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七割未満

七割未満(六)

   七割未満(六)

清水らくは


 ジャガジャーン、というギターの音。アンコール三曲目、今度こそ最後の音だろう。

 拍手の中、手を振りながら帰っていく三人。汗だくだった。

「ねえ、どうだった? どうだった?」

 隣で沖原が目をキラキラさせている。それも当然、ライヴに誘ってきたのは沖原さんなのだ。

「良かったよ」

「でしょー」

  今日の沖原さんは変な英語の描かれた白いシャツに襟が豹柄の白いカーディガン、赤いチェック柄のサスペンダー付き赤と黒が折り重なるイレギュラーヘムのス カート、ドット柄のファー付きブーツという出で立ちだった。かなり過激な格好に見えたけど、会場に来てみたら溶け込んでいた。

 さきほどまで演奏していたのは、シカゴスプレーというスリーピースバンドだ。ギターボーカル・キーボード・ベースというあまり見たことのない構成だったけれど、三人のバランスが良くて、聴いていてとても心地よかった。

 ライブハウスを出ると、辺りは真っ暗、上空には丸っこい月が光っていた。

「遅くなったね。電車はどれ?」

「何言ってんの、だべるところまでがライブですよ」

「遅いと親心配しないの?」

「……しないよ」

 沖原さんは少しうつむいた。

「帰らない日もあるし」

「不良なんだ」

「そう。不良品」

 自分だって家族のもとへ帰るわけじゃない。これ以上この話はしないでおこうと思った。

「辻村はさ……棋士で決まりなんでしょ」

「何が」

「しょーらい」

「そりゃあ、ね」

「いいなー」

 沖原は喋りながらも、一直線にコトールコーヒーに向かっている。人の話を聞かないんじゃない、聞くことを省くタイプのようだ。

「みっちゃんは、意外としっかりしてるよね」

「意外とって」

「だって、いろいろと苦手そうなのに得意なもの見つけてるじゃん。私はわかんないからなー」

 店内に入った沖原は、何やら呪文のようなものを唱えている。注文するだけで疲れてしまうため、こういう店はできれば避けてきた。

「みっちゃんはどうするの?」

「あ……同じのを」

 出てきたのはソフトクリームの下にコーヒーが添えられているような飲み物だった。 いや、飲み物なのかこれ。

「あ、あそこ空いてる」

 奥の席へと駆けていく沖原。俺はプレートを持ってその後を追う。
「……辻……村?」

「あ、皆川さん」

 なんと、目の前に皆川さんがいた。今から出るところだったのだろう、バックを手にして席を立ったところだった。

「だれ、知り合い?」

 そして、空になったカップを捨てた後、こちらに向かってくる男性がいた。小顔で妙な形の淵なしメガネをかけている。

「あ、あの……弟弟子」

「へー……あ、見たことあるな。辻村……君?」

「はい。失礼ですが僕も見たことあるような気が……」

「ああ、俺は蔦原。囲碁棋士」

 そうだ、蔦原二段だ。雑誌の若手特集で見たような気がする。

「そうでしたか。改めまして、辻村充です」

「あれだ……高校生棋士なんだよね」

「でした。中退しました」

「あら」

 俺たちが話している間、皆川さんはそわそわしているように見えた。こちらを見たり、奥の方を覗いてみたり。

「あ、すみません。人を待たせてるんで」

「ああ、呼び止めてごめんね」

「皆川さんもまた」

「え……あ、うん。またね」

 店を出る二人。ひょっとして付き合ってるのかな。

「ごめんごめん」

「誰?」

「姉弟子……えーと、将棋の知り合いと、囲碁の人」

「ふうん。めっちゃにらまれた」

「え」

「彼女かと思っちゃった。綺麗だよね、あの人」

「まあね。化粧濃いけど」

「うん」

 沖原は、皆川さんが立っていた場所をずっと見ている。そんなに気になる感じだったろうか。

 俺はと言えば、この店の雰囲気に慣れない。だいたい知り合いにあってしまうような店は俺にとっていい店ではない。

「さ、復習よ」

「え」

「ライブの感想を話し合うの。とことん楽しまなきゃ」

「はあ」

 ライブにも感想戦があるとは知らなかった。しばらくこの店から逃れることはできなさそうだ。

 

