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第五章

 真っ赤に輝く大きな満月と、チカチカと五月蠅いネオン管が灯し出す、真夜中の繁華街の裏路地。
 車高を下げられ槍のようなマフラーが飛び出た身分に不釣り合いな黒塗りの高級車や、張り出したエアロパーツを装着した黒塗りのミニバンが、何台も連なって路上に駐車されている。
 カーステレオから空気を揺るがすような低音の強調された大音量のブラックミュージックが木霊する。
 絶えもなく聞こえる若者達のトゲトゲしい笑い声。
 一面を漂うタバコの煙。
 路上に転がるタバコの捨て殻と、殻になったペットボトルと、コンビニの弁当。
 寂れたビルの壁面に所狭しと書かれた落書きが、そこに息づく若者達のグループのテリトリーを顕示する。
 若者達が集うこの街は決して眠ることなく、”求める者”を相応の金と引き替えに招き入れる。
 売買される人と薬。
 この街のこの路地では、若者達が売人であり、買う側でもあった。
 秩序を失ったこの闇の路地に一人の場違いな少女が足を踏み入れる。
 細身で背の高い金髪の少女。
 その髪と彫りの深い顔立ちは、欧州人の血を引いていることを感じさせる。
 少女の足音に馬鹿騒ぎをしていた若者達は静まりかえり一斉に少女の方に目を向ける。
「おっ、処女が来たぜ!!」
「んなわけなーだろ!!
 ありゃ俺の彼女だから、毎日ヤリまくりに決まってるだろ
 ヤリマンだよ、ヤ・リ・マ・ン!!!」
「言ってろ、バーカ!!!
 ほら、オナニーだってしたことないってさ!!」
「ギャハハハハハハハハ!!!」
 下品なヤジが飛び辺り中で心ない笑いが飛び交う。
「何がしたい?
 売りか?」
 若者の一人の問いかけにも、少女は微動だにしない。
「じゃあ、ヤクか!!
 一回ヤラしてくれれば、十回分はくれてやるぜ!!」
「いいなぁーーーー!!!
 俺の穴を掘らしてあげるから、百回分ちょうだぁーーーーい!!!」
「死んでろよ!!!」
 また、笑いが飛び交う。
 その卑下すべき態度に少女は不敵な笑みにその唇を僅かに歪める。
「お前達に用は無い・・・」
 そう言うと、少女の体の身体から見えない何かが広がり、その裏路地を取り囲んで行く。
 少女から広がったその空間の中で、たむろしていた若者達は次々と形を失って消えていく。
 後に残ったのは空間の主である少女と、もう一つ黒く渦巻く人の形をした闇だけだった。
「用があるのはお前だけだ!!」
 少女が腰に差したサヤから細身のサーベルを取り出すと、身体を横にしてサーベルを突き出して構える。
「きしゃぁーーーーーっ!!」
 音にならない掠れた咆吼を上げながら、その闇は少女に牙をむく。
 闇が少女に向けて突進し、腕の辺りからツメのようなものが延び、少女を貫こうとするが、まるで闘牛士のようにギリギリまで闇を引きつけて身を翻して交わし、すれ違いざまにすかさずサーベルを突き刺す。
「!!」
 聞き取ることの出来ない周波数の叫び声が上がる。
 闇色の体液が飛び散り、路面を濡らす。
「トドメ!」
 少女は一言呟くと、何度も何度も手にしたサーベルで、人の形をした闇を突き刺す。
 やがて、その身体には無数の穴が開き、向こう側にあるネオンの看板がギラギラと光っているのが見えた。
 闇は最後、断末魔の悲鳴を上げると、身体を闇色の液体へと変えて崩れ去った。
 少女は息を吐き、汗をぬぐい去る。
 だが、戦いはまだ終わりではなかった。
 少女の背中に忍び寄るもう一体の闇の姿。
 少女がその気配に気付いた時にはすでに真後ろでツメを延ばしていた。
「くっ!!」
 やられる!!!
 少女がそう思ったとき、少女の作り出した空間の上から更に強い空間が覆い被さるように広がっていく。
 そして、次の瞬間には闇は激しい光の中に消滅していた。
 ブラックミュージックが鳴り響きネオンが輝く裏路地に、金色の髪を持つ少女と、もう一人、革のライダースジャケットに身を纏った若い男が立っていた。
 その男こそが闇を滅した者だった。
「竜斗!!」
 少女がその男の名を呼ぶと、男は笑みを浮かべて返した。

 

 竜斗の世界~After Of Ryuto’s Verden

 

 車の通りがまばらな夜の首都高速を一台の車が駆け抜ける。
 澄み切った空のような青いボディ、室内中に張り巡らされたロールバー、トランクから延びたGTウィング。
 甲高いロータリーサウンドを奏でるオーブンカー。
 その名はロードスター。
「ねぇ、竜斗・・・!」
 俺は名前を呼ばれて、助手席を横目でチラリと見る。
 金髪の細身の少女が俺をじっと見ていた。
 その顔は流れては消えていく、トンネルのオレンジ色の灯りに照らされて、赤みを帯びているように見えた。
 少女の名はマイ。
 身寄りがないのを帝国が引き取って、学校に通わせながら、勉強のためにとタマに”仕事”を手伝わせている。
 まぁ、妹みたいなものだ。
 ・・・もっとも、向こうは兄のようにとは思ってくれてはいないようだが。
「なに?」
 高速道路の路面のつなぎ目の僅かなギャップを拾い、ステアリングが明後日の方向に向こうとするのを押さえながら、俺はワザと素っ気ない返事をする。
「ずっと私の戦い見ていたんなら、なんでもっと早く助けてくれなかったの?」
 彼女の言うとおり、俺は彼女がピンチになるまで隠れて待っていた。
 その理由を考えて、俺は苦笑する。
「俺の好きだったヒーローが、ピンチの時しか助けてくれない奴だったからかな」
 そう、俺のヒーローはピンチになるまで助けてはくれなかった。
「何でなの?」
「きっと、ピンチの時に出てくるのが一番カッコイイからさ」
「駄目なヒーローだね」
 ダメと言われると痛いところだが・・・。
 でも、今なら何故ヒーローがピンチになるまで出てこなかったか解るような気がする。
 きっと、ガンバれるところまでガンバって、出来るところまでやって欲しかったんだな。
「まぁ、マイもいずれそんなヒーローの気持ち、解るようになるさ」
「きっと、何時までも解らないと思うよ。
 力を持っていながら、力を出し惜しみするのは嫌いだから」
 それを言ったら元も子もない・・・。
 なんか、何を言ってもキツイんだよなぁ、コイツは・・・。
「竜斗もそんなに凄い力を持って居るんだから、ドンドン使えばいいのに・・・!」
「誰だって若い内は力に満ちあふれ、調子に乗るものだけど、結局見せかけだけで長いこと続く訳じゃない。
 本当の力っていうのはちっぽけな自分を痛感し、挫折を乗り越えて初めて手に入れられるものなんだ。
 見せかけじゃ無いから、そう簡単に使うわけにはいかないのさ」
「それは解る気がする・・・」
 顔を見ずともマイが苦笑に近い表情を浮かべるのが解った。
 頭の中に自分の身近な人間の姿を浮かべたんだろう。
「それに、これでも以前と比べれば力だって無くなってきているんだ」
「えっ、本当にこれでも力が落ちているの!?」
 マイは驚きの声を上げる。
「ああ、本当だよ」
「さすが、帝王って言われるだけあるね」
 俺達を乗せたロードスターは左右に振られながら、代官町の出口で降りて街の中へと姿を消していった。

