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© Karin Sonoyama / Sakoyan


第十二話 れんげを生け贄にした罰があたった。  八月七日

 薄霧に包まれた銀色の草原で、私はひとり、佇んでいる。ふと、小指に赤い糸が結ばれているのに気がついた。糸が続く向こうから、先輩の声が聞こえてくる。胸が高鳴り、私は赤い糸を辿って霧の奥に進んだ。近づくはずの先輩の声が、なぜか、どんなに進んでも、いっこうに近づかない。霧は次第に濃くなり、渦を作って体にまとわりつく。行く手を塞ぐ。押しつぶされそうな不安を感じ、たまらず、先輩の名前を大声で叫んだ。突然、れんげの笑い声が響きわたり、霧はたちまち晴れた。目の前で、れんげと父と母、おまけに透さんまでもが、赤い糸で出来た蜘蛛の巣に引っかかって、笑っていた。やがて、透さんはコンパクトミラーを差し出し、覗いてみるように言った。私は不吉な予感がして、覗くのをためらった。れんげが「弱虫」と蔑み、みんなは覗けと囃し立てた。しかたなく、コンパクトミラーを受け取ると、恐る恐る覗いた。
「わっ!」
 腰が抜けるほど驚いた。鏡に映っていたのは、シワシワの、年老いた私の顔だった。
 飛び起きた。寝汗をぐっしょりかいている。たぶん、相当うなされたんだろう。おかげで、目覚ましのベルが鳴る前に目覚めてしまった。夢で良かったと深く息を吐く。とたんに、疲労感がどっと押し寄せた。
「シーコ姉ちゃん、大丈夫?」
 寝ぼけまなこで降りてきた私に、れんげが自分のおでこを指で突っつきながら、
「昨日は、大騒ぎだったもんねぇ。へっへっへ」
 と、嫌味ったらしく笑った。
「ば、ばーか。ちょっと驚いただけでしょ。それより、あんた、ずいぶん早いじゃないの」
 いつもだったら時間ギリギリまで寝ているのに、しかも、昨夜は遅くまで起きていたれんげが、朝ごはんをとっくに済ませ、台所のテーブルで一息ついている。
「まあね。さすがにお父さんの早起きには、かなわないけどさ」
 反り返るような態度で椅子に座る様子が、いかにも鼻につく。
「なーに言ってんの。で、私のことはほったらかしにして逃げてった、そのお父さんは?」
 今度は私が嫌味ったらしく言った。いつもなら、この時間はまだ家にいるはずの、父の姿が見えない。
「早めに仕事だって」
「やっぱり逃げたか。まったく。…お母さんは?」
「庭」
 タイミングよく、外でパンパンと洗濯物のシワをのばす音がした。
「ねえねえ、それよりシーコ姉ちゃん!」
「あ、テープ?」
 れんげは大きく二回うなずいた。
「ちゃんと録音しといたわよ」
「あのねのね、やってた?」
「分かんない。始まってから十分くらいは聞いてたけど、途中で寝ちゃったから。後で聞いてみて」
「今ちょうだい!」
「今って、あんた、これからラジオ体操でしょ」
「いいから、早く!」
 急かされ、私は渋々と二階に上がった。

