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Life is lovely

Life is lovely 2

  Life is lovely 2

ジェームズ・千駄ヶ谷

 

1.

冬というのは全く救いのない季節だ。呼吸をするだけで喉が痛くなり、体がこわばって思うように動かず、小指を角にぶつけると猛烈に痛い。

そして冬の雨というのは更にひどい。

着ているダウン・ジャケットは水分を吸って重たくなり、体の芯から体温を奪い取られていく。

今こうして大学からの帰り道を歩いているだけでも疲労の色を隠せず、心はつまらない哀しみに囚われて沈み込んだまま抜け出せない……はずなのだが。

 

「だから先輩、聞いてますー?タカハシ先輩?」

苦悶の表情を気にもとめず軽々しく話しかけてくる女は、立河ミズキ。オレの後輩だ。

 

「聞いてるよ!だから天ぷらは茄子が一番だって言ってんじゃん!てか、お前の家、あっちじゃなかったの?」

「えー、でも、この間はキスが一番だって言ってたじゃないですかー」

 

ミズキは今年アニメ同好会に入ってきた一年生で、自称ゆるふわ系女子である。

 

アニメ同好会はほとんどが男子部員なので、女子の存在はそもそも珍しい。だから女子部員というだけで必然的に人気が集中するし、まあ客観的に見てもかわいい部類に入ると思う。そんなミズキがどうしてオレなんかに興味を持ったのか、全く謎なのだが‥。

 

「キスも好きだけどさ。高いじゃん。キスのてんぷら。スーパーに売ってないし」

「えー、私売ってあるお店知ってますよー。衣がサクサクの」

「サクサク…」

キスの天ぷらの食感を想像すると、ゴクッと唾を飲み込まずにはいられない。あれは人を過ちへと導きかねない食物だ。恐ろしい。

 

「ここからそう遠くないところですけど。今から行きます?」

意味有りげな笑みを浮かべて聞いてきたが、

「行かない」とオレは付け入るスキを与えないように断った。まったく油断ならない。

「えー?キス、好きなんでしょ?」

「好きだけど行かない」

ミズキのいたずらっぽい上目遣いに「まあ、そこまで言うなら」と思わず言ってしまいそうになるが、容易に屈してはいけない。ような気がする。

「好きなのに?」

「……」

無言で歩くペースを上げる。

「タカハシ先輩って普段夜ご飯とかどうしてるんですか?」

「夜ご飯?」

ミズキが攻撃の矛先を変えてきたので、オレは少し慌てた。

「夜ご飯なんて適当だよ、だいたい」

「適当って具体的にどんなのですか」

別に見栄を張っても仕方ないとは思うけれど、半額になったスーパーの弁当でほぼ毎日生活しているという実態はなかなか明かしづらい。

「どうしてそんなこと聞くの?キミには関係無いでしょ」

思わず突き放した言い方になってしまう。

「……」

無言になるミズキを見て少し悪かったかなと思いかけるが、いや、このくらいで丁度いいと思い直す。

 

「ふえぇ、そんなに怒らなくていいのに‥」

ミズキは手で顔を覆い、泣く仕草をする。

「泣き真似してんじゃねえよ」

「うう、先輩、ひどいです。うう‥」

なかなか泣き真似をやめないミズキ。本当に泣いてたらどうしようという不安が一瞬よぎる。

 

「ほら、なんか俺が泣かせたみたいに思われそうだから早く泣き止んで」

人通りは多くないが、チラチラと見られている気がする。

「ぐすっ。大丈夫です。先輩がウチに来てくれたら」

顔から手を離し、ニッコリと笑うミズキをみてオレは少し安心する。

「行かねえっつたろ」

「ふえぇ」

「二度目は面白くない」

「ちっ」

「ねえ今ちって言った?ちって言ったよね?」

「そんなこと言ってないですぅ。聞き間違いですぅ」

 

「はいはい、わかったから、もう帰れ。お前んち、あっちだろ」

「そこまで嫌われているなら仕方ないですね‥」

「いや、別に嫌ってるわけじゃねーけどさ、」

「あーあ、少しくらい相手してくれてもいいのに」

言うとミズキは立ち止まり、手でコートの裾を払った。

 

帰られたら帰られたでもったいないような‥気はしないけどな。

なぜだかよく懐いてくれているし、ミズキみたいな彼女がいれば‥と思うこともないではない。ただ、それはできないことなのだ。進んではいけない分岐なのだ。

なぜなら、ミズキにはちゃんと彼氏がいるんである。

 

あれは―。そう、2ヶ月ほど前のコンパの時だったか。オレとミズキは偶然隣の席になって、自分を含めた上級生数人と一年生のミズキで卓を囲む形になった。

同好会のコンパで新入生に振る話題といえばだいたい相場は決まっている。コイバナである。

 

「ミズキちゃんさあ、どんなタイプが好み?」

部内随一のモテ男と評判のサトウが話しかける。

「えーっとぉ、年上の人で、頼りになる人っていうかー。大人っぽい人がイイいですかねー」

「ほほう。何歳くらい上までオーケーなのですか?」

珍しく酒に酔ったナカムラが続けて聞く。

「ええ?年齢ですかー?う~ん。だいたい父親の年齢までっていうかー、ハゲてたらNG、的な?」

「ふーん。じゃあ、ハゲてなければOKなの?」

これはオレの言ったセリフだが、思い出してみるとやや間の抜けた質問だ。

「あっはは!そうかもしれませんねー」

「ミズキちゃん、高校生の時は彼氏とかいなかったの?」

この発言もオレだ。

「え?あ、てゆうかー、今付き合ってる人は高校から付き合ってた人なんでー」

「え?じゃあ今彼氏いんの?」

ミズキは少し躊躇するような表情を見せたが、悪びれる様子もなく言った。

「いますよー。あっは。もしかしてガッカリさせちゃいました?えへへ、すみませんー」

「いや、別に…」

 

