閉じる


<<最初から読む

12 / 32ページ


 インターネットには情報が溢れていた。

 まるで自殺を推奨しているかのように。

 首つり、薬物、リストカット、一酸化炭素中毒、飛び降り、電車、集団自殺……。

 他人に迷惑をかけない方法を探していたが、どの方法にせよ、

 他人に迷惑をかけない死に方はなかった。

 

 そして、一昨日の夜、風は突然吹いてきた。

 その風は眠りにつこうとしている私の体を優しく起こし、 

 補助輪なしの自転車を練習する時に、親がそっと手を離すように私の体を押してくれた。

 

 部屋のドア上端にある、衝撃吸収用の補助部品に紐をかけて椅子に乗った。

 紐はどこのコンビニでも売っている、ゴミなどを縛る白いビニール紐だった。

 

 「死ぬ気になればなんでもできる」

 

 誰が言ったか分からないが、よく聞くこの言葉……本当は違う。

 

 本当に死ぬ気になった時、人は何もする気力がない。

 

 ご飯を食べることも、話すことも、誰かと接することも……。

 何も気力が無い。

 

 「そんなことを今さら分かってもしょうがないか……」

 

 と脾肉にも笑った。

 

 その行為はまるで他人ごとだった。

 そこまですることに一瞬の迷いもなく。

 まるで自分自身のドラマを見ているような客観的な感覚だった。

 

 首元が締めつけられて熱が生まれる。

 頭の中がブラウン管のテレビが映し出す灰色がかった世界に変わっていく。

 顔の皮膚が紅潮し張る……。



 薄れていく意識の中で親への感謝と申し訳なさでいっぱいだった。

 ただ、ただ「ごめんなさい」と心の中で叫ぶことしかできなかった。

 幸せにできなかった妻への謝罪の気持ちもあった。

 

 そんなことが走馬灯のように出ては白く消えていく。

 あとはかろうじて椅子に残っている片足で、蹴れば終わりだった……。

 走り幅跳びのように片足を踏みきりさえすれば、向こう側の世界に着地できた。

 

 でもその最後の踏みきりをすることはできなかった……。

 朝目覚めた時、昨日の自分がとった行動を思い出し、精神状態が異常なこと気がついた。

 自殺の原因は分っていたが、誰かに「うつ病」であることを認めて欲しかった。

 

 「どうされましたか?」

 

 今まで28年生きてきて病院はいくつも経験したが、心療内科だけは初めてだった。

 さっきから何かを開放させるオルゴールのような音色が部屋中を漂っている。

 

 「昨日自殺未遂をしてしまいまして……」

 「何かおもいあたる原因はありますか?」

 

 先生は必要最低限のことしか聞かず、こちらに全てを喋らせようとしていた。

 ゆっくりと……ゆっくりと……

 先生の話方は優しく、洗いたてのシーツに頬で触れ、

 そのまま倒れこんでいくような感覚だった。

 これまで起こったこと、自分が考えていること、ゆっくりと一つずつ話すことで、

 体の内側に溜まっていた何かが出ていくのが分かった。

 

 心療内科という未知の領域に期待をしていなかった分、

 話をするだけで自分が楽になったことに驚いた。

 

 「そうだと思いました。首に紐の痕があるので……」

 



 その時、初めて自分の首に紐の痕があることを知った。

 幾分楽になったことで、冷静にもなっていた。

 冷静な頭は、その事実の重大さを警告していた。

 

 「死ぬことがものすごく怖いことが分かりました。

  そして想像を絶する勇気が必要なことも……」

 「そうです。

  死ぬということは、とてつもない勇気が必要で、生きるよりも難しいことです」

 

 先生のその言葉は、深く体に沁み込んだ。

 

 「睡眠薬の処方は必要最低限になります。

  無くなったらまたとりにきてください。

  あと精神安定剤も出しますがあまり服用しないでください。

  気持ちは幾分楽になると思いますが、根本的な解決にはなりません。

  一番の治療は、ゆっくり休み、環境を変えることです」

 

 帰り道、妻にうつ病になったことをメールで告げた。

 夜遅く帰宅した妻から返ってきた言葉は

 

 「会社辞めてどうやって生活するの? 次の仕事決まってから辞めればいいのに」

 

 それだけだった。

 

 自殺未遂したことも、うつ病になったことも、どうでもいいようにしか聞こえなかった。

 

 この人だけはいざという時、助けてくれる人だと思っていた……。

 それが夫婦であり、生涯を共にするパートナーだと思っていた。

 

 でも現実は二人にそんな信頼関係は築けていなかった。

 

 気休めでもいい……嘘でもいい……優しい言葉が欲しかった。


 


 

 「大丈夫だよ」

 

 その言葉だけが欲しかった。

 昔の妻であればそう言ってくれたのかもしれない……。

 でも今はその妻はここにはいなかった。

 

 「一度壊れたものは元には戻らない」

 

 自分とは一生関係ないと思っていた言葉の意味を知った。

 ありきたりの大衆曲の歌詞にある言葉がどれほど重い意味なのか。

 

 そして生きるということがどんなに辛いことの連続なのか。

 無意識のうちに自分と関係ないと思い込み、

 頭の隅にそっとしまっていたもの認めなければいけなかった。

 

 部長に勧められた通り休みをとることで気持ちは幾分楽になっていた。

 ただ生きる目的や、進む方向だけは無いままだった。

 

 唐突に携帯が鳴った……

 

 昼間のこの時間にかかってくるのは会社しかなかった。

 相手は休みを勧めてくれた部長だった。

 

 「今度の金曜日、取締役が中国から戻られる、その時お前と話がしたいそうだ。

  お前の事情も全部説明してある。

  金曜日に取締役からおまえに直接連絡するそうだからよろしく頼む」

 

 それだけを言い残すと電話は終わった。


 



 金曜日、朝10時過ぎに遅い朝食をコンビニのパンで済ませていると、

 取締役から電話があった。

 取締役は、こんな平社員の為にわざわざ近くのデニーズまで来て、話をしてくれると言った。

 

 梅雨は既に過ぎ去ろうとしていた。

 太陽が攻撃的に熱を放つ、暑い日だった。

 家からデニーズまで5分歩いただけで汗が噴き出して止まらない。

 

 取締役は窓際の分かり易い場所に座り待っていた。

 今までの事の顛末を説明する。

 そして、取締役はこう言った。

 

 「お前に今会社を辞められると困る」

 

 取締役からのその言葉は私の中に力を湧かせた。

 

 「今うちの会社が中国で仕事を始めたのは知ってるよな?」

 「はい……」

 

 「中国で日本とブリッジできる人が足りてない。

  お前が中国に来てもらえると助かる。

  うつ病は医者の言う通り、環境を変えることが一番いい治療法だ。

  だから中国行きを考えてくれないか?」

 

 自分の想像を超える展開の早さに驚いた。

 まさか自分が中国に行くことになるとは……死ぬまで縁のない国だと思っていた。

 中国に対しては、昔からの先入観によって食わず嫌いに似た嫌悪感すら抱いていた。

 

 しかし、目的も無く生きていた自分に力が湧いたことは実感できた。

 

 「考えさせてください。妻と相談します」

 



読者登録

candyisrockさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について