一度「寄稿する」と言ったことを「やっぱり止めます」と言えばもっと迷惑を掛けることになりかねないので諦めることにした。好きなように書くからボツにしてくれと、そういう心境だった。まぁ結局は(ある意味)迷惑をかけることになってしまったわけであるが。
 気付いたこと、悩んだこと。それは「書かないという決断」についてだった。この場合の”書かない”とは「ツクモさんて6万字超えてたじゃん、書かない決断してないじゃん」的な文字数のことではなく、放送禁止用語がありすぎてこのままでは原稿が「ピー」だらけになってしまうぞ!とかそういうことではなく、遊園地で働いているアメリカ生まれのネズミのことには触れてはいけない、とかそういうことでもない。上手く表現できないのだけれど、私は小説というものを初めて書きながら、このステージの上では「言いたいこと」は書いてはいけないという気がしてきていた。「言いたいこと」があってはいけない気もしていた。素人が何を生意気な……と思われるかもしれないし、そしてそれは事実、生意気なことなのだと思うけれど、とにかく素人なりにそういうことを思ったのだった。
  でも「良かった」と思えたこともあった。
 物語世界を幻視すること(妄想ともいう)。その世界を文字によってデッサンすること。見えているけれど書かない世界。書かないけれど進行していく世界。その体験は現実世界においても「会ったこともないけれど、どこかにいる誰かの人生の物語」へと想いを馳せるきっかけになった。そういう「世界の見方」を、あの夏、私は体験したのだ。
 「物語を書く」という行為の後にフィルタリングされた視界の先にあった世界の風景は、だからとても新鮮だった。冒頭で書いた「あの時のらくはさんの「選択」がなければ、恐らく今自分が見ているこの世界の風景は全く違ったものになっていた」とは、そういうことだ。
 自分で書いてみて、その「デッサン」の粗さを痛感して「プロの作家さんは凄いなぁ……と心から思ったし、一方でこの「創作をする」という行為自体は、作家を目指すとかそういうことではなく、もっと気軽に「趣味」として成立するものなのかもしれないな、とも思ったのだった。これもまた、らくはさんの「選択」によって得られた得難い「気づき」である。
 だから「駒.zone」に興味を持った人がいたら、ジャンルや企画やレベルのことなど気にせず気軽に寄稿の相談をしてみたらいいと、そう思う。小説でも詩でも俳句でもイラストでも漫画でも、エッセイでも論考でも。将棋をテーマにした雑誌なのだから「俺様定跡」の発表でもいいじゃないかとも思う。
 何でもあり。何であってもいいはず。「駒.zone」にはそういう「場」としての良さがあると、そう思うのだ。
 その他、色々ある。寄稿に際しての、らくはさんとのメールのやり取りでも色々あった。
 色々あって。
 物語を書くことを通して自分を見つめ直して。
 見つめ直してみたらやっぱり自分は馬鹿だったということに気付き直しただけで。
 「ツクモさん」なんて特に何のテーマもない単なるお笑い小説だけれど、書いている本人の中では色々な(ちょっとカッコつけた言い方をすれば)哲学的思索が駆け巡っていて。
 だから多分、傍から見ればもの凄く気難しいというか、眉間に可愛く皺を寄せながらの執筆だったと思う。
 とまぁそんな、他人が見たらどうでもいいような、そしてしょうもない私の葛藤を知ってか知らずか、らくはさんは快く、優しく、幾多の指導・アドバイスをしてくださったのだった。
 そんなわけで。
 今ではらくはさんは、私にとって「部活の優しい先輩」という存在に近いかもしれない。
 ……いや違う。全っ然近くなかった。何しろ らくはさんときたら、ちゃんと「指導」をす
る人だったのだから。
 そもそも部活の先輩と言えば「サボってもキャプテンに怒られないお洒落な言い訳の仕方」とか「10年ぐらい前から我が校に存在する、プール裏の女子更衣室直通の壁の穴」とか「部室の屋根裏部屋に設置された司書のいないエロ本図書館」とか「数学教師がタバコの吸い殻をこっそり廃棄し続けた結果出来あがった、学校裏の山の茂みの中にある謎のアリ塚風モニュメント」とか「授業中に脈絡もなく政府批判を始める国語教師のアイツの正体は実はメン・イン・ブラック」といったような、とてもトリビアな知識だけを授けてくれる存在のはずである。
 私が在籍していたテニス部にはそんな先輩しかいなかった。そんな先輩にばっかり目を付けられていたとも言う。
 ちなみにその先輩は練習なんかちっともしないのに、誰よりも力強いサーブを打ち込み、誰よりも華麗なスマッシュを決め、誰よりも喧嘩が強くて、誰よりも可愛い男子にモテていた。 女子にモテていたかどうかまでは寡聞にして知らないが。天才だったのかもしれないし実家が富豪で庭にテニスコートがあって小さいころから英才教育を受けていたのかもしれないし、人知れず隠れて努力をしていたのかもしれない。人知れず、あのプール裏の空き地で素振りでもしていたのかもしれない。
 らくは氏も隠れた努力をたくさんしているのだろう。博士号を持ち大学講師として現場で教鞭もとっている氏は、講義の準備をし、自らの研究も行い、一方で各誌に詩を発表し小説の投稿をし将棋ウォーズで荒ぶり(多分)、将棋倶楽部24でらくは無双して(風の噂)、YouTubeで初音ミクの動画を天網恢恢疎にして漏らさぬほどチェックして(確かな推測)……そして「無責任」や「駒.zone」の編集をしつつ自らも作品を発表し続けている。すさまじいスケジュール消化っぷりであり、氏の時間管理スキルの高さが伺える。らくはさんの使っている手帳を見たい。ていうか欲しい。そして今「一週間の歌」の替え歌「らくはの一週間」がわたしの脳内でリピートし始めた。
 日曜日は将棋ウォーズをして、月曜日も将棋ウォーズをして。
 火曜日は将棋ウォーズをして、水曜日も将棋ウォーズをした。
 金曜日は採点もせず、土曜日は将棋ウォーズばかり。
 テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャ

