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 「お酒も飲んでないようなので、気をつけて帰ってください。

  あと、善からぬことは考えないでくださいね」

 

 それだけ言い残すと、また次の獲物へと食いついていった。

 警察官も私の思いつめた顔と雰囲気を感じ、自殺願望者だと勘違いしたのかもしれない。

 自分が惨めでしょうがなかった。

 周りの楽しそうな雰囲気が余計に自分を惨めにさせていた。

 

 夜中2時の湘南バイパスを走っている車は、私の車以外、1台も無かった。

 暗闇から道が現れ、バックミラー越しに消えていく。

 自分の周りは漆黒の色しかなく、先は何も見えなかった。

 どこへ続いているのか分からない道のように感じた。

 それは悪魔がパズルを並べ、別の世界へ導いているかのようにも感じた。

 やり場のない怒りと悲しみだけがアクセルを踏み、

 どこへ向かっているのか分からず走っていた。

 時速は160キロに達していた。

 目の前にカーブが現れた時、

 

 「このまま真っ直ぐ進めば、何もない無の世界に行ける。

  そこには苦しみも、痛みも、寂しさもない……」

 

 何度もそう考えた……。

 でも結局できなかった。直前でハンドルをきってしまうのだ。

 

 気がつくと頬は濡れていた。

 もうどこにも行き場が無かった。

 桜を見ることも、家に帰ることも、どこにも行けない。

 行く場所が無かった。

 前も後ろもあざけ笑うかのように絶望感しかなかった。

 

 頬が濡れたのは、中学生の時に飼っていた猫が死んだ時以来だった。

 それまで自分には心がないのではないか、と思うほど涙を流したことがない。

 


 

 目が滲み、前が見えなかった。

 でもそれでよかった。

 何も現実を見たくなかった。

 

 車内に嗚咽が染みわたる……。

 

 自分からこんな声が出ることを初めて知った。

 滴り落ちる涙と嗚咽は止まらなかった……。

 

 家に着くまでどのぐらい時間がかかり、どのように辿り着いたか、

 それは今でも思い出せない。

 

 家に帰ると電気は消え、静けさの中に妻は眠っていた。

 

 

 さっきからこちらを睨んでいる設計書も相手をしないといけなかった。

 しかし手が動かない……。

 

 設計書のレビュー相手である、あの上司のことを想像するだけで手が震えた。

 どちらかというと体育会系で育った私は、とにかくあの草食系の上司が苦手だった。

 

 いつか殴って、蹴り殺してしまうのではないかという殺意と恐怖心で手が震えてしまう。

 仕事も、もう何カ月も前から限界だった……。

 

 裏切りの連続。

 

 誰も助けてくれない。

 

 それは社会人として覚悟しなければいけない競争社会。

 頭で暗記した公式のようにそれを理解していても、

 裏切りにあう度、心はすり減り疲弊していた。

 どうしても人を最後には信じてしまう。

 それは一種の癖や習慣と同じだった。

 

 何度裏切りにあったとしたとしても……。

 

 その草食系上司が話す日本語は不思議と頭に入ってこない。

 他の人が話す日本語は意識せずに理解できても、その上司だけは何を望んでいるのか、

 意思が理解できなかった。

 

 走らないといけない方向も分らなかった。

 ゴールが分からないマラソンを走らされているようだった。

 

 会社に入って6年目……初めて、「会社で一番難しいのは人間関係」という言葉の意味を知った。

 

 もう会社にも家にも居場所は無かった。

 

 どこに居ても心の中には、暗闇を放つ青黒く燃える炎だけがある。

 どこにも自分の居場所がない絶望感。



 それでも気がつくと社会の歯車としてまた明日この会社に出社してしまう。

 歯車はどんなに叫び、訴えても止まることはできない。

 そしてその複雑に入り組んだ歯車から一度外れてしまうと、簡単には戻れない。

 一度「欠陥品」というレッテルを貼られた歯車は誰も使いたがらないのだ。

 