 俺達・・・帝国のアジトは皇居に近い三番町のビルだ。
 ビルと言っても元々はマンションとして立てられた建物で、住居としての需要がないために、そのほとんどが事務所として使われていたが、このところ続く不況のために、ここを借りていた会社が軒並み破産。
 スカスカ状態になったビルを丸ごと俺達が買い取ってアジトとして使っている。
 改装されて壁をぶち破られて事務所になっているカ所がほとんどだが、中には元々の住居としての機能を残している部屋も数々あり、住むにしても申し分ないので、身を潜めるアジトとしては打って付けってわけだ。
 建物が相当古いため、少々部屋は汚いけど・・・。
 この界隈には同じようなビルが沢山あり、俺達以外の組織のアジトも沢山存在する。
 場所が場所だけに人気が高い・・・。
 ロードスターをビルの駐車場に止め、ボロボロのエレベーターで3階の事務所に戻ると、アフロヘアーの男が出迎えた。
 虎のハッピを着て猛虎と書かれた鉢巻を巻いた見るからに阪神タイガースファン。
 その名も阪神大河という解りやすいネーミングの男だ。
「竜斗はん、今日こそは思い出の彼女とは再開できたんか?」
 彼女と言う言葉を聞いて、俺の隣にいるマイがムッとした顔をするのが解った。
「いや」
「毎日、探し続けていないんやから、竜斗さんの思いでの彼女も、ただの夢だったんちゃうかぁー?
 うつろな夢より、今ある現実を大切にせなあかんでぇ!!!」
 珍しく最もらしい事を言う阪神。
「わいと一緒に祝いましょ!!!
 阪神タイガース優勝おめでとぉーーーーーーっ!!!」
 少し見直したが、結局、タイガースのことだったりする。
 本当に阪神タイガースが優勝してから浮かれっぱなしだ。
 暇を見つけては事務所のTVで阪神タイガース優勝試合のビデオを繰り返し見て興奮している。
 念願叶って優勝して嬉しいのは解るが、ここまで来るとアホだ。
「竜斗、今日の仕事はどうだった?」
 机について事務処理をする女性が言う。
 スラッとしたスーツに身を包んだ彼女は風間 聖羅。
 僕の実の姉だ。
 昼の仕事である政治家秘書の事務が終わらず、帝国のアジトに来ても働き続けている。
「今日は・・・」
「今日は敵にやられて死にそうになったってさ!!」
 俺の言葉を遮るように姉さんの隣に座った男が言う。
 ダボダボなジーパンにタンクトップと言うラフな格好をした、金髪のロンゲの長身の男・・・。
「なんでそう突っ掛かるのよユウ!!」
 姉さんがその男の名を呼ぶ。
 ユウは俺と同い年の帝国の構成員だ。
 マイの実の兄で一緒に帝国に引き取られた。
「コイツのすました顔が気に入らないんだよ!!」
 と俺の肩にぶつかりドアをけ飛ばすと事務所から出ていった。
「なんで、俺を見てくれないんだ・・・」
 と別れ際に呟くのが聞こえたような気がした。
「まったく、アイツったら・・・。
 虚勢なんて張らなくても良いのに・・・
 私が男としてみているのは一人だけなのにね」
 ユウは姉さんの事が好きなんだが、姉さんが俺のことばかり気に掛けているのが気に入らないらしい。
 妹のマイが俺に好意を抱いてることもあるかも知れない。
 とにかく俺にコンプレックスを感じているらしく、何かと突っ掛かってくる。
 強くなれば姉さんが振り向いてくれると思っている。
 とても強い一途な思いが力を生むが、それ故に脆さを兼ね備えている奴だ。
「きっと、いつか姉さんの気持ちも分かる日が来るさ」
「そうよね・・・」
「じゃあ、もう寝るよ・・・」
「お休み・・・」
 俺は事務所を後にして、ビルの上の方にある自室へ向かった。

 あれから四年の月日が過ぎた。
 あれだけ心に深く刻まれた毎日だったのに、それを覚えているのは俺だけ。
 でも、確かにあの日々は存在していて、その証拠を残していると言うのに、みんなの記憶からあの親子は抜け落ち、新しい記憶の元で新しい毎日が始まった。
 その新しい記憶では俺は初めから帝王だったらしく、何の選択の余地も許されぬまま帝国で働き続ける毎日が待っていた。
 帝国は俺が思っていた程、非道な組織ではなかった。
 もともとはその力で人々を支配したり、他国へと侵略をしたりしていた事もあったらしいが、今は時代も変わり自警団に近い組織になっていた。
 主な仕事は、悪しき事にIFを使う者を取り締まる事。
 そして、影を狩ることだ。
 影とは人間の心に巣くい、破壊の衝動へと誘うモノ。
 そう、先ほどマイと俺が狩ったような奴だ。
 それは俺らのようにIFを使う人間にしか見ることが出来ない。
 誰もその正体について知る者はいないが、時代により呼び名を変えながら昔から存在していたものだと言う。
 俺はアレは魔力の一種のようなもので、人々を破壊に導きたい誰かの意志によって生み出されているモノだと思っている。
 あるいは不特定多数の人間の衝動や、世界自身の意志によって生み出されているのかも知れない。
 年々増え続け、今じゃ目を凝らせば何処にでも居るぐらい増えて、とてもじゃないが狩っても狩りきれない。
 だから、特に強いものを狩ることしか出来ないが、それでもただの一時も退屈することは無かったな。
 俺はがむしゃらになって戦い続けたよ。
 また自分の心に負けて、また大切な人を傷つけて、二度と同じ事を繰り返したくなかったから、自分自身を受け入れられるようになるため必死だった。
 色々なモノを受け入れ、何時からか気持ちが落ち着いて心の中のザラついた気持ちは消えたが、それと同時に失ってはいけない感性のようなものも消えてしまった気がする。
 生きているって実感がないんだ。
 あれだけ溢れていた力も徐々に枯れ果て、残ったは風間 竜斗の燃えカスだけ。
 俺はもう終わってしまった人間だと思うと悲しくなるが、その悲しさをも仕方ないものだと認めてしまっている自分がなお悲しい。
 夢枕に見るはいなくなってしまった彼女との思い出ばかり。
 抱きしめようとすれば消えてしまう幻の君・・・。
 辛い・・・。
 辛いな・・・。
 一体何をやって居るんだろう俺は・・・。
 過去を振り返らないと心に誓ったはずなのに・・・!
 ガチャ・・・。
 ドアの開く音で、夢の中に消えてしまいそうなにった意識が呼び覚まされた。
 まだおぼつかない意識で暗い空間を凝視すると、コンクリートがむき出しの部屋に金色の髪を持つ全裸の少女・・・マイが立っていた。
 俺はマイの目だけを直視する。
「なんのつもりだ・・・?」
「・・・・」
 俺の問いかけにマイは答えない。
 マイの気持ちを察していただけに、ため息が出そうになる。
「俺は君にとって何なのか、もう一度よく考えた方が良い。
 君が俺に向けている気持ちは憧れでしかない。
 俺は考えのない行動に対して答えを出すことは出来ない」
 俺はあえて冷たく言い放った。
 中途半端な優しさは返って傷つけてしまうことになるから。
 だが、マイは帰らなかった。
「竜斗が私を抱いてくれないのは解っていた・・・。
 竜斗の心には他の女の人が住んでいるから・・・。
 でも、せめて女としての私を見て欲しかった・・・。
 私は女・・・。
 竜斗から見れば子供かも知れないけど、私は女なの・・・!」
 そう言いマイは俺の身体に抱きつく。
 揺れる髪からバラの香りが漂う。
 その細身の冷たい肌の感触が俺の心を揺さぶるが、脳裏に残る思い出が理性を保つ。
「竜斗の中には私の居場所はないのね・・・」
「居場所がないわけじゃないさ。
 俺の世界の中にもマイは確実に住んでいる。
 ただ、その世界の中で俺がマイに求めるものは、マイが望んでいる立場じゃないってだけだ。
 だが、マイの世界の中では俺という登場人物は重要な存在なのかも知れない。
 人はそれぞれ違う世界観を持ち、その中でモノを見て、違うモノを求めているってだけのことだ」
「そんなの解らない・・・」
 まるで泣いているかのような、今にも消えてしまいそうなか細い声だった。
「きっと何時か解るときが来るさ。
 否が応でも何かを学ばないといけない時って誰にだって来るものだと思う。
 俺がそうだったから」
 俺はとっさに昔言われた言葉を思い出す。
(今はまだ俺の言葉が解らないかもしれないが、いずれ思い返してその言葉を自分のものにすれば良い)
 そうか、そうだったんだ・・・!
 あのとき、言われて解らなかった言葉も今なら解る。
 それはこの四年間、がむしゃらになって戦い続け、足踏みしているようでも、先に進んでいたから、今の俺があるんだ!
 ゆっくりだから自分自身の変化に気付くことはなかったが、確実に変わっていたんだ・・・。
「竜斗の言葉は私には重すぎるよ・・・。
 今の私には何一つ解らない・・・。
 だけど、何時か竜斗に追いつけるようになるために一つだけ約束して・・・。
 竜斗が過去にどれだけのものを置いてきたのかは解らないけど、過去を思い出しては悲しそうな顔をしている竜斗を見ると辛いから、もっと今を見て欲しい・・・!
 竜斗は何も終わってなんかいないから・・・!
 今は私を見てくれなくても良いから・・・」
「ああ、約束するよ・・・!」
 俺はマイの頭に軽く手を乗せた。
「さぁ、もう自分の部屋に帰るんだ」
 俺はマイを引き離すとその身体にシーツを掛けてやった。
「うん・・・」
 彼女は呟くと部屋から出ていった。
 俺はパイプベットに身を預け、配管がむき出しになった天井を眺める。
 この四年間は無駄じゃなかったんだ。
 俺は終わってなんかいないんだ。
 のしかかった重りが取れて、とても心が軽い。
 もう、切ない夢を繰り替えし見ては、過去を振り返らない。
 やっとあの日々にありがとうを言えるから・・・。

