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十五章 星の神殿

 キゲイ達を白城へ送り出した後、レイゼルトは一人歩いて古都を出た。峠からは塩辛い水で満たされた湖が見下ろせる。湖の中ほどにはいくつもの白い柱に支えられて水上に建つ、神殿の四角い巨大な屋根が見える。辺りには潮の香りが満ちていた。この湖ははるかな昔、大海から陸に取り残された小さな海だった。
 神殿の周りにはたくさんの小舟が往来している。神殿もまた、船をつなぎ合わせたような構造を持っていた。湖底に建てた何千本もの石柱や石壁の間に板を渡し、それぞれの部屋を柱の支えと水の浮力でしつらえている。細い通路は板張り、大きな通路はすべて水路となっており、神殿内の移動には小舟が欠かせない。神殿の屋根も半分は石や木の板だが、それ以外は大きな帆布を張っている。巨大な正方形をした神殿は各頂点がぴったりと東西南北を指し、それぞれに高い鐘楼を設けていた。鐘楼は塩のレンガで覆われて、毎日神官達が塩水を表面に塗りつけている。
 神殿の中央にある大巫女の館は、周りの帆布の屋根にすっぽりと隠されて見えない。そこだけが神殿内で唯一、大地に根を下ろした小さな島の上にあった。大巫女の館に入ることを許されるのは、大巫女に仕える巫女達だけだ。館の外は神殿騎士達が常に見張っている。騎士達は館を守るとともに、その周りを絶え間なく巡ることで、石櫃に祈りを捧げている。神殿と石人達を実質的に取り仕切る役割にある九竜神官さえ、非常時でもなければ館への立ち入りは禁じられていた。館には中庭があり、その中庭の中央に命名の書と神々の墓碑たる石櫃を納めた祠があるという。
 レイゼルトはひどく疲れていた。背中の傷はだいぶ良くなったが、あの赤い竜達は、彼の背中だけでなく精神も食い荒らしていた。癒しを求める石人が最後の救いを求めて目指すのが、この星の神殿であり、大巫女の館だ。大巫女の館は、石人にとってもっとも危険に近い場所ではあるが、同時に最も安全な場所でもあったのだ。
 そしてレイゼルトには、もうひとつ、大巫女の館に行くべき理由がある。
――どうあがこうと、遅かれ早かれ初代赤王の手の中に巻き取られていく。
 十二人の魔法使い達が神殿を離れ城を建てようとした動機は、歴史が伝える以上に複雑で、様々な問題が絡んでいたかもしれない。石櫃に封じられた闇や、世界創生の得体も知れない秘密は、人知れず彼らを哀れな亡霊に変えてしまった。彼らに異を唱えたもう一人の魔法使いもまた亡霊としてこの世に留まっているならば、その者の居場所は大巫女の館をおいて他にはないだろう。
 レイゼルトは薄い紙の切れ端を、そっと魔法の風に乗せる。紙切れは、峠の頂上から神殿へ向かってひらりひらりと舞い流れる。彼はその紙切れを追って飛び上がる。その姿は宙で、紙に吸い込まれるようにして消えた。紙はかすかな炎に包まれながら、大巫女の館に向かって飛んでいく。
 赤の王族が例外なくそうだったように、レイゼルトのもうひとつの姿は、彼の背中を食い荒らした妖精竜そのものだった。ところが彼はあまりに長く生きすぎて、「生きもの」というより「もの」に近くなってしまったのかもしれない。石人に許される寿命ぶんだけ時が経ったとき、彼の姿は竜から炎に変わっていた。妖精竜が生まれた瞬間から体内に宿し、死ぬときには内側から体を焼き尽くす炎だ。
 彼は紙を燃やしすぎないよう、自由の利きにくい火の体をちぢこめ、神殿の上空を横切る。たくさんの小舟が柱の間を通り過ぎるが、誰も遥か空を漂う小さな紙切れには気付かない。太陽は紙切れの小さな炎を飲み込むほどに輝いていた。それは明らかな春の兆しだ。
 帆布の屋根は天の光を受け入れるため、折りたたまれた場所がいくつかある。合間からは赤、青、緑、黄、黒や白など極彩色に彩られた石壁が覗いている。神殿の壁や柱はすべて、宇宙を表す壁画に彩られているのだ。塩湖の侵食に負けじと、常に誰かの手で塗り直され続ける壁画は、目に染みるほど鮮やかだった。描かれた紋様を目で辿っていけば宇宙を巡ったのと同じことになり、死後、魂が自分の名を持つ星に帰っていくときの道が分かると言われている。石人にとって、魂が宇宙で迷子にならないことはとても重要なことだった。そして石人が死んだとき、その人の名前は壁画のしかるべき場所に、小さな星として彫り込まれる。
 神殿が石櫃とともに守る命名の書には、この世に生まれるすべての石人の名前が既に記されていると言われている。命名の神官達は命名の書の写しを持ち、生まれた子の真上や真下に輝く星を見極め、その星の名前を与える。誕生のとき、命名の神官が立ち会えなければその子は名前を持てず、死後も天に昇れず地上をさまよって、いずれは石櫃の闇に飲み込まれてしまう。命名の神官が星を読み違え、間違った名前を与えてしまった場合もそうだ。あるいは名前を持っていても、大きな罪を犯せば神殿に名前を取り上げられる。神殿の壁画に名前を刻まれることもない。だからレイゼルトの名も彼の父王の名も、壁画には刻まれていない。命名の神官にとっても、星を読み違うのは大罪だった。
 紙はとうとう燃え尽きる。レイゼルトは人の姿に戻りながら、灰とともに館の中庭へと降り立った。周りは古代遺跡と見まごうばかりのひっそりとした石の館が取り巻き、山を下ってきた風が吹き溜まって鳴っていた。庭の下草は茶枯れて、ネムノキが数本、庭の隅で寒風に枝をさらしている。庭の真ん中には崩れかけた小さな祠があったが、それはレイゼルトの身長ほどの高さもない。風雨で浸食された石肌に、白い塩の結晶が浮いている。
 レイゼルトは灌木の影に身を伏して、じっと辺りをうかがった。土の湿った匂いがする。館は冷え切っており、人の気配がまったくない。耳を澄ませば、どこか遠くで神官達の演奏する楽器の音がする。風音と混じるその単調な旋律は、石人ならば必ず知っている。初代の大巫女が竪琴から紡ぎ出したと言われる、水の旋律だ。
 顔を背けて地面に片耳をつける。神殿の奥底に潜むという闇の音を、地中から聞き取れるかと思ったのだ。七百年前の赤城で、城の壁内に水が弾ける音を聞いたときのように。しかしそれは無理だった。もう片方の耳から風音と水の旋律が聞こえて、邪魔をする。腕を上げて耳に蓋をすれば、今度は腕から血の脈打つ音と筋肉の軋む音がする。そこで目を閉じ、鼓動の合間の静寂に集中する。
 そのうちに、鼓動以外にも規則的な音が聞こえてきた。人の足音だ。枯れた草を踏み、ゆっくりとこちらへ近づいてきている。
 レイゼルトは身じろぎひとつせず、その足音に意識を移した。耳に心地よい歩調で、まったく危険を感じない。頭の先で、足音は止まった。香の匂いが一瞬、鼻先を撫でる。彼はそっと頭を持ち上げる。漆黒の裸足が見え、透けるほどに薄い衣がその足にかかっている。
大巫女 レイゼルトは頭を地面に伏せたまま、両膝を腹の下におさめてひれ伏した。
「訪問の失礼をお許しください。大巫女様」
 レイゼルトは呟いた。柔らかい優しい答えが頭上から返ってくる。
「待っていましたよ。そして、待ちくたびれました」
 レイゼルトはその答えを不審に思い、顔を上げる。すでに大巫女は彼に背を向けて、庭の真ん中へ歩を進めるところだった。
 とても背の高い人だ。薄物の布を幾重にも漆黒の細い体に巻いて、その端は風がもてあそぶままに流している。光を通す銀白色の髪には、たくさんの銀粒の飾り。歩を進めるたびに、着物の裾からしっかりとした素足が覗く。大巫女はひどく年老いていていながら、まるで童女のように初々しい優しい仕草を持つ人だった。
「間に合ったようですね」
 大巫女は振り返り、両腕を広げてそっと上げる。レイゼルトはその仕草に従って、同じようにそっと立ち上がった。
「あなたにはいつか会ったように思います。何百年か前、あるいは私が死した後に見続ける、夢の中で」
 大巫女は灰色の目を細め、弱々しい様子で微笑んだ。
――この方は、私が来るまでを待っていてくださった。
 レイゼルトは気付いて、顔を伏せる。彼の視界から大巫女の姿は消えたが、それでも恐らく、彼女はずっと微笑み続けていた。
「石人が初めてこの地に留まったときから、大巫女はこの館に住み、石櫃の前に座して祈り続けてきました。石櫃に封じられているものは、常に外へと染み出そうとします。大巫女は、石櫃の中で静かに潜んでいただくよう、古い言葉を捧げてお願いするのです」
「大巫女様は石櫃と命名の書の原型をお守りするため、命名の書から石人の名を書き出すために、神殿にいらっしゃるものだとばかり思っておりました」
 レイゼルトは不意に不安になり、庭を囲う館に目を走らせる。
「この館には今誰もおりません」
 大巫女様はレイゼルトの不安を一言で打ち消した。
「私のお役目は、石人の名を命名の書より書き出し、人々に与えることです。名が闇に飲まれぬように。そして、私が書き出すに間に合わなかった名前を、さまよえる石人の魂に与えるために。なぜ石人が命名の書を手にし、神の名を得ることになったのでしょうか。正しくは神の名ではなく、砕け散ったそれぞれの神の体の、一部を指す名ですが」
 大巫女はゆっくりと庭を横切り、館の脇に据え置かれた石のベンチに腰を下ろす。レイゼルトはそれを見送り、しばらくして戸惑いながら大巫女の脇に両膝をつく。大巫女は先程とは違う厳しい表情で、まっすぐにレイゼルトへ視線を注いだ。
「私はあなたの名を知っています。レイゼルト。かつて神殿は、この名をあなたから取り上げました。それをここで返しましょう。あなたはもう、地上でさまよってはなりません」
 大巫女はそこで深い溜息をつく。表情は再び和らぎ、視線が落ちて疲れた様子になる。
「何ゆえ石人達がこの地にいざなわれ、命名の書を手にし、神殿をこの地に築いたか。初代大巫女が最初にこれらを手にし、それとともに真実は彼女の喉を焼き付けました。初代大巫女は誰にも伝えられぬ真実を、その呪いとともに次代の大巫女へ託しました。それは代々の大巫女に継承され、私もまたすでに次代の大巫女へ引き渡しています。初代の大巫女が触れた大地は、すでにこの深い地層の下に。石櫃を安置した祠もその塔の先がわずかに覗くだけとなりました。この小さな島は、沈み続けているのです」
「初代十二王達は、石櫃の闇に捕らわれました。大巫女様のお役目をともに担おうとして、呪われたのでしょうか。彼らはいまだ十二城に潜んでいます。新たな者を闇に引き込みながら。私もまた言葉を焼き付けられ、彼らのことを誰にも伝えることができません。大巫女様のように次の依代にしか伝えられないのです。しかし次の依代は、人としての意識を剥ぎ取られ、肉体に命が宿っているだけです。あれではどんなにあがいても、奪われた意識は影ほどにしか取り戻せない」
「影が実体以上に真実の姿を映すときもあります。この神殿ではそのために、影を恐れる者達もいます」
「神殿とは何でしょうか。石人だけに課された、世界での役割があるのでしょうか」
