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シューゲイザークロック

 ずっと、靴を見ていた。
 夕方6時。笹渕町にある笹渕駅で一人の女子高生が下りた。夕日が沈みかけて暑さが引いてはいるものの、半袖でもまだ暑い。電車から降りた人々は汗を滲ませているというのに、その女子高生、北条七海(ほうじょう ななみ)だけ汗ひとつかいていない。
しかも彼女の制服は冬服だ。
彼女自身、この服装が周囲から浮いているのは分かっていた。
すれ違う人々は大なり小なりの反応をしているのもわかっていた目に入っていたが、見えないふりをした。ずっと自分の足元を見て、頭の中の残響に意識を集中させて歩いていた。そうすることで今自分が抱えている諸問題―――、それは学校での自分に対するいじめであったり、両親との不和であったり、といった問題から決別をしようとしていた。
 前を見ずに自分の足元を見る。
足下を見て空想に耽る人達のことを『シューゲイザー』と呼ぶということを最近知った。本来なら音楽を奏でる人達に付けられた言葉だそうだ。
足下を見ながら、色彩の中に人を溶解させるような甘美な音を鳴らす人々の事だという。
七海はその音楽が知りたくて、CDを手に入れた。それからは暇さえあればずっとその音を鳴らした。聴きこんだお陰か、今では何もしなくてもその音を頭の中で鳴り響かせることが出来る。
 音を鳴らしながら足下を見て現実を見ずに過ごす。
 七海はそうしてきた。
 今の高校に入ってから、今まで、ずっと。
 何も考えず、日常から距離を置いて自分の世界の中で過ごす。そうすることによって、自分の心を酷く鈍感にした。こうすることによって何をされても何も感じなくなるので好都合だったが、今日の暑さが音楽にノイズを入れくる所為で、現実を見ざるを得なくなった。

 誰が好き好んでこんな暑い冬服を着るものか。
 
 そう思いながら奥歯を噛んだ。
 一昨日までは普通に夏服を着ていた。しかし、これを着ざるを得ない状況になってしまった。
夏服が、昨日の体育の時間の後に殺されたのだ。
バラバラになった夏服を見ながら、クラスメイト達は笑っていた。口々に『かわいそうに』『誰がやったのかしらね』と言いつつも、その瞳の奥で大笑いをしていた。七海が無反応でその制服を片付け始めると、口々に同情の言葉を吐いていた人たちはあからさまに不機嫌な顔をした。
『悲しい顔しなさいよ、そうでないとつまらないのよ』
その表情はそう言っているようだった。それを見透かして、七海は表情を変えずに黙々と片付けると、体操服姿のまま授業を受けた。
担任はその姿を見ても、何も言わなかった。
その時のことを反芻するけれど、飲み込めない。当たり前だ。納得などいくものか。何の権限があって彼女たちは制服を殺したのだろか。たかだか服だと思ってハサミを入れて切り裂いて、破り、そしてバラバラにしたのだろうか。
汗を吸わせ、体に馴染ませ、自らの体としている服に刃を入れたのか。
そこまで考えているとは思えない。
ただ無邪気に無機物に刃を入れているだろう。自分たちの行為を正当化として甘くて毒性のある『正義』と言われる火の酒を飲んで、胸や脳を熱くさせたのだ。
それが気に入らない。けれど、七海にはそれを止める手段が無い。
無気力よりも、何よりも、現実に興味が無かった。
時折、こういった集合性の狂気、つまるところの『似非正義』に腹も立つし、涙も流すが、考えても考えても出ない答えの先に出る答えはいつも決まっていた。
『どうにもならない』
 全てがそこに行きついた。
 そこに行きつく度に、また、あの音楽を頭の中で響かせた。
 轟音の中で鳴る耳障りではないノイズ、そこに絡まるドロリとした粘り気のあるベースとドラムのリズム、聴くだけで人間が囚われる六面の存在を無くさせてくれる万華鏡のようなギター。そうして、それらの中に溶け込むように存在する声。その音楽に浸り、宙に放り出された気分の中で自分をただ一つの原子の存在にして、問題を消した。
 今日も家に帰ってそれをするつもりだった。