 夜明けと共に俺はロードスターを西へと走らせた。
 うっすらと視界を白く濁らせる朝靄に、ロードスターの黄色いヘッドランプの光軸がぼんやりと映っていた。
 向かう先に待つは森に抱かれた丘の上にそびえ立つコンクリートの給水塔だった。
 丘を巻く坂の道を駆け上がると、風景は懐かしい雰囲気に満ちていた。
 俺はレギュレーター(手動窓開閉器の事)で窓をあけると、森林の冷たく澄んだ匂いが漂う。
 少し肌寒い空気に俺は羽織ったライダースジャケットのチャックを上まで閉めた。
 車で団地の周りを流すと次々と思い出がよみがえってくる。
 クマンバチの巣があった小学校の藤棚・・・。
 毛虫の落っこちてくる桜並木・・・。
 冬になるとソリで遊んだ丘のある空き地・・・。
 連れられて釣りをした公園の池・・・。
 自転車で駆け回った遊歩道・・・。
 変わっていない懐かしい景色が何故だかとても小さく感じた。
 ボール遊びをした団地の芝生は駐車場になり、ガチャガチャやビデオゲームが置いてあった本屋のある商店街は軒先店を閉じている。
 俺が住んでいたときよりも更に変わってしまったところもあった。
 そして、彼女と一緒に暮らした、あの古びてヒビだらけの団地・・・。
 二つ並んだ部屋の窓に付けられた見知らぬカーテン。
 違う誰かの生活を感じると何だか切ない。
 久しぶりに来た故郷のはずなのに、その現在を目の当たりにすれば、もう、帰るところが無いことに悲しくなった。
 俺は給水塔の横に車を止めると、彼女との最後の時を過ごしたベンチに腰掛けて、丘の上から眼下に広がる街を眺めた。
 街の上に掛かった霧はまるで白い海のようだった。
 ひときわ高い高層ビルだけが霧の海を突き破り顔を覗かせる。
 そして、霧の雲の中から輝く朝日が昇ると世界を照らし、緑の大地に給水塔の巨大なを落とす。
 ここに来るのはこれで最後だ・・・。
 もう、帰らないと心に決めた。
 だけど、その前に一度だけでも彼女に会いたかった。
 会って一言、お礼を言いたかったけど、それは叶わぬ夢だったのかもしれない。
 俺は苦笑するとロードスターのキーをひねり、懐かしい故郷を後にした。

