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 今はまだ余談を許さない状況で、24時間看病が必要だった。

 その状況は誰が見ても一目瞭然だった。

 

 「分かった。何かできることがあったらおれも協力するから。何でも言って」

 

 妻の実家に一度戻り、着替えや入院に必要な品々を揃え、また病院に戻った。

 後にも先にも、その運転手を務めることが、唯一協力できたことだった。

 

 義理の父が入院してから1週間が過ぎ、義理の父は一命を取り留めていた。

 医者もその結果を簡単に「奇跡」という言葉で片付けつつも、驚いていた。

 そろそろ妻も家に帰ってくると思っていたが、妻は帰ってこなかった。


 妻の実家と2人が住んでいた家は車で15分の距離だった。

 夜だけでも帰ってきて欲しかった。

 

 まだ自分が妻の中で一番でいたかった。

 単純に子供だったのだ。

 それは弟に対して優しく接する母親に対する求愛と同じだった。

 

 「なんで帰ってこないの? もうお父さんは一般病棟に移れたし、

  夜の付き添いもいらないでしょ?」

 「まだお母さんと一緒に居てあげたいの」

 

 「夜だけでも帰って来れない?」

 「ちょっと無理かな……」

 

 「新婚なのに……」

 

 その時思わず口から出てしまった。

 口の中で遊んでいた飴玉がふと口から逃げ出したかのように……。

 その一言が自分のこの後の人生を大きく左右するとも知らず。

 

 「じゃあもう帰ってこなくていいよ」

 


 

 それだけを言い残して電話を切った。

 怒りでも、悲しみでも、きっかけは何でもよかった。

 ただこっちを振り向いて欲しいだけだった。

 

 「実はあの時、帰って来なくていいって言われて、

  私この人とやっていけないかもしれないと思ったの」

 

 自分でもその一言は覚えていた。

 ただの悪戯心で言ってしまった一言。

 たった一言がこんなにも大きな力を持つことがあり、その一言は、

 後に何千もの言葉で陳謝しても取り消すことはできない。

 妻の中で一年もの間その違和感が、誰も見ていない中庭に舞い降りる落ち葉のように、

 音も立てずに降り積もっていたのだ。

 

 火を放たれて暴れるように燃える日をじっと待つかのように。

 

 その日以来、妻の顔から笑顔が消えた。

 帰りも遅く、家に帰りたくないという間接的な意思表示を示していた。


 「しばらく距離を置く時間をください」


 とだけ言い残し、妻は出て行った。

 

 それから1カ月、いるはずもない妻との生活が始まった。

 それまで気づいていなかったが、妻は生活の至る所に存在していた。

 家に帰宅しても部屋には暗闇だけが佇んでいて、妻の影だけが生活していた。

 朝起きて横を見てもやはり誰もいない。

 今まで一度も妻がいなくなることを想像していない分、そのショックは大きく、

 夢であることを祈りながら毎日眠りについた。

 たまにする電話もいい返事を聞けることはなかった。

 

 「もう少し時間が欲しいの……焦って答えを出してもよくないと思うし……

  まだ答えが出せない……」

 

 そんなやりとりを1カ月ただ繰り返すだけで、進展は何も無かった。



 「1カ月間離れていても結局結論は出てないし、また一緒に暮らしてみたら、
  分かることもあるんじゃないの? 
  少なくともおれはあなたが至るところに存在していることは分かったよ……
  そしてとてつもなく必要としていることも……」


 そんないつも通りの苦し紛れの説得と、自分の思慮が欠けた発言に対して詫びた結果、

 妻は何も無かったかのように帰ってきた。

 

 私は、妻が帰ってくることを手放しで喜んでしまった……。

 それは寂しさという実をより成長させるだけの栄養剤とは知らず……。

 

 結果、妻は以前と何も変わらなかった。

 「まだ好きか分からない……」

 としか言わなかった。

 

 4月のある日、2人の思いでの場所に行くことで、

 付き合っていた頃の気持ちを思い出してもらえるのではないかと考えた。

 

