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七割未満(六)

   七割未満(六)

清水らくは


 ジャガジャーン、というギターの音。アンコール三曲目、今度こそ最後の音だろう。

 拍手の中、手を振りながら帰っていく三人。汗だくだった。

「ねえ、どうだった? どうだった?」

 隣で沖原が目をキラキラさせている。それも当然、ライヴに誘ってきたのは沖原さんなのだ。

「良かったよ」

「でしょー」

  今日の沖原さんは変な英語の描かれた白いシャツに襟が豹柄の白いカーディガン、赤いチェック柄のサスペンダー付き赤と黒が折り重なるイレギュラーヘムのス カート、ドット柄のファー付きブーツという出で立ちだった。かなり過激な格好に見えたけど、会場に来てみたら溶け込んでいた。

 さきほどまで演奏していたのは、シカゴスプレーというスリーピースバンドだ。ギターボーカル・キーボード・ベースというあまり見たことのない構成だったけれど、三人のバランスが良くて、聴いていてとても心地よかった。

 ライブハウスを出ると、辺りは真っ暗、上空には丸っこい月が光っていた。

「遅くなったね。電車はどれ?」

「何言ってんの、だべるところまでがライブですよ」

「遅いと親心配しないの?」

「……しないよ」

 沖原さんは少しうつむいた。

「帰らない日もあるし」

「不良なんだ」

「そう。不良品」

 自分だって家族のもとへ帰るわけじゃない。これ以上この話はしないでおこうと思った。

「辻村はさ……棋士で決まりなんでしょ」

「何が」

「しょーらい」

「そりゃあ、ね」

「いいなー」

 沖原は喋りながらも、一直線にコトールコーヒーに向かっている。人の話を聞かないんじゃない、聞くことを省くタイプのようだ。

「みっちゃんは、意外としっかりしてるよね」

「意外とって」

「だって、いろいろと苦手そうなのに得意なもの見つけてるじゃん。私はわかんないからなー」

 店内に入った沖原は、何やら呪文のようなものを唱えている。注文するだけで疲れてしまうため、こういう店はできれば避けてきた。

「みっちゃんはどうするの?」

「あ……同じのを」

 出てきたのはソフトクリームの下にコーヒーが添えられているような飲み物だった。 いや、飲み物なのかこれ。

「あ、あそこ空いてる」

 奥の席へと駆けていく沖原。俺はプレートを持ってその後を追う。
「……辻……村?」

「あ、皆川さん」

 なんと、目の前に皆川さんがいた。今から出るところだったのだろう、バックを手にして席を立ったところだった。

「だれ、知り合い?」

 そして、空になったカップを捨てた後、こちらに向かってくる男性がいた。小顔で妙な形の淵なしメガネをかけている。

「あ、あの……弟弟子」

「へー……あ、見たことあるな。辻村……君?」

「はい。失礼ですが僕も見たことあるような気が……」

「ああ、俺は蔦原。囲碁棋士」

 そうだ、蔦原二段だ。雑誌の若手特集で見たような気がする。

「そうでしたか。改めまして、辻村充です」

「あれだ……高校生棋士なんだよね」

「でした。中退しました」

「あら」

 俺たちが話している間、皆川さんはそわそわしているように見えた。こちらを見たり、奥の方を覗いてみたり。

「あ、すみません。人を待たせてるんで」

「ああ、呼び止めてごめんね」

「皆川さんもまた」

「え……あ、うん。またね」

 店を出る二人。ひょっとして付き合ってるのかな。

「ごめんごめん」

「誰?」

「姉弟子……えーと、将棋の知り合いと、囲碁の人」

「ふうん。めっちゃにらまれた」

「え」

「彼女かと思っちゃった。綺麗だよね、あの人」

「まあね。化粧濃いけど」

「うん」

 沖原は、皆川さんが立っていた場所をずっと見ている。そんなに気になる感じだったろうか。

 俺はと言えば、この店の雰囲気に慣れない。だいたい知り合いにあってしまうような店は俺にとっていい店ではない。

「さ、復習よ」

「え」

「ライブの感想を話し合うの。とことん楽しまなきゃ」

「はあ」

 ライブにも感想戦があるとは知らなかった。しばらくこの店から逃れることはできなさそうだ。

 

 

 バトル・サンクチュアリ。

 この名前を聞いて、将棋の団体戦だとわかる人がいるだろうか。

 橘さんいわく、「12人参加だから思いついた」そうだが、まったく意味が分からない。

 とにかく、『将棋宇宙』企画の大会が決まり、俺は川崎さん、皆川さんと一緒に「関東若手チーム」として出場することになった。

「いやあ、それにしてもすごいなあ」

 目の前でうなっているのは若竹四段。関西若手チームの一人で、今日は対局で遠征してきていた。似合っているとは言えないツーブロックの髪を撫でながら、メンバー表を食い入るように見ている。

「たしかに、びっくりですねえ」

  俺らが驚いているのは、ベテランチームのメンバーだった。大将は赤松九段。二冠を獲ったこともある強豪である。現在もB級一組上位で昇級争いを繰り広げて いる。そして、副将、古溝八段。いわゆる「定家世代」の一人で、何度もタイトル戦に登場している。毎年高勝率で、若手の壁になっている存在である。早指しとはいえ、この二人がいる時点でベテランチームが優勝の大本命だろう。

 しかし最も驚いたのは、女性枠である。峰塚女流四冠。最強の人が出てきてしまった。絶対王者ともいえる存在であり、タイトルをほぼ独占しているため若手は対戦することすらできない。おそらくはそのことを踏まえて、橘さんが口説き落としたのだろう。

「水仙と女帝かあ」

 水仙とは関西若手チーム代表の上園水仙女流初段、女帝ととはもちろん峰塚さんのことだ。

「皆川さんもか……」

 やはり、実力差は相当ある。そしてもう一人はつっこちゃん。彼女は一度ネット対局で皆川さんには勝っている。プロ四段を目指す、ということは峰塚さんに軽くあしらわれるわけにはいかないだろう。

 チームとしては苦戦必至だが、外から見れば面白い対戦だともいえる。若手がどこまで女帝に通用するのか。

 まあ、その前に自分のことを考えないといけない。古溝八段とそこにいる若竹四段、そして奨励会チームの岩井三段と対戦することになる。三人とも初対局であり、今から棋譜を研究しないといけない。

「そういえばさ、金本さんって一緒に研究会してるんでしょ」

「はい」

「皆川さんは姉弟子で」

「そうですね」

「ややこしない?」

「え」

「こう、女の子はなんやかんやなときがあるやんか」

「なんやかんや……」

 皆川さんはともかく、つっこちゃんにはそういうややこしさはまったくない気がする。見た目や性格は本当に女の子らしいのだけれど、将棋に取り組む姿勢は完全に「四段」、もしくはその先をを目指したものだ。

 ……つまり、俺自身皆川さんがややこしいかもしれないことは否定できない。
「特に皆川さんは気が強そうやし」

「確かに」

「あれやで、メンタリティっちゅうのが大事やからね。団体戦は特に」

「そうですねぇ」

 そんな気がしてきた。もちろん俺と川崎さんが頑張ることも大事だが、どうすれば皆川さんが気持ちよく指せるか、というところが鍵となるだろう。

 しかし、改めて考えるとどうすればいいのかよくわからない。長い付き合いだけれど、皆川さんについてはよくわからない点も多いのだ。

「辻村君は女心についても要研究やな」

 若竹先輩も詳しいようには見えませんけどね、という言葉は飲みこんだ。上下関係については研究済みなのである。

 

 

 引力を感じた。

 いつも歩かない場所。何気なく通り過ぎようと思っていたのだけど、立ち止まってしまった。背中を引っ張られるようにして、振り返る。

 ガラス越しに、店の中が見えた。白と黒を基調にしたインテリアに、白と黒を基本とした服が陳列されている。色合いはとても地味なのに、目を惹かれるのはその形からだろうか。気が付くと俺はすでに、店の中に入っていた。

 この感じは何だろう……そうだ、先日聴いたギターだ。落ち着いた中にもエッジが利いていて、内側からロックが響いてくるような気がする。

 俺は、一着のピーコートを手にしていた。一列に並んだ飾りボタンが、果てしなくかっこいい。値段は……16万円。銀行から下ろせば、買える。

 店を出て、ATMを探して走った。運命の出会いを感じながら。

 

 

 いよいよ一回戦。関東若手チームは、奨励会チームとの対戦である。

 負けるわけにはいかないのだが、楽な戦いとも言えない。三段といえばプロと遜色ない力を持っているからだ。

 大将戦は、川崎対磯田。磯田三段は、新人戦でプロに何勝もしている。俺も三段リーグで負けたことがある。ちなみに名前が「瑠宇徒」と珍しいことから、将棋ファンからの認知度も高いようだ。

 副将戦は、辻村対岩井。岩井三段は14歳。若い。公式戦ではまだ自分より若い人と対局していないので、貴重な体験になりそうだ。

 女性枠は、皆川対金本。再戦である。前回はネット対局だったので、対面しての勝負は初めてということになる。

 ベテランチーム対関西若手チームの対局は別室ということになり、対局室には三つの盤が並べられた。いつもと大して変わらないのだけれど、これから団体戦をするんだ、という気分が高まってきた。

 のだが。

「大丈夫かなあ」

 川崎さんが心配そうに扉の方を見る。無言で控室を出て行った皆川さんは、すでに二十分ほど戻ってきていない。そういえば顔色があまり良くなかったし、挨拶の声も小さかった。体調が悪いのだろうか。

 奨励会員たちはすでに全員対局室に入っているようだ。雑誌に棋譜が載るということ自体が初めてということで、三段二人は相当気合が入っているようだ。つっこちゃんはいつも通りちょっとおどおどしていたけれど。

「辻村!」

 突如戻ってきた皆川さんは、なぜか俺の名を叫んだ。

「な、なに」

「あ、あのね、気にしてないし、気にしなくていいから!」

「え?」

「それだけ。さ、頑張ろ」

 一人で勝手に納得して、何やら頷いているいる皆川さん。川崎さんもぽかんとしている。

 とはいえ気にしている余裕もない。時間が近付いてきたので、三人で対局室へと向かう。

 部屋に入ると、対局相手、記録係、そして記者の上石さんがすでに準備万端で待ち構えていた。それぞれ一礼をして、上座に着く。

 団体戦は大将戦だけ振り駒を行う。川崎さんの歩がつまみあげられて、シャカシャカと混ぜられる。歩が二枚。俺は後手、皆川さんは先手だ。

 岩井三段はブレザー姿、中学校の制服だった。若さをアピールされているかのようだ。

「それでは、始めてください」

 よろしくお願いします、と皆が頭を下げる。岩井君は少し息を吸って、ゆっくりと吐きながら初手を指した。川崎さんのところを見ると既に四手進んでいた。皆川さんは目をつぶったまままだ駒に手を触れていなかった。

 俺のところは角換わりへ進んでいった。後手番の千日手狙い待機戦法で行く予定だったのだが、岩井君はすぐに気合よく仕掛けてくる。そうだった、彼は定跡を気にしないんだった。とらわれない、のとは少し違う。あんまり定跡を研究していないっぽいのだ。それでも若さは彼に抜群のひらめきを与える。無理っぽい仕掛けも、こちらが受け間違えれば破壊力のある攻めになる。

 ただ、とても落ち着いていた。強い人とだけでなく、級位者と研究会をしていたことが役立っている。大振りを避けるすべを学んだのだ。

 川崎さんのところは相振り飛車。普段指さない戦法だから、何か思うところがあってのことだろう。勝つのは当たり前、勝ち方が問題、ということかもしれない。

 皆川さんはゴキゲン中飛車、つっこちゃんは玉頭位取りで対抗していた。昔よく指されていた形だけど、今はめっきり見なくなった。相手に捌かれたら終わりの危険な指し方なのだ。でも、彼女らしいともいえる。つっこちゃんに最新形は似合わない。

 岩井君はどんどん攻めてくるけれど、どんどん苦しくなっていった。それは、かつての俺の姿でもあった。同年代では誰も受け止められない重いパンチも、プロにとっては普通のジャブなのだ。