「我々が考える以上に、世界は思いがけないものです。石人は世界の全ての色を、その髪に、瞳に宿しています。『もうひとつの姿』として、この世に存在した様々な生物の姿を隠し、世界を創造したといわれる神の名を継いでいるのです。一方で、石人の精神の中心であるこの島の地下深くには、世界が形作られた瞬間、その代償として封じられたと伝えられる闇が眠ります」
 大巫女は硬く目を閉じ、喉を抑える。レイゼルトはその姿をしばらく見つめて言った。
「それが真実の外殻なのですか」
「ええ。その通りです。それが花の蕾のように、いつか開くものだと信じている者達もいます」
「私は闇がどんなものか知りに参りました。石櫃を覗かせてはくれませんか」
 レイゼルトが無邪気に尋ねると、大巫女はまぶたを閉じたまま、小さく笑って首を振った。
「あなたは石櫃を壊しかねない。これ以上、闇の犠牲者を出すわけにはいきません。それより見てほしいものは、別にあるのですよ。それが我々の側にある真実だから」
 大巫女は老いて痩せた片腕をあげ、指先で宙に線を描きはじめる。指の軌跡に銀色の光が残り、やがて神殿の見取り図が完成する。彼女は最後に、ある通路の行き止まりを指さした。
「初代大巫女は石櫃を守り、九竜神官の言葉には一切耳を貸してきませんでした。彼らは石櫃に封じられた闇がいずれ真実となって明るみに出で、それに秩序を与えるのが石人の使命と信じました。彼らは神殿の地下にうごめく闇を、彼らなりに解釈しました。闇の側にいる大巫女が知ることと、闇の外にいる彼らが知ろうとしたことは、表裏一体ですらないでしょう。大巫女の焼き付けられた喉が、九竜神官達との間に不信の溝を広げてしまいました。彼らは自ら石櫃に近づこうと、神殿の一角に、祠へ通じる穴を掘ろうとしました。それは今でも一部が残って、使われています。はるかな昔、彼らは石櫃に捧げる大巫女の言葉を、地中に潜んで盗みました。それでもなお彼らは闇に近づくことは出来ませんでしたが、触れてはならぬものを得ました。彼らもまた自らの役目を、次代の神官達に伝えています。けれども――」
 大巫女が指で払うと、宙の光は砂粒のように乱れて消えてしまう。彼女はレイゼルトに穏やかな視線を向けた。
「あなたが見るべきものは別にあります。この七百年、あなたは孤独であったでしょう。けれども多くに守られて、ここにあることも知っているはずです。あなたを最も苦しめたものが、最もよくあなたを支えたかもしれません」
「……いまさら知って、何になるのです」
 レイゼルトは大巫女を見返す。
「私があなたに勧めるのは、闇に関わる者達の話ではありません。あなたがこの七百年間ずっと携えてきた、その禁呪の本当の力を知ってもらいたいのです。それは償いにもなりましょう。慰めにもなるかもしれません」
「禁呪に慰めを見出すほど、辛い刑罰はありません」
「力も取り戻せるでしょう。あなたにはひとつ、心残りがありますね。それは私にとっても同じです」
 レイゼルトの肩に手を置き、大巫女は立ち上がる。振り返って見下ろした彼女の髪に、日差しが透けた。
「私は夢の中で、館から出て外を歩きます。いえ、太古の風景の中には、館も神殿も存在しません。私は幼い頃より、夜はこの夢の中で過ごしてきました。過去に会った者も、これから会う者も、すべての人々や生き物達がそこにはいました。彼らの姿は霧で、近づかねば容姿も判別がつきません。私はすでに多くの者の姿をそこに見出しましたが、あなたが最後と思っていました。しかしこの数年は奇妙なことに、遠くにはっきりとした人影が見えます。彼は人間です。どこから迷い込んだのでしょうか」
「アークラントの運命からです。アークラントの運命と石人の地との交わりから、大巫女様の大きな夢に迷い込んだのでしょう。彼はエカという国を恨んでいる。アークラントを存続させることが、戦で失われた故郷の無念を晴らす復讐へとつながるのです」
 レイゼルトはトゥリーバのことを思い出し、苛立ちを覚える。
「復讐心が、彼を正しい夢見の判断から遠ざけてしまった。彼に手を貸してやってはくれませんか。あの夢はアークラントの希望を予言しているのではなく、彼自身の戻るべき道を示していたのだと。……恨みを断ち、振り返らねばならぬことを」
 一息に話しきり、レイゼルトは息を吐いて肩を落とす。恨みや復讐がどれほど空しいものか、そしてそれらを断つことがどれほど難しく、どれほどおぞましい苦しみを伴うか。なおかつそれから逃げることがどれほど虚しいか、彼は嫌と言うほどに知っていた。
 大巫女は微笑んで頷き、ゆっくりと館へ歩み出す。
「次の夜明けまで、そこでお休みなさい。鐘が鳴ったら、先程の場所に行くのです。あなたに会えたことは、私には最後の癒しとなりました。ごきげんよう。私は先に参ります」
 大巫女の姿が館の影に溶け、足音が遠ざかって消える。庭に一人残されたレイゼルトは、石のベンチで横になる。傷で消耗していた体力は、いまだ戻っていない。七百年に渡る放浪の疲れが、最後の最後で追い討ちをかけるように彼の気力を蝕んでいた。禁呪使いとして追われた七百年前の恐怖とやり場のない恨みが、これだけの時を経ながら鮮烈に思い出せる。他の記憶はすでに形をなくし、思い出すことさえ難しくなっているというのに。
 まぶたを閉じると、そのまますっと眠りに落ちたらしい。どこか遠くからいくつもの鐘の音が響き、館の中庭にこだまが残る。目を開けると辺りは薄暗く、明け方の空には星が輝いている。彼がはっきりと目を覚ます頃には、鐘の音は打ち方を変えていた。
 一つの鐘が鈍く響き、その音が尾を引いて塩辛い湖に沈むと、また別の場所から鐘の音が沸きあがる。鐘の音は東西南北に設けられた鐘楼から響いているようだ。耳を澄ますと、かすかに人々のざわめきが感じられる。泣き叫ぶような取り乱した声は、あらゆる感情の吐露を禁じる神殿には、ただならない。鐘は、大巫女が亡くなられたことを知らせるものだった。
――館を出るなら今しかない。
 レイゼルトは察した。起き上がると、素早く館へと入る。大巫女に示された穴へ向かうために。大巫女の館を巡回して守る神殿騎士達は歩みを止め、石像のように立ち尽くしている。多くの巫女が忙しなく行き交い、神官達は顔に面を当てて悲しみを隠している。レイゼルトは巫女達の影に紛れながら館の外に出て、入り組んだ通路の先を進んだ。
 入口は古びた小さな鉄柵だった。大巫女の館の通気窓と見間違いそうなものだ。レイゼルトは扉にかかった鍵を魔法でこじ開ける。最初は這って進まねばならなかった。やがて天井が高くなる。暗闇の中で手探りをする。壁は荒々しく削られた石壁だ。館の壁を無理矢理削ったのかもしれない。神殿の物音や風の音がくぐもった不確かな響きになり、耳の奥を鳴らす。レイゼルトは先を急いだ。
 道は下りになる。平らではなく階段状になっており、段の真ん中だけが磨り減っていた。レイゼルトは大人が手をつくだろう位置へ腕を伸ばす。石壁に窪みが見つかった。九竜神官達は何千年も前から暗闇の中を手探りで、階段や両脇の壁が磨り減るほど、この通路を使ってきたらしい。
 深く降りるにつれて静寂が密度を増し、そのために今度は耳鳴りがするようになった。空気が澱んでくる。あまりに古い時代の地層まで来たのだろうか。時間すらも澱む重苦しさは、七百年前のあの日にいるような錯覚を覚えさせる。今上に戻れば、彼を血眼になって探す七百年前の石人達が、待ち受けているかもしれない。
 レイゼルトは右腕を上げる。魔法で明かりを灯そうと思ったのだ。このまま暗闇にいると昔の記憶が蘇り、頭がおかしくなりそうだった。しかし彼はしばらくためらった。下に行くほどに、原初の闇に近づくことになる。明かりを灯すのは、ここでは危険なことなのかもしれない。迷った末、足元を照らすわずかな明かりだけに止める。彼は再び下り始める。一歩一歩降りるすぐその背後で、暗闇は何事もなかったかのように帳を下ろし、沈黙が弔いの土として明るい地上と侵入者の間を埋めていった。彼は黙々とひたすらに下った。わずかな明かりと、そこに照らし出された石段だけがすべての世界だった。
 やがて階段が尽き、長く狭い通路が姿を見せる。薄暗い明かりの中で、通路は一本に見える。しかし彼が進むと、ひとつだった道は二股に分かれ始めた。やはり明かりは嫌われているようだ。彼は明かりを消す。そして壁の窪みを触って確めながら、先へと進んだ。手で辿る道は再びひとつと重なり、左右に折れ曲がりながら続く下り坂になる。
 指先の壁が途絶えた。狭い所にいる圧迫感は薄れ、終着点の部屋に辿り着いたことを知る。レイゼルトは大きく息をついた。暗闇に加え、それ以外の何かが部屋に満ちている。その感じは紫城の最深部と似ていた。ここにも理性を飛び越し本能に訴えかける、畏怖の源がある。自然と冷や汗が噴き出して、彼は舌打ちをした。
「いまさら、何を恐れる」
 レイゼルトはかすれた声で自らを励まし、両腕を高々と掲げる。真っ白な閃光が炸裂する。光を知らない闇はことごとく払われ、巨大な部屋がその全貌を現した。レイゼルトは息を飲む。
墓所 長い間生きた彼も、その光景には戦慄さえ覚えた。恐怖でもなく畏敬でもない。立ちすくむことしかできない壮絶な感情が全身を貫き、ひととき自分自身の存在すら忘れた。
 灰色の高い丸天井と壁面すべてが、何千もの石人の石棺に覆われていたのだ。ほぼ新円の形をした棺は、小さな模棺から実際の大きさのものまで様々ある。部屋の中央には樹木を模した巨大な石の柱が天井まで伸び、棺の隙間に石の枝葉が這っている。水滴によってできた石のつららが、枝から垂れる蔦のように幾本も下がっている。柱の根元には、石の天蓋つきの王座があった。棺があることを除けば、そこは紫城のあの地下の部屋と酷似している。
 王座には、古くなりすぎて今まさに崩れんとする彫像が座っていた。頭部は湿って丸みを帯び、目や顎の窪みがぼんやりと残っているだけだ。しかし半眼の切れ目だけは深く刻まれていたらしく、黒々と影を落として二筋はっきりとある。体には、長い衣を巻いていたらしいひだの跡が、かろうじて残っている。
 老若男女の判別がつかないその像は、心持ち王座に横座りになっていた。考え事をしているように右ひじを王座の肘掛に立てて、こぶしで頬を軽く支えている。膝頭の磨耗はひどく、そこだけ表面がつるつると磨かれて滑らかだ。
――誰だろう。
 レイゼルトの心の呟きに、深く沈んだ声が答えた。
「闇に飲まれし肖像」
 風が打ち捨てられた笛を鳴らすのにも似た、虚ろな響きだった。
 レイゼルトは鋭く身構え、王座の人物を睨んだ。相手は先程と寸分変わらない表情で思索を続けている。レイゼルトは半眼の深い切れ目を凝視し、寒気を覚えて目を逸らした。すると視線の先に、ローブで身を覆い、神官が持つのっぺらぼうの面をつけた人影が捉えられる。人影は部屋の隅にぽつんと立っていた。