 ラジカセからテープを取り出す。最後まで巻ききっている。どうやらちゃんと録音されているようだ。しかし、起きている時には、時間差電波現象はなかったから、あのねのねの声が入っている可能性は、極めて低い。
「シーコ姉ちゃん、早く早く!」
 一階から声を上げて、れんげはさらに急かす。やれやれ、とため息をつきながら階段を下りた。
「はい、どうぞ。私が聞いていた時には、イルカっていう女の人だったから、あのねのね、たぶん入っていないと思うよ。期待しないでね」
「うん、ありがとう!」
「どういたしまして」
「へへぇ、みんなといっしょに、広場で聞くことになってるんだ」
「みんなと?」
「体操終わってから、昨日の虫探しのグループで聞くんだよ!」
「ふーん。じゃあ、克子姉さんも参加するの?」
「うん、来るって言ってたよ。シーコ姉ちゃんも来る?」
「うーん…」
 小学校と中学校の間の大グラウンドで、以前は毎日やっていたラジオ体操は、登校日が五回に設定されてから、お盆の週を除く、火曜日と木曜日の週二回になった。小学生以外は誰でも自由に参加していいことになっているが、大半の住民たちは、ほとんど参加することはない。私は何度か行ったことがあるけれど、このところご無沙汰している。おまけに今日は二回目の登校日。朝ごはんも済ませていないし、登校の準備もしていない。
「うーん…パス」
 克子姉さんも参加するんなら、久しぶりに行ってみようかと、一瞬思ったけれど、夜更かしのせいで、眠気が気力を封じ込めてしまった。
「そう。じゃあ、行ってくるね」
 れんげは、私が参加するとは、はなっから思っていない。
「はいはい、いってらっ…ふぁーい」
 私はいつも、起きたてはだらしない。


 いつもより、ちょっとゆっくりしすぎたから、学校まで走るはめになった。十時五分前に到着。今日は私が一番最後の登校になってしまった。
「あれ? シーコさん、おでこ、どうしたの?」
 光子が私のおでこの絆創膏を指差した。前髪で隠したつもりだったけど、やっぱり目立つか。
「ちょっと、ふきでものが出来ちゃって」
「夜更かしでもしたの?」
 由美が心配そうに首をかしげた。
「う、うん。それもあるけど、たぶん、何かにかぶれちゃったのかも。でも、大したことないから。あはは…」
 わずかに笑いが引きつった。
「シーコ!」
 和則が、珍しく声をかけてきた。いつも私たちのおしゃべりには無関心で、先生が入ってくるまで居眠りしているのに。
「昨日の夜、お前の家のほうから凄い声が聞こえてきたけど、何かあったのか?」
 うっ、私の悲鳴、大袈裟ではなかった。
「ああ、あれねえ…」
「そういえば、俺も聞こえた!」
 元信が話に加わった。いけない。この話題がこれ以上大きくなっては困る。本当は、脱衣場で大きな蜘蛛を見て悲鳴を上げ、慌てて逃げようとして、壁におでこを思いっきりぶつけたなんて、口が裂けても言えない。
「な、何でも無いのよ。れんげが…、寝ぼけちゃってさ、あはは…」
「…?」
 なんとか誤摩化そうとするが、かえって私の不自然な態度が目立ち、和則に不信感を与えてしまった。れんげ、あんたのことを生け贄にしてしまった私を、許してちょうだい!
「起立!」
 三年の博己先輩が号令をかけた。良かった! タイミングよく、高井和先生が登場してくれた。と、安心したのもつかの間、
「椎子、夕べは大変だったってなあ。大丈夫か?」
 着席したとたん、先生が自分のおでこを、指でちょんと突きながら言った。
「えっ?」
「お前の妹が、今朝のラジオ体操の時、言ってたぞ。ゆうべ、姉ちゃんが大きな蜘蛛見て、慌てて壁に激突して、頭、怪我したって」
「あっ、わっ!」
 バレてしまった。こんなことなら、私もラジオ体操に出て、れんげのおしゃべりを阻止するんだった。私はすっかり動揺して、無意識のうちに、ペンギンの羽みたいに両手をパタパタと動かしていた。
「あーっ、やっぱりあの悲鳴はシーコだったか!」
「蜘蛛見て、びびって、大声出したってわけか!」
 和則と元信が、わざと大袈裟に驚いた。ううっ、バレてしまっては仕方がない。ここは開き直るしかない。
「だって、こーんなに大きい蜘蛛だったんだよ!」
 そのつもりはなかったが、手を広げ、実際よりも一回り大きく誇張してしまった。私、ムカデ話のれんげと、同じことを言っている。なんだかんだいっても、やっぱり姉妹だな。…なんて、納得している場合じゃない。
「そんなでっかい蜘蛛、い、いるわけないだろーっ! クッ」
 涙目で、和則は必死に笑いをこらえてる。
「本当なんだってば! タランチュラかと思ったもん!」
 咄嗟に出たとはいえ、何とみっともない言い訳。恥ずかしい。穴があったら入りたい。れんげを生け贄にしたバチがあたってしまった。
「まあとにかく、大したことないようだな」
 高井和先生は、何事もなかったように締めくくった。おでこの傷は、次の夏休みには消える。だけど、その経緯は『タランチュラ激突事件』などと、適当なタイトルを付けられて、口達者な和則によって、この先、ずっと語り継がれていくだろう。…ああ、なんて歯痒い。しかし、実は素っ裸で壁に激突した、ってことがバレなかったのは、不幸中の幸いだった。
 昨夜、私の悲鳴を聞いて真っ先に駆けつけた父だったが、天井の大蜘蛛を見るなり、
「か、母さん! 追っ払って!」
 素っ裸でうずくまっていた私のことはほっといて、慌てて居間に逃げていった。はたきでささっと蜘蛛を追い払った母からは、「こんなんでいちいち大騒ぎしないの!」って怒られるし、れんげには、「シーコ姉ちゃんの、弱虫」と、またしても蔑まれてしまった。
 一週間前、もちこし川上流で、糸とんぼたちに与えられた『なんか良いことがありそうな気配』は、どっかへ飛んで行ってしまった。