 ロードスターの幌を開けば、流れる涼しい風に心躍らされ、久々にドライブでもしたい気分になり、気の赴くまま車を走らせた。
 向かった先は神奈川県のほぼ中央にある大きな人工湖の脇を抜ける、比較的東京から近い山道だった。
  森林に囲まれた狭く曲がりくねった細長い山道。
 フロントガラスに写り込む木漏れ日。
 喉を透き通る新鮮な空気が気持ちが良い。
 たまに来る対抗車とのすれ違いもロードスターの小柄なボディでは苦にならず、特に先行車もなくマイペースで、ふらふらとするボディを揺らしながら、心地よい横Gを感じることができた。
 あまりにも続くコーナーに身体の感覚が麻痺してきた頃、刹那的に左側に地平線の彼方まで続く街の景色が流れた。
 生い茂る木々に覆い隠され、あっという間に見えなくなり、コーナーでノーズを右に向けて遠ざかるが、また次のコーナーで視界が一気に広がる。
 凄い綺麗だ!
 簡単の声を上げる間もなく、車はノーズの向きを変えてあっという間に過ぎ去っていく。
 あまりの味気なさにもう少しスピードを落として欲しいと思うが、運転しているのは自分だった。
 身体に刻まれたスピードはそう簡単には変わらなかった。
 それからしばらく行くと、右側に休憩所があり、そこに車を止めて前方に見える展望台へと足を進めた。
 螺旋階段を抱く木製の塔の形をした展望台に登らなくても十分に景色は綺麗だったが、展望台の上から見る景色はなおのこと綺麗で思わず絶句してしまう。
 幾つものビルを抱く神奈川の街と、色濃く残す自然の緑、入り組んだ海岸線、何処までも続く水平線、そして、細い綿上の雲を抱く青い空・・・。
 もっと遠いところばかり目をやっていたので、こんな近くにこんなに景色が良いところがあったなんて知らなかった。
 俺がその景色を見て感嘆していると、曲がりくねった山道を抱く森の中に、ボロボロとしたエキゾーストノイズ(排気音)が響いた。
 空冷水平対向ターボの音だ!!
 聞き覚えのある懐かしい音に俺の心臓は鷲掴みになり、口から飛び出るんじゃないかと言うぐらい跳ね上がる。
 そして、休憩所に姿を見せる赤いボディのポルシェ911ターボ!!
 開け放たれたサンルーフから車内は見えない!!
 誰が乗って居るんだ!?
 俺が展望台の手すりに身体を投げ出したその時・・・。
「このガキゃぁ!!
 俺のおニューのランエボに傷つけやがって!!!」
「うわぁーーーーーーん!!」
 子供の泣き声が響く。
 駐車場に止まっていた黄色のランサーエボリューションⅧに、隣に駐車したフィットの後部座席から降りようとした子供がドアエッジで傷を付けてしまったらしく、ランエボのドライバーの若い男が子供の胸ぐらを掴み今にも殴りかかろうとしていた。
「止めてください!!」
「うるせぇ!!」
 子供の母親らしき女が男を止めようとするが、足蹴にされてしまい地面に伏せた。
 殺してやる!!
 殺してやる!!
 殺してやる!!
 あの男の極端な殺気には心当たりがある。
 そう、影に取り付かれた人間独特な感情だった。
 俺の仕事か・・・!
 そう思った時、休憩所の駐車場に若い女の声が響いた。
「やめなよ!!」
 とても懐かしいその声に俺の心臓は早鐘のように鼓動する。
 肩まで伸びた長い髪を首の後で縛った、タートルネックのセーターにジーパンを履いた女・・・。
 少し大人びているし、背中しか見えないけど、この感覚、この正義感の強さ間違いない!!
「その子を離して!!」
「なんだてめぇは!!」
 男はジッと彼女を睨み付ける。
「離しなさい!!」
 だが、負けじと彼女は押し返す。
「離してやるよ、だからてめぇが責任取れよ!!」
 男は子供を離すと、彼女の手首を掴む。
 ドサッと言う音と共に子供は地面にしりもちを付くと、抱きながら母親に縋った。
「なにすんのよ!!」
「てめぇ、責任取るんだろ!!」
 男は尋常では無い力で彼女を引っ張ると、自分の車の後部座席に彼女を押し込もうとする。
「一緒に来いやぁ!!」
 それを最後まで見届ける事無く、俺は展望台から空を飛んでいた。
 そして、ロードスターのコックピットへとそのまま着座し、ランエボとほぼ同時にキーをひねる。
 静かな森の中に二つの乾いたイグニッションサウンドが響く。
 ロケットがカタパルトから発射されるように駆け出すランエボ。
 クラッチをけ飛ばすように離し、思いっきりアクセルを踏み込むと、白煙を上げながらロードスターがランエボ目がけて滑り出る。
 後に残るタイヤの焼ける匂いと、半円を描いたブラックマーク。
 休憩所から街の方へと向かうダウンヒルを駆けるランエボを前方に捕らえる。
 ランエボのドライバーが追ってくるこちらの存在に気付いたらしく、その黄色い車体は急加速する。
 追走するロードスターも、シフトダウンしアクセルをフルフラットにする。
 ぶぉーーーーーーーーっ!!!
 吹き上がるロータリーサウンド!!
 その軽い車体はクンと瞬時に反応しては急降下を始める。
 だが、280馬力を発生する4WD車の強力なトラクションにより、みるみる距離を離されていく。
 そのまま初めのコーナーへと突入する。
 ランエボは軽くブレーキランプを点灯させると、不自然なまでに向きを変えて高スピードのままコーナーへと進入していく。
 普通だったら思い切ったブレーキングにより徹底的な加重移動を必要とする深いコーナーだが、ランエボはそれを必要としなかった。
 そして、ロードスターが遅れてコーナーに差し掛かる頃、ランエボは本領を発揮せんがばかりに、伝家の宝刀4WDターボの強力なトラクションにより、一気に立ち上がってロードスターを更に引き離す。
 ロードスターは強力なブレーキングにより、加重の乗ったステアリングを切り込むと、キキキキキキキキというスキール音と共に車体が流れ出し、ボディをアクセルでコントロールしながらコーナーを流していく。
 滑っているようだが、腰にグッグッグッと伝わる感触で、かなり強いグリップが掛かっていることが解る。
 ロードスターがコーナーをこなした頃、ランエボは短いストレートを半分駆け抜けたところだった。
 ランエボのあの過剰なまでの旋回性能はAYC(アクティブ・ヨー・コントロール)とADC(アクティブ・デフ・コントロール)と言われる電子制御デフの働きによるところが大きいらしい。
 だが、活路がないわけではない・・・!
 続く浅い複合コーナーをほぼ全開のまま駆けていくランエボ。
 やや遅れてロードスターは複合コーナーへと差し掛かる。
 アクセルを抜いてステアリングを切り込み、またアクセルを踏み込む。
 ボディを揺らすその連続はまるでスラロームのようだ。
 そして、先にスラロームを制したランエボが再び深いコーナーへと差し掛かる。
 やはり、申し訳程度に軽くブレーキを踏み、ステアリングを切り込むが、スピードが乗りすぎているためか、横滑りしながらラインが膨らみ壁に接触しそうになり、慌ててブレーキを踏みスピードを大幅に落としてしまう。
  そう、ランエボのドライバーの弱点は、機械に頼り切って加重移動をおろそかにするばかりに、機械の限界を超えると脆いことだった。
 ランエボすぐ真後ろにロードスターが接近する。
 流れるボディの中で俺の視点はただ一点、ランエボのテールだけを捕らえていた。
 激しいスピードの中で一瞬、時が止まる。
 薄いスモークの掛かったランエボのリヤウィンドウから顔を覗かせる幼さの残った女の顔、色素の薄い髪、大きな目、柔らかい頬のライン・・・。
 脳裏に公園のベンチで最後に見た彼女の顔がフラッシュバックする!
「夕鶴ぅーーーーーーーっ!!!」
 俺がその名を叫ぶと、時は激しく加速した!
 身体を熱く燃え滾らせる鼓動はスピードを演出すBGM!
 ロードスターにピッタリくっつかれた事にプレッシャーを感じたランエボは、その内燃機関に秘めた怒濤のパワー全てを炸裂させる。
 白煙を上げて4つのタイヤが悲鳴を上げ、まるで残像を残すように加速する黄色いボディ。
 そして、ABSを効かせたフルブレーキング状態から、一気にステアリングを切り込む!!
 その時、俺はそのモンスターマシンが辿る末路を脳裏に見た。
 次の瞬間、俺の予想通りランエボはブラックマークを描きながら半円を描き、フロントバンパーを軽くガードレールに接触させて止まった。
 俺はざらざらとした路面の感触が抜ける寸前まで思いっきりブレーキペダルを踏んでは離す。
 そして、ランエボが塞いだコーナーの直前で車を止めたて道路へと降り立った。
 助手席のドアを蹴り開け、怒りに顔を歪めた男が出て来て、後部座席のドアを開け中にいる夕鶴の手首を引っ張っぱる。
「離してよ下手くそ!!」
 夕鶴が吼える声が森に響く。
 そして、後部座席から夕鶴が引きずり出され、完全にその姿を見せる!!
 間違いない、彼女は夕鶴だった!!!
「夕鶴!!!」
 俺がその名を呼ぶと、夕鶴は呆然としたような表情を浮かべる。
「夢にいつも出てくる人だ・・・!」
 夕鶴はそう呟いた。
「夕鶴を離せ!!」
  俺が男に向かって吼えると、男は夕鶴の手を捻って抱き寄せると、その首に隠し持ったナイフを突きつけた。
 殺してやる!!
 殺してやる!!
 殺してやる!!
「殺してやるぅっっっ!!!」
「狂ってる・・・!」
 夕鶴が呟く。
 殺意の赴くまま天に咆吼する男の後には完全に影が見えて、まるで黒い太陽のようにドス黒く蠢いていた。
 瞬時に展開されていく俺のIF!!
 広がっていく感覚の中に夕鶴と、そして影の存在を感じる。
 その主観的な空間の中に男の姿は消え失せ、代わりに大きな獣の形状をした影が、夕鶴を抱え込み鋭いツメを喉へと突き立てていた。
「なんなの、この怪獣は!?
 でも、この感覚は初めてじゃない・・・」
「何も心配しなくて良いよ。
 ただ俺を見ていればいいから!」
 夕鶴に向かって優しく微笑むと、俺は空虚から白銀に輝く剣を取り出して手に取る。
 そして、次の瞬間、闇の獣の両腕が宙を舞う。
 俺はすかさず夕鶴を抱きかかえると、アスファルトに闇色の雨が降り注いだ。
「!!!!!!!!!」
 両腕を無くした痛みに音にならない咆吼をあげる闇の獣。
「大丈夫か?」
 俺が夕鶴を下ろして声を掛けたその時、夕鶴が叫んだ!
「後危ない!!!!」
 俺は慌てて振り向いて、手にした剣で身構える!!
 キィン!!
 鳴り響く乾いた金属音!!
 ガクランに身を包んだ小柄な少年が、黒く歪んだ剣を俺に向かって振り下ろしていた。
 俺は剣で押し返すと、少年はその口元に不敵な笑みを浮かべた。
 俺の背筋に悪寒が走る。
 何故ならその少年の姿はかつての俺の姿、そのままだったから!
 少年が黒い剣で横に一閃すると、構えていた俺の剣が折れて、剣圧で頬が切り裂かれて血がにじみ出た。
 IFの中では精神が力になる。
 折れた剣は動揺した俺の気持ちそのものだった。
「くそっ!!」
 俺は蹴りを相手に食らわして間合いを取ると、光球を手のひらに浮かべて、相手の動きに備えた。
「ガンバって!!
 負けちゃダメよ!!!
 何の形をしていたって、それはただの”影”なんだから!!」
 夕鶴に言われてハッとなる。
 そう、かつての自分の姿をしていたとしても、あれはただの影!!
 何を恐れていたんだ!!
 IFの中に夕鶴を感じると、IFが無限大に広がっていく。
 この山を包み込み、街を包み、遙か水平線へと広がる・・・。
 このわき上がっていく感覚・・・。
 この全てひとつになる感覚・・・。
 そう、久しぶりに感じる俺の世界!!
 この森の中の背景が崩れ、故郷の給水塔の立つ緑の丘になる。
「ここは願いの塔?!」
 夕鶴が驚きの声を上げる。
「俺はもう過去を夢見はしない!!
 二度と同じ事を繰り返しはしない!!」
 背中から天へと延びる、光と闇の二つの翼。
 両手に持った白銀の美しい剣と、闇色の禍々しい剣。
 そして、一閃!!
 まるで対極図のような斬撃の中へと影は消え、給水塔を抱く丘が崩れて行く。
 森の中の林道へと背景は戻り、アスファルトの上にはランエボのドライバーの男が倒れていた。
「上まで送っていくから、車に乗って」
 俺が言うと、夕鶴は青いロードスターを見て、少し動揺して助手席へと座る。
 ステアリングを思いっきり切り込んで、アクセルをあおりながらクラッチをミートすると車はその場で一八〇度スピンして方向を変えた。
「この車、知ってる・・・。
 前に乗ったことがあると思う」
 夕鶴が呟いた。
 そう、あのかつて夕鶴を連れ去ったロードスターが、今度は彼女を助けるのに使われた。
 巡り合わせってのは不思議なものだ。
「あなたも知っている。
 何時も夢に出てくるから・・・。
 とても懐かしいあなたは誰なの・・・?」
 俺はコーナーの先を見据えながら言う。
「俺は君の夢が落とした影。
 君の明るい光の中では消えてしまう存在」
「なんか寂しい言い方・・・」
 俺は彼女に向かって微笑んだ。
「でも、君が見た夢があったから今の俺が存在しているんだ。
 だから、君にとって影でも良いんだよ。
 それに光の中で消えてしまっても、闇の中では光にだってなれるから」
 もっと一緒にいたい・・・!
 わき上がる気持ちを抑えて、俺は真っ直ぐ前だけを見据えて休憩所の駐車場へと急いだ。
「助けてくれてありがとう!!」
 彼女はロードスターから降りて俺にお礼を言う。
「お礼を言うのはこっちの方さ・・・!
”君と出会えて本当に良かった、ありがとう!!”」
 ずっと言うことの出来なかったその言葉・・・。
 今、ようやく言うことが出来た・・・。
 もう、思い残すことはない・・・!
 俺はギヤをローに入れて発進の準備をする。
「また会えるかな!?」
 夕鶴の問いかけに俺は微笑んだ。
 俺は振り返りたい気持ちを振り切って、アクセルをあおると、森の中へと駆けて行った。
 バックミラーの中で、子供と母親にお礼を言われて、恥ずかしそうにしている夕鶴の姿が小さくなっていった。
 その時、車のセンターコンソールに入れた携帯電話の着信メロディが鳴る。
 流浪の民という曲だ。
 ディスプレイを見ると「阪神 大河」と書いてあった。
「行き先も告げずに居なくなりはって、どないしたねん!!
 はぁ、さては思い出の彼女と会っていたんやろ!!
 どや、図星やろ!!」
「そうかもね」
 俺は苦笑しながらさらりと言った。
「ありゃ、あんさんが冗談言うなんて、久々やなぁ!!
 何か奇跡が起きたりして!!
 あっ、阪神タイガース優勝してるやないかぁ!!!!」
「自分で阪神タイガース優勝が奇跡だって認めてるし!!」
「しまったぁぁぁぁぁぁ!!!!
 奇跡やないっ!!
 奇跡やないっ!!
 全ては必然やぁーーーーっ!!!」
 電話していてイチイチ五月蠅い奴だなぁ・・・。
 俺は耳元でガンガン響く電話をちょっと遠ざける。
「ところで何のようだ?!」
「そやっ!! また仕事やでぇ!!!
 少年鑑別所に影が大量発生や!!
 先にみんな行ってるから、早く応援に来てくれへんかぁ!?」
「解った急いでいくっ!!」
 俺は曲がりくねった道を車で駆け抜ける!!
 これから始まる新しい自分の道・・・。
 それはこの道の用に曲がりくねってその先に何があるか解らない。
 もう一度、会うかも知れないし、もう二度と会えないかも知れない。
 でも、きっと大丈夫。
 君と過ごしたその道の先に、この道はあるのだから・・・!
 俺は俺で有り続ける為に走り続ける!!


