閉じる


序章

破れた戦旗 暦の上ではやがて春を迎えるとはいえ、城の中庭は冬の名残にひっそりと打ち沈んだままだ。空は青く澄み渡り、白く冷たい太陽の光が、レンガ壁を這う枯れた蔦と丸裸の貧相な木々のうらぶれた様子を照らし出している。
 国王は二人の兵士を従えてそんな庭を通り過ぎ、会議室へ向かっていた。二人の兵士はそれぞれに軍旗を持っている。
 冷たい風が吹いた。わずかになびいた旗は、血と焼け焦げでぼろぼろだった。

「もはや、この国が滅びるのは時間の問題だ」
 ディクレス国王は集まった家臣達を前に、そう告げる。王の声は老いてなお、力強い響きを保っていた。旗がもたらした知らせにうつむき加減だった家臣達は、顔を上げる。たとえ耳にする言葉がこれ以上ないほど絶望的な状況を告げるものだったとしても、王の声は耳を傾ける勇気を呼び覚ます。壁にかけられた無残な旗と、その前に座る王の姿が、彼らの目に入った。
 会議机の上には、この国の地図が広げられていた。それは、このような小さな国には不釣合いなほど、高度な技術で精密に作られたものだ。窓からの光にわずかな紫を照り返す真新しい漆黒の線が、アークラント王国の川や森、山々をもらすことなく描き出している。王の右手が地図の上をよぎり、家臣達の視線がそれを追う。
「南は険しいオロ山脈。そして北東のエカ帝国、北西のハイディーン王国。我が国はいずれの大国によって、手を下されるのであろうか。この旗を見よ。すでに精鋭であった第二、第四軍団はない。残された兵力で国を守るのは不可能だ。我らはこの旗と同じ運命をたどることになるだろう」
 王は胸を痛めて言葉を切り、地図に目を移した。このアークラントの南、オロ山脈の先には「人間世界の果て」と書かれた境界線があり、その先はまったくの白紙になっている。
 王の隣に立っていた長いひげの老人が、杖の先を地図の真っ白な部分に置いた。彼は王室付きの魔法使いだ。
「この先は石人いしびとらの土地です。七百年前の誓い以来、我ら人間は彼らの許しなしに立ち入れないことになっております。それはともかくとして、さて、いかがなものでしょう?」
 魔法使いの老人は王に頷くと、一同を見渡す。
「石人の話は、聞いたことがありませぬ。七百年前の誓いとやらも」
 会議の行方をはかりかねて、大臣の一人が頼りなげに漏らした。魔法使いは頷いた。
「石人どもは魔法の力溢れる土地に住んでおり、そのような土地は人間が暮らすには不向き。互いに住み分け、また相容れることも無く、七百年が過ぎました。人間が彼らのことを忘れてしまったのは、当然です」
 王子が頭痛でもするように眉間に皺を寄せ、目を閉じたまま発言する。
「私は幼い頃のおとぎ話に、石人という言葉があったのを記憶している。乳母の曾祖母が、その昔、市場で行商人から仕入れた話だと言っていたが。で、その石人とやらと、我が国の存亡と、どういう関係があるのしょうか。まさか陛下は、奴らの土地に『希望』を見出そうとお考えか」
「うむ」
 国王の返事に、会議室は騒然となった。しかし王は強い調子で片手を上げ、ひと時のもとに皆を黙らせる。
「先月、我が城の書庫から、最も古い古文書が見つかった。そこには、七百年前に人間と石人とが戦で争い、戦の終結とともに互いの土地を分かつ境界線を定め、永遠に関わりあわぬ誓いを立てたとあった。戦は、人間がある宝を求めたゆえに起こった。それは石人が長い歴史の間に溜め込んできた魔法の宝であり、強力な力を持っていたという」
「陛下」
 王子が、怒りを抑えた口調で割って入った。
「国を救う、もう少しまともな案をお聞きしたい。たからもの。ははっ! 子どものおとぎ話をする以外、我々にできることはないとでも?」
「まともな案については、もう話し尽くしたはずだ」
 王はうめくように答える。
「どんなに優秀な知力を持つ者だとて、もはやこの国を救えまい。いや、優秀な家臣達がいてこそ、我が国は今まで持ってきたのだ。これだけでも奇跡だったのだ」
 王は二枚の汚れた旗を目の端にとらえ、指を組んで頭を落とした。
「それでは陛下は、石人の土地に奇跡以上のものを見出そうとお考えですか」
 大臣の一人が尋ねる。王はそれにゆっくりと頷いた。
「あーあ……」
 王子がうめき声とともに頭を抱えて、机の上に突っ伏す。隣に座っていた若い将軍の耳に、親父が変になった、という呟きが聞こえてきた。逆に国王は落としていた頭を上げる。
「あの夢見ゆめみも、『石人の地に光あり。英雄が現れる』と予言した。絶望の闇に落ち行く今、我らはたとえ一筋の蜘蛛の糸でもつかまねば。いや、絶望の底を突き破り、その先を進まねばならないのだ」
「他によりよい案をお持ちであれば、喜んでお聞きいたしましょう」
 王と魔法使いは会議室を見渡してみるが、誰一人口を開こうとしない。
「トゥリーバ……たかだか一年前にふらりとやって来た、流れ者の予言者ではないか。秋の大雨に次ぐ洪水や地滑り、はては敵の伏兵の位置を予言しただけで、一躍国の救世主扱いだ。その上、夢で見ただけのいい加減な言葉で国民や王までたぶらかす。英雄だって? 誰のための英雄だ?」
 王子のぶつぶつ言う声が聞こえてくる。もっとも、それを気にする者はいなかった。王子は魔法や予言の類を非常に嫌っていて、文句をつけなくては気がすまないのを知っていたからだ。
「かの地には、恐ろしい魔物が棲むと言われております。ある程度の武具は必要でしょう」
 将軍の一人が、まだ納得しかねる様子であったものの、提案する。すると隣の将軍も口を開いた。
「人数もいりますな。さて、どう調達したものか」
「ところで魔術師殿、宝はどこにあるか見当はついているのですか?」
「おおよそは。ただし、トゥリーバを同行させるつもりでおります。彼は先を見通す力を持ちますゆえ」
「やれやれ。予言者に、サイコロの目を当てさせるようなものですな。ははは、この際何だって利用してやりましょう」
 他の家臣達も活気づいてくる。今までずっと、国王を信じてついてきたのだ。万策は尽きた。この先も王を信じ、共に賭けに出る以外にないのだ。
 王子もついに、苦笑いを浮かべて体を起こした。
「もう、これは迷走だな。陛下、宝探しはようございますが、王位はここに置いて行かれるよう。国王がこの時期、国外へ出ることはなりません。国民は、見捨てられたと思います」
「自ら今の国を背負うと申し出るとは、物好きな男だ」
 王は無造作に、かぶっていた王冠を息子に手渡す。大臣らはオロオロとして、即位式は後ほどに、と言い添えた。
 軍師の長が静かに、最後の意見を述べる。
「石人に襲われることもありましょう。彼らに見つかることなく移動するため、かの地を熟知した者か、それとも手早くしかも正確に地勢を把握できる者を、連れて行かねばなりません。それから、魔法使いをできるだけ多く。石人は、大変よく魔法を扱えるそうですから、襲われればひとたまりもありません。しかし、わが軍の魔術兵は出せません。……雇うしかないでしょうな」
 前国王ディクレスは、すばらしい地図に視線を落とした。
「土地については問題ない。この地図を描いた者達、地読ちよみの民を使えばよい」

一章 黄緑の少女

 まったく突然のことだった。
 今年十三になる、ぼんやりしていていつも一つ上の兄に馬鹿にされ、要領が悪くてしょっちゅう損な役回りを引き受けるはめになり、失敗してまた叱られる、得意なものといえばせいぜい木登りという少年にとって、この状況で取れる最も良い方法が、逃げる以外にあっただろうか。キゲイはできる限りの速度で走りながら、何度も何度も空しく助かる方法を考えようとしていた。
「だーれーかー! 助けてー!」
 結局他の誰かに助けを呼ぶ以外にない。問題は助けが来るまでどう生き残るかだ。これも結局は、全速力で走り続ける以外にないのだが。
 深い茂みの中に飛び込み、枝が体を引っ掻くのも構わず突き進む。深い森は夜に飲まれて闇に溶け、わずかな月明かりだけがキゲイの頼りだった。暗がりに潜む木の根っこに、足をとられて転べばすべて終わり。
 キゲイが抜け出した後ろで、茂みが大きな音をたててぺしゃんこになった。巨大な獣の脚が、ひとまとめに踏みにじったのだ。その脚は力強く地面を蹴り、脚に絡まった茂みの木が幾本か根っこから抜けた。黒い大きな影が、無残な茂みの上を滑るように駆け抜ける。
 こんな生き物、目にするまでは想像もつかなかった。鷹の頭に狐の体を持つ、巨大な化け物。最初にキゲイを見下ろした頭は、ゆうに大人の背丈二人分の高さにあっただろう。体長はゆっくり観察していないから分からないが、とにかく人間の子どもを頭から丸かじりに出来るくらい大きいのは確かだ。それが月明かりに目を光らせながら、キゲイを追い続けていた。悪いのはキゲイの方なんだろう。あれが気持ちよく眠っていた巣の上へ、転んで落ちたのは他でもない自分だ。
 キゲイは倒木をひとっ飛びに飛び越え、低い崖の上から身を躍らせた。地面に着地しようというとき、突然膝の力が抜け、思い切り手を前についてすりむいてしまう。足はガクガクと震え、すぐには立ち上がることができなかった。
——だめだ! もうダメだよ!
 キゲイはぐっと目をつむり、冷え切った肺の中に大きく息を吸い込む。そして息を止め、力いっぱい立ち上がろうと目を開けた。と同時に、重たい気配が頭の上を横切った。次の瞬間、巨大な黒い影が目の前に踊り、キゲイは黄色く光る二つの目玉に、真正面から見据えられる。キゲイは息を呑んだ。よろけた体が、後ろの崖に当たった。逃げ場がない。
 目の前の化け物は獲物を狙う獣さながらに、頭を低くし前足で土をかく。今にも飛び掛ろうという姿勢だ。キゲイは恐怖のあまり、体を縮めて力いっぱい目をつぶった。いっそこのまま、気を失ってしまいたい。
 キゲイは硬く目をつむり、やがて来るだろう巨大なくちばしのひと突きを待った。ジーンとまぶたが熱くなる。動くにも動けない。どんなわずかな動きが、敵に跳びかかるきっかけを与えるか分からないのだ。
 ところが不意に、辺りの空気がキーンと張りつめた。耳が痛い。最初は、恐怖のせいで耳がおかしくなったと思った。けれども違うようだ。夜の生き物達の声も、ぴたりとやんでいる。キゲイは恐る恐る目を開けた。
 月明かりの下に、化け物の姿がある。それは鳥の頭を高くもたげて、せわしなく右に左にと辺りを窺っていた。明らかに、何かを警戒する動物の仕草だ。キゲイもつられてあたりを見回してみる。暗い森が広がっているだけだ。しかしどこかに、この大きな鳥頭の化け物を怯えさせている何かがいる。
 突然、鈍い音がキゲイの耳を打った。それはあまりに低い音で、聞いたか聞かなかったか分からない音だった。それでも、その音と同時に、鳥頭の化け物の胸元が大きくへこみ、ばっと羽根が飛び散った。化け物の両前足が宙に浮くほどの衝撃が襲ったのだ。化け物はギョッと一声鳴いて白目をむく。そしてそのまま、横様に倒れた。化け物の巨体に潰されて、木々の茂みがばきばきとものすごい音をたてた。しばらくして、森は再び静かになる。
 キゲイは倒れたままの化け物の姿を、呆然と眺めていた。何が起こったのやら、まったく分からない。化け物のくちばしの端に、泡が浮いている。
 木の枝を揺らして、鳥が飛び立つ。静寂を破る音で、キゲイは我に返った。何が起こったにせよ、化け物は気を失っている。逃げるなら今しかない。キゲイはもう一度、辺りを見回した。もしかしたら、鳥頭の化け物をやっつけた何かが、まだ近くにいるかもしれない。それが自分の味方だとは限らないのだ。キゲイは震える足でよろよろと、崖肌に手をつきながら歩き出す。
「よお、坊主。大丈夫かぁ」
 突然そんな声が聞こえて、キゲイは悲鳴もあげる間もなく、その場に腰を抜かしてしまった。森の奥からひときわ黒い影が現れて、ぬーと近づいてくる。そしてせり出した小枝や腐りかけの落ち葉を乱暴に蹴散らしながら、月明かりの下に出てきた。その姿を見て、キゲイは口を開けた。喉から声は出なかった。
 見たことのない大人の男の人だ。少なくともアークラント人には見えない顔立ちをしている。どちらかといえば強面だ。それからキゲイは何度も目をしばたたかせる。おかしい。目の前に立っている人の髪の色が、なんだか青みがかって見える。月夜にはなんでも青みがかって見えるときがあるが、それにしても青すぎる。あんな髪の色の人間なんて、見たことも聞いたこともない。
「なんで人間の子どもが、こんな夜に。しかも一人でうろついてるんだか」
 そのおかしな髪の色の男はぶつぶつ言いながら、キゲイに近づいてきた。その言葉は、やや奇妙な発音の癖があるものの、「言の葉」だ。明らかにこの人は、キゲイにも分かるように独り言を言っている。
 キゲイは男の髪から注意を解き、身なりに視線をさまよわせる。腰帯に、剣が下がっているのが見えた。キゲイの顔から、血の気が静かに引いていく。
「おら、立ちな。お前どこから来た? ここで何をしていた?」
 木の根をまたいで来ながら、乱暴な口調で男が言う。キゲイはあわあわと足を滑らせながら、どうにか立ち上がった。
 そして。
 一目散に逃げ出した。なぜなら目の前の人物は、人間じゃなかったからだ。そして武器も持っていた。せっかく鳥頭の化け物から助かったのに、今度は得体の知れない人物に剣で斬られるようなことがあっては、たまったものではない。

「キゲイ! 心配したじゃないの!」
 キゲイの姿をようやく見つけたとき、東の里長さとおさは思わず叫んでしまった。キゲイの姉と兄が、弟とはぐれたと騒ぎ出してもう随分時間がたっていたのだから、無理もない。しかもここは異郷の森だ。暮らし慣れた里の森ではない。狼や熊よりも恐ろしい魔物だっているというではないか。
 里長は興奮して震えるキゲイを促して、森に張ったテントへと帰った。そこへちょうど、同じようにキゲイを探していた里の者達も帰ってきて、キゲイの捜索はめでたく終了となった。もっとも、そのほっとした雰囲気も、キゲイの話で吹き飛んでしまう。
「化け物ですって?」
 里長のかすれた低い声は、素っ頓狂に高くなった。キゲイはおずおずと里長を見上げる。里長はずんぐりした体格の中年の女性で、怒るとキゲイの母親よりも恐い。腕だって、キゲイの父親に負けないくらい太くて逞しい。
「きっとそれは、魔物だね。石人の世界には、うようよいるという話だわ」
 里長はいったん考える仕草をしたものの、すぐさまキゲイに向き直って、眉を吊り上げる。キゲイは首をすくめた。
「だから言ったでしょう! ちゃんと気を引き締めて作業に当たれって! 大体あんたは、自覚が足りない。私達がディクレス様からおおせつかった役目は、分かっているでしょ!」
 キゲイ達は、地読みの民と呼ばれる、アークラントに古くから住む民族だった。地読みの民とはその名の通り、地勢を把握することにかけては他に秀でることのない人々だ。彼らは見も知らない土地でも、正確な地図を描くことができた。なぜそこまでの技を持っているのかは彼ら自身も知らなかったが、広大な樹海に暮らす彼らには古くから当たり前に必要なものだったのかもしれない。地図自体が珍しいこの時代において、彼らの存在はアークラントにとって大変貴重だった。そして今も、石人の世界に忍び込むのに、地図は必要不可欠とされた。その地図を作る役目を、キゲイ達はアークラント先王ディクレスから言いつかっていたのだ。しかもできる限りの人手が必要だと言うことで、十三才以上の子どもからこの仕事に参加することになった。キゲイにとっては、生まれて初めて故郷から遠く離れる旅だった。挙句の果てには、魔物とかいう恐ろしい化け物にまで追いかけられた。
「なんにしても、無事でよかったよ。ちょっと騒ぎすぎてしまったのは、気になるけどね」
「え?」
 キゲイはきょとんと里長を見上げた。立ち去りかけていた里長は、半身ほど振り返ってまた眉を吊り上げる。
「石人に私達の侵入が知れたら、全ての計画がおじゃんになりかねない。なんせ、石人が私達に味方をしてくれるとは限らないからね。いや、誓いを破った私達に、絶対に味方なんかしてくれない。万一気づかれて、私達の邪魔をしようとしてきたら、アークラントは終わりだよ!」
 キゲイは胸の下で、ぎゅっと両手を組み合わせた。あの妙な髪色の男が、思い出されたのだ。
「あのぅ」
 キゲイは里長を追いかけ、おずおずとその袖を引っ張った。里長が怪訝そうに、キゲイの顔を見返す。
「僕、もしかしたら、石人に見つかったかもしれない……」
 里長が目をむいた。周りの大人や子ども達も、互いの顔を見合わせる。気まずい雰囲気が、辺りに満ちた。
 事の成り行きは、どうやら深刻になりそうだった。