 足元を見ながら歩いて、耳にある残響を繰り返し味わいながらいつもの道を歩く。このまま家に帰れば、母に小言を言われる。『なんで普通にしないの』『恥ずかしい』『貴方の行動が私に恥をかかすのよ』このお決まりの言葉を言われた後に、部屋にこもって、残響の元になっているCDをコンポに入れて、浸るんだ。眠りの世界と現実の境界線が曖昧な六面の無い場所に放り出されて、沈んでいくという感覚だけを感じ取りながら、どこか甘い世界に溶け込んでいく。行きつく先にあるどろりとした場所に自分自身を溶かしたら、もうそれだけでいい気がしてくる。その世界でなら、自分は世界を美しいとすら思える。
 家に帰って、それをするんだ。
 交互に進む両の足を見ながらそう考え、歩いていると、前から声をかけられた。
「こんにちは、お嬢さん」
 残響を止めたその声を恨めしく思いながら、顔を上げると、優しそうな微笑みを顔に貼りつけたスーツ姿の老人がこちらをジッと見ていた。
 訛りの無い日本語だったが、その老人はどこか日本人離れしていた。鼻の高さ、肌の色が日本人とハッキリと違っていた。
 あまりに急に話しかけられたので挨拶を返すことも出来ず、ただ頭を軽く下げるだけでしか出来ない。
「お嬢さん、この暑いのにそんな恰好をしていて大丈夫ですか」
 余計なお世話だった。
 何故見ず知らずの人にそんな心配をされなければならないのだろうか。こちらにどんな理由があるのかも知らないくせに、とんだお節介だ。
「いえ、特には」
 そう答えると、老人は目を閉じて言葉を咀嚼するように頷いた。
「そうですか。なら、いいのですが」
「ご用件はそれだけですか……?なら、先を急いでいるので」
 そう言って脇を通り抜けようとしたその瞬間に、腕を掴まれた。
「まあまあ、そう言って逃げようとしないで下さいよ」
 腕を掴んでいる老人は笑顔でこちらを見ている。しかし、腕を掴む力は異様なほどに強い。まるで、逃げるな、と命令しているかのようだった。
 痛みを堪えながらその手を力一杯叩くが、老人は何も感じていなかった。
「抵抗するのは構いませんし、逃げるのも構いませんが、この場所でそれはあまりにもダメな判断と言わざるを得ませんね」
 何を言っているのか分からなかった。しかし、老人が七海の目の前に人差し指を近づけた後、指先を左側に向けた。つられるようにそちらを向くと、そこには異様な光景が広がっていた。
 酸化して黒くなった絵具で書きなぐられたような空に、色彩を狂わせた建物が並んでいる。地面には意味不明な日本語が並んでいて、周囲には人が居る様子もない。人と言うよりも生命を感じるものが何一つとして存在していなかった。その代り、色彩が意志を持つかのようにぐにゃりぐにゃりと動き、生物の形からは逸脱した化物じみたものが呻きながらぐちゃりと動いている。指を差されていない右を見たが、広がっている光景は一緒だった。
 先ほどまでうっすらとかいていた汗が、噴き出るように出てきた。
 熱いからではなかった。
 この空間には熱いも寒いも無い。七海は自分の知っている空間とは違う場所に来たことに酷く脅えたのだ。
 ここが全く知らない場所であれば、または、色彩豊かな場所であればこうまで焦ることは無かっただろう。しかし、ここは色が死んでいるのだ。そして、その死の色がペイントされている場所、というのが自分の見慣れている景色なのだ。七海の家の近くにあるマンション、小さな工場、そして七海が通学利用している駅。それら全てが死の色に染まっていた。
 それが不安を酷く増大させるのだ。
 胃の中で何かが暴れまわっているような感覚がある。不安と恐怖がそれを暴れ回らせているとしか思えない。その感覚のせいで、脳が何かを考えることを拒否している。
「今のご自分の場所と立場が、ご理解できましたか」
 老人がそう言うと、七海は震えながら頷いた。
「それは良かった。このまま言う事を聞いてくれなかったら、私は今掴んでいる貴方の腕をもぎ取るところでしたよ」
 さらりとそう言った老人の瞳の奥には、本気さが垣間見えた。本来ならばこのような過剰な物言いは背面にある本当の目的を引き出すための嘘として言われることが多い。その為、小さな子供でもなければその言葉が『嘘』であるということに気付いてしまう。しかし、老人は違った。ある種の狂気めいた物が瞳の奥でゆらりゆらりと揺れているのだ。そこに七海は恐怖を覚え、ついつい頷いた。
 手を掴みながら老人は七海に顔を近づける。
「いいお嬢さんだ。不幸で、卑屈で、全ての物が大嫌いだと思っている。あまりに出来過ぎているほどに全てが揃っている」