 ローブ姿の者はレイゼルトの視線を受け、そっと面をはずした。フードの下は影が濃く、何も見えない。面を持つ手も、そこだけ世界が切り取られたように真っ暗だ。漆黒の肌をした石人か、そもそも姿を持たない存在なのか、分からない。
「大巫女様が見せたいと私に言ったのは、この部屋のことだったのですか」
 レイゼルトが尋ねると、相手はフードをゆっくりと下げた。頷いた仕草らしい。
「ここは九竜神官達が築いた、もうひとつの石櫃の祈り場」
 囁くような声色は相手との距離を感じさせないほど、彼の耳にはっきりと届く。
「彼らは時折ここへやって来て、膝をひとなでし、大巫女より盗み取った祈りの言葉を捧げる。彼らは部屋を満たす闇に敬意を表し、決して明かりは用いない」
「私は明かりを灯しました。しかし光で払えないものが満ちている。これが闇なのですか」
 闇と口にしたとき、レイゼルトは体の震えを感じていた。無意識のうちに忍び寄った恐怖が、言葉によって形を得たのだろうか。じわじわ喉を締め付けるかのように、体の自由を奪いつつある。
 音も無く、ローブ姿の石人はレイゼルトの方へ歩み寄る。ローブの裾が翻っても、空気が動く気配はない。
「石櫃に封じられたものの一部。ここから少し染み出している。仮にこれを『闇』と呼ぶのであれば、九竜神官達はこの『闇』を宇宙に星を浮かべる闇と同じだと思ったのだろう」
「あなたが、初代十二王達と道を違えたもう一人の魔法使いなのですか」
「かつてはそうだった。今は墓守にすぎない」
 ローブ姿の魔法使いは再び面をフードの下に当てる。そのわずかな瞬間、レイゼルトは面の後ろに隠れる、まぶたを閉じた漆黒の顔を見た気がした。
十三神官「『闇』を世界に開放し、星の名を持つ石人達をその統治者とする。それは地上に星空を描くこと。世界は天の鏡となり、太古に砕け散った神々を継ぎ合わせ、蘇らせる。九竜神官はそれこそを石人の役目と信じ、代を重ねながら時を待っている。当時の九竜神官達は『闇』の理解者を求め、古都十三の地をそれぞれに治めていた我々を招致した。この部屋で『闇』に魅入られた我々は、大巫女の背負うお役目を理解した。九竜神官の悲願もまた、理解した。だからこそ、石人達を神殿のただひとつの支配から開放せねばならぬと考えた。初代大巫女が石人に定めた理を、神殿の堕ちた力が及ばぬ地で再び明らかにするために」
 魔法使いは緩やかに腕を上げ、王座の石像を指差した。
「あれが石像なのか、太古の石人の亡骸なのかは我々にも分からない。あの像は、石櫃に次ぐ『闇』の覗き口だ。あなたも今感じているはず。もうそれで十分。その像の目を覗いてはならない。あなたはまだ我々ほど深く『闇』に飲まれてはいないのだから。こちらへ」
 レイゼルトは魔法使いの方へ足を向ける。傍に立つと、魔法使いの静かな息遣いに気が付いた。まるですべてが死んでいるようなこの部屋で、魔法使いが生身を持っているのは意外に思える。魔法使いのローブからは、神官が日常の祈りで使う香の匂いすら漂っている。
「なぜあなたは城を創るために、神殿を出られなかったのですか」
「レイゼルト、あなたは紫城を解放した。紫王は消えぬが、城との繋がりは断ち切られたのだ。それは城の正体を見極め、役目を終えて滅んだ無人の城が、元の姿に立ち戻ることを望んだからではないのか。七百年前、紫王の依代が試みた復讐の中で、あなたは城が何かを知った。さらなる昔私もまた、城を創ることによって隠される世界を危ぶんでいた。十二王達は決断し、私は留まり続けた。『闇』に飲まれるまで。存在の様式は反転し、私が現身を保てるのは『闇』の側のみとなった。この部屋を出れば姿をなくすのだ。以来私はこの部屋で、名のない石人、名を奪われた石人の弔いをしている」
 魔法使いは天井の、ある模棺を指差した。レイゼルトは棺に名が刻まれているのを見た。
「シュラオイエン。あなたの持つ銀の札に禁呪を隠した魔術師だ」
 レイゼルトは銀の鏡を取り出す。彼は鏡面に棺を映した。ふいにいたたまれないほどの弱々しい気持ちが、頭をもたげてくる。
「かの人が、砂の魔術に興味を示すとは思えません。私も砂には興味がありません。この銀の鏡には、別の魔法が秘められていたのです。幼い日の私はその魔法に惹かれて、鏡を手にした」
 レイゼルトはそこまで言うと、鏡を懐に戻す。力が抜けて鏡を落としてしまわないように。それをみてとった魔法使いの虚ろな口調は、やや柔らかになる。
「そうだ。その札には土の魔法が込められていた。老魔術師は黄王に頼まれ、城に豊かな土を蓄える魔法を探していた。あの城の周りは凍りついた荒野で、乾いた砂しか得られない。彼は砂を土へ変える魔法を編み出そうとしていた。それはついに成功しなかった。その札に込められた禁呪は、失敗した魔術のひとつ。命あるものを土に戻してしまう、使い方を過てば危険なものだ」
「初めて札に込められた魔法を使ったとき、でも、これは確かに砂の禁呪だったのです」
「年の端もいかぬうち一人塔に封じられ、暗闇で生きていた子どもが、禁呪を得たとき、再び二本の足で体を支え言葉を話し、禁呪を読み解くだけの正気を取り戻した。その理由を考えたことはなかったか。その札に封じられていたのは、禁呪だけではない。魔法を生み出そうと失敗を重ねてなお衰えなかった、老魔術師の人々への思いがあった。彼は魔術に持てる力全てを捧げた。その心が銀の札を手にした哀れな子どもに、失われていた命の活力を与えた。禁呪に封じられていた強い生命の力を代償として。命をはぐくむ土の魔法は力を失い、砂の魔法へと変じた。残念ながらその後、禁呪は誤った使い方をされた」
「私は見も知らぬ、古い時代の禁呪使いに助けられたというのですか」
 レイゼルトは声を震わせる。
「禁呪に込められた力は、私の命を救っただけでした。むしろそうしない方が、他の石人達にとってどんなによかったか」
 彼はキッと棺を見上げた。言い尽くせない様々な感情や記憶が胸にこみ上げ、心が耐え切れずに破裂しそうになる。それらを押し殺そうとすると、喉がぎりぎりと痛んだ。
「あなたはずっと口を閉ざしてきた。いずれは実を結ぶ言葉もあったはずなのに」
 魔法使いは言った。レイゼルトは見上げた姿勢のまま、何度も息を飲み込む。それからようやく彼は苦しげに口を開いた。
「そうせざるを得なかった。口を開けば宿運の悪さを嘆く恨みの言葉しか出てこない。自分の本当の気持ちすら分かりませんでした。私は自分が誰なのか、分からなかった。
私は多くの石人を砂に変えました。それは父王の命があったからです。言うことを聞けば、私は二度と塔に戻らなくてもいいかもしれないと、信じていた。塔にいる間、私は幼いなりに人の心を忘れまいと努めていましたが、世を知らぬ孤独は精神を蝕み、心も歪め固めてしまいます。塔の外へ戻ることを求めながらも、いざそれが叶うと、慣れ親しんだ塔での孤独を懐かしみ、そこから己を引き離した外の世界を憎むようになるのです。塔の外で禁呪を目の前に差し出され、それが意味することを察したとき、今まで守り続けていたはずの正気が、すでに壊れていたことに気付きました。大きな過ちを犯そうとしているのを知りながらも、世へ戻りたいという渇望を癒す欲に負け、同時にそのようにしてしか癒されえない渇望を憎み、孤独を永遠に失うことを恨みながら、邪精のように日の下へ躍り出たのです」
 レイゼルトは両の頬を伝う涙に気付いたが、拭いもせず気にもせず、そのまま流れるに任せた。
「砂の禁呪はあまりに綺麗に人を砂に変えてしまう。私には砂遊びの延長であり、禁呪の恐ろしさもそれを使っている自身の非道さも、一切省みませんでした。多くの石人が私を捕らえようとしながらそれができなかったのは、身を守ってくれる者がいたためです。ところがその者が殺されたとき、私は初めて死というものを知り、それを恐れるようになりました。私の命を狙う石人の中には、肉親であったはずの兄王の姿もありました。兄の心の内も知らず、その裏切りを恨みました。私を倒したとされる黄緑の王子も、本当は私を助けようと考えていたのです。しかし私には疑念と復讐しかなく、それに従うことができなかった。再び禁呪を用いた私に、彼は自らの役目を果たす以外ありませんでした。彼は石人の愚かしさに深く絶望し、英雄として帰還することを拒みました。私が彼を道連れにしたのではなく、彼が私を道連れにしたのです」
 レイゼルトはうな垂れる。
「くしくも私の命は滝では終わりませんでした。私のしたことは永遠に許されることはない。この罪は生涯を越えても償いきれはしません。だから初代赤王に囚われ、不死の牢獄にいた七百年間は、償いのひとつになると思えば耐えることができる。兄王や黄緑の王子、その他の数少ない石人達。あのとき私を助けようとしてくれた者達は、私により広い視野と心を遺しました。そして私は、それに見合う生き方を、半ば強いられたのです。それでもなお、今でも頭から離れない思いがあります。石人達が私にした仕打ちは、誰が償ってくれるのか。もっと早くに、救われたかったと」
 頬は乾いていた。レイゼルトは樹木を模した柱へと視線を移す。
「そう思う度に私はすぐに考え直します。すでに償ってくれている。私にこのような生き方を強いた者達は、己の命を代償としてくれていたのです。そして七百年の終わりに、大巫女様は名まで返してくださった。私はこの広い世界で、自由を得た」
 魔法使いは黙っていた。
「あなたがおっしゃったように、私は塔に幽閉されているときに城の音を聴き、城の正体について思いをめぐらせていました。それは私だけの体験ではありません。長い歴史の中で、城の音を聞いた者は少なくないでしょう。しかしその体験を深める機会に恵まれた者はわずかです。あの音は城の最下層に近づくほどよく聞こえます。この部屋は、その音が最も近い、城の中枢の部屋に似ている」
「私は見たことはないが、似ているのならばそうかもしれない。ここから出るとき、私は他の獣の姿を借りる。時が迫るのを見て、私はあなたをなんとしてもここに呼び、次の依代と巡り合わせたかった。私はその実、七百年間、あなたが石人世界に再び戻ってくるのを待っていた。伝えたかったことは多いが、時間はもうない」
 魔法使いは悲しげに呟いた。
「あなたが塔に封じられていたように、この部屋が私の全てだ。柱と像は最初からあったが、部屋を覆う枝や棺は私が刻んだ。私は石を食う虫に姿を変えることができる。名のない者には、名の代わりとなる棺が必要だ」
「石の大樹を育てていらっしゃるようだ。この木はいずれ地上へ達するのですか」
「そうかもしれない。私がさらに『闇』に飲まれぬ限りは」
 面の下の声はくぐもり、辺りが薄暗くなってくる。魔法使いは続けた。
「長きを生きてきた者を癒すのは、容易ではない。かの者を支えてきた強さそのものが、その障害となる」