かりそめの快楽

 ここは「かりそめの快楽」。
 あなたの世界観に委ねられた世界。
 とても、気持ちがいい世界。
 あなたと一つになる喜び。
 溢れる優しさ。
 心も、身体も融けていく。
 とても懐かしい何処かへ還っていく。
 誰もが忘れている、誰もが知っている何処かに。
 このまま消えてしまいそう。
 でも、わたしの心は四散することなく、そこでわたし自身であり続けるの。
 あなたの世界がわたしを忘れることがない限り。
 目に見えることが全てじゃない。
 あなたが望みさえすれば、どんなわたしもあり得るの。
 でも、あなたにはそれが出来ない。
 あなたの世界には時がないから。
 世界は時と共に回り続け変化し続けるの。
 あなたは世界の中心に立ってその目で世界を見るの。
 何時か終わる時だけど、あなたがあなた自身であるために。
 さぁ、心と身体を解き放って。
 かりそめの快楽のその奥にあなたの止まった世界の核心があるのだから。
 わたしはあなたの世界を回すきっかけになるの・・・。

「始めての相手が竜斗で良かった・・・。
 どういう事って、そう言う事・・・」
 好きよ、竜斗・・・。
 大好きなの。
 でも、竜斗はわたしの事、どう思ってるの?
 何を見ているの?わたしを見ているようで、何処か遠くを見ている。
 お願い、わたしだけを見ていて。
 わたしはあなたの飾りじゃないのよ。
 あなたを慰めるために生きてるんじゃないんだから。
 あなたの心にわたしの居場所が欲しいの。
 わたしはあなたの中で生き続けたいんだから・・・。
 お願いだから、心を開いて・・・。