© Karin Sonoyama / Sakoyan


第十三話 哀愁の旋律を崩壊させる。  八月八日

 人差し指で3フレットの1、2、3弦を、中指で4フレットの2弦を、薬指で5フレットの4弦を、小指で6フレットの5弦を押さえ、スリーフィンガーでゆっくりと奏でる。今までで、一番悲しげな音が出る。8小節分ほど繰り返したあと、次にテンポを上げて弾いてみる。なかなか良い感じ。
 昨日の部活で、唯一解っていなかったコードが判明した。ギターコード集を眺めていた由美が、
「シーコさん、これって、イー・フラットって読むの?」
 と、指差したコードがきっかけだった。
「うん、そう。正確には、メジャーが付くんだって。Eフラット・メジャー。清行兄さんが言ってた」
「このコード、もう弾いてみた?」
「ううん、まだ」
 私が光子に首を振ると、
「『さようなら』のコード、これだったりして」
 由美が冗談を言って笑った。で、せっかくだから、コード進行の空きをEフラット・メジャーで埋めて、試しに弾いてみようということになった。そしたら、見事に音が合った。
 Gマイナー、F、Eフラット・メジャー、Gマイナー、今度は通して挑戦。
「タンタタタタタン、タンタタタタタン、タンタタタタタン、タンタタタタタン」
 拍子を取りながら、同じテンポで軽快に弾いていく。このところメキメキと上達してきた。まだわずかに音がかすれるところがあるけれど、一週間前とは比べものにならないほどの進歩。光子は、同じコード進行をゆったりとしたストロークで弾くことになっているから、合わせて演奏したら、それなりに様になりそうだ。昨日は演奏無しで唄ってみせてくれた由美のボーカルも、とてもいい感じだったし、次の部活が楽しみ。と、わくわくしてたら、下から母の声が響いた。
「椎子、電話よー。由美ちゃんからー」
 意思が届いたかのような絶妙なタイミング。近頃、由美はとても間がいい。
「じゃあ、待ってるから」
 電話を切りると、母が台所から顔を出した。
「何だったの?」
「由美と光子、今から遊びに来るって」
「あら、珍しいじゃない。由美ちゃんとみっちゃんが遊びに来るなんて」
「うん。…ねえ、お母さん、お茶菓子になるようなもの、何かある?」
「そうねえ…、ビスコは?」
「それ、れんげのおやつでしょうに。子どもじゃないんだから」
「おほほ、やっぱりそうよね。…あ、ホットケーキだったら用意できるわよ。今のうちに作って、冷やしておこうか」
「ほんと? じゃあ、お願い! その代わり晩ご飯の後片付け、全部引き受けちゃうから」
「まったく。こんな時だけ調子いいんだから」
 母は苦笑いしながら呟いた。
 二人が前に遊びに来たのって、まだ二階の部屋を改築する前、私が幼稚園の時以来だ。由美と光子が、電話でおしゃべりをしているうちに、私のところへ、レコードを見せてもらいに行こう、ということになったらしい。しょっちゅう顔は会わせているのに、なんか、新鮮な感じがする。私は大急ぎで二階へ上がり、部屋を片付け始めた。