 いつ小説や詩を書いているのか全く謎だ。……そうか判ったぞ木曜日だなっ!
 というのはささやかな冗談であって、そもそも将棋ウォーズは1日3局までしか指せない(無料会員の場合)はずなのでそんなにやっていられない。推測するに、先輩は脳の働きを違う分野へと切り替えるスイッチが相当に高性能な方なのだと思う。たとえ将棋で悔しい負け方をしたとしても、数秒後には静かな笑みをたたえて教え子のレポートを採点している氏の姿が、隠しカメラの映像を映すモニターを見ているかのように鮮明に目に浮かぶ。鮮明すぎてちょっと怖い。
 おいおい、このカメラ性能が良すぎるぞ……って、うわ何をするヤメ(ry……
 ……ガシャン!……。 ……破壊された。隠しカメラが……。あれ高かったのに……。
 ともあれ。
 号を重ねながら少しずつ新しい挑戦を続ける「駒.zone」。将来的には「紙の駒.zone」で文フリへの進出を目指しているとも聞く。氏の人柄と志に惹かれ多くの同志が集まる「駒.zone」の今後の活躍と発展を願い、そして心から応援したい。したいじゃなくてする。応援する。熊本に向かって敬礼しながら応援する。頑張れらくは先輩と仲間たち。
 そして私も、らくはさんの足を引っ張らない程度にちょろっと、時々でいいから、気が向いたときにでも参加させていただければなー……なんてことを今は思っているのだった。

 2012年某月吉日、窓際で金魚を愛でながら

駒とおむすびとペンギン

  駒とおむすびとペンギン 将棋ファンを見る人のコラム
浮島

「将棋強迫神経症」


    ぼくのツイッタ―には多くの将棋ファンが生息している。
        世界の果てにある将棋の国に
            ガリバーがあわてふためいている。
        将棋ファンは「将棋のニュース」をリツイートをする。
                これは将棋の世界の朝食だ。

            みんなが朝を迎えるのに反して
                ぼくはだんだん眠たくなっていく。

        だれかが「リューオー」と叫ぶ。
                ぼくは「リューオー」と、言葉を口のなかでころがす。
        だれかが「リューオー」というたびに
                        ぼくは世界からはずれていく。



1.世界のはんぶんをくれてやろう おれはすべてをえるために 世界をおまえにうりはらおう

 将棋ファンって将棋ファン以外からはどうみられているか知りたい。
そんな変態的な要望を友人から受けた。
鏡に映った自分ですらなく、鏡に映った自分を見ている「自分」がどう見えるかが知りたいだなんてなかなかマニアックな嗜好をもっているものだ。
世間にはさまざま趣味をもった人がいる。
ぼくが常々友人に抱いている妙なもにゅゎあんという割り切れなさは、趣味を持った人を見る人のもにゅゎあんだ。


    ある時、家に帰ってきた夫が「鉄分たりてますかーーー!」とネクタイを脱いだ。
    わたしはネクタイをしまいながら、足の先にくるんとまるまった靴下を指差す。
    「ちゃんと靴下も脱いでよ。洗うんだから」
    「そんなことより鉄分だ! 鉄分なんだよ!」
    興奮する夫はしきりに鉄分だ!と叫びながらテレビのまえに腰をおろし、鉄道ファン向けの        DVDを再生する。
    そして前のめりに画面を見つめ、野菜スティックを醤油マヨにべたべたとひたしはじめた。
    鉄分欠乏症の夫を横目に、わたしも本日の業務を終了しないといけない。
    わたしはくしゃっとしてしまったネクタイを綺麗にしまった。
    彼の心もまたくしゃっとしていたのだろう。
    だからわたしは綺麗に、しわを伸ばしながら、ゆっくりといたわるように、それをしまった。



言ってしまえば「こんな感じ」なのだ。
どこか隔絶された世界であるのに共鳴を持って接したい気持ちになる。
将棋ファンに将棋分が必要なように文芸ファンにも文芸分が必要だということをどこかで理解しているからかもしれない。
一人が「リューオー」と叫ぶと、みんなが続けて「リューオー」と繋いでいく。
これを僕の趣味である詩文芸にあてはめると、谷川俊太郎を「タニー」と呼ぶようなものだ。
……ちょっと羨ましいかもしれない。
「タニー」といえば「タニー」と返す人のいる暖かさ、そんなものを感じるかもしれない。
けど「タニーとホムホムが好きな少女よ、わたしはあなたの肉体が好き」とも思うかもしれない。
いずれにせよ詩人も歌人も、こんなに親しい存在には不思議とならないのだ。
これはなんかちょっと悔しい。(マチちゃんと気軽に呼べない存在だってこの世にはいるのだ)
ぼくも田村隆一をリューオーと呼んでみようか。