このときの出来事がささやかなトラウマにとなって以来、自分からミズキに話しかけたことはない。ないのだが‥。

たぶん、からかわれているのだろう。適当な暇つぶしの相手にちょうどいいと思われたのかもしれない。こいつなら、少々ちょっかいを出してもやけどする心配がないと。

 

 

今きたばかりの道を引き返していくミズキの後ろ姿を眺めながら、オレは考える。なんだかちょっともったいない、というか、ちぐはぐなことをしている気がする。いろいろと。そう、いろいろと。

 

 

 

 

2.

古いエアコンがごうごうと音を立てる部室に15、6人の部員がテーブルを囲んでひしめきあっている。

アニメ同好会の定例部会。

基本的に自由奔放な活動スタンスをとっているアニメ同好会において、唯一参加が義務付けられている集まりである。

 

「次に、諸君から意見を募っていた模擬店の件だが―」

 

司会を務めるのは我らがアニメ同好会の部長、オオヤマである。

この男、一応れっきとした学生なのだが、その外見は明らかに大学生のそれではない。

ゴツイ黒縁メガネに着流し姿、恰幅の良い体型、腕を組んで部長専用アームチェアに座る様はカタギの者とは思えぬ風格を漂わせている。

 

実際オオヤマの年齢がいくつなのか、何度となく部員たちの間で話題になっているのだが真実を知るものは誰もいない。

そして服装や立ち居振る舞いもさることながら、頭頂部のハ○が彼の年齢を考察する上で避けて通れない問題となっていた。

というか、オレも入部したばかりの頃は顧問の先生か何かだと思い込んでいた。

 

「今日の部会で結論を出そうと思う。諸君、よろしいかな?」

その言葉は重々しく、いかにも老成している。

「現在までにメイド喫茶、フィギュア展示会、コスプレ撮影会…等々が候補に上がっている。この中から、多数決で選ぼうと思う。ミズキくん、意見の集計を頼んでもいいかな?」

「は~い、部長」

「ではさっそく始めよう。順番に意見を言ってくれ」

かくして、アニメ研究会の命運を決する投票が開始されたのであった。

この投票の結果が、あのような悲劇を生むことになると一体誰が想像したであろうか‥

 

その場にいた15人の部員全員の投票が終わり、ミズキが集計結果を発表した。

 

「メイド喫茶9票、フィギュア展示会2票、コスプレ撮影会4票です」

 

結果を聞いた部員たちから「おおっ」と軽いざわめきが起こる。

「うむ。では、今年の模擬店は、メイド喫茶に決まりだな。異議のある者はいるか?」

 

「あのー、部長、メイドカフェをやる部活って他にもありそうじゃないですか?」

とサトウが口を開いた。

「確か去年、メイド喫茶やった部活けっこうありましたよ」と1年生のスズキが付け足す。

彼らはコスプレ撮影会を主張していた少数派だ。

「ふむ。たしかに普通のメイドカフェでは目立たないかもしれんな‥」とオオヤマ。

「しかもさ、俺らの部活女子ほとんどいないじゃん。肝心のメイドはどうすんの?」

4年生の御意見番的存在、アベが口を挟んだ。

「現役の女子部員はシミズ先輩とミズキちゃんしかいないですね」とオレ。

「さすがにメイドが二人だけでは厳しいでありますか‥」とナカムラ。

「厳しいかもな。メイドカフェのコンセプトを保ちつつ、男子部員を活用する方法があればいいんだが」とアベ。

 

「最近はやりの猫カフェとか‥」

「どっから猫連れてくんだよ。それに保健所の許可が降りない」

 

「外部からメイドさんを雇うとか」

「だからどっから連れてくるんだよ?」

 

「いっそビジュアル系執事カフェにしちゃえば」

「お前、鏡見たことある?」

 

雑多な意見が出され、議論の雲行きが怪しくなってきたその時。

 

「男子が女装して『男の娘カフェ』にするっていうのはどうっすか?」とサトウが言った。

「おお!」、「それだ!」と一部の部員達から歓声が上がる。

同時に「ええっー?」と疑問を呈する声も聞かれる。

賛成、反対と意見がはっきり二分されたかに思えたが、やがて「仕方ない」、「他にやりようがない」という声が大勢を占め始めた。

 

「……どうやら決まったようだな」と静かに議論に耳を傾けていたオオヤマが言った。

部員たちから再び歓声が上がった。

 

「おいおい、マジかよ」

オレはつぶやいた。

 

 

 

 

<幕間1>

ある休日の午後。

オレとナカムラは、とある用事でアニメ同好会の部長オオヤマの自宅に招かれていた。

 

大学から3駅分ほど離れた住宅街にあるオオヤマの自宅は想像を絶する豪華さの日本家屋で、オレとナカムラはまずそのことに驚かされた。

歴史を感じさせる木造二階建ての母屋に、それを取り囲むように広がる緑豊かな日本庭園。格子戸を開けて中に入ると、まずオレの部屋より大きいんじゃないかと思えるほど立派な玄関があり、そこから板張りの廊下が奥へと続いている。