 人間と石人の世界の境には、「大空白平原」という地帯があった。これはどちらの世界にも属さない場所で、国を建てたり住んだりすることは、七百年前の両者の取り決めで禁止されていた。しかし今では、人間の国から何らかの理由で追放されたり、居辛くなったりした者達が寄り集まってできた町が点在し、怪しげな商取引で栄えていた。
 平原と呼ばれてはいるものの、実際の風景は人間世界の果てと呼ぶにふさわしいかもしれない。ヒースの茂みが点在する荒れ地のほかは泥炭混じりの湿地が多かった。そのため起伏がなくて見通しがいい割には、荷車が通れるほどしっかりした地面は限られている。場所によっては泥炭地の下で火がくすぶり、煙がたえずもくもくと上がっている。
 ディクレス先王率いるアークラントの軍隊は、オロ山脈を越えてこの大空白平原に入り、平原の町のひとつタバッサ近郊に天幕を建てて滞在していた。旅人のうわさでしかこの平原の存在を知らなかった先王は、すぐさま必要な情報を収集し、武装隊商の振りをするのが一番いいと考えた。平原の人間達は、国や軍隊というものを目の敵にしていたからだ。そして先王は、タバッサで石人達の領内に入るための準備を整えようとしていた。タバッサの南に広がる森のすぐ向こうが、もう石人の領内だったのである。
 キゲイは眠い目をこすりこすり、ディクレス様のいる天幕から、町の安宿へ戻って行くところだった。朝一番に、大人達が描き上げた森の地図を届けにやらされていたのだ。
 昨日の夜、森でキゲイが石人に出会ってしまったことは、大きな問題になっていた。ディクレスは計画を早め、明日にでも石人の領内へもぐりこんだ方がよいと考えた。そこで人々は休む間もなく、その準備に走り回らなくてはいけなくなっていた。
 明け方の小雨でぬかるんだ地面に、大小いくつもの足跡が残っている。天幕を張るには最悪の場所だが、タバッサの町議会は先王の素性を疑って、ここでの野営しか許してくれなかったらしい。キゲイはぐちゃぐちゃと新しい足跡をつけながら、忙しくしているアークラントの兵士達の間を縫って、タバッサの街中へと歩いていった。地読みの皆は、地図を書くために大きなテーブルを必要としていたので、町の宿に泊まっていた。地形を測る器具にとっても、湿気は大敵だ。
 このタバッサの町もまた、空白平原のほかの町と同様、人間の世界から追われた者、つまりは追放者や賞金首などならず者が建てた町らしかった。七百年前の戦で人間が建てた要塞跡を利用して、百年以上も前にできたらしい。しかしキゲイの見る限り、町の様子はアークラントの城下と大して変わった様子はない。通りに面する店先で働く人も、そこで買い物をする人も、ちっとも悪人には見えない。それどころか、アークラントよりも町には活気があって、人々も楽しそうだ。国が存在しないこの平原では、少なくとも戦争に襲われる心配がないのだ。
 キゲイは物珍しく通りをきょろきょろ見回しながら、帰りの道をたどっていた。彼も地読みの民の端くれだから、宿の方向が分からなくて迷子になるようなことはない。ただ、道が入り組んでいて、一つ曲がり角を間違えばなかなか思う方向へ帰れないことが、ちょっと面倒だった。
 キゲイはやがて広い通りに出た。朝早い通りは、朝ごはんの材料を買う人や、出発の早い旅人達でかなり賑わっていた。通りの両側に並ぶ店は、階段で十数段高いところにあった。階段の蹴上げの部分には、数段に渡って野菜や肉の絵が描かれている。どうやら店の看板代わりらしい。絵を見ているだけでも、結構面白い。キゲイは、親豚と子豚達が手をつなぎ、ハムの周りで踊っている絵を不思議に思いながら、通りを進んでいこうとした。
 よそ見をしていたのがいけなかったようだ。前からぶつかってきた大人に押されて通りの真ん中によろめき、キゲイは危うく突っ込んできた馬車にひかれそうになった。
「馬鹿野郎! パン種みてぇに、まったいらにのされてぇのか!」
 恐ろしい怒鳴り声が、キゲイの頭の上に降ってくる。キゲイは慌てて通りの真ん中から脇にどいた。見上げると、口から顎まで棘の様な黒い髭を生やした、ぎょろ目の男がこちらを見ている。キゲイはすくみあがった。
「チビが!」
 男はもう一言吐き捨てて、後ろを振り返った。
「何してやがる! 早く出さねぇか!」
「へえ!」
 返事がして、馬車が動き出した。キゲイの目の前を馬車が横切って行く。その荷台には、大きな檻が乗っていた。中に、なにか白と黄緑の色鮮やかなものが見えた。キゲイは通り過ぎて行く檻を、背伸びして覗く。
 檻の中に横になってうずくまる、小さな背中が見えた。長い髪は、透き通るような黄緑色をしている。
「石人だ!」
 キゲイは思わず口の中で呟いた。彼が昨晩森の中で出会った男も、青色という普通の人間ではありえない髪の色をしていた。
 檻の中に入っているのは、キゲイと同じくらいの子どものようだった。なぜ、あんなところに入れられていたのだろう。もしかしたら、この男達は人さらいというものかもしれない。身震いが走る。キゲイはその場から逃げるようにして、足早に立ち去った。
 宿に帰りついたときには、日は高くなっていた。キゲイが一人でもそもそと早めの昼ご飯を食べていると、里長がせかせかと彼に近づいてきた。
「キゲイ、悪いけどもう一回、天幕に行ってきてくれる? お医者様の所。具合の悪い子がいるのよ。解熱用の薬を、貰ってきて欲しいの」
 キゲイは頷いた。昨日の夜からほとんど寝ていないからいい加減休みたかったのだが、そうも言っていられない。皆それぞれに忙しいのだ。
 天幕に戻ると、隊商の振りをしている兵士達がそれぞれに自分達の食事を作っていた。
 その兵士のほとんどは、十六、七歳の少年か老人かのどちらかだ。それもそのはずで、その真ん中の年代の者は国を守るため、アークラントに残っていた。ディクレス先王は「宝探しが目的だから現役の兵は必要ないし、国のためにも連れて行くことはできない」と、すでに退役していた老兵を募ったのだ。さらに徴兵することのできない十八才未満の少年達を人夫として集め、また、魔物の対策として命知らずな傭兵達を伴わせたのだった。
 さて、医者から解熱用の乾燥果実を貰い、もと来た道を引き返す。人々は慌しく荷物を持って天幕の間を走りぬけ、伝令役の少年が大声で何か言っていた。出発がどうのと言っていたことから察するに、どうやら今夜、隊の一部が石人の領内へ移動するようだ。
「おい、そこの地読みの奴!」
 突然声をかけられて、キゲイは立ち止まった。数人の少年達が天幕の前に座り、手にスープ鉢を持ってこちらに顔を向けている。そのうちの一人が、キゲイを指差して言った。
「お前らのうちの誰かだろ。昨日の夜、森で石人に見つかった馬鹿な奴」
 キゲイの心臓が飛び上がる。それはまさに自分自身のことだ。その少年は眉間と鼻先に皺を寄せ、キゲイを睨みつける。
「お前らのせいでこの宝探しがみんなだめになったら、もう俺達の国を救う方法はなくなるんだ。お前らは故郷の険しい山と森の中に逃げられるからいいけどよ、俺達は敵が攻めてきたら死ぬまで抵抗する以外ないんだ。あいつら、自分の国以外の人間は、人の形をした虫けらくらいにしか思ってないんだからなっ」
 その少年の言葉に、周りの少年達も一様に頷いた。彼らの顔には不安と疲労、そして苛立ちがはっきりと現われている。キゲイはたくさんの年上の少年達に睨まれてすっかり恐くなり、体中がたがた震えだす。少年は乱暴に舌打ちをした。
「なんて臆病な奴だ。さっさと行っちまえ!」
 その言葉で、弾かれたようにキゲイは駆け出した。すっかり動転して、帰る方向を間違えてしまったのだが、構わずそのまま走り続けた。やがて小屋がたくさん立ち並ぶ場所に出てしまう。周りは見たこともない景色で、当然、もと来た宿など影も形もない。しかしキゲイは脅かされた恐怖が覚めやらず、そのまま突き進んで、やっと一つの小屋の裏手に隠れて座り込んだ。道中ずっと追いかけられているような気がして、何も考えられなかった。
 息を整えながら耳をそばだてる。辺りはしいんとして、自分の心臓と息の音しか聞こえない。
 落ち着いてくると、今度はひどく悔しくなった。追いかけてくるはずもないのに、あんなに怯えた自分が腹立たしくなったのだ。キゲイは右手の拳を地面に叩きつけた。情けない気持ちに、うっすらと涙がにじむ。
 周りを見渡すと、キゲイのそばの小屋が一番古くて汚れている。動物くさくて、馬のヒヒンと言う嘶きが聞こえた。両手の砂を払い、宿に戻ろうと腰を上げたとき、その古ぼけた小屋から馬の声とは別に、なにやらガチャガチャという金属音がした。
 馬の声は何か怯えた感じだ。キゲイは滲んだ涙をぬぐい、でたらめに打ち付けられている壁板の隙間から覗き込んでみる。中は暗くてよく見えない。すると唐突に、
「誰かそこにいるの? ちょっと手を貸して」
 という高い子どもの声が聞こえてきた。
 キゲイはハッとして壁から離れた。キゲイの体で、小屋の中に差し込む日の光が不自然に遮られてしまったのだ。人がいるかなど思いもかけず、キゲイは一瞬ひるんだ。しかし子どもの声だったので少し安心もし、とりあえず小屋の扉の方に回ってみる。幸い、扉に鍵はかかっていない。
 薄暗い小屋の中で、まず馬の荒い息が横から吹きかかった。馬は柵の中で落ち着きなく足踏みを繰り返している。貧相な年寄り騾馬だった。そして小屋の奥、幾筋もの射し込む光の中に、特大の鳥かごに似た錆だらけの檻が置かれていた。その中に入っているものに、キゲイは見覚えがあった。
 明るい透き通るような黄緑色の長い髪。今朝、荷馬車で運ばれていたあの石人だ。その石人は、十一か十二才くらいの女の子に見えた。肌は異様なまでに真っ白で、血の気というものがまったく感じられない。大きな金色の瞳が、外からのわずかな光で不思議な輝きを放っている。まるで、彫刻が生きて動いているような不気味さだ。キゲイは顔を背けた。大理石みたいな肌も宝石みたいな瞳も、本当に石人間としか言いようのない女の子だ。
 女の子はキゲイの驚きをよそに、よく通る高い声で言う。
「ちょうどよかったわ。君、こっちに来て鍵を壊してちょうだい」
 それから呑気にも、片腕を頭の上に伸ばし、もう片方の手を口に当てて、気持ちよさそうに大あくびをした。
 キゲイは手招きされるまま、恐る恐る檻に近づいて扉の錠前を調べてみた。ひどく錆びついていて、大きく重たいものだ。キゲイはなるべく女の子が目に入らないようにしていたが、女の子の方が狭い檻の中で器用に体を曲げて、キゲイの目の前に頭をもたげた。薄暗い小屋の中でも、女の子の唇までが真っ白なのが分かる。キゲイは女の子を視界に入れないよう、さらに頭を下げる。造り物みたいな女の子が、生きて動いていることが、どうにも受け入れられない。いっそ彫刻が動き出したという方が、まだ分かりやすい。
「ああ、よかった。誰も通りかからなかったら、どうしようと思ってたんだ。ね、君は人間なんだよね。髪色、黒曜みたいね」
 女の子は無邪気に話しかけてきたが、キゲイの方はそれどころではない。石人に対する嫌悪感を紛らわそうと、ますます錠前に集中した。
「ねえ、鍵開きそう?」
 女の子は首をかしげる。彼女が話す「言の葉」は古風な感じがして、独特の優しい響きがある。
「……壊さないと無理だと思う」
 キゲイはすぐさま立ち上がって、檻から離れた。小屋を見回しながら深呼吸をする。馬は相変わらず落ち着きがない。きっとこの馬も、石人が初めてなのだ。
 なんにしても、この女の子を檻から出してあげた方がいい。キゲイはそう思った。理由は分からないが、あの恐ろしい髭面の男がいない今がチャンスだ。小屋の隅にごちゃごちゃと積み上げられているガラクタを漁ってみると、何かの柄だったらしい木の棒が見つかる。キゲイはそれを拾い上げ、いったん小屋の外に出て辺りに人がいないのを確かめた。
「これで叩き壊してみる」
 戻ってきて女の子に言うと、彼女はこっくりと頷いた。顔立ちはとてもきれいな子だった。それがさらに彼女を造り物みたいにしているのかもしれないのだが。
 キゲイは檻に片足をかけると、錠めがけて思い切り柄を振り下ろした。がきんと鈍い音を立てて、錠がゆれる。一撃では全然だめだ。もう一度錠前を調べ、効果があるのを確かめながら、何度も力いっぱい柄をぶつけた。女の子もぐらぐら揺れる檻の中で、鉄格子につかまり窮屈な体勢で頑張っている。
倒れました 出し抜けに、鈍い音とともに錠前の腕が壊れた。それと同時に檻はバランスを失って、女の子もろとも後ろに倒れる。
「いたっ!」
「あ、ごめん!」
 キゲイは柄を投げ出すと、すぐさま錠前を取り外して檻の扉を開けてあげる。女の子は頭の後ろをさすり、涙目で這い出てきた。
「びっくりしたけど、ありがとう……。ああ、よく寝たなぁ」
 女の子はあくびを噛み殺しながら、お尻をはたく。何とも呑気な様子にキゲイは少しむっとする。ところがあらためて女の子の格好を見て、首をかしげた。
 女の子は濃い黄緑の服を着ていて、それが彼女のかかとまで届く明るい黄緑の髪に、とてもよく似合っている。しかしその服は絹みたいに柔らかで光沢があり、美しい銀の刺繍が襟と裾を縁取って、とても高価そうだった。シャラシャラと涼しげな音を立てる腰の銀飾りは、服よりもっと手の込んだ透かし細工の花びらだ。
「君、もしかして、どこからかさらわれてきたの。ひょっとして、お金持ちの家の子なの?」
 女の子はきょとんとしただけだ。
「お金は持ってないよ。私、森の中で道に迷ってたの。ものすごくお腹が空いてて。そうしたら、変な鎧を着た汚い格好のおじさん達が、パンと水をくれたんだ。後は良く覚えていない。目が覚めたら、この檻の中にいたの」
 女の子は檻を振り返る。
「これってさらわれたっていうのかなぁ? 私、人間の町に行きたかったし、今目的の場所にいるわけだから、まるっきり失敗ってわけでもないと思うけど」
 膨らませたほっぺたに指を当て、女の子はキゲイに向き直った。彼女はひゅっと息を吐いて頬を戻す。
「ねぇ、どうしたの? さっきからすっかり黙っちゃって」
「だって……」
「だって?」
「だって、いくらなんでも、鈍すぎ……」
キゲイの言葉が分かったのか分からなかったのか、女の子は楽しそうにクスクス笑った。少し変わった子であるのは間違いなさそうだ。
 ところが女の子はすぐに笑うのをやめ、小屋の扉を横目にわずかに顎をあげる。キゲイがどうしたのと尋ねようとすると、彼女は素早く口の前に拳を当てて見せた。遠くから、人の声がしてくる。
 キゲイは板の隙間に駆け寄って、外を窺う。やはり、あのひげ面の男達だ。お酒が入っているのか、皆やけに賑やかだ。あまりに大声なので、遠くにいても何を言っているのかよく分かる。
「石人ってぇのはあれだろ? 牛や羊みてぇに無駄がねぇって!」
「髪や骨は魔法使いに売れるし、血肉も錬金術の材料になるってぇ、裏じゃ取引されてるらしいぜ!」
「髪と言えば、あの石像みたいなガキ。あの髪は結構な値段にならねぇか? きれぇーな長い髪してたぜ」
「小指ほどの一束で、銀貨十枚ってとこかね。しかも髪はまた伸びるべぇ」
「こりゃすげぇ! じゃあ、歳を食うまであの檻に閉じ込めて髪売って、んで、見世物にでもして、いよいよとなりゃ潰せばいいわけだ! ひゃひゃっ!」
 キゲイはぞっとして振り返る。女の子は、小屋の窓枠に片足をかけているところだった。
「逃げたほうがいいかもね」
 彼女も傭兵達の言葉を聞いた筈だが、気にしている風にはまったく見えない。少しどころかずいぶん変わった子だ。
 二人がそっと窓から抜け出した直後、傭兵達は扉の前に着いた。
 傭兵達が扉を開けたと同時に、キゲイ達は何とか窓から飛び降りる。しかし、逃げるのが遅すぎた。
「あっ! なんだ、なんだ!」
 男の怒鳴り声が背中にかかる。キゲイは女の子の背をついた。
「走ろう!」
 女の子は頷いて、踊るようにくるっと身をひるがえす。長い髪が光に透け、宙をうねった。走り出した女の子の足は、思いがけず速い。
 キゲイは慌ててそれを追う。もちろん、あのひげ面の男達も、凄まじい怒鳴り声とともに土煙を上げながら追いかけてきた。