「この七百年、悔恨と復讐心が、入れ替わり立ち代り私の命を支えました。私に親切にしてくれた人々の存在が、私の正気を支えました。もはや休息を欲しいなどとも思いません。けれども強さが癒しの障害となるのであれば、私はそれを捨てます。私を支えてきた全てのものを私自身として、ここに弔います。赤王はすぐ近くへ来ている。ただ、次の依代のことをあなたにお頼みしたいのです」
 魔法使いは身を引いた。明かりはますます暗くなる。レイゼルトは完全に暗くなってしまう前に、部屋の入口へと歩み始めた。魔法使いはその背に、最後の言葉をかける。
「時がその方向を失う場所で、私は十二王とその依代達を、待っている」
 明かりは消えうせ、辺りは再び暗闇に変わる。レイゼルトは何も見えない中で、そっと手を前に差し出した。冷たい壁に触れる。さらに探ると、指先に壁の窪みを見出した。彼は壁に沿って、もと来た道を辿りはじめる。
 暗い穴から抜け出しても、神殿は押し殺したざわめきに満ちていた。レイゼルトは誰に気にされることもないまま、水路につけられた小舟で神殿から湖へ出る。そして湖の中ほどで舟を止める。
「忘れないうちに、約束を果たしておくか」
 レイゼルトは空を眺めて呟く。鈍色の空とその色をそっくり映す湖に挟まれているのは、とてつもなく心地よい。ことにあの重苦しい地下の闇から出てきた身にとっては。
 彼は左手で右目を隠し、ややこしい呪術の文句を唱える。唱え終えると彼はのろのろと立ち上がる。そして懐に忍ばせた紙気球を風に乗せ、火に姿を転じて飛び移った。紙気球は風に流されながら上昇していく。
 湖の西に広がる林の中に、白いものが見えた。赤王だ。赤王は心なしか、以前見たときよりも体の輪郭がぼやけているようだった。動き方も苦しげに見える。闇に囚われた初代十二王達にとって、城の中枢から出るのはよほど大変なことなのだろう。すぐ上空にレイゼルトがいることさえ、気づいているようには見えない。だからといって赤王から逃げ切れるわけでもない。
 彼は姿を戻した。紙気球はあえなく破れて風に散る。
「目覚めよ!」
 レイゼルトはその言葉を魔法の風にのせて北へ飛ばす。
 風が彼の命じた指先を離れた刹那、赤王は彼の存在に気がついた。彼は再び火に転じながら、懐から銀の鏡を取り出した。炎の中で銀の鏡は銀のしずくとなり、火花を散らしながら赤王の立つ林の丘に注ぐ。

十六章 白の城

「殿下がお連れになった石人どもは、神殿と十二城の存在を否定しただけでなく、クラムアネスという大悪党に組し、大巫女様の手枷をはじめ、白城から貴重な財宝を盗んでいった盗賊でもありますぞ」
 青いというよりほとんど黒ずんだ顔色で、白城の大臣ルガデルロはブレイヤールに問い正す。夕方の影が室内に満ちてきていたが、どちらも明かりを灯すまでに気が回らない。それほどまでに、ブレイヤールがもたらした知らせは重いものだった。
 黄金色の国とクラムアネスが自称していた坑道から白城へ無事に戻ったのは、ほんの昼過ぎのことだ。クラムアネスと対峙して彼女の国を解体した後、ブレイヤールは助けに来た黄緑の国の騎士達を坑道で出迎え、さらには黄緑の国へ行って、左右の大臣とも話し合わなければならなかった。黄金色の国の住人達は、坑道に残っていた者はおろか白城に向かおうとしていた者達まで黄緑の騎士に捕らえられてしまっていた。
 うんざりするほど長くややこしい話し合いの末、ブレイヤールは住人の多くを白城で引き取ることを黄緑の大臣達に納得させた。一方で、クラムアネスと直接ぐるになってあくどい商売をしていた石人は、全て黄緑の城で捕らえられることとなり、エランをはじめとする人間の悪徳商人達は口封じの魔法をかけられた上に重たい手枷まではめられて、空白平原に連れて行かれた。
 問題は、クラムアネスとニッガナームの消息がつかめないことだった。特にクラムアネスの逃亡については、ブレイヤールにも責任の一端があると黄緑の大臣達は考えたらしい。ブレイヤールの手枷が外れた後、彼がその気になればすぐに捕まえられたかもしれないのだ。左大臣に散々お説教を食わされ、白城に戻ることは許されたものの、神殿が下す判断を待たなければならなかった。
「白城があの者達の牢屋代わりというわけですか。亡き歴代の白王様方がこれをお知りになったら、どれほど嘆かれるか。我々といたしましても、白城に民が戻ることを望み続けていたとはいえ、このような形でそれが叶えられるなど、夢にも思っておりませなんだ。あまつさえ、殿下御自身までも神殿の審判を待つ身となられようとは」
 明るい黄色の髭を震わせながら、かろうじて平静を保って仁王立ちになっている大臣を前に、ブレイヤールは逃げ出したくなる。大臣の動揺は彼の予想をはるかに超えていた。しかしここで引き下がるわけにはいかない。
「クラムアネスは重罪人だ。けど僕がここに連れてきた石人達は、クラムアネスに利用されていただけだ。人間の奴隷商人に自分の子どもをさらわれてさえいた。確かに白城の財産を盗んだけど、そのために彼らを引き受けるのを拒むのか。僕が彼らにした約束を、守らせてくれないのか」
「それ以前の問題がございますぞ!」
 大臣は突然大声を上げる。
「彼らの多くは神殿より送られる星の名を捨てております。名を拒むは石人であることを拒むも同然。大巫女様に対する冒涜。このような罪人どもをご自身の命で城に入れれば、殿下もまた王位をはく奪され、それこそただの看守にされるやもしれませぬぞ!」
「無人の城の王より、看守の方がましだ!」
 忍耐の隙間を破ってついに弾けた大臣の怒りに、ブレイヤールもついカッとなる。お互いは一瞬にらみ合ったが、すぐにどちらも自分の非を認めて互い違いに視線を逸らした。
「……七百年もの間、城を守り続けてきた皆の誇りと苦労を踏みにじる決断だとは思った。でも、手枷を外すには彼らを味方に引き込まなきゃならなかった。それに彼らをクラムアネスから救わなくちゃいけないとも思った。けど本当は、ただあの場をやり過ごしたくてなりふり構わないことをしただけなのかもしれない」
 しばしの沈黙の後に、ブレイヤールはおずおずと口を開く。
「確かに殿下がご無事に帰られたことは、我々にとって何よりのことです」
 ルガデルロは石のように強張ったまま、無感動にそう答えただけだ。ブレイヤールが顔を上げると、大臣のうつむいたままの姿が目に入る。ブレイヤールは次の言葉を待った。ところが大臣は突然大きな溜息をついて、後ろの椅子に背中を向けて座り込んでしまう。その後姿は溜息でしぼんだかのように、ずいぶん小さく見えた。
「本当に、よう戻られました」
 大臣は疲れた様子で呟く。先程の固い口調とはうってかわり、感情が戻っていた。大臣はのろのろと立ち上がり、再びブレイヤールの前に立つ。落ち着きを取り戻したが、まだブレイヤールの決断を認めたわけではないことを、その鋭い目が示していた。
「彼らを城の住人とすることで、城の内のみならず外にも多くの問題が出てきましょう。それについてのお覚悟も、されているんでしょうな」
「それは……。まだよく分からない」
 ブレイヤールは気弱に答える。クラムアネスとの対峙のときもそうだったが、覚悟を決める前に行動しなければ間に合わなかった。あの瞬間はそれでよかったのかもしれない。しかしあれ以来、事態はまるで滝となって白城の運命をどこかへ押し流し始めた。次にやるべきことは何か分かるが、早いうちにどこかでこの流れの先を見極めなくてはならない。よくない方向へ向かいつつあるなら、流れを変える決断が必要だ。実際のところ、ブレイヤールは呆然自失としていた。七百年間停滞していた白城の運命の堰を破ったのは、他でもない自分だったが、これほど怒涛の展開になるとは想像もしていなかったのだ。
 ブレイヤールの怖気に、大臣はいっさい同情するつもりはないらしい。大臣はますます厳しい表情を見せた。
「ここでとどまってどうするのです。白城は再び蘇えらんとするのです。神殿がどのような采配を殿下に下すかはまだ分かりませぬが、それまでは王として振る舞っていただかなくてはなりませんぞ。しっかりしてくだされ。ご自分の立場を忘れたわけではありますまい」
 ブレイヤールは自分の立場というものを苦々しく思った。どんなに無能でも、王という立場からは逃げられない。分かっているからこそ、魔法で喉を焼きつけられてしまったかのように、決心の言葉が出てこない。
 本来であればブレイヤール自身が打ち破るべき沈黙は、突如としてどたばたと騒がしい足音でぶち壊されてしまった。部屋に駆け込んできたはグルザリオだ。彼は手に握り締めた何枚かの紙を、ブレイヤールとルガデルロの間へねじ込むように突き出す。
「二人とも急いで内容を改めてください。先程届いた神殿からの召喚状と、こちらは大きな声ではいえませんが人間からの書簡です。白城を狩場にしてるタバッサの盗人が持ってきましたが、差出人についてはよく知らないようで」
 ブレイヤールは人間からの手紙に飛びつき、大臣は神殿からの手紙を取った。それぞれが手にした手紙へ目を走らせ、ついで互いの手紙を交換して知らせを読み下す。グルザリオは部屋に明かりを入れて回り、二人が読み終わるのを待って尋ねた。
「神殿からのは、レイゼルトがらみの話です。使者が話していましたが、大巫女様はこのところ体調が思わしくなく、だいぶ前から誰にもお会いにならないそうで。赤城から送られたレイゼルトの右手も、九竜神官様方が封じておられるようです」
「神殿は十二城の王に神殿へ集まるよう求めている。九竜神官達と魔力をあわせて、レイゼルトを探し出し、あわよくば追い詰めるつもりなんだろう。黄王がレイゼルトに砂にされてしまったのは、やっぱり本当なんだ……」
 ブレイヤールは手紙を脇の机に置いた。
「僕には、人間の問題は家来に任せ、神殿へ発てとある。けど無理だ。そっちの手紙の知らせが、悪すぎる」
 ブレイヤールの指差した先で、大臣は手紙を手にしたまま再び青くなっていた。
「差出人の名はないけど、内容からしてディクレス殿だ。アークラントから大空白平原へ抜ける峡谷を開くとだけある。つまり、アークラントから人間が来るということだろう」
「じゃ、黄緑の城にもこの話を知らせたほうがよいのでは。人間が何を企んでいるかにもよりますが、空白平原に出るなら石人側も無視できません」
 グルザリオは眉を寄せる。ブレイヤールはうな垂れ、こぶしを握った。
「……この手紙を他の石人に見せることはできない。こちらから手紙の内容を確めに、峡谷に人をやらないと。誰かいないか」
 大臣もグルザリオも無言だった。峡谷の様子を見に行ける者は、この城には一人としていないのだ。ブレイヤールは顔を上げ、二人の家臣を見つめた。
「僕が行くしかないんだろうか」
「それはなりませんぞ」
 素早く、大臣が断固とした口調で戒める。
「殿下がお連れになった石人達を置いて、城を留守にするなどもってのほか。今は次に何が起こるか分からぬ状況。城主が城を空けてよい時期ではございません。神殿からの手紙にも、折り返しこちらの状況を伝える返事を用意せねばなりませぬ」
「何もできないということか」
「やるべきことはございます」
