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 金曜日、朝10時過ぎに遅い朝食をコンビニのパンで済ませていると、

 取締役から電話があった。

 取締役は、こんな平社員の為にわざわざ近くのデニーズまで来て、話をしてくれると言った。

 

 梅雨は既に過ぎ去ろうとしていた。

 太陽が攻撃的に熱を放つ、暑い日だった。

 家からデニーズまで5分歩いただけで汗が噴き出して止まらない。

 

 取締役は窓際の分かり易い場所に座り待っていた。

 今までの事の顛末を説明する。

 そして、取締役はこう言った。

 

 「お前に今会社を辞められると困る」

 

 取締役からのその言葉は私の中に力を湧かせた。

 

 「今うちの会社が中国で仕事を始めたのは知ってるよな?」

 「はい……」

 

 「中国で日本とブリッジできる人が足りてない。

  お前が中国に来てもらえると助かる。

  うつ病は医者の言う通り、環境を変えることが一番いい治療法だ。

  だから中国行きを考えてくれないか?」

 

 自分の想像を超える展開の早さに驚いた。

 まさか自分が中国に行くことになるとは……死ぬまで縁のない国だと思っていた。

 中国に対しては、昔からの先入観によって食わず嫌いに似た嫌悪感すら抱いていた。

 

 しかし、目的も無く生きていた自分に力が湧いたことは実感できた。

 

 「考えさせてください。妻と相談します」

 



 妻との関係がこうなった今でも相談だけはしておきたかった。

 その夜、妻に中国行きを告げるとこう言った。

 

 「やっぱりあなたと距離をおく必要があると思っていたから……。

  ちょうどいいタイミングだった思う」

 

 その返事を聞くと、取締役へ中国に行く意思を告げた。

 

 任期は10カ月だった。

 

 来年の5月自分はどんな気持ちで、どんな姿になって日本に帰ってくるのか……。

 一人成田空港の喫煙所で発着する飛行機を眺めながら、そんなことを考える。

 

 中国行きが決まってから、準備や引き継ぎで忙しく、

 自分でうつ病になっていたことすら忘れていた。

 今まで何カ月も暗く続いていた心の中の雲は、梅雨明けと共に晴れていた。

 小さい頃、飛行機に乗って世界中を飛びまわる仕事がしたい、と思っていた……

 そんな夢さえ思い出せるようになっていた。

 

 中華人民共和国。

 

 それは何の知識も、興味も、言語も知らない国だった。

 大連空港に降り立つと、そこには想像を超える世界が待っていた。

 鼻を刺激する薬物の匂い、客を呼び込む白タクシーの群れ、

 家族を迎えにきている人の群れ、

 やる気のない気だるい雰囲気をあからさまに発している空港社員……。

 

 「よくきてくれたね」

 

 その声は以前別のプロジェクトでお世話になった先輩の声だった。

 笑顔で迎えてくれた先輩に引率されてタクシーに乗り込む。

 

 先輩が運転手に中国語で行き先を告げる。

 行先も全て中国語で喋らないといけない……。

 そんな当たり前のことに恐怖を感じた。



 新しい環境に行くということでいささか遠足に行くような気分だったのかもしれない。

 しかしその気持ちは先程の恐怖心が綺麗に消してくれた。

 

 「水を買う」

 「たばこを買う」

 「どこに行く」

 「これが欲しい」

 「あれが欲しい」

 「何個欲しい」

 「何が食べたい」

 「いくら?」

 

 普段いかに言葉を発しているのか分った。

 そして自分がこの国に対して何の知識もないことも。

 

 怠慢に生きていたことがうつ病を生んだのかもしれない。

 何不自由ない生活、目的のない生活、何かに飢えることは久しくなかった。

 

 何かあれば誰かのせいにする、理由があればしょうがない……。

 そうやって今まで折れ曲がってきた。

 

 中国にはその飢えがあった。

 飢えて吸収しないと生きていけない。

 その国に蔓延る「飢え」は私の心の病を治していった。

 

 

 中国に来て2カ月経ったある日、仕事帰りに同期と

 いつもの日本人向けラーメン屋に向かった。

 この頃になると勉強したかいもあり、

 どこに行きたいぐらいはタクシーで言えるようになっていた。

 しかし、細かい説明はできない為、大概付近で降ろされることが多かった。

 