 二人は、予定より少し遅れて到着した。途中で、散歩中の元ジイに声をかけられ、習字のお題の話に付き合っていたらしい。
「わあ! 何枚あるの?」
「すごーい! 見ていい?」
 カラーボックスの前にしゃがみ、由美と光子が声を上げた。 
「五十枚くらい。もちろん、遠慮なく全部見てちょうだい」
「じゃあこれ、どんなアルバム? 見たこと無いけど…」
 由美が『GARO2』を引き出した。
「ほら、『学生街の喫茶店』って、聞いたことあるでしょ」
 すかさず、私が解説を入れる。
「うんうん、きーみとよっくぅー、って曲ね」
「そう、そのグループのセカンドアルバム。ガロっていう三人組みのグループなの。もちろん『学生街の喫茶店』も入っているわよ。A面はガロの曲で、B面はビートルズなんかのカバー曲が入ってるの」
「へー、そうなんだ!」
 由美は感心しながら、ジャケットを裏返した。
「じゃあ、これは? 私、まだ聞いたこと無い!」
 と、今度は光子が『今はまだ人生を語らず』を手に取った。私が買った数少ない一枚だ。
「たくろうのアルバムね。『人生を語らず』とか『シンシア』とか『襟裳岬』とか、良い曲が多いよ」
「えっ?『襟裳岬』って、レコード大賞の?」
「そう、その『襟裳岬』」
「なんで? なんで、たくろうが演歌唄ってるの?」
「だって、たくろうが作曲したんだもの」
「えーっ! そうなの! 知らなかった…」
 光子は驚き、ジャケットの帯を見ながら、
「さすがフォークソング部部長のシーコさん、何でも知っているのね!」
 と、よいしょした。あはは、たくろうが作曲したっていうのは有名なのに。それより、いつの間に私は部長になったの。…なんて、のんきに構えて苦笑いしたら、とんでもない事態が起きてしまった。
「これ、シーコさんのお気に入りって言ってたアルバムね!」
 と、由美が風のファーストアルバムを取り出した時だった。同時に、レコードの間から薄いグリーンのノートが飛び出した。
「あ…」
 急いで拾おうとしたけど遅かった。飛び出した拍子に、挟んでいた吉澤先輩の写真が、彼女たちの前にこぼれた。机の引き出しに仕舞ったと思っていた。一昨日、表紙越しにキスしようとしたところをれんげに目撃され、慌てて、レコードの間にノートを突っ込んだままにしていた。すっかり忘れていた。
 由美と光子が顔を見合わせた。一瞬、時が止まったように感じた。すぐに我に返り、目にも留らぬ速さで、ノートと写真を拾い、背中に隠した。
「な、何でもないの!」
 恥ずかしさで、顔がみるみる熱くなっていく。何でもないわけがない。きっと真っ赤な顔に、そう書いてある。
「シーコさん、やっぱり!」
 由美の目が点になった。
「吉澤先輩のこと…」
 光子は、自分の頬に手をあてた。
「……」
 どんな言い訳も通じない。だけど、二人に隠さなければいけない理由も無い。深く息を吸い、両手を背中に回したまま、私は素直にうなずいた。 
「知ってたの?」
 照れながら、二人に聞いた。顔の火照りが、すーっと退いていく。正直に白状したら、だいぶ気が楽になった。
「だって、ねえ光子。ふふふ」
「シーコさんの指定席、イニシャル付きなんだもの。必ずそれ、確認してから座るでしょ」
 二人の顔がニヤけた。ば、ばれていたのか。さっきとは、違う意味で恥ずかしい。
「SYっていったら、吉澤真吾先輩しかいないもん」
 自信たっぷりに、光子は腕を組んだ。
「先輩のこと、知ってるの?」
「だって、有名だもん。クラスに、ファンクラブを作ろうっていう子もいたくらいだし」
 由美が、さらにニヤけて言った。
「そうそう。三年女子の取り巻きが怖くって、結局、実現できなかったんだよね」
 光子は、わざと大げさにため息をついた。人気があるのは、三年生だけかと思っていた。吉澤先輩、一年にも人気があったんだな。知らなかった。
「ねえ、シーコさん…」
 由美が、なぜか声を潜めた。
「え?」
「もう、したの?」
「えっ!!! な、なな、何を?」
 心臓が飛び出しそうになった。由美、あんたはいったい、何を言い出すの! と、あたふたしていたら、
「こ・く・は・く」
 わざと意地悪な顔つきで言った。キス以上のことを言っているのかと勘違いして、妙な汗が額ににじんだ。
「し、してないけど…、でも…」
「でも?」
「された」
「…されたって、吉澤先輩のほうから、告白されたのっ?」
 光子が思わず声を上げた。
「うん…」