 

 バトル・サンクチュアリ。

 この名前を聞いて、将棋の団体戦だとわかる人がいるだろうか。

 橘さんいわく、「12人参加だから思いついた」そうだが、まったく意味が分からない。

 とにかく、『将棋宇宙』企画の大会が決まり、俺は川崎さん、皆川さんと一緒に「関東若手チーム」として出場することになった。

「いやあ、それにしてもすごいなあ」

 目の前でうなっているのは若竹四段。関西若手チームの一人で、今日は対局で遠征してきていた。似合っているとは言えないツーブロックの髪を撫でながら、メンバー表を食い入るように見ている。

「たしかに、びっくりですねえ」

  俺らが驚いているのは、ベテランチームのメンバーだった。大将は赤松九段。二冠を獲ったこともある強豪である。現在もB級一組上位で昇級争いを繰り広げて いる。そして、副将、古溝八段。いわゆる「定家世代」の一人で、何度もタイトル戦に登場している。毎年高勝率で、若手の壁になっている存在である。早指しとはいえ、この二人がいる時点でベテランチームが優勝の大本命だろう。

 しかし最も驚いたのは、女性枠である。峰塚女流四冠。最強の人が出てきてしまった。絶対王者ともいえる存在であり、タイトルをほぼ独占しているため若手は対戦することすらできない。おそらくはそのことを踏まえて、橘さんが口説き落としたのだろう。

「水仙と女帝かあ」

 水仙とは関西若手チーム代表の上園水仙女流初段、女帝ととはもちろん峰塚さんのことだ。

「皆川さんもか……」

 やはり、実力差は相当ある。そしてもう一人はつっこちゃん。彼女は一度ネット対局で皆川さんには勝っている。プロ四段を目指す、ということは峰塚さんに軽くあしらわれるわけにはいかないだろう。

 チームとしては苦戦必至だが、外から見れば面白い対戦だともいえる。若手がどこまで女帝に通用するのか。

 まあ、その前に自分のことを考えないといけない。古溝八段とそこにいる若竹四段、そして奨励会チームの岩井三段と対戦することになる。三人とも初対局であり、今から棋譜を研究しないといけない。

「そういえばさ、金本さんって一緒に研究会してるんでしょ」

「はい」

「皆川さんは姉弟子で」

「そうですね」

「ややこしない?」

「え」

「こう、女の子はなんやかんやなときがあるやんか」

「なんやかんや……」

 皆川さんはともかく、つっこちゃんにはそういうややこしさはまったくない気がする。見た目や性格は本当に女の子らしいのだけれど、将棋に取り組む姿勢は完全に「四段」、もしくはその先をを目指したものだ。

 ……つまり、俺自身皆川さんがややこしいかもしれないことは否定できない。
「特に皆川さんは気が強そうやし」

「確かに」

「あれやで、メンタリティっちゅうのが大事やからね。団体戦は特に」

「そうですねぇ」

 そんな気がしてきた。もちろん俺と川崎さんが頑張ることも大事だが、どうすれば皆川さんが気持ちよく指せるか、というところが鍵となるだろう。

 しかし、改めて考えるとどうすればいいのかよくわからない。長い付き合いだけれど、皆川さんについてはよくわからない点も多いのだ。

「辻村君は女心についても要研究やな」

 若竹先輩も詳しいようには見えませんけどね、という言葉は飲みこんだ。上下関係については研究済みなのである。

 

 

 引力を感じた。

 いつも歩かない場所。何気なく通り過ぎようと思っていたのだけど、立ち止まってしまった。背中を引っ張られるようにして、振り返る。

 ガラス越しに、店の中が見えた。白と黒を基調にしたインテリアに、白と黒を基本とした服が陳列されている。色合いはとても地味なのに、目を惹かれるのはその形からだろうか。気が付くと俺はすでに、店の中に入っていた。