オレは日本の伝統家屋には全然詳しくないが、この家がおそらく途方も無い価値を持つ邸宅であろうことは容易に想像できた。

「部長、こんなところに住んでたんですか!」

「ひょっとして、資産家の息子だったとか?」

オレとナカムラが興奮気味に疑問をぶつけると、

「株とFXで一山あててな…。まあ、ボロ屋だが」とオオヤマはさして誇らしげな風でもなく淡々と説明した。

「ちょうどコレクションの置き場所に困っていた頃にな。国税庁の差し押さえ物件をヤ○オクでみつけたのよ」

「差し押さえ物件ってヤ○オクで買えるんですか?」

確かに築年数はずいぶん経っていそうだが、半端な額ではないだろう。

「それに差し押さえられた民家って、ちょっと怖すぎる気が…」

「そうか?俺はそういう細かいことは気にしない主義だから」とオオヤマは平然と言ってのけた。

オレとナカムラは目を丸くするばかりである。

 

オオヤマの案内で洋間に通されると、そこでしばらく待つように言われた。

部屋の中央には年季を感じさせる立派なウッドテーブルが鎮座し、両脇には上品な光沢を放つ革張りのソファーが置かれている。

あまりの豪華さに、座ることさえためらわれた。

縁側の向こうに目を向けると、日本史の教科書にでも載っていそうな純和風の庭園が広がっている。岩で周囲を縁取られた池と、枝がうねうねと曲がりくねった大きな松の木がなんとも荘厳な雰囲気を放っている。

 

「……すごい」

オレは思わずため息をついた。

 

やがて、お茶と和菓子をお盆に載せたオオヤマが現れた。庭のことについて質問すると、

「前の住人が好きだったみたいでな。せっかくだから暇な時に手入れしているんだ」と照れ隠しのように笑った。

 

お茶菓子も食べ終わり一段落つくと、オオヤマが本題を切り出した。

「今日呼んだのは他でもない、君たちにオレのコレクションの一部をやろうと思ってな」

「コレクション?部長のですか?」

「そうだ。長年かけて集めた品だが―さすがに数が増えすぎてな。少し整理しようと思ってるんだ」

「しかし、大切なコレクションでは…、良いのですか?」

「ああ。遠慮は無用。好きなだけ持って行ってくれ」

 

オオヤマのコレクションルームに案内されたオレたちは再び仰天することになった。

大広間を改装したスペースに、人の背丈ほどもあるガラスケースがズラリと並んでいる。まるで博物館の展示室のようだ。

それぞれのケースはジャンルごとにコンパートメントで区切られ、フィギュア、プラモデル、食玩などがびっしりと並んでいた。

 

思わずナカムラと顔を見合わせた。

「これは…」

ひと目見ただけでは把握しきれないが、おそらく相当に貴重な名品ばかりが集められているようだ。

正直、オオヤマという人間を甘く見ていた。

「どうも古い作品ばかりになってしまってな。自分では捨てられないから、欲しい人がいればあげることにしてるんだよ」

そう語るオオヤマは子供を慈しむような目で自らのコレクションを見つめている。

「君は確かフィギュアを蒐集してるんだっけな」とナカムラに訊ねる。

「はい、そうですが…」

「今では手に入りにくい品もあるはずだ。好きなだけ持って行ってくれ」

「本当によろしいのですか?」

ナカムラが遠慮がちに答える。

「ああ。君も蒐集家なら分かるだろう。数ばかり増えたコレクションは美しくない。かといって、新しい作品を探し求める楽しみも捨てられない。だからこうやって、定期的に人に譲り渡すのが一番なんだ。もちろん、その価値が分かる人に、ということだが」

 

二人は神妙な表情になってオオヤマの話を聞いた。

言われてみれば納得のいく理由のようでもあり、単なる口実のようにも思われた。

蒐集を極めた人間は皆同じ考えにたどり着くものなのか、それともオオヤマが特殊なのかオレには分からないが、そこには確固たる思想のようなものが感じ取れた。

 

「自分にはコレクションを他人にあげるなんて、想像もできないです‥」

ナカムラは腑に落ちないといった様子で言った。

 

「ふふ。オレも若い頃は数を増やすことに必死だった。好きな作品もたくさんあったしな。良いフィギュアを選ぶというよりは、悪いフィギュアを選ばないよう自戒する―そういう感じだったな。むろん、失敗も数え切れないほどしたが」

オオヤマの表情は何か遠い昔の出来事を思い出しているかのようだ。

 

「部長‥」

もっと深く話を聞いてみたい気持ちもあったが、なんと尋ねていいかわからなかった。

この人はおそらく、只者じゃない。あなたは一体、何者なんだ…?

 

その後、ふと気になったことを質問してみた。

「ところで部長、つかぬ事をお伺いしますが」

「なんだ、言ってみろ」

「ひょっとして将棋を指されたりしませんか‥?」

 

「将棋?いや、ほとんどやったことがないな。前も聞かなかったか?」

 

「そうでしたっけ‥。いえ、なんとなく思っただけです」

将棋は指さないのか。なんとなく強そうなイメージがあったのだが。

「変なことを聞くやつだ」

オオヤマはふふっと楽しそうに笑った。

 

 

<幕間2>

それは嵐のような出来事だったという。

理学部B棟104講義室ではアニメ同好会の模擬店設営が進められていた。

部員の多くが講義を受けている時間帯で、残った数人だけが作業にあたっていた。

 