 結局、二人に急かされ、なにもかも全て白状する羽目になった。
 それは、夏休みが繰り返すようになる、前日の朝のことだった。「今日の午後に、講堂の裏まで来てくれませんか」吉澤先輩からの突然の電話だった。信じられなかった。それまでは、一方的な恋だと思っていた。
 一年の二学期、初めて先輩と会話したあの日から、私は吉澤先輩に恋をした。友達の美香子の、西川剛史目当ての練習見物に付き合うふりをして、ほとんど毎日のように、先輩の姿を追っていた。美香子の恋を邪魔しちゃいそうで、胸の内は誰にも話さなかった。やがて美香子は剛史に告白し、付き合うようになった。それまで控えめにしていた美香子は、堂々と剛史を応援するようになった。そんな美香子が羨ましかった。できるなら、私も告白したいと思った。だけど、私の恋には変化がなかった。天秤が次第に傾くように、想いばかりが募っていった。告白なんてできやしない。相手は取り巻きがいる人気者。たとえ告白しても、年下の私が相手にされるわけがない。小学生の時、一度だけ、差出人不明のラブレターらしきものをもらったことがあるものの、私は決して男子にモテるような『可愛い女子』ではない。 
 二年になっても状況は同じだった。やがて、片想いでも先輩の練習する姿を見られるだけで、幸いなのかもしれない。そう思うようになった。石段に座って、静かに先輩の姿を追う。それだけで、幸せな気分になれるようになった。この時間がずっと続いてほしいと思っていた。だけど、長くは続かなかった。二年の一学期の後半に差し掛かった頃、岩柿中学校野球部が、中体連の予選二回戦であっけなく負けてしまったのを最後に、先輩は放課後のグラウンドから姿を消した。その気になれば、姿はいくらでも見られるのに、三年A組の教室をのぞく勇気は、私にはなかった。先輩の欠けた野球部の練習を見物するたびに、私は消沈し、ため息ばかりつくようになった。
 さすがに美香子が気がついた。「なんでもっと早く言ってくれないのよ!」と、美香子に怒られた。美香子は、思いきって告白しちゃえと言った。だけど、私は絶対ダメだと首を縦に振らなかった。自信が無かった。失恋するくらいなら、そのままのほうが良かった。そんな私を見兼ね、美香子が田霜先生に掛け合ってくれた。卒業アルバム用だからって嘘ついて、先輩の写真を撮ってもらった。夏休みに入る直前、野球部員として、先輩が後輩たちに最後の挨拶をした日だった。
 夏休みに入ってから、剛史率いる、新生野球部の練習がスタートした。だけど、私たちの見学は無くなった。もう私には、見学する理由も無かったし、隣村の美香子は、私に気遣って、夏休みくらいは家でゆっくりすると言った。
 その後、切なさはあったものの、田霜先生にもらった写真のおかげで、だいぶ癒された。部屋にいる時、遠く離れたグラウンドから、バットでボールを叩く音が響くことがあった。そんな時は、先輩の写真を見ながら、練習見物の時を思い出していた。収まる写真立てが無かったから、好きなレコードに挟んで、音楽を聞きながら、思い出に浸ることもあった。そんな日々を過ごし、夏休みも終わろうとする頃、美香子から連絡があった。「剛史から聞いたんだけど、明日、野球部の練習試合があるんだって。三年生や他の部活の助っ人たちが加わって、試合するらしいの。もちろん、吉澤先輩も参加するって!」
 そんなわけで、美香子と見物に行くことになった。当日は、久しぶりに先輩の姿が見られる嬉しさで、起きてから、ずっとドキドキしていた。そしたら、先輩のほうから電話がかかってきた。