 この感じは何だろう……そうだ、先日聴いたギターだ。落ち着いた中にもエッジが利いていて、内側からロックが響いてくるような気がする。

 俺は、一着のピーコートを手にしていた。一列に並んだ飾りボタンが、果てしなくかっこいい。値段は……16万円。銀行から下ろせば、買える。

 店を出て、ATMを探して走った。運命の出会いを感じながら。

 

 

 いよいよ一回戦。関東若手チームは、奨励会チームとの対戦である。

 負けるわけにはいかないのだが、楽な戦いとも言えない。三段といえばプロと遜色ない力を持っているからだ。

 大将戦は、川崎対磯田。磯田三段は、新人戦でプロに何勝もしている。俺も三段リーグで負けたことがある。ちなみに名前が「瑠宇徒」と珍しいことから、将棋ファンからの認知度も高いようだ。

 副将戦は、辻村対岩井。岩井三段は14歳。若い。公式戦ではまだ自分より若い人と対局していないので、貴重な体験になりそうだ。

 女性枠は、皆川対金本。再戦である。前回はネット対局だったので、対面しての勝負は初めてということになる。

 ベテランチーム対関西若手チームの対局は別室ということになり、対局室には三つの盤が並べられた。いつもと大して変わらないのだけれど、これから団体戦をするんだ、という気分が高まってきた。

 のだが。

「大丈夫かなあ」

 川崎さんが心配そうに扉の方を見る。無言で控室を出て行った皆川さんは、すでに二十分ほど戻ってきていない。そういえば顔色があまり良くなかったし、挨拶の声も小さかった。体調が悪いのだろうか。

 奨励会員たちはすでに全員対局室に入っているようだ。雑誌に棋譜が載るということ自体が初めてということで、三段二人は相当気合が入っているようだ。つっこちゃんはいつも通りちょっとおどおどしていたけれど。

「辻村!」

 突如戻ってきた皆川さんは、なぜか俺の名を叫んだ。

「な、なに」

「あ、あのね、気にしてないし、気にしなくていいから!」

「え?」

「それだけ。さ、頑張ろ」

 一人で勝手に納得して、何やら頷いているいる皆川さん。川崎さんもぽかんとしている。

 とはいえ気にしている余裕もない。時間が近付いてきたので、三人で対局室へと向かう。

 部屋に入ると、対局相手、記録係、そして記者の上石さんがすでに準備万端で待ち構えていた。それぞれ一礼をして、上座に着く。

 団体戦は大将戦だけ振り駒を行う。川崎さんの歩がつまみあげられて、シャカシャカと混ぜられる。歩が二枚。俺は後手、皆川さんは先手だ。

 岩井三段はブレザー姿、中学校の制服だった。若さをアピールされているかのようだ。

「それでは、始めてください」

 よろしくお願いします、と皆が頭を下げる。岩井君は少し息を吸って、ゆっくりと吐きながら初手を指した。川崎さんのところを見ると既に四手進んでいた。皆川さんは目をつぶったまままだ駒に手を触れていなかった。

 俺のところは角換わりへ進んでいった。後手番の千日手狙い待機戦法で行く予定だったのだが、岩井君はすぐに気合よく仕掛けてくる。そうだった、彼は定跡を気にしないんだった。とらわれない、のとは少し違う。あんまり定跡を研究していないっぽいのだ。それでも若さは彼に抜群のひらめきを与える。無理っぽい仕掛けも、こちらが受け間違えれば破壊力のある攻めになる。