 決め手は自陣飛車だった。何もさせない。

「……負けました……」

 一番早く終わった。内容自体は危なげなかったけれど、勝てるまではやはり緊張した。

「負けました」

 連鎖反応のように、磯田三段も頭を下げた。悪い局面をずっと粘っていたようだが、岩井君の投了に気持ちが切れたのかもしれない。

 チームの勝利は決まった。残るは女性枠。局面は、少し皆川さんがよさそうだった。馬を作られているものの、飛車交換に持ち込んで側面から攻めていけそうだ。玉頭戦に持ち込むのが居飛車側の狙いだが、飛車を渡した状態では反動もきつい。これは皆川さんやったか……と思ったのだが……

 つっこちゃんの目は、じっと自陣の右側をとらえていた。いったいそこに何があるというのか、俺にはよくわからなかった。そして細い腕が左側に伸びて、馬をつまんだ。右下へと引っ張られてくる馬。

 ▲3九馬。

 十秒ほど、凝視してしまった。一秒も考えなかった。今からまさに玉頭を攻めようとしていた馬。自玉の守りにも利いていた馬。それを、単騎遠い場所へと引っ込ませたのである。

 皆川さんも目を丸くしていた。予想していなかったのは明らかだ。

 そして、じっくりと考えてみると好手かもしれなかった。相手に飛車を打ちこませないようにし、自分はゆっくりと攻めていけばいい、そういう考え方なのだろう。いやでも、最善手だとは思えない。

 皆川さんも必死で手を作ろうとするけれど、相手に歩を渡すのは危険でもあった。龍は作れたものの駒を取れない。そしてついにつっこちゃんに攻めの番が回ってきた。攻め方もセンスがいいし、3九馬は遠くまで利き相手の逃げ道を塞いでもいた。

 全員が見守っていた。空気が、盤に吸い込まれていくようだった。

 皆川さんも頑張った。だから、美しく終局していった。

「負けました」

 下げた頭を、なかなか戻せないようだった。

 実力差があるのだ。そうとしか言いようがなかった。

 結果は2勝1敗、勝ち点2。優勝を目指すには苦しい出だしなのかもしれない。

 ただ、そんなことよりも。勝負の世界は厳しい、ということを実感していた。多分もう、皆川さんはつっこちゃんに勝てない。

 残酷な企画だ。けれどもこれを乗り越えたとき、皆川さんは何かを手に入れているかもしれない。

 ちなみに隣は2-1でベテランチームの勝ちだったらしい。若竹四段が古溝八段に一発入れ、残り二つはベテランが力を見せた、ということのようだ。やはり女流四冠の壁は厚かったようだ。

 次戦は、関西若手チームとの対戦。絶対に負けたくない相手だ。そして皆川さんの真価が問われる対局になるだろう。

 

 

「辻村……」

 ひどい顔をしていた。悲しそうなことはもちろんだけれど、髪はぼさぼさ、目元にはあざができていた。

「けがはないの?」

「してるかも。でも、ここまでは歩いてこれた」

 突然呼びされた。住宅地の公園で、彼女は待っていた。

「勘違いしないでよ、彼氏じゃないから。今は付き合ってないはずの人」

「そう」

「大事なところだから」

「女の子を殴るやつは関係なくくずだよ」

 少しだけ微笑んだものの、すぐに険しい顔に戻った。そういえば中学生の時、よくこんな顔をしていた気もする。

「なんでこうなっちゃうんだろうねー」

「わかってるんじゃない?」

「え」

「考えれば、わかるかもよ」

「そうかな」

 会わなければ、殴られない。簡単なことだけれど、きっと簡単ではない。俺には恋愛のややこしいことはよくわからないけど、やっぱり、殴るような男に近付く必要なんて一つも思い浮かばない。

「みっちゃんはさ……ちょっと謎だった」

「え、なんのこと」

「きっと頭いいはずなのに、成績はたいしたことなくて、でもなんか頑張ってる感じがしてさ、今から思えば将棋だったんだけど」

「まあ、そうかな」

「うらやましいって言うか、うん……いいなって思った」

「そんなことないよ」

「いや、いいよ」

 月は薄かった。星はいくつか見えるけれど、名前とかは知らない。沖原さんは、ブランコに腰を掛けた。遠い街灯の光が、片方の頬を照らす。

「あのさぁ……」

「なに」

「みっちゃんは、やっぱりいろいろ勉強しなきゃいけないことあるわ」

「よくわかんない」

「いいよ。来てくれてすっごい嬉しいから」

 東京の夜は、思ったよりも暗いのだ。空が狭いからだろうか。

 俺もブランコに座った。何か見たことがある光景だと思っていたのだけれど、それは、カーテンを付ける前の俺の部屋だった。何かが怖くて、何かを得たくて、カーテンを付けなかった。

 沖原さんのことをゆっくり知っていこう。そう思った。

 

 

 マンションの玄関前に、人影が見えた。怪しい。だがそう思ったのも一瞬で、その背格好から、そのたたずまいから誰だかわかって腰を抜かしそうになった。定家五冠だ。

 定家さんは俺を見つけると、にやり、と笑った。怖い笑みだ。

「辻村君、遅いじゃないか」

「定家さん、なんでこんなところに……」

「もちろん君を待っていたんですよ」

「僕を?」

「見させてもらったよ。君たちの棋譜を」

「え、それって……」

「とりあえず、家に入れてくれると嬉しいんだけど」

「え、は、はい……」

 オートロックにナンバーを入力して、将棋界の宝を俺の住むマンションへと招き入れる。どうやってここを知ったのか気になるところだったが、定家さんが知りたいと言えば誰だって教えてしまうだろう。

「いいマンションですね。一人で住んでるんですか」

「はい」

「まだ高校生でしたよね」

「やめました」

「そうですか。それもまたいい。辻村君は学校に行くよりもいろいろな人と会う方が勉強になるタイプだと思いますよ。私はね、学校が楽しかった。当時将棋はあまり好きではなくてね。でもあなたは将棋が好きそうだし、行かなくてもいいでしょう。ちなみに昔川西さんという先輩がいたんだけど、学校に行くふりをして麻雀ばかりやっていたということで、先輩たちは武勇伝として語るんだけどそれで成績が上がったわけでもなく……」

 ちーん。

「この階です」

「ほう」

 定家さんは放っておくといつまでも喋り続けるので有名だった。誰かがギネスにも載るんじゃないかと言っていた。

「ここです。そこそこきれいにはしてありますのでどうぞ」

「まあ、君はそうでしょうねえ」

 とはいえ、五冠を迎え入れるにふさわしい部屋なわけがない。とりあえず座椅子を引っ張り出し、腰掛けてもらった。

「ふうん」

「あの、お茶を入れますから……」

「いいですよ、私はお茶は飲まないので。コーヒーも牛乳も飲みませんよ」

 そういえば定家さんは対局の時、外国のミネラルウォーターを大量に持参することで有名だった。そしてそんなものはわが家にあるはずもない。

「そんなに長居はしません。君にアドバイスを与えに来ただけですから」

「アドバイス?」

 定家さんは俺に座るようにと合図したので、対面して腰掛けることになった。対局もしたことがないのにこのような状況になるとは。

「バトル・サンクチュアリ、君たちはまだあの企画の恐ろしさをわかっていないようなのでね。団体戦というのは、自分が勝ってもチームが負けることがある。自分が負けてもチームが勝って喜んでいることがある。自分の力ではどうしようもないところで勝負が動いていくというのは、恐怖じゃないですか」

「それは……」

「君達はただ対局に没頭しているつもりかもしれませんが、世間は団体の結果にも注目する。このままいけば皆川さんは勝てないでしょう。それが原因で優勝できなかったら……彼女本人だけでない、あなたと川崎君も傷を負うことになる」

 言っていることは、まあ、そうなのかもしれない。ただ根本的に、なぜわざわざそんなことを言いに来たのかがわからない。

「それを伝えて……僕に、何を望んでいるんですか」

「つまらないじゃないですか、こんなところで若手がつまずいたら。君と川崎君は、いずれ私に挑戦できる器だ。でもここで余計な傷がつけば、それが五年遅れるかもしれない。少なくとも名人挑戦は、五年遅れるでしょうね」

「なんでそんなことが」

「いいかな、順位戦で二年に一回ずつ昇級する人がいますか? 多くの人は一気に駆け上がっていく。一度つまずくと何年も足踏みする。勝率六割を超えている若手が一度も昇級しないままベテランになっていく時代です。彼らは一流になれる実力があった。それなのにいろんなことがきっかけで取り残されてしまった。そういうのは、あんまり見たくないんですよ」

 目つきがあまりにも鋭かったので、俺はまるで射止められた獲物のように身動きが取れなくなった。

「いいですか、私は中学の時、全国大会に出れなかった。エリートとは縁遠かった。でも、その後は全てのチャンスをつかんだんです。君たちはエリートとして出発できたのに、多くのチャンスを逃して、一流になる途上で迷っているように見えます。私は同世代とやるのは飽きてきたんですが、待っても待っても誰もやってこない。だから特別に、アドバイスしに来たんですよ」

 そこまで話すと名人は立ち上がった。

「あとはあなた次第です。では……五年以内にタイトル戦で会えるのを待っていますよ」

 そのまま定家さんは帰ってしまった。残された俺は、しばらく金縛りにあったままだった。


バトル・サンクチュアリ一回戦

   少女の追い越すスピード ――バトル・サンクチュアリ・一回戦――
上石三郎

 棋士たちによる団体戦、バトル・サンクチュアリが開幕した。

 大ベテランから奨励会員まで、十二人のプロが今まで誰も経験したことのない聖域(サンクチュアリ)で戦う、というのがこの企画の売り文句である。

 そのあたりは『将棋宇宙』で触れられていると思うので、『駒.zone』では注目の一局を中心に一回戦の結果を確認していきたい。

ベテランチーム2勝(2点) - 1勝(1点)関西若手チーム

赤松九段○-●新井五段
古溝八段●-○若竹四段
峰塚女流四冠○-●上園女流初段 

 事実上の決勝戦とも言われたこの対戦は、ベテランが底力を見せた。

 大将戦では赤松九段が終始新井五段を圧倒した。早指しでも力の差を見せつけたことになる。新井五段は目立つ活躍が多いもののムラがあり、勝率が伴わないことから「打点王」というありがたいのかどうかよくわからないあだ名を付けられている。今回は打点も挙げられなかった。やはり常に一定以上の力を出せる安定感が必要となるだろう。

 副将戦では若竹四段が意地を見せた。難しい局面が続いたが、きっちりと古溝玉を寄せきった。実績はそれほどでもないが、実力はずば抜けているとの噂であり、若竹四段の今後に期待である。また、古溝八段としては負け越すわけにはいかず、残り二戦は非常に緊張したものとなるに違いない。

 女性枠は、峰塚女流四冠の強さばかりが目立った。局面的には上園女流初段が食いついていた場面もあった。しかし、常に四冠が冷静に対処し、最後は相手が自爆するのを見るばかりだった。上園さんは期待されている若手だが、今回ばかりは悔しさにまみれたことだろう。それを味わえるだけでも、この企画はいいものだったと言える。

 こうしてベテランチームが勝ち点2、関西若手チームが勝ち点1となった。参照すれば勝ち点5なので、一気に逆転が可能であり、まだまだ今後どうなるかわからない。


関東若手チーム2勝(2点) - 1勝(1点)奨励会チーム

川崎五段○-●磯田三段
辻村四段○-●岩井三段
皆川上流1級●-○金本3級

 今回最も注目されたのが、奨励会チームではないだろうか。プロ相手にどこまで力が通用するのか。特に三段陣は、四段以上の力がありながら上がれない者が出ざるを得ない、と言われている。その真偽を図る意味でも画期的な対戦であったと言える。
 
 大将戦は、川崎五段が丁寧な指し回しを続けた。磯田三段も鋭い手を放ったものの届かず。力の差がはっきりと出ていた将棋だった。将来タイトル挑戦も期待されているだけに、川崎五段はこんなところで負けるわけにはいかなかっただろう。

 副将戦、辻村四段は序盤からリードを保った。目立つ将棋ではないが、常にきっちり読んでいるのがわかる。対する岩井三段は最年少三段で才能は誰もが認めるところだが、まだ粗さがあるように見受けられる。辻村四段に軽くいなされているように見えたが、これでは天才と呼ぶのはまだ早そうだ。

 さて、今回は女性枠、皆川女流一級と金本3級の将棋に特に注目してみたい。

 二人はネット棋戦の竹籠杯で対戦経験がある。その時は金本3級が勝ったが、その後皆川さんの成長も目を見張るものがあるとの評判だった。関東の若手女流棋士には他にも活躍する者も多かったが、将来への期待を込めての選出だったと思う。それに対し金本さんは関東奨励会所属唯一の女性であり、また経歴が謎のベールに包まれている。アマチュア大会には一切出場したことがなく、将棋関係者が全く知らない中入会。最新定跡に詳しい若手の中で、古典的な将棋を好んで指している。