 大きく見開かれた両目で足の先から頭の先まで見られる。足の先から視線が徐々に上に来る際に七海は目を逸らした。あの大きな両目で見られたら、どこか暗い世界へ落とされてしまうかもしれない、と恐怖したからだ。幸いなことに老人は七海のその行動を制止し、是正させることも無かったので、目が合うことは無かった。
 けれど、これから幾度かあの目を見なければならないだろう。
 万力のような力で手を掴み、離そうとしないその態度がそれを容易に予見させた。
「お嬢さん、なんだか怖がっていますね」
 首を大きく横に振り、怖くないふりをしてその場をやり過ごしたかったが、それすらも出来ない。この人をやり過ごすことなど出来ない、と本能が告げていた。
「怖がらなくてもいいですよ。なに、捕って喰おうというわけじゃありませんよ。ただ私は、貴方の望んでいる世界を見せに来ただけです」
「望んでいる世界?」
 それがあまりに滑稽だったので、思わず口元が嫌味のような笑みを作ってしまった。
 望んでいる世界、それはどこの事だろうか。色彩が何かの生物のように動きながら変化し、頭の無い、口だけで出来た生物が液体を噴出させて呻いてどこかへ転がり、それを嘴(くちばし)の生えた斑模様の人間が笑いながら食べている、この歪んだ世界の事だろうか。
しかし、此処に残ろうなどとは微塵も考えていない。ここに居たら気が変になりそうだ。だけど、今までの日常を過ごした世界に戻りたいとも考えれない。音の中に身を任せて、目の前のことから目を逸らさなければならないほどに辛いことが続くあの世界。誰もが敵で、目の前も後ろも、上下左右も、全てが真っ黒で塗りつぶされている世界。あの場所に戻りたいなんて、思えない。今いる場所よりは少しはまともだと思うけれど、それでも戻りたいなんて思えない。
 ぐるぐると考えたが、七海はその『望んでいる場所』を想像出来ずにいた。
 老人が語りだす。
「そう、望んでいる場所です。幸福に満ち溢れていて、美しい色彩のある所です。それを貴方は見たいと思いませんか」
 そんな場所があるものか。
 そう思った。
 言葉には出さなかったが、七海の顔は曇った。老人はその顔をしげしげと見つめると、うんうんと頷いた。
「なるほど、お嬢さんはどうやらその場所が無いと思っているようですね。確かに、貴方が住んでいた世界ではその場所を探すのは難しいでしょう。それこそ、人生におけるリセットボタン、または電源ボタンを押さなければダメでしょう。けれども、今の貴方にそんな気力は……無い。だからこそ、私は貴方に与えたいのですよ、望んでいる世界を」
「でも、そんな世界なんてないです」
「いいえ、ありますよ。確かに今の貴方は絶望の色に満ちている。自分の足元を見ながら、空想の色彩を作り上げて全ての事を塗りつぶしている。現実の色なんて見てはいない。全ての物を橙色に染め上げる夕日の色も、気まぐれに色を変える紫陽花の色も、そして、毎秒ごとに微細に変わる人間の肌の色も。でも、それらを認識できた場所があったでしょう?」
「いえ、そんな場所は……」
「いいえ、ありますよ。貴方が前を向き、日々の色を知覚できていた『過去』という場所が」
「過去……ですか」
「そう『過去』です」
 老人はそう言うと、七海の腕を掴んでいる手の力を少しずつ緩めていく。
「貴方にはこれを差し上げましょう。常識を簡単に覆す、素晴らしいモノを」
 腕から手が離されると、そこには銀色の縁取りで薄紫色の文字盤の年月日の確認できるアナログ式の腕時計がつけられていた。それは七海の持ち物ではない。今、ここに初めて現れたものだった。
 その腕時計はかわいらしい色の文字盤を持っていたが、文字が酷く歪んでいる。しかも、年月日は狂ったように回り続けていて、異様さを醸し出していた。そういうデザインと思えば良かったのかもしれないが、そうとは思えなかった。歪で、どこか攻撃的なそのデザインは、好意を持つことが難しくあった。
「これは……?」
「これはですね、お嬢さん、見ての通りの腕時計です。けれども、少しだけ、ほんの少しだけ普通の腕時計とは違うところがあるんですよ。それは、その時計の針を少し進める、または、戻すだけで、その場所に行けるというところなんですよ」
「どういう……ことですか」
「とても簡単に言えば、それは『タイムマシン』の一種なんですよ」