「リューオーがインドで飲んだくれながら旅行記を書いたんだってさ」
「リューオーが西脇順三郎のことをコラムに書いておきながら、なぜか南の海で酒飲んでる内容なんだよ」
「リューオー名言BOT ウィスキーを水で割るように言葉を意味で割ってはいけない」

なんだか素敵になってきた。
どこかむずがゆいというか、かわいらしく思えてくる。
それでも竜王は強い。隆一も言葉が強い。
リューオーが負けそうになると「リューオー……」と淋しげに鳴く人がタイムラインにいた。
ぼくも北村太郎にリューオーの人気が負けそうになると「リューオー……」と鳴きたくなるのかもしれない。


手を伸ばせ午前6時の網フェンスの向こうへひとり隔たれた朝は(浮島)



2.あしながおじさんの足がふみつぶすもの

棋士にきゅんとくるお姉さん方も、ぼくから見るとどこか愛くるしいものがある。
「タイチさんの表紙が!! けしからん!」といった人が仮にいたとしよう。
なんかぼくにとってはそれがケーキ屋のガラスケースをまえに小首をかしげている人に見えてしまうのだ。
これは男性でも構わない。
どのケーキにしようか。

(ショートケーキ? いやいやモンブラン。秋だし……かぼちゃプリン? 生クリームののっかってる……。でも今日はお昼我慢したし、もうすこし高いのでも……)

触れ得難いものに恐る恐る手を伸ばす人は、男でも女でも関係なく、子どものように感じる。

そういった子らには満面の笑みを持って頭をくしゃくしゃしてやりたくなる。
けしからんと思う気持ちが加速して、まわりまわって残念な雰囲気になってくる。
街の灯の盲目の少女の前にチャップリンが現れるような展開をみんなが望んでいる。

「はやく助けてやれよ! チャップリン!」

これがレンタルビデオなら、思わず立ち上がって叫んでしまうだろう。
街の灯の内容は知っていても、チャップリンを急かしたくなる。

だってその映像をみているぼくは「チャップリン」でありたいと思う以前に、ケーキ屋で首をかしげる人間だからだ。
こんなえばったことを書いていても、ぼく自身がだれよりも子どもなのである。

それにしてもタイチさんのほっそりとした手。まっしろな砂糖菓子みたいだ。
銀河鉄道の夜では鳥の足がお菓子だった。タイチさんも氷砂糖みたいだ。
将棋の世界にも南十字星はあるのだろうか。
こんなに身近に将棋があふれているのに将棋自体にはさして面白さの確信が持てないぼくは、とっくにカンパネルラに取り残されている。


アキくんは朝日に溶けたひまわりをグラニュー糖でまぶしながら(浮島)




3.面白くなくもない恋人

「やうたん」とはいったい何者だろうか。
将棋ファンに囲まれてから、しばらくの間このことが頭をぐるぐるしていた。
やうたん。ヤウチさん。やうたん。女流。やうたん。やうたん。

一体何者なんだ――やうたん。

周りの人がやうたんのことになると目の色を変えるのである。

「やうたんハァハァ」
「やうたん可愛いよやうたん」
「やうたんに指導してもらいたい」

うーん、なんか違う。
もっと熱があるのだ。やうたんツイートには。

もしかしたらやうたんはケルト神話でいうところのリャナンシーみたいなものなのだろうか。
詩人はその霊的な直感をえるためにリャナンシーと恋仲にならないといけない。

そうでなければ詩のイメージが涸れてしまうのだ。
将棋ファンへある種の鮮烈なイメージをもたらす人なのかもしれない。

ああ、だったらぼくもやうたんを欲しなければ。
昨晩はごめんよやうたん。ぼくは詩を読まなかった。
勉強に忙しくてごめんよやうたん。最近はコマゾネの原稿も書かないといけないんだ。
やうたんごめん、ごめんやうたん。やうたん。

いくらなんでも無理がある。
こんなのはぼくの深遠にある日常であって、将棋ファンの日常であるはずがない。
さすがにぼくのプライベートにまでやうたんは責任を持てないだろう。
いやでもしかし……みんなのやうたん熱はもっと激しい。
それでもきっと? やうたんなら、やうたんならやってくれる……か?
そんな気もする。

ぼくたちの世界にはやうたんがあふれている。
でもぼく達は誰一人、やうたんを知らないのかもしれない。

やうたんって何者なんだ。
やうたんはヤウチさんなのか? どうもヤウチさん以上の何かの気がする。
ヤウチさんとやうたんの違いがぼくにはまだわからない。

            やうたんに飲み込まれていくある日のぼくのタイムライン。


「ひとつずつ月をあおぐとひとつずつわたしは崩れていなくなってしまう」(浮島)