悪魔は、突然やってきた。

「ちーっす。アニメ同好会って、ここっすか?」

学園祭準備中の講義室を訪れたのは若者向けファッション誌に載っているような格好をした、見るからにチャラい外見の男女だったそうだ。

彼らはとある運動部の部員であることを名乗ると、こう言った。

「あのー、ここ俺らが使うんでぇ~、今日中に出ていってもらえますか?」

「!?」

凍りつく部員たち。

「この講義室、ウチらが使うことになったんでぇ~。替わってもらっちゃう感じでいいっすか?」

 

「それは、どういうことでしょう?」

その場に居合わせたアベは、拳を震わせながらもあくまで冷静な対応に努めたそうだ。

「俺ら、喫茶店やることになったんでぇ~。立地的にこの教室がいいじゃん?みたいな?」

ことの重大さに気づきはじめた部員たちが集まってくる。

「そんな、急に替われっていわれても、準備をはじめちゃってるし‥」

「そもそも、許可もらったのはウチらのはずなんですけど」

口々に反論を述べる部員たち。

しかし、

「許可?許可証ならさきほどもらってきましたわ」

マネージャーを名乗る女が掲げた書類は、確かに大学が発行した許可証だったそうだ。

「そっちが持っているのは仮許可証でしょう?あなた方アニメ同好会の仮許可は本日付けで取り消していただきましたわ」

「どうして、そんなことが…」

予想外の事態に困惑する一同。

「なんか~、こいつのカレシが学祭の実行委員長?みたいな。それで、顔パス?的な?」

 

あまりに理不尽な理由に部員達は必死に抗議したが、全く聞き入れてくれなかったそうである。

 

「ていうかあなた方、そんなダサい服装で本当に大学生なんですの?男子校の高校生と間違われますわよ。キャハハハッ」

最後にそう言い残して、二人組は去っていった。

 

連絡を受けたオオヤマが慌てて駆けつけた時には、絶望した部員たちが呆然と立ち尽くしていたということだ。

 

 

<幕間3>

ふえぇ、学祭の準備終わらないよぉ

@Takahashi_85hi 学祭なにすんの?

@ShimShim78男の娘カフェ…

わぁい女装、タカハシ女装だぁい好き

なわけねーだろ

@Takahashi_85hi きも

待ってくれみんな誤解だ

 

@Takahashi_85hi  タカハシさん、学園祭にお邪魔してもいいですか?

ほえ…

@TKS_shogi もちろんです!!全力でお待ち申し上げております!!

アワワワワ(((( ;゚д゚))))ドウシヨウ

アタヽ(д`ヽ彡ノ´д)ノフタ



3.

11月の下旬、季節がすっかり冬めいた頃、秋玲祭は行われる。

キャンパスに林立するイチョウの紅葉も見頃となり、模擬店の列に彩りを添えている。

しばらく前と比べるとめっきり寒くなったが、それでも大学生、親子連れ、近所の高校生などで会場はにぎわっていた。

 

よくもまあ、あの状況から準備したものだ。

代わりとなる教室を手配し、机や椅子を移動させ、調理器具や食器を運び込み、まさに部員総出の作業だった。

コスプレ衣装についても全員分揃えられるかどうかが懸念されていたが、日ごろの活動の成果なのか、意外にもあっさり集まってしまった。部員たちはセーラー服だったり、魔女っ子姿だったり、思い思いのコスチュームに身を包んでいる。客観的に見てかなりシュールな光景だ。はっきりいって周囲から浮いている。ちなみにオレの着ている衣装はというと――某人気学園アニメの主人公たちが着ているブレザー(ミニスカ+ニーハイ)である。

 

 

「部長、お時間です」

サトウに呼ばれ登場したオオヤマは、タキシードに蝶ネクタイという出で立ちだった。

普段の格好からすると相当ギャップがあるが、不気味に似合っている。

しかしこのタキシード、どこかでレンタルしたのだろうか。ひょっとすると部長のことだから自前のものを持っていたのかもしれない。

オレは思わずぷっと笑い声を漏らしたが、他の奴らはいたって真面目な顔をしている。なんて精神力だ。

 

やがて開店の時間となり、部員たちが店内に整列した。

「貴様ら、準備はいいか」

皆の前に立つオオヤマが重々しく言った。

 

「今日の日を迎えるための準備、まことにご苦労だった。心から感謝する。しかし、あの日の屈辱を忘れる訳にはいくまい。本当の戦いはこれからだ。この戦、勝つも負けるも諸君らの働きにかかっている」

オオヤマは一度気息を整えると、あたり一面に響き渡る大声で言った。

 

「命を燃やせえええええええええええええええ」

 

「「おおーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」」

 

雄叫びを上げる一同。

 

いや、うちの部、こんなノリじゃなかったろ…

 

 

部員たちはサッと解散すると各自の持ち場につき、最後の確認を行う。

「A班、テーブルセッティング完了!」

「B班、キッチン準備できました!」

 

「了解。メイド及びコスプレ班も配置に付け!」

 

「「Yes!! Your Majesty !!」」

 

かくして、アニメ同好会史上に残る一日が始まったのであった。

 

 

 

結論から言うと、我らがメイド喫茶は想像以上の賑わいを見せた。「男の娘メイド」が秋玲祭の客層に受け入れられるかどうかが勝負の分かれ目であったが、「店員がとにかくキモい」、「でも何人かのメイドはガチ可愛いらしい」と評判を呼び、怖いもの見たさの来場者たちを取り込んだ。全ては戦略の勝利?であった。

 

しかし、そんな部員たちの活躍をよそにオレは朝からずっとそわそわしていた。

 

なにせ、つかさたんが来るのだ。冷静でいられるはずがない。

客は切れ目なくやってきたが、オレの場合仕事といっても飲み物を作ったり、簡単な調理をしてメイドさんに渡すだけの役割だから、さして忙しいというわけでもなかった。暇を見ては何度もテーブル席の方に視線を送ってチェックしているのだが、全く落ち着かない。

後輩のミズキからも「先輩、どうかしたんですか?」と心配される始末だった。

 

 

14時を回った頃、ついにつかさたんの姿が見えた。

メイド(スズキ)に案内されて席に座ると、キョロキョロと周囲を見回している。もしかしたらオレのことを探しているのかもしれない。

まっててね、つかさたん、今行くから―!