 また、皆川さんは辻村四段の姉弟子であり、辻村四段と金本さんは研究会仲間である。辻村四段は二人を共によく知る関係性であり、本局のキーマンであったとも言えるのではないか。

 将棋は皆川さんのゴキゲン中飛車に、金本さんの玉頭位取りという戦型になった。ゴキゲンが流行り始めた頃によく見られた形であり、金本さんらしい戦型選択と言える。皆川さんの方は慣れない形に少し面食らったのだろうか、序盤から小刻みに時間を使っていた。

 馬を作られ少し抑え込まれ気味だった皆川さんだが、飛車交換に持ち込み勝負形になったかと思ったのが図1。


  後手からは次に飛車を打ちこみ桂香を拾う手や、角をぶつける手がある。うまくさばいたかと思ったが、次の手がハイライトだった。図1の局面から金本さんが指したのは▲3九馬。(図2)

  
  なんと玉頭と敵陣右辺をにらんでいた馬を、自陣深くまで引き上げたのである。指されてみるとなるほどという手で、これで後手からの飛車打ちを消している。それでも先手が特に有利になったという局面ではないが、皆川さんは方針を決めなければならず、かなり迷わされたことだろう。歩を使って打開を図るが、渡した歩は玉頭攻めに逆用されることとなった。

 図2のような陣形は、研究の果てには現れないだろう。女性初の正会員という期待とともに、将来もっと上で活躍できるだけの才能を金本さんは持っているかもしれない。

 他方皆川さんは金本さんに連敗となってしまった。このまま差を付けられては、女流棋界で活躍することにも支障が出るだろう。次戦は峰塚女流四冠と。勝つつもりで挑んでほしい。


 一回戦を終え、ベテランチーム・関東若手チームが2点、関西若手チーム・奨励会チームが1点となった。どのチームが3勝して5点をもぎ取るか、それが次戦以降の見どころである。


フォーチューンテラー・奈々

~チェックメイト・ミステリー(?)~

    フォーチューンテラー・奈々

                 「避暑地でチェックメイト」の巻

                             皐倫藍那(Sawatomo Aina)

1.奈々、チェスの問題を出題される

 

「では、チェスなど如何でしょう?」

 退屈だ……何かないのか?という黒麹町財閥令嬢・奈々の問いに、執事の逢坂航はそう答えた。

 ここはN県にある避暑地に建てられたやたらと無駄に豪華な別荘で、幼少の頃から現代医学では治療不可能と医者から見放された、ちょっと他人には言えないかなり意味不明な奇病を抱えている奈々は、季節を問わずよく静養に来るのだった。

 8月初旬。今年中学生になったばかりの彼女の通う関東地方のとあるお嬢様学校は夏休みに入っている。とは言え、小学校の頃から学校を休みがちな奈々にとっては、今が夏休みかどうか等あまり関係がない。

「チェス?……とはまた地味なものを持ちだしてきたものだな」

 食堂で3時のおやつを食しながら、お嬢様はそう言った。

「そうでもありません。中々奥が深いですし頭脳スポーツとして世界中で人気です。お嬢様のような知的で瑞々しい女子中学生にピッタリのゲームかと」

 ”瑞々しい女子中学生”の辺りで逢坂の口の端から二股に割れた細長い舌がチロチロ覗いたような気配がして奈々は一瞬背中に寒気が走り、思わず執事を蹴り倒そうかという衝動に駆られたが、「淑女の品格……淑女の品格……」とブツブツ呟くことで何とか自重した。”蹴り倒そう”等という発想をしている時点で既に淑女失格ではあるのだが。

 それはともかく、奈々は「チェス」の方に興味をそそられていた。実は小学5年生の時に父から手ほどきを受けて、しばらく凝っていたことがあるのだ。体調が悪化する等して、一年以上チェスからは離れているが、父がいつも「奈々はスジがいい。天才かもしれない!天才美少女チェスプレイヤーかもしれない!」という感じに過剰に誉めてくれていたことを今でも覚えている。奈々の父は「誉めまくって育てる」主義なのだった。でもアレはいくらなんでも誉めすぎだろう。

「宜しければ私がお相手しましょうか?」

「いや……ちょ、ちょっと待て」

 目付きが怪しい。瞳と書いてサディスティックと読む、というぐらいに視線が冷たい。コイツさては腕前に自信があるな?ボクをぼっこぼこにする気じゃ……。

 何しろチェスを中断して一年以上が経過しており、ルールは憶えていても実戦のコツなど忘れてしまっている。奈々は改めて執事の様子を伺った。長身でスマートな体型。銀縁片眼鏡の奥に光る瞳は知性に溢れている。というかドSに見える。年齢は30代半ばだったと記憶している。妙に落ち着いた雰囲気の執事を見ていると、奈々はとても勝てる気がしないのだった。

 実際、逢坂はかなりの腕前でネットのチェス対局サイトのレーティングは軽く2000を超えている。いくら筋がいいとは言っても、まだまだ初心の域を出ていない奈々が勝てる道理がないのだが、財閥令嬢だけあって、使用人に負けてなるものかというしょうもないプライドがあるのだった。

「なるほど。ブランクが空きすぎたので、いきなりの実戦はキツイということですか……お嬢様も意外とヘタレですね。ではウォーミングアップを兼ねて、私からエンドゲームの問題をお出ししましょう」

「エンドゲームの問題?」

 ”ヘタレ”という単語が聴こえたが、それはきっとチェス用語の一種に違いないと思い込むことにして奈々は尋ねた。

「えぇ、まぁチェスのルールを用いて行う、終盤……特にキングをメイトする直前の局面を扱った問題です。一種のパズルと思っていただければ」

「ふむ……良い頭の体操になりそうだな」

「えぇ、お嬢様の頭も少しは良くなるかもしれません」

「……何だと?」

「失礼、口が滑りました。お嬢様の肌のあまりの美しさに涎が出てしまって舌が滑って……」

「全っ然フォローになってないし、気持ち悪いわボケ!」

 奈々に蹴り飛ばされた逢坂は、何故か嬉しそうな表情をしながら部屋を出ていき、しばらくして真鍮製のチェスセットを持ってきた。

 執事はそれをテーブルの上に置き、それからチェスピースを並べた。

「こちらです。お嬢様、白番を持って勝ちに導いてください。ルールを知ってさえいれば、サルでも解ける問題です」

 こいつ、いちいちカンに触る奴だなぁ……と思いながら奈々が盤上に目をやると、そこにはこんな局面が出来上がっていた。

 

                               問題図

POSITION

白:Kc2 Pc7

黒:Ka1 Rd4



 

 

「逢坂」

「何でしょう?お嬢様」

「……ふっ、国際大会に出場した経験もある父上から直々に手ほどきを受けたこのボクをナメてもらっては困るな」

「お嬢様、私はまだお嬢様のおみ足を舐めたことはございませんが」

「誰が足の話をしとるかボケ!君なんかに舐めさせる足はないっつーの!」

「何ですと!?……だ、誰になら舐めさせるおつもりなのですか、お嬢様!!」

「そうじゃなくて!その話はおしまい!ボクのチェスの力を見くびるなって言ってんの!」

「あぁ何だチェスの話でしたか。失礼しました。……ではこの問題を一目で?」

「当然だ。この局面、いきなりのチェックメイトはなさそうだが、盤上に白ポーンが残っている。このポーンをクイーンにすれば、クイーン対ルークの戦力差になる。つまり!」

 奈々は白ポーンをつまみあげるとボードの脇に置き、代わりに白クイーンをつまみあげ、それをc8のマス目に置いた。

 

                                  図2

 1.c8=Q


 白はクイーンを作った。次に  2.Qc3 とチェックをかけてから

 一気にチェックメイトの狙いがある。(例:2...Ka2  3.Qb2#)




 

「ポーンを進めてクイーンへのプロモーション。これで後は、目隠ししてても白の勝ちだな」

「目隠し?……おおっ! 偶然ですが私のポケットにちょうど目隠しプレイに最適の手ぬぐいが」

「ボクを目隠ししてどうする!ていうか、君はいつもそんなものを持ち歩いているのか?」

「いつなんどき目隠しプレイを求められるか判りませんので」

「何がどういう状況になったら目隠しを求められると思うんだ?君は変態なのか?」

「そんな……お嬢様が目隠しの話を私に振るから……」

「ボクはチェスの話をしているんだ。1.c8=Q とクイーンを作れば簡単に勝てるって言ってんの!」

「あぁ何だチェスの話でしたか。なるほど 1.c8=Q。その後は?」

「例えば、こう黒が 1...Ra4とすると、白は 2.Qc3(図3)。これがチェックになるから黒キングは  2...Ka2と逃げるしかなくて、次に白が 3.Qb2 と指してチェックメイトだな」

「なるほど……」

 

 

                                 図3


問題図から
1.c8=Q Ra4
2.Qc3
と進んだ局面。


c3のクイーンでa1の黒キングにチェックがかかっている。黒キングは Ka2 と逃げるしかないが、Qb2とクイーンを移動してチェックメイト。



 

「実にお見事です!お嬢様」

 逢坂の口の端が皮肉な笑みをたたえて吊りあがっていた。それには気付かず鼻高々になっている奈々に向かって、逢坂は

「ぷっw……勝てるゲームをわざわざドローにしてしまわれるとは。お嬢様はかなり度の過ぎた平和主義者とお見受けしました」

「なにっ?」

 何を言っているのだこの男は?黒はしっかりメイトされたじゃないか!

 訝しがる奈々の目の前で、逢坂は左目に掛かった片眼鏡にそっと左手をやり、それから、しなやかな右手で黒ルークをつまみあげた。


                              図4


問題図から
1. c8=Q Rc4+ の局面。


 黒はルークで白のキングにチェックを掛けた。しかしこの位置には白クイーンの効きがあるので、 この黒ルークは次手で取られるのだが……?


 

「チェックです、お嬢様」

「何をやっている。クイーンで取り返して白の楽勝じゃないか」

 すかさず 2.Qxc4と、ルークを取り除く奈々だったが……。

「お嬢様、ステールメイトです」

「……へ?」

 

                               図5                                  

 


*図面はここで黒番。

 ・黒が動かせる駒はキングのみ

 ・ただし黒キングはどこに動いても白クイーンか白キングの効きに入って取られてしまう。

 ・チェスでは動いた先でチェックが掛る位置にキングを動かしてはならない。つまり「キン

  グの自殺」はルール上認められていない。

 ……この状態を「ステールメイト」と言いドロー(引き分け)となってしまう。


 

 

「引き分けなのか?……引き分けじゃ……ダメか……」

「私はチェスのドローは決して嫌いではありませんが、しかし楽に勝てるゲームをステールメイトにされるのは好みませんね。好みと言えば、ステールメイトよりはアキバのメイドの方が好みです」

 いやそんな情報いらないから。中1女子に向かってメイドカフェの話を振るなよ。

「そうそう、そう言えば、メイドの人選をちょっと考え直した方がいいと、先日お父上に進言させて頂いたのですが」

「何のためにそんなことを!?」

「いや、”避暑地の萌え別荘”って新しいかなって……」

「誰得なんだそれは!?」

 観光客でも呼ぶ気なのか?ボクの居場所がなくなるじゃないか!