 それは学生時代に2人で秘密に生活していた湘南平に咲く桜だった。

 黒の夜空に桜色の雪が舞う。

 その雪は、人間であれば誰しもが言葉を忘れて感動する光景だった。

 一年に一回だけ見ることが許される光景。

 2人の気持ちがあの頃の様に、お互いを思いやれるのであれば、

 もう一度やり直せると思っていた。


 いささかそうすることでやりなおせる自信すらあった。

 しかしそれは、自分の中でも最後の手段だった……。

 もし最悪の結末を迎えた場合、間違いなく暗闇の中に足を落として、

 2度と帰ってくるはできない。

 その安易な想像が作り出した恐怖から、長い間妻に言い出せずにいた。

 

 意を決して妻にその考えを伝えた時、自分が考えていた最悪のシナリオを、

 簡単に凌駕する答えが返ってきた。

 

 「本当に行きたくない、だから行けない」



 その言葉は、自分が考えていた浅はかな期待を綺麗に吹き消した。

 そこに元々何も無かったかのように。

 

 あまりの衝撃に耐えられず、その場にいることができなかった。

 防衛本能が体を部屋から追い出していた。

 

 車までの道すがら、後ろから追いかけてきてくれないかという絶望に似た期待をしていた……。

 涙を堪えつつ、一人で車に乗り込み湘南平に向かった。

 

 深夜の湘南平はカップルで賑わっていた。

 一人で桜を見ている人間はどんな方法で探してもいなかった。

 3年前、4年前、妻とこの桜を見ていたと思うと胸が張り裂けそうだった。

 今でも二人の面影をその先の鉄塔に、その道に映し出すことができた。

 2人は手を繋ぎ何年経ってもこの桜を見に来ようと約束をしている。

 

 これ以上桜を見ていると、自分の中に脈打っている硬い何かが膨張して、

 胸の奥で破裂してしまいそうだった。

 逃げるように車に乗り込み、頭の中は早く湘南平を逃げ出すことしか考えていなかった。

 湘南平の帰り道、飲酒検問の網にかかる。こんなに弱った魚でも容赦はない……。

 

 「お一人ですか?」

 「そうです……」

 

 「何されてたんですか」

 「桜を見に……」

 

 「一人でこんな時間に花見ですか? まあとりあえず息吐きかけてください」

 

 明らかに怪しんでした。

 確かにこんな平日の夜中に横浜ナンバーの車が、

 わざわざ平塚まで一人で桜を見に来るのは怪しい。

 車内が必要以上に詮索される。

 

 でも、今はとにかく何も話しかけて欲しくないし、触れても欲しくなかった。



 「お酒も飲んでないようなので、気をつけて帰ってください。

  あと、善からぬことは考えないでくださいね」

 

 それだけ言い残すと、また次の獲物へと食いついていった。

 警察官も私の思いつめた顔と雰囲気を感じ、自殺願望者だと勘違いしたのかもしれない。

 自分が惨めでしょうがなかった。

 周りの楽しそうな雰囲気が余計に自分を惨めにさせていた。

 

 夜中2時の湘南バイパスを走っている車は、私の車以外、1台も無かった。

 暗闇から道が現れ、バックミラー越しに消えていく。

 自分の周りは漆黒の色しかなく、先は何も見えなかった。

 どこへ続いているのか分からない道のように感じた。

 それは悪魔がパズルを並べ、別の世界へ導いているかのようにも感じた。

 やり場のない怒りと悲しみだけがアクセルを踏み、

 どこへ向かっているのか分からず走っていた。

 時速は160キロに達していた。

 目の前にカーブが現れた時、

 

 「このまま真っ直ぐ進めば、何もない無の世界に行ける。

  そこには苦しみも、痛みも、寂しさもない……」

 

 何度もそう考えた……。

 でも結局できなかった。直前でハンドルをきってしまうのだ。

 

 気がつくと頬は濡れていた。

 もうどこにも行き場が無かった。

 桜を見ることも、家に帰ることも、どこにも行けない。

 行く場所が無かった。

 前も後ろもあざけ笑うかのように絶望感しかなかった。

 

 頬が濡れたのは、中学生の時に飼っていた猫が死んだ時以来だった。

 それまで自分には心がないのではないか、と思うほど涙を流したことがない。

 



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