 私は夢をみているの。
 何の夢・・・?
 よく解らない。
 捕らえ所のない闇の世界。
 それは竜斗の世界。
 私は竜斗の世界にいるの。

 何処までも、何処までも続く、時の回廊。
 ただ真っ直ぐと道が延びている。
 私はその道の真ん中で周りを見渡すの。
 終わりも、初めも見ることが出来ないほど、果てしなく続く道。
 ちっぽけな私が歩ける距離はたかが知れている。
 途中から歩き出して、きっと途中で死んでしまうの。
 そうすると、また違う私がその途中から歩き始めるの。
 それが自然の摂理なんだって。
 でも、竜斗、あなたはその流れに逆らおうとしているの?
 あなたの時計の針は動くことなく止まっている。
 時を止めているのは小さい子供の竜斗なの。
 いつまでも遊んでいたい子供の些細な悪戯かもしれない。
 でも、あなたはもう子供じゃないはずよ。
 あなたは解き放ち、わたしは血を流して、急いで子供である事を捨てたはず。
 でも、それでも子供でいるつもりなの?
「きもち良い?
 解らないって、気持ちよくないの・・・?」
 遠い目。
 竜斗が何を見ているか、私、解っちゃったの・・・。
 時を止めてまで遊んでいるのは、もう子供じゃいられない事を知っているのに、本当は汚れた自分を痛いほど解ってるのに、それを認めたくないからよ。
 快楽に溺れて、罪を正当化して、楽しい思い出にしてしまえる程、あなたは強くない。
 誰より夢ばかり見て生きているから、自分の価値観で現実を直視してしまうのよ。
 あなたは私を汚してしまったことを悔いているの。
 いいえ、あなたが抱いたのは私じゃないのかもしれない。
 竜斗は自分自身を犯してしまった事に不快感を抱いているのよ。
 自分だけ救われたいと思っている、自分しか見えていない酷い人。
 でも、良いわ。
 今はそれで良いの。
 それでもあなたが好きだから。

 私は竜斗の時の回廊を逆に歩みながら、その核心へと近づいていく。
 途中、竜斗の思い出でが、私の中をくぐり抜ける。
 なんだか良くわからない不定形の思い。
 その切なさだけが伝わってくる。
 悲しくて、独りよがりで、とても寂しい思い・・・。
 きっと、あなたは独りじゃなかったはずなのに、誰にもうち明けずに、あなたは独り自分の気持ち閉じこめていた。
 もう、止めて。
 解放されていいのよ。
 竜斗は竜斗なんだから、そんなこと抱え込まなくて良いのよ。
 とても優しい気持ち・・・。
 子供を見守るお母さんのような気持ち・・・。
 でも、何か違う。
 私、あなたのお母さんじゃないから。
 やめて、甘えないで!あなたは子供じゃない!
 もう、大人なのよ!
 私はあなたのお母さんじゃない。
 そんなこと求められても困るんだから!
 私は代わりじゃないの!!
 後退・・・。
 竜斗の心が子供に戻ってきている。
 私が時の回廊をさかのぼっているから?
 それとも、子供に戻る事を望んでいるの、竜斗?
 時をさかのぼって、わたし何処にたどり着くんだろう。
 本当はわたし、知ってる。
 でも、それを考えるのが怖いの。
 もしかしたら、竜斗は私を捨てるかも知れないから・・・。
 赤い水・・・。
 心安らぐ心地よい鼓動・・・。
 とても、気持ちのいい世界。
 竜斗は産まれたままの姿で膝を抱えて安らかに寝ていた。
 ここは母親の胎内。
 きっとここにいれば、傷つくことも、傷つけることもない。
 でも、それで良いの竜斗・・・?
 ついまでも時を止めて、それで良いの?
 竜斗に触れようとすると、竜斗の身体から影が抜けだした。
 自分の気持ち誤魔化すために、かりそめの快楽に取り憑かれた竜斗。
 そうやって逃げるために、あなたは私を犯す。
 わたしは竜斗が全てなのに、竜斗は私をただの道具としかみていない。
 自慰のための道具としてしか・・・。
 止めて!もうやめて・・・。
 気持ちが悪いの・・・。
 本当はしたくないの!
 出来ないの私・・・!
 あなたがそうすることを望むなら、私には生きる価値が無いの!
 お願い、生きる価値が無いと言って!!
「お前なんて生きる価値がない・・・」
 確かに聞こえたあなたの声・・・。
 もう嫌なの・・・。
 死にたいの!
 お願いだから、私を殺して!!
「なんでそういう事するの!?」
 涙・・・。
「なんで泣いているの?」
 私は竜斗の涙を拭った。
「お願いだから、もう泣かないで・・・。
 わたしまで悲しくなるから」
「もう死ぬなんて、言わないで・・・」
「好きなんだ・・・。
 本当に好きなんだ・・・。
 だから、産まれてきて良かったし、君が生きててくれて良かった・・・。
 だから、死ぬなんて言わないで・・・」
 そして、時が動き出した・・・。
 時の回廊をさかのぼっていた私の心は今に引き戻された。
 まるで夢のような記憶を遺して・・・。