 五月、妻の誕生日に自分が考えられる全てをぶつけた。

 手紙、昔の写真、プレゼント、2人の思いでの場所でデート、花、本……

 

 妻は優しく微笑み言った。

 

 「まだ好きかどうか分らない」

 

 妻の気持ちは、何も感じることができなかった……藁をも攫む、その藁の影さえ見えなかった。

 そこにはただ絶望しかなかった。

 もがけばもがくほど蟻地獄に入っていく。

 

 もう自分の中は空だった。

 

 妻にどうすれば心を戻してもらえるのか、方法が思いつかなかった。

 もしかすると、この時すっきりと別れた方が良かったのかもしれない。

 どんなに考えても何をすればいいのか……最善の策は何も思いつかなく空だった。

 

 また上辺だけの取り繕いの生活に戻る。

 それでも別れるという選択はできなかった。

 妻は私のことを理解してくれる親と同じ唯一無二の存在だった。

 

 こっちを睨みつける設計書を尻目に、上司に進み寄った。

 そして昨日の心療内科での診察結果を告げた。

 

 「お忙しいところ申し訳ございません。今お時間よろしいでしょうか?」

 「いいよ。会議室予約するか?」

 



 「お願いします……」

 

 とうとうこの事を告げなければならない。

 先の事はどうなるか分らない。

 でもこの答えしか出すことができなかった。

 

 「昨日心療内科で診察を受けて、うつ病だと診断されました」

 「そうなんだ。じゃあどうするの?」

 

 「会社を辞めさせてください」

 「分った。上の人間にもそう伝えておく」

 

 「なので今日は、今の仕事を整理して引き継ぎ資料を作成したら帰ります。」

 

 それだけで終わった。

 あっさりと。

 お互い犬猿の仲であることは分かっていた。

 だから必要最低限の会話だけで十分だった。

 

 昼過ぎに帰り仕度をしていると、草食系上司から報告を受けたであろう

 部長が後ろに立っていた。

 

 「ちょっとコーヒーでも飲みに行くか」

 「分りました」

 

 特にやることもなく、部長に対しては個人的に好意を抱いていたので、

 話すことは苦にならなかった。

 また、部長には入社当時からお世話になっていたこともあり、

 事の顛末を説明する義理もあると思った。

 

 沈黙のまま部長の後をついていき、コーヒーとステーキがお勧めという喫茶店に入る。

 客は私と部長以外誰もいなかった。


 



 「どうした? あいつから話は聞いたけど、なんでまた会社を辞める必要があるんだ?」

 

 部長もうつ病であることは、知っているはずだった。

 おそらく本人からうつ病になった原因を説明させたいのだと思い、事実を告げた。

 

 「一昨日自殺未遂をしてしまいまして……。

  それで、昨日お休みをいただき心療内科に行ってまいりました、

  そこでうつ病と診断されまして……」

 

 「なんでまた自殺を……」

 「家庭も……仕事も……もう限界……でした。

  居場所がどこにもありませんでした……あの上司の方とも……

  うまくいっていなく、声を聞くだけ……震えが止まらないのです……

  すみません……」

 

 部長への説明は会話ではなく、単語と単語を繋ぎ合わせた塊でしかなかった。

 

 「分った。とにかく休め。

  あいつと一緒にならないように、

  他のプロジェクトに行けるようにおれがどうにかしてやる。

  ただ今すぐにはできない。

  だからお前はしばらく会社を休んでおれに時間をくれないか? 

  お前はうちの会社に必要な人間だから。

  次が決まっていないならそう考え直してくれないか?」

 

 部長の言葉は、誰かに必要とされることが、

 こんなにも乾いた心に水を与えるということを思い出させてくれた。

 

 「分りました、お言葉に甘えて、そうさせていただきます」

 

 それは一昨日のことだった。

 ここ何週間かインターネットで自殺の方法ばかり調べていた。

 

 もうそうするしかないと……。


 



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