 とても信じられない話だった。
 腕に勝手につけられた時計が『タイムマシンなんです』と説明されても、納得がいかない。その説明を聞いただけで、全てが嘘のように思えてきた。この今居る場所も、何かしらのトリックがあるのかもしれない。そう思えると、恐怖がすぅっと腹の中に溶けていく。
 ため息をつき、老人を睨む。
 こんなくだらない事の為に時間を割かれたのが、腹が立つ。
 七海の体内で起こったその怒りは、日々の不満にも引火して大爆発を起こした。
「こんなモノのどこがタイムマシンよ、そんなの信じられるわけないじゃない。人を馬鹿にするのも大概にしてよ!」
 そう叫び、腕時計を外そうとした瞬間に、妙な痛みを感じた。
 腕時計を外そうとするだけで、腕の皮膚が何かに引っ張られているような感覚を覚えるのだ。ゆっくりと腕時計と腕の部分を触ると、とあることに気付いた。
 腕に、貼りついているのだ、その銀色の腕時計が。
 取ろうとして、爪で張り付いている部分を擦ったが、薄く皮が削れるだけで、取り外すことなど出来なかった。
「人の説明を聞かないのでは、いい淑女にはなれませんよ、お嬢さん」
 爪先で肌を掘り続ける七海の顔を、いつの間にか下から覗き込んでいた老人は、その動作がさも滑稽だと言わんばかりのニヤニヤした表情を顔に貼りつけていた。
「これは、何なの」
「年上と話す際は敬語で話すのがマナーでは?お嬢さん」
「……この腕時計は、なんですか?」
「結構、まことに結構な質問です。その時計は先程答えた通りの『タイムマシン』なんですが、先程も言った通り、それは『一種』でしかありません。分類をするならば『タイムマシン科』と言ったところでしょうか。多分、お嬢さんが想像していたタイムマシンは、机の中の引き出しから出てきた青い狸が出すモノを想像したのでしょうが、それは違います。あれは数あるタイムマシンの中の一つですから。今貴方の腕に差し上げた物は、それを小型化した物ですし、機能も微妙に違います」
「違う……機能?」
「ええ」
 老人は、そう言って笑い皺を一層深くした。勿体ぶりながら話すその仕草は、まるでテレビの中の演技者のようだ。けれどその眼が自分の中にある疑心を強制的に溶かしていく。
疑いの心が、珈琲の中で同化していくように完全に溶けた瞬間に、老人は頷いた。
「では、その機能をお教えしましょう、お嬢さん。お茶でも飲みながら、ね」
 そう言って指をならす。ゴトリ、と音がして七海の隣に机と椅子が現れた。机の上には湯気の立つティーカップが二つ。そのティーカップからは不思議な、甘い香りがしてきた。
「さあ、どうぞ。座って下さい」
「……はい」
 疑心が溶けた所為か、七海はあっさりとその椅子に座った。ティーカップの中を覗いてみると、透明な液体の中で、紫苑に似た薄紫の花がその細い花びらを水中で穏やかに揺らしている。何の花かは分からない、けれども、鼻をくすぐる甘い香りが警戒心を包んで隠した。ティーカップの取っ手を掴んで飲もうとした瞬間、老人はそれを制止した。
「まあ、少しお待ちなさいな、お嬢さん。そう急いで飲まずともいいですよ」
 少し残念そうに取っ手から手を放すと、背もたれに背を預けた。
「先程お渡ししたその時計の『機能』についてだけお話しておきます。なに、直ぐに終わりますから、今それを飲めないことを残念がらないで下さい。さて、その『機能』ですが、ごくごく簡単な機能ばかりです。先ず時間を跳躍……つまり、過去へ、未来へ行く際には、文字盤の年、月、日、時間を右側にあるネジで合わせて下さい。そうして、貴方が先程歩いていたように、自分の足元だけを見て歩き始めて下さい。暫くそうしていれば、貴方が設定した時代に着きます。ただ、それだけなのですが、先程も言った通り、今までの物とは少し違う機能がこれには付いているのです。それは、着いた先の過去、未来、といった場所では貴方の存在は透明になっていることです。従来の物であれば過去でも、未来でも跳躍者の存在は否定されることはありませんでした。ですが、これは違います。ただ過去を、未来を見るだけの道具なのです。しかし、どの世界においても『完璧』という物はありません。これは人を跳躍した時代で『透明』にする機能が付いていますが、あくまで『透明』にしかなれません。つまり、跳躍した時代の人々は貴方を見る事が出来ませんが、貴方は触れること、見ることが出来るのです」