二章 赤の魔法使い

 キゲイは女の子の背中を追って走る。人のいる所へ出れば、誰かが助けてくれるかもしれない。一番良いのは、ディクレス様達のいる天幕だ。老兵がいる。彼らなら、あんな悪漢、怖くもないはずだ。
——でも、だめだ。
 キゲイはすぐにその考えを打ち消す。この女の子は、石人だ。石人を天幕へ連れて行って、果たして良いものだろうか。
「見つけたぞぅ!」
 大きなどら声に、驚いた女の子がつんのめって転ぶ。速度が出ていたため、彼女は勢いづいたまま、地面に頭から突っ込んだ。後から走っていたキゲイも急には止まれず、女の子に蹴つまずいてしまう。
「ぎゃっ!」
「ご、ごめん!」
 キゲイは女の子をまたいで二、三歩たたらを踏んだ。どうにか立ち止まると、彼女が立ち上がるのを助ける。女の子は、両手と両膝をひどく擦りむいていた。真っ白な肌のせいか、赤い血がひどく目立つ。
 やむを得ないとはいえ、立ち止まったのが悪かった。二人はあっという間に、十人ほどの男達に囲まれる。中には数人、よく見れば女らしい人もいたが、いかつい体と悪党面という点では他の男達と同じだ。皆、ガラクタの銅屑や革の端切れを寄せ集めたような鎧を身に付け、思い思いの武器を革ベルトから下げている。剣やナタ、鋲を打った棍棒や、弓矢などだ。自分の武器を、これ見よがしにがちゃつかせている者もいる。
 キゲイは辺りを窺った。閑散とした路地裏で、人通りもない。大通りの雑踏は、ここからでは遠すぎた。近くの家に開け放しの窓がひとつあったが、キゲイの見ている前で窓はそろそろと閉まってしまう。
「おやおや、よく見りゃ小僧。その格好、地読みのガキじゃないか」
 にやにや笑いを浮かべ、棘のように鋭い髭を生やした大男が、大きな手をキゲイの方へ伸ばしてくる。なぜ彼は、キゲイのことを知っているのだろうか。
——そうか、傭兵だ!
 キゲイはようやく、男達の素性に思い当たる。ディクレス様が雇った荒くれ達だ。東の里長も言っていた。傭兵はたちの悪い連中だから、近づくなと。しかし、向こうから近づいてきた場合、どうすればいいのだろう。
 キゲイは身を引いて傭兵の手を避ける。そしてとにかく誰かに助けを呼ぼうと、大きく息を吸う。その瞬間、大男の手が素早く動いてキゲイの胸を強く殴りつける。キゲイの意識が、一瞬遠くなった。ふらついた体を、後ろに立っていた女の子が支えてくれた。
「まあ! 大人の癖に、子どもに暴力を振るうなんて! 私、こんな悪人、生まれて初めて見た」
 女の子の憤慨する声が聞こえたが、キゲイには彼女の反応がどうもずれている気がして、仕方がなかった。この子は、今がどれだけ危険な状況か、いまさら気づいたらしい。
 傭兵達が輪を狭めて、じりじりと迫ってくる。彼らはキゲイ達を怖がらせて、楽しんでいるのだ。キゲイ達はとうとう、壁際に追い詰められてしまった。ひげ面の大男が再び腕を伸ばして、キゲイをいとも簡単に脇へ突き飛ばす。地面へ転がったところへ、別の傭兵が背中を蹴りつけてきた。キゲイは呻いて、傭兵達の輪から外へ転がり出る。地面に伏したまま振り返ると、女の子が傭兵に取り囲まれているのが見えた。ひげ面が、逃げようとした女の子の襟首を掴んで、子猫のように吊り上げる——。
「お前、エツ族か」
 キゲイの耳にそんな声が入ってきた。顔を上げると、いつの間に現れたのか、こちらを見下ろしている淡褐色の肌をした少年と目があう。少年の瞳の色に、キゲイはびくりと肩を震わせた。炎の色だ。フードからこぼれ落ちる不揃いの前髪が頬にかかっているが、その髪の色も何か奇妙だ。暗い色をしているものの、黒髪などではない。それにしても、少年の視線は相手を射すくめるほどに鋭い。
 キゲイが言葉を失っていると、少年はかがめていた上体を起こす。建物の隙間から覗く青空が、フードからはみ出ていた少年の長髪に重なった。髪は、深い紅に透ける。大人びた顔立ちだが、年はキゲイより一つか二つ上といった程度のようだった。
 少年はフードを跳ね上げ、マントの下から金属の短い杖を持った左手を覗かせる。そしてすぐ脇に背を向けて立っていた傭兵の背を、杖で突ついた。傭兵がけげんな様子で振り返り、目を剥いた。
「や! なんだ、お前は。いつの間に現われた!」
 その声で他の傭兵達も振り返り、赤髪の少年に注目する。防寒マントに身を包んだ粗末な身なりの石人は、彼らにはもう一人の獲物と映ったらしい。ただし何人かは少年の手にある杖を、気味悪そうにちらちらと見ていた。
 キゲイはその隙に、傭兵達から這って離れた。蹴られた背中が痛くて、立ち上がるのが難しい。女の子は相変わらずひげ面にぶら下げられたままだったが、やはり驚いた様子で赤髪の少年へ視線を向けていた。
「その子を離してあげてくれませんか。同族がそんな目にあっているのは、見逃せません」
 赤髪の少年は、非常に真面目な口ぶりでひげ面に話しかける。もっともその左手には金属の杖を軽く握ったままだ。おまけにさりげなく、しかし脅しつけるように、杖の先を傭兵達へと向けている。キゲイを含め、その場にいる者達は皆、この少年が魔法使いであることを知る。
 それにしても、子どもというものは不便だ。若すぎるというだけで、侮られる立場にある。ひげ面が、地面を震わすほどの大きな低い声で少年を笑い飛ばした。
「幸運の女神よ! 今日はなんて気前がいいんだ! 石人の子どもが、二人も捕まえられるなんてよぅ」
「……痛い目にあうまで、分からないんだな」
 少年は呟いて、数歩身を引く。それに呼応して、他の傭兵達が杖を取り上げようと襲い掛かった。魔法使いは、杖で魔法をかけるものだと知られていたからだ。
 少年は思いがけない素早さで、杖をヒョイと横様に放り投げる。まるで犬に棒切れを投げて、取ってこさせるかのように。傭兵達は一瞬、その行動に戸惑った。結局半分が杖を追い、半分が少年を取り押さえようとする。
 杖を拾った傭兵が、ぎゃっと悲鳴をあげてひっくり返った。傭兵は白目を剥き、仰向けになって動けなくなる。小刻みに痙攣する傭兵の手には、杖がしっかりと握られたままだ。驚いた仲間が彼の手から杖を取り上げようとする。すると彼もまた、悲鳴をあげて隣に倒れこんだ。杖を追った他の傭兵達は、倒れた二人の仲間を遠巻きに囲い込み、少年の方へ目を向ける。
 少年はひとり悠然と立っていた。周りには数人の傭兵達が、杖に触れた傭兵同様手足を縮こめて地面に倒れている。彼らは少年を捕まえようと、彼の体に触れたのだ。他の傭兵達は戸惑った表情で、少年を遠巻きにした。
 杖を握ったままの傭兵が、苦しげなうめき声を上げた。彼の体はまだ、ぴりぴりと震えていた。少年はそちらに一瞥を投げただけで、女の子をぶら下げたままのひげ面に近づく。
「その子を離してくれますね」
 言葉は丁寧だが、有無を言わせない口調だ。ひげ面は、女の子を盾にでもするかのように、少年の方へ突き出した。
「仲間に何をしたんだ!」
「今はまだ、痺れさせているだけです。あなたにも触りましょうか」
「危ない!」
 キゲイは叫んだ。傭兵達の数人が、ごつい革ベルトを鞭代わりにして少年に殴りかかってきたのだ。ベルトの留金は当たれば相当痛いだろう。少年は腰をかがめ、右腕を上げて頭を守ろうとした。彼は奇妙なことに、右腕だけに籠手こてをはめていた。ベルトの留め金は籠手に当たって跳ね返る。ところが別の革ベルトが彼の横腹を打ち、少年は少しよろめいた。その隙にひげ面は、女の子を脇に抱えその場から立ち去ろうとする。女の子は両手でひげ面の腕をつかみ、両足をばたつかせて暴れる。
 キゲイはすかさずひげ面の大きな革靴へすがりついた。ひげ面はバランスを崩して、キゲイの隣に転んだ。当然女の子も巻き添えになる。ひげ面はキゲイの頭を蹴りつけ、女の子はひげ面の下敷きになって、悲鳴をあげる。
 道端には痙攣する傭兵数人と子ども二人が転がり、事態がどうにも収拾がつかなくなったそのときだ。
「貴様ら! 観念せい!」
 怒った男の声が、路地裏に響き渡った。鞘走りのかすかな音も。背の高い二人の男が、こちらへ大股に近づいてくる。初老の方は、白髪まじりの黄緑色の髪。もう一人の比較的若い男は、灰色の髪をしていた。特に黄緑色の方は、真っ赤な顔をして怒り心頭だ。剣を抜いていたのも彼だ。傭兵達はその剣幕にたじろいだ。
「ま、待てよ! 俺達だって、まだ抜いてねぇんだぞ!」
「ならば、抜け。ここはならず者の町だ。いさかいは当事者同士で解決する。それがここの法だ。だが、抜いた以上は容赦せん。これ以上その方を手荒に扱えば、わしが貴様らをまとめて成敗してくれるわ!」
 黄緑色はそうまくし立てて、ずんずん傭兵達の真っ只中へ入ってくる。彼の持つ剣は見るからに上等で切れ味も鋭そうだった。当然本人も老練の剣士といった風情で、半端なく強そうだ。灰色の方は不気味に黙ったまま、いつでも腰の剣を引き抜けるよう、柄に手を添えて様子を見守っている。
「ううっ」
 場の緊張を裂いて、傭兵の一人が呻いた。金属の杖を握ったまま倒れていた傭兵だ。彼は毒蛇を捨てるように杖を放り投げ、よろめきながら体を起こす。それと共に、痺れて倒れていたほかの傭兵達も、体を起こし始めた。皆、油汗で額をてからせ、足元はふらふらだ。
 黄緑色は凄まじい形相のまま、ひげ面の元へ歩み寄る。ひげ面は男に睨まれ、後ずさる。女の子が走り寄ると、彼は空いている方の腕で彼女を抱き上げた。そのまま剣を傭兵達に突きつけながら、灰色の隣まで戻る。彼は灰色の方へ何事か告げたかと思うと、剣を収め、その場から走り去った。
——ちょっと待って。僕達はどうなるの!
 キゲイは痛みに堪えながら、慌てて立ち上がる。赤髪の少年の様子を窺おうと顔を向け、キゲイは驚いた。
 少年の髪の色が、いつの間にか濃い栗色に変わっていたのだ。瞳の色も、ただの平凡な薄茶だ。そこら辺の人間の姿と変わらない。少年は目深にフードをかぶり、じっと事の成り行きを見守っていた。彼の周りには、革ベルトを手にした傭兵が数人立っていたが、彼らは少年の姿が微妙に変わったことには気づかず、灰色の髪の石人の方に注目していた。
「さて」
 一人残された灰色が、はじめて口を開く。
「そこの子ども達も解放してもらおうか。それとも、石人の魔法を見てみたいか?」
 灰色が、剣の鞘に置いた手に力を込める。
「もう魔法はたくさんだ!」
 赤髪の少年に痺れさせられた傭兵達が、吐き捨てるように叫んで真っ先に逃げ出した。それにつられて、他の傭兵達も我先に走り出す。
「……小僧、後で覚えてろよ」
 キゲイの耳元で、ひげ面が囁く。キゲイは凍りつく。ひげ面はそんなキゲイを置いて、最後に走り去る。後には、二人の少年と灰色の髪の男が残された。
「二人とも、怪我はないか」
 男は地面に落ちていた杖を拾い上げながら、二人に近づいてきた。少年はありがとうと言って、男から杖を受け取り懐にしまいこむ。体中打ち身だらけのキゲイは、ひげ面の捨て台詞に、いまだすくみ上がっていた。
「一体何があったのか、話してくれないか?」
 男の言葉に、少年はキゲイを振り返る。しかしキゲイが何も言わないと見ると、口を開いた。
「師匠に頼まれて買い物をしていたら、この子と、さっきの女の子が悪者に囲まれていたのが見えました。魔法を使って、助けようとしていたんです」
 それから男と少年は、再びキゲイに注目した。キゲイは記憶をたどる。傭兵達と色々ありすぎて、すぐには思い出せなかった。
「そのぅ、ええっと……。女の子が、あいつらのせいで檻に入れられていたから、出してあげたら、追いかけられて、あの子が転んじゃって……」
 思い返してみれば、自分はあんまりロクなことをしていない。転んだ女の子を避け切れずに蹴ってしまったし、ひげ面を転ばせたときには、彼女を巻き添えにしてしまった。あとは地面に倒れたまま、成り行きを見ていただけだ。自己嫌悪に言葉は最後まで続かない。
 男は少年とキゲイに丁寧な礼を述べた。
「できれば君達にお礼ができればいいんだが」
 キゲイはびっくりして首を振る。
「ぼ、僕は、いいんです。あの女の子が助かったんなら、それだけで。それより、こっちの人に」
 キゲイは、隣の少年を見上げる。少年はフードの両端を引っ張って、ほとんど顔を隠してしまう。
「お気になさらずに。私達もあなた方に助けてもらいましたから」
「二人とも、本当に立派だな」
 男は素直に感心してみせる。そんな彼を、キゲイと少年はそれぞれの胸の内を隠したまま窺う。
 男は懐を探り、二人の少年の手にそれぞれ一枚の硬貨を置いた。中央部は透明な紋模様の入った淡い黄緑色の石、外周部を銀が囲んでいる。石には魚のような彫刻、銀には蔦の彫刻がある。
「それは、私達石人の世界で使われる硬貨の一つだ。今日の記念になるだろう」
 二人が礼を言うと、男も再び礼を述べ、大通りの方へと立ち去って行く。キゲイはほっと胸をなでおろす。ところが男の後姿が見えなくなったとたん、キゲイは隣の少年に腕を捕まれ、民家の影に引っ張り込まれた。
「で、お前、エツ族なんだろう。アークラントの」
 少年の髪と瞳は、再びもとの不思議な色に戻っていた。どうも厄介事はまだ終わっていないらしい。キゲイの着ている服は、地読みの民、エツ族の衣装だ。相手がそれと知っているなら、身分を偽るのは難しそうだった。アークラント人からは地読みだの地読み士だのと呼ばれていたから、何だか自分の正体を見破られた気もする。キゲイは自然と身構えた。
「……なんで、僕達のことを知ってるのさ」
「ディクレス殿に、魔法使いとして雇われた。私は石人だが、お前達の味方だ」
「えっ?」
 キゲイは思いがけない言葉に、思わず聞き返す。
「味方って?」
「さっきの石人達の前で、人間に化けて見せただろう? あの少女には私が石人だとばれたが、まあいい。傭兵達の前で、身分を偽るわけにはいかなかった。天幕でまた顔を合わすことになるのだから。私はレイゼルトという」
 少年は無表情だった顔を少し緩めてみせた。キゲイと大して歳は変わらないのに、彼の方が何倍も大人っぽい。キゲイに向けられた炎色の瞳は相変わらず鋭いままだったが、今はどこか温かみも感じさせる。
「僕は、キゲイっていうんだ」
 相手の雰囲気にすっかり飲まれながら、キゲイは恐る恐る答える。
「その、ディクレス様に雇われたって、本当?」
「私は師匠にくっついてここまで来ただけさ。ようやく先王の本隊に追いついたから、会いに行こうとしていた」
「……もし分からなかったら、案内するけど」
「いいや。先王がどこにいらっしゃるかは知っている。ただ、会う前に、すませなくてはいけない用がある。悪いが、しばらく引き受けてくれるか? それほど難しいことじゃない」
 レイゼルトは懐に左手を突っ込み、銀色の薄い板を取り出した。キゲイはそれを受け取る。掌より少し大きめの長方形の板で、片面には驚くほど細かい植物の装飾があり、もう片方はつるつるに磨き上げられている。後ろの景色が歪み一つなく映り、手前に見える埃だらけの自分の顔も、ここまではっきりと見たのは生まれて初めてかもしれない。
「これもしかして、鏡っていうやつ?」
「魔法の、な」
 レイゼルトが短く付け加える。キゲイは鏡を表裏よくよく観察するが、魔法がかかっている気配はない。
「それ、預かっててくれないか」
「どうして? 大事な物なんじゃないの? それに随分高そうだよ。もし失くしたら」
「先王にお会いするとき、魔法使いが杖以外の魔法の品を持っていたら、取り上げられてしまう。だから、暫く預かって欲しい」
 レイゼルトは簡単に答える。
「構わないか? その鏡には魔法をかけておいたから、失くす心配はない」
 レイゼルトが強い視線をじっと据えたので、キゲイはたじたじとなった。レイゼルトの瞳はその燃えるような色のせいか、鮮烈な印象を相手に焼き付ける。この目はどうにも苦手だ。キゲイは相手の言葉に納得したというより、視線から逃れたくなって、もぞもぞと答える。
「ディクレス様は、人が大事にしているものを勝手に取り上げたりはしないと思うけど……、でも、ちょっとの間くらいなら、預かってもいいよ」
「ありがたい。頼んだぞ」
 レイゼルトは答えて、ぐらついていた右腕の籠手のベルトを左手で器用に締め直す。キゲイは首をかしげた。
「どうしてそっちの手にだけ籠手なんかはめてるの」
「小さい頃に間違いをして、右手を失くしてしまった。義手の代わりだ。お前も石人世界に入ったら、得体の知れないものに、むやみやたらと触れたりしない方がいいぞ。こんなになるからな」
 キゲイは身震いをした。石人の世界は、考えている以上に怖い世界なのかもしれない。
「その鏡、誰にも見せないようにしておいてくれよ。高価なのは確かだから。私は、ディクレス殿に会いに行く。また後で会おう」
 レイゼルトはキゲイに頷くと、大股で町外れへ歩き出す。傭兵に革ベルトで殴られた所が痛むのか、脇腹をさすりながら。

 キゲイはようやく、地読み士の皆がいる宿へと戻ってきた。色々あり過ぎて、まるで二日ぶりにでも帰ってきた気分だ。実際にはまだ夕暮れに程遠いから、思っていたより時間は経っていない。もっともそれはキゲイにとっての感想で、待っていた人にとっては必要以上に時間が過ぎていたらしい。
「遅かったじゃない! 何をしていたの!」
 東の里長は、もうカンカンだった。荒れる里長を前に、キゲイは事情を説明していいものかどうか悩む。レイゼルトのことはともかく、あの女の子や二人の石人の男達と関わりあいになったことは、話さないほうがいいように思われた。彼は既に人間世界と石人世界の境の森で、石人相手に大失敗をおかしているのだ。
「ええと、傭兵のおじさん達に絡まれちゃって」
 やっとのことでそれだけ告げると、里長はあきれ返る。
「だから、近づいちゃダメって言ったでしょ!」
「ち、違います」
キゲイはムッとして言い返す。里長はますます怖い顔になった。
「どう違うのっ」
「あいつらから、近づいてきたんだ!」
 キゲイはお使いの薬草をテーブルに叩きつけると、逃げるように宿の二階へ駆け上がる。どうしてこう、何でもかんでも失敗の原因を自分のせいにされてしまうのだろう。里長が階下から何か叫んだが、キゲイは聞こえなかったふりをして大部屋の一つに飛び込んだ。そこでは、昨晩境の森で徹夜の作業をしていた地読み士達が、既に横になって休んでいた。キゲイは姉と兄の姿を探して、二人の間の寝床に潜りこむ。
 もう、くたくただった。キゲイは掛布の下で靴の紐を緩める。ぐっすり寝て、何もかも忘れてしまいたい。
「キゲイ、里長と喧嘩したの?」
 隣の姉が、寝返りを打って仰向けになった。起こしてしまったらしい。
「里長も色々大変なんだから、あんまり困らせないでね」
「僕だって、ものすごく大変だったのに……」
 キゲイは脱いだ靴を掛布から出し、深々と溜息をつく。傭兵に蹴られた背中と頭がひどく痛む。目を閉じると、すぐに前後不覚の眠りに落ちていった。
 次にキゲイが目を覚ましたとき、辺りは真っ暗だった。眠る前はよろい戸の隙間から、午後の陽射しが室内に差し込んでいた。周りで眠っている地読み士達の姿も、ほとんどなくなっている。子どもが何人か寝ているだけだ。キゲイのお腹が鳴った。もうとっくに夜になっているのかもしれない。
 慌しい足音が階段を駆け上がり、室内へ飛び込んできた。
「キゲイ、起きなさい! 大変なことになったわ」
 キゲイの姉が、目をまん丸にして戸口に立っていた。キゲイが寝ぼけ眼のままぼんやりしていると、姉は彼の側に駆け寄り両肩を掴む。
「ディクレス様の所から、兵士の人が来たの! 石人と内通しているらしいから、取り調べるって。あんた、境の森で石人と会ったでしょ。それに今日のお昼だって、石人と会っていたって!」
 キゲイの目がいっぺんに覚める。
「誰がそんなこと言ったの!」
「ねぇ、あんた大丈夫なの?」
 姉はキゲイの言っていることに取り合ってくれなかった。
「石人に、変な魔法をかけられて、操られているんじゃない?」
「僕は、普通だよ!」
 キゲイは叫び返す。徐々に暗闇に目が慣れてくる。再び、階段を駆け上がる足音が響いた。安宿全体が、その振動でミシミシと唸る。姉がキゲイを後ろに庇い、素早く振り返る。キゲイは姉の背中越しから、新しく現われた人影を認めた。
「あっ!」
「おお!」
 キゲイの声に、相手が嬉しそうな声を返した。忘れもしない。あのひげ面の傭兵だ。彼は部屋の外に向かって、轟くような大声を張り上げた。
「兵士さん! こっちですぜ! こっちにいましたぜ!」
「いくらなんでも横暴よ! まず東の里長と西の里長に、事情を説明すべきだわ」
 姉がひげ面に食って掛かる。眠っていた他の地読みの子ども達も、何事かと目を覚ました。キゲイは脱いでいた靴を腰帯に挟むと、よろめきながら部屋のよろい戸へ駆け寄り窓を開ける。日暮れの冷たい風が吹き込んでくる。きっとこれは、傭兵達の仕返しに違いない。
「ディクレス様は、お忙しいんだよ。お、小僧、逃げるつもりか? やっぱり、怪しいぞ!」
「違う! 自分でディクレス様の所に行くんだ!」
 キゲイは怒鳴り返して、窓枠へ身を乗り出す。階下から、東の里長の怒鳴り声が響いてきた。あっちもあっちで、それなりに厄介なことになっているらしい。キゲイは二階の窓から、一階のひさしへ逃れ、地面まで飛び降りる。ひげ面の怒鳴り声を背に、町外れへ向かって走り出した。
 ところがキゲイが一人で逃げ出すことなど、傭兵達にとっては想定内のことだったらしい。キゲイの走る道へ、三つの影が躍り出る。
「来たな、このチビ! 貴様は俺達に、想像を絶する大損をさせたんだ!」
「手足を、引っこ抜いてやる!」
「口から手ぇ突っ込んで、靴下みたいに裏返しにしてやる!」
「うわぁぁ!」
 キゲイは悲鳴をあげて、町の中心部へと走り出した。他に逃げる場所など、思いつかなかった。
 人通りのある場所へ出ると、キゲイはほっとした。そして、ぎょっともした。昼とはうって変わり、まさにならず者の町に相応しい光景が目の前にあった。筋骨隆々の大男、用心棒を連れた金持ちの商人、目つきの危ないまじない師、前後不覚の酔っ払い、挙動不審の優男、怪しい品物を売る出店の怪しい店主。そんな連中が、通りにひしめいている。しかし、恐がってはいられない。すぐ後ろに傭兵達が迫っているのだ。キゲイは思い切って、通りへと踏み出す。
 新しい災難が、間髪いれずキゲイを襲った。変に黄色い顔をした痩せっぽちの小男が、揉み手をしながらキゲイの前に立ちはだかったのだ。
「あれぇ? 僕、ひとりなのぉ? この辺りじゃ、あんまり見かけない格好だねぇ?」
 ねちっとした猫なで声を出し、まばらな前歯をむき出して笑いかけてくるが、目は明らかに笑っていない。
「そうだ、おじさんが売ってる物を、見て行かなぁい? 面白いよぉ……」
 キゲイは何も答えられずに、じりじりと後ずさる。この痩せっぽちより、まだ傭兵達の方がましかもしれない。だがしかし、これはあんまりな二択だ。
「断る」
 不意にきっぱりとした声が、キゲイの肩越しに響く。後ろに、昼間会った灰色の髪の石人が立っていた。彼はキゲイの肩に手をかけ、そのまま通りの先を歩くよう促した。痩せっぽちは顔を歪めて腕を上げ、石人に向かって魔除けの仕草をする。キゲイは後ろを振り返った。五人の傭兵達がとうの昔に追いついていて、恐い顔で数歩後からついて来ている。
「すまなかった。我々に関わってしまったせいだな。心配したとおりだった」
 石人が呟く。キゲイは黙っていた。状況が好転しているのかいないのか、まったく判断がつかない。色々ありすぎて頭は混乱し、もう何一つまともに考えられなかった。
 石人は、歩きながら低い声で続ける。
「傭兵達の素性を、知っているか」
 キゲイは首を振った。
「アークラントは兵が不足している。数少ない兵は国境の守りについている為に、国内の治安が維持できていない状況だ。それにつけ込んで町や村を襲い、盗みを繰り返していたのが彼らだ。ディクレス先王は、国の南端から大空白平原へ抜ける秘密の峡谷を通り、共に石人の国の宝を探すことを条件に、どうにか彼らを国外へ出すことに成功したんだ」
 石人は、横目でキゲイを見下ろす。石人が背中を押さなければ、キゲイは危うく立ち止まってしまうところだった。
「あの、待ってください。なんで、なんで、そんなこと、知ってるんですか」
 石人に気づかれないよう行動してきた、今までの自分達の努力は一体なんだったのか。
「石人は、人間の世界に興味はない。だが人間が我々の世界に侵入してくるとなると、話は別だ。誤解はしないで欲しい。我々は、人間に危害を加えるつもりはない」
 石人は短く溜息をつき、ちらりと後ろを窺う。相変わらず、傭兵達がついている。
「今は、君の身の安全が先だ。先王には、傭兵達をどうにかできる余裕はないんだろう。傭兵達が野放しになっている以上、彼らも君を諦めない。あの魔法使いの少年はただの通りすがりだったようだし、彼に仕返しできない分、君に二倍返しするつもりかもしれない」
「じゃあ、僕はどうなっちゃうんですか……」
 キゲイは泣きそうになった。ディクレス様が傭兵達の言葉を信じて、宿へ兵士をよこしてきたことはショックだった。それが石人の言葉を聞いて、さらに心に響いてくる。キゲイは何度も、手の甲で目元を拭う。
 石人はキゲイを連れて、店の階段を登る。階段の絵を見ると、そこは古着屋のようだった。店の扉の前で二人は立ち止まる。傭兵達は腕組みをして、階段の下からこちらを見上げている。
「境の森を抜け、さらに一行程南へ向かった先に、石人の城がある」
 石人は、油断なく傭兵達を見据えながら言った。
「我々が白城はくじょうと呼ぶ場所だ。そこへ行けば、かくまってもらえる。恐らくディクレス先王も、石人の世界に入ればそこを目指すことになるはずだ」
「おじさんが人間に化けて、一緒にディクレス様の所に行ってくれませんか。そしたら、傭兵達の誤解が解けるし……」
 キゲイが涙声で訴えると、石人は申し訳なさそうに首を振った。
「できない。万一石人だとばれれば、取り返しがつかなくなる。……本当に、すまない」
 とうとうキゲイは、ガックリとうな垂れてしまった。絶望とは、このようなことを言うんだろうか。
「行きます。その白城とかいう所に……」
「では、今すぐ発とう」
 石人が店の扉を開け、キゲイを促す。キゲイが中に入ると、外の傭兵達が人さらいと騒ぎ出す。石人はそれを無視して、後ろ手に扉を閉めた。通りの喧騒が遠ざかる。
「主人、扉に鍵を」
 石人は店の主に告げると、陰気なランプの明かりの下で、古着の山を漁りだす。店主は、こういった厄介事は慣れっこらしい。繕い物を放りだすとすばやく扉へ駆け寄り、差し木を通す。直後、木板を砕かんばかりの激しいノックが扉を襲っていた。
「夜は冷える。石人の世界は、まだ冬の中だ」
 キゲイは、石人の差し出す羊毛のマントを受け取った。羽織ってみると、手頃なサイズだ。
 店主がきしむ扉を背に、むっつりと口を開く。
「そいつは銅貨八〇枚。扉の修理代をあわせて……、締めて銀貨八枚。それと、裏口はそこの奥」
 石人は銀貨八枚を次々と店主に投げ、キゲイを奥へと促す。
「今夜、君の仲間の一部も、境の森に入るようだ。かち合わないよう、少し遠回りする。強行軍になるから、覚悟して欲しい」
 その言葉を聞いて、キゲイは心の中で情けない溜息をつく。まったく、一体どこから大切な情報が石人達へだだ漏れしているのだろう。ふっと頭に、レイゼルトのことが思い浮かぶ。彼が原因ということは、ないだろうか。それからキゲイは、レイゼルトに託された物があったのを思い出した。服の上から触ってみると、あの銀の鏡は、キゲイの胸の内ポケットに、重みを持って静かにひそんでいた。