 ただ、とても落ち着いていた。強い人とだけでなく、級位者と研究会をしていたことが役立っている。大振りを避けるすべを学んだのだ。

 川崎さんのところは相振り飛車。普段指さない戦法だから、何か思うところがあってのことだろう。勝つのは当たり前、勝ち方が問題、ということかもしれない。

 皆川さんはゴキゲン中飛車、つっこちゃんは玉頭位取りで対抗していた。昔よく指されていた形だけど、今はめっきり見なくなった。相手に捌かれたら終わりの危険な指し方なのだ。でも、彼女らしいともいえる。つっこちゃんに最新形は似合わない。

 岩井君はどんどん攻めてくるけれど、どんどん苦しくなっていった。それは、かつての俺の姿でもあった。同年代では誰も受け止められない重いパンチも、プロにとっては普通のジャブなのだ。

 決め手は自陣飛車だった。何もさせない。

「……負けました……」

 一番早く終わった。内容自体は危なげなかったけれど、勝てるまではやはり緊張した。

「負けました」

 連鎖反応のように、磯田三段も頭を下げた。悪い局面をずっと粘っていたようだが、岩井君の投了に気持ちが切れたのかもしれない。

 チームの勝利は決まった。残るは女性枠。局面は、少し皆川さんがよさそうだった。馬を作られているものの、飛車交換に持ち込んで側面から攻めていけそうだ。玉頭戦に持ち込むのが居飛車側の狙いだが、飛車を渡した状態では反動もきつい。これは皆川さんやったか……と思ったのだが……

 つっこちゃんの目は、じっと自陣の右側をとらえていた。いったいそこに何があるというのか、俺にはよくわからなかった。そして細い腕が左側に伸びて、馬をつまんだ。右下へと引っ張られてくる馬。

 ▲3九馬。

 十秒ほど、凝視してしまった。一秒も考えなかった。今からまさに玉頭を攻めようとしていた馬。自玉の守りにも利いていた馬。それを、単騎遠い場所へと引っ込ませたのである。

 皆川さんも目を丸くしていた。予想していなかったのは明らかだ。

 そして、じっくりと考えてみると好手かもしれなかった。相手に飛車を打ちこませないようにし、自分はゆっくりと攻めていけばいい、そういう考え方なのだろう。いやでも、最善手だとは思えない。

 皆川さんも必死で手を作ろうとするけれど、相手に歩を渡すのは危険でもあった。龍は作れたものの駒を取れない。そしてついにつっこちゃんに攻めの番が回ってきた。攻め方もセンスがいいし、3九馬は遠くまで利き相手の逃げ道を塞いでもいた。

 全員が見守っていた。空気が、盤に吸い込まれていくようだった。

 皆川さんも頑張った。だから、美しく終局していった。

「負けました」

 下げた頭を、なかなか戻せないようだった。

 実力差があるのだ。そうとしか言いようがなかった。

 結果は2勝1敗、勝ち点2。優勝を目指すには苦しい出だしなのかもしれない。

 ただ、そんなことよりも。勝負の世界は厳しい、ということを実感していた。多分もう、皆川さんはつっこちゃんに勝てない。

 残酷な企画だ。けれどもこれを乗り越えたとき、皆川さんは何かを手に入れているかもしれない。

 ちなみに隣は2-1でベテランチームの勝ちだったらしい。若竹四段が古溝八段に一発入れ、残り二つはベテランが力を見せた、ということのようだ。やはり女流四冠の壁は厚かったようだ。

 次戦は、関西若手チームとの対戦。絶対に負けたくない相手だ。そして皆川さんの真価が問われる対局になるだろう。

 

 

「辻村……」

 ひどい顔をしていた。悲しそうなことはもちろんだけれど、髪はぼさぼさ、目元にはあざができていた。

「けがはないの?」

「してるかも。でも、ここまでは歩いてこれた」

 突然呼びされた。住宅地の公園で、彼女は待っていた。

「勘違いしないでよ、彼氏じゃないから。今は付き合ってないはずの人」

「そう」

「大事なところだから」

「女の子を殴るやつは関係なくくずだよ」

 少しだけ微笑んだものの、すぐに険しい顔に戻った。そういえば中学生の時、よくこんな顔をしていた気もする。

「なんでこうなっちゃうんだろうねー」

「わかってるんじゃない?」

「え」

「考えれば、わかるかもよ」

「そうかな」

 会わなければ、殴られない。簡単なことだけれど、きっと簡単ではない。俺には恋愛のややこしいことはよくわからないけど、やっぱり、殴るような男に近付く必要なんて一つも思い浮かばない。