 大臣はふくれっ面の主に苦々しい表情を向ける。
「城に新しい石人を迎え入れるには、彼らの名を城に知らせる儀式を執り行わなければなりませぬ」
 大臣の指摘に、ブレイヤールは居ずまいを正した。大臣の表情は、やや悲しげなものに変わる。
「殿下がお連れになった石人達の名が城に受け入れられれば、我々もそれを否定することはできませぬ。他の家臣らにも私からこのことを知らせ、明日にでも儀式を行えるよう場所を整えましょう。殿下は彼らの名をご用意くだされ。名を持たぬ者には、殿下から仮の名を与えるより仕方ありませぬ」
 ブレイヤールは視線を床に落としたまま、その言葉を最後まで聞く。しばらくしてわずかに頷いた。そして何もいわず、部屋を足早に立ち去る。大臣は開けっ放しに残された扉を静かに閉め、人間からの手紙を蝋燭の炎にかざして燃やした。
「我々は城か王子か、いったいどちらに従ったらいいんでしょうか」
 グルザリオは佇んだままの大臣を横目に、神殿の手紙を丁寧に丸め戻す。彼としては皮肉のつもりの言葉だったが、大臣はそれをそのまま受け入れて溜息混じりに呟いた。
「おぬしは誤解しとる。殿下はそのうちご自分で気づかれるじゃろうが。……王も臣下も城民も、城に従わねばならん。それが古来からのしきたりじゃ。王が力を持っているように見えるのは、王が最も城に近しい立場におるからだけ。本当に力を持ってはならん。城民を迎えるか拒むかは城が決めることで、城主が決めることではない。王が力を持てば、城民は王を恐れるようになる。かつて神殿が力を持ちすぎたとき、十二城は建てられたではないか。十二城の次は、あの崖の国のような穴倉が石人の住処になるのか? 同じ過ちを繰り返すのは愚かじゃろう」
「そうですか。俺はてっきり、この城をただの牢獄にしてしまうことを嘆いて、渋っておられるんだと」
「まだ納得はいっとらん。悪夢を見ているようじゃわい」
 大臣は夢なら醒めよとばかりに、皺だらけの顔を片手で強く拭う。大臣の機嫌は最悪と見て、グルザリオはそれ以上余分な口は聞かないことにする。
「キゲイや魚の子については、黄緑の兵士達もまだ捜索中だそうで。キゲイは例の鏡とお守りを持っているから、魔物や邪妖精に関しては心配ないはずですが。女の子の方は城内で迷子になっているのか、城外に出てしまったのか、さっぱり分からんそうです。王がいれば、城内の行方不明者ならすぐに見つけられるんですが……。トエトリア様の戴冠を待ち望む黄緑の民の気持ちが分かります」
「わしらには手の施しようはない」
「ですんで、黄緑の兵士達に任せてきました。……心配はしてるんですよ。これでも」
 そっけない大臣の返事に、グルザリオは顔をゆがめた。大臣は上の空で、せり出した額の眉越しに、ひび割れだらけの天井を睨み付けている。
「峡谷から人間が平原へ現れれば、平原の人間どもも気づくじゃろう。連中が利益をともにすれば、七百余年前の石人と人間の争いが再現されることになるかもしれん」
「はっ?」
「峡谷への道が開けば、タバッサは白城を狩場にするこそ泥と旅商人を相手にするただの宿場町から、アークラントへ通ずる基幹道の都市になれるからの」
「下手をすると石人は、レイゼルトに加えて人間も相手にしなきゃならないと?」
「分からん。分からんが、ともかく陛下が今この城を離れるほどまずいことはない。それだけは間違いない。人間が束になってきたら、この城で何としても、連中を押しとどめなければならんのじゃ。神殿が何を言おうと、時間を持たせねば」
「陛下? いつから王子は王になったんで?」
「今、家臣がそう認めねば、いつ王になれるんじゃ。あのお方は」
 大臣がじろりと目玉だけを動かしてグルザリオを睨み付ける。同時に手を伸ばしてグルザリオから神殿の書簡を取り上げると、半分半分にと小さく何度も折りたたんで懐に収めた。グルザリオはにこりともせず手紙が大臣の懐に消えるのを見つめ、まじめくさった顔で答える。
「王子がクラムアネスを煙に巻けた理由がわかりました。大臣がいらっしゃるなら、白城も安泰です。俺も家臣の務めを果たしましょう」
「崖の国の石人の中から、兵士として使えそうな者と、体の頑丈そうなのを選んでくれんか。それと、王の正装を整えてくれ。成人の儀のときに身につけられたものがあったはずじゃ。余分な装飾は取って、動きやすいよう軽くしておいたほうがいいかもしれん。普通の礼服では足らぬ相手を出迎えることになるかもしれんでな」
「承知しました」
 グルザリオは一礼をして足早に立ち去った。銅板の上の灯が揺れて、大臣の影も大きく揺れる。かと思うと床の上に長衣と短剣の帯が滑り落ち、月色の羽根が数枚散らばった。大臣もまた姿を変えて、窓から夜空へと去ったのだ。
 翌日、名読みの儀は天井の崩れかけた謁見の間で行われた。この場所は七百年間ずっと使われていなかったが、今や百人余りの石人達が石杯の前に並び、自分の名が書かれた紙が火花を散らして消え去るのをかたずをのんで見守っている。ブレイヤールは儀式の衣装に身を包み、厳かに次々と名札を杯にくべていく。
 名前の中には、不吉な神に由来するものもあった。本来であれば、こうした名を持って生まれた石人はその場で神殿へ引き取られる。不吉な名は石櫃に封じられた創世の闇に属すために、石櫃に返さねばらないからだ。引き取られた石人は神殿で名を取り上げられ、大巫女様に仕える神官として育てられる。彼らはもはや名を持たず、神殿において柱の影や水面の反射と同様に扱われ、他の者と口をきくことも許されない。名のない者は存在しないのと同じだからだ。
 ブレイヤールは火の消えた杯の底に、そっと片手を当てる。杯は熱かったが、燃え残った名札は一つもないようだ。彼は短い安堵の息を吐く。城は名によって石人を拒んだりはしない。ならばおかしいのは、不吉な名を持つ石人を神殿に封じようとする神官の方だ。その神官を止めようとしない王の方だ。
「我が城はそなた達を受け入れ、守り、応えるだろう」
 ブレイヤールの言葉は、新しい城民達の喜びの声にすぐさま飲み込まれた。ブレイヤールは唇を結んで杯に乗せた腕をぐいと引き戻す。城があらゆる石人を受け入れる意思は、どこから来るのか。城に魂が宿っているのか、それとも魂も何もない空っぽなだけなのか。そんなことを思いながら。
 儀式の前によく磨かれたはずの杯だが、指先に何かがざらついた。ブレイヤールは動作を止めることなく、灰で汚れた指を握りこんで白い王衣の下へと戻す。
 何事も、そう易々とは行かないようだ。城が受け入れなかった名は、王が守ればよい。灰に触れた瞬間、彼はそう悟っていた。
 それからの十四日間は、かつてないほど白城に活気があふれた。キゲイは依然行方が分からないままだったし、クラムアネスも捕まらない。ブレイヤールは心配に心配を重ねながらも、石人達が城に町を再建する手助けに奔走しなければならなかった。痺れを切らした神殿からの使者が、自らブレイヤールを神殿へ連れ帰ろうと白城に居座ったが、ブレイヤールは城が広いのをいいことに、何とか出会わずにやり過ごしていた。グルザリオも連日、兵士として選び出した石人達に城内を案内して回り、通路のつながりを覚えさせる。
 十五日目の早朝、ブレイヤールは城の南に足を運び、塔の天辺から、地平線を縁取る境の森を眺めていた。ディクレスの手紙を受け取って、日にちが発ちすぎている。短い文面からは感じ取れなかったものの、内容はかなり逼迫した状況を伝えるものだったはずだ。毎朝こうして塔に登っては、次の便りか、あるいは何か変化の兆候が見えないかと気を揉んでいた。一方でレイゼルトに関する神殿の便りも、一向に進展はない。神殿からの使者が彼を探して城内をうろうろしているだけで、第二報が来たという話もない。
 空を見上げれば、朝焼けに色づく空は薄雲に濁っている。雲は、冬の名残を思わせる冷たい風に乗って、南から北へ運ばれている。
「こんなところにいらっしゃったのですか!」
 この日は悪いことが立て続けに起こったが、その最初は神殿からの使者にとうとう見つかってしまったことだ。ブレイヤールは仕方なしに振り返って、あいまいな笑顔を見せる。散々じらされていた使者の方は、笑顔どころではなかった。
「星の神殿へお立ちくださいませ。先の書状はルガデルロ大臣までは届いたようですが、いったいその後、殿下には拝見いただけたのでしょうか」
「……いや。そういえば大臣も、このところ姿を見ないな。平原の人間達のことで、忙しいんだろう」
「人間に気を取られている隙に、レイゼルトに寝首をかかれます」
 使者に詰め寄られたが、ブレイヤールは口を閉ざして答えないことにする。そのとき塔の上に影が射したかと思うと、耳を打つ羽音とともに二人の間に大きな黄色いフクロウが落ちてくる。羽音が収まると同時に、それは恰幅の良い老人の姿になった。ブレイヤールと使者は目を丸くして、この老人を上から覗き込む。ルガデルロは目をしょぼつかせ、尻餅をついた格好のままブレイヤールに怒鳴った。
「ご用意くだされ。人間と馬が群れを成して、蟻のような大群でやってまいります!」
「いつ?」
「お許しくだされ。あと半刻もありません。あの姿で昼夜飛び続けるのは、無理がございましたわい」
 ルガデルロは腕を上げて指し示す。ブレイヤールは再び森へと視線を向けた。背後で大臣が塔から駆け降りる足音が鳴った。ブレイヤールの隣に使者が並んだ。ブレイヤールはまた神殿への出立を催促されるのかと思って身を引いたが、使者の視線は森へある。その横顔を見ると、この使者もおそらく猛禽の類に姿を変えられるのだろう。どことなく鷹を思わせる鋭い目つきだ。
「もう森を抜けています! まるで大河だ!」
 やはり遠目が恐ろしく効いたらしい使者は、森に向かって指をさっと突き出した。まだ何も見えないブレイヤールは、彼の言うことが分からない。
 しばらく見ているうち、絵のように静かだった森の黒い影へ、突然うごめく白いものが重なった。森と白城との間に横たわる荒野に、その白いものがざらざらと溢れ出す。丘を越えて駆け下りる、何千もの人と馬の姿だった。
 初めて見る人間の大群に、ブレイヤールは目を疑うばかりで動けなかった。大都市の石人を一人残らずかき集めても、あれだけの数にはならないだろう。その間にもなお荒野には人間達があふれ、途切れることのない縦列はまっすぐにこの城を目指している。雲に濁るどんよりとした空の下、わずかに注ぐ陽光を受けて、縦列は白銀に輝いている。美しいと同時に、刻々と白城の危機を刻む光景でもある。
「あれが城を荒らした人間達なのですか!」
 使者がかすれた声で叫ぶ。ブレイヤールは頭を振った。
「違う。数が多すぎる。それにあの数では、今度は荒らされる程度では済まない」
 峡谷が開くというディクレスの手紙は警告であったのか、忠告であったのか、それとも脅しであったのか。荒野を近づいてくる白銀の閃きとともに、ぱっと疑念も閃いた。ブレイヤールは再び頭を振って、混乱を振り払う。今は考えている暇などない。