 境の森では、ディクレスに率いられた五十名ばかりの者達が、夜影に紛れて南を目指していた。有能な地読み士数名を先頭に、行軍に慣れた老兵達と雇われた魔法使い達が続く。徒歩の一行を照らす魔法の明かりは、星明りを模したかすかなものだった。
 やがて一行の行く手に、巨大な石柱が現われる。それは片面が人の形に掘り込まれてあり、その背面は一枚岩となっていて、びっしりと文字が刻まれている。彫像の顔は、長い年月と風雨に洗われて、なだらかな凹凸だけとなり果てていた。背面の文字は、アークラントの者達には読めなかった。石人達の言語と思われた。
「これが、人間世界と石人世界の境界という話です」
 地読み士がディクレスに説明する。
「あそこと向こうにも、石柱の影がご覧になれます。七百年前の両者の大戦の後、再び互いが出会い争うことのないよう、このような柱を平原の端から端まで並べて、境界としたそうです」
「では、この石柱の南側が、石人の世界になるということか。それにしても七百年といえ、石柱の風化が激しいように見える」
 ディクレスは彫像を眺め、風化を確かめるようにそっと手で触れた。ディクレスの後ろを歩いてきたローブ姿の若い男が、王の言葉に答える。
「石人の世界は魔法に満ちております。魔法の風もまた、石に影響を与えるのやも知れません」
 彼が予言者トゥリーバだった。自らの予言が成就するのをその目で確かめるため、また老いた王宮魔術師の代わりを務めるために、ディクレスと行動を共にしていたのだ。彼は身なりこそアークラントの魔術師風だが、真っ直ぐな黒髪や黄褐色の肌は、アークラントに古くから住む民族とよく似ている。
 トゥリーバは、石柱の傍に生えた木々の枝を縄で寄り合わせ、門の形にするよう地読み士達に指示する。人間が石人世界へ立ち入る際は、守りの魔法をかけた門をくぐって入るほうがよいと思ったのだ。
 一行は緊張の面持ちで門をくぐり、石柱を南へ横切る。最後の一人がくぐり終えたところで門を形作る縄を解き、元通りに木々の枝を開放する。
 石人の世界に入った実感は特になかった。周りの森の様子も、今までと変わった様子はない。森の獣達が息を潜めて、これら一行を窺っているだけだった。
「ディクレス様、困ったことが起きました。嫌な予感がします」
 先行していた地読み士の数人が、色を失って本隊と合流してきた。彼らの報告を聞くと、トゥリーバは細い眉を吊り上げた。
「愚か者が。昨日木がなかった所に、今日木が生えているだと? 無視して進め。不吉なことを申してはならん」
「ですが、しかし。せっかく作った地図が、役に立たなくなってしまいました」
「まずは、そこまで行ってみようではないか」
 ディクレスはそう言って部下達をとりなす。地読み士達が、再び先へ行ってしまったのを見届けると、彼はトゥリーバを振り返る。
「地読みの少年がひとり、行方をくらませたと聞いたが……」
「少年と石人に、関係があるかどうかは分かりませぬ。傭兵達が何か申しておりましたが、どうにも信用がおけません。それよりも、石人達が我々の行動に気付いていなければよいのですが」
 トゥリーバは声を潜めた。
「いずれにせよ、私の夢見では、あの少年が何か憂慮すべき要素になることは考えられません。少年の件はラダム老将軍にお任せしましたので、先王がお気になさる必要はありませぬ。老将軍は、兵を数名調査に当たらせると仰っていました」
「そうか」
 トゥリーバはそれから、森を見渡す。同行している魔法使い達も、なにやら落ち着かない様子に変わっていた。
「魔法の匂いが、森の奥からいたします」
 有能な魔法使いでもある予言者の言葉に、ディクレスも暗い森に険しい表情を向ける。
 一行の行く手に、密に生えた針葉樹の黒い影と冬枯れの茂みが立ちはだかった。少年と老人の二人が、ディクレス達を待っていた。少年の髪は、木々の枝から差し込む星明りに、深い緋色をかえしている。隣に立つ人間の老人は、少年同様粗末なローブをまとい、身長ほどの長い杖を持っている。少年はレイゼルトであり、老人はレイゼルトの師を名乗っていた。
 老人はディクレスの姿を認めると、恭しく礼をする。一方レイゼルトは師の後ろで、体裁程度に頭を下げただけだった。レイゼルトは一本の木を手で示しながら、ディクレスとトゥリーバに報告する。
「ご覧ください。この木はまやかしです。この棘だらけの茂みも幻に過ぎません。同じく、幻の丘や崖も出現しております」
「昨日調べたときには、これらは一切なかったんですよ」
 地読み士が地図を片手に、情けない声で付け加えた。
 ディクレスはレイゼルトの示した木に手を伸ばす。先王の手が、木の中にふんわりとめり込んだ。そっと手を引き出すと、明るい色の薄い霧が手にまとわり付き、やがて霧散する。木の像は、変わらずそこにあった。
「これは石人の魔法か」
「はい」
 ディクレスの言葉に、レイゼルトは答える。トゥリーバも鋭い視線で辺りを窺う。
「かなり広い範囲に、魔法がかけられているようだが」
 レイゼルトはその言葉に頷く。
「地読み士達が把握しているよりも広範囲にわたって、このように術がかかっています。奥行きは、恐らく森を抜けるまで。ただひとりの術者がこれを成したようです。これだけの範囲に術をかける以上、よほどの魔力の持ち主。人間の魔法使いでは、とても太刀打ちできません」
 レイゼルトの最後の言葉に、トゥリーバはあまり良い顔はしなかった。
「では、お前は解けるのか」
「解く必要があるのでしょうか」
 トゥリーバはディクレスに向き直る。
「彼が申すように、所詮は幻に過ぎません。幻術をほどくにも、雇い入れた魔法使い達だけでは荷が重く、消耗が激しいでしょう。ディクレス様、いかがいたしましょう。この先にまだ何か罠があるやもしれませぬ」
「害がないなら、幻術はこのままで良い。存在しないものが見えるのは厄介だが……。このまやかしは、穏当な警告ということか。魔法の力を誇示し、我らを引き返させたいならば、他にもっと効果的な方法があったろう」
 ディクレスは答え、考えごとをするように、顎に片手を添える。幻自体に害はないとはいえ、実際の地形が見えない場所を歩くのは、時間が余計にかかるだけでなく、危険でもある。
 レイゼルトが、ディクレスに向かって一歩前に出る。
「この魔法をかけた者を探し、その実力の程を確かめに行っても良いでしょうか。この幻術がかけられたのは、今朝以降でしょうから、術者はそれほど遠くへ行っていないと思うのです」
「ならん」
 厳しく答えたのは、トゥリーバだった。
「我々はまだ、お前を信用しておらぬ。勝手な行動は、慎むのだ」
「だからこうして、先王にお伺いをたてているのです」
 レイゼルトはぴしゃりと言い返し、ディクレスの方をまっすぐ見つめる。先王は苦笑した。レイゼルトを雇ったのは自分だし、そのレイゼルトがお抱え魔術師に喧嘩腰では、彼も立つ瀬がない。
「行け。しかし何かあれば、我々の所に戻ってきてはならんぞ」
 先王の言葉を受け、レイゼルトは初めて丁寧なお辞儀をする。そして一目散に森の奥へと駆け出す。幻の中へ身を躍らせ、彼の通った場所だけしばらくの間、像が乱れていた。彼には森の実体が見えているらしかった。
「申し訳ありません。礼儀のしつけが、まだ十分ではなかったようで」
 レイゼルトの師である老人が、先王と予言者に詫びる。ディクレスは笑って答えた。
「それは構わんが、あの子に袋いっぱいのパン屑でも持たせておくべきだったかもしれん。さて、出発することにしよう。地読み士達よ、森の姿が偽られた今、お前達の地図だけが頼りだ。我々を、石人の縄張り奥深くへ導いてくれ」

三章 白の王

 荒野を縁取る遠く青い山並みの向こう。丸く白い月がかすかに泡立つ光を放って、星々と共に沈もうとしている。向かいあう東は茜色の雲を二筋引いて、金の光に大地の稜線をにじませる。空半分、夜は西の彼方へ追いやられようとしていた。
 レイゼルトは、境の森の外れに立っていた。天を貫いて朝と夜の狭間に立つ、巨大な白い山の全景を見据える。朝焼けの空気の向こうに霞むその山こそが、石人世界において白城と呼ばれる場所だった。
 目を凝らせば、この距離からでもその山肌に、人工的な造形物が構成されているのが分かる。レース編みにも見えるアーチの連続、それが支える巨大な橋、幾重にも重なる長い回廊、階段状の屋根を持った家々、雲を突く六角の塔、高くそびえるのは崖ではなく、山肌に穿たれた高層の館だ。それら全てが、白色の石材で構成されている。
 山は人工物だけで覆われているわけではない。橋の下には、黒い森があった。森からは同じく黒々とした蔦が伸び、橋脚を覆っている。高層の館の前には、かつては豊かだった耕地があった。今は茶色の荒れ野となり、崩れさった北側の塔が大きな残がいとなって横たわっている。
 レイゼルトは知っていた。その城が滅び、眠りについたのは七百年前。しかし無人ではない。王族の末裔が、今もそこで暮らしている。そしてその者こそが、森に幻術をかけた張本人と思われた。問題はその人物が城のどこに住んでいるかだ。レイゼルトもさすがにそこまでは知らない。探すにしても、城はあまりに大すぎる。時間を無駄にはできなかった。
 そのときレイゼルトの感覚は、かすかな魔力の軌跡を捉えた。あの銀の鏡が発する、ある種の気配だ。気配は、真の持ち主であるレイゼルトだけが嗅ぎ取れる。それは、白城へ向かって消えていた。
——大半の地読み士は、まだタバッサにいるはずなんだが。あの少年に、何があったんだろうか。鏡の軌跡に誰かが通った痕跡すらない所を見ると、あいつは一人ではないな。随分巧みに、足跡を消したものだ。……彼を石人の世界へ連れ込んだのは、誰だ。何のために。
 レイゼルトはしばし思いをめぐらせる。
——まあいい。おかげで、幻術をかけた者を見つけやすくなったかもしれない。
 それから彼はおもむろに森へと引き返す。一本の木に登り、太い幹の上で楽な姿勢になる。
——見立てによっては、再起不能にしておく必要もあるだろうな。アークラントには邪魔な存在になるかもしれない。
 彼は幻の魔法を編み、自分の姿を枝の一本に偽った。たとえ石人の魔法使いが見ても見破られないよう、念入りに。彼はマントにくるまって、しばし休息することにする。長い間人間世界にいた彼に、石人世界の空気がはらむ魔力は刺激が強すぎた。石人ゆえに彼は土地の持つ魔法の力に敏感だった。ここにじっとして故郷に体がなじむまで、奥地から届く魔法の風に身を慣らさなくてはならない。