 その日は、いつもよりも更に遠くで降ろされてしまった。

 ここからだと日本人向けのクラブ街を通らないといけなかった。



 昭和の雰囲気を直接感じたことはないが、そんな言葉が合うようなネオン通りを、

 ふらふらと2人で歩いていると、一人のクラブの女性が、お客さんをタクシーに乗せていた。

 

 暗いネオンが光る道の中でも彼女の顔だけは、はっきりと見ることができた。

 

 心を全て奪われるのに時間は必要なかった。

 

 自分を司る細胞が彼女の引力に引き込まれていった。

 こんな出来事が自分の中にもう一度芽生えるとは思わなかった。

 

 彼女を横目にラーメン屋に向かう。

 彼女と一瞬目が合った……。

 体の中にある硬い何かが優しく溶けた。

 

 いつも通りラーメンを食べながらさっきの彼女のことを話す。

 中国には日本人向けのクラブがある。

 彼女もきっとそこで働いている人だった。

 ただしあの通りには何件もの店があり、彼女はどこのお店の人か分らなかった。

 もし彼女の店が分かったとしても、彼女のような女性の場合、常連が多く、

 人気が高い為、出会うことはできない。

 

 所詮夢物語だった。

 一瞬で全てを奪われる程恋したのは、大学生以来10年振りだった。

 しかし、その芽生えたその感情はそっと胸にしまうしかなかった。

 

 中国での仕事は多忙を極めた。

 夜仕事が終わるのは、深夜2時、3時……家に帰ることができない日も続いた。

 月に休みは1日~2日。

 それでも刺激があり、充実していた。

 仕事の納期も厳しく、がむしゃらに走ることで達成感もあった。

 

 中国に来てからも相変わらず、妻からの連絡は無かった。

 こちらから週に何度か連絡しても、メールが返ってくるのは3日、4日後だった。

 



 「いろいろ忙しくて、メール返せないんだよね」

 

 それが決まり文句だった。

 結局彼女の中に私は存在していなかった。

 忙しさは寂しさを幾分埋めてくれていたが、

 それでも異国の土地で寂しさが無いと言ったらそれは嘘だった。

 誰もいない家に一人帰り、一人でテレビを見て、一人で寝る生活は寂しかった。

 

 ビザの関係で一時帰国をした際、妻と話し合い離婚した。

 前から離婚届けには既に記入してあったし、

 彼女が私を必要としていないことも中国で3カ月生活して分っていた。

 

 妻は別れたくないと言ったが、もうこれ以上籍だけ一緒にいることに意味はなかった。

 

 知り合って10年が経っていた。

 

 生活を共にして8年。それが結末だった。

 別れたくないと言われた時は決意がぐらついた……。

 でもこれ以上一緒にいてもお互いが傷つけあうだけだった。

 

 中国に戻り本当の一人の生活が始まった。

 元々一人で生活していたが、やはり心のどこかに元妻はいたのかもしれない。

 そしてその存在は、どこかで安心感を与えてくれていたのかもしれない。

 

 また忙しい中国の波に呑まれる。中国生活が始まって4カ月が経っていた。

 季節は11月になっていた。

 大連は日本の北海道と同じ緯度である為、とにかく寒い。

 11月には既にコートを着ていないと寒くて外を歩けなかった。

 

 いつものラーメン屋で同期とご飯を食べ、外に出ると、

 やはりそこには暴力的な風が無差別にふきつけてきた。

 

 家へ帰る途中、こちらに向かって手を振る二人組の女性が見えた。

 会社の人ではないことはすぐに分かった。

 知り合いではないことは間違いないが……誰だか分からなかった。



 2人組はこちらに近づいてきた。

 近くで見て、ラーメン屋を出てすぐすれ違った2人組だったことが分かった。

 

 「私達あそこのクラブで働いているんだけど、今仕事帰りで……。

  よかったら私達のお店で一緒にお酒を飲みませんか?」

 

 唐突だった。そんな展開を予想もしていなかった。

 

 同期と話、そのクラブで飲むことにした。

 彼女達は日本人向けクラブで働く女性で日本語も達者だった。

 接待や上司に連れられ、クラブに飲みに行ったことは何度もあったので、抵抗も無かった。

 