「とにかく黄緑の城へ知らせを! 頼んだ!」
 ブレイヤールは使者にそう言い置くと、塔の階段へ向きを変える。そのとき目の端に、さらに信じられないものが映る。荒野の起伏に見え隠れして進む、もう一つの銀の大軍隊だった。それは石人世界の奥を目指している。あのまま進めば黄緑の城に行き当たるだろう。ブレイヤールは胸の奥底が凍りつくのを感じながら、塔の階段を数段跳びに駆け降りた。
 城内へ通じるアーチをくぐったところで、彼は壁に掘り込まれた小さな偽窓の前に立つ。手のひらほどの小さな窓は、浮き彫りのサンザシの花と枝葉で囲まれている。窓の奥にはなめらかな闇の面があった。
 王族がひとたび王座に身を置けば、城の力を存分にふるい、城の侵入者達を撃退するなどわけはない。ところがブレイヤールはまだ戴冠の儀を行っていなかった。これでは王座はまともに使えない。儀式の間へ達する道筋も、七百年の間に忘れ去られている。王座が使えないなら、別の方法で力を引き出さなくてはならない。
 呼吸を整え、窓の奥の闇に手のひらをそっとつける。石よりも固く、石ほど冷たくはない。窓の奥には城の基礎石がむき出しのままあった。手窓と呼ばれるそれは、城の各所に設けられている。王座以外で城の力を直接引き出せる、唯一の手段だった。
 意識を闇の向こうへと集中する。やがて、自分の魔力が基礎石の向こうに流れる城の魔力と交わるのを感じる。城の魔力は渦の柱をなし、外側は下から上へ、内側は上から下へと激しく逆巻いて城の中枢を貫いていた。すさまじい力の奔流は、下手に近づくと自分の魂ごと巻き込んで粉々にされそうだ。これが恐ろしくて、今までほとんど、ここまで深く基礎石の奥に集中したことはなかった。
 突然目の焦点を失い、ブレイヤールはぐっと瞳を閉じた。目に映る光でとらえた世界と、基礎石を通して魔力で見たもう一つの視界が、瞳の裏で重なったのだ。いつのまにか激しい魔力の渦は消え、冷え冷えとした巨大な城のシルエットが脳裏に刻まれる。城の影にはさらに細かいいくつもの影が重なり、その色を濃くしている。ある影は四角く、ある影は尖塔の鋭い頂点を持つ。影の馬蹄にくりぬかれた部分は、光を通す窓の輪郭かもしれない。
 城の中層では、まだ何も知らない石人達が、廃墟の町をせっせと片づけていた。建物の影の中を彼らが横切るたび、その気配が指先に感じられる。城の別のところへ意識を移すと、薄暗い部屋でルガデルロがグルザリオに何かを命じていた。そして、白城を目指していた大群の最初の一人が、大回廊の影落ちる石畳へ恐る恐る片足を乗せたのを知る。
――あの銀色の装備は、ハイディーンだろうか。アークラントの残党を追って、峡谷を抜けたのか。だとすれば、アークラントの残党はこの城のどこかに隠れているんだろうか。
 指先に感じる気配が、徐々に濃くなる。次々と人間達が城の中に入り、城の大回廊を奥へと進んでいるのだ。ブレイヤールは他の場所へと意識を移す。アークラントの人間達が隠れているのかどうか、探さねばならない。ハイディーンの者達はしばらく放っておいてもよさそうだった。城は広大だ。迷うだけで、石人達がいる場所までとてもたどり着けはしないだろう。
 ふと、非常にかすかではあるものの、いつか感じたことのある魔力の気配が城のどこかで灯った。ブレイヤールは魔力の場所を定めようとしたが、まるで小さな流れ星のように、あらわれたのに気付いた時点で消えている。
――レイゼルト? まさか。あれだけの力を持った奴でも、城の目から隠れることなんてできない。
 ひどい目にあった過去が思い出され、集中が途切れる。ブレイヤールは瞳を開け、手窓から体を離した。壁に自分の影が長く伸びている。城内に意識を沈めている間に、日が傾き始めていた。辺りは風の音が鳴るだけで、廃墟の静けさが支配している。
 ブレイヤールはその場を離れ、大臣達のいる部屋へ足を運ぶ。彼が姿を現すと、不安げな顔つきの家臣達が彼を取り囲んだ。ルガデルロが口を開く。
「本隊は城外に駐屯しているようですが、城内を探索する者達もおります。あの者達は城主に『いるなら姿を見せよ』と怒鳴っておりますが、いかがされまするか」
「人の城に無断で入ってきて、そのうえこちらから彼らの前に出て来いなんて、ずいぶん勝手だ。しばらく城を彷徨ってもらおう。手窓を使っていくつか石扉を落としてきたから、彼らが行ける場所は限られている。それより……」
 ブレイヤールはそこで深く息を吐いた。
「他の侵入者達が城の東側から入ってきている。僕に会いに来たんだろう。服を用意してくれる? 今から出れば、夜中には彼らのいる場所に行ける」
「やれやれ、忙しくなりそうです」
 グルザリオは正装一式を用意しに走り去る。ブレイヤールは大臣に向き直った。
「あの気配は人間だと思う」
「お供しましょう。万一に備えて、弓手達も潜ませまする」
「そこまで警戒しなくても」
「甘いですぞ。人間と会う際にはそれなりの形が必要なのです」
 大臣はぶんと強く首を横に振って、ブレイヤールのぼやきを跳ね除けた。城の基礎石より崩すのが難しそうな頑固な返事だ。ブレイヤールはその理由を考えて、ようやく頷く。しかし突然、今まで必死に忘れようとしていた後悔の念が胸の内に蘇り、彼は頭を下げ両手で額を覆った。
「最初から、アークラントの人間達に境界の森を越えさせなければよかったんだ! もっと強い魔法を森にかけていれば……!」
「どんな魔法がかけられていようとも、アークラントの者達は命を懸けてあの森を越えようとしたでしょう」
 大臣は厳しい声で続ける。
「ブレイヤール様、あなたは、そんな恐ろしい魔法を森にかけられましょうか。わしはそんな冷酷な王になるよう教育した覚えはございませんぞ。そもそも、十二会議であなたお一人に、人間の対処を押し付けたのが間違いなのです」
「いいや、残酷だからあんな軟弱な決断をしたんだ。人間の侵入をきっかけに、白城の復活ができるかもしれないと考えていた。なんて卑しい考えだ! レイゼルトは境の森にかけた中途半端な幻術で、それを見破っていた。ディクレス殿もそうだったかもしれない。つけ入る隙を与えてしまったんだ」
「我々の期待を重荷としてそのような行動に走られたのであれば、お恥ずかしいことです。この顛末の責任は、共に取らねばなりませぬな」
 ブレイヤールは両目を拭いながら顔を起こす。
「覚悟を決めよう。白城の王として、恥じない行動をする。相手も、こちらにそれだけのものを期待しているだろうから」
 大臣は難しい顔のまま無言で頷いた。
 日が落ち、城内に闇が満ちた頃、ブレイヤールはグルザリオを後ろに従え、東の大柱廊へとたどり着く。ルガデルロも弓兵を従え、柱廊の上階に待機する手はずになっていた。月が落ちて星明りが射し、色のない世界に動くものは彼ら以外にない。空虚な廊下はやがて歩を進めるごとに、張りつめた生き物の気配が濃くなる。柱廊の終わりには、影よりも黒い一団が、来るともしれない白城の主を当てどもなく待ち続けていた。
 もし今夜城の主が現れなければ、彼らは何も言わずどこかへ去っていたかもしれない。しかし彼らを率いる老王は、ゆるぎない確信を持って先頭にまっすぐと立っていた。その確信とは、運命の重たい一撃に打たれて飛び散った火花のようなもので、本人しか理解できない類のものだ。老王は自分の感覚を信じていたし、後ろに控える長年の兵士達は彼を信じていた。
「お待ちしていた」
 老王の影が動き、石人式の一礼をした。ブレイヤールはこれに対し、アークラント式のお辞儀を返す。
「以前の私の煮え切らない決心を利用して、我々白城を見事、策に落とし込んでくださいました。あの拠点はあなたがアークラントの民を逃がすためにあらかじめ築いていたもの。それ以上のものだとは考えもしなかった」
 ブレイヤールは頭を下げたまま静かに囁き、厳しい表情で体を起こす。老王の影が一歩前に出て、星明りに顔半分をさらした。老王は、自分を打った運命が同じように目の前の若者を打ち、彼もまた同じ火花を見たのを知ったのだ。
「私とて、最初はそのつもりでした。しかしハイディーンは我が国の終焉をすら駆け抜け、この城をまっすぐに目指したのです。かつての王として冷徹な言い方だが、アークラントを貫いた雷光は、封じられた希望の殻をも打ち砕いた」
 深い皺が刻む表情は、厳しい一方で穏やかだ。しかしそこには壮絶さが秘められている。
「ハイディーン王率いる第一陣はこの城に。第二陣は石人世界の奥を目指しております。第三陣は森の平原側に陣を張り、守りを固めています。仔細は存じませんが、ハイディーン王の傍には、翠銅石に似た青緑色の髪を持つ魔術師が仕えている。石人のように見受けられます」
 その言葉にブレイヤールは眉をひそめる。
「……その魔術師の存在は、いつからご存じだったのですか。本当に仔細をご存じないなら、ハイディーンがアークラント獲得ではなく、初めからエイナ峡谷を狙っていたと予測できるはずがありません 」
「それはあなたにも同じことが言えるでしょう。境界の森に初めて足を踏み入れたとき、私は拒まれているのではなく誘われているように感じました。私には石人の神殿や城のことは分かりかねますが、あなたは確かに人間を見くびりすぎました」
 ディクレスは低い声できっぱりと言った。
「石人のことも油断されないよう」
 ブレイヤールはとりあえずも言い返す。しかしすぐに視線を外し、小さくつぶやいた。
「我々はさらに大きな策の中に捕えられようとしているのかもしれません」
「ならば今しばらく捕えられておきましょう。我々を捉える網は、お思いになっているほど大きくはないかもしれません」
 ディクレスはこともなげに答える。ブレイヤールは何も言えなかった。ディクレスは、自分には見えない先のことを見ている気がした。
 彼が黙っているうちに、ディクレスは最後の言葉をつづける。
「我々はハイディーンの二陣を追います。あの者達を止めるのは、我々の使命だ」
「それでは……」
 ブレイヤールは重たい気持ちで口を開く。
「私はこの城に侵入した第一陣とハイディーン王に対峙し、人間に堺の森を越えさせた償いをすることにいたします」
 二人は再び礼を交わす。ディクレスは控える兵士らを連れて柱廊を後にしはじめる。ブレイヤールは彼らをその場に佇んだまま見送り、最後の一人が柱廊から姿を消すと、踵を返した。
「あの兵士連中、ディクレス殿より年が多い者もいたかもしれません」
 グルザリオが背後で呟いた。ブレイヤールは厚手の白いマントを体に巻きつける。夜気が石の城をよけいに冷やしている。
「キゲイの話だと、老人と少年しか連れてこなかったらしい。少年達は他のアークラント国民と一緒に、平原のどこかに隠したのかもしれない。地読みの民がいれば造作ないだろう」
 しばらく歩くと、柱廊の上階に待機していたルガデルロ達が合流してくる。
「いったいどこに本当の敵がいるのか、分からなくなってきた」