 夢うつつに、キゲイは迷っていた。
 自分が柔らかな布団の中にいることは感じていた。布団はかぎ慣れない匂いだが、なんとも居心地がいいのだ。一方で、胃のよじれるような激しい空腹感と、寝返りをうつのもおっくうな疲労感が、体中を支配している。起きて何か食べ物を探すか、このままもう少し、いつものように姉が叩き起こしに来るまで寝ていようか。頭の中でぐるぐる考える。
——ん?
 キゲイはふと気がついて、目を開ける。茜色に染まる古びた石壁が、目の前にあった。記憶にない光景。そういえば、こんなふかふかの布団に寝たのも生まれて初めてだ。重たい体を何とかひき起こす。
 彼は、簡単な作りのベッドの上にいた。部屋は石造りで広くはない。壁に造り付けられた暖炉と、小さなテーブルに椅子が一脚。開け放たれている縦長の窓からの光で、全てが茜色と橙色に染まっている。部屋の壁は歯抜けとなった色タイルの列と、模様の描かれた剥がれかけの漆喰でまだらだ。ゆるい山形の曲線をした天井にも、壁からの模様が続いて描かれている。こちらも剥落がひどい。きっと以前は部屋中美しい模様で飾られていたのだろう。暖炉でぱちんと火花がはじけた。
 キゲイはようやく、今までのことを思い出す。灰色の髪をした石人と、境の森を抜けた。森を抜けて彼が最後に見たのは、起伏の激しい荒野と、星空の下にそそり立つ高い山だ。たしか石人は、あの山を指差して白城だと言った。山が城なのか、城が山なのか。しかし彼の方は眠たくて眠たくて、まっすぐ立っているのも難しかった。
 その後の記憶がない。眠たいなりにも、歩き続けたのだろうか。それともあの石人が、自分を担いでここまで運んでくれたのだろうか。いずれにせよ、白城の中に居ることは間違いないようだ。
 キゲイは用心深く辺りをうかがうと、靴をはき、椅子の背にかけられていた上着をはおる。そして窓にそっと忍び寄って、外を覗いた。
「うわぁ……」
 キゲイは思わず身を乗り出した。窓の外は、小さな庭だった。ところが周りを囲んでいるのは、信じられない高さの建物だ。空がひどく遠く見える。建物同士の隙間から日の光が差し込み、そのおかげでこの奥深い庭も真っ暗ではない。それにしても、周りの建物に人の気配が一切ない。庭も荒れ放題だ。辺りは重苦しいほどに静まり返っている。
 キゲイは、ひどく心細くなった。まるでこの世に、ひとりぼっちにされたみたいだ。いてもたってもいられなくなって、部屋の扉を開けて外へ出てみる。
「えぇ……?」
 部屋の外は、広い庭に面して柱が建ち並ぶ、吹きさらしの廊下だった。しかも、馬鹿みたいに長い。右を向いても左を向いても、どこまでもまっすぐに伸びている。そして廊下の壁も複雑な装飾の入った多角形の柱も、薄汚れてヒビだらけだった。今にも崩れてきそうだ。
——なんだか、寂しいところだなぁ……。
 辺りは徐々に、暗くなり始めている。
——夕方だったんだ。
 キゲイが途方にくれてあたりを見回していると、廊下の先にぼんやりと明るい場所があることに気づいた。不思議な感じのする白っぽい光だ。恐る恐る近づいて行ってみる。その間に、夜が駆け足で迫ってくる。明かりは廊下を途中で曲がった先の、半開きの扉の向こうから漏れていた。
 特徴のある高い澄んだ声が、キゲイの耳に入る。半開きの扉の向こうからだ。隙間から遠目に覗いてみると、キゲイの知っている姿がそこにあった。
 あの、黄緑色の長い髪をした女の子だ。側には、扉の隙間から見切れるものの、傭兵から彼女を助けた黄緑色の髪をした石人が、大きな体を曲げてひざまずいているのが分かる。彼は手に木のコップを持って、女の子に渡そうとしている。しかし女の子の方は偉そうに両腕を組んで、そっぽを向いている。彼女は再び何か言ったが、その言葉はキゲイには分からなかった。多分、石人語だ。
「トエトリア」
 今度は、穏やかな若者の声が聞こえてくる。
「あの傭兵達が君に飲ませた眠り薬は、質が悪くて、一つ間違えば大変なことになっていたんだよ。それを飲んで、少しずつ体から毒を洗い出さないと」
 若者の言葉は「言の葉」で、キゲイにも何を言っているのか理解することができる。
 女の子は若者の言葉に納得したのか、ようやくコップを受け取り、一気に飲み干した。
「それで良うございますよ、姫様」
 隣の石人も「言の葉」で答え、そして、キゲイの方へと顔を向けた。目が合う。戸口にいたキゲイは、息を呑んで身を引いた。その背中に、何かが当たった。キゲイは驚いて扉の取っ手に飛びついた。かろうじて扉にすがりつきながら後ろを向くと、大人の男がひとり立っている。部屋から漏れる明かりでぼんやりと照らされた男の頭髪は、青色だ。顔立ちにも見覚えがある。他でもない。彼は境の森で、キゲイが生まれて初めて会った石人だった。
 相手は無表情のまま、顎を上げ気味にじっとキゲイを見下ろす。キゲイは目をまん丸にしたまま、見返すのが精一杯だ。
「誰かな、そこにいるのは。入っておいで」
 この奇妙な睨み合いを中断させたのは、再び部屋の向こうから聞こえてきた、先ほどの若者の声だった。
 青髪の男が扉に手をかけ、半ば力づくでキゲイを部屋の中へと押しやる。
 部屋は広く、昼のように明るかった。光は、天井からぶら下がっている複数の青銅の皿からくる。皿には幾本も水晶の柱が蝋燭のように立っていて、それが白っぽい光を放っている。部屋の中央には五十人用くらいの大きな長い食卓がある。さらにその向こうは壁で、床より一段高いところに広い窪みが彫り抜かれていた。そこには小さいながらも立派な座卓と、植物の彫刻に縁取られた美しい背もたれ付きの座椅子が、しつらえられている。
 その壁の掘り込みのふちに、年の頃は十七、八といった感じの石人の若者が座っていた。顔立ちには、鋭いところがまったくない。少しくせのある短髪は、恐らく純白だ。肌色はアークラント人よりは色白かもしれない。机や座椅子が立派な割には、身につけている物はそれほど高級そうには見えなかった。暗緑色の厚手のチュニックに、膝丈の渋茶の上着を羽織り、藤色をした幅広の帯で締めている。下には、ゆったりした生成りのズボン。非常に簡素だ。
 青髪の石人が、キゲイの後ろで扉を閉めた。彼は部屋の右手に開いたアーチをくぐって、隣室へ消える。彼の衣装も、外形は白髪の若者とほぼ同じだった。しかし袖や襟元には凝った刺繍が入り、房のついた薄布を金の鎖とともに腰に巻いて、非常に見栄えがする。
「ええっと、名前はキゲイでよかったかな。こちらへ」
 白髪の若者はふちを登って座椅子におさまり、キゲイに手招きする。キゲイは促されるまま、長テーブルでも一番若者に近い席に歩み寄る。
「白城へようこそ。僕はここの城主、ブレイヤールだ」
 キゲイが椅子に浅く腰掛けると、彼はそう言った。人の良さそうな、優しい笑顔だ。
「事情は、トエトリア王女とシェド……君をここまで連れてきてくれた、灰色の髪の人だよ。その二人から聞いた。必要なだけここに居るといい。歓迎するよ」
「あ、ありがとうございます……」
 キゲイは中途半端に頭を下げる。空腹のせいかもしれないが、頭が全然働かない。自分が石人の城にいることも、まだ信じられなかった。今は、何も考えない方がいいかもしれない。
 パタパタと軽い足音を響かせて、黄緑の髪の女の子がやってくる。彼女はキゲイの向かいの席に片膝を乗せて、机に身を乗り出した。
「ごめんね。君を巻き添えにしちゃって、まさかここまで大騒ぎになるなんて、思わなかったの」
 同じく、黄緑色の髪をした初老の石人もトエトリアの後ろにやってきて、申し訳なさそうな顔をキゲイに向ける。
「我々は、この白城からさらに南方にある、黄緑の城の者です。こちらは、黄緑の城の王女。今回は本当に、ご迷惑をおかけいたしました」
 初老の石人があまりに深々と頭を下げたので、キゲイは戸惑ってしまう。
「このおじいさんは、黄緑の城の王室騎士団長」
 ブレイヤールが簡単に紹介する。
「あのぅ、その、お姫様って……」
 キゲイはブレイヤールの方を向いて、言葉を詰まらせる。
「君は王女様を、悪者から助ける手伝いをしてくれたんだ。すごいじゃないか」
 ブレイヤールは快活に答えた。
「僕も一応はこの城の王族だけれど、そうかしこまることはないよ。僕らは、石人にとっての王族に過ぎないんだから。それより、腹が空いているだろう? 仕度ができたようだ。夕食にしよう。キゲイ、食べられない物はある?」
「ええっと、大丈夫です。キノコは嫌いだけど……」
「そうか。人間も石人も、似たようなものを食べるってことだね」
 キゲイの返事に頷くと、ブレイヤールは卓上のベルを取って、カランカランと鳴らす。するとまもなく、廊下の扉や隣室からの扉が開き、次々と石人達が部屋に入ってきた。奇妙なことにその全てが、ものすごいお年寄りだ。皆髪は白かったが、ブレイヤールのようにはじめから白かったのか、歳をとって白くなったのか、分からない。ただ彼らの髪はブレイヤールと違い、暖炉の火や天井の照明に透けて、きらきらと輝いていた。そしてやっぱり皆、それぞれに凝った服装をしていた。最後にあの灰色の髪の石人が戸口に現われて、キゲイに気がつき会釈した。彼もトエトリアの家来の一人だったわけだ。
「これはこれは、はじめてお目にかかる」
 キゲイの向かいの席に、バター色の髪と髭の、厳格そうな老人が座る。他の老人達より少し若くて、六十代くらいだろうか。白地に細かい金紋様の入った衣装は、一際目をひいた。
「主君が適当な服を着ておっても、家臣の方は常に身だしなみに気をつけねばならん。わしはこの白城の大臣、ルガデルロと申す」
 キゲイは大臣に頭を下げる。石人の名前は、キゲイにはまだなじみが薄い。頭を上げたときには、大臣の名前など、すっかり忘れ去っていた。
「白城は滅びて国民もいないのに、大臣だなんて」
 機嫌の悪い声が聞こえたと思ったら、青髪の石人が、鉄の鍋を片手にキゲイの後ろに立っている。彼は鍋の中の食べ物をおたまですくい、キゲイの前に置かれた椀に、べたり、ぼたり、とよそう。
「白の王子はともかく、家来の役職なんか意味ないじゃないですか。俺達全員、失業状態ですよ、大臣殿。あ、キゲイ、俺はグルザリオだ。王子の目付けをやっている。その他の雑用が多いがな」
 彼は仏頂面のまま、おたまを鍋の中に突っ込み、キゲイに尋ねる。
「昨日の夜から、大して食ってないんだろ? これ、もっと沢山ほしいか?」
 キゲイは慌てて首を振った。彼の前にはすでに、全体的に灰色の粥状のものが、椀から零れ落ちるまでに取り分けられている。グルザリオは、鍋を持って別の石人の所へ移って行った。キゲイは怪しいものでも見るように、椀に盛られた食べ物をじっと観察する。
 それは、灰色の穀物をどろどろになるまで煮た物らしく、赤イモや大根などの根菜、その他緑や紫の菜っ葉、黒い豆が混ざっている。なんともいえない色彩の取り合わせだ。死ぬほどお腹が空いていたのに、胸が一杯になってくる。その間にグルザリオは粥を配り終え、長テーブルの数か所に、薄切りの肉らしきものが乗った大皿を置いて行った。
 壁の掘り込みを見上げると、ブレイヤールとトエトリアが座卓に向かっていた。卓上にはやはり灰色の粥が載っていたが、二人は王族であるためか、料理が一品多い。
 ブレイヤールのは、杏色をした正体不明の瑞々みずみずしい団子。トエトリアの方は、薄切りの燻製くんせい肉。
 夕食は、ブレイヤールが自分の料理に手をつけるのを合図に始まった。キゲイは心の中で、溜息をつく。地読み士の里での食事の方が、まだましかもしれない。木さじで粥をすくい、一口食べてみる。大地の香りが喉の奥から鼻先をかすめた。端的に言えば、土臭い。薬草の味が強く、おいしくもなければ、意外とまずくもない。大皿の薄切り肉は、ほとんど油と塩の塊だった。粥に溶かして、塩味を足すだけのものらしい。
 周りの老人達は食事より会話に夢中で、合間合間、灰色の粥を無感動に口へ運んでいる。もしかしたらこれは、彼らの体に合わせた薬膳料理なのかもしれない。一方、二人の王族は、黙々と食べていた。トエトリアは難しい顔をして、灰色の粥をもぐもぐとしている。彼女にとっても、この粥はおいしくないらしい。ブレイヤールの方は食事をしながら、何か考え事をしているようだった。
 慣れない場所で、まわりは石人ばかり。理解できるのは周りの石人達が話す「言の葉」だけだ。天気と腰痛と今年生まれる子羊の話題が、大半を占めている。つのる心細さを振り払うように、キゲイは粥に集中した。幸い一口食べるごとにお腹が落ち着いてきて、重たい疲労感も薄れていく。
「キゲイ」
 いつのまにか、ブレイヤールが褐色の瞳をこちらへ向けている。彼はまだ何かを考えている風だった。
「後で、僕の部屋に来てくれないか? この城で過ごすのに、知っておかなくちゃいけないことが、幾つかあるし、君が仲間達の所へ戻る時期についても、少し話しておきたいし……」
 キゲイはその言葉に、ほっとして頷いた。城に泊めてくれるだけではなく、キゲイが帰るときのことも、ちゃんと考えてくれているようだ。
「キゲイ! 夕ご飯、それだけじゃ、足りないでしょ」
 トエトリアが、すかさず口を出してきた。
「このお肉、あげる。香ばしくて、おいしいよ。こっちのは、なんて名前だったっけ。ミルクの膜と何かのスパイスを混ぜてつくった、水煮のお団子らしいわ」
 トエトリアが燻製肉の皿に杏色の食べ物を添えて、キゲイに差し出す。ミルク団子はともかく鹿肉はありがたかったので、キゲイは少し上ずった声で礼を言い、素直に受け取った。団子は香料が効きすぎて個性的な味だったが、鹿肉は本当においしかった。
 食事がすむと、淡紅色の髪をした老婦人がつと寄ってきて、お風呂に入るように言った。
「みそぎの意味もあるのだけど、それより、旅で埃だらけですからね。お湯に浸かれば、疲れも溶け出しますよ。服も洗濯します。代わりにこれを着ていらっしゃいな」
 差し出された着替えを受け取り、優しげな老婦人に続く。「みそぎ」と言う言葉には、おそらくキゲイの体にくっついている、人間世界の埃や匂いを拭うという意味があるのだろう。あまり体を洗うのが好きでないキゲイも、ここは素直に従った方がいいと考える。
 日は既に落ちて、部屋の外は暗闇に包まれている。老婦人が手にした輝く水晶の明かりを頼りに、終わりのないような廊下を進む。いくつもの角を曲がったために、キゲイはもとの部屋が分からなくなってしまった。大迷宮のような城だ。
「後でまた、迎えがお越しになりますよ」
 老婦人は浴室の前で、そう言ってくれた。彼女の言葉遣いにキゲイは首をかしげたが、何も言わなかった。
 キゲイはひとり、脱衣室に入る。部屋は相変わらず古びた様相だ。浴室への入り口から白い明かりが差し込んで、脱衣室をぼんやりと照らしている。
 浴室は、キゲイがこの城ではじめて見た豪華さだった。床一面に、幾何学模様が砕いた白タイルで描かれている。所々タイルが剥がれているものの、白の曲線が様々な淡い色合いをした石床の上で踊っているさまは、見事だ。すぐ脇の壁際からは、暖かい湯が小さな滝になって注いでいる。お湯は床を一段掘り下げた水路を流れて、薄暗い部屋の奥へ消えていた。浴室の中ほどには四角い穴が三つあり、湯気の立つ湯が溜まっている。人の姿はない。
 キゲイはお湯の滝に当たって、頭からつま先まで汚れを落とす。きれいになるだけなら、これで十分だ。しかし「みそぎ」のために、慣れない湯船の一つへそろそろと身を浸した。思っていたより気持ちがいい。体が温まるとともに、今まで張り詰めていたものが、ゆるくほどけていくようだ。
 一人きりになれてよかった。湯船から石床の上に片腕を出し、その上にあごを乗っけた。そして、肺が空っぽになるまで、心底深い息を吐く。
 これから、自分はどうなるのだろうか。そして、いつまでこの城にいればいいのだろうか。さっぱり見当もつかない。おまけに突然いなくなったから、里長や姉や兄は、ひどく心配しているだろう。傭兵の言いがかりで、地読みの皆に迷惑が掛かっていないといいのだが。
 しかし今回のことは、石人を知る良い機会ではないのだろうか。ここで知ったことをアークラントの皆に話せば、役に立つかもしれない。
 すぐにキゲイは、いやいや、と首を振った。レイゼルトの存在を思い出したのだ。石人のことは、彼が皆に説明できるだろう。そうなのだ。キゲイの力を必要としている人なんか、どこにもいない。
——僕、また失敗して、ここにいるだけなのかぁ……。
 鼻の奥がつーんと痛くなる。キゲイは鼻をこすって、別のことを考えることにした。白城のことだ。
 夕食に現われた石人達は、四十人くらいだった。それがこの城の全住人なのだろうか。しかもよぼよぼの人達ばかり。そういえば、青髪の石人が言っていた。白城は滅びたと。人も建物もよぼよぼボロボロなのは、そのせいか。
——この城で僕ができるのは、これ以上ヘマをしないってことだ。
 もしあの白髪の王子にアークラントのことを聞かれたとしても、絶対に黙っていよう。そう決心する。
 キゲイは風呂から上がり、新しい服を身につける。汚れた服の内ポケットからは、銀の鏡を取り出した。レイゼルトに預かってくれといわれた品物だ。鏡は、浴室からの明かりで、ぼんやりとにぶく輝いている。
——こんなところまで持ってきちゃったけど、よかったのかなぁ……。持ち逃げしたなんて、思われてなきゃいいけど。困ったな。
 キゲイは銀の鏡を、服の前合わせの隙間から懐にそっとおさめた。
「冬の尻尾を踏んづけろ!」
 廊下へ出るなり、キゲイの目の前にトエトリアが躍り出た。もちろんキゲイは驚いて飛びのく。トエトリアは輝く水晶を片手に、ニコニコしながら立っていた。彼女の姿に、キゲイはひやりとする。トエトリアの色味のない純白の肌は、人間の彼にとっては不気味の一言だった。特に、こんな暗い場所では。トエトリアの方は、キゲイのことなどお構いなしにマイペースだ。
「びっくりした? 私、春迎えのお祭りが待ち遠しいの。ほら、これ。体冷やさないでって」
 彼女は相変わらずのんびり上機嫌で、厚手の上着をキゲイに差し出す。詰め物が入って、少し重いが暖かそうだ。
「ブレイヤールの部屋に案内するね。ついて来て」
 そう言うと、先に立ってさっさと歩き出す。キゲイは上着に袖を通しながら、おいて行かれないよう急いで追いかけた。
 トエトリアの歩調に合わせて、彼女の腰に下がった銀の飾りが、しゃらしゃらと音をたてる。それは暗い廊下にどこまでも響いた。城はあまりに広く複雑で、その多くの場所が闇の中にある。
「あの……」
 キゲイは廊下に声が響かないよう、小声でトエトリアの背中に声をかける。
「何?」
 彼女は振り返らずに返事した。彼女の声は、腰飾りよりも鋭く闇に響く。
「あの、きみ……じゃなくて、あなた様は黄緑の城の王女様なんですか? でも、黄緑って……?」
「石人の世界には、十二個の城があるの」
 トエトリアは歩調を緩めてキゲイの隣に並ぶ。彼女は自分の長い髪をつまんで、キゲイに見せた。
「それぞれの城は、王族の髪の色にちなんで、黄緑の城とか灰の城とか呼ばれてるの。どの城も山みたいに巨大で、そこに王族も貴族も国民も、全ての人が住んでる。城には、畑も森も川もある。だから石人にとっては、城がひとつの国でもあるの。人間達は『領地』が、国なんでしょ?」
「うん、多分……。石人の人達は、城以外の場所には住まないんですか?」
「他の場所は、魔物とか恐い精霊とかで一杯だもの。他のもので溢れていて、私達のいる隙間がない。無理よ。ところで、私のことは、トエトリアと呼んでね。ブレイヤールが言ってたけど、私は人間の前じゃ王族じゃないもん。でもね、本当は名前の呼び方ってちゃんとしてないと、大人達がうるさいの。白城の大臣さんとか、うちの王室騎士団長とか……。人間でも石人でも、私のことはトエトと呼ばないといけないらしいの」
「で、でも……。『トエト』は呼び捨てじゃ……」
「尊称だから、『様』はつけなくていいんだよ。石人の名前は、二つに分けられるの。私の場合は、トエトとエトリア。最初の名前は、神様の名前を表していて、尊いの。だから、ものすごく目上の人なんかは、こっちの名前でしか呼んじゃいけない。後ろの名前は、家族とか親友とか、特別親しい人達の間でしか使わないよ。両方の名前をあわせて呼ぶのが、一番普通」
「それじゃあ、この城の王子様のことは?」
「ブレイ。でも本人は、『音感が悪い』って、気に食わないみたい。私は彼のこと、時々、白王はくおうって呼ぶことがあるわ。ブレイヤールってちょっと長くて言い難いから、あなたもそうするといいかも」
 二人は大広間ほどの幅を持つ廊下を横切り、大きな木の扉の前までやってきた。扉には曲線を主体とした幾何学模様が彫刻されている。線はうねって、水の波にも蔦にも見える。
「ここがブレイヤールの部屋」
 トエトリアは、扉についた輪っかを握り、扉をこつこつ叩く。
「キゲイ、押して開けて」
 キゲイは扉の取っ手に手をかけて、押してみる。かなり重い扉だ。両手を突いて体重をかけると、ようやく一人が通り抜けられそうな隙間が開く。キゲイの期待に反して、扉の向こうは真っ暗だった。トエトリアが真っ先に扉の間をすり抜ける。
「ここは?」
 キゲイは周りを見回しながら、トエトリアにそっと尋ねる。扉の向こうで、二人は水晶の明かりの中に取り残されていた。周りは一切の真っ暗闇で、明かりを照り返すのは足元の床だけ。かなり広い空間が二人の周りに広がっているらしい。声も足音もよく響く。空気はよどんでいて、かび臭い古い匂いがする。
「白城の大図書館よ」
 トエトリアは何の目印もない真っ暗闇を、水晶を掲げて迷いなく進んでいく。
「彼はとっても本が好きだから、ここに住んでるの。暇があれば本棚のどれかによじ登ってるみたい。えーと、そろそろ右に曲がらなくっちゃ」
 二人の行く手に、暖かい色合いの光が現われる。それは一つの部屋から漏れている。部屋の入り口には厚手の織物が下がっていた。二人は織物をくぐって、中へと入る。
「いらっしゃい」
 ブレイヤールが書き物から顔をあげた。
 部屋はそれほど広くはなかった。部屋の壁数カ所の窪みに、それぞれ蝋燭が燃えている。蜜蝋のろうそくらしく、室内にはほのかなよい香りが漂っていた。素朴な造りの書見台とスツールが窓際に、そして小さな暖炉に火が灯っている。暖炉の赤い照り返しは天井へも伸びていて、天井の輪っかからつるされた糸束を照らし出していた。糸束は部屋の隅に置かれた簡素な織り機につながっている。その脇にはベッドがあり、毛布が数枚、きちんと畳んで重ねてある。小ぢんまりとした、居心地の良さそうな部屋だ。だが、とても王族の住む場所には見えない。
 ブレイヤールは、部屋の真ん中にある小さな丸テーブルにいた。彼は手元の紙を脇にやり、素焼きのランプの灯りをテーブルの中央に戻した。
 トエトリアは水晶の明かりを消し、テーブルの椅子にちょこんと腰掛ける。キゲイも促されて、椅子に座った。水晶の明かりがなくなると、この部屋には魔法らしいものは何もなくなる。キゲイにはそれが少し不思議な気がした。
「それじゃあ、ちょっと話そうか。トエトリア、まずは君から」
 ブレイヤールは左の袖を探る。中から紐の束を取り出すと、それをトエトリアへ渡す。受け取ったトエトリアはあらためて、紐をキゲイに差し出した。
「あの、これは?」
「お守り。私の髪でできているの。魔術をからめて編んだのは、ブレイヤールだけど」
 確かにそれは彼女の髪を一房、三つ編みにしたものだった。両端は髪がばらばらにならないよう、溶かした黄金でしっかりと留められ、表面には何かの模様が型押しされている。ただこの紐、やたらと長い。どうやらトエトリアは、ほとんど根元から髪を切ったようだ。
 キゲイはお守りを受け取った。
「それを持っていれば魔物はあえて近づいてこないし、たちの悪い妖精にちょっかいを出されることもない。白城あたりはまだ大空白平原に近くて、土地の魔力も薄いから、魔物も邪精もたいしていないんだけど……」
 ブレイヤールは話しながら、暖炉にかけられていた真鍮しんちゅうの茶瓶を引き出す。
「夜はやっぱり、彼らの力が増すからね。魔よけとして、持っておいた方がいい。いや、石人世界じゃ持ってないと、むしろ危険だ」
 彼はテーブルに戻ってくると、三つの小さな湯飲みに中身を注ぐ。キゲイはトエトリアにお礼を言った。
「ありがとう……。えっと、王女様の髪も三つ編みが何本かあるけど、もしかして、それにも全部おまじないがかかってるの?」
「え、まさか。もしそうなら、髪結いの人が大変よ。そっちの三つ編みが特別なの。それは迷惑かけちゃった、せめてもの償い」
 トエトリアはしおらしげにうな垂れて見せ、早速湯飲みに口をつけた。ブレイヤールも湯飲みを包むように持って、両手を暖める。石造りの城は底冷えがする。
「キゲイ、この城、ものすごく広いだろ?」
 キゲイはお守りを懐に収め、ブレイヤールの言葉にうなずいた。
「僕一人だったら、絶対迷子になると思います」
「だろうね。僕だって、時々迷うことがあるんだから」
 ブレイヤールは苦笑いを浮かべた。
「この城は、七百年前に滅びてしまったんだ。戦争で王が亡くなり、家来も国民も、城からみんな逃げ出してしまった。王族とわずかな側近だけが残ったんだけど、城はあまりにも大きすぎた。管理が行き届かなくなったうえに、時が流れるにつれ、城に関する知識や情報が失われてしまったんだ。側近の末裔達もどんどん数が少なくなって、もう年寄りばかり。今では僕自身にも、城のどこに何があるか、ほとんど分からない状態になってる。おまけに城が滅んだ後、なぜかうわさだけが大空白平原の人間達に伝わった。以来数百年間にわたってこの城は、遺跡と勘違いした人間達に、遺された財宝を盗まれ続けてきたんだ」
「宝物がこの城にあるんですか!」
 キゲイの胸が高鳴る。それは、アークラントの人々が探し求めている魔法の宝なのだろうか。
「数百年間も盗まれ続けている割には、この城に隠されている宝は減っていないようだね。この間も、探検家を名乗る人間が勝手に城内をうろついていたから、追い払ったところだ。追い払っても何度も来る奴はいるけどね。変に顔馴染みになった連中もいるし」
 ブレイヤールは、短い溜息をつく。
「この城は本当に広いんだ。深入りすれば、出られなくなることもある。城内で遭難して、飢え死にする人間もいるくらいなんだ」
 それを聞いて、キゲイは不安になった。どうやら本当に手に負えないくらい、広い城らしい。ディクレス様達は、この城に入って大丈夫なのだろうか。うっすらと心配にもなる。
「アークラントの人達も、多分この城にやってくると思う」
 ブレイヤールが、キゲイの心を見透かすようにこう言ったので、キゲイは思わず湯飲みを取り落とすところだった。もっともブレイヤールは、自分の湯飲みに視線を落としたまま考えにふけっていて、キゲイの様子には気がついていないようだ。
「問題の傭兵達も、城に来れば財宝に目がくらんで、君のことは忘れてしまうだろう。その隙に、こっそり戻っちゃえばいいんじゃないかな……。地読み士の皆は、君の味方なんだろう? ならきっと、かくまってくれるはずだ」
 キゲイは、ブレイヤールの言ったことを、頭の中で繰り返してみる。本当にうまくいくだろうか。楽観的すぎるような気もするが、確かにそのタイミングで仲間の所に戻れなければ、いつ戻れるのかという気もする。
「じゃあ、僕、皆がこの城に来るまで、ここにいることにします……」
「そうしてくれ」
 ブレイヤールは心細そうなキゲイに、穏やかな表情を向けた。
「さて、そろそろ二人ともお休み。キゲイはまだ疲れているだろうし、トエトリアは明日の朝早く、黄緑の城に帰らなきゃいけないんだからね」
 トエトリアは、はぁいと返事して、椅子から飛び降りる。キゲイも湯を飲み干し、立ち上がった。軽い甘みとしょうがの味の湯だった。
「あの王様、ありがとうございます」
 白王と呼ぶのもなんだが堅苦しい気もしたので、キゲイはブレイヤールのことを、王様と呼ぶことにした。ブレイヤールはキゲイの言葉にうなずいてみせる。彼はその呼び方を受け入れたようだ。結局白王は、キゲイにアークラントのことなど一つも尋ねなかった。

