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 薄れていく意識の中で親への感謝と申し訳なさでいっぱいだった。

 ただ、ただ「ごめんなさい」と心の中で叫ぶことしかできなかった。

 幸せにできなかった妻への謝罪の気持ちもあった。

 

 そんなことが走馬灯のように出ては白く消えていく。

 あとはかろうじて椅子に残っている片足で、蹴れば終わりだった……。

 走り幅跳びのように片足を踏みきりさえすれば、向こう側の世界に着地できた。

 

 でもその最後の踏みきりをすることはできなかった……。

 朝目覚めた時、昨日の自分がとった行動を思い出し、精神状態が異常なこと気がついた。

 自殺の原因は分っていたが、誰かに「うつ病」であることを認めて欲しかった。

 

 「どうされましたか?」

 

 今まで28年生きてきて病院はいくつも経験したが、心療内科だけは初めてだった。

 さっきから何かを開放させるオルゴールのような音色が部屋中を漂っている。

 

 「昨日自殺未遂をしてしまいまして……」

 「何かおもいあたる原因はありますか?」

 

 先生は必要最低限のことしか聞かず、こちらに全てを喋らせようとしていた。

 ゆっくりと……ゆっくりと……

 先生の話方は優しく、洗いたてのシーツに頬で触れ、

 そのまま倒れこんでいくような感覚だった。

 これまで起こったこと、自分が考えていること、ゆっくりと一つずつ話すことで、

 体の内側に溜まっていた何かが出ていくのが分かった。

 

 心療内科という未知の領域に期待をしていなかった分、

 話をするだけで自分が楽になったことに驚いた。

 

 「そうだと思いました。首に紐の痕があるので……」

 



 その時、初めて自分の首に紐の痕があることを知った。

 幾分楽になったことで、冷静にもなっていた。

 冷静な頭は、その事実の重大さを警告していた。

 

 「死ぬことがものすごく怖いことが分かりました。

  そして想像を絶する勇気が必要なことも……」

 「そうです。

  死ぬということは、とてつもない勇気が必要で、生きるよりも難しいことです」

 

 先生のその言葉は、深く体に沁み込んだ。

 

 「睡眠薬の処方は必要最低限になります。

  無くなったらまたとりにきてください。

  あと精神安定剤も出しますがあまり服用しないでください。

  気持ちは幾分楽になると思いますが、根本的な解決にはなりません。

  一番の治療は、ゆっくり休み、環境を変えることです」

 

 帰り道、妻にうつ病になったことをメールで告げた。

 夜遅く帰宅した妻から返ってきた言葉は

 

 「会社辞めてどうやって生活するの? 次の仕事決まってから辞めればいいのに」

 

 それだけだった。

 

 自殺未遂したことも、うつ病になったことも、どうでもいいようにしか聞こえなかった。

 

 この人だけはいざという時、助けてくれる人だと思っていた……。

 それが夫婦であり、生涯を共にするパートナーだと思っていた。

 

 でも現実は二人にそんな信頼関係は築けていなかった。

 

 気休めでもいい……嘘でもいい……優しい言葉が欲しかった。


 


 

 「大丈夫だよ」

 

 その言葉だけが欲しかった。

 昔の妻であればそう言ってくれたのかもしれない……。

 でも今はその妻はここにはいなかった。

 

 「一度壊れたものは元には戻らない」

 

 自分とは一生関係ないと思っていた言葉の意味を知った。

 ありきたりの大衆曲の歌詞にある言葉がどれほど重い意味なのか。

 

 そして生きるということがどんなに辛いことの連続なのか。

 無意識のうちに自分と関係ないと思い込み、

 頭の隅にそっとしまっていたもの認めなければいけなかった。

 

 部長に勧められた通り休みをとることで気持ちは幾分楽になっていた。

 ただ生きる目的や、進む方向だけは無いままだった。

 

 唐突に携帯が鳴った……

 

 昼間のこの時間にかかってくるのは会社しかなかった。

 相手は休みを勧めてくれた部長だった。

 

 「今度の金曜日、取締役が中国から戻られる、その時お前と話がしたいそうだ。

  お前の事情も全部説明してある。

  金曜日に取締役からおまえに直接連絡するそうだからよろしく頼む」

 

 それだけを言い残すと電話は終わった。


 



 金曜日、朝10時過ぎに遅い朝食をコンビニのパンで済ませていると、

 取締役から電話があった。

 取締役は、こんな平社員の為にわざわざ近くのデニーズまで来て、話をしてくれると言った。

 

 梅雨は既に過ぎ去ろうとしていた。

 太陽が攻撃的に熱を放つ、暑い日だった。

 家からデニーズまで5分歩いただけで汗が噴き出して止まらない。

 

 取締役は窓際の分かり易い場所に座り待っていた。

 今までの事の顛末を説明する。

 そして、取締役はこう言った。

 

 「お前に今会社を辞められると困る」

 

 取締役からのその言葉は私の中に力を湧かせた。

 

 「今うちの会社が中国で仕事を始めたのは知ってるよな?」

 「はい……」

 

 「中国で日本とブリッジできる人が足りてない。

  お前が中国に来てもらえると助かる。

  うつ病は医者の言う通り、環境を変えることが一番いい治療法だ。

  だから中国行きを考えてくれないか?」

 

 自分の想像を超える展開の早さに驚いた。

 まさか自分が中国に行くことになるとは……死ぬまで縁のない国だと思っていた。

 中国に対しては、昔からの先入観によって食わず嫌いに似た嫌悪感すら抱いていた。

 

 しかし、目的も無く生きていた自分に力が湧いたことは実感できた。

 

 「考えさせてください。妻と相談します」

 



 妻との関係がこうなった今でも相談だけはしておきたかった。

 その夜、妻に中国行きを告げるとこう言った。

 

 「やっぱりあなたと距離をおく必要があると思っていたから……。

  ちょうどいいタイミングだった思う」

 

 その返事を聞くと、取締役へ中国に行く意思を告げた。

 

 任期は10カ月だった。

 

 来年の5月自分はどんな気持ちで、どんな姿になって日本に帰ってくるのか……。

 一人成田空港の喫煙所で発着する飛行機を眺めながら、そんなことを考える。

 

 中国行きが決まってから、準備や引き継ぎで忙しく、

 自分でうつ病になっていたことすら忘れていた。

 今まで何カ月も暗く続いていた心の中の雲は、梅雨明けと共に晴れていた。

 小さい頃、飛行機に乗って世界中を飛びまわる仕事がしたい、と思っていた……

 そんな夢さえ思い出せるようになっていた。

 

 中華人民共和国。

 

 それは何の知識も、興味も、言語も知らない国だった。

 大連空港に降り立つと、そこには想像を超える世界が待っていた。

 鼻を刺激する薬物の匂い、客を呼び込む白タクシーの群れ、

 家族を迎えにきている人の群れ、

 やる気のない気だるい雰囲気をあからさまに発している空港社員……。

 

 「よくきてくれたね」

 

 その声は以前別のプロジェクトでお世話になった先輩の声だった。

 笑顔で迎えてくれた先輩に引率されてタクシーに乗り込む。

 

 先輩が運転手に中国語で行き先を告げる。

 行先も全て中国語で喋らないといけない……。

 そんな当たり前のことに恐怖を感じた。



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