 油断するとこの別荘が全て執事の趣味で覆い尽くされてしまいそうだ。奈々は心ひそかに、父の良識にあらん限りの声援を送るのだった。

「それはそれとして、お嬢様が自らの意思でこのゲームをどうしてもドローにしたい、とそうおっしゃるのでしたら、あえて 1.c8=Qを正解と申し上げても構いませんが?」

 嫌味なヤローだなー。

 奈々は改めて盤面を凝視するが、しかし他の手は浮かばない。自分の考えた手順に間違いがあるとは思えなかった。もしかして、いきなりポーンを使うのではなくて一旦、1.Kb3、と動かしたりするのだろうか?しかしそれは以下、   1...Rd3(チェック)とされて、

   2.Kc2 は ..Rd4 で元に戻るからレピティション(同一局面3回でドロー)になる。  

   2.Ka4 と上に上がると、今度は 2... Rc3(ポーンが必ず取られるの図)とされて、次にどうやっても白ポーンが取られてしまう……。その局面は、白「キングのみ」vs 黒「キング&ルーク」 になってさすがにこれは負けだろう。

 


              ポーンが必ず取られるの図

 白は次に必ず c8=Q とクイーンを作れるが、 xR8とすぐ取り返されてしまう。

 

ここからは例えば以下の手順で黒の勝ちになる。興味のある方は盤で並べてみてください。

 

3.c8=Q  xRc8

4.Kb5    Kb2

5.Kb6   Kb3

6.Kb7  Rc1(キングの当たりからルークを逃がす)

7.Kb8  Kb4

8.Kb7  Kb5

9.Kb8  Kb6 (白キングは動かせるスペースがほとんどない)

10.Ka8  Rh1  (ここでルークを端へ。次の狙いを白は受けることが出来ない)

11.Kb8  Rh8#  0-1(チェックメイト で黒の勝ち)


 

「……これ、ホントに白が勝てるのか?」

「ぷっw……当たり前じゃないですか、お嬢様」

 コイツ!笑いやがった! くそっ!馬鹿にして!

    生まれてこの方お金で苦労したことなんか0.1秒もない超絶大富豪のお嬢様はイラつく余りにテーブルの下で貧乏ゆすりを始めていた。

「一つ確認しておきたいことがあるのだが……もしかして君はボクの事がキライなのか?」

「そんなまさか!」

 執事は心底驚いたような表情をしてこういった。

「黒髪ロングのボクっ娘中学生をキライな人間の男子など、この地球上には存在しませんよ、お嬢様!!」

 何だか微妙に会話が成り立っていない気がする。というか、聞きたい事を聞いたら聞きたくない話を聞かされた気分だった。あと、ボクのことを「ボクっ娘」と呼びながら熱い視線を飛ばすのはやめろ。どうも最近、この執事の変態度が増してきたような気がするな。コイツ、ウチに来た当初からこんなキャラだったっけ?執事の仕事が忙しすぎておかしくなってしまったのだろうか?

 再び盤上に視線を戻す奈々を見つめる執事の口の端からは、二股にわかれた細長い舌がチロチロ、チロチロ……と蠢いていた。次の一瞬、彼の瞳はまるで、あの足のない爬虫類の如く虹彩は赤く染まり、そして瞳孔は縦長の楕円形に変化していた……のだが、奈々はそれに気づいていない。

「正解を申しあげましょうか?」

「うるさい!うるさい!うるさい!……もうちょっと考えるからあっちへ行ってて!」

 お嬢様はキレた。逢坂は「お嬢様がキレた……ハァ……ハァ……」という気持ち悪いセリフを呟きながら――そしてまたあの先端の割れた不気味な舌をチロチロさせながら――食堂から叩きだされたのだった。

 

 

2.奈々、ヒントをもらう。ただし占いで。

 

「さて……。さっぱりわからないな。……しかしギブアップなんかしたらあの変態執事に何を言われるか……。仕方ない、アレを使おう。インチキっぽいが、これは正義のためなのだ」

 とわけの判らないことを呟きながら、奈々は懐から小さな紙箱を取り出した。

 手のひらに乗る程度のサイズである。蓋を開け彼女が中から取りだしたもの――。

 

 ――それは、一そろいのタロット・カードだった。

 

 指し手がわからないので占いで決めようという、まぁ浅はかと言えば浅はかな考えである。

 というか、チェスの問題を解こうという時に自分で考えることを放棄しているのだから、もしこれで正解が判ったりしたらやはりインチキかもしれない。ルール上、対局中のタロットが禁止されているかどうかは不明であるが……。

 

 体調を崩して自宅やこの別荘で、財力に物を言わせた豪華絢爛な引き籠り生活をしている時の奈々の趣味の一つがこのタロットである。

 家族の他は、執事その他使用人の一部にしか知らされていない、不可解な奇病に罹っている黒麹町家の令嬢は、いつも自分の健康や将来に不安を抱えながら生きていた。タロットを用いて行う観想は、そんな彼女の不安を癒すとても大事な儀式なのである。奈々にとってこれは、決して吉凶を占うためのツールではない。抗うことの出来ない運命にどう向き合えばいいのか、そのためのアドバイスをくれるパートナーであり、優しく、時に厳しい家族であり、そしてまた自分の中の内なる精霊の声である。

 迷ったらタロットで決断する。それが奈々の生き方だった。

「将来は、占い師になろうかな……」

 と考えたことも何度もある。実際、親が超絶大富豪なので、なろうと思えば、というか店を構えて占い師の看板を出すだけなら今すぐでも出来そうだ。ただし客が付くかどうかは自分の腕次第。だから彼女は、彼女なりにずっと真剣に勉強しているのだった。「スジがいい」とあれだけ父に褒めそやされたチェスのことをずっと忘れていたほどに。ただ人を相手に鑑定をするためにはそれなりの人生経験を積んでいく必要があるかもしれない。

 それはともかくとして、チェスの問題如きでタロットに頼る人生観というのもアレだが……そこはそれ、まだ中学一年生の13歳の少女である。しかもボクッ娘である。大目に見てやってほしい。

 タロットカードは大アルカナ22枚とと小アルカナ56枚、計78枚で1つのセットになっている。大アルカナだけを用いたり、あるいは78枚全てを用いたり、その他スプレッド(占うためにカードを場に展開する方法)の種類は数多くある。何を占うのか、どういう問題を扱おうとしているのかによって、それらを上手く使い分けるのが理想なのだが、全てを完璧にマスターしている人は、専門家であっても、そう多くはいないかもしれない。とにかく色んな方法論、解釈がありまたタロットカード自体にも様々な絵柄の種類がある。全てを網羅するのは中々困難だ。チェスと同じくらい……あるいはそれ以上に奥深いのかもしれなかった。

 そんな中、大アルカナと小アルカナを分けてシャッフルし、大アルカナで大まかな現状認識をする、または現在起こっていることの問題点の洗い出しを行い、次いで小アルカナで具体的なイメージを得ようとするのが、奈々の一番好きなリーディング法だった。

「今日は、全部使ってワンオラクルで行くか……」

 奈々は78枚のカードをシャッフルする。テーブルに深紅のタロット・クロスを広げ、目を瞑ってクロスの上でゆっくりと、精神を研ぎ澄ますように混ぜ合わせていく。チェスボードを思い浮かべつ、深く深く観想する。

「ボクが……見落としている手は……何だろう?」

 カードを揃えカッティングし、再び揃えカードの天地を決定してから、今度はそれをクロスの上に扇形に広げた。眼を開けると、その中に……奈々には淡く光るカードが1枚見えるのだった。

 

 ――あのカードが、ボクを呼んでる。

 奈々はカードを抜き取って自分の前にそっと置くと、それからゆっくりと表を向けた。

 

 ―― Strength。

 「力」のカードの正位置だった。

 そのカードには白い衣装を纏った女性が獰猛な獅子をやさしく手なずけている様子が描かれている。

 日本語ではただ「力」のカードと呼ばれるが、それは決して対象と戦ってねじ伏せる「

Power」の力ではないことを意味する。湧き上がる精神性、全てを包み込む包容力、忍耐力、

根気、抑制……そういう力。ネガティブな情動や獣性の力ではなく、むしろそうした暴走しがちな力を御するためのエネルギー。その象徴が「Strength」なのである。

 

 ――ボクの内なる精霊は、このカードで何を伝えようとしているんだろう……。

 奈々にとってタロットは内なる声との「対話」の場でもある。自分の精神が不安定な時、理不尽な怒りや妄念で心が満たされている時、その声は遠くへ行ってしまう。そうならないために、自分自身を見失わないために、あるいは……生まれながらの奇病を抱えた自分を嫌いになってしまわないために、奈々はタロットを友としているのだった。もはやもはや心の拠り所であり、あるいはもう、これに「すがっている」とすら言えるのかもしれない。

 

「白は、ポーンをクイーンにするという当たり前の手を指しただけなのに、その力のせいでステールメイトになって勝てなかったんだよね……」

 チェス盤上における最強の力の行使……それでは決して事態を解決できないことの暗示なのだろうか。このカードの女性がそうしているように……力を抑えなくてはいけない?ポーンが持つ能力の一つ、クイーンへのプロモーション。その最強の潜在能力を正しく導いてあげるには、どうしたらいいのだろう?

 

 カードを見つめ、再び目を閉じて観想に入る。そして奈々は、今一度プロモーションのルールを反芻した。

「ポーンは、再後段に進んだ時、キングとポーン以外のピースに昇格する――んだったな、そう言えば」

 

 奈々に天啓が降りた。眼を開き、呟く。

「……そうか。ボクは力を正しく使えていなかったのか……」

 

 

3.奈々、解決する

 

次の朝。

「如何でしたかお嬢様?」

 逢坂はとても気分が良かった。彼は、朝のお嬢様が大好きなのだ。奈々には内緒にしている

が、というかバレたら解雇ものの不祥事なのだが、不祥事というかほとんど犯罪まがいの行為でもあるのだが、特に起きる直前の様子が大好物で、明け方こっそり部屋に忍び込んで寝顔を覗きこんだこと、その回数は10や20どころではない。毎日かもしれない。執事としては有能ではあるのだが、実に気持ち悪い奴で、これから執事を雇おうと考えている人は、こういう男だけは選んではいけない。

「如何とは?」

「昨日のチェスの問題です。あれから随分お考えになられていたようですが……」

 ――どうせ出来なかったんだろう、アホだから、とか思っているなこの野郎。

 執事の表情を伺い内心イラッとしながらも、奈々は無言のままテーブルに置かれたチェスボードを指し示した。


   (図6)



*白が、問題図から1.c8=R と指した局面。

 

「ポーンをクイーンにするのではなく、あえて1つ弱いルークへのアンダープロモーション。まさか君がそんなシャレた問題を作るとは夢にも思わず、うっかり油断した」

 タロットを使ってヒントをもらったことを内緒にしているが、実のところ彼女には後ろめたい気持ちなど微塵もないのだった。あれは……タロットは、彼女の分身なのだから。

「……では、昨日と同じくここで黒が 1...Rc4 とすると……」

「白が 2.xRc4 と取れば、今度はステールメイトにはならないだろう?」

 


                                 図7


*ルークとクイーンの力の差で、黒キングにはまだ逃げるスペースがあるため

ステールメイトにならない。

 

以下

2.       ...Ka2 (唯一、黒キングを動かせる場所)

3.Ra4#  1-0 (チェックメイトで白の勝ち)  


 

 

「1...Ra4なら 2.Kb3  Ra2(黒ルークが逃げる手。ここ以外のどこへ動いても、結果はほとんど

同じになる)  Rc1でチェックメイト(図8)。黒ルークを動かさない手、例えばKb1なら Ka4

と黒ルークを取って(図9)白の勝ちだ」

 


                              図8

 

問題図から


1.Rc8=R   Ra4

2.Kb3       Ra2

3.Rc8#  でチェックメイトとなった局面


 

 


 

 ==============

図9                                

 

   問題図から

   1.c8=R   Ra4

   2.Kb3     Kb1

   3.Ka4

   となって白がルークを取った局面。

   ここからは

 

   3.     ..Kb2

   4.Kb4  Ka2

   5.Kc3  Ka1

   6.Kc2  Ka2

   7.Ra8#   1-0 ( チェックメイトで白の勝ち)


 

「お見事です、お嬢様」

「ふっ、当然だ。次はもう少し骨のある問題を持って来るのだな」

「確かに私は美少女の鎖骨が大好物ですが、しかもネットで『美少女  鎖骨』の検索をしてしまうくらいの鎖骨フェチですが、しかしお嬢様、鎖骨を持ってこいと言われましても、そう簡単に生贄の美少女は見つかりません」

「誰が鎖骨の話をしとるか!」

 怒鳴りながら、自分がノースリーブのサマードレスを着ていることに気づいて反射的に肩に手をやる奈々だった。

 そう言えば、メイドたちが隙あらばボクにノースリーブの衣装を着せたがるのは、コイツの差し金だったのか!?ていうか、ノースリーブ以外の衣装ってこの別荘に置いてあるのか?

「ボクの鎖骨をジロジロ見るな、このド変態!……もう少しレベルの高い問題を用意してみろと言ってるんだ!」

「つまり問題のレベルが上がるに従ってお嬢様の鎖骨もどんどん露わになっていくと……」

「だから鎖骨の話はしてねぇーっつーの!」

 あと、これ以上露わに出来るかバカ! 駒.zoneに掲載出来なくなるわ!