 トエトリアがキゲイを連れて部屋を出て行くのを見送った後、ブレイヤールはひどく陰うつな気持ちに戻って、ベッドの端に腰掛ける。彼は知っていた。この先、アークラントに何が起こるかということを。しかしそれは、それと認めたがらない者以外ならば、誰にでもすぐ分かる事実に過ぎない。
 滅ぶのだ。あの国は。
 そもそも石人達にとって、大空白平原の人間達は疎ましい存在だった。七百年前の誓いで、互いの世界を分かつ境界を侵さないこと、大空白平原には誰も住まないことを決めたはずだ。なのに人間達はその誓いをたった三百年で忘れてしまったらしい。平原に住みはじめた人間に石人が気付いたときには、彼らの数は簡単に追い返せるほどではなくなっていた。それでも多くの人間達は本能的に境界石群を超えるのを恐れ、誓いの最後の一つは守られていたために、石人達も平原の人間に手を出すことは差し控えていた。少なくとも平原の人間はかつて争った人間達と異なり、平原を東西に行き来することだけにしか興味を持っていなかったからである。確かにこの平原は、大陸の東西をなだらかな地形でつなぐ唯一の道らしかった。
 ところが今、忘れ去られたはずの峡谷を抜けて、新しい人間達が平原にやって来た。しかも彼らは躊躇なく境界石を越えようとしている。石人達はすぐに気が付いた。アークラントの人間達は不吉な運命を負って峡谷を通り、戦の匂いを運んできたのだ。平原の人間だけでも厄介に感じていた石人達が、新たに現れた人間達の素性を確かめるのに、大した時間はいらなかった。
「なんでこんなことをしてしまったんだろう……」
 ブレイヤールは独り呟く。
 キゲイはトエトリアを助けてくれた。それで困った事態になったのだから、今度はこちらがキゲイを助けるのは、当然だ。お互いの立場や生まれを気にすることなく、親切に親切で応じるだけですんだなら、どんなによかっただろう。
 ブレイヤールを悩ますのは、キゲイが滅びる国の人間だったこと。このまま仲間の元に帰せば、いつかはアークラントを巡る戦争に巻き込まれて、ひどい目にあうか死ぬかのどちらかだ。かといって、彼をこのままずっと、城に引き止めておくわけにもいかない。一方では助けていても、一方では見殺しにしようとしている。トエトリアが人間の町に行くなどという、浅はかな行動をしでかさなければ、彼もこんな割り切れない嫌な気持ちにならずにすんだろう。そう考えると、彼女のことを恨めしく感じる。
 彼を落ち着かなくさせているものは、他にもあった。アークラントの人間達が石人世界に入ろうとしている、事実そのものだ。石人達はアークラントの人間達を、それほど危険だとは思っていない。魔物が闊歩かっぽするこの石人世界で、人間はすぐに引き返す道を選ぶと考えている。人間達が峡谷の向こうに帰れば、峡谷を魔法で突き崩し、二度と通れなくしてしまえばよいと。しかし本当にアークラントの人間達の侵入を、そんな程度に捉えていていいのだろうか。
 ブレイヤールは立ち上がり、織り機の前に行く。織り機には作りかけのタペストリーが張ってある。彼はこのタペストリーで、森に広大な幻を織り込んだ。布に縫い取られた森の姿は、いまだどの場所も、ほつれたり穴が開いたりはしていない。幻術は破られていないようだった。なのにどうも嫌な予感がする。
 彼は虚空を見上げる。魔法使いとしての鋭い感覚が、アークラント人達が平原に持ち込んだ戦の匂いとは別のものを嗅ぎ取っていた。
「人間の心配だけなら、いいんだけど……」
 ブレイヤールは呟いて、すぐに口をつぐむ。アークラントが石人の宝を求めて平原に現れたのは、石人達に否が応でも七百年前のことを思い起こさせる。七百年前には、人間との戦以上に、振り返りたくない過去があったのだ。

 日が昇り、朝食の時間も過ぎた頃。白城の年取った住民達は、それぞれの仕事につき始めていた。家事に精を出す者、三頭の羊の世話をする者、城内から発掘された骨董品を調べる者、薬草を調合する者——。トエトリアとその二人の家来は、早朝に白城を発っていた。
 キゲイは、手持ち無沙汰この上なかった。城には興味があったが、一人で探検するのは怖い。迷子になりそうだったし、なにより城の巨大さと古さは、キゲイにとって常識はずれだ。何十階建てもの建物を見上げていると、今にもこちらへ向かって倒れてくるような錯覚を覚えたし、廊下の亀裂だらけの柱や天井も、いつ崩れてきてもおかしくない気がした。
 それでキゲイは朝食の後、食堂の前に広がる荒れ果てた中庭を、所在無くうろうろしていた。中庭の一角には、料理に使うらしい野菜や香草が植わっている。庭の中央には、白い石で縁取られた大きな楕円の池。藻の間に、ブチ模様をした細身の魚の背が見え隠れしている。
「キゲイ」
 呼ばれて池から顔を上げると、回廊からブレイヤールが手招きしている。その隣には、彼の目付け役である青髪の石人が立っていた。
「これから、城の見回りに行くんだけど、一緒に来るかい」
 キゲイが駆け寄ると、ブレイヤールは言葉を付け足した。
「日課にしているんだ。それと、アークラントの人達が本当にこの城に来るかどうかも気になってる。だから今日は城の下層、外周部の北側を回るつもり」
 そういうことならば、キゲイもついて行かないわけにはいかない。
 ブレイヤールを先頭に、三人は歩き出す。廊下は相変わらず古びていて、辺りはひっそりとしている。各部屋には木戸がついていたが、廊下を進むに連れて、木戸のない部屋が増えてきた。部屋の中は空っぽで、物置にすら使われていないようだった。
 キゲイの後ろからは、グルザリオが大股のゆっくりとした足取りでついて来ている。彼はいつかの夜のように、腰に剣を下げていた。剣帯の留め金が、彼の歩調に合わせて鳴っていた。腰帯には、魔法の杖らしい細長い銀の棒を挟んでいる。キゲイの前を行くブレイヤールも、よく見れば、帯に似たような木の棒を差していた。
「皆、まだこの城へはたどり着いてないのかなぁ」
 相変わらず人の気配がない城内に、キゲイが呟く。
「城は広いから、この辺りを見ただけじゃ、なんとも言えないな。でも、まだだと思う。城主の勘ではね」
 ブレイヤールは辺りを見回しながら答えた。
 三人が歩いているのは、城内都市跡のひとつだった。石畳の大通りの両側には、十数階建ての館が立ち並んでいる。館は数階ごとに奥へずれ込む、階段状の層構造をしていた。各層の館前は、下階の天井が大通りの並走路となっており、大通りを隔てて対岸に建つ館の並走路と、橋でつながっていた。振り仰げば、さらに城の上部から伸びている巨大な空中回廊が、都市の上空を大胆に横切っている。空は淡い銀色だった。
 館を貫くトンネルへ入る。出口に近づくにつれ、三人の足音以外の物音が混じってくる。キゲイは耳を澄ませる。水の音だ。
 一行は朝の光が存分に降り注ぐ、気持ちの良い庭園へと出た。三方は背の高い建物に囲まれ、前方の石垣に半円の小さな池が築かれている。石垣の後方は段々になった土の地面で、水路が上の方から流れ、水のベールを落とす滝となって水面に注いでいる。池の中央の島には、大樹をかたどった壊れかけの彫刻がひとつ。白い大理石の枝には、黒曜石の葉が埋め込まれていた。
 キゲイは寒風に身をさらしながら、辺りを見渡しそっと溜息をつく。城を形作る石の建造物は何から何まで、人の手によるとは思えないほどに巨大で美しい。なのにどれひとつとして、壊れていないものは無かった。滅ぶとは、こういうことを言うのだろうか。
 ブレイヤールは池の縁石に手をついて、片手で水をすくっていた。水は清らからしかった。
「頂上から麓まで、この城で水の循環が絶えたことはない。不思議なもんだよなぁ。城は滅んでるのに」
 キゲイの隣で、グルザリオが両腕を組む。
「この池の水、雨水とは違うの?」
 キゲイはグルザリオに尋ねる。
「この城は山みたいだけど、あくまで城だからな。山みたいに、降った雨を自然に貯めることできん。溜池はあるが、城の上の方はどうなってることやら。うちの曾爺さんの代に一回見たきりだったかもなぁ」
 そのとき、何かのとどろきが二人の耳に入った。ブレイヤールも水面から顔を上げる。三人は息を潜めて静かな庭園に耳を澄ませ、視線をめぐらせる。先ほどの静けさとは、何かが変わっていた。
 張り詰めた静寂の中で、グルザリオが真っ先に我に返り、キゲイの背を突いてブレイヤールの側へ共に駆け寄る。
「ちょっと違やしませんか、王子。時々聞く、古くなった石壁が崩れた音と」
「うん。何か、来てるみたいだ。あっち」
 ブレイヤールが指を差し、グルザリオも腰帯から杖を引き抜く。二人はキゲイを間に挟み、池を背にして右手の館に注意を向ける。
 右手の館は三階分の高さの奥深い大柱廊が、庭に向かって開いていた。その奥まった暗がりの中から、石畳をカチカチと鳴らして歩み出る。それは王者のように、悠々と姿を現した。不思議な姿に、キゲイは目をこする。
 はじめは、館の奥に広がる暗闇が突然切り取られ、うごめいてこちらに歩き出したように見えた。しかしやがて、その姿ははっきりとしてくる。しなやかな獣の歩み。明り取りの窓から斜めに差し込む弱々しい光のすじを、獣は何度か横切った。その度ごとに、獣の丸い明るい色の瞳が浮かび上がる。獣の周りで舞い上がった砂埃は、光を受けて白く輝く霞になる。それなのに、獣の体はずっと真っ黒なままだった。光を浴びても影に入っても。庭園に頭を突き出すまでに、近づいてきても。
 キゲイは息を呑んで見上げる。なんと大きな闇の塊なのだろうか。
「魔物じゃないか」
 ブレイヤールの、上ずったささやきが聞こえる。彼の構える杖の先が、小刻みに震えていた。
 魔物の目は、傷ひとつない水色の水晶玉のようだ。瞳孔すらない。それはキゲイ達三人に向けられ、闇色の顔の中で鈍く光る。そして一対の目は、三人へ向けられたままゆっくりと下降し、細められた。キゲイは、はっとした。魔物の姿が黒すぎて体勢は良くつかめないが、あれはこちらに飛びかかろうとしているのではないだろうか。
 キゲイの予想したとおり、闇の四肢が地面を蹴った。キゲイは思わず片足を後ろへ引く。
「動くな!」
 抑えた怒鳴り声とともに、キゲイの肩を誰かが強くつかむ。キゲイの視界を闇が覆い、息を詰まらせるほどの密度を持った風が、たたきつけられる。これではまるで、境の森での晩と同じだ。しかも今度の魔物とやらは、あの晩に出会った奴の比ではない。
 肩をつかんでいた手が、キゲイを後ろに振り向かせる。石垣の上に闇色の魔物が立って、見下ろしていた。日の下に出ても、魔物はシルエットそのものだった。ただ、背骨とわき腹にかけて銀色の鱗状の筋がついており、それが黒い体の姿勢を唯一示すものとなっている。頭部は鼻面が存在せずのっぺりとしていた。それにしても、妙な毛並みだ。毛先が炎のようにたぎり、揺れるたびに暗い虹色の残像が重なる。特に長いたてがみがこの上もなく見事だった。まるで幻のような姿なのに、圧倒的なまでの存在感を誇って悠然と立っている。
 キゲイはよろよろと後ずさり、その場に崩れるようにして尻もちをついてしまった。ブレイヤールとグルザリオが、魔物に杖を構えながらこちらへ後退してくる。
「ど、どうしよう」
「殺すしかありません。ほっとくと人を食っちまう。もうすぐたくさんの人間が、この城にやってくるかもしれないんすよ。この城を血で染めるおつもりで? うっ!」
 キゲイが声をかけるより先に、グルザリオがキゲイにつまずいて、息を呑んだまま彼の隣に片手をついて倒れこむ。
 その瞬間、魔物は二人の石人へ狙いを定め、宙へ身を躍らせた。
「来るな!」
 ブレイヤールがかざした杖を、すばやく横へ振る。その動きにあわせて、どこからともなく飛んできた石の塊が魔物の体を横様に直撃し、魔物を吹き飛ばした。重たい音を立てて地面に落ちた石の塊は、どうやら館を飾っていた柱頭らしかった。
 その隙に、グルザリオはキゲイの襟首と帯を両手につかんで走り出す。そして城内都市へと続くトンネルへ駆け戻り、キゲイを床に投げ出した。彼はそのままトンネルの出口の壁に、ぴったりと背を押し付けた。
「ちょ、ちょっと!」
 キゲイはグルザリオに這い寄り、服のすそを引っ張る。
「こんなところに隠れてたら、王様がやられちゃうよ! どうするつもり! 剣は使わないの!」
「こんなものが役に立つか! だいたいあいつは、石人世界の奥深くにしかいないんだ。なんだってこんな所に……」
 グルザリオは庭園の方をうかがったまま、動こうとしない。
 ブレイヤールと魔物は、池を挟んで向き合っていた。柱頭の重い一撃を受けたというのに、魔物は弱った様子もない。ブレイヤールは何かの言葉を声高に繰り返しては杖を何度か突きつけていたが、魔物は彼を見つめ返しているだけだ。尾をゆっくりと左右に振り、頭部をかすかにゆすっている。
——あれは、自分が魔物であることを知っている。
 ふいに、キゲイの左耳の側で、風のようにかすかな声が聞こえた。キゲイは戸惑う。彼の左側には、誰もいない。
——そんな魔物は、存在自体がすでにして魔法。ゆえにあれは直接、魔法にかけることができない。例えば、こんな風に。
 そのささやきが途切れると同時に、グルザリオが胸を押さえてうめき声を上げた。グルザリオの体が重心を失い、目を丸くしたキゲイの上へ倒れてくる。キゲイはあえなく下敷きとなった。何とか這い出てグルザリオの肩をゆするが、顔が真っ青になっている。彼はかたく目を閉じ、杖を胸元で強く握り締めていた。
——あれに唯一効く魔法は、あれを構成する魔法をほどくものだ。かなり難しい魔術なんだが、あの人はさっきから五回も唱えているな。……いい加減気づいてもよさそうなのに。
 キゲイは左手で左耳をふさいでみた。
「あれは、獣の姿ながら言葉を理解するという。しかし、自身は言葉を語る喉を持たない」
 いまや声は、キゲイの耳元ではなく、トンネルの奥から足音と共に響いてきた。はたして暗がりから現れたのは、レイゼルトである。キゲイは困惑とあっけにとられて、相手を注視する。レイゼルトは炎色の瞳を、遠くのブレイヤールの姿へ据えていた。
「口にするのは、言葉に至らぬ言葉。あるいは、言葉を超えた言葉。すなわち……」
 レイゼルトは、左手の人差し指をゆっくりと魔物へ向ける。キゲイの後ろから、巨石のきしむような唸りが聞こえた。そしてそれに続くのは、大地を揺るがす咆哮。
 キゲイは両耳をふさぎ、床にうずくまった。あまりの大音響に、心も魂も何もかも、持っていかれそうだ。魔物の叫びは、館の石積みすら緩ませる。空っぽの館の廊下を満たし、部屋を満たし、人の体の中まで満たして、どこまでも反響していく。
「しょせん、すべて幻だがな」
 脇を通り過ぎていくレイゼルトの気配と声が聞こえ、キゲイは辺りが静けさを取り戻したことに気がついた。それでもまだ耳鳴りは残っていて、頭がぐらぐらする。
「ま、待ってよ! 何でここに?」
「あそこの魔法使いに、会いに来ただけだ。向こうもようやく、あれが幻術だったことに気づいてくれたらしい」
 レイゼルトは半身だけ振り返り、あごでしゃくってみせる。その先にはブレイヤールが立っていた。そして、彼を見下ろすようにして魔物もまた。
 しかしブレイヤールはすでに、魔物の方へは向いてなかった。彼はレイゼルトへ顔を向けたまま、魔物へ杖を突き出す。魔物の姿が揺らぎ、見る間に杖の先へと吸い込まれていく。すべてを杖に吸い込ませると、ブレイヤールは右手で杖をしごき、その手を開く。手から薄青い影が立ち昇り、日の光に溶け消えた。
「誰だ」
 ブレイヤールはレイゼルトに尋ねる。幻で騙されたことを知って、苦々しく不機嫌で、厳しい顔つきだ。
「境の森に幻術をかけたのは、あなたか」
 レイゼルトは相手の問いを無視し、トンネルから庭園へと踏み出る。キゲイはレイゼルトを止めるべきか迷いつつ、後を追った。
「境の森に魔法をかけたのは、確かに僕だ。人間が七百年前の禁を犯し、軍を率いて石人の領内へ踏み入ろうとしている。その試みをくじこうとするのは、当たり前だろう」
「それにしては、ずいぶん気のない幻術だった。あなたは人間を馬鹿にしているのか」
「幻の魔物みたいな、本格的な罠を仕掛けるわけにもいかないだろう。それより君はいったい何者だ。石人なのに、人間の味方をしているような口ぶりだ」
 その言葉にどきりとしたのは、むしろキゲイの方だった。
 レイゼルトは懐から、金属の杖を取り出す。ブレイヤールもレイゼルトへ杖の先を向けたが、気が進まなそうだった。
「確かに」
 レイゼルトは、杖を緩やかに掲げた。
「彼らは人数を削られるような危険な魔法より、限られた時間を削られる方が痛手かもしれない。だが、これ以上の邪魔立ては困る」
 彼は掲げた杖を振り下ろす。見る間に三方を囲う館の輪郭が、淡くなった。そして館の前面が最上階からすべて白砂と変わり、流れ落ちてくる。
 キゲイは頭上から降り注ぐ砂から逃れようと、池へ走る。振り返ると、砂は館の一階部分を埋めるまでに積もっていた。ブレイヤールは杖を構えたまま、歯を食いしばっている。なぜ彼は、むざむざレイゼルトに館を壊させてしまったのだろうか。
「王子、術士を狙え!」
 突然レイゼルトの背後で積もった砂が吹き上がり、レイゼルトに向かって飛ぶ。半分埋まっていた館のトンネルから、グルザリオが走り出てきた。顔色はまだ随分悪い。
 レイゼルトは杖を上げ、難なく飛んできた砂を杖に巻き取る。それはそのまま、杖の先を起点とした砂の竜巻になる。竜巻はやがて周りの砂も巻き上げ、空高く伸びていく。グルザリオはレイゼルトに向かい、杖の先から白い閃光を放った。閃光はレイゼルトの周りに立ち込める砂煙の中で、微塵にはじけて消えてしまった。
 キゲイはどうしていいか分からなかった。レイゼルトはあの砂で、何をするつもりなのだろうか。気がつけば、彼は足元の石をつかみ、レイゼルトに投げつけていた。意外にも石は砂煙を裂いて、レイゼルトの足元に落ちる。キゲイの腕力がもう少しあれば、確実に当たっていたはずだった。レイゼルトはキゲイに炎色の瞳を向ける。
「お前こそ、人間と石人、どちらの味方なんだ」
 瞳に怒りはないが、問いかけは辛らつだった。キゲイは言葉につまる。
「今はそんなこと、関係ないと思うな」
 ブレイヤールがキゲイの代わりに答え、杖を振る。彼の背後で池の水が大きく跳ねたかと思うと、レイゼルトへ向かって襲いかかる。レイゼルトは砂の竜巻で水流を受けた。くすんだ灰色の竜巻は、水を含んで真っ白に変わる。しかしブレイヤールが放った水は、決してレイゼルトの砂竜巻に飲み込まれることはなかった。竜巻の上から沸き立つと同時に、再びレイゼルトめがけて降り注ぐ。
 それから先は、わずかな間に起こった。レイゼルトは頭上を見上げ、杖を振り下ろす。砂竜巻が首をもたげて水を追う。庭園を、すさまじい突風が襲った。水を吸い上げた竜巻が、すそから広がってきたのだ。湿った砂嵐はレイゼルトの姿を呑み、こちらへ迫る。キゲイは全身に叩きつけられる砂に体を縮め、いつの間にか気を失っていた。