「きゃー!」
 由美が歓声を上げ、
「どんな気持ちだった? 先輩から呼び出しをもらった時」
 光子が嬉しそうに聞いた。
「そりゃあ嬉しかったわよ。でも…、正直に言えば、その時はまだ、期待よりも不安のほうが大きかったの。いったい、何を言われるんだろうって」
「やっぱりそうよねえ…。で、それから? それから、どうなったの?」
 光子が急かした。
「試合が終わってから、講堂の裏に行ったの。そしたら、先輩、これを持って、待ってた」
 私は、由美と光子の真ん中にノートを置いた。二人は顔を寄せ、表紙に見入った。
「それで?」
 今度は由美が急かした。
「私が練習を見ていたのを、ずっと気になっていたって。だから、良かったら、交換ノート、お願いしますって、このノートを差し出しながら言われたの」
 光子は拳に力を入れてうなずき、
「で、もちろん、オーケーしたんでしょ?」
 と、由美は期待に満ち溢れた顔で聞いた。でも、
「…ううん」
 私の反応に、
「えーっ!?」
 二人は悲鳴に近い声を上げてしまった。
「私も、どうしてすぐに『はい』って言えなかったのか、解らないの。本当は言いたかったのに、案山子みたいに突っ立ったまま、何も言えなくって。突然のことで、たぶん動揺していたんだと思う」
「それで?」
「どうなったの?」
「すぐに返事しなくてもいいから、二学期が始まったら、このノートに返事を書いて渡して下さい、って言って、行っちゃった…」
 肩を落としながら、私はノートの表紙をめくり、1ページ目の『OK』の文字を見せた。筆跡が私のものだと、由美と光子はすぐに気がついた。二人は言葉に詰まり、私の代わりにため息をこぼした。Eフラット・メジャーのメロディが、突然、頭の中で流れ出した。次第に『OK』が揺れて見えてくる。何かしゃべろうとしても、心に、切なさがじわじわとしみ出してくるようで、適当な言葉が見つからない。哀愁が漂うような沈黙が続き、数十秒が何分にも感じる。やがて、
「返事を渡す前に、夏休みが繰り返すことになったわけね」
 と、由美が哀れみ、
「せっかく、両想いなのに…」
 と、光子が残念がった。「私は大丈夫。心配ないよ」、笑顔で口に出そうとした。だけど、どうしても口が開かない。言葉をこぼすと、涙までこぼれそうな気がした。そんな私を察して、二人はいたわるように、そっと私の肩に触れた。すると、絶妙な間の悪さで母が登場し、
「特製冷やしホットケーキ、おまたせー! …あれ? どうしたの? みんな、お葬式みたいな顔して」
 と、Cコード調の乗りで、Eフラット・メジャー調の雰囲気を、一気に崩壊させた。

第十四話 その一へつづく…


この本の内容は以上です。


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