4.孔明、泣いて自駒を斬ることに恍惚とす


つい最近、将棋ウォーズなる単語がタイムラインを沸かせた。
和訳すれば将棋戦争ということになる。
そんな意味を持っているにもかかわらず、みんな楽しそうに戦争をしている。
勉強や仕事をそっちのけで将棋という戦争に身を投じる彼ら。
……いいな。……楽しそうだな。
輝かしい家族のだんらんを冬の日の窓に見たマッチ売りの少女の気持ちがわかる気がする。

ネット上でもハム将棋というフラッシュがあって、ぼくもそいつで遊んだことはある。
棋力は駒を動かすことができるという程度だ。
だから将棋ウォーズに興味があっても気軽に戦争に行くことはできない。

以前コマゾネの企画で跳馬さんから教授をいただいた時では、かの邪知暴虐なるげっ歯類にぼこぼこにされた。
ついさっきまで味方だった飛車が、桂馬が、いつのまにかぼくを追い詰めている。
振るっていた力が奪われ、逆に自分に行使されている。
何もかも捨てて裸で逃げ出したい気分だ。
その不快感は筆舌に尽くしがたい。

戦争しようと町まででかけたら戦車を忘れて三輪車で突撃するサザエさんよりも――ずっと、ずっと! マヌケでみじめな気分になる! なんなんだこれは!

そんな気持ちを知っているからだろうか。
将棋ファンの人が将棋を指しているのを聞くとうらやましいな、と思ってしまう。
なんかこう……あたたかそうだ。
「磯野―! 戦争しようぜ―!」と将棋盤を気軽に広げる文化が身近にあるのだ。
ぼくなんかは下級兵士のそのまた下級みたいなもんだろう。
ドッグタグを首に下げたかどうか確認しているうちに死んでしまっている。
戦争を楽しむことすらできない。

相手に勝てばうれしいし、負ければ悔しい。
そんな単純な図式が、なんの違和感もなくすんなり当てはまってしまう世界だからかもしれない。
ぼくは将棋がおそろしい。

マッチ売りの少女は暖炉と温かい食事、やさしい父親母親のいる光景がだれよりも恐ろしかったんじゃないだろうか。
少女は、その家族の裏にあるものを知っている。


やさしさは肉感的でおそろしい今日の零時は無機質である(浮島)



5.「将棋の王様って結構優秀なんですよ。シャンチーの王様よりもすごい」
  「でも王様、ぼくは時折どこにもいけなくなっちゃいます」


将棋のイベントに出かけてみたいと思ったことがある。
おっかなびっくり将棋という文化に触れておきながら、いまだに足を踏み出していない自分とサヨナラしたかったのだ。
いまでは彼らは彼ら、自分は自分といった感じで、将棋文芸という特殊な環境に身を置いても開き直っている。
将棋だけでなく文芸もないと将棋文芸じゃないはずだ。
でも俺……ここにいていいのかな……。いまだに場違い感がすごい。

将棋のイベントのWEBページをのぞくとぼくが住んでいる近所でもわりとイベントが開催されていた。
子どもの将棋イベントなんかはすぐそばのショッピングモールで開催している。

……け、見学とかしても大丈夫なのかな。

くらくらと引き寄せられるようなタッチで手帳をひらく。
予定はない。けれど子どものイベントに大人が見学しに行っていいものだろうか。

……子どもの運動会をのぞいていた大人が通報されるといったことも巷ではあるそうだが、ぼくも通報されてしまうんじゃないだろうか。

ぼくはロリコンじゃないし、ショタコンでもない。
むしろコンプレックスは将棋そのものだ!
……ならなぜ見学に行くのだろう。うまく説明できそうにない。

いきなり息が苦しくなる。こうなるともはや強迫的な病性を帯び始める。

「貴方は一体何しに来たの?」 聞かれたらどうしよう。

将棋好きなひとと話すのが好きです! だれがそんなことを信じるだろう。
ぼくのような臆病者には、将棋コミュという川のへだたりはなかなかに越え難い。

コンビニが込み合っているときに「あんまん」を買う時の緊張に似ている。
のろのろとあんまんを取り出す店員。
タイミング悪く温まってしまうぼくの前のお客さんの弁当。
時計を確認しはじめる背後の人たち。

自分以外の人と、自分。

世界ぜんぶがただそれだけの二元論になってしまう。
まわりが将棋の話題をしているなかで、ぼくはあんまんを食べるのだ。
みんなは「指し筋は」とか「さっきの手は」「長考ですね……」とか喋ってる。
ひとりで「これはゴマの香りですね」とか「甘みのレヴェルは」とか格好つけて言ってみたところでどうにもならない。
世の中には110円で買える孤独もある。
安すぎるぞ! 孤独!