 ブレイヤールは足早に帰り道を急ぎながら、弱音を漏らす。
「クラムアネスに通じていた神官は、本当に九竜神官様達なんだろうか。ハイディーン王の傍にいる魔法使いが石人なら、そいつはいったい何が目的なんだ」
「クラムアネスの話はどこまで本当なのか。そもそもあの女自体、信用できゃしませんし……」
 グルザリオが歯切れ悪く口ごもる。ブレイヤールが立ち止ると、グルザリオとルガデルロも立ち止り、顔を見合わせた。
「ブレイヤール様」
 大臣の目が、薄闇を隔ててきらりと光る。
「悪人同士でもだまし合うことがあります。クラムアネスも騙されて、相手を神官だと思い込んでおっただけやもしれませぬ。いずれにせよ、今はこんなことに気を取られている場合ではございませんぞ」
「なるほど。大臣もディクレス殿と同意見ってわけか。それって、年の功?」
 ブレイヤールは身をひるがえして再び歩きはじめる。
 七百年もの時が廻り、石人達の世界に再び人間が足を踏み入れようとしている。レイゼルトが初めて白城に姿を現したときから、まるで時が鏡に跳ね返されたように、役者こそ違えど、すべてが七百年前と逆の順序で動いていた。かつてはレイゼルトが倒されてすべてが終わった。今は彼が不気味に姿を消したところから、すべてが始まりつつある。
――最後には、石人と人間の間に戦が起きるんじゃないか。そうならなきゃいいが。そうならないようにしなければ。

 翌日は小雨がぱらついていた。境の森には霧が立ち、荒野は雨に色濃く染まっている。この雨は土の下で冬を耐えた草花を目覚めさせる春の呼び手だ。ハイディーンは春の歩みとともにアークラントを抜けて、白城まで駆けてきた。
 彼らは魔法の宝を探しに来たアークラントの人々同様、日の出とともに城の探索を始めている。ディクレス達がそうしたように、彼らもまた未知の種族の文化に一定の敬意を払いながら、しかし容赦なく城のあらゆる扉をこじ開け、城をずいぶん風通しの良い場所にしてしまった。宝を探しているようにも見えれば、城主を挑発しておびき出そうとしているようにも見える。
 ブレイヤールは手窓からそれを知ると、あとは黙々と身支度に取り掛かった。昨晩は武具らしいものを一切身に着けなかったが、今度はグルザリオから手渡された剣を腰に下げる。金糸銀糸の見事な刺繍で飾られた白帯には、銀の短い杖をさす。
「殿下」
 グルザリオがブレイヤールに人差し指を向けようとしたが、隣に立った大臣がその指をばしっと下にはたく。やむなくグルザリオは自分の右頬に指を当てて示して見せる。
「陛下、右頬のあざは魔法で隠してください。左の擦り傷はもうだいぶ良くなりましたが……。正装しても顔がそれじゃ、決まりません」
「分かった」
 ブレイヤールは頷いて言われたとおりにする。
 ルガデルロとグルザリオをはじめ、年老いた昔ながらの家臣達は、ブレイヤールの身支度を不安げに見守っていた。どんなに心配でも、彼らは白王とともに敵の面前へ出ていくことはできない。足手まといになるからと、ブレイヤールがきっぱり断っていたからだ。
「ブレイヤール様、彼らの頭へ天井を落とせば全てが一瞬で終わります。かつてはそれが、城を使った石人の戦い方でございました」
 ルガデルロがぽつりと暗い声でもらした言葉に、ブレイヤールは首を振った。
「人間相手にそんなことはしちゃいけない。それに、ハイディーンはアークラントの敵だが、白城にとってはただの侵入者だ。敵じゃない。皆は大樹の広間で待っていてくれ。必ずそこにハイディーン兵達を連れて行くから」
彼は食べ物が入った小さな包みを受け取り、いつもの食堂から足早に出て行く。
 下層に下りたブレイヤールの目に、石壁に刻まれた見慣れない文字が留まった。摩耗の具合から文字の新旧は分かる。白城に侵入した盗賊達が道しるべとして、あるいは何かの記念として刻んだ落書きだ。それらを横断して描かれた真新しい文字は、まぎれもなくハイディーン兵が道に迷わないようにつけたものだろう。
 ブレイヤールは壁に片手を添えて瞳を閉じる。壁の向こうにある基礎石に意識を飛ばすと、手窓ほどはっきりとした感覚は得られないまでも、付近を探索するハイディーン兵らの気配はよく分かる。
 まもなく、白城下層の都市跡を進む騎兵達は、大通りの向こうから近づいてくる人影を認めた。やや癖のある白い短髪に、白い装束で身を包んだ姿は、この白い古城の主であることを示している。ところが騎兵達には、その石人は生身の王ではなく、この廃墟にかつて栄えた国の、亡霊の王と映った。天にも届く古すぎる建物に挟まれた大通りは、過去の幻影に満ちた水底のようだった。この世のものと思えない美しい遺跡へ、何の前触れもなく現れた高貴な衣装の石人を、そのまま現実と捉えてよいものか、騎兵達は迷っていた。
 ブレイヤールもまた、初めて間近に見るハイディーン兵の姿に感嘆していた。白い小さな円盤をつないだ銀の鎧が、青い影の向こうできらきらと鏡のように輝いている。馬の額にも小さな鏡が飾られ、確かに彼らは天と光の申し子に見えた。騎兵の手に握られた槍や、魔術兵の長い銀杖は、稲妻よりも白い。昨晩見た、戦に疲れきり、傷だらけの黒い革鎧に身を包むアークラント兵とは、何もかも対照的だった。今更のように、ブレイヤールはディクレスがどれほどの敵を相手に国を守り抜いてきたかを知る。彼は騎兵らから距離を置いて立ち止まった。
「七百年前の約束をたがえ、人間達よ、なにゆえ境界石を越えた」
 白王の重々しい問いは、太古の都市に反響する。すぐさま緋色の帯を肩にかけた騎兵が一群の前へと出てくる。
「我らが王は雷神の御子。天統べる雷神の名において、天と等しく地を統べんと参った。石人の世界とて例外ではない。アークラントの残党を追い、この白き城にいざなわれたのは、雷神の導きにほかならぬ」
「境界石を犯した者を罰するは我が役目。速やかに立ち去られるがいい」
 ブレイヤールが答えると、騎兵達は一斉に槍や杖を構えた。緋帯の騎兵が再び声を張り上げる。
「敵をかくまえば、雷神の怒りをかうぞ!」
「この地には、そなた達の神の導きも怒りも届かない。私に傷一つつけることも叶わぬだろう」
 通りに落ちる青い影を裂いて、ブレイヤールの左肩辺りを何かが過ぎ去った。巧みな腕前で放たれた矢だった。矢は石畳に当たって大きく跳ねる。ブレイヤールは身をひるがえしざまに跳ねた矢を宙で受けると、騎兵らに背を向けて大股に歩み出す。
「逃げるか!」
 騎兵の声が追ってくる。ブレイヤールが歩みを止めないとみると、騎兵らもまた馬を進めだした。
――アークラントは国を救うため、力を求めて白城にやって来た。ハイディーンは覇者になる力を得るためにここへ来たということだろうか。どちらも似たようなものだな。
 手にした矢じりを見れば、魔法の文字が押下されている。文字は射手の思い通りの場所に、矢をいざなう力を持っていた。彼に命中しなかったのは、はじめから当てるつもりがなかったからだろう。それでもブレイヤールは肝を冷やした。弓手の姿が見えなかったから、つい油断していたのは確かだった。
 騎兵達は一定の距離を置いて、ブレイヤールの後を追う。彼らは白王の歩みを止めようと矢を放ち、魔法の炎を石畳に走らせる。ところが矢は的に当たる前に矢じりから溶けて燃え、地を這う炎は見えない壁に当たり、虹色の光を放ちながら消える。ブレイヤールが守りとして張った結界のためだった。
 結界を張って歩くだけのブレイヤールの姿に、騎兵達は戦意を削がれ戸惑った。この石人の王は立ち去れと言っただけで、それ以上何をするわけでもない。しかし石人がいかに魔法を得意としていても、これほど敵の数が多ければ、一網打尽とはいかないだろう。加えて騎兵達は、自らの手から放たれる鋭い槍の一突きがどれ程確実で致命的かを知っている。ハイディーン兵達は警戒こそ緩めなかったが、次第にブレイヤールを恐れなくなってきた。この石人の王が歩き疲れた頃に、決着をつけてもいいのだ。
 夕暮れが来ても、ブレイヤールは一定の歩調で歩き続け、騎兵達を城の奥へと導き続ける。騎兵達はつかず離れずの距離を保っていた。彼らは決して油断をしていない印として、時折思い出したように矢や炎を投げつける。そして城内に散らばった仲間に向けて、笛を鳴らした。
 ブレイヤールは立ち止まることができなくなる。体力を温存するために、走ることもできない。背後では、馬の蹄が雨だれのごとく高らかに、休むことなく石畳を打っている。
追跡 夜が来ると、騎兵達は邪精除けの護符を槍の先に取り付け、魔法の陣を組む。ブレイヤールのすぐ後には、さらに数を増した騎兵達が囲うようについていた。彼らは声を合わせ、「言の葉」で止まれ止まれと歌い始める。ブレイヤールは持ってきたパンをかじりつつ、じっと黙って先を急いだ。ここで歩調を乱すのは、すでに命取りに等しい行為になっている。さすがの彼でも、あれだけの騎兵が束になって突撃してくれば、ひとたまりもない。最初に拾った矢はまだ持っていた。最後の最後で、文字通り一矢報いるつもりだった。
 杖の先に明かりを灯し、淡い輝きに包まれて進むハイディーン軍と、その明かりを背に城の暗闇に向かってとぼとぼ先を行く石人の王の姿は、まったくもって奇妙だった。王は城の力でいつでもハイディーン軍を殲滅できた。ハイディーン軍もすばやく突撃すれば、王を槍で串刺しにすることができた。互いに相手の出方を恐れながら、時を待っているのだった。
 追う者も追われる者も、疲れを表に出してはいない。城内は再び穏やかな光に闇を薄め、冷たい風が柱廊を駆け抜けた。夜が明けた。そして時も来た。
「滅びた城の王よ。そろそろ休まれるがよい」
 朗々とした声が背にかけられる。ブレイヤールは振り返らなかったが、その声がハイディーン王のものだと知った。真の王は、他の者とは明らかに異なる響きの声色を持っているものだ。
「口を慎まれよ。ここは私の城であり、すべてにおいて命じるのは私だ」
 ブレイヤールは前を見据えたまま、背後の相手に答える。
「我らは七百年に渡り城を守り続けてきた。この城はそれだけの価値を持つ。あなたがたもとくご覧になられただろう。私は城のもっとも美しく残る場所を歩き、案内さしあげたつもりだ」
 自分の声がどれほど精彩にかけていたかは、疲労のためだけではないだろう。ブレイヤールは唇を噛む。行く先はますます金色の光が強くなる。
 はるか昔に崩れたドーム天井から、陽光が降り注いでいる。天窓を飾っていた翼を持つ幻獣の彫刻は、残された半身を日に染めていた。かつて広間の床一面に敷かれていた大理石は、天へ向かって伸びる老木の根に裂かれ、草陰に散らばっている。老木の枝は広間の天井いっぱいに広がり、崩れたドームの代わりとなっている。風が長い年月をかけて城を崩し、土を運んで作った庭だった。