何時かあける夜

「竜斗・・・」
 わたし、たしかにそう言った。
 なんだろう、わたし泣いてるの・・・?
 何でこんなに切ないの・・・?
 そう、わたし夢を見ていたの。
 どんな夢?
 よく思い出せない。
 でも、竜斗が出てくる夢だったって事は解るの。
 とても長くて、でも何処か寂しくて、切なかった。
 何だろうね、この気持ち・・・。
 でも、嫌な気持ちじゃないの。
 とっても懐かしくて、優しい気持ち。
 ぼやけて見える薄暗い部屋の中。
 雨の音が静かに響いてる。
 ぴちゃぴちゃ。
 雨戸から滴が垂れる音。
 じゃぱーん。
 濡れた道路を走る車の音。
 いつもは靴を濡らす嫌な雨だけど、今日はなんだか新鮮で気持ちがいい。
 涙で濡れた頬をパジャマの裾でふき取った。
 今、何時なんだろう?
 まだ、日も昇っていないほど遅い時間。
 ううん、わたしの知らない朝早くの時間。
 冷たくて、澄んだ空気。
 何時も見慣れた部屋がまるで違う世界みたい。
 でも、少し寒い気もする。
 お腹が冷えちゃう。
 おっきな枕をギュッと抱きしめると、シャンプーの匂いがした。
 まだ、お父さんは起きていないよね?
 音を立てないように部屋のドアを開けると、廊下にお父さんの大きないびきが響いていた。
 はっきり言って耳が痛いほどうるさいの。
 昔はお父さんの隣で寝ていたけど、よく寝ていられたね。
 今じゃ無理かも・・・。
 とにかく、お父さんは起きていないみたい。
 ちょっとだけ・・・、外に出てみようかな?
 パジャマの上からカーディガンを羽織ると外に出る。
 玄関のドアに付いた鈴が鳴ると、お父さんを起こしてしまったんじゃないかと、少しドキっとする。
 玄関の向こうは家の中より肌寒むかった。
 今は夏だけど、まるで秋のような空気。
 土の匂いにも似た、雨の匂いがした。
 わたしの家の向かい側にある玄関の扉を見つめた。
 小さな団地、わたしの部屋の薄い壁の向こうに住んでいる、幼なじみの竜斗。
 わたしも相当変だと言われるけど、そんなわたからみても変な子。
 ふと、見ていた不思議な夢を思い出す。
 やっぱり、変な気持ち。
 今、竜斗は寝ているのかな?
 団地の階段から外を覗いてみると、一面白い霧で包まれていた。
 目線よりずうっと下の方に街灯の光がぼんやりと浮かんでいた。
 道に沿って何処までも続いている。
 なんだか幻想的で不思議な感じ。
 雨、止んじゃったのかな?
 でも、少し降っているのかもしれない。
 傘持ってないや。
 雨降ってるの知ってたのに、わたしって馬鹿だよね。
 ま、いいや。
 下まで降りると、本当に真っ白の世界。
 見慣れた団地の敷地も何処か違う世界のよう。
 1メートル先もよく見えない。
 上を見上げるとぼんやり電灯が光ってる。
 霧の中ってひんやりとして気持ちがいい。
 死んだこと無いから解らないけど、天国ってこんな感じなのかな?
 何となくこんなイメージ。
 お母さんはこんな所にいるのかな。
 わたしは無意識のうちに団地を奥へ奥へ進んでいた。
 団地の一番奥には公園があるの。
 ゴムで出来た柔らかい椅子のブランコ。
 石のオブジェに囲まれた砂場。
 そして、小屋の下にある街を見下ろせるベンチ。
 わたしはなんとなくこの公園が好きなの。
 ずっと前、大好きなお友達が家に泊まりに来たとき、一緒に夜景を見た事もあった。
 とても良い思い出。
 でも、沢山蚊に刺されたんだったっけ。
 島のような形をした団地の敷地。
 左にはまだらに光を灯した建物が列を作って建っている。
 右には街灯と車が沢山並んだ駐車場。
 その間を道は柔らかいカーブを描いて続いている。
 やがて左側に公園が見えた。
 ちょっと団地より少し下にある公園。
 柔らかい光を灯した小屋のお屋根が見える。
 階段を下がって公園に入る。
 神様のいたずらで、時を止められた静かな神殿みたい。
 ・・・あれっ?誰かいる。
 屋根の下で街の方を見つめながらタバコをふかす、見覚えのある小柄な後ろ姿。
 竜斗だった。
 その姿を見つけたとき、わたしはどきっとしたけど、なぜか嬉かった。
「・・・」
 いつもなら、なんの気兼ねなく話しかけられるんだけど、何でだろう声をかけることをためらってる。
 わたしはその場で立ちつくしてしまった。
 話しかける勇気がないの。
 お願いだからわたしに気が付いて・・・。
 その時、お腹が痛くなった。
 なんだか冷えちゃったみたい。
 それと同時にお腹の下の方がふくれあがる感じがした・・・。
 そう、お腹の中にガスがたまりつつあった。
 いやっ、こんな時にサイアクっ・・・!
 必死に押さえ込もうとしたけど、それが返って災いした。
 恥ずかしい音が静かな空間に響いた。
 その瞬間、耳まで真っ赤になるのが自分でも解った。
「いゃぁーーーーっ!!」
 わたしは思わず恥ずかしくなって、竜斗の背中を思いっきり蹴飛ばしていた。
「うぎゃっ!」
 竜斗は潰れたカエルのような声を上げて倒れ込んだ。
 その惨状を見て、思わずまた真っ赤になってしまった。
 地に伏せたまま固まったままの竜斗。
 ・・・もしかして、辺りどころが悪くて死んじゃったの?
 わたしはたまらなく怖くなって、その辺に落ちていた棒きれでつついてみた。
 すると僅かな反応を示す。
 なんだか面白い。
 なんか、子供の時やっていたアニメで、ロボットの女の子がこんな事してたっけ・・・。
「お前はア○レちゃんかっ?!
 そうすると、俺はっ・・・。
 それだけは嫌だぁ!」
 竜斗が独りでなにやら呟きながら復活した。
「・・・とにかく、何なんだよお前は!?
 突拍子もなく現れては、いきなり蹴飛ばしやがって!
 俺に恨みでもあんのか?」
 あっ、竜斗の鼻に落ち葉が・・・。
 凄んでいるけど、なんかマヌケ・・・。
 わたしは思わず笑ってしまった。
「なんだよ、何が可笑しい?」
「・・・なんでもないよぉだっ。
 それより、聞こえなかったの?」
「聞こえなかったって、何がだよ!?」
 わたしは心の中でホッと胸をなで下ろした。
「だったら良いのっ。
 気にしないでね!」
 わたしの声のトーンが高くなっていた。
「ああ、気にしない。
 誰もお前のおならなんて聞いちゃいねぇって」
「やっぱり、聞こえていたんじゃないのっ!バカッ!」
 わたしは竜斗の頭をこついてベンチに座った。
 ・・・恥ずかしかったけど、それでもいいや。
 だって、竜斗と話することが出来たんだもん。
 結果オーライよね?・・・何故か疑問系だけど。
「でも、何してるんだよ、こんな朝早くに?」
 竜斗はわたしの隣に座る。
 こんなにも近くに竜斗がいる。
 なんかドキドキ。
 竜斗の体温が感じられそうなぐらい近くに・・・。
 わたしの心臓の鼓動・・・。
 息の音・・・。
 匂い・・・。
 竜斗は感じているのかな?
 もし感じていたら、なんか恥ずかしい。
「なんか空気が気持ち良かったから、外に出てみたくなったの」
 竜斗はわたしの顔を見て笑う。
 失礼なヤツ・・・。
「悪い?」
「悪くなんかないよ。
 ただ、弓弦は純粋だと思ってさ」
 あ、竜斗がわたしを名前で呼んでくれた。
 竜斗がわたしと話す時って、いつもお前とか、君とか間接的にしか呼んでくれない。
 子供の時はそうじゃなかったけど・・・。
 いつの間にかに壁を作っていたんだね。
「わたし、純粋なんかじゃないよ」
「僕からしたら純粋だと思う。
 気持ちが良いって感じられることがさ・・・」
 竜斗の言い方、なんか影がある。
 わたしの知らない竜斗。
 しゃべり方も、雰囲気も全然違う。
 どうしてこんなにも深いの?
「じゃあ、竜斗は何でこんな所にいるの?」
「さぁ、どうしてだろうね」
 わたしはチラッと竜斗のワイシャツのポッケに入ったタバコの箱に目が行ってしまった。
「お姉ちゃんに隠れて、タバコ吸いに・・・?
 あれっ、竜斗ってタバコ吸ってたっけ?」
「普段は吸わないよ。
 ニコチンは身体に悪いし、ワザワザ身体壊すようなマネすんのもおかしいしさ」
 竜斗は遠くを見る。
 なんか悲しくて、寂しい目。
 なんで、そんな目をするの?
 わたしはじっと竜斗の顔を見つめていた。
「・・・この時間までインターネットやってて、なんかさ、無性に虚しくなって、何かで自分の気持ち誤魔化してないとやっていられなくてさ・・・。
 でも、吸うんじゃ無かった。
 だって、こんなんじゃ全然自分の気持ちを満たすことができないから。
 僕には一生タバコを吸う人の気持ちは分からないね・・・」
 竜斗はわたしが自分のことを見つめている事に気が付いてこっちを見る。
 少しどきっとする。
 男のくせに可愛い顔・・・。
 普段のトゲトゲさは消えてまるで子供のような顔してる。
「どうしたの?」
 心配そうにわたしの顔をのぞき込む。
 なんか、本当に心配しているみたい。
 へんなのっ。
「ううん、竜斗って変だなって思って」
「俺の何処が変だっていうんだ。
 お前のほうがよっぽど変だぜ」
 あ、また変わった。
 竜斗の心のチャンネルはコロコロ変わるのね。
 一体、その瞳でどんな世界を見ているんだろう?
 複雑でとらえどころのない世界・・・。
 でも、何時も何処か寂しそうなの・・・。
「インターネットで何かあったの?」
「何もないよ・・・・。
 インターネットは楽しいよ。
 色々な人と出会って・・・。
 楽しいんだけど、たまらなく虚しいんだ。
 何処の世界でも戯けてみせるけど、それが本当の自分じゃないって事が痛いほど良くわかる。
 記録として僕の姿が残って、終わった後も何時までも僕の姿が何時までもそこに残っているんだ・・・。
 そんな自分を見るのがなによりも嫌だ。
 冷たく笑う自分がいてそんな自分を壊してしまいたいと言うんだ。
 インターネットにいる人はそんな僕を嫌と言うほど映し出すけれど、それでも人の中で生き、自分を映しだしてくれていないと、不安でたまらないんだ・・・」
 悲しい瞳。
 わたしには解らないよ。
 なにがそんなに悲しいのか・・・。
 お願いだからそんな瞳をしないで・・・!
「竜斗は幸せじゃないの・・・?」
「解らないなぁ・・・。
 でも、きっと幸せなんだろうね。
 生活とか、特になにも困るようなことはないし、毎日をのうのうと暮らしているのだから・・・」
「わたしもそうよ。
 でも、わたしは幸せよ。
 毎日が楽しいからね!
 だから、竜斗も難しいこと考えないで、わたしと一緒に楽しもうよ!
 そうしたら、きっと幸せよ」
 わたしと一緒・・・?
 自分で言っててなんか恥ずかしいな・・・。
「そうだね」
 優しい笑顔・・・。
 わたし、そんな竜斗がすきなのかもしれない。
 あ、またお腹冷えてきた。
 おならこそでないものの、軋むような感じ・・・。
 わたしは思わずお腹を押さえていた。
「冷えちっゃたの?」
 わたしは言葉無く頷いた。
 竜斗は自分のジャンバーを脱いでわたしの方に掛けてくれた。
 竜斗の体温が残っていて暖かい・・・。
「そんなの悪いよっ!
 竜斗が寒いでしょ!!」
「だったらこうしよう」
 竜斗はわたしにピッタリとくっつくと、ジャンバーの片側を自分の肩に掛けた。
 少し大きめのジャンバーは二人の小さな身体を包んでいた。
 どうしよう、いまだかつてないほどに心臓がバクバク・・・。
 でも、もっとくっつきたい。
 わたしは竜斗の肩に頬をすりつけてしまった。
「猫みたいだね」
 竜斗はほほえむと、わたしの肩を抱いた。
 わたしは緊張のあまり息を飲んでしまったけど、とても優しく心地が良くて、すぐに竜斗に身体の重みを預けてしまった。
 わたし、濡れているみたい・・・。
 Hな事しているわけじゃないのに、濡らしちゃうなんて、わたしHな子なのかな・・・?
 竜斗がこの事を知ったら、嫌われちゃうかな?
 でも、こんなにも心地が良いの。
 竜斗・・・。
 わたし、竜斗の事好きみたい・・・。
「見て、朝日が昇るよ!」
 竜斗に言われて街の方を見てみると、いつの間にかに霧が晴れて、街が真っ赤に染まっていた。
 ゆっくりとゆっくりと太陽の光は私たちの街を飲み込んでいく・・・。
「綺麗・・・」
 わたしは思わず呟いた。
「本当に綺麗なのは、綺麗なものを綺麗だと思える弓弦の心だよ。
 風景は人の心の鏡のようなものだと僕は思うんだ。
 心がすさんでいれば、いくら綺麗な風景だってすさんで見える。
 逆に心が綺麗な人は、どんなに汚い風景を見ても、その中から綺麗なところを探し出して、綺麗だと思うことが出来る。
 だから、この景色を素直に綺麗だって言える弓弦の心はとても綺麗だと思う」
「竜斗も綺麗だと思うでしょ。
 だから、竜斗も心が綺麗な子だよ」
 竜斗は下にうつむく。
「そうだね・・・」
 その声は涙まじりの声だった。
「明けない夜はないよね・・・。
 長い夜でもいつかきっと・・・」
 このとき、この瞬間。
 とても幸せでたまらなかった。
 何時までも、何時までもこの時が続けば良いと思った。
 だけど、時は何時か終わる。
 だからこの気持ちを、この心を大切にしていこうね。
 そうだよね、竜斗。