「承知いたしました、お嬢様。……ではまた後日、今度はもっと興味深い問題をご用意させていただきますよ……」

 朝の紅茶を奈々のカップに注いだ後、変態執事・逢坂航は踵を返して食堂の出口へと向かって行った。

 その時――。

 黒麹町家のお嬢様が思いっきり”あかんべー”をしているその視線の先で。

 逢坂航の双眸は、まるで蛇のような縦に細長い瞳孔へと変化し、虹彩は赤く染まり、そして吊り
あがった口の端からは、先端の裂けた細長い紐のようなどす黒い不気味な舌が、チロチロ、チロチロ
と蠢いていた……。

 

  fin...


月子のチェス日記

 皆様、お久しぶりです。月子です。
 チェスを始めて一年以上たちますが、実は……まだ棋譜をうまく読めません。
 情けないことですが……

 将棋をする人にとってチェスはなじみやすいようでいて、将棋のくせが足を引っ張ることもあるようです。
 ルールを覚えるうえでも、表記の違いなどで戸惑います。

 そこで今回は皆様にチェスを楽しんでもらうため、「将棋ファンにわかりやすいチェス入門」に挑戦してみようかな……と、思います。

 まずは、下の図を見てください。

【図1】


 これは、将棋風にチェスの初期配置を示したものです。なんとなくイメージできませんか?
 チェスと将棋の大きな違いは以下のようです。

1 マス目が8×8の64マス。
2 取った駒が使えない。
3 金銀に相当する駒がない。


 というわけで、せまくて駒が少なくて守るのも難しい、そういうところに最初戸惑うのではないでしょうか。

 まずは、駒について説明してみたいと思います。
 図1において、将棋にない駒が何種類かありますね。まずはこれらの駒の動きを把握することが大事です。

ポ=ポーン 将棋では歩に相当します。動きは前に一つですが、最初だけは前に二つも動けます。また、ポーンは斜め前の駒を取ることができます。私はこれに慣れなくてよく駒を只取りされました。また、8段目に到達すると好きな駒に成ることができます。普通はクイーンですが、場合によっては別の駒に成ることもあるようです。(ひとつ前の小説をチェック!)

ナ=ナイト いわゆる八方桂と呼ばれる駒です。横も後ろも桂馬の動きで動けます。チェスの場合ポーンが二段目なので、初手からナイトを動かすことができます。この駒をうまく使えるようになると上達できそうですね。

Q=クイーン 飛車と角の両方の動きができる最強の駒です。攻めの中心となります。クイーンがなくなると突如として詰ます(チェックメイトする)のが難しくなります。


 また、飛車はルーク、角はビショップと呼ばれていて、動き方は同じです。あと、玉はキングです。
 将棋の場合飛車と角は価値がほぼ同じですが、チェスの場合はかなり飛(ルーク)の方が重要視されています。これにはいくつか理由が考えられますが、一番大きな理由は「持ち駒での間駒がない」ことだと思います。チェスは持ち駒がないので、王手(チェック)に対しては逃げるか駒を移動させるしかありません。ただしポーンは二段目から前に出ているので、飛(ルーク)による横からのチェックに役に立たない場合が多いのです。ルークによる攻めは受けにくいのです。
 それに対して角(ビショップ)の攻めは斜めなので、ポーンやナイトで防げることが多いです。また、角(ビショップ)は斜め移動なので、半分のマスには絶対に移動することができません。角(ビショップ)の王手(チェック)に対して縦か横にキングが逃げれば、そのビショップではどう動いても玉に対して王手(チェック)することができないのです。

 そんなわけで……将棋をしている人ならここまでだけでも何となく方針が見えてきたのではないでしょうか? では、始める前に細かいルールについても確認しておきましょう。


・移動間違いや王手放置はやり直し 動けないところに駒を動かしたり、王手を見逃して受けなかったりしたら将棋だと反則負けですね。でも、チェスだとやり直します。また、王手(チェック)のかかる位置に玉を動かしてもいけません。まあ、将棋でもあまりいいことではありませんが……

・いくつかの条件下では引き分け(ドロー)となります。まず、片方が玉(キング)だけになって、動く場所がなくなってしまった場合。将棋だと持ち駒があるのでなかなかそういう状況は起こりませんが、チェスだとたまに起こります。この場合は「スティルメイト」と言って引き分けになります。
 また、同じ局面が三回出現した時、指摘すると引き分けになります。チェスの場合王手(チェック)による繰り返しも反則となりません。
 あと、50手の間ポーンが動かず、たがいに取った駒がない場合、指摘すると引き分けになります。これは経験がないのでどういうパターンで出現するかはよくわかりません。
 さらに、戦力的にお互いがチェックメイト困難な場合、同意の上で引き分けにすることができます。
 チェスは将棋の千日手や持将棋よりもドローが多い競技だと言えます。(N瀬先生を除く)

・重要かつややこしいのがキャスリングです。
【図2】


 図2のように玉(キング)と飛(ルーク)の間に駒がない場合、一度に玉(キング)と飛(ルーク)を動かすことができます。この時、玉(キング)と飛(ルーク)は一度も動かしていないこと、また王手(チェック)がかかっていないこと、玉が通るマスに敵の駒が利いていないことが条件となります。
 図2から右側(クイーンのいない側)でキャスリングすると、図3のようになります。
【図3】

 また図3から左側(クイーンのいない側)にキャスリングすると図4のようになります。
【図4】

 キャスリングすることにより玉(キング)の安全度が上がることが多く、飛(ルーク)を中央付近の戦いに参加させることができるようになります。どこでどちらにキャスリングするかというのが、将棋で言うところの「囲い方」に相当するものだと思います。

 さて、だいたい想像がついてきましたか? まだもう少し細かいルールもあるのですが、おおむねここまで理解できれば、観戦して楽しむこともできるのではないでしょうか。私も細かいところはよく忘れますし……

 初心者心得としては、1.ポーンを前に進める 2.ナイトと角(ビショップ)を動かして、攻めの準備をすると共にキャスリングの準備をする。 3.キャスリングをして玉(キング)を中央からどかす 4.クイーンを効率よく働かせることを意識する などが大事だと思います。

 また機会あれば、続きを書きたいと思います。

Life is lovely 2

  Life is lovely 2

ジェームズ・千駄ヶ谷

 

1.

冬というのは全く救いのない季節だ。呼吸をするだけで喉が痛くなり、体がこわばって思うように動かず、小指を角にぶつけると猛烈に痛い。

そして冬の雨というのは更にひどい。

着ているダウン・ジャケットは水分を吸って重たくなり、体の芯から体温を奪い取られていく。

今こうして大学からの帰り道を歩いているだけでも疲労の色を隠せず、心はつまらない哀しみに囚われて沈み込んだまま抜け出せない……はずなのだが。

 

「だから先輩、聞いてますー?タカハシ先輩?」

苦悶の表情を気にもとめず軽々しく話しかけてくる女は、立河ミズキ。オレの後輩だ。

 

「聞いてるよ!だから天ぷらは茄子が一番だって言ってんじゃん!てか、お前の家、あっちじゃなかったの?」

「えー、でも、この間はキスが一番だって言ってたじゃないですかー」

 

ミズキは今年アニメ同好会に入ってきた一年生で、自称ゆるふわ系女子である。

 

アニメ同好会はほとんどが男子部員なので、女子の存在はそもそも珍しい。だから女子部員というだけで必然的に人気が集中するし、まあ客観的に見てもかわいい部類に入ると思う。そんなミズキがどうしてオレなんかに興味を持ったのか、全く謎なのだが‥。

 

「キスも好きだけどさ。高いじゃん。キスのてんぷら。スーパーに売ってないし」

「えー、私売ってあるお店知ってますよー。衣がサクサクの」

「サクサク…」

キスの天ぷらの食感を想像すると、ゴクッと唾を飲み込まずにはいられない。あれは人を過ちへと導きかねない食物だ。恐ろしい。

 

「ここからそう遠くないところですけど。今から行きます?」

意味有りげな笑みを浮かべて聞いてきたが、

「行かない」とオレは付け入るスキを与えないように断った。まったく油断ならない。

「えー?キス、好きなんでしょ?」

「好きだけど行かない」

ミズキのいたずらっぽい上目遣いに「まあ、そこまで言うなら」と思わず言ってしまいそうになるが、容易に屈してはいけない。ような気がする。

「好きなのに?」

「……」

無言で歩くペースを上げる。

「タカハシ先輩って普段夜ご飯とかどうしてるんですか?」

「夜ご飯?」

ミズキが攻撃の矛先を変えてきたので、オレは少し慌てた。

「夜ご飯なんて適当だよ、だいたい」

「適当って具体的にどんなのですか」

別に見栄を張っても仕方ないとは思うけれど、半額になったスーパーの弁当でほぼ毎日生活しているという実態はなかなか明かしづらい。

「どうしてそんなこと聞くの?キミには関係無いでしょ」

思わず突き放した言い方になってしまう。

「……」

無言になるミズキを見て少し悪かったかなと思いかけるが、いや、このくらいで丁度いいと思い直す。

 

「ふえぇ、そんなに怒らなくていいのに‥」

ミズキは手で顔を覆い、泣く仕草をする。

「泣き真似してんじゃねえよ」

「うう、先輩、ひどいです。うう‥」

なかなか泣き真似をやめないミズキ。本当に泣いてたらどうしようという不安が一瞬よぎる。

 

「ほら、なんか俺が泣かせたみたいに思われそうだから早く泣き止んで」

人通りは多くないが、チラチラと見られている気がする。

「ぐすっ。大丈夫です。先輩がウチに来てくれたら」

顔から手を離し、ニッコリと笑うミズキをみてオレは少し安心する。

「行かねえっつたろ」

「ふえぇ」

「二度目は面白くない」

「ちっ」

「ねえ今ちって言った?ちって言ったよね?」

「そんなこと言ってないですぅ。聞き間違いですぅ」

 

「はいはい、わかったから、もう帰れ。お前んち、あっちだろ」

「そこまで嫌われているなら仕方ないですね‥」

「いや、別に嫌ってるわけじゃねーけどさ、」

「あーあ、少しくらい相手してくれてもいいのに」

言うとミズキは立ち止まり、手でコートの裾を払った。

 

帰られたら帰られたでもったいないような‥気はしないけどな。

なぜだかよく懐いてくれているし、ミズキみたいな彼女がいれば‥と思うこともないではない。ただ、それはできないことなのだ。進んではいけない分岐なのだ。

なぜなら、ミズキにはちゃんと彼氏がいるんである。

 

あれは―。そう、2ヶ月ほど前のコンパの時だったか。オレとミズキは偶然隣の席になって、自分を含めた上級生数人と一年生のミズキで卓を囲む形になった。

同好会のコンパで新入生に振る話題といえばだいたい相場は決まっている。コイバナである。

 

「ミズキちゃんさあ、どんなタイプが好み?」

部内随一のモテ男と評判のサトウが話しかける。

「えーっとぉ、年上の人で、頼りになる人っていうかー。大人っぽい人がイイいですかねー」

「ほほう。何歳くらい上までオーケーなのですか?」

珍しく酒に酔ったナカムラが続けて聞く。

「ええ?年齢ですかー?う~ん。だいたい父親の年齢までっていうかー、ハゲてたらNG、的な?」

「ふーん。じゃあ、ハゲてなければOKなの?」

これはオレの言ったセリフだが、思い出してみるとやや間の抜けた質問だ。

「あっはは!そうかもしれませんねー」

「ミズキちゃん、高校生の時は彼氏とかいなかったの?」

この発言もオレだ。

「え?あ、てゆうかー、今付き合ってる人は高校から付き合ってた人なんでー」

「え?じゃあ今彼氏いんの?」

ミズキは少し躊躇するような表情を見せたが、悪びれる様子もなく言った。

「いますよー。あっは。もしかしてガッカリさせちゃいました?えへへ、すみませんー」

「いや、別に…」

 

このときの出来事がささやかなトラウマにとなって以来、自分からミズキに話しかけたことはない。ないのだが‥。

たぶん、からかわれているのだろう。適当な暇つぶしの相手にちょうどいいと思われたのかもしれない。こいつなら、少々ちょっかいを出してもやけどする心配がないと。

 

 

今きたばかりの道を引き返していくミズキの後ろ姿を眺めながら、オレは考える。なんだかちょっともったいない、というか、ちぐはぐなことをしている気がする。いろいろと。そう、いろいろと。

 

 

 

 

2.