「みっちゃんはさ……ちょっと謎だった」

「え、なんのこと」

「きっと頭いいはずなのに、成績はたいしたことなくて、でもなんか頑張ってる感じがしてさ、今から思えば将棋だったんだけど」

「まあ、そうかな」

「うらやましいって言うか、うん……いいなって思った」

「そんなことないよ」

「いや、いいよ」

 月は薄かった。星はいくつか見えるけれど、名前とかは知らない。沖原さんは、ブランコに腰を掛けた。遠い街灯の光が、片方の頬を照らす。

「あのさぁ……」

「なに」

「みっちゃんは、やっぱりいろいろ勉強しなきゃいけないことあるわ」

「よくわかんない」

「いいよ。来てくれてすっごい嬉しいから」

 東京の夜は、思ったよりも暗いのだ。空が狭いからだろうか。

 俺もブランコに座った。何か見たことがある光景だと思っていたのだけれど、それは、カーテンを付ける前の俺の部屋だった。何かが怖くて、何かを得たくて、カーテンを付けなかった。

 沖原さんのことをゆっくり知っていこう。そう思った。

 

 

 マンションの玄関前に、人影が見えた。怪しい。だがそう思ったのも一瞬で、その背格好から、そのたたずまいから誰だかわかって腰を抜かしそうになった。定家五冠だ。

 定家さんは俺を見つけると、にやり、と笑った。怖い笑みだ。

「辻村君、遅いじゃないか」

「定家さん、なんでこんなところに……」

「もちろん君を待っていたんですよ」

「僕を?」

「見させてもらったよ。君たちの棋譜を」

「え、それって……」

「とりあえず、家に入れてくれると嬉しいんだけど」

「え、は、はい……」

 オートロックにナンバーを入力して、将棋界の宝を俺の住むマンションへと招き入れる。どうやってここを知ったのか気になるところだったが、定家さんが知りたいと言えば誰だって教えてしまうだろう。

「いいマンションですね。一人で住んでるんですか」

「はい」

「まだ高校生でしたよね」

「やめました」

「そうですか。それもまたいい。辻村君は学校に行くよりもいろいろな人と会う方が勉強になるタイプだと思いますよ。私はね、学校が楽しかった。当時将棋はあまり好きではなくてね。でもあなたは将棋が好きそうだし、行かなくてもいいでしょう。ちなみに昔川西さんという先輩がいたんだけど、学校に行くふりをして麻雀ばかりやっていたということで、先輩たちは武勇伝として語るんだけどそれで成績が上がったわけでもなく……」

 ちーん。

「この階です」

「ほう」

 定家さんは放っておくといつまでも喋り続けるので有名だった。誰かがギネスにも載るんじゃないかと言っていた。

「ここです。そこそこきれいにはしてありますのでどうぞ」

「まあ、君はそうでしょうねえ」

 とはいえ、五冠を迎え入れるにふさわしい部屋なわけがない。とりあえず座椅子を引っ張り出し、腰掛けてもらった。

「ふうん」

「あの、お茶を入れますから……」

「いいですよ、私はお茶は飲まないので。コーヒーも牛乳も飲みませんよ」

 そういえば定家さんは対局の時、外国のミネラルウォーターを大量に持参することで有名だった。そしてそんなものはわが家にあるはずもない。

「そんなに長居はしません。君にアドバイスを与えに来ただけですから」

「アドバイス?」

 定家さんは俺に座るようにと合図したので、対面して腰掛けることになった。対局もしたことがないのにこのような状況になるとは。

「バトル・サンクチュアリ、君たちはまだあの企画の恐ろしさをわかっていないようなのでね。団体戦というのは、自分が勝ってもチームが負けることがある。自分が負けてもチームが勝って喜んでいることがある。自分の力ではどうしようもないところで勝負が動いていくというのは、恐怖じゃないですか」