「すごい……」
「おおっと、お嬢さん、今跳躍した時代を変えようと目論みましたね?しかし、それはしてはいけません。あくまでそれは時間跳躍をして見るだけの代物です。いいですか、自分の運命を変えてはいけません」
「……変えてしまったら、どうなるの?」
「さあ?ワタクシはそういったことはしてませんので……わかりかねますな」
 七海は何か恐ろしいことが起こるのではないかと考え、想像をしていると、老人は微笑んだ。
「なに、お嬢さん。使わなければいいのですよ、それを。もし使ったとしても、観るだけにすればいいのですよ。そう、映画のように、ね。ささ、お茶の温度がいい頃合いになっている筈です。味が壊れてしまわぬうちに召し上がってください」
 目の前のティーカップを薦められ、取っ手に手をかけた。甘い香りを楽しみながら口を付けると、口の中でラベンダーの香りが広がり、喉を通って体全体に広がって行く。それは目の前まで広がって、七海を万華鏡のように鮮やかな色とりどりの世界へと連れて行く。それは、いつも自分が想像しているあのシューゲイザーの場所に近かった。それに気づいた瞬間に耳の奥で温かくて、不快にならないノイズの雨が降り出す。七海はその世界を堪能しながらゆっくりと椅子の背もたれの方へと倒した。しかし、いくら体を倒してもそこには背もたれなど無く、何処かへと落ちていく。いつもなら、叫び声を上げるところだが、何もしなかった。自分がノイズと色彩の中に溶けていける気がして、心地が良かったからだ。

***

 深夜3時、窓から月光を入れ、自分の腕にある時計を眺めながら七海は物思いに耽っていた。
 あの奇妙な世界でお茶を飲み、背もたれから落ちた直後に気が付いた。いつもの帰り道でぼんやりと立っていただけだった。死の色に染まった風景など無く、また、老人も、老人が出してくれた椅子や机、お茶も無くなっていた。けれど、腕時計と微かなラベンダーの香りだけは残っていた。
 腕時間を確認すると23時を過ぎた所だったので、急いで家に帰った。
「ただいま」と言って家に入ったが、返事など無い。靴を脱ぎ、玄関の一番近くにある自分の部屋に入ろうとした時、奥の部屋から母親が顔を出したが、舌打ちをした後に、直ぐに部屋に戻って行った。
 いつもの反応だった。
 むしろ、まだ穏やかな方だった。
 ヒステリーを起こさないでいるだけ、まだマシだ。
 あの人がヒステリーを起こすと家中は荒れる。そして、全ての責任をなすりつけて謝罪を強要してくるので、いつも謝った。しかし、謝った直後に母は、正気を取り戻したかのように泣きじゃくり、今度は自分から謝ってくる。涙を流して、「ごめんさい、ママ、どうかしてたの」そう言って膝から崩れ落ちる。
 何度も何度もそういうシーンを見てきて、もう、疲れ切っていた。
 どうしてこうなったのか、わからない。両親が1年前に大喧嘩して口を聞かなくなって以来、母は少しずつ狂っていった。父は七海と顔を合わせることも無くワザと深夜に帰ってきて自分の部屋にこもり、早朝に出て行った。
 もう今ここに住んでいるのは家族じゃなかった。
 ただ、家をシェアしているだけの集まりでしかなかった。
 母は時折、ヒステリーに任せて『アンタが変な風に育ったから、こんな風になったのよ!』と言って、責めてきた。もしかしたら、自分が学校で陰湿なイヤガラセを受けているのと、両親の不和は関係があるのかもしれない。だけど、それを知るのも、もう面倒だった。
 月の光が時計の銀色の部分に当たって光を返した。それが目に刺さって、七海は考え事の世界から抜け出した。
 また、意味の無いことを考えてしまっていた。
 七海は、考え事をしていると時折こうやって飛んでしまう。過去の世界を何もせずにぼうっと見る。
記憶の反芻。
それがもう、癖になっていた。
頭を横に振ってから、もう一度時計に視線を落とす。
 これで、時間を跳躍できる。そう聞いた、あの老人から。
跳躍の仕方も聞いた。だけど、どこへ行けばいいんだろうか。
 考えてみると、どこへ行きたい、というものが無いような気がした。
 未来に行ったとしても、何も変わっていない気がする。むしろ、もっと悪くなっていそうな気がしてならない。そんなものを観ても、何も面白くは無い。
ならば、過去は?