それでもそこに「なにか楽しそうなもの」があるのはわかるのだ。
将棋漫画を読んで、将棋のおもしろニュースを見て、カツラが宙を舞うのを笑い、パンチパーマが盤をねめつける視線に驚嘆する。
それは「なにか面白そうなもの」の感覚を起点にうまれているのだ。
誰もがみな「面白そうなものがある場所」を盛り上げようと頑張っている。
いろんな人にいろんな形で発信している将棋文化……それでもやっぱりおいしいのは具の部分なのかもしれない。
将棋の王様は大抵はなんでもできる。上にも下にも左にも右にも行ける。
八方美人な彼はいろんな分野の人間を魅了しつつも、その本質を探らせない。


将棋の王様のなかにはゴマ風味のあつあつアンコが詰まっている。


羨望は肺よりふかくポリ袋をごらんよあれがキミの翼だ(浮島)



6.「駒とおむすびとペンギンをつかってニコニコ動画の自転車動画みたいなのをやってみよう」

世の中には斜め上を行く人がいる。
角道を行くのだ。
逆に斜め下を行く人もいる。
それも角道だが、それは思いがけない逃げ道を己に与える人だ。

編集長がある日ぼくにこう尋ねたことがある。

「駒とおむすびと……えっこれ将棋なの?」

将棋なんだ。ぼくのなかでは「これだけわけがわからないもの」が将棋なんだ。
でも「将棋とおむすびと駒の擬人化ってなんか面白いなー」って思っちゃったんだから仕方ない。
ぼくは将棋が苦手だが、将棋の駒は好きなのだ。

角とはなにか。
それは斜めの存在だ。
おむすびにだって斜めはある。
おむすび自体が料理なのに、おむすびを料理することもある。
それは焼きおむすびだ。

味付けは味噌がよろしい。
おろししょうがを少しあえて、小ぶりに握った飯の表面にこすって……焼く。

自宅で調理する際はトースターで十分だろう。
まずは握っただけの白いおむすびを3分ほど焼いて乾かす。
味噌は焦げやすい。飯よりもはやく焦げるからだ。
乾いてから味噌をひょうめんに塗り、トースターで恐る恐る焼いていく。

のんびりのんびり、小まめにひっくり返しながら焼く。
すると味噌の乾くいい匂いがたちのぼってくる。
あともう少しの辛抱だ。
飯の表面が狐色に色づくまでじっくりと焼く。

できあがったら熱い煎茶とともに食う。
おむすびは「いただく」というより「食う」ものなんじゃないだろうか。

そしてここで焼かれた味噌はとてもとても香味豊かなものだ。

常々思うのだが、将棋を楽しむための料理があってもいいと思う。
サンドイッチ伯爵はサンドイッチという名料理を発明したが、将棋にはそれに類するものがおそらくないのではないだろうか。
鍋は差し向かいで食うのがオツだ。
将棋も差し向かいで一局やるのもオツなんじゃないか?

自分たちの好きな駒になぞらえて、いろんなおむすびを作る。
焼きおむすびを作るみたいにのんびり構えてもいいんじゃないだろうか。

そんな対局だったら、ぼくにも楽しめるのかもしれない。
角は思いがけない発想の駒だ。


年の瀬は吐く息ばかりつめたくて炭酸水におぼれ死ぬペンギン(浮島 題詠:ペンギン)

喚けよ 《これは宝石だ》って手のシトロン水を空へまく女(浮島 象徴詠:角)




 手首の力が半端ない角ちゃん



次回予告

あらゆる賞を独走する最強のお嬢様がついに本誌に登場!



「うー……なんだかたまーにイヂワルなんだよね」(PN ボク、佐藤紳哉六段を応援してるよ!! さんより)
元気に走り回るボクっ娘をイヂメルお嬢様ランキング 第一位!!

「か、かけっこだったら負けないのにっ!!」(PN 飛び出すなアタシは急にとまれない さんより)
だしぬけに背後から息を吹きかけてくるドSお嬢様賞 2年連続受賞!!

「……怒らせると……怖い……」(PN 漆黒の闇に堕とされし斜陽に生きる青鴉の慟哭 さんより)
中二病患者を精神的に追い詰めるお嬢様グランプリ 優勝!!!!

「……破廉恥ですッッッ!!!!」(PN Ag+ さんより)
艶やかで黄金のお嬢様は素敵に無敵ランキング 独占首位!!!!
というわけで次号は金おぜうさまです。

イラスト 若葉

どうぶつ化するポスト将棋

どうぶつ化するポスト将棋

清水らくは

 

 将棋が流行していると言ってもそれは「増加傾向にある」と言った意味で、やはり知らない人にとってはまだまだ未知のゲームのままである。たとえばメジャーなスポーツは、ニュースで結果が流れたりする。しかし将棋はボードゲームとしてはメジャーなほうだろうが、その結果が報じられることは滅多にない。また、たまたまテレビで将棋の対局を見かけたとしても、多くの人は「へー、将棋か」で終わってしまうだろう。ルールがわからなければ、ほとんどなにをしているかわからない。スポーツは、初めて見た人でもしばらくするとどういう競技かわかってくるものが大半なのである。

 その壁を乗り越えるため、ルール自体が異なる将棋が開発されてきた。マス目と駒を減らす、というのが主なものである。将棋の難しさは、その駒の多さにある。例えばRPGゲームで主人公パーティが最初から8種類のジョブによる20人だったとしたら、相当プレイヤーを選ぶだろう。どのような戦術をとればいいかを考える前に、ジョブの特性を覚える段階で面倒になってしまうかもしれない。そこで序盤では選べるジョブとパーティの人数を減らし、プレイヤーをゲームに慣らしていくのが優しいゲーム製作者側のとる手段である。