心のなかで叫びながらハッピーマジカルレモンティーを作る作業に戻る。

「ちょっと、先輩、紅茶こぼれてますよ!」

ああっ、またやっちゃったよ…

慌てて別のカップを用意する。どの辺がハッピーでマジカルなのかよくわからないが、

通常の紅茶にシナモンだのローズマリーだのを配合してふりかける工程が入っているので地味に時間がかかるのだ。

ようやく作業を終えてホールの方を見やると、つかさたんが真剣な表情でメニューを見つめているところだった。おそらく、うかつなものを注文してはまた変なおまじないを唱えさせられるかも知れないと思って警戒しているのだろう。

キモかわいいと一部のコアな層を取り込んだ本日午前の指名ナンバーワン男の娘メイド、スズキが注文を取りにいく。

 

つかさたんは何か気になることがあるのか、なにやら熱心に質問しているようだ。もしかしたらおまじないの有無でも確認しているのかもしれない。

今回のメニューにはあんなハードなおまじないは含まれていないが、一部キワモノと呼べるような品もあるから、事前に中身を確認しておくのは賢明な判断だろう。

 

引き続き手元で作業しながら様子を伺っていると、つかさたんはおもむろに携帯を取り出してスズキとのツーショット写真を頼もうとしている。つかさたん、まさかそういうの好きだったの…

 

注文を取り終えたスズキが帰ってくる。

つかさたんが頼んだメニューは、『ツン☆デレぶるーべりぃてぃー』と『店長の愛情たっぷりリンゴのタルト』。長考しただけあってなかなかいいチョイスかもしれない。

『ツン☆デレぶるーべりぃてぃー』は要するにロシアンティーで、市販のセイロンティーにブルーベリージャムを大さじ一杯分ドカッと投入したもの。リンゴのタルトは調理場で作ることができないため、冷蔵庫にストックしたものを提供している。オオヤマが知人のツテで大量に仕入れてきたらしいのだが、スタッフによる試食の段階であまりにおいしかったため、どこぞの有名店から裏ルートで仕入れたのではないかと噂になっていた。曰く、生地の甘さとリンゴの酸味との絶妙なバランスを追求した逸品だのなんだの…

 

「スズキ、これはオレが運ぶから」

注文の品を作り終えたオレはそう言うと、「接客は僕の仕事ですから」というスズキを押しのけてテーブル席へ向かった。

 

「見築先生、本当に来て下さったんですね」

「タカハシ…さん?」

つかさたんは怪訝な表情でオレの方を見つめている。

「あ、この服装は…」

午前中からずっと着ていたので、コスプレしていたことをすっかり忘れていた。

「みなさん女装してるんですね。ふふっ」

「いや、その」

「タカハシさんもその制服、お似合いですよ☆」

「見なかったことにしてください」

冷静に考えると少しマズイ姿を見られてしまったかもしれない。

目を細めてにやにやしているつかさたんから、何やら不穏な空気が漂っている。ような気がする。

「えー、もっと自信持った方がいいですよ。すごくカワイイし」

どうやら楽しんでもらえている?ようなので、気を取り直してメニューの説明に移る。

 

「こちらが『ツン☆デレぶるーべりぃてぃー』、そしてこちらが『店長の愛情たっぷりリンゴのタルト』になります」

「きゃー、カワイイ。写真撮っていいですか?」

「ええ、もちろんです」

喜んでもらえて何よりだ。

「タカハシさんも入ってください」

「え?写真にですか?」

戸惑いながらもカメラの正面に移動する。

「何かかわいいポーズしてください」

「かわいいポーズ…?」

突然のリクエストに思わず苦悩の表情を浮かべると、

「ほら、もっと笑顔で」

すかさず注意された。

ダメ出しの末に必死に可愛らしい?横ピースをきめ、なんとかつかさたんの満足のいく写真に収まった。

 

「あの、これ本当においしそうですね」

リンゴのタルトを見つめながらつかさたんが言った。

「お褒めに預かり光栄です。ウチの店長が謎の…、いえ、丹誠込めて作った逸品ですから」

「食べるのがもったいないくらい」

「そりゃもう、愛情込めて作ってますから」

本当は冷蔵庫に保管してるだけだけど。

「そうだ。なんか、おいしくなるおまじないとかしてくださいよ」

「そんな、イキナリっ!?」

つかさたんが再び攻勢に出た。

今日の彼女はなんというか…暴君だ。

「タカハシさん、今日はメイドさんなんでしょ?」

うっすらと笑みを浮かべる表情に背筋が冷たくなる。

「いやー僕、そろそろ厨房に戻らないといけないんで」と逃げ切りを試みたが、

「ムービーで撮りますから。合図したらおまじない始めてください」

再び携帯のカメラを構えるつかさたんに妥協する様子は全く感じられなかった。

仕事に戻らないといけないというのは別にその場しのぎの嘘という訳ではなく、実際さっきから「ちょっとー部長見てくださいよータカハシ先輩が全然仕事してくれないんですよー」というミズキの声が奥から聞こえている。いろいろな意味でヤバイかもしれない。