 ……確かに、過去なら行ってみたい。
  今みたいに『ここではないどこか』を探しながら妄想の世界に浸って楽しむのではなくて、現実を楽しんでた頃に。
 そうは言っても、小学生の頃の話だけれど。
 懐かしい映画を観る様な感じで、その場所へと跳ぶのも……面白いかもしれない。
 七海は立ち上がって、部屋のドアを開けた。
 自分の部屋から一番奥にある父の部屋まで台所を挟んで長い廊下がある。七海は自分が現実を楽しんでいた、小学生の頃に日付を合わせると、下を向いた。
 足元を見ながら、極力音を立てぬようにそろり、そろりと真っ暗な廊下を歩く。もしこれで母が起きて来たら厄介なことになるような気がしたが、そんなのに構ってなどいられなかった。
 一歩一歩何か起こってほしいと思いながら歩いていたが、何も起こらずにただ歩数だけが進んでいく。
 母の部屋の前まで来たその瞬間、すぐ横でドアの開く音がした。
 母が起きてきた。
 反射的に音のした方向を見ると、まばゆい光がこちらを照らしていた。あまりに強い光に目を瞑ると、誰かに突き飛ばされ、階段を落ちる様な感覚に襲われた。

***

「きゃああああああっ」
 そう言って七海は飛び起きた。
 道路の上で。
 あまりに急な環境の変化に戸惑い、立ち上がって周囲をきょろきょろと見渡すと、そこには見知った風景が広がっていた。そこは、自分が小学校から今になるまで使っている通学路だった。けれども、どこかおかしかった。最近になって壊された筈の家がまだ建っていたり、閉店した駄菓子屋がまだ開いていたりと、何だか少し違うのだ。
 首をかしげていると、前から小学生が列を為してやってきた。嬌声を上げながら楽しそうにおしゃべりをしている。
 そこに、自分が居た。
 小学生の頃の自分が。
 腕時計を見ると、自分が小学生だった頃の時間を指していた。
「戻れた、の?」
 そう呟いた瞬間、後ろから誰かがぶつかってきた。
 後ろを振り向くと、そこには知らないサラリーマンが不思議そうな顔をして立っていた。
「ごめんなさい」
 七海がそう言うと、サラリーマンはその声が聞こえていないのか、もう一度七海にぶつかってきた。
「何するんですか!」
 そう怒ったが、彼は首をかしげるばかりだった。
「何でそんなに何度もぶつかって……」
七海がそう言いかけた瞬間、彼は呟いた。
「おかしいな……、前に進めない……」
 そこで七海は老人の『跳躍した場所では存在が透明になっている』という言葉を思い出した。
 ぶつぶつと言っている彼が通れるように横に避け、しばらく待っていると彼はそろりそろりと歩きだし、何もぶつかるものが無いとわかると、さっさっと歩き出した。しかし、腑に落ちないのか何度かこちらを見ては首をかしげていた。
 そこで七海は理解した。
この世界では触れる事しか出来ないのだ。
声も届かせることが出来なければ、姿を見せることも出来ないのだ。
「そっか……」
 そう呟くと、七海は過去の自分が混ざっている小学生の集団に混ざりこんだ。
「あのねあのね、パパが今度遊園地に連れて行ってくれるって言うんだー」
「えー、七海ちゃんいいなー」
「私も行きたいー」
「皆にお土産買って来るよ」
「うん!」
「約束!」
 そんな他愛のない会話がそこにはあった。この他にもクラスメイトの事、明日の授業の事、昨日のテレビの事、色々な他愛のない会話がそこにはあった。
 七海は、それが眩しく見えた。友達と普通に会話して、笑って、家に帰って、眠る。その日々が眩しい。過去の自分はこんなに笑っている、それがたまらなく美しく見える。それに、周囲に居るその当時の友達の顔が懐かしくて、その懐かしさがまた胸を締め付けてくる。
 甘いこの場所に留まれたらいいのに。
 本気でそう思う。
 けれど、これは映画のようなものだ。観るだけで、浸るわけにはいかない。楽しむだけで、触れてはいけないのだ。老人もそう言っていた。
運命は変えてはいけない、と。
 唇を噛み、その留まりたいと思う心から自分を引きはがそうとした。
「じゃあね、七海ちゃん」
 急にそう言われて、我に返る。
「うん、じゃあねー」
 過去の自分が家に帰って行くところだった。さっきの『じゃあね』は今の自分ではなくて、過去の自分に言われたことだった。まだ、自分が透明になっているのを自覚できないでいた。
 走り去ろうとする自分を追いかけ、幸せだった頃の家族を見ようとしたその時、誰かが言った。
「私、七海ちゃん大嫌い」