「それは……」

「君達はただ対局に没頭しているつもりかもしれませんが、世間は団体の結果にも注目する。このままいけば皆川さんは勝てないでしょう。それが原因で優勝できなかったら……彼女本人だけでない、あなたと川崎君も傷を負うことになる」

 言っていることは、まあ、そうなのかもしれない。ただ根本的に、なぜわざわざそんなことを言いに来たのかがわからない。

「それを伝えて……僕に、何を望んでいるんですか」

「つまらないじゃないですか、こんなところで若手がつまずいたら。君と川崎君は、いずれ私に挑戦できる器だ。でもここで余計な傷がつけば、それが五年遅れるかもしれない。少なくとも名人挑戦は、五年遅れるでしょうね」

「なんでそんなことが」

「いいかな、順位戦で二年に一回ずつ昇級する人がいますか? 多くの人は一気に駆け上がっていく。一度つまずくと何年も足踏みする。勝率六割を超えている若手が一度も昇級しないままベテランになっていく時代です。彼らは一流になれる実力があった。それなのにいろんなことがきっかけで取り残されてしまった。そういうのは、あんまり見たくないんですよ」

 目つきがあまりにも鋭かったので、俺はまるで射止められた獲物のように身動きが取れなくなった。

「いいですか、私は中学の時、全国大会に出れなかった。エリートとは縁遠かった。でも、その後は全てのチャンスをつかんだんです。君たちはエリートとして出発できたのに、多くのチャンスを逃して、一流になる途上で迷っているように見えます。私は同世代とやるのは飽きてきたんですが、待っても待っても誰もやってこない。だから特別に、アドバイスしに来たんですよ」

 そこまで話すと名人は立ち上がった。

「あとはあなた次第です。では……五年以内にタイトル戦で会えるのを待っていますよ」

 そのまま定家さんは帰ってしまった。残された俺は、しばらく金縛りにあったままだった。


バトル・サンクチュアリ一回戦

   少女の追い越すスピード ――バトル・サンクチュアリ・一回戦――
上石三郎

 棋士たちによる団体戦、バトル・サンクチュアリが開幕した。

 大ベテランから奨励会員まで、十二人のプロが今まで誰も経験したことのない聖域(サンクチュアリ)で戦う、というのがこの企画の売り文句である。

 そのあたりは『将棋宇宙』で触れられていると思うので、『駒.zone』では注目の一局を中心に一回戦の結果を確認していきたい。

ベテランチーム2勝(2点) - 1勝(1点)関西若手チーム

赤松九段○-●新井五段
古溝八段●-○若竹四段
峰塚女流四冠○-●上園女流初段 

 事実上の決勝戦とも言われたこの対戦は、ベテランが底力を見せた。

 大将戦では赤松九段が終始新井五段を圧倒した。早指しでも力の差を見せつけたことになる。新井五段は目立つ活躍が多いもののムラがあり、勝率が伴わないことから「打点王」というありがたいのかどうかよくわからないあだ名を付けられている。今回は打点も挙げられなかった。やはり常に一定以上の力を出せる安定感が必要となるだろう。

 副将戦では若竹四段が意地を見せた。難しい局面が続いたが、きっちりと古溝玉を寄せきった。実績はそれほどでもないが、実力はずば抜けているとの噂であり、若竹四段の今後に期待である。また、古溝八段としては負け越すわけにはいかず、残り二戦は非常に緊張したものとなるに違いない。

 女性枠は、峰塚女流四冠の強さばかりが目立った。局面的には上園女流初段が食いついていた場面もあった。しかし、常に四冠が冷静に対処し、最後は相手が自爆するのを見るばかりだった。上園さんは期待されている若手だが、今回ばかりは悔しさにまみれたことだろう。それを味わえるだけでも、この企画はいいものだったと言える。