 さらに将棋は、見た目の固さというハンデもある。木の駒に漢字、これは厳かですらある。かっこいい、と感じることもあるのだが、世の中かわいいの方が流行る時代である。そこで見た目をかわいくしよう、という動きもある。動物をモチーフにしたものが最も流行しており、動物の駒の方に慣れているという人も増えたのではないか。また、ネット上で対戦できるソフトでも、相手が動物のキャラクターであるものが有名である。弱めに設定してあるそのソフトは、対局中の様子もやはり動物的である。動物を相手にすることにより、人間同士で行う時のような緊張感から解放されるという効果が考えられる。

 複雑で奥が深い将棋を、あえて簡単に、見た目もかわいいものにしていくのは言うならば「将棋の動物化」ではないか。ここではあえて「どうぶつ化」とした方がニュアンスが伝わりやすいか。どうぶつ化されることにより多くの人が接するようになり、何割かの人はそこから「人間的な」将棋に興味を持っていく。新たなルートを作ったいう意味で、どうぶつ化された将棋の果たしている意義は大きい。

 そして、どうぶつ化は別のところでも起こっている。ネット対戦である。こちらのどうぶつ化は、見た目ではなくゲーム性そのもののどうぶつ化と言える。

 将棋には様々な要素があり、例えば駒を箱から取り出し、並べていく中にも作法があったりする。どちらが王将で玉将か、駒をどちらが振るかも対局前の大事な作業である。しかし、ネット対局にはそれが無い。対局相手が決まると、駒は並べ終わっており、先後も決まっている。チャット欄であいさつを交わすことなどができるが、それもボタン一つで「よろしくお願いします」「ありがとうございました」が入力されたりと随分簡略化されている。

 ネット対戦に慣れることにより、将棋が本来持っていたゲームのルールに含まれない部分が失われた、と考えることもできる。いわばわれわれが将棋に対して抱く美的な部分が、ネット対戦では喪失されていても問題とされないのである。この美的な部分こそが人間的である、とは言えないか。高等な知能を持つ動物でもロボットでも、美的部分をこなすことはできるかもしれない。しかしそれは美的であるが故ではない。あくまでそれすらルールとしてインプットされた場合においてのみ、美しい部分は実践される。

 ネット対戦と対面の対戦は、ルールが同じでありながら別の行為がなされるものとなっている。そこでは駒の置き方や駒音も均一化され、相手の顔も見られない。対面ならば勝負に影響するような要素の多くが省かれており、二つはもはや別のゲームと言えるほどである。

 そしてさらに、将棋の本質にまで切り込む形式で登場したのが将棋ウォーズ(ホームページはこちら)である。スマートフォンなどで遊べるこのアプリは、挨拶機能など全くなし、対戦相手は自動で決まり、さらには見知らぬおじさんに合図され10分切れ負け将棋が突然始まる。対戦相手の中にはソフトも混じっており、中にはひたすら玉が突進してくる不穏なロボットもいる。そして何よりすごいのは、「棋神降臨」と称して合法的に五手の間ソフト指しができるのだ。

 既存の将棋を知っている者にとって、様々な衝撃が含まれているこのアプリ、ネット上の反応はかなり良いと感じている。礼儀も何もあったものではないが、「そういうもの」として人々は楽しんでいる。そして戦法や囲いのカードを集める、その日の対局結果が順位として表示されるなど、新しい要素が中毒症状を誘引してやまないのだ。

 将棋ウォーズは将棋の人間的な部分をあっさりと切り捨て、どんどんと別の要素を付加してきた。特に新しく導入された3分切れ負けの弾丸ルールは、勝敗のあり方すらも変化させてしまうものだった。対局の多くは時間切れで決まるため、「局面の有利さは有利さの一つでしかない」状況になっている。終盤になりお互いの持ち時間が少なくなってくると、これまでの将棋では考えたこともなかったようなことが重要になってくる。例えば自玉が必至で時間は自分の方が余っている場合、「相手にかけられる王手の数+自玉が詰まされる手数」を瞬時に判断し、相手を時間切れに追い込む試みが始まる。単純に詰まされるまでの時間稼ぎではいけない。たとえば「現状五手詰みだが飛車を渡せば一手詰み」のような場合、相手に飛車を渡す王手は損になる場合がある。その飛車で受けることにより「必至だが詰みの手数が長くなる」場合、そちらが正解かもしれないのだ。ただし、考え過ぎると自分の時間が減ってしまう。「限られた時間の中で、お互いが手抜けない手数について計算する」という、おそらくプロがほとんど考えない領域に私たちは投げ込まれているのである。

 そこにさらにトライルールが採用された。これは、「自玉が相手玉の最初居た場所に行けば勝ち」というもので、持将棋などのトラブルを避けるためのルールである。慣れていないため、温泉気分でいたところ玉単騎で突進されて負け、ということを私は何度か経験した。さらに棋神を使用したところ自玉の難しい詰みを読んだために受けてしまい、トライの方は防ごうとせずに負けたこともある。実際の詰み、時間、トライ、(さらには通信切れ)これらいくつもの要素が勝負を決めるという、「将棋を全く異なるものにした」のが将棋ウォーズなのだ。