「何で池の水なんか! 向こうの砂の方が、ずっと量でまさっていたってのに! 何であんたも館くずして、対抗しなかったんですか!」
「城主が自分の城壊して、どうする!」
 のどかな水音に混じって、そんな口論が聞こえてくる。キゲイは体を起こした。彼は砂の上にいて、すぐ側には彼を掘り起こしたらしい砂の穴が開いていた。体中、湿った砂がこびりついてごわごわだ。
「そんな場合じゃ、なかったでしょうが! 俺なんか、血中に大量の気泡を入れられて、死ぬところだったんすよ!」
「こっちだって、脳髄のうずいに水銀入れようとしてた! おかげで、あいつが館を砂に変えるのを、止め損ねた。あいつ、僕らを殺すつもりだったんだろうか」
「もしそうならば、チャンスはいくらでもありました。俺達が、幻術にだまされている間に! しかし、どんだけ悪趣味な魔法を使うんだ、あのクソガキ! 脅しにしても本気すぎる」
 グルザリオが腹立たしげにブレイヤールへ背を向け、見る影もない三方の館を仰ぐ。ブレイヤールは、池の縁石にうなだれて腰掛けていた。池の大理石の木は、なぜか黒曜石の葉をすべて落としている。
「こわかった」
 ブレイヤールは呟くと、目をこすった。
「あの……」
 キゲイは二人に声をかける。キゲイだって、レイゼルトが何者なのか、分かりはしない。でも、目の前の二人よりかは知っている。
「あいつ、レイゼルトって言うんです……。石人だけど人間の味方をするって、言ってました」
 ブレイヤールは目を丸くした。
「知っているのか?」
 キゲイはうなずく。服の上から、懐の銀の鏡をぎゅっと握る。
「レイゼルト……。はて、どこかで聞いた名だな」
 グルザリオが腰に手を当て、考える仕草をする。キゲイは次に言うべき言葉を探し、口の中で舌をかむ。しかし二人の思考は、ブレイヤールのくしゃみで中断させられた。ブレイヤールは池に注ぐ水の下で、体についた砂を洗い落としていた。
「いったん引き上げよう。二人とも、砂は完全に流して。この辺りの廊下に、砂で足跡を残すのはまずい。……水は冷たいけどね」
「洗った後は、ちゃんと乾かす必要もありますよ。凍え死にたくなけりゃ」
 グルザリオが主の言葉に付け加える。それから二人の石人は、再び無残な姿の館を見上げ、大きな溜息をついたのだった。

四章 石人の物語

 池の水で砂だらけの体を洗い、その後グルザリオが魔法で乾かしてくれた。しかし完全には乾かない上に冷え切った体も温めることはできず、三人は震えながら帰ることになった。その間、ブレイヤールとグルザリオは難しい顔で黙りこくったままだった。
「人間に協力する石人がいたですと?」
 食堂に帰り着き、ブレイヤールが大臣のルガデルロに事の次第を話す。厳格な大臣の顔は、ますます険しくなった。
「それで王子は、相手の石人をどう見立てました?」
「かなりの術士だった。あっという間に、館を砂にしてしまった。館の石には、形を保つ魔法が埋め込まれていたはずなのに」
「それで、あなた様はどうされました。城主として、魔法使いとして、その者にどう対されましたか」
「どうって……」
 大臣の厳しい追及に、ブレイヤールは思わず口ごもる。そして、グルザリオと目を合わせた。グルザリオは溜息をついて助け舟を出す。
「子どもの癖に、たいした手練れでしたよ。使う魔術の趣味は最悪でしたが」
「どう巧みだったかは、もう少しお聞かせ頂かなければ、分かりませんな」
 大臣はいかめしい顔つきのまま、食卓の椅子をブレイヤールに示す。ブレイヤールは溜息をついて、椅子に座る。大臣は向かいの椅子に座って構えた。グルザリオの助け舟も、大して役には立たなかったようだ。
 一方のキゲイは暖炉の側で、昨晩の優しい老婦人に温かいお茶を入れてもらっていた。ブレイヤールが大臣に話し始める。耳を傾けると、どうやらキゲイが気を失った後が本番だったらしい。
 レイゼルトの砂竜巻が庭園を吹き荒れたとき、遅れてブレイヤールは逆向きの力を竜巻に与えようとした。それは成功した。砂の渦は止まらなかったが、風は止まった。二人の魔法使いが風に力を加えたため、庭園の大気は不自然に停滞した。竜巻に飲まれた水は砂竜巻の中で霧になるまで細かく砕かれており、庭園に霧雨を降らした。
 そこへレイゼルトは砂を、ブレイヤールめがけて叩きつけてきた。ブレイヤールの周りで砂を硬め戻し、石の中に閉じ込めてしまおうとしたらしかった。もちろんのこと、物を壊す魔法より、物を作り出す魔法の方がずっと難しい。レイゼルトはこの魔法だけでも、十分な才能を見せつけていると言える。
 ブレイヤールは自分の周りに集まった砂へ、霧雨を集めて染み込ませた。水は砂を包み、ブレイヤールの魔法の支配下にあった水は、砂のほとんどを制した。しかし彼は、水をまとって重たくなった砂粒を持て余した。どう使えばいいのか、分からなかったのだ。
 これら一連のやり取りで何よりまずかったのは、ブレイヤールが防戦一方だったことらしい。レイゼルトが常に先手で、うわ手だった。
 ブレイヤールが迷っている隙に、レイゼルトは、ブレイヤールに奪われた砂も自分が操っている砂も、あっさり手放してしまった。代わりに、池の中央に立っていた大理石の木に魔法を当て、鋭く尖った黒曜石の葉すべてを飛び散らせた。
 ブレイヤールは本格的に命の危険を感じた。恐怖に駆られ、彼は黒曜石の葉に全意識を集中させた。レイゼルトの魔力を一瞬にして葉から払い、黒曜石を木っ端微塵に砕いたのだ。反対に彼の魔法による支配は、停止した大気からも、湿った砂からも逸れた。ずっと自身を守っていた、魔法の守りも崩れてしまった。
 留められていた庭園の大気が、再び激しく渦を巻いた。ブレイヤールは完全に虚をつかれて転倒し、石畳の上をなすすべもなく吹き転がされる。彼は館の基礎に頭をぶつけ、気を失った。そして黒曜石を打ち砕いたときの魔力の余波もまた、レイゼルトを襲っていた。
「結果的には、王子が奴を追い払ったことになるんでしょう。あの赤い髪をしたガキ、ふらふらになって逃げていきましたから」
 グルザリオが、ブレイヤールが気絶した後の短い顛末を付け足し、話を締めくくる。大臣は、グルザリオをじろりと睨みつけた。
「おぬしは何もせんで、見とっただけか」
「俺ごときが、下手に手出しできませんよ。王子やキゲイを置いて、あいつを追いかけるわけにはいかんでしょう」
 グルザリオは悪びれる風もなく、さらりと答える。
 キゲイはお茶のコップを静かに置き、三人の近くに行って立ち止まった。ブレイヤールがキゲイに気が付いて顔を向ける。大臣達もキゲイを振り返る。キゲイはブレイヤールが頭に血のにじんだ包帯を巻き、顔にもひどい打撲と擦り傷を負っているのを見た。三人の石人が見つめる中で、キゲイは自分の顔が熱くなるのを感じる。涙で視界が歪む。
「あいつ、レイゼルトは、ディクレス様に雇ってもらうと言ってました。お姫様が傭兵達に捕まったときに、助けようとしてくれたんです。人間に味方するって言ってたし、それに、妙な銀の鏡を僕に預けたんです」
 キゲイは涙をこぼすまいと歯を食いしばりながら、そう言った。もう、レイゼルトに関してだけは、知ってることを何でも話すつもりになっていた。レイゼルトはブレイヤールを殺しかけたのだ。いくら人間の味方でも、そのために平和に暮らしている罪もない人達を傷つけるなんて、ひどすぎる。
 石人達はきょとんとしてキゲイの言葉に聞き入ったが、あまりに唐突すぎる告白に、内容を理解するのに少し時間がかかった。
「レイゼルトとな?」
 しばらくして、大臣が最初にキゲイへ問い返す。口調は柔らかだった。
「殿下をひどい目に合わせた術士が、確かに、そう名乗ったのかの?」
 キゲイはうなずく。それに対する石人達の反応は、妙だった。三人とも考え込む様子を見せたのだ。その表情は、一様に苦々しい。
「あいつの名前が、何か変なの……?」
 キゲイがブレイヤールに尋ねると、彼は何度か首を縦に振った。自分自身でもその返事を確かめるような、用心深い頷き方だ。
「石人の名前は、生まれたときちょうど頭上に輝いている星の名から、付けられるんだ。星読みの神官が魔法の天球儀を使って、その光が僕達の目に届かない小さな星まで、見逃さずに名付けるんだ。星の名はどれひとつとして同じものはないから、石人の名前も二つとして同じものはない。レイゼルトの名を持つ者は、すでにいた。七百年ほど前の、歴史上の人物だ」
「たいそうな名前を名乗って、いきがってるもんだ。石人に恐怖を与える名前かもしれんが、同時に魔法使いとして恥っさらしな名前さな」
 ブレイヤールの言葉に、グルザリオが嫌悪に顔をゆがめて呟く。
 キゲイは内心首をかしげた。七百年前といえば、ちょうど人間と石人が争っていた時代ではないだろうか。ディクレス先王について石人の世界へ行くことが決まったとき、里長が地読み士達を集めて、簡単に話してくれた。
「七百年前の大戦……」
「そう。石人と人間が、争っていた時期だ。終結したのは七百と十八年前になる」
 キゲイの呟きに、ブレイヤールが答える。
「人間達が、石人の持つ魔法の宝を求めて侵攻してきたんだ。でもこの戦は、三十年ばかりで終わった。人間達は石人の世界から追い返された。石人も人間も、多くを失った。戒めのために、平原の端から端まで境界石群を建てて、石人と人間の世界をはっきりと線引きしたんだよ。お互い二度と、相手の世界を侵さないと約束して。キゲイはこの先の話を、聞いておいてもいいかもしれないな」
 ブレイヤールは右頬の擦り傷へ、薬湯に浸した布を当てる。レイゼルトとの争いで、彼は右半身を強く地面に打ち付けていた。特に右の頬骨は赤黒く血が滲み、ひどいありさまだ。
「長い話だから、俺がしましょう」
 主の痛々しい姿に溜息をつきながら、グルザリオは大臣の隣の席に座る。実際彼の方が、ブレイヤールより話し慣れていたようだ。
「戦の原因となっていた魔法の宝というのは、禁呪だった。禁呪ってのは、人が使うにはあまりに魔法的すぎるものだ。魔法なのに魔法的すぎるって表現はおかしいかもしれないが、人が使うにはあまりに多くの犠牲を必要とする、強大な力を持つ魔法と考える方が分かりやすいかもな。人間達が狙っていたのは、とどのつまりこの魔法が記された魔術書だったわけだ」