古いエアコンがごうごうと音を立てる部室に15、6人の部員がテーブルを囲んでひしめきあっている。

アニメ同好会の定例部会。

基本的に自由奔放な活動スタンスをとっているアニメ同好会において、唯一参加が義務付けられている集まりである。

 

「次に、諸君から意見を募っていた模擬店の件だが―」

 

司会を務めるのは我らがアニメ同好会の部長、オオヤマである。

この男、一応れっきとした学生なのだが、その外見は明らかに大学生のそれではない。

ゴツイ黒縁メガネに着流し姿、恰幅の良い体型、腕を組んで部長専用アームチェアに座る様はカタギの者とは思えぬ風格を漂わせている。

 

実際オオヤマの年齢がいくつなのか、何度となく部員たちの間で話題になっているのだが真実を知るものは誰もいない。

そして服装や立ち居振る舞いもさることながら、頭頂部のハ○が彼の年齢を考察する上で避けて通れない問題となっていた。

というか、オレも入部したばかりの頃は顧問の先生か何かだと思い込んでいた。

 

「今日の部会で結論を出そうと思う。諸君、よろしいかな?」

その言葉は重々しく、いかにも老成している。

「現在までにメイド喫茶、フィギュア展示会、コスプレ撮影会…等々が候補に上がっている。この中から、多数決で選ぼうと思う。ミズキくん、意見の集計を頼んでもいいかな?」

「は~い、部長」

「ではさっそく始めよう。順番に意見を言ってくれ」

かくして、アニメ研究会の命運を決する投票が開始されたのであった。

この投票の結果が、あのような悲劇を生むことになると一体誰が想像したであろうか‥

 

その場にいた15人の部員全員の投票が終わり、ミズキが集計結果を発表した。

 

「メイド喫茶9票、フィギュア展示会2票、コスプレ撮影会4票です」

 

結果を聞いた部員たちから「おおっ」と軽いざわめきが起こる。

「うむ。では、今年の模擬店は、メイド喫茶に決まりだな。異議のある者はいるか?」

 

「あのー、部長、メイドカフェをやる部活って他にもありそうじゃないですか?」

とサトウが口を開いた。

「確か去年、メイド喫茶やった部活けっこうありましたよ」と1年生のスズキが付け足す。

彼らはコスプレ撮影会を主張していた少数派だ。

「ふむ。たしかに普通のメイドカフェでは目立たないかもしれんな‥」とオオヤマ。

「しかもさ、俺らの部活女子ほとんどいないじゃん。肝心のメイドはどうすんの?」

4年生の御意見番的存在、アベが口を挟んだ。

「現役の女子部員はシミズ先輩とミズキちゃんしかいないですね」とオレ。

「さすがにメイドが二人だけでは厳しいでありますか‥」とナカムラ。

「厳しいかもな。メイドカフェのコンセプトを保ちつつ、男子部員を活用する方法があればいいんだが」とアベ。

 

「最近はやりの猫カフェとか‥」

「どっから猫連れてくんだよ。それに保健所の許可が降りない」

 

「外部からメイドさんを雇うとか」

「だからどっから連れてくるんだよ?」

 

「いっそビジュアル系執事カフェにしちゃえば」

「お前、鏡見たことある?」

 

雑多な意見が出され、議論の雲行きが怪しくなってきたその時。

 

「男子が女装して『男の娘カフェ』にするっていうのはどうっすか?」とサトウが言った。

「おお!」、「それだ!」と一部の部員達から歓声が上がる。

同時に「ええっー?」と疑問を呈する声も聞かれる。

賛成、反対と意見がはっきり二分されたかに思えたが、やがて「仕方ない」、「他にやりようがない」という声が大勢を占め始めた。

 

「……どうやら決まったようだな」と静かに議論に耳を傾けていたオオヤマが言った。

部員たちから再び歓声が上がった。

 

「おいおい、マジかよ」

オレはつぶやいた。

 

 

 

 

<幕間1>

ある休日の午後。

オレとナカムラは、とある用事でアニメ同好会の部長オオヤマの自宅に招かれていた。

 

大学から3駅分ほど離れた住宅街にあるオオヤマの自宅は想像を絶する豪華さの日本家屋で、オレとナカムラはまずそのことに驚かされた。

歴史を感じさせる木造二階建ての母屋に、それを取り囲むように広がる緑豊かな日本庭園。格子戸を開けて中に入ると、まずオレの部屋より大きいんじゃないかと思えるほど立派な玄関があり、そこから板張りの廊下が奥へと続いている。

オレは日本の伝統家屋には全然詳しくないが、この家がおそらく途方も無い価値を持つ邸宅であろうことは容易に想像できた。

「部長、こんなところに住んでたんですか!」

「ひょっとして、資産家の息子だったとか?」

オレとナカムラが興奮気味に疑問をぶつけると、

「株とFXで一山あててな…。まあ、ボロ屋だが」とオオヤマはさして誇らしげな風でもなく淡々と説明した。

「ちょうどコレクションの置き場所に困っていた頃にな。国税庁の差し押さえ物件をヤ○オクでみつけたのよ」

「差し押さえ物件ってヤ○オクで買えるんですか?」

確かに築年数はずいぶん経っていそうだが、半端な額ではないだろう。

「それに差し押さえられた民家って、ちょっと怖すぎる気が…」

「そうか?俺はそういう細かいことは気にしない主義だから」とオオヤマは平然と言ってのけた。

オレとナカムラは目を丸くするばかりである。

 

オオヤマの案内で洋間に通されると、そこでしばらく待つように言われた。

部屋の中央には年季を感じさせる立派なウッドテーブルが鎮座し、両脇には上品な光沢を放つ革張りのソファーが置かれている。

あまりの豪華さに、座ることさえためらわれた。

縁側の向こうに目を向けると、日本史の教科書にでも載っていそうな純和風の庭園が広がっている。岩で周囲を縁取られた池と、枝がうねうねと曲がりくねった大きな松の木がなんとも荘厳な雰囲気を放っている。

 

「……すごい」

オレは思わずため息をついた。

 

やがて、お茶と和菓子をお盆に載せたオオヤマが現れた。庭のことについて質問すると、

「前の住人が好きだったみたいでな。せっかくだから暇な時に手入れしているんだ」と照れ隠しのように笑った。

 

お茶菓子も食べ終わり一段落つくと、オオヤマが本題を切り出した。

「今日呼んだのは他でもない、君たちにオレのコレクションの一部をやろうと思ってな」

「コレクション?部長のですか?」

「そうだ。長年かけて集めた品だが―さすがに数が増えすぎてな。少し整理しようと思ってるんだ」

「しかし、大切なコレクションでは…、良いのですか?」

「ああ。遠慮は無用。好きなだけ持って行ってくれ」

 

オオヤマのコレクションルームに案内されたオレたちは再び仰天することになった。

大広間を改装したスペースに、人の背丈ほどもあるガラスケースがズラリと並んでいる。まるで博物館の展示室のようだ。

それぞれのケースはジャンルごとにコンパートメントで区切られ、フィギュア、プラモデル、食玩などがびっしりと並んでいた。

 

思わずナカムラと顔を見合わせた。

「これは…」

ひと目見ただけでは把握しきれないが、おそらく相当に貴重な名品ばかりが集められているようだ。

正直、オオヤマという人間を甘く見ていた。

「どうも古い作品ばかりになってしまってな。自分では捨てられないから、欲しい人がいればあげることにしてるんだよ」

そう語るオオヤマは子供を慈しむような目で自らのコレクションを見つめている。

「君は確かフィギュアを蒐集してるんだっけな」とナカムラに訊ねる。

「はい、そうですが…」

「今では手に入りにくい品もあるはずだ。好きなだけ持って行ってくれ」

「本当によろしいのですか?」

ナカムラが遠慮がちに答える。

「ああ。君も蒐集家なら分かるだろう。数ばかり増えたコレクションは美しくない。かといって、新しい作品を探し求める楽しみも捨てられない。だからこうやって、定期的に人に譲り渡すのが一番なんだ。もちろん、その価値が分かる人に、ということだが」

 

二人は神妙な表情になってオオヤマの話を聞いた。

言われてみれば納得のいく理由のようでもあり、単なる口実のようにも思われた。

蒐集を極めた人間は皆同じ考えにたどり着くものなのか、それともオオヤマが特殊なのかオレには分からないが、そこには確固たる思想のようなものが感じ取れた。

 

「自分にはコレクションを他人にあげるなんて、想像もできないです‥」

ナカムラは腑に落ちないといった様子で言った。

 

「ふふ。オレも若い頃は数を増やすことに必死だった。好きな作品もたくさんあったしな。良いフィギュアを選ぶというよりは、悪いフィギュアを選ばないよう自戒する―そういう感じだったな。むろん、失敗も数え切れないほどしたが」

オオヤマの表情は何か遠い昔の出来事を思い出しているかのようだ。

 

「部長‥」

もっと深く話を聞いてみたい気持ちもあったが、なんと尋ねていいかわからなかった。

この人はおそらく、只者じゃない。あなたは一体、何者なんだ…?

 

その後、ふと気になったことを質問してみた。

「ところで部長、つかぬ事をお伺いしますが」

「なんだ、言ってみろ」

「ひょっとして将棋を指されたりしませんか‥?」

 

「将棋?いや、ほとんどやったことがないな。前も聞かなかったか?」

 

「そうでしたっけ‥。いえ、なんとなく思っただけです」

将棋は指さないのか。なんとなく強そうなイメージがあったのだが。

「変なことを聞くやつだ」

オオヤマはふふっと楽しそうに笑った。

 

 

<幕間2>

それは嵐のような出来事だったという。

理学部B棟104講義室ではアニメ同好会の模擬店設営が進められていた。

部員の多くが講義を受けている時間帯で、残った数人だけが作業にあたっていた。

 

悪魔は、突然やってきた。

「ちーっす。アニメ同好会って、ここっすか?」

学園祭準備中の講義室を訪れたのは若者向けファッション誌に載っているような格好をした、見るからにチャラい外見の男女だったそうだ。

彼らはとある運動部の部員であることを名乗ると、こう言った。

「あのー、ここ俺らが使うんでぇ~、今日中に出ていってもらえますか?」

「!?」

凍りつく部員たち。

「この講義室、ウチらが使うことになったんでぇ~。替わってもらっちゃう感じでいいっすか?」

 

「それは、どういうことでしょう?」

その場に居合わせたアベは、拳を震わせながらもあくまで冷静な対応に努めたそうだ。

「俺ら、喫茶店やることになったんでぇ~。立地的にこの教室がいいじゃん?みたいな?」

ことの重大さに気づきはじめた部員たちが集まってくる。

「そんな、急に替われっていわれても、準備をはじめちゃってるし‥」

「そもそも、許可もらったのはウチらのはずなんですけど」

口々に反論を述べる部員たち。

しかし、

「許可?許可証ならさきほどもらってきましたわ」

マネージャーを名乗る女が掲げた書類は、確かに大学が発行した許可証だったそうだ。

「そっちが持っているのは仮許可証でしょう?あなた方アニメ同好会の仮許可は本日付けで取り消していただきましたわ」

「どうして、そんなことが…」

予想外の事態に困惑する一同。

「なんか~、こいつのカレシが学祭の実行委員長?みたいな。それで、顔パス?的な?」

 

あまりに理不尽な理由に部員達は必死に抗議したが、全く聞き入れてくれなかったそうである。

 

「ていうかあなた方、そんなダサい服装で本当に大学生なんですの?男子校の高校生と間違われますわよ。キャハハハッ」

最後にそう言い残して、二人組は去っていった。

 

連絡を受けたオオヤマが慌てて駆けつけた時には、絶望した部員たちが呆然と立ち尽くしていたということだ。

 

 

<幕間3>

ふえぇ、学祭の準備終わらないよぉ

@Takahashi_85hi 学祭なにすんの?

@ShimShim78男の娘カフェ…

わぁい女装、タカハシ女装だぁい好き

なわけねーだろ

@Takahashi_85hi きも

待ってくれみんな誤解だ

 

@Takahashi_85hi  タカハシさん、学園祭にお邪魔してもいいですか?

ほえ…

@TKS_shogi もちろんです!!全力でお待ち申し上げております!!

アワワワワ(((( ;゚д゚))))ドウシヨウ

アタヽ(д`ヽ彡ノ´д)ノフタ



3.