 一面では、新しい形に進化させた、より人間の英知が練り込まれたとみることもできるだろう。しかし他方、将棋そのものは最低限のルールだけが採用され、将棋以外のものを付加していったのであって、将棋そのものはどうぶつ化している、と見ることもできる。また付加され要素により、戦法や囲いのカードを集めるために勝敗は二の次にさせる、勝率や順位を気にするあまり対局がやめられなくなる、といった「人間らしい理性を喪失させる」ような現象も見られる。

 私たちは、将棋に対して様々なものを求めている。礼儀作法や精神力が鍛えられると言った効果を求め、逆にそれらが備わっていないと将棋に向いていないと判定されたりする。しかし、実はそれは将棋そのものではなく、「将棋道」について語っているのではないか。高校球児の多くが坊主頭であるのに、プロ野球選手も草野球をする人もほとんどそうではないということがある。高校球児たちは、野球とは別に、野球道も受け入れ坊主にしている。それは彼らが自主的に選んでいるのだ。しかし野球を楽しむのに野球道を経由する必要はない。将棋も似たようなところがあるが、参加者が気付かずに将棋道に参加している、という特徴がある。私たちはこれまで、将棋と将棋道を無意識のうちに近づけすぎていたのではないだろうか。それがどうぶつ化により、将棋本来の楽しみ方が「再発見」されたのではないか。

 将棋道を学ぶことで得られるものは多い。しかし、将棋道が弾き出すもの、拒むものの影響も大きい。将棋ウォーズなどの登場により将棋と将棋道は分離し、将棋には様々な新しい装いを加えられることがわかった。いや、私たちはそのことを以前から知っていたはずだ。はさみ将棋やまわり将棋から駒に触れてもらったり、王手将棋やトランプ将棋といった変則将棋で楽しむことがある。しかしどこかで、将棋道をたっとび、そこにゴールを定めていたのではないか。アマチュアからプロへと延びる一直線の道の上にこそ将棋の本質はあり、そこから外れることは邪道であるというような、そんな意識はなかったか。

 将棋は今やただ観ることを楽しむ人も増え、必然的に変革の時を迎えている。道としての将棋も、当然美しく尊いものである。しかし将棋の楽しみ方は多様であってよいのだ。ひたすら勝ちを目指すのも、将棋の楽しみ方としては間違っていない。ただし知らない他者と対面するときは、当然守るべき礼儀が発生し、お互いが気持ちよく時間が過ごせるよう努力する必要がある。どうぶつ化された新しい将棋は、ネット空間の中に治外法権を築いた。礼儀が必要とされない代わり、悪意ある無礼な行為をする隙もない。そのような中で、私たちは存分に個人的な目標を追い求めることが許されるのである。

 私たちはどうしても、新しいものの出現に戸惑い、それを認めた後も「本流に役立てるにはどうしたらいいか」を考えてしまう。将棋ウォーズなどで将棋に興味を持った人々を、われわれが慣れ親しんだ本将棋に導くには、と思ってしまうのだ。もちろんそのことも大事だが、新しいものは新しいもの独自の可能性がある、ということも知るべきである。例えばネット上で「弾丸ルールタイトル戦」などができれば、それまでアマチュア大会に興味がなかった人も参加してみるのではないか。また、普通の大会では活躍できない人も、弾丸ルールの大会では勝ちまくってタイトルに手が届くかもしれない。「切れ勝ちの達人」「トライ王」が生まれることだってあるだろう。新しくできた幹が、ぐんぐんと枝葉を伸ばしていくことも大事なのである。

 今後将棋が広く一般に受け入れられていくためには、様々な可能性が模索されなければならないだろう。その中でどうぶつ化された新しい将棋のあり方は、大きなヒントを与えてくれている。人間らしく美しい、格調高い将棋道も必要だが、私たちは時に人間らしさから解放されてもいいのだ。そしてそれを受け入れがたい感情もまた、新しい発見へとつながるだろう。私たちがより人間らしい将棋道を必要とするのならば、その本流をどう守り広めていくかに悩まなければならない。枝葉の茂みに嫉妬せず、幹が幹としての自負を持つのならば、ゆっくりとでも元々の将棋も太く長く繁栄していくだろう。最もいけないのは、過剰に枝葉から栄養を奪い取ろうとすることである。葉が落ち枝が枯れれば、どれだけ立派な幹も成長することができない。

 偶然か必然か、ポスト将棋とも言うべきゲームは非常に成功している。また将棋の楽しみ方自体も非常に多様化している。将棋界の未来は、明るくなる確率がとても高いと思うのである。



Special Thanks みなみん@将棋ウォーズ(@warsminamin)様


作者紹介

清水らくは

詩人・倫理学者。短歌も少々。2011年『詩と思想』読者投欄稿年間最優秀作。最近ちょくちょく詩人としての仕事もあるのですが、締切が決められると焦ることがわかりました。焦ったわりに一か月前に仕上げ、封筒に入れたまま一週間ほど寝かせるという謎行為をしています。

浮島

コラムというよりブログ文章になってしまいました。頭の悪い文章になってます。
「ねえスナフキン、文才ってなんだい?」
「きみがもっていないものだよ」
それと最近、名前を変えました。浮島です。
相変わらず好き勝手に短歌や詩やらで遊んでます。
おまえも蝋人形にしてやろうか

まるぺけ

今回も表紙とイラスト担当のまるぺけです。表紙遠景のもとみちゃんがギャグ調なのは手抜きじゃないよ。ないったら。月萌さんについては、今回色んなキャラクターを描けて満足しております。懸くんを描いたので次回は表紙に辻村くんを登場させなければと燃えております…!