 

しかし、その後もつかさたんから解放されることはなく、理不尽ないじめは続いたのであった…

 

 

 

 

<幕間4>

「いつものアレを」

「かしこまりました」

 

静かな店内にカクテルを作る音がひびきわたる。

 

「大丈夫なのか?……経営とか」

カウンターに座る男が言った。

「ご心配には及びません。今日はたまたまお客様が少ないだけですから」

「少ないっつーか、オレしかいないみたいだけど」

「まだ早いですから。じきに増えるはずです」

マスターは柔和な表情を保ちながら言った。

 

「おまたせしました。当店のシークレットカクテル『静思萬考』でございます」

「今時シークレットカクテルって…自分で言ってて恥ずかしくないか?」

「余計なお世話でございます。それに注文したのはお客様です」

「まあ、それはさておき」

「さておかないでください」

「この間の件の事だけどな」

「はい」

「直接会って話した方が早いんじゃないか?」

「ほう。では、ご協力いただけるということでよろしいのですね」

マスターの顔がほころぶ。

「まだ協力するとは言ってない。まずは会って確かめる。話はそれからだ」

「かしこまりました」

「そんな嬉しそうな顔をするな。まだどうなるかは分からない」

「分かっていますよ」

「あいつのことだから、このまま放っといたらいつまでかかるか」

「ほう…。なんだかんだ言って、随分気にかけていらっしゃるのですね」

「別にそういう訳じゃない。まあ老婆心だよ」

男はカクテルグラスを持ち上げ、そっと口に運んだ。

「ではそういうことで…よろしく頼む」

 

「まったく、敵いませんね。オオヤマさんには」

オオヤマと呼ばれた男は、ニャリと笑った。

花瓶に挿してあった牡丹の花がぽとりと落ちた。

 

 

 

 

4.

オレは今、東京将棋会館に来ている。なぜかって、それを話すと随分長い話になってしまう―ことも別にないのだが、まあ、要するにアレだ。いわゆるひとつの出待ちというやつである。

この案は実は「Bar 千駄ヶ谷」のマスターからの強い勧めによるもので、「学園祭でせっかく交流を深めたのにそれで終わりなんてもったいない。原始棒銀でもいいから攻め続けろ」という力強いお言葉とともに命じられた作戦なのだ。自分で将棋会館まで来ておいて偶然もへったくれもないと思うのだが、そんな細かいことを気にしていられるほど余裕はない、ということらしい。

 

女流棋聖戦の本戦第1回戦。初のタイトル挑戦を目指すつかさたんにとって重要な一戦である。対戦相手の茨城女流四段はタイトル経験者のベテランだが、つかさたんにも勝機は十分にあると見られている。

 

つかさたんの対局が終わるまでの間、オレは将棋会館の道場で時間を潰すことにした。が、しかし、もちろん将棋には全く集中できていない。目の前の相手が一生懸命将棋を指している間にオレは違うことばかり考えているのだから、負け続けるのは当然だった。

 

自分の対局が終わるごとに携帯を開いて棋譜中継をチェックする。何度か繰り返しているうちに、つかさたんの将棋も終盤に差し掛かってきた。

 

徐々に将棋を指している心境ではなくなってきたのでオレは一旦将棋をやめ、道場の外に出た。

 

再び携帯の画面を開き、棋譜をチェックする。

難しい局面だ。

しばしの間画面を見つめながら考える。

分からない。

子供のはしゃぐ声が聞こえるので何ともなしに視線を向けると、小学校低学年くらいの男の子たちが廊下を歩いてくる。

楽しそうに将棋の話をする様子を目で追っていたが、じきに通りかかったおっさんに注意されてしまい、皆シュンとした表情で道場に入っていった。

 

棋譜中継の画面に戻ると、局面はまた少し進んでいる。もう最終盤だ。

オレにはどちらが勝っているのか全く理解できないが、局面は緊迫している。おそらくギリギリの勝ち負けになるだろう。

いてもたってもいられずに側にあった自販機でコーヒーを買い、プルタブを開ける。

淡々と指し手が進んでゆく。

あと少しで決着が付く。

 

見築女流1級投了の表示を確認して、オレはふーっとため息を付いた。

どうしようか。

いろいろと計画が狂ってしまった。

せっかくだから一言くらい声をかけて帰ろうか。それとも、下手なことはせずさっさと撤退したほうが―

 

自動販売機の側面にもたれかかりながら、オレは迷った。攻めるべきか、引くべきか。

様々な情景が頭に浮かび、様々な希望と不安が渦巻いた。

遠くで響く駒の音を聞きながら、オレの思考は少しずつ弱気に傾いていった。

 

 

 

30分後、オレはBar 千駄ヶ谷にいた。

マスターと反省会である。

 

散々悩んだ末、つかさたんにはツイッター上でリプライを送っておくことにした。

ひとまず、「お疲れ様でした」と一言だけ。

つかさたんの目に触れるかどうかはわからないが。

 

「タカハシくんはどこまでヘタレなんだい?」

とマスターがいかにもがっかりしたような口調で言う。

「だって仕方ないじゃないですか」

オレはため息をつく。

「まあ無理攻めだったしね」

「マスター、ひどいっす…」

 

 