 人間と石人の戦は長く続き、先に疲労の色を見せ始めたのは石人達だった。石人は魔物との戦いは慣れていても、大勢の軍隊を相手に戦ったことなど滅多になかったからだ。味方の犠牲が大きくなるにつれ、石人の中には禁呪を用いて人間を追い払うべきだと考える者達も現れ始めた。人間が求める禁呪を人間に向けて使い、その力の恐ろしさと扱いの難しさを身を持って知らしめるのは、有効な手立てかもしれなかった。
 しかし禁呪が使われることはなかった。人間との戦にうんざりしていたのは確かだが、それが禁呪を用いる正当な理由になりはしない。石人にとっても、禁呪は難しく危険な魔法だったのだ。
 やがて戦は、人間達の敗走によって終わった。境界石群を建てることが決まったとき、人間と石人、それぞれの思惑はどうだったのだろうか。人間は、境界石群の向こうから、石人が復讐のために追いかけてこないことを願ったかもしれない。石人もまた、魔法もろくろく知らないような荒っぽい種族と、きっぱり縁が切れることを喜んだかもしれない。
 境界石群は、大空白平原を端から端まで途切れることなく分断する長大なものだった。始端である最西端の海岸から終端である東の竜骨山脈までを、通して歩いた者はいないはずだ。人間が平原から石を切り出して運び、石人が石を地面に立てた。その石に人間は自らの神々を掘り込み、石人は星の名を刻んだ。互いに顔を合わせないよう、人間は昼に作業し、石人は夜に作業した。
 石人が人間に興味を持ち始めた理由は、この時期にあるのだろう。作業場におかれた巨大な石柱を、魔法も使えない人間がどうやって切り出して運んだのか。人間の忘れ物らしい小さな楽器は、華やかな音階を奏でた。戦場では目にしたことのない人間の持ち物を、石人は初めて目にした。
 境界石での共同作業によって、石人は人間達の存在をまじめに考えるようになった。人間世界は土地の持つ魔力は乏しいが、それ故に魔物も精霊もほとんどいないことを知った。石人世界に比べ、種をまけばそれ以上の実りで応える豊かな土地がそこかしこにあることも。時間を分けて境界石での作業をしていたとはいえ、決まりを破って互いに会う者達もいたようだ。それまで石人達は、人間世界にも人間にも興味はなかった。魔力を持たない土地に行けば、石人は三日で干からびてしまう。だからそこに住む人間と、交流を結ぶ必要もないはずだった。
 境界石群を立て始めて数年後。すでに、石人達の当初の思惑は大きく変わっていた。
 人間は不可侵の誓いを疑うことなく、境界石群での作業を続けていた。石人も変わらず境界石を立て続けてはいた。ところがその裏で、石人の国の幾つかが、人間世界を手に入れようと言い出したのだ。人間にとってはとんでもない話だ。境界石の誓いは、なんだったのか。ところが石人達にとって、人間との約束など、必要がなくなれば守る義務もないものに過ぎなかった。先の戦に勝ったのは、自分達の方なのだ。
 当然、人間を支配することに反対する石人の国もあった。人間世界へ侵攻したがっている国は、禁呪によってそれをなそうと主張していたからだ。まともに戦えば手ごわかった相手でも、禁呪なら簡単に勝てるという算段だったのだろう。彼らは人間世界の富に目が眩んでいた。
 もっともこれに反対する石人の国も、あまり関心な本音を持っていなかった。これを機会に相手の国から禁呪を取り上げ、自分達のものにしようと考えた。禁呪はそこに存在するだけで、大きな魔力を城に与えてくれる。魔力は石人の城を豊かにするのだ。
 人間界への侵攻を主張する国々も、それに反対する国々も、その愚かさではもはやどちらも救いようがない。
 やがて石人の国々は二つの陣営に分かれ、武力で争うこととなる。その間、侵攻派の国々は人間に対する禁呪の使用を唱えていたとはいえ、石人の国々に対して、禁呪を使うことはなかった。同族にそのような恐ろしい力を振るうのは、ためらいがあったからだ。
 この状況に、石人世界の中心である「星の神殿」の大巫女は、ひどくお怒りになった。ところが大巫女は俗世にかかわる権限をもたない。彼女は唯一の抗議手段として、次代の大巫女を指名なさると、神殿の中枢にお篭りになった。石人世界全十二国が考えを改めない限り、一切の食事をとらず言葉も発しないと申されて。
 大巫女の静かな抗議は、誰の耳にも届かなかった。石人世界は騒がしくなりすぎていたのだ。尊い大巫女は空しく亡くなり、次代の大巫女は幼すぎたため、石人達を止めることのできる者はいなくなった。
 やがてこの戦は、石人達に取り返しのつかない代償を求めることとなる。
 広大な湖の中にそびえ立つ赤の城は、人間界へ攻め込むことに反対していた国のひとつだった。しかし戦に負け続け、いまや目前に敵の連合軍が迫っていた。味方の国々もそれぞれに押され気味で、援軍を望める状況にない。
 湖岸には、敵の軍勢が何千と布陣していた。その様は、色とりどりの花が咲き乱れているようだった。石人は自分の髪の色彩を誇りに思っており、決して頭すべてを覆う兜をかぶらない。また兵士達は、それぞれが所属する国の色を身に付けている。
 赤の兵士達は圧倒的な数の敵を前に、城に篭る以外なかった。出て行けば、赤は敵の色彩の渦に巻き込まれて、消え行くしかない。兵士達は迫る運命に重苦しい夜をじっと耐えて、決戦がおとずれる夜明けを待った。
 空が白む。赤の兵士達は見張りの高台から湖岸を確認する。驚いたことに、敵の姿がひとつも見当たらない。それどころか、様子が妙だ。兵士達は赤王せきおうの命により、湖岸へおもむく。
 それは言いようのない、恐ろしい光景であった。敵の陣はそのままだった。いたる所に、敵の武具と鮮やかなマントが砂にまみれて落ちている。天幕の中も、砂だらけで無人だった。敵達はすべて、血肉を砂に変えられ崩れてしまっていたのだ。
 兵士達は怯えきって戻り、赤王へ見たままを報告した。ところが赤王は顔色一つ変えず、それどころか満足そうな笑みを浮かべてこう言ったそうだ。
「それこそ禁呪。奴ら自身が用いようとしていた力なのだ」
 彼はその先にも言葉を続けたそうだが、記録には残っていない。王の傍らにいた書記官の筆が、事のあまりに凍りついたためだった。
 赤王が禁呪を用いて敵を一掃したという話は、その日のうちに城中に知れ渡った。すべての家臣と国民は、国王に裏切られたと感じ、王の居室へと踏み入った。彼らが見たのは、すでに冷たくなった王の亡骸と、その傍らに立つ成人した王の息子、そして涙にくれる王の妻の姿だった。詰め寄る家臣に王子は青白い顔を向け、こう言ったという。
「もはや戦どころではない。王の罪は、あがなうにはあまりに深い。だが、手を貸してくれ。まずは城にある禁呪の書をすべて破壊せねば。二度と過ちを犯さぬために」
 時を同じくして、湖岸にいた本当にわずかな連合軍の生き残り達が、恐怖に鞭打たれるまま走り続けていた。そしてとうとう、赤の国の援軍に駆けつけていた白の国の軍と鉢合わせた。
 白の軍ははじめ、こちらへ駆けてくるのは赤の国の使者だと思っていた。彼らの姿が赤かったからだ。しかし近づくにつれ、彼らは赤い服を身に付けているのではなく、裸で全身から血を滲ませていることに気がついた。彼らは高位の魔法使いばかりだった。全身砂だらけで、皮膚はやすりをかけられたように傷つき、頭髪も頭皮と一緒に抜け落ちていた。裸だったのも、服が肌に当たってひどい痛みを与えるため、脱いでしまっていたのだ。
 白の軍は彼らから何が起こったのかを問いただすと、きびすを返して自分の国へと急ぎ足に戻っていった。
 赤の国が禁呪を使ったことは、こうして瞬く間に石人世界すべてに伝わった。赤の国は禁呪によって、味方の国々はおろか敵の国々をも裏切ったと言える。石人世界の中心である「星の神殿」の神官達、そして神殿が認める正十二国のうち、赤の国を除く十一国の王が一堂に会することとなった。
 常に中立にあり石人世界の行く末を見守る神殿も、沈黙し続けることは難しくなっていた。それに禁呪を使う者を罰するのは、神殿の役目でもあった。その点では禁呪を使って人間界を支配すると言っていた国々も、神殿に対する反逆を起こしていたことになる。こういった状況もあって、神官と十一人の王との会議の雰囲気は、大変とげとげしいものだった。
 会議では、赤の国は禁呪をもって罰するより他はない、という意見が出た。禁呪には禁呪でしか対抗できないのだ。十一人の王達は、赤の国の王はこのまま禁呪の強大な力に魅入られて、石人世界を支配する気になるだろうと考えていた。
 王達と神官は長いこと意見を交わしていたものの、結局何かを決めることはできなかった。それどころか赤王の死が伝えられてくると、元凶は消え心配事はなくなったとばかりに、それぞれの王達は自分達の国へと帰ってしまった。そして再び戦争をはじめた。神殿だけが混迷する赤の国での調査を開始した。
 ところが禁呪の使い手だった赤王はいなくなったはずなのに、同じ惨事が起きた。黄緑の国と白の国が戦っていたとき、突如黄緑の軍勢が砂になって崩れ落ちたのだ。別の戦場でも事は起こった。禁呪で人間界を支配しようとしていた国々は、ことごとく砂の禁呪のえじきと成り果てたのだ。
 再び神殿によって、会議が招集される。王達の顔には、恐れがありありと浮かんでいた。前回とはその顔ぶれも、いくぶん変わっていた。何人かの王は砂になって亡くなっていたのだ。
 そこへ十二人目の王、新しい赤王が現れる。彼は他の王の敵意ある視線を浴びながら、会議室の中央へと歩み寄った。静かに立ち止まり、周りを円形に囲む十三の椅子を見渡す。そのひとつに腰掛けている神官の前へ、彼は先の王の名をささげた。罪を犯した王族は、命と名前をとられるのがしきたりだった。
「なぜこのようなことが続く!」
 緑王が我慢できずに叫んだ。
「術者は誰なのだ!」
 残りの十人の王も立ち上がる。赤王はやつれきった顔を王達へ向けた。
「わが王族に、以前にも禁呪についての罪を犯した者がおりました。幼き頃何の計らいか、封印された書庫から禁呪を盗み出した者です。名はレイゼルト。わたくしの実弟でした。禁呪に触れるは死に値する罪。しかしまだ幼い子のしたこと。今は亡き先代の大巫女様は情けをくださり、彼は罪人の塔に幽閉されるにとどまりました。
 それから年月が流れ、この戦が起こりました。いつかは分かりません。また、手段も分かりません。わが先代は扉が塗りこめられているはずの塔から彼を引き出し、ひとつの禁呪を与えたらしいのです。まことに信じられませんが、彼はその禁呪を読み解きました。そして使ったのです。湖の畔で。塔に封じてから食事や衣類を小さな穴から差し入れるだけで、人との接触もありませんでした。ようやく言葉を話せるようになった程度の年の頃より塔に入ったため、まして文字など……」
赤王の懇願 赤王はその場で両膝をつき、こうべを垂れた。
「すべてはレイゼルトが手を下しております。それを指示したのは先代。今もレイゼルトは、先代の言葉通りに動いていると思われます。わが国は全力でかの者の行方を追っておりますが、いまだその影すら捕らえることかないません。一刻も早くレイゼルトを止めねば、石人の国々の半分は滅びてしまいましょう」
「それは我らに対する脅しか! 赤王!」
 侵攻派の王達はそろって立ち上がる。逆に赤王は、深くひれ伏した。
「我々の力だけでは、かの者を止めるに叶いません。赤の国の禁呪はすべて捨て去りました。先代の妻が禁呪を残らず窯へ、その身と共に運び入れました。そうしてわたくし自ら火をつけ、神官長と共にすべて灰になったのを見届けたのです。少なくともレイゼルトを除き、禁呪に触れた者は赤の国より消え去りました。どうかもう戦はやめ、力をお貸しくださりませ。どうか」
 赤王を罵っていた王達も、この言葉に口をぴたりと閉ざした。そこへ赤の軍が砂になったという、急な報告がもたらされる。
「これもまた、亡き先代が末息子に遺した指示の一つか」
 騒然とする会議室で、神官は静かに問いかけ、赤王は弱々しく首を振ってそれに答えた。度重なる心労のあまり、赤王の心はこれ以上かき乱されることはなかった。
「力は、人の心を狂わせます。わたくしは命を懸けて、最後の罪人を追わねばなりません」
 赤王はそうとだけ答えたという。赤王の「人の心を狂わせる」と言わしめた「人」とは、先代赤王だけでなくこの戦を始めた石人全てを暗に指したと言われている。

 話には少々ややこしい所もあったが、キゲイはあきれ返ってしまった。七百年前、人間との戦以外にもこんなことが石人世界で繰り広げられていようとは。
 ブレイヤールが先を続けた。
終わりの滝「結局、十二の国は協力してレイゼルトを探すことにした。ところが、協力したとたんにどの国も関係なく、砂の禁呪に襲われ始めた。レイゼルトは、石人の約半数を砂に変えてしまったと言われている。彼のせいで二つの城が滅びた。
年齢でいえば、ちょうどキゲイくらいかな。皆が彼を恐れた。姿も幽霊みたいだったそうだ。骨と皮だけで、目が爛々と光ってて。それでもとにかく、レイゼルトは抵抗むなしく徐々に追い詰められていった。そしてとうとう、黄緑の国の王子によって強力な一太刀を浴び、滝の下へ落ちて死んだ。かわいそうに、黄緑の王子も道連れになったそうだ。でもこうして、石人は全滅せずにすんだ。
今度こそ誰も彼も禁呪の恐ろしさが身に染みて、すべての国は持っていた禁呪全てを葬り去った。あらゆる野心も消えうせて、憂鬱な平和が訪れた。石人達はすべての発端は人間界への興味にあったと考え、人間との接触をひどく嫌うようになった。今は記憶が薄れて石人も緊張感をなくしているけど、許可なく境界石群を越えると罰則がきついのは、今でも変わらない」
 そこでブレイヤールは深く息をつく。キゲイは尋ねた。
「もしかしてこの国、レイゼルトに滅ぼされちゃったんですか?」
 ブレイヤールは首を振ったが、なぜかがっくりとうな垂れてしまう。グルザリオが代わりに答えた。
「確かにこの国は、レイゼルトを追っている時期に滅びたんだけどな。でも、レイゼルトとは直接関係ないことで滅びたんだわ。ほら、今まであちこちの石人の国と戦争してたろ? レイゼルトが現れたからといって、いきなり皆仲良く協力するってわけにゃ、いかないじゃないか。レイゼルトを追っている間も、ああだこうだ揉め合っているうちに……。その、なんだ、当時の王様があっさりと暗殺された。王には世継ぎがいなくて、王位継承にふさわしい力を持つ王族も運悪くいなかった。王のいない城は、安全が約束される場所じゃない。レイゼルトの脅威もあった時代だ。国民達は皆逃げ出し、城は空っぽに。踏んだり蹴ったりだよなぁ」
 そこで大臣が咳払いをして、グルザリオの話を止める。ブレイヤールも疲れた表情で顔を上げた。
「それで、今日王子が出会った魔法使いのことですがじゃ」
「彼が何者かという話はともかく、魔法使いとして年齢不相応に優れていたのは確かだった。大臣、言いたいことは分かってるよ。彼はいつでもこちらの命を奪えた。けどそれをせずに、魔力だけでの力比べに持ち込もうとしたんだ。彼が人間の味方だとすれば、この城や僕の実力を知りたがるのは当然かもしれない。あいつの素性が分かればいいんだけど」
「そういや……」
 グルザリオが二人の話に口を挟む。
「あのガキ、右腕に籠手をしてましたねぇ。確かレイゼルトは、右手が手首の先からないんですよ。小さい頃禁呪を右手に掴んで盗んだから、切り落とされたんだとか」
 キゲイは思い出して、慌てて口を開いた。
「はじめて僕があいつと会ったとき、あいつ、自分で言ってましたよ! 小さい頃に何か触って、右手がなくなったって」
「本当に、なかったか?」
 グルザリオの追求に、キゲイは困って首をかしげた。実際に右手がないのを確かめたわけではない。大臣がグルザリオを叱る。
「馬鹿馬鹿しい。あの子どもは才能を鼻にかけて、『レイゼルト』を気取っておるだけじゃ」
「ただの子どもとも思えないけど」
「王子、あなたまでそんなことを……」
「大臣、分かってるって! それよりキゲイ、確かあいつに、『銀の鏡を預けられた』って言ってなかった? 見せてくれるかい」
 キゲイはうなずいて、懐から銀の鏡を取り出す。少しばかり曇っていた鏡面を袖でちょっと磨いてから、ブレイヤールの方へ差し出した。ブレイヤールはしばらく鏡の上に手をかざし、躊躇する仕草を見せる。結局彼は手に取り、まずは裏返して背面の繊細な彫刻に目を細める。それもつかの間に、再び手の中でひっくり返して鏡面をじっと覗き込んだ。
 レイゼルトはその鏡を、魔法の品だと言っていた。しかしキゲイがそれを持っている間、それは銀の鏡以上のものではなかった。裏側の彫刻が美しいために、宝物みたいではあったが。
 鏡面を真剣に見つめるブレイヤールは、やがて深い溜息をついた。
「これは……。困ったな」
 呟くなりすばやい動作で鏡を裏返し、キゲイに差し出した。キゲイは受け取ったが、「困ったな」と言われた物を返されても、それこそ困る。グルザリオと大臣は、ブレイヤールと銀の鏡を心配そうに見比べた。
「魔術書の類だ。強い魔法を鏡の世界に封じている。内容は……敢えて見たいとは思わない」
 ブレイヤールは額に手を当てて、目をしばたく。グルザリオと大臣の表情が固まる。ブレイヤールは前髪をつかみながら、どこを見るともなく天井をあおいだ。
「大臣、七百年前、本当にすべての禁呪を破壊したんだろうか。『レイゼルト』は、砂の禁呪が書かれた魔術書を持っていたと言われてるんだが。あれは彼の死後、ちゃんと回収されたんだろうか。いや、まさか本当にあいつが『レイゼルト』だと考えてるわけじゃないけど……」
「調べてまいります」
 大臣が椅子を後ろに倒して、勢いよく立ち上がった。その腕を、グルザリオがつかむ。
「待ってください、大臣殿。まさか赤の国に、直接問い合わせる気じゃないでしょうね。それに王子、あんた今、その鏡を触ったんです。まかり間違って、本当に禁呪だったらどうする気で? 神殿にばれたら、首が飛びます。そうなったら白城は完全に終わりだ!」
「まだこれが禁呪と決まったわけじゃないよ。けど、出所を調べる価値はありそうだ。これはれっきとした石人の品物なんだ。それだけは、間違いないだろう」
 鏡に触れた痕が手に残ってしまったか気にするように、ブレイヤールは右手をしげしげと眺めた。それから視線だけをキゲイに移す。
「キゲイ、やり方を教えるから、その鏡の彫刻を型取りしてくれない?」
「はい。……あの、これ、僕が持ってても大丈夫なんですか」
「うん。魔法使い以外の人には、ただの鏡だよ。だけど、魔法がかけてあったね。受け取るとき、解いてしまったけど。後でもう一度かけなおしとこう。もうちょっと穏便な魔法で」
「え……。どんな魔法?」
「君以外の人がその鏡に触ると、ひどく痛い思いをする。君と鏡の距離が一定以上離れても、君はひどく痛い思いをする。鏡を盗まれたり、落としたりしてもすぐ気がつく魔法だよ」
 キゲイは思わず鏡をにらみつけた。レイゼルトもひどい魔法を鏡にかけてくれたものだ。
型取り 大臣とグルザリオはレイゼルトの資料を調べるために食堂から出て行き、ブレイヤールは早速型取りの準備を整える。彼に教えられるまま、キゲイは銀の鏡を沈めた木枠の中へ溶けた蝋を注ぎ込む。後は蝋が固まるのを待てばいい。
「あの、ディクレス様達は、禁呪を探しにここに来たんでしょうか。魔法の宝を探しに行くって話だったし……」
 キゲイはおずおずと、気になっていたことを尋ねる。してよい質問かどうかは分からなかったが、彼はブレイヤールのことを信頼してもよい人物だと思いはじめていた。今ひとつ頼りないものの、その性格に軽々しさやずるさは感じられない。
「どうなのかなぁ」
 ブレイヤールは、壁の掘り込み座敷に這い上がりながら答えた。
「石人世界に禁呪がもうないことは、タバッサでそれなりに調べれば、すぐに分かることだ。それ以前に人間が禁呪を使うには、多くの優秀な魔法使いが必要になる。多くの生贄も。それもタバッサで聞ける話だ」
 彼は座卓で右腕の袖をまくり、そこにも薬を染ませた布を巻きつけた。キゲイは食卓の席に着き、ブレイヤールを見上げる。
「禁呪は力でしかない。禁呪で敵の国を滅ぼしても、その先のことがある。国を救うには、禁呪以上のものが必要なんだ。そんな奇跡みたいなものがこの世にあるんだろうか。僕にも、ディクレス殿が何を求めてこの地に来たのか、よく分からない」
 彼はキゲイの様子を見つめ、それからさらに続けた。
「いずれにせよ、ディクレス殿はこの城に来るだろう。僕は金銀財宝ならば、いくらでも出すつもりだ。それで満足して人間世界に帰ってくれるなら。事実、宝物庫のいくつかは鍵をゆるめてある。城を探索していれば、必ずそこを見つけられるだろう。これは石人の国々が僕に与えた指示でもある。どの国も、人間がこの地に入ってこようとしているのは知っているけど、何を探しに来たのかは知らない。適当な魔法の宝が見つかれば、帰ってくれるだろうと思っているのかもしれない。少なくとも魔法の宝があれば、魔術を使って敵と有利に戦えるようになるだろう」
「ちゃんとした魔法の宝じゃないと駄目なんだよ。適当な魔法の宝じゃ駄目なんだ」
 キゲイは溜息をつき、うなだれる。そこでふと彼は思い出した。
「そういえば……ディクレス様は、『希望でなく奇跡を探しに石人の世界に行く』って話してたって、里長が言ってた。えーと、予言者様が、『サイコロの目を当てて見せる』って言ってたみたい。ん、ちょっと違ったっけ」
「奇跡。奇跡か……」
「そうだ! 『石人の地に光あり。英雄が現る』って言ってたんだ!」
「英雄?」
 ブレイヤールは少し驚いた顔をして、居ずまいをただす。
「それは初耳だな。それにしても、光? 英雄って、誰?」
「さあ……。そこまでは聞いてないです」
「予言者様ねぇ」
 ブレイヤールは右腕をさすりながら、視線を宙にさまよわせる。彼の頭には、その予言が本物なのかどうか、といった疑いが浮かんでいた。もし本物であれば、その予言は石人にも関係するのではないだろうか。
 彼の視線はしばらくして、蝋の満たされた木枠へ移った。
「もう冷めてるかな。魔法をかけておいたんだけど」
 キゲイはブレイヤールに言われたように慎重に木枠をはずし、銀の鏡をはがして蝋のかたまりを渡す。
「思ったよりきれいにいったね。それじゃ、これを紙に写すか……」
「あのぅ、この鏡、どうしたらいいんですか?」
 キゲイは鏡の処理に心底困っていた。アークラントのことでも頭が一杯なのに、これ以上妙なものを抱えていたくない。そんなキゲイの心中に対し、ブレイヤールの返事はあっさりしすぎていた。
「そのまま持っていて」
「ええっ!」
「近いうちに仲間の所に帰るんだし、そのときに自称レイゼルトともまた会うだろう。なぜ彼がこんなものを君に預けたのは謎だけど、君がそれを持ってないと、まずいだろ。いっそ当人に返してしまってもいいよ」
「ううっ」
 キゲイは顔をゆがめる。そうだ。皆の所に帰るということは、レイゼルトのいる陣営に戻るということなのだ。うれしい反面、なんだかひどく気が進まない。
「でも、それ以外の人には見せちゃいけない。ディクレス様にもだ。それだけは約束して」
「はい……」
 妙な鏡ともうしばらくの付き合いになることが分かり、キゲイは情けない顔つきで仕方なく返事する。ブレイヤールはそんなキゲイを置いて、腰をさすりながら食堂から出て行った。

——奇跡を探しにくるなんて、魔法の宝探しよりひどい。まるでおとぎ話じゃないか。
 白王は胸の内でつぶやく。アークラントの行動は、まったくもって無謀で無益な、断末魔のあがきにしか見えなかった。現実的な思考から完全に逸脱している。それでもアークラントの人々は、ディクレスを勇気と知恵に恵まれた人物として慕っていた。そんな人が、こんな非常識な行動を起こすだろうか。予言者の言葉は、それほどまでに力あるものだったのだろうか。
——皮肉なものだな。ディクレス殿は光と英雄を求めて、この地にやって来た。味方として、石人にとっては闇であり、非英雄のレイゼルトを騙る者を連れて。
「アークラント。かつて英雄が建てた国。彼らは再び英雄を必要としているのか……」
 白王は中庭を見渡し、今年は春が遅れていることを思う。それから城の奥へと足早に消えていった。

読者登録

いまさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について