 自分を追いかけるのをやめ、その声がした方を見ると、一人の女児が眉間に皺を寄せていた。
「そんなこと言っちゃダメだよ」
 それを制した子を無視して、悪口を言った子は走って行ってしまった。
「誰だっけ、あの子……」
 思いだそうとしても、思いだせなかった。仕方なくその子を追いかけると、踏切の前で立ち往生していた。
 まだ眉間に皺を寄せているその子の顔を覗き込んだが、誰なのか思いだせない。太っていて、意地の悪そうな顔をしているので、これだけの個性的な顔は忘れるわけがない。しかし、本当に思い出せないでいた。
 名札も付けていないので、尚更わからない。何か手がかりは無いモノかと、持ち物を観ていたら、ランドセルの横に、名前が書いてあった。
 その名前には、見覚えがあった。
 今、自分をいじめている奴らのリーダーだった。
「なんで……コイツが……」
 名字が違っていたが、名前は合っている。そういえば昔、両親が離婚するまで住んで居た所が一緒だった事を聞いた気がする。
 出会った時にはすっかりと痩せていたから気づかなかったが、こんなに近くに居たのか。
 彼女は、踏切を待つ間、ずっとブツブツと独り言を言っていた。
「七海なんて大嫌い、遊園地に行くことを自慢しやがって、七海なんて大嫌い、いじめてやるいじめてやる……」
 時折微笑みながら、ブツブツとそう言っていた。
 その微笑みが、今の彼女にそっくりだった。
 その瞬間、七海の中で血が燃えた。
 こいつさえいなければ、自分は普通を送れたはずなのに。こいつさえいなければ、現実を過ごすことが出来たのに。
こいつさえいなければ。
こいつさえいなければ。
こいつさえ、いなければ。
遮断機の音とその言葉が頭の中で絡み合って響く。
線路が、電車の来る音を告げる。
 鉄の塊が目の前を告げる、その音。
電車が近づいた瞬間、彼女のランドセルを後ろから思い切り押すと、そのまま踵を返して足元を見て歩き出した。
時計を、自分が元居た時間に合わせる。
 後ろからは警笛の音と、衝撃音に混ざって、人の悲鳴と、自分の笑い声が聞こえる。
 それが混ざって、頭の中で反響していく。
音は互いにぶつかり合って溶けることもせずに増幅を繰り返して、ノイズになる。それを塗りつぶそうとして、いつものあの音楽を流そうとするけれど、すぐにノイズに浸食された。
 頭に、体に、カオスが広がる。
 それが自分の行動を責めたてているようで、落ち着かない。耳を塞いでも、ノイズは頭の中で鳴り続けるので、何の解決にもならない。
 あのランドセルを押した手も、感触が散らずに手の中で燻っている。熱を持ち、嫌な感触だけを何度も何度も味あわせてくる。
 それは、お前がやったんだ、間違いなくお前がやったんだ。あの娘の運命を狂わせて、そうしてお前は満足したのだ。と、言っているかのようだった。
 けれども、その言葉を七海は黒い感情で塗りつぶした。けれども、何度塗りつぶしてもあの時押した、彼女のランドセルの色と同じ赤色が浮き上がってくる。まるで呪いのように。
 全てを振り切ろうと、ずっとずっと下を見て歩く。
 さっきの時代に帰れば、全てが元に戻ってる筈だ。あの子が死んでいるのなら、なおいい。
 そうして歩いていると、時計ごと腕を掴まれた。
「お嬢さん、約束を破りましたね」
 声がした方を見ると、あの時の老人が居た。
「だって……」
「だっても、何も、聞きませんよ。貴方は、ルールを破ったのですから」
 老人はそう言うと、七海の腕から手を放す。時計が壊されたと思ったが、時計はそこに存在していた。
 ほっと、安堵したのもつかの間、老人は七海の目の前に手を持っていき、その手を開いた。
 そこには、一つの歯車があった。
「これは、貴方の時計の歯車です。先程、抜かせていただきました。これでもう、その時計は動きません。一生ね」
「なんで……」
「なんでも何も、これが貴方への罰ですから。仕方の無ないことなんですよ。私は過去を変えるなと言った、それを貴方は破った、だから罰を与えた、それだけですよ。いいですか、私は言いましたね。『映画のように楽しんでください』と。貴方は時間を跳躍した先においては、観客でしかないんですよ。しかし、貴方はそれが不満だと言って、スクリーンを破り、映画を終わらせた。それだけの事をしたんですよ」
「だって、あの子が……あの子がいけないんじゃない!私をいじめて、それで……」
「わかります、わかりますよ。いい怒りだ、美しいほどの狂気だ。私はそれが観たかったんですよ。だから、貴方にその時計を与えた。こうなることをわかっていてね」