贅楽夢

子どもの頃、浜辺で「首をくくれ」という声を聴いたことがあります。「くくる」という言葉の意味が判らず、ただぼーっとしていると通りすがりの女の子に声をかけられて、そこでハッと我にかえったのですが、私はその時すでに海に入り込んでしまっていて波は胸の高さにまで届いていました。そう言えば、膝小僧に白い布切れが絡み付いていた記憶もあります。
あの子は今どうしているのでしょう?Facebookで「異業種交流会で人脈を広げ新たなイノベーションを創出しよう」とか言ってる意識の高い人になってたりするんでしょうか?……刻の流れは美しく、そして残酷なものですね。ということで「ツクモさん」続編でした。執筆に際してご支援いただいた多くの皆様にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。

ジェームズ・千駄ヶ谷

前作『Life is lovely』の続編を書かせていただきました。ジェームズです。
最近、猫を飼いたくて仕方ありません。実現する予定は全く無いのですが、詳細については既に固まっていて、メインクーンという長毛種の猫にするつもりです。それも、なるべく巨大化するヤツに。ところで、成長してデカくなる猫を選ぶポイントは手足の大きさらしいのですが、どうやって見極めたら良いのでしょう?子猫の手足について気になって仕方ない今日この頃です。

會場健大

詰将棋作家見習い。将棋世界誌に入選3回(うち月間優秀作1回)、詰将棋パラダイス誌に入選10回。第六回Tsumeshogi Theme Tourney課題Aにて優秀作。詰将棋解答選手権初級戦2010、2012全国一位。同一般戦2012全国12位。2013年1月より詰将棋パラダイス誌のコーナー「詰将棋デパート」担当。

皐倫藍那

(…きこえますか…今…あなたの…心に…直接…呼びかけています…前回「チェ的」が休載されました。今後の存続も危ぶまれています。…ぶっちゃけ一人でチェスの記事を書くのはツライです。貧乏もツライのですがそっちは慣れました。あなたは…お風呂に入っている…場合では…ありません…いいですか…原稿です…駒zoneの原稿を書くのです…)
という月子さんの声が聴こえた気がしたので寄稿してしまいました。少しでもチェスの楽しさを知ってもらえたら嬉しいなぁ……と思いながら書いたのですが、方向性を色々と間違えていたかもしれません。
さて、今回の問題は19世紀のチェスプレイヤー、サーベドラが実戦の一変化として紹介したものが元ネタとなっているのですが、如何でしたでしょうか。月子さん、解けましたか? ていうか考えてみましたか?

ふりごま

「道場編」「大会編」に続いて「ネット編」を書きました。
この3部作をもって、このシリーズは完結です。
ぽふぽふというキャラを活かしきれていない点は反省材料として心にしまっておきます。
ご愛読、ありがとうございました!

若葉

趣味に走りました。




編集後記

 皆様お久しぶりです、編集長の清水らくはです。
 今号も多くの方にご参加いただけて大変うれしいです。
 始めた頃は私と浮島さんでどうやってコンテンツを増やすか相談していたものですが、今ではいただいたものだけで何万字にもなるので、自分たちの作品が埋もれてしまわないか心配するほどになりました。
 ただ、これだけのものを無料で公開することには、やはり苦悩もあります。良質な作品には対価が支払われる、そのような認識を維持することは創作に関わるものの使命でもあると感じるからです。
 フリー雑誌を入り口として文芸に興味を持った方が、売っている作品を買うようになる、今のところそうなれば一番幸せかな、と思っています。皆様、アマチュアの作ったものであっても、いいと思うものがあれば買ってあげてください!

 ……とここまで書いてしまうと手前味噌になってしまいますが、今年はいろいろと「売ってみよう」と思っています。そのうちの一つが、『紙の駒.zone』製作です。電子書籍は大変便利なのですが、やはり紙の本にも独自の魅力があります。また、物としての本を売買することを通して、人と人が交流するというのも大事だと思います。
 というわけで、今年4月14日大阪で催される「第十六回文学フリマ」で本を出したいと思っています。
 この本はナンバーに含まれない特別号で、三月初旬を締切に皆さまから原稿を募集したいと思います。「駒損」をテーマとした作品で、字数は4000字まで。小説・詩・短歌・エッセイなど、何でもOKです。興味のある方は是非一度ご連絡ください。
 次号の『駒.zone vol.7』は七月ごろ発表を目指します。こちらはテーマ・文字数ともに自由です。引き続き、電子版にもご寄稿よろしくお願いいたします。

 他にもいろいろと挑戦していく年にしようと思っています。皆様、今後ともよろしくお願いいたします!



駒.zone編集部
編集長 清水らくは @rakuha
広報 金本月子 @tsukiko_sann
営業 皆川許心 @MinagawaMotomi

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