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 「お願いします……」

 

 とうとうこの事を告げなければならない。

 先の事はどうなるか分らない。

 でもこの答えしか出すことができなかった。

 

 「昨日心療内科で診察を受けて、うつ病だと診断されました」

 「そうなんだ。じゃあどうするの?」

 

 「会社を辞めさせてください」

 「分った。上の人間にもそう伝えておく」

 

 「なので今日は、今の仕事を整理して引き継ぎ資料を作成したら帰ります。」

 

 それだけで終わった。

 あっさりと。

 お互い犬猿の仲であることは分かっていた。

 だから必要最低限の会話だけで十分だった。

 

 昼過ぎに帰り仕度をしていると、草食系上司から報告を受けたであろう

 部長が後ろに立っていた。

 

 「ちょっとコーヒーでも飲みに行くか」

 「分りました」

 

 特にやることもなく、部長に対しては個人的に好意を抱いていたので、

 話すことは苦にならなかった。

 また、部長には入社当時からお世話になっていたこともあり、

 事の顛末を説明する義理もあると思った。

 

 沈黙のまま部長の後をついていき、コーヒーとステーキがお勧めという喫茶店に入る。

 客は私と部長以外誰もいなかった。


 



 「どうした? あいつから話は聞いたけど、なんでまた会社を辞める必要があるんだ?」

 

 部長もうつ病であることは、知っているはずだった。

 おそらく本人からうつ病になった原因を説明させたいのだと思い、事実を告げた。

 

 「一昨日自殺未遂をしてしまいまして……。

  それで、昨日お休みをいただき心療内科に行ってまいりました、

  そこでうつ病と診断されまして……」

 

 「なんでまた自殺を……」

 「家庭も……仕事も……もう限界……でした。

  居場所がどこにもありませんでした……あの上司の方とも……

  うまくいっていなく、声を聞くだけ……震えが止まらないのです……

  すみません……」

 

 部長への説明は会話ではなく、単語と単語を繋ぎ合わせた塊でしかなかった。

 

 「分った。とにかく休め。

  あいつと一緒にならないように、

  他のプロジェクトに行けるようにおれがどうにかしてやる。

  ただ今すぐにはできない。

  だからお前はしばらく会社を休んでおれに時間をくれないか? 

  お前はうちの会社に必要な人間だから。

  次が決まっていないならそう考え直してくれないか?」

 

 部長の言葉は、誰かに必要とされることが、

 こんなにも乾いた心に水を与えるということを思い出させてくれた。

 

 「分りました、お言葉に甘えて、そうさせていただきます」

 

 それは一昨日のことだった。

 ここ何週間かインターネットで自殺の方法ばかり調べていた。

 

 もうそうするしかないと……。


 



 インターネットには情報が溢れていた。

 まるで自殺を推奨しているかのように。

 首つり、薬物、リストカット、一酸化炭素中毒、飛び降り、電車、集団自殺……。

 他人に迷惑をかけない方法を探していたが、どの方法にせよ、

 他人に迷惑をかけない死に方はなかった。

 

 そして、一昨日の夜、風は突然吹いてきた。

 その風は眠りにつこうとしている私の体を優しく起こし、 

 補助輪なしの自転車を練習する時に、親がそっと手を離すように私の体を押してくれた。

 

 部屋のドア上端にある、衝撃吸収用の補助部品に紐をかけて椅子に乗った。

 紐はどこのコンビニでも売っている、ゴミなどを縛る白いビニール紐だった。

 

 「死ぬ気になればなんでもできる」

 

 誰が言ったか分からないが、よく聞くこの言葉……本当は違う。

 

 本当に死ぬ気になった時、人は何もする気力がない。

 

 ご飯を食べることも、話すことも、誰かと接することも……。

 何も気力が無い。

 

 「そんなことを今さら分かってもしょうがないか……」

 

 と脾肉にも笑った。

 

 その行為はまるで他人ごとだった。

 そこまですることに一瞬の迷いもなく。

 まるで自分自身のドラマを見ているような客観的な感覚だった。

 

 首元が締めつけられて熱が生まれる。

 頭の中がブラウン管のテレビが映し出す灰色がかった世界に変わっていく。

 顔の皮膚が紅潮し張る……。



 薄れていく意識の中で親への感謝と申し訳なさでいっぱいだった。

 ただ、ただ「ごめんなさい」と心の中で叫ぶことしかできなかった。

 幸せにできなかった妻への謝罪の気持ちもあった。

 

 そんなことが走馬灯のように出ては白く消えていく。

 あとはかろうじて椅子に残っている片足で、蹴れば終わりだった……。

 走り幅跳びのように片足を踏みきりさえすれば、向こう側の世界に着地できた。

 

 でもその最後の踏みきりをすることはできなかった……。

 朝目覚めた時、昨日の自分がとった行動を思い出し、精神状態が異常なこと気がついた。

 自殺の原因は分っていたが、誰かに「うつ病」であることを認めて欲しかった。

 

 「どうされましたか?」

 

 今まで28年生きてきて病院はいくつも経験したが、心療内科だけは初めてだった。

 さっきから何かを開放させるオルゴールのような音色が部屋中を漂っている。

 

 「昨日自殺未遂をしてしまいまして……」

 「何かおもいあたる原因はありますか?」

 

 先生は必要最低限のことしか聞かず、こちらに全てを喋らせようとしていた。

 ゆっくりと……ゆっくりと……

 先生の話方は優しく、洗いたてのシーツに頬で触れ、

 そのまま倒れこんでいくような感覚だった。

 これまで起こったこと、自分が考えていること、ゆっくりと一つずつ話すことで、

 体の内側に溜まっていた何かが出ていくのが分かった。

 

 心療内科という未知の領域に期待をしていなかった分、

 話をするだけで自分が楽になったことに驚いた。

 

 「そうだと思いました。首に紐の痕があるので……」

 



 その時、初めて自分の首に紐の痕があることを知った。

 幾分楽になったことで、冷静にもなっていた。

 冷静な頭は、その事実の重大さを警告していた。

 

 「死ぬことがものすごく怖いことが分かりました。

  そして想像を絶する勇気が必要なことも……」

 「そうです。

  死ぬということは、とてつもない勇気が必要で、生きるよりも難しいことです」

 

 先生のその言葉は、深く体に沁み込んだ。

 

 「睡眠薬の処方は必要最低限になります。

  無くなったらまたとりにきてください。

  あと精神安定剤も出しますがあまり服用しないでください。

  気持ちは幾分楽になると思いますが、根本的な解決にはなりません。

  一番の治療は、ゆっくり休み、環境を変えることです」

 

 帰り道、妻にうつ病になったことをメールで告げた。

 夜遅く帰宅した妻から返ってきた言葉は

 

 「会社辞めてどうやって生活するの? 次の仕事決まってから辞めればいいのに」

 

 それだけだった。

 

 自殺未遂したことも、うつ病になったことも、どうでもいいようにしか聞こえなかった。

 

 この人だけはいざという時、助けてくれる人だと思っていた……。

 それが夫婦であり、生涯を共にするパートナーだと思っていた。

 

 でも現実は二人にそんな信頼関係は築けていなかった。

 

 気休めでもいい……嘘でもいい……優しい言葉が欲しかった。


 



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