 小奇麗な店内は静かな雰囲気を漂わせていた。

 日本人向けクラブのお店は、カラオケを併設していることが多く、派手な店が多かった。

 でもこの店の雰囲気は少し違っていた。

 カラオケはあるものの日本のバーに近い落ち着く店だった。

 

 個室ではなくオープンスペースのソファに案内された。

 同期も私も歌わず長居する気もないので、ソファで十分だった。

 お酒が運ばれ4人でお酒を飲んでいると、一人の女性が現れた。

 

 その顔を忘れるはずもなかった。

 

 それは2カ月前、タクシーにお客さんを乗せていたあの女性だった。

 その瞬間全ての意識がまた彼女に奪われた。

 

 彼女の名前は「梅梅(メイメイ)」

 

 梅梅と話をすることで頭の中は埋め尽くされていた。

 何から聞けばよいのか……。

 

 運命という言葉を一生に一度使っていいのであれば、

 間違いなく今日がその日だった。



 何から話していいかも分からず、梅梅から仕事の話を聞いた。

 やはり常連が多く普段から同伴する客が決まっている為、

 なかなか予定は空いていないと言った。

 

 彼女の仕事ぶりはプロだった。

 常連が多いことも納得だった。

 前に客をタクシーに乗せる時もドアに手を置き客が頭をぶつけないようにしていた。

 客と話をしつつ、お酒やつまみ、灰皿に気を配る。

 それを自然にふるまっていた。

 一緒にきた2人組は腰かけでバイトなのだろう、仕事は何もしなかった。

 帰り際、梅梅が名刺に携帯番号を書いて渡してくれた。

 それはクラブの仕事上普通のことだが、その時は胸が締め付けられた。

 

 家に着くとすぐに、メールを送ることで頭がいっぱいになった。

 

 メールの内容に悩むことは何年ぶりだっただろう……。

 そしてメールを送ってから返ってくるまでの時間は、思春期の頃を思い出させた。

 好きな人になんてメールを送ればいいのか……。

 その高ぶる感情は、久し振りの感覚だった。

 メールの返事が返ってくるまでの時間は、何時間も続くようにも感じた。

 その甘酸っぱい味は、自分の眠っていた感覚を優しく起こしてくれた。

 目を閉じると彼女が浮かでしまう。

 考えないようにしていても、考えてしまう。

 

 そんな一目ぼれは生まれて初めてだった。

 

 いつもどこかで、女性は別にも沢山いて……と自分をごまかせていたが、

 もうごまかすことはできなかった。

 

 梅梅は忙しいながらもメールを返してくれた。

 そして、お店で会える日をそっと教えてくれた。

 私の仕事も忙しいので、時間を調整することは非常に難しかったが、

 梅梅に会えることを考えれば苦にならなかった。

 

 お店に行った4回目のある日、梅梅は酔っていた。

 自分を含め4組のお客さんがいて、私がくると同時に3組は帰ったらしい。


 

 そして彼女は突然泣いた……。

 

 その涙は心に強く刺さった。

 

 決して他人に弱音を吐かないその見た目からは想像できなかった。

 強く明るく振舞う女性だとばかり思っていた。

 

 「ごめんね。せっかく来てくれたのに……なんでだろうね……

  酔っぱらうと昔の嫌なことを思い出しちゃって。

  今日はすごい飲んだから……

  お店でも、お客さんの前でも一度も泣いたことないのに……」

 

 ただ梅梅を抱きしめることしかできなかった。

 

 梅梅は、小さな体を震わせながら私の胸で泣いていた。

 抱きしめたとき彼女の体が今にも折れてしまいそうな程、白く細いことに気がついた。

 この細い体からあの明るく振舞う元気はどう作り出されているのか、分らなかった……。

 自分の全てで、彼女を守りたいと思った。

 

 梅梅は帰り際、家まで送って欲しいと言った。

 

 家族がみんな実家に帰っているので、一人で帰るのが怖いと言った。

 昔、家の目の前で強盗にあい、かばんを奪われたことがあったからだと言った。

 

 軽く食事を終えた後、タクシーで梅梅の家に向かう。

 

 心の中で少し疑っていた……彼女は……。

 あの涙も……。

 

 我慢しきれず思わず聞いてしまった。

 

 「他のお客さんとも一緒に帰ることってあるの?」

 

 梅梅は驚いた顔をして笑いながら答えた。

 


 