 ブレイヤールは庭の中央で、ようやく足を止める。両足は鉛のように重く痺れ、体の向きを変えるのさえやっとだった。騎兵達も広間の入り口で追跡を終える。ひときわ立派な装備に身を包んだ壮年の男が、馬上から降りて彼らの先頭に立った。その隣には、白い外套で体を覆う魔法使いの姿がある。フードを深くかぶり顔は見えなかったが、鮮やかな青緑の髪が覗いていた。さらにその後ろには、思いがけず知った顔がある。緑の髪の石人、ニッガナームだ。ブレイヤールは内心総毛立つほどの怒りを覚える。
「同胞に裏切られたとお思いか」
 ブレイヤールのわずかな表情の変化を、ハイディーン王は鋭くとらえた。
「新しきものが古きものを席巻するのは、世の習いだ。アークラントは滅びた。この城はすでに滅びている。なにゆえ石人はこの魔物溢れる忌まわしい世界を頑なに守り、人間を拒む。我々は七百年前に分断された二つの世界を、天と同じく一つにする。亡国の王よ、その若さで城とともに朽ちるおつもりか」
「ここはあなた方が暮らす世とは異なる理によって存在している。そのただ中にいながら、お分かりにならないのか。それともお分かりだからこそ、多くの剣と護符をお持ちになられたのか。どちらも役には立たぬどころか、あなた方の身に災いを呼ぶぞ」
 言葉を言い終えないうち、ブレイヤールの足元に矢が当たって跳ねる。矢じりは一瞬にして赤く燃えて粉々となり、石の床を転々と焦がす。ハイディーン王を守ろうと、騎兵達が王を背に隠し、二本目の矢を弓につがえていた。
 ブレイヤールは居並ぶ騎兵の隙間を狙い、フードの魔術師めがけ、ずっと握りしめていた矢を投げつけた。切羽詰まった悲鳴が上がり、フードの魔術師がよろめく。矢じりが銀の蜘蛛に変わり、細く長い八本の足で頭にがっちりと張りついていた。しかし魔術師の姿は、すぐに騎兵の後ろに見えなくなる。
「門を閉ざせ!」
 ブレイヤールが叫ぶと同時に、広間へ続く通路が砂となって崩れる。同時に、崩れ残った天井の幻獣もまた、砂と溶けて広間に降り注ぐ。逃げ口をふさがれた騎兵達は、ブレイヤールめがけて馬を駆ろうと手綱をまわす。
 踵を返した騎兵達の後ろから、一羽の小鳥が飛び立った。ブレイヤールはすっと息を吸う。
「その鳥を逃がすな!」
 ところがそう叫んだのは、ブレイヤールではなくハイディーン王だった。彼は逃げ出す石人が、自分達を裏切ったと思ったのだ。ブレイヤールに向けられていたすべての弓が一斉に向きを変え、最初の一矢が見事に小鳥を射抜く。
 ブレイヤールはすぐさま視線を戻した。ニッガナームの姿がない。代わりに小さな青緑のトンボが飛び立つ。同時に広間の壁が砂と崩れ、騎兵達を頭から飲み込んだ。馬も人も地面に倒れ、砂の中でもがく。あわや砂に押しつぶされようというとき、ブレイヤールは杖を掲げた。砂は水に変わり、広間に流れる。砂のように重く固い水は、騎兵達の足元を右に左にともてあそぶ。
 ハイディーン王は徐々に水位を上げる水の中に立ちつくし、目の前の光景を見守るしかなかった。水はついに肩まで達し、剣を引き抜くことも弓を射ることも叶わない。
 慣れた動作で大木を登り始めた白王の姿が流れ落ちる砂の向こうに薄れ、広間に影が落ちる。空を覆わんばかりに巨大な純白の翼が、船の帆のように広がっていく。広間の上階に姿を現した白城の石人達が、誇らしげな歓声を上げた。

十七章 石人の王座

 トエトリアは私室から出ることを、今までにないほど固く禁じられてしまった。部屋の外には近衛騎士らと王衛士が控えていたし、部屋の中には侍女達がいて、彼女をしっかり見張っている。今朝起きたときは、侍従長から今日のご予定をずらずらと聞かされた。それが朝食後にはすべて取り消され、いつになく厳しい顔つきの近衛隊長に手を引かれて、部屋に閉じ込められたのだ。
「いったいどうしたの。もしかして、魔物が城の中に入り込んでしまったの?」
 いくら堅牢な石人の城でも、時折大きな魔物が城壁を飛び越えたりして入ってくることはある。けれどもそういった魔物は、兵士達と神官によって、すぐに城から「お祓い」される。魔物をできる限り傷つけず、城の遠くまで追い出すのだ。
 トエトリアは内心ひどく落ち込んでいた。ついこの間も、ブレイヤールが人さらいにあって、危うく死ぬところだった。もし自分が王として王座についていれば、城の中で誰かを危険にさらすことはなかっただろう。魔物だって、王のいる城には怖がって近づかないものだ。
 早く大人になって王位に就きたい。そう思うたびに、彼女はじっとしていられなくなって、城を飛び出してきた。家来の話だけではなく、自分の目で人々の暮らしを見、城を取り巻く山々の峰を歩き、魔法の生き物達がどれくらい危険なのか確かめてみたかったからだ。
「王女様、何も心配はいりませんよ。またいつものように、兵士の皆さんが追い払ってくれますから」
 侍女達はこう答えたが、トエトリアは納得できない。いくら魔物が来たからといって、こんなふうに自分を部屋に閉じ込めるなど、いつものことではない。いつもとは違う敵が城にきたのだと、彼女は考える。
「もしかして、レイゼルトが来たの?」
 尋ねてみると、侍女達は震え上がった。一番年かさの侍女が前に出て、トエトリアと視線を合わせる。
「その名前をこの城で口にしてはいけません。王女様のご先祖は、あの禁呪使いを倒すために犠牲になられたのですから」
「じゃあ、なんで私はここに閉じ込められてなきゃいけないの?」
 トエトリアは頬をふくらます。侍女も嘘を言うわけにはいかなかったのだろう。しぶしぶ、人間が蜂のようにたくさん来ていると言った。
「馬も人と同じくらいいて、ぶんぶん鼻を鳴らして、それはもうひどい騒ぎです」
「人間が? どうして?」
「分かりません。きっと、白城の宝だけでは足りなくなって、この城までやって来たのでしょう」
「ブレイヤールは無事かしら」
「ご無事ですとも。白城はいくらでも隠れるところがございますし、ブレイヤール様は魔術に長けていらっしゃいます。晩までにはこの城も静かになっているでしょう。さあ、お勉強の時間ですよ」
 別の侍女が横から算術の本を差し出す。トエトリアは言われた通り、机の上に計算用の半貴石のおはじきをばら撒いた。丸く平べったい石は、色とりどりの影を落として机上に散らばる。
 彼女の一番のお気に入りは、やはりあの小さな虫が閉じ込められた琥珀のおはじきだった。指でつまんで、テラスから注ぐ銀色の陽光にかざしてみる。四枚の透明な羽も、斑紋の浮かんだ細長い胴も長い針状の尾も、黄緑色に包まれている。針のように細い四本の脚は、凍りついた樹液の中でぴくりともしない。
――このおはじきだけ、目がある。羽根がある。脚がある。知恵もある。おばあ様もお母様も、これで勉強したんだもの。私の代わりに、人間の様子を見に行ってくれないかな。
 トエトリアは小さくくしゃみをした。おはじきが指先から滑り落ちて、膝に、そして石床にこつんとあたる音がした。彼女は椅子を降りて机の下に潜り込む。小さなおはじきが侍女達の足元を縫い、大きな弧を描きながら転がっていくのが見えた。
 おはじきは机の向かいにある、造り付けの本棚の下段に当たって跳ねる。そして本の隙間に飛び込んで見えなくなってしまった。
「いいわ。私がとるから」
 トエトリアは侍女達をとどめ、本棚の前にしゃがむ。下段には古い魔術の本が並んでいた。ほとんどが彼女の祖母が使っていたもので、祖母自身の注釈で埋め尽くされていることも知っている。彼女は一冊を抜き取り、棚を探る。指先に軽いものが当たったが、奥へ押し込んでしまった。さらに一冊を抜き取り、もう一度棚の奥に片腕を突っ込む。羽の唸る音が聞こえ、彼女の指先をくすぐった。
 トエトリアは驚いて、棚の奥を覗きこむ。本に挟まれて向こうに見えるのは、白い粒が無数に輝く夜空のようなものだった。小さな星々はゆっくりと上に向かって立ち昇っている。すぐ手前には、地平線に顔を出した若い月のように、転がり込んだおはじきがぽつんとあった。トエトリアは本棚の向こうの星空へ腕を伸ばす。
――これ、基礎石じゃないのかな。こんなところに、むき出しのままであったっけ。
 肩まで奥に突っ込んでも、手のひらに壁の感触はない。とうとうトエトリアは頭から本棚の奥に突っ込み、奥へ行ってしまった。
 慌てたのは侍女達だ。トエトリアの足首を掴んで引き戻そうとする前に、王女の体がすとんと奥に消えた。侍女が本棚を覗き込むと、奥には星空のような基礎石しかない。手を伸ばせば、すぐに基礎石の独特な感触が返ってくる。
「あなた達、いったい何をしているの!」
 部屋の騒ぎを聞きつけ、侍従長が駆けつける。侍女達はおろおろと振り返った。
「姫様が、この奥に落ちてしまわれたんです!」
 侍従長のすぐ後ろにいた近衛隊長が、侍女の指差す本棚を覗いた。
「このような所に手窓があったのですか」
「ありました。ありましたけど、手窓は壁です! すり抜けて基礎石の向こうに落ちてしまわれるなんて、いままで聞いたことなどございません!」
 度を失いおろおろとするばかりの侍従長達に対し、近衛隊長はずっと冷静に部下達へ指示を出す。
「この直下にある手窓全てを調べ、奥に王女様の姿がないか確認せよ」
 兵士達が部屋を去ると、近衛隊長は王衛のシェドとともに本棚の上段の棚を取り外していく。黙々と作業をする二人の前に現れたのは、本棚の枠いっぱいに広がる基礎石の夜空だ。
「窓にカーテンを。部屋を暗くして」
 近衛隊長の命令に、侍女達があわあわと動く。シェドはその隣で守護の剣をさやから抜き、基礎石の壁に突き立てた。
「王衛殿、無益です」
 近衛隊長は言葉で制止する。しかしシェドは剣の切っ先をわずかに石に突き立てたまま、じっと動かない。
 部屋が暗くなると、星を無数に浮かべる基礎石の窓が四角く浮かび上がった。剣もまた青白い輝きをほのかにまとって、基礎石の表をわずかに染める。そのおぼろな輝きは、石の表から徐々に内部へと染み込んだ。光の色は淡い草色に変わり、細く輝く線となって下りの螺旋を描きながら下へと延びていく。
「石の中に、道がある……」
 近衛隊長は低い声で呟いた。シェドは頷く。
「この道を生身で通れたのは、初代の王達だけでした。まさか王女様にもそれが出来るとは」
 彼は顔をゆがめ、それ以上何も言わず、剣を納めながら足早に部屋から立ち去る。近衛隊長は基礎石の前で、侍従長と顔を見合わせる。剣の光が消えた基礎石の中は、星が立ち昇る無限の夜空に戻っていた。

 上階の騒ぎは、トエトリアの耳には全く届いてこなかった。石の中は恐ろしく静かで、自分自身の鼓動すら聞こえない。薄闇の中、自分が下へ下へと落ちているのは、髪や服が上になびく感覚から分かった。両腕をかけば、袖を通して肌に水の流れのような抵抗を感じる。まるで川の中で泳ぐ感覚だが、体の周りを満たしているものは水よりも頼りない。どんなに必死に泳いでも、ゆっくりと下に落ち続けるばかりだ。時折四角く切り取られた小さな明かりが下から上へ過ぎ去る。あれはきっと、城内に設けられた手窓からの明かりだ。
――どこかで外に出なきゃ。このままだと城の一番下まで落ちちゃうよ。
 ところが光の方向