携帯の画面を無言で眺めながらストローの袋を弄んでいると、マスターが声をかけてきた。

「そもそもなんで、タカハシくんは見築先生のことが好きになったんだい?女流棋士とファンの恋愛なんて、はじめから難しいに決まってるじゃん」

今さら身も蓋もないことを言う人だ。

「つかさたんは‥見築先生は、オレの希望なんですよ。あんなに美しくて、可愛くて、将棋が強い人が存在しているだけでも奇跡なのに、あんなに一生懸命将棋を指してるんですよ。好きになるに決まってるじゃないですか」

「でもさ、そんな人は他にもいっぱいいるわけでしょ?どうして見築先生だったの?」

「それは…」

「それは?」

 

「一目惚れですっ!」

 

「……」

「笑わないでください」

「いや、失敬。あんまり真剣な顔して言うもんだからつい」

「別に、オレの勝手なんだからいいでしょ」

「もちろん、好きになるのはタカハシくんの勝手だよ。でも」

「でも?」

「相手の気持ちってものも、少しは考えないとね」

「わかってますよ」

「しつこい男って結局嫌われるんだよ」

「何気にひどいこと言いますね」

「嫌われるっていうか、相手にされなくなるっていうかね」

「それはっ‥」

すかさず反論しようとしたが、マスターがくるっと後ろを振り返って空のグラスを磨き始めたので、オレは黙ってストローの袋をいじり続けるしかなかった。

 

 

「見築先生が帰ってくるまで駅で待ってれば?」

「は?」

グラスを磨き終えたマスターが唐突に口を開いた。

「見築先生、実崎駅が最寄りのはずだからさ。改札の前で待ってればたぶん会えるよ」

「そんな、いつ帰ってくるかもわからないのに」

「対局が終わったのが1時間ちょっと前だろう?感想戦を仮に30分やったとして、  そろそろ駅についてもおかしくない。見築先生はたぶん、負けたときはまっすぐ家に帰るはずだ。飲みに行くような時間でもないしね」

 

「……」

 

「ま、私の想像だけど」

「……」

 

「でも、そういうのってストーカーじゃないですか?」

「ストーカーだよ」

「……」

 

「でもね、ストーカーになるかどうかはケース・バイ・ケースだ。見築先生がストーカーだと思えば君はストーカー。でも、そう思わなければそうじゃない」

「じゃあどうすればいいんですか」

「偶然を装えば問題ないよ」

「そんな、安易な」

「とりあえず偶然出会ったってことにすればいいじゃない。そんな些細なことなんかどうでもいいんだよ」

「……」

 

些細なこと、か…。マスターの真意がなんとなく分かるような気もしたが、しかし自分が一体何を期待されているのか、考えてみてもやはりよく分からなかった。

 

 

 

結果的にマスターの言うことには逆らえず、オレは実崎駅の改札前で立ち尽くすこととなった。

駅前のスペースは風をさえぎる障害物もあまりなく寒さがこたえたが、人通りはそれほど多くなく、利用客を見分けることにそれほど苦労はしなかった。

重くのしかかるような曇り空を眺めながら、その時が来るのをじっと待った。

 

 

つかさたんが現れたのは、20分ほど過ぎたときだった。

 

他の利用客に追い越されながら歩いてくるその様子は、いくぶんか疲れて見えた。

オレはそっと近づいて声をかけた。

「あの、見築先生」

「あ、タカハシさん」

近くで見るとつかさたんはやはり消耗した様子で、力なく微笑した。

落ち着いた表情ではあったが、平静さの裏には疲れが感じ取れた。

「今日は、対局だったんですか?」

「ええ」

「じ、実はオレもちょうどウチに帰るところで‥」

何とか話しかけたものの、自分の言葉がやけに空々しく聞こえた。

 

駅の利用客達が周囲を足早に歩いて行く。

なんだか自分の振る舞いを責められているような気持ちになった。

次の言葉を発することができず、しばらくの間沈黙が続く。

 

暗くなったせいか駅前の街灯に明かりがつき始め、あたりが少し明るくなる。

 

「今日は、ちょっと負けちゃって」

つかさたんがポツリと言った。

「そ、そうだったんですか」

「あの‥」

つかさたんは何か話し始めようとしたが、すぐにまた沈黙した。

 

「あの、よかったら、ちょっとお茶でもどうですか?」

思わず勢いで言ってしまってから、少し後悔した。

つかさたんは怪訝そうな顔をしてオレの方を見たが、こくりとうなずいた。

 

 

オレとつかさたんは駅の近くにある喫茶店へと入った。

以前マスターから薦められたことのある店だ。

おそらく断られるのではないかと思っていたので(なんといっても対局の直後だし)、誘いに乗ってくれたのは本当に僥倖だった。

 

店内は暖かく、席に座ると少しほっとした。

注文を考えるふりをしながら、オレは再び作戦を練った。

 

どうにかもう少し気の利いたことを言えないものだろうか。

無い知恵でも振り絞れば何か出てくるかもしれない。

いや、やっぱり無理だろうな。

いままでの自分の行動を振り返れば容易にわかる。いつもいつもその場しのぎのことしか考えていなくて、そして、自分ことしか考えていなかった。

相手の気持ちを推し量る努力を、そろそろした方がいいのかもしれない。

 

二人ともしばらく無言で座っていたが、ウエイターが注文を取りに来たのでホットコーヒーを注文した。

 

「この店、何度か来たことあります」

つかさたんが口を開いた。

「仕事の後とか、すぐウチに帰りたくない時とか」

「帰りたくないとき…?」

「そういう時ってあるじゃないですか。タカハシさん、ありません?」

「ありますよ、ええ。お気持ちはわかります」とオレは慌てて言った。

今がその時なのかどうかは、怖くて聞けなかった。

 