 「あるわけないじゃん。

  何年も知ってる常連さんでも私の家知ってる人誰もいないよ。

  それにみんなおじさんだし。

  あなたみたいな若い人は誰もいないよ」

 

 頭が混乱した。

 

 「じゃあなんでおれを連れていくの?」

 「あなたはまじめで優しい人だって知ってるから。

  私この仕事長いから。

  そういうのって話をすると、どういう人かすぐに分かるの。

  だからあなたは心配ないでしょ?」

 

 そういうと、優しく咳きこみながら微笑んだ。

 

 それで充分だった。

 幸せとはこういうささいなことで感じることができるのだと改めて思いださせてくれた。

 梅梅と一緒にいれれば、それだけで幸せを感じることができた。

 

 大連の港が見える住宅街に梅梅の家はあった。

 

 そこには、母親と父親、お姉さんの四人で暮らしていた。

 弟は大学の寮に居て大連にはいなかった。

 

 家に着いた時、梅梅はもう酔っていなかった。

 そして自分のこれまでの話をしてくれた。

 内モンゴルでどのような生活をしていたか。

 子供の頃から親の為に働いていて、小学校、中学校には行けなかったこと。

 

 毎日休み無く、木を切り、農業をして、馬や羊を育てたこと。

 

 馬や羊が山で草を食べているのを横目に青空を眺めながら、

 「いつかこの生活から抜け出したい」と幼心に誓ったという。


 



 新しい服は1年に1回、春節(中国の旧正月)だけ買ってもらえたという。

 

 今の家族の希望は医学部に通う弟であること。

 いい病院に勤める為に賄賂が必要なこと。

 親の為に全てを捧げ、この家も親の為に買ってあげたこと。

 

 「私学校に行ってないから、クラブで働くしかないんだよ……

  地方からでてきた人の仕事は給料安いからね……

  だから私が頑張るしかないんだ。」

 

 そんな梅梅は、家族が今食べることに困らないこと、家があること、

 好きな服が着れることが幸せだと言った。

 

 自分が今まで歩んできた道のりがいかに平坦で、

 恵まれた生活をしていたか恥ずかしくなった。

 

 そして、その細く小さく体で自分の事は考えず、

 家族の事を常に1番に考える彼女の心にますますひかれた……。

 

 彼女のことをなんとしてでも、守りたい、幸せにしたいと強く思った。

 

 中国人には少なからず日本人に対して嫌悪を示す人がいる。

 それは日本人が過去に犯してしまった過ちであるからしかたがない。

 歴史を変えることはできない。

 

 中国の旧正月に梅梅の自宅に招待された。

 旧正月は家族みんなで水餃子を食べることが習慣だった。

 初めて梅梅の家族に会った時は緊張した……。

 幸い梅梅の家族は日本人に対する先入観は無く、

 優しく迎え入れてくれた。

 

 家族みんなで餃子を作って、お父さんとたばこを交換したり、

 中国の特番をみんなで見て笑って。

 

 こんな生活に憧れていた。本当に幸せだった。


 

 ある日の夜中メールが届いた。

 梅梅の仕事が終わるのは毎日夜中だが、それでも時間が遅すぎた。

 

 「ひとつだけわがままいいですか……」

 

 メールにはそれしか書かれていなかった。

 いつもと様子が違うことはその短い文章でも十分伝わってきた。 

 

 「どうしたの?」

 と急いでメールを返すと、

 

 「あなたと2人で海に行って写真を撮りたい」

 と返事が着た。

 

 写真を撮ることを言い出すのに、何故ためらっていたのかはその時分からなかった。

 

 翌日詳しい話を電話で聞くと、プロのカメラマンに写真を撮ってもらいたいから、

 お金がかかるのだと言った。

 その値段が日本円で2万円ぐらいする為、言い出せずにいたと知った。

 

 中国では日本と違い記念にプロのカメラマンに写真を撮ってもらうことが一般的だった。

 休日には名所のいたるところで記念撮影が行われている。

 

 予約当日、彼女はウエディングドレスに身を包んで登場した。

 私にはタキシードが用意されていた。

 

 「こりゃ結婚式みたいだね」

 と笑いながら言うと。

 

 「ごめんね……。こうやって記念写真を好きな人を撮るのが夢だったの……」

 と申し訳なさそうに謝る梅梅を思わず抱きしめた。

 

 全てが幸せ過ぎて怖かった。