「なんでよ……私、貴方の事を神様だとすら思っていたのに……」
「ええ、神ですよ。しかし、何故貴方は神が無条件で人を救うモノだと思っているのですか?私のように、人を一旦は救うフリをして、その後叩き落として絶望を与える神もいるんですよ?それに貴方は、引っかかっただけですよ」
「私は……私はどうなるのよ!」
「何、簡単な事ですよ。スクリーンを破られた映画は、こうなるんです」
 老人は天を指差して大きな円を描いた。
 その瞬間に、世界がガラスのように割れて、七海の足元に落ちていく。残ったのは、何もない、真っ白な世界だけ。
「映像の無い世界へようこそ。ここが貴方の終着点です。ここでは全てが白く、上下左右。そして前後の六面が知覚できません。それが故に、自分が歩いているのか、落ちているのかすらもわかりません。ここで貴方は一生を過ごすのです。しかし、貴方の時計はもう止まっている。だから、永遠に貴方はここで止まり続けるのですよ、その姿で、どこにも進むことも、戻ることも出来ずにね。けれども、一つだけ残してあるものがありますよ。それは聴覚です。スクリーンの無い映画館でも、音楽だけは流せますからね」
 老人はニタリと微笑んで、七海の肩を押した。
 体が、何処かに落ちていく感覚にとらわれる。
 しかし、下を見ても上を見ても左右、前後を見ても何もない。自分が落ちていると感じているだけで、何もない。これが止まる気配もない。スピードを上げて何処かへ落ちていくのを感じながら、七海は涙を流した。
 自分の涙が顔から離れ、上昇していくのを見ながら『綺麗』とぽつりとつぶやくと、そのまま目を閉じた。
 耳の奥で、あの曲を流しなら。

***

 夕方6時、笹渕町の笹渕駅で、一人の女子高生が降りた。顔に満開の笑顔を咲かせながら降りてくるその女子高生の前は北条七海という。その顔はこの世界に何の不満もないという顔をしている。
 学校での良好な友人関係。
 仲のいい両親。
 自分の明るい未来。
 それが全てその顔から零れているかのようだった。
 改札口を通った七海は、周囲の橙色に溶けいく街を見ながら、ポケットから音楽プレイヤーを取り出して、歩きながらイヤホンを耳にはめた。
 片方のイヤホンを耳に付け、もう片方を付けようとした直後にポケットにある携帯が震えたので、片方だけイヤホンを付けたままで携帯を取り出す。
友人からメールが来ていた。
その内容が少し可笑しかったので、微笑みながら文字を打って、返信をした。携帯を開いたついでだったので、母にもメールをしておいた。内容はいつもの通り『今日のご飯はなあに?』とだけ書いた。
 メールは七海がイヤホンをもう一方につけた瞬間に返ってきた。『今日はハンバーグよ、くいしんぼさん』そう書かれたメールには過剰なまでにかわいい猫の顔文字が付いていた。最近絵文字を使うことを覚えた母は、こういったかわいい絵文字を多く使ったメールを送ってくるようになった。難しい言葉を知った小学生が、意味も分からず多用していしまうのに似ていて、なんだか、おかしくもあり、かわいくもあった。
 七海は携帯をカバンにしまい、もう片方のイヤホンを耳に入れると、音楽プレイヤーの再生ボタンに指を乗せた。
 ふと、もう一度夕焼けに染まる自分の場所を確かめたくて、周囲を見渡す。もの悲しい色に染まりながらも、力強く佇んで生きている町を見ながら、七海は夕日色の、温かい、飲むと心がほんわりとするようなオレンジ色のスープを思い浮かべた。
 思わず、唾を飲んだ。そこで母からの『くいしんぼさん』というメールを思い出して、恥ずかしくなって頭をかいた。
 自分の食い意地に半ばか呆れつつ、ため息をついた後、再生ボタンに添えていた指に力を入れて音楽を再生させる。
 耳の中で、音楽が鳴る。
 轟音の中で、甘美なメロディが流れ始める七海は目を閉じると、世界が白く溶けて消えていく。
 幸せな世界の崩壊に驚いて目を開けると、そこは、幸せな世界ではなくて先程と変わらない真っ白な世界だった。
 どこに落ちていくのか、どれだけの間落ちていくのかも不確実なこの世界で、先程体験した、幸せで、理想的な生活を真っ白な六面に思い浮かべながら、落ちていく。
 シューゲイザーと呼ばれる音楽を、耳の中で奏でながら。


この本の内容は以上です。


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