 

やがて、さっきのウエイターがコーヒーを運んできた。

湯気の立ち昇るカップを包み込むようにして手を温めてみる。熱い。

つかさたんの方を見ると、銀の容器に入ったミルクを躊躇なく注いでいる。

「いつもその位入れるんですか」と聞くと、「たくさん入れたほうがおいしいじゃないですか」と拗ねたように言って、少し笑った。

 

熱いコーヒーを少しずつ味わっていると、つかさたんが話を切り出した。

「ちょっと突拍子のないこと聞いてもいいですか」

「もちろんです」とオレは答えた。

 

「タカハシさんは将棋に勝てないとき、どうします?」

「叫びます」とオレは即答した。

「ふふっ」とつかさたんが笑った。

「オレはアマチュアですけど、負けると死ぬほど悔しいです」

「ふふっ。そうですよね」

つかさたんは柔らかい口調で言った。

「私、プロだけど…プロなのに、たぶんそういう覚悟ができてないんです」

 

「それは、どういうことでしょう?」オレは真意を探りながら慎重に尋ねる。

 

「私、これでも昔と比べると全然強くなったと思うんですよ。殻を破りきれてないってよく言われるけど、自分の中ではちゃんと成長してるはずなんです。将棋の中身も、以前に比べると随分ましになっていると思います。でも、トップの人たちには全然届かないんです。対局するとはっきりわかります。読みの深さとか、正確さとか、ほんと、足元にも及んでないです」

 

「……」

オレは曖昧にうなずいた。

 

「将棋って、結局は才能の世界じゃないですか。だから、その差を埋めるためにも頑張らなきゃって思ってるんですけど、でも、自分より何倍も才能のある人が一生懸命やってて」

 

オレは黙ってつかさたんの言葉を待った。

 

「勝てるわけないです。もともと。でも、最近すごく怖くなるときがあるんです。このままこの感じで…ずっと続いちゃうのかなって」

 

そこまで言うと、つかさたんはズズッとコーヒーをすすった。

 

「どうしたらいいと思います?」

少しおどけたような口調だったが、泣き出しそうな表情にも見えた。

 

違う、と声を大にして言いたかった。

多くの将棋ファンがつかさたんの将棋に注目している。独創的な序盤に驚き、緻密な作戦に息を呑み、時間が経つのを忘れるほど盤面に釘付けになる。そんな将棋ファンがたくさんいることをオレは知っている。みんなつかさたんの才能を感じ取り、期待している。

でも、そのことをきちんと正確に伝えるのは難しかった。それに、つかさたんが意図していることはそれとは少し違うものであるような気もした。

 

オレは言葉を選びながら慎重に言った。

「見築先生は才能ありますよ。誰にも負けないくらい。オレ、先生のファンだからわかります」

 

つかさたんはじっとこちらを見つめている。

 

「大丈夫です。もしタイトルを取れなかったらオレが責任とります」

 

つかさたんはゲホッと一瞬むせそうになってから、にらみつけるような表情で言った。

「責任取るって、なんですかそれ。意味がわからないです」

 

「わからなくてもいいです。でも、本当のことです」

「……」

 

少し思い切った事を言い過ぎただろうか。さすがのつかさたんも意表を突かれたようだ。 別に変な意味で言ったわけではないのだけど。

 

唇にそっと手を当ててうつむく姿は将棋を指している時のつかさたんを連想させたが、その柔らかな雰囲気は対局室でのそれとは全く違うものだった。

何か言葉をかけようと思ったが、思い直してやめた。

 

オレは両手で抱えるようにカップを持ち、ゆっくりとコーヒーをすすった。

 

 

 

5.

店の外に出るとあたりはすっかり夜になっていた。

 

「寒いですね」と言うと、つかさたんは「そうですね」と短く答えた。

駅からまっすぐに伸びる大通りを連れ立って歩く。

通り沿いにはレストランや雑貨店などが立ち並び、各々工夫を凝らしたイルミネーションがちかちかと光を放っている。

 

「見築先生、ケーキでも買って行きませんか?」

オレは一件のケーキ屋を指さした。『アプリコット』という名前で、近所では密かな人気店である。

「またですか‥?」

何かを思い出したのか、明らかに乗り気でない様子のつかさたん。

「疲れてる時は、甘いモノがいいんですよ」と誘惑を試みるも、反応はいまひとつだ。

 

「タルト系がおいしいらしいですよ。あの店。リンゴとか」

「タルト…」

猫にまたたび、つかさたんにタルト。

「ほら、前の時は結局そのまま帰っちゃいましたし」

「あれは、タカハシさんがヘタレだったからでしょう?」

「へ、へたれ?」

予想しない不意打ちに一瞬動揺したが、すぐに体勢を立て直す。

「そんなことはないです。オレは紳士ですから」

わざとらしく余裕ある素振りを見せるオレに、

 

「わかりました。リンゴのタルト買ったらタカハシさんの家に行きましょう。それなら付き合ってあげます」

つかさたんが弾むような声で言った。

 

「ダメなんですか?」

「え、いや、ウチ、今散らかってるから‥」

「片付け、手伝いましょうか?」

「その、片付けは、そのっ、いろいろマズイっていうか」

「冗談ですよ」

「え?」

「冗談です。ふふっ」

「くぅっ‥」

「ほら、寒いから早く入りましょう」

つかさたんが小走りで店へ向かう。

 

後を追いかけながら、オレはふと空を見上げた。

やはりというべきか、真っ暗闇の中にぼうっと浮かび上がる雲の他には何も見えなかった。