満たされぬ者へ永遠の福音を

 満たされぬ者へ永遠の福音を・・・。
 満たされぬ者へ永遠の福音を・・・。
 満たされぬ者へ永遠の福音を・・・。
 世界は閉ざされた。
 それは繊細な世界だった。
 疑えば消えてしまう脆い世界。
 だけど、掛け買いのない僕の世界。
 ただ失うのが怖かった。
 こんな世界でも、失うのが怖かった。
 だけど、失うことを恐れすぎて、全てを失った。
 僕はまだ覚えているか、あの少女を。
 いつも傍らにいたはずだ。
 思い出せるか、僕自身の形を。
 僕があるべき形を見失っているはずだ。
 ・・・あの頃、たしかに僕はそこにいた。
 僕がそこにいるのがあたり前だと思っていた。
 でも、それは違った。
 彼女がいたからだ。
 彼女が支えていてくれたから、僕はちっぽけな僕の形を維持することができたんだ。
 こんなにも愛しくて、こんなにも愛されていたのに、僕は何一つ信じることが出来なかった。
 信じれば裏切られる。
 何時からか心に刻んだ不安に耐えることが出来なかった。
 自分の心の闇にとらわれて、自分自身を追い詰めていった。
 もう、誰も信じられない。
 僕は自ら世界の閉鎖を願った。
 焦がれる気持ちが全てを壊す。
 そして、僕は君を失った。
 厚い雲で覆われた空は閉ざされた僕の気持ちのようで、冷たい風は空虚となった僕の心を吹き抜ける。
 きっと、あの雲の上は太陽が輝いているのだろう。
 何億年の時を越えて輝き続ける光。
 ちっぽけな僕はほんの一瞬の暗がりでさえ、大きなものに思えてしまう。
 たった一度、たった一度でいい。
 もう一度だけ、奇跡を見たい。
 だから・・・。
 満たされぬ者へ永遠の福音を・・・。
 僕は閉ざされし世界の世界の悲しみを天に唄った。
 まるで天使の歌声のような幻想的な調べが僕を祝福する。
 とても懐かしい音だ。
 厚い雲を突き抜け黄金の光が射すと、光に包まれ僕の身体は還っていった。
 僕が僕として生まれる前、母親の胎内へと。
 そこは心地よい空間だった。
 優しく力強い鼓動が僕を抱く。
 ここにいれば傷つくことも、失うこともない。
 だけど、僕は会いたいんだ。
 傷つき、傷ついても良い。
 ぼろぼろになっても、それでも会いたいんだ。
 だから、僕は産まれてきたんだ。
 全てを失ってもなお、僕は生きているんだ。
 いや、何も失ってはいなかったんだ。
 僕は君に何かを与えられて、今もなお生き続けているんだ。
 そうだったんだ。
 そう、僕は何も失ってはいない。
 遙かな夢の終焉、闇の終わり、光の中で僕は彼女の姿を見た。
 違う世界、違う人生。
 僕と彼女はもう違う人間で、何時からかすれ違い互い、それぞれの道を歩んできたけども、僕と君が生きたあの世界の続きに今があるのだから、後悔してはいけない。
 触れるか触れないか、刹那の口づけ。
 触れれば消えてしまう幻を抱きしめる。
 僕の世界は再びまわり出す。
 目に見える事だけが現実じゃない。
 望みさえすれば世界は幾らでも変わる。
 何を望む・・・?
 共に過ごした記憶を胸に、僕と君が今も生き続けていればそれで良い。
 今も僕は僕、君は君として生き続けているのだから。

あとがき

まだ学生時代であった1999年に書き始めた作品です。

自分が子供から大人へと移り変わっていく時期の作品であり、出会いや別れと言った現実での葛藤に苛まれた為に第二章を書き出すまでの間にかなりの時間を要し、それに伴って考え方も大幅に変わって行ったので内容にまとまりがありませんが、青春のケジメとして最後まで書きあげたものです。

学校や近所と言う限りなく狭い環境の中で、恋愛や性愛というものが身近に存在し、女の子と触れ合ったぐらいでセカイをその手にしたかのような幻想を抱き、やがては現実に押しつぶされて自滅して行くという、思春期ならではの世界感を若い感受性で描いていると思います。

現在書いているSoma x Somaの原型とも言える作品で、竜斗や大河、夕鶴、宝塚、聖蘭と言ったキャラクターも今とは違う形で登場します。逆にこの作品には名前すら登場しないSoma x Somaの登場人物代表は姫であり、彼女はこの作品が描かれた1999年から現在に至るまでの自分自身を象徴しているのかも知れません。ある意味でSoma x Somaと言う作品は、永久に閉ざされた青春時代から違う時間軸を生きる姫と言う人物が卒業する様子を描いていると言えます。

真の意味で未来へと進んでいくには自分の過去を受け入れる必要があると思い、一太郎で製作しMOディスクに長期保存されていたこの作品の封印を解き放つことにしました。

しかし、車の描写だけは車に乗ったことが無い若者が想像だけで書いている嘘八百感が丸出しで、車好きとしては擁護できる次元ではありませんね(汗



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