 こうしてベテランチームが勝ち点2、関西若手チームが勝ち点1となった。参照すれば勝ち点5なので、一気に逆転が可能であり、まだまだ今後どうなるかわからない。


関東若手チーム2勝(2点) - 1勝(1点)奨励会チーム

川崎五段○-●磯田三段
辻村四段○-●岩井三段
皆川上流1級●-○金本3級

 今回最も注目されたのが、奨励会チームではないだろうか。プロ相手にどこまで力が通用するのか。特に三段陣は、四段以上の力がありながら上がれない者が出ざるを得ない、と言われている。その真偽を図る意味でも画期的な対戦であったと言える。
 
 大将戦は、川崎五段が丁寧な指し回しを続けた。磯田三段も鋭い手を放ったものの届かず。力の差がはっきりと出ていた将棋だった。将来タイトル挑戦も期待されているだけに、川崎五段はこんなところで負けるわけにはいかなかっただろう。

 副将戦、辻村四段は序盤からリードを保った。目立つ将棋ではないが、常にきっちり読んでいるのがわかる。対する岩井三段は最年少三段で才能は誰もが認めるところだが、まだ粗さがあるように見受けられる。辻村四段に軽くいなされているように見えたが、これでは天才と呼ぶのはまだ早そうだ。

 さて、今回は女性枠、皆川女流一級と金本3級の将棋に特に注目してみたい。

 二人はネット棋戦の竹籠杯で対戦経験がある。その時は金本3級が勝ったが、その後皆川さんの成長も目を見張るものがあるとの評判だった。関東の若手女流棋士には他にも活躍する者も多かったが、将来への期待を込めての選出だったと思う。それに対し金本さんは関東奨励会所属唯一の女性であり、また経歴が謎のベールに包まれている。アマチュア大会には一切出場したことがなく、将棋関係者が全く知らない中入会。最新定跡に詳しい若手の中で、古典的な将棋を好んで指している。

 また、皆川さんは辻村四段の姉弟子であり、辻村四段と金本さんは研究会仲間である。辻村四段は二人を共によく知る関係性であり、本局のキーマンであったとも言えるのではないか。

 将棋は皆川さんのゴキゲン中飛車に、金本さんの玉頭位取りという戦型になった。ゴキゲンが流行り始めた頃によく見られた形であり、金本さんらしい戦型選択と言える。皆川さんの方は慣れない形に少し面食らったのだろうか、序盤から小刻みに時間を使っていた。

 馬を作られ少し抑え込まれ気味だった皆川さんだが、飛車交換に持ち込み勝負形になったかと思ったのが図1。


  後手からは次に飛車を打ちこみ桂香を拾う手や、角をぶつける手がある。うまくさばいたかと思ったが、次の手がハイライトだった。図1の局面から金本さんが指したのは▲3九馬。(図2)

  
  なんと玉頭と敵陣右辺をにらんでいた馬を、自陣深くまで引き上げたのである。指されてみるとなるほどという手で、これで後手からの飛車打ちを消している。それでも先手が特に有利になったという局面ではないが、皆川さんは方針を決めなければならず、かなり迷わされたことだろう。歩を使って打開を図るが、渡した歩は玉頭攻めに逆用されることとなった。

 図2のような陣形は、研究の果てには現れないだろう。女性初の正会員という期待とともに、将来もっと上で活躍できるだけの才能を金本さんは持っているかもしれない。

 他方皆川さんは金本さんに連敗となってしまった。このまま差を付けられては、女流棋界で活躍することにも支障が出るだろう。次戦は峰塚女流四冠と。勝つつもりで挑んでほしい。


 一回戦を終え、ベテランチーム・関東若手チームが2点、関西若手チーム・奨励会チームが1点となった。どのチームが3勝して5点をもぎ取るか、それが次戦以降の見どころである。