11月の下旬、季節がすっかり冬めいた頃、秋玲祭は行われる。

キャンパスに林立するイチョウの紅葉も見頃となり、模擬店の列に彩りを添えている。

しばらく前と比べるとめっきり寒くなったが、それでも大学生、親子連れ、近所の高校生などで会場はにぎわっていた。

 

よくもまあ、あの状況から準備したものだ。

代わりとなる教室を手配し、机や椅子を移動させ、調理器具や食器を運び込み、まさに部員総出の作業だった。

コスプレ衣装についても全員分揃えられるかどうかが懸念されていたが、日ごろの活動の成果なのか、意外にもあっさり集まってしまった。部員たちはセーラー服だったり、魔女っ子姿だったり、思い思いのコスチュームに身を包んでいる。客観的に見てかなりシュールな光景だ。はっきりいって周囲から浮いている。ちなみにオレの着ている衣装はというと――某人気学園アニメの主人公たちが着ているブレザー(ミニスカ+ニーハイ)である。

 

 

「部長、お時間です」

サトウに呼ばれ登場したオオヤマは、タキシードに蝶ネクタイという出で立ちだった。

普段の格好からすると相当ギャップがあるが、不気味に似合っている。

しかしこのタキシード、どこかでレンタルしたのだろうか。ひょっとすると部長のことだから自前のものを持っていたのかもしれない。

オレは思わずぷっと笑い声を漏らしたが、他の奴らはいたって真面目な顔をしている。なんて精神力だ。

 

やがて開店の時間となり、部員たちが店内に整列した。

「貴様ら、準備はいいか」

皆の前に立つオオヤマが重々しく言った。

 

「今日の日を迎えるための準備、まことにご苦労だった。心から感謝する。しかし、あの日の屈辱を忘れる訳にはいくまい。本当の戦いはこれからだ。この戦、勝つも負けるも諸君らの働きにかかっている」

オオヤマは一度気息を整えると、あたり一面に響き渡る大声で言った。

 

「命を燃やせえええええええええええええええ」

 

「「おおーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」」

 

雄叫びを上げる一同。

 

いや、うちの部、こんなノリじゃなかったろ…

 

 

部員たちはサッと解散すると各自の持ち場につき、最後の確認を行う。

「A班、テーブルセッティング完了!」

「B班、キッチン準備できました!」

 

「了解。メイド及びコスプレ班も配置に付け!」

 

「「Yes!! Your Majesty !!」」

 

かくして、アニメ同好会史上に残る一日が始まったのであった。

 

 

 

結論から言うと、我らがメイド喫茶は想像以上の賑わいを見せた。「男の娘メイド」が秋玲祭の客層に受け入れられるかどうかが勝負の分かれ目であったが、「店員がとにかくキモい」、「でも何人かのメイドはガチ可愛いらしい」と評判を呼び、怖いもの見たさの来場者たちを取り込んだ。全ては戦略の勝利?であった。

 

しかし、そんな部員たちの活躍をよそにオレは朝からずっとそわそわしていた。

 

なにせ、つかさたんが来るのだ。冷静でいられるはずがない。

客は切れ目なくやってきたが、オレの場合仕事といっても飲み物を作ったり、簡単な調理をしてメイドさんに渡すだけの役割だから、さして忙しいというわけでもなかった。暇を見ては何度もテーブル席の方に視線を送ってチェックしているのだが、全く落ち着かない。

後輩のミズキからも「先輩、どうかしたんですか?」と心配される始末だった。

 

 

14時を回った頃、ついにつかさたんの姿が見えた。

メイド(スズキ)に案内されて席に座ると、キョロキョロと周囲を見回している。もしかしたらオレのことを探しているのかもしれない。

まっててね、つかさたん、今行くから―!

心のなかで叫びながらハッピーマジカルレモンティーを作る作業に戻る。

「ちょっと、先輩、紅茶こぼれてますよ!」

ああっ、またやっちゃったよ…

慌てて別のカップを用意する。どの辺がハッピーでマジカルなのかよくわからないが、

通常の紅茶にシナモンだのローズマリーだのを配合してふりかける工程が入っているので地味に時間がかかるのだ。

ようやく作業を終えてホールの方を見やると、つかさたんが真剣な表情でメニューを見つめているところだった。おそらく、うかつなものを注文してはまた変なおまじないを唱えさせられるかも知れないと思って警戒しているのだろう。

キモかわいいと一部のコアな層を取り込んだ本日午前の指名ナンバーワン男の娘メイド、スズキが注文を取りにいく。

 

つかさたんは何か気になることがあるのか、なにやら熱心に質問しているようだ。もしかしたらおまじないの有無でも確認しているのかもしれない。

今回のメニューにはあんなハードなおまじないは含まれていないが、一部キワモノと呼べるような品もあるから、事前に中身を確認しておくのは賢明な判断だろう。

 

引き続き手元で作業しながら様子を伺っていると、つかさたんはおもむろに携帯を取り出してスズキとのツーショット写真を頼もうとしている。つかさたん、まさかそういうの好きだったの…

 

注文を取り終えたスズキが帰ってくる。

つかさたんが頼んだメニューは、『ツン☆デレぶるーべりぃてぃー』と『店長の愛情たっぷりリンゴのタルト』。長考しただけあってなかなかいいチョイスかもしれない。

『ツン☆デレぶるーべりぃてぃー』は要するにロシアンティーで、市販のセイロンティーにブルーベリージャムを大さじ一杯分ドカッと投入したもの。リンゴのタルトは調理場で作ることができないため、冷蔵庫にストックしたものを提供している。オオヤマが知人のツテで大量に仕入れてきたらしいのだが、スタッフによる試食の段階であまりにおいしかったため、どこぞの有名店から裏ルートで仕入れたのではないかと噂になっていた。曰く、生地の甘さとリンゴの酸味との絶妙なバランスを追求した逸品だのなんだの…

 

「スズキ、これはオレが運ぶから」

注文の品を作り終えたオレはそう言うと、「接客は僕の仕事ですから」というスズキを押しのけてテーブル席へ向かった。

 

「見築先生、本当に来て下さったんですね」

「タカハシ…さん?」

つかさたんは怪訝な表情でオレの方を見つめている。

「あ、この服装は…」

午前中からずっと着ていたので、コスプレしていたことをすっかり忘れていた。

「みなさん女装してるんですね。ふふっ」

「いや、その」

「タカハシさんもその制服、お似合いですよ☆」

「見なかったことにしてください」

冷静に考えると少しマズイ姿を見られてしまったかもしれない。

目を細めてにやにやしているつかさたんから、何やら不穏な空気が漂っている。ような気がする。

「えー、もっと自信持った方がいいですよ。すごくカワイイし」

どうやら楽しんでもらえている?ようなので、気を取り直してメニューの説明に移る。

 

「こちらが『ツン☆デレぶるーべりぃてぃー』、そしてこちらが『店長の愛情たっぷりリンゴのタルト』になります」

「きゃー、カワイイ。写真撮っていいですか?」

「ええ、もちろんです」

喜んでもらえて何よりだ。

「タカハシさんも入ってください」

「え?写真にですか?」

戸惑いながらもカメラの正面に移動する。

「何かかわいいポーズしてください」

「かわいいポーズ…?」

突然のリクエストに思わず苦悩の表情を浮かべると、

「ほら、もっと笑顔で」

すかさず注意された。

ダメ出しの末に必死に可愛らしい?横ピースをきめ、なんとかつかさたんの満足のいく写真に収まった。

 

「あの、これ本当においしそうですね」

リンゴのタルトを見つめながらつかさたんが言った。

「お褒めに預かり光栄です。ウチの店長が謎の…、いえ、丹誠込めて作った逸品ですから」

「食べるのがもったいないくらい」

「そりゃもう、愛情込めて作ってますから」

本当は冷蔵庫に保管してるだけだけど。

「そうだ。なんか、おいしくなるおまじないとかしてくださいよ」

「そんな、イキナリっ!?」

つかさたんが再び攻勢に出た。

今日の彼女はなんというか…暴君だ。

「タカハシさん、今日はメイドさんなんでしょ?」

うっすらと笑みを浮かべる表情に背筋が冷たくなる。

「いやー僕、そろそろ厨房に戻らないといけないんで」と逃げ切りを試みたが、

「ムービーで撮りますから。合図したらおまじない始めてください」

再び携帯のカメラを構えるつかさたんに妥協する様子は全く感じられなかった。

仕事に戻らないといけないというのは別にその場しのぎの嘘という訳ではなく、実際さっきから「ちょっとー部長見てくださいよータカハシ先輩が全然仕事してくれないんですよー」というミズキの声が奥から聞こえている。いろいろな意味でヤバイかもしれない。

 

しかし、その後もつかさたんから解放されることはなく、理不尽ないじめは続いたのであった…

 

 

 

 

<幕間4>

「いつものアレを」

「かしこまりました」

 

静かな店内にカクテルを作る音がひびきわたる。

 

「大丈夫なのか?……経営とか」

カウンターに座る男が言った。

「ご心配には及びません。今日はたまたまお客様が少ないだけですから」

「少ないっつーか、オレしかいないみたいだけど」

「まだ早いですから。じきに増えるはずです」

マスターは柔和な表情を保ちながら言った。

 

「おまたせしました。当店のシークレットカクテル『静思萬考』でございます」

「今時シークレットカクテルって…自分で言ってて恥ずかしくないか?」

「余計なお世話でございます。それに注文したのはお客様です」

「まあ、それはさておき」

「さておかないでください」

「この間の件の事だけどな」

「はい」

「直接会って話した方が早いんじゃないか?」

「ほう。では、ご協力いただけるということでよろしいのですね」

マスターの顔がほころぶ。

「まだ協力するとは言ってない。まずは会って確かめる。話はそれからだ」

「かしこまりました」

「そんな嬉しそうな顔をするな。まだどうなるかは分からない」

「分かっていますよ」

「あいつのことだから、このまま放っといたらいつまでかかるか」

「ほう…。なんだかんだ言って、随分気にかけていらっしゃるのですね」

「別にそういう訳じゃない。まあ老婆心だよ」

男はカクテルグラスを持ち上げ、そっと口に運んだ。

「ではそういうことで…よろしく頼む」

 

「まったく、敵いませんね。オオヤマさんには」

オオヤマと呼ばれた男は、ニャリと笑った。

花瓶に挿してあった牡丹の花がぽとりと落ちた。

 

 

 

 

4.

オレは今、東京将棋会館に来ている。なぜかって、それを話すと随分長い話になってしまう―ことも別にないのだが、まあ、要するにアレだ。いわゆるひとつの出待ちというやつである。

この案は実は「Bar 千駄ヶ谷」のマスターからの強い勧めによるもので、「学園祭でせっかく交流を深めたのにそれで終わりなんてもったいない。原始棒銀でもいいから攻め続けろ」という力強いお言葉とともに命じられた作戦なのだ。自分で将棋会館まで来ておいて偶然もへったくれもないと思うのだが、そんな細かいことを気にしていられるほど余裕はない、ということらしい。

 

女流棋聖戦の本戦第1回戦。初のタイトル挑戦を目指すつかさたんにとって重要な一戦である。対戦相手の茨城女流四段はタイトル経験者のベテランだが、つかさたんにも勝機は十分にあると見られている。

 

つかさたんの対局が終わるまでの間、オレは将棋会館の道場で時間を潰すことにした。が、しかし、もちろん将棋には全く集中できていない。目の前の相手が一生懸命将棋を指している間にオレは違うことばかり考えているのだから、負け続けるのは当然だった。

 

自分の対局が終わるごとに携帯を開いて棋譜中継をチェックする。何度か繰り返しているうちに、つかさたんの将棋も終盤に差し掛かってきた。

 

徐々に将棋を指している心境ではなくなってきたのでオレは一旦将棋をやめ、道場の外に出た。

 

再び携帯の画面を開き、棋譜をチェックする。

難しい局面だ。

しばしの間画面を見つめながら考える。

分からない。

子供のはしゃぐ声が聞こえるので何ともなしに視線を向けると、小学校低学年くらいの男の子たちが廊下を歩いてくる。

楽しそうに将棋の話をする様子を目で追っていたが、じきに通りかかったおっさんに注意されてしまい、皆シュンとした表情で道場に入っていった。

 

