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闇の跫音

 生ぬるく淀んだ春の風が頬を撫でる。ひらりと舞った桜の花びらが、ちょうど籤丸の眼前を掠め地面に落ちた。

 本日は折り良く晴れ間であるが、昨日から続く春雨に地面は浸され、泥濘と化した地面は瞬く間に薄紅の花弁を土色に染めた。

 狭い小路には、びちゃびちゃと泥を跳ね上げ駆ける足音が響き渡る。あっちだ、逃がすな。荒々しい怒号がそれを追う。

「そっちへ行ったぞ! 追え!」

 隊長の声に従い、籤丸は三叉路を曲がった。この先は行き止まりのはずだった。

 案の定、追い詰められた賊は壁と籤丸に挟まれ、まごまごとあちらこちらに視線を彷徨わせている。

「大人しく投降してくれたら、手荒な真似はしないよー?」

 籤丸は猫なで声で小首を傾げ、片目を瞑ってみせた。しかし賊は全く聞いた素振りではない。ひたすらに退路を探し、冷や汗を垂れ流すばかりである。

 賊は盗んだ糒の袋を片手に抱え、もう片手には鉈を提げている。籤丸が一歩踏み出すと、来るなと吼えて、提げた鉈をこちらに向けた。

「だからさあ、大人しくしといてくれたら、痛い事はしないって。どっちにしろ逃げ場は無いんだから、俺の言う事聞いといた方がお得だと思うけどにゃー?」

 籤丸は支給品の軍刀から手を離し、両手を顔の高さに挙げて見せた。敵意が無い事を示してやれば、きっと賊も大人しくしてくれるだろうと、ほんの少しばかりの期待を抱いたのだ。

 だが思っていた通りに、期待は裏切られた。口角から泡を散らし、鉈を振り回しながら賊はこちらにやって来る。

 仕方なしに、籤丸は軍刀に手をかけた。

 抜こうとした、丁度その時だ。

 銃声と共に、賊は籤丸の目の前でもんどりを打って倒れた。手から離れた鉈が、濡れた音と共に地面に跳ねる。

「何をのろのろとしているのです」

 籤丸が振り返ると、そこにはよく見知った姿があった。天ツ軍服の白を嫌味なほどに着こなした、細身の青年だ。

「あー……、すみませんねえ。陵伽院の御曹司殿」

「下手な嫌味はやめた方が良いのでは? 下級民の己がみじめになるだけでしょうに」

 そう言って、陵伽院貞之は銃を仕舞った。眼鏡を指先でツイと押し上げる仕草が、腹の立つほど様になっている。

 硝煙の香を纏いつかせた彼は、籤丸の五つ年下で二十一歳であるはずだ。彼は己の方が年下であるからと、慇懃な口調は崩さない。しかしそれが、却って嫌味な響きを持って籤丸の鼓膜を揺らす。

「……左様でございますねえ、上級民の貞之サン」

 言われた通りに下手な嫌味をやめてやるのも癪で、籤丸は貞之が上級民だと言われる事を嫌っていると知りながら、嫌味をぶつけてやった。背中に貞之の舌打ちを浴びせられるのを半ば愉しく感じながら、倒れた賊のもとへと向かう。


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最終更新日 : 2012-09-10 23:46:14

この本の内容は以上です。


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