棋譜中継の画面に戻ると、局面はまた少し進んでいる。もう最終盤だ。

オレにはどちらが勝っているのか全く理解できないが、局面は緊迫している。おそらくギリギリの勝ち負けになるだろう。

いてもたってもいられずに側にあった自販機でコーヒーを買い、プルタブを開ける。

淡々と指し手が進んでゆく。

あと少しで決着が付く。

 

見築女流1級投了の表示を確認して、オレはふーっとため息を付いた。

どうしようか。

いろいろと計画が狂ってしまった。

せっかくだから一言くらい声をかけて帰ろうか。それとも、下手なことはせずさっさと撤退したほうが―

 

自動販売機の側面にもたれかかりながら、オレは迷った。攻めるべきか、引くべきか。

様々な情景が頭に浮かび、様々な希望と不安が渦巻いた。

遠くで響く駒の音を聞きながら、オレの思考は少しずつ弱気に傾いていった。

 

 

 

30分後、オレはBar 千駄ヶ谷にいた。

マスターと反省会である。

 

散々悩んだ末、つかさたんにはツイッター上でリプライを送っておくことにした。

ひとまず、「お疲れ様でした」と一言だけ。

つかさたんの目に触れるかどうかはわからないが。

 

「タカハシくんはどこまでヘタレなんだい?」

とマスターがいかにもがっかりしたような口調で言う。

「だって仕方ないじゃないですか」

オレはため息をつく。

「まあ無理攻めだったしね」

「マスター、ひどいっす…」

 

 

携帯の画面を無言で眺めながらストローの袋を弄んでいると、マスターが声をかけてきた。

「そもそもなんで、タカハシくんは見築先生のことが好きになったんだい?女流棋士とファンの恋愛なんて、はじめから難しいに決まってるじゃん」

今さら身も蓋もないことを言う人だ。

「つかさたんは‥見築先生は、オレの希望なんですよ。あんなに美しくて、可愛くて、将棋が強い人が存在しているだけでも奇跡なのに、あんなに一生懸命将棋を指してるんですよ。好きになるに決まってるじゃないですか」

「でもさ、そんな人は他にもいっぱいいるわけでしょ?どうして見築先生だったの?」

「それは…」

「それは?」

 

「一目惚れですっ!」

 

「……」

「笑わないでください」

「いや、失敬。あんまり真剣な顔して言うもんだからつい」

「別に、オレの勝手なんだからいいでしょ」

「もちろん、好きになるのはタカハシくんの勝手だよ。でも」

「でも?」

「相手の気持ちってものも、少しは考えないとね」

「わかってますよ」

「しつこい男って結局嫌われるんだよ」

「何気にひどいこと言いますね」

「嫌われるっていうか、相手にされなくなるっていうかね」

「それはっ‥」

すかさず反論しようとしたが、マスターがくるっと後ろを振り返って空のグラスを磨き始めたので、オレは黙ってストローの袋をいじり続けるしかなかった。

 

 

「見築先生が帰ってくるまで駅で待ってれば?」

「は?」

グラスを磨き終えたマスターが唐突に口を開いた。

「見築先生、実崎駅が最寄りのはずだからさ。改札の前で待ってればたぶん会えるよ」

「そんな、いつ帰ってくるかもわからないのに」

「対局が終わったのが1時間ちょっと前だろう?感想戦を仮に30分やったとして、  そろそろ駅についてもおかしくない。見築先生はたぶん、負けたときはまっすぐ家に帰るはずだ。飲みに行くような時間でもないしね」

 

「……」

 

「ま、私の想像だけど」

「……」

 

「でも、そういうのってストーカーじゃないですか?」

「ストーカーだよ」

「……」

 

「でもね、ストーカーになるかどうかはケース・バイ・ケースだ。見築先生がストーカーだと思えば君はストーカー。でも、そう思わなければそうじゃない」

「じゃあどうすればいいんですか」

「偶然を装えば問題ないよ」

「そんな、安易な」

「とりあえず偶然出会ったってことにすればいいじゃない。そんな些細なことなんかどうでもいいんだよ」

「……」

 

些細なこと、か…。マスターの真意がなんとなく分かるような気もしたが、しかし自分が一体何を期待されているのか、考えてみてもやはりよく分からなかった。

 

 

 

結果的にマスターの言うことには逆らえず、オレは実崎駅の改札前で立ち尽くすこととなった。

駅前のスペースは風をさえぎる障害物もあまりなく寒さがこたえたが、人通りはそれほど多くなく、利用客を見分けることにそれほど苦労はしなかった。

重くのしかかるような曇り空を眺めながら、その時が来るのをじっと待った。

 

 

つかさたんが現れたのは、20分ほど過ぎたときだった。

 

他の利用客に追い越されながら歩いてくるその様子は、いくぶんか疲れて見えた。

オレはそっと近づいて声をかけた。

「あの、見築先生」

「あ、タカハシさん」

近くで見るとつかさたんはやはり消耗した様子で、力なく微笑した。

落ち着いた表情ではあったが、平静さの裏には疲れが感じ取れた。

「今日は、対局だったんですか?」

「ええ」

「じ、実はオレもちょうどウチに帰るところで‥」

何とか話しかけたものの、自分の言葉がやけに空々しく聞こえた。

 

駅の利用客達が周囲を足早に歩いて行く。

なんだか自分の振る舞いを責められているような気持ちになった。

次の言葉を発することができず、しばらくの間沈黙が続く。

 

暗くなったせいか駅前の街灯に明かりがつき始め、あたりが少し明るくなる。

 

「今日は、ちょっと負けちゃって」

つかさたんがポツリと言った。

「そ、そうだったんですか」

「あの‥」

つかさたんは何か話し始めようとしたが、すぐにまた沈黙した。

 

「あの、よかったら、ちょっとお茶でもどうですか?」

思わず勢いで言ってしまってから、少し後悔した。

つかさたんは怪訝そうな顔をしてオレの方を見たが、こくりとうなずいた。

 

 

オレとつかさたんは駅の近くにある喫茶店へと入った。

以前マスターから薦められたことのある店だ。

おそらく断られるのではないかと思っていたので(なんといっても対局の直後だし)、誘いに乗ってくれたのは本当に僥倖だった。

 

店内は暖かく、席に座ると少しほっとした。

注文を考えるふりをしながら、オレは再び作戦を練った。

 

どうにかもう少し気の利いたことを言えないものだろうか。

無い知恵でも振り絞れば何か出てくるかもしれない。

いや、やっぱり無理だろうな。

いままでの自分の行動を振り返れば容易にわかる。いつもいつもその場しのぎのことしか考えていなくて、そして、自分ことしか考えていなかった。

相手の気持ちを推し量る努力を、そろそろした方がいいのかもしれない。

 

二人ともしばらく無言で座っていたが、ウエイターが注文を取りに来たのでホットコーヒーを注文した。

 

「この店、何度か来たことあります」

つかさたんが口を開いた。

「仕事の後とか、すぐウチに帰りたくない時とか」

「帰りたくないとき…?」

「そういう時ってあるじゃないですか。タカハシさん、ありません?」

「ありますよ、ええ。お気持ちはわかります」とオレは慌てて言った。

今がその時なのかどうかは、怖くて聞けなかった。

 

 

やがて、さっきのウエイターがコーヒーを運んできた。

湯気の立ち昇るカップを包み込むようにして手を温めてみる。熱い。

つかさたんの方を見ると、銀の容器に入ったミルクを躊躇なく注いでいる。

「いつもその位入れるんですか」と聞くと、「たくさん入れたほうがおいしいじゃないですか」と拗ねたように言って、少し笑った。

 

熱いコーヒーを少しずつ味わっていると、つかさたんが話を切り出した。

「ちょっと突拍子のないこと聞いてもいいですか」

「もちろんです」とオレは答えた。

 

「タカハシさんは将棋に勝てないとき、どうします?」

「叫びます」とオレは即答した。

「ふふっ」とつかさたんが笑った。

「オレはアマチュアですけど、負けると死ぬほど悔しいです」

「ふふっ。そうですよね」

つかさたんは柔らかい口調で言った。

「私、プロだけど…プロなのに、たぶんそういう覚悟ができてないんです」

 

「それは、どういうことでしょう?」オレは真意を探りながら慎重に尋ねる。

 

「私、これでも昔と比べると全然強くなったと思うんですよ。殻を破りきれてないってよく言われるけど、自分の中ではちゃんと成長してるはずなんです。将棋の中身も、以前に比べると随分ましになっていると思います。でも、トップの人たちには全然届かないんです。対局するとはっきりわかります。読みの深さとか、正確さとか、ほんと、足元にも及んでないです」

 

「……」

オレは曖昧にうなずいた。

 

「将棋って、結局は才能の世界じゃないですか。だから、その差を埋めるためにも頑張らなきゃって思ってるんですけど、でも、自分より何倍も才能のある人が一生懸命やってて」

 

オレは黙ってつかさたんの言葉を待った。

 

「勝てるわけないです。もともと。でも、最近すごく怖くなるときがあるんです。このままこの感じで…ずっと続いちゃうのかなって」

 

そこまで言うと、つかさたんはズズッとコーヒーをすすった。

 

「どうしたらいいと思います?」

少しおどけたような口調だったが、泣き出しそうな表情にも見えた。

 

違う、と声を大にして言いたかった。

多くの将棋ファンがつかさたんの将棋に注目している。独創的な序盤に驚き、緻密な作戦に息を呑み、時間が経つのを忘れるほど盤面に釘付けになる。そんな将棋ファンがたくさんいることをオレは知っている。みんなつかさたんの才能を感じ取り、期待している。

でも、そのことをきちんと正確に伝えるのは難しかった。それに、つかさたんが意図していることはそれとは少し違うものであるような気もした。

 

オレは言葉を選びながら慎重に言った。

「見築先生は才能ありますよ。誰にも負けないくらい。オレ、先生のファンだからわかります」

 

つかさたんはじっとこちらを見つめている。

 

「大丈夫です。もしタイトルを取れなかったらオレが責任とります」

 

つかさたんはゲホッと一瞬むせそうになってから、にらみつけるような表情で言った。

「責任取るって、なんですかそれ。意味がわからないです」

 

「わからなくてもいいです。でも、本当のことです」

「……」

 

少し思い切った事を言い過ぎただろうか。さすがのつかさたんも意表を突かれたようだ。 別に変な意味で言ったわけではないのだけど。

 

唇にそっと手を当ててうつむく姿は将棋を指している時のつかさたんを連想させたが、その柔らかな雰囲気は対局室でのそれとは全く違うものだった。

何か言葉をかけようと思ったが、思い直してやめた。

 

オレは両手で抱えるようにカップを持ち、ゆっくりとコーヒーをすすった。

 

 

 

5.

店の外に出るとあたりはすっかり夜になっていた。

 

「寒いですね」と言うと、つかさたんは「そうですね」と短く答えた。

駅からまっすぐに伸びる大通りを連れ立って歩く。

通り沿いにはレストランや雑貨店などが立ち並び、各々工夫を凝らしたイルミネーションがちかちかと光を放っている。

 

「見築先生、ケーキでも買って行きませんか?」

オレは一件のケーキ屋を指さした。『アプリコット』という名前で、近所では密かな人気店である。

「またですか‥?」

何かを思い出したのか、明らかに乗り気でない様子のつかさたん。

「疲れてる時は、甘いモノがいいんですよ」と誘惑を試みるも、反応はいまひとつだ。

 

「タルト系がおいしいらしいですよ。あの店。リンゴとか」

「タルト…」

猫にまたたび、つかさたんにタルト。

「ほら、前の時は結局そのまま帰っちゃいましたし」

「あれは、タカハシさんがヘタレだったからでしょう?」

「へ、へたれ?」

予想しない不意打ちに一瞬動揺したが、すぐに体勢を立て直す。

「そんなことはないです。オレは紳士ですから」

わざとらしく余裕ある素振りを見せるオレに、

 

「わかりました。リンゴのタルト買ったらタカハシさんの家に行きましょう。それなら付き合ってあげます」

つかさたんが弾むような声で言った。

 

「ダメなんですか?」

「え、いや、ウチ、今散らかってるから‥」

「片付け、手伝いましょうか?」

「その、片付けは、そのっ、いろいろマズイっていうか」

「冗談ですよ」

「え?」

「冗談です。ふふっ」

「くぅっ‥」

「ほら、寒いから早く入りましょう」

つかさたんが小走りで店へ向かう。

 

後を追いかけながら、オレはふと空を見上げた。

やはりというべきか、真っ暗闇の中にぼうっと浮かび上がる雲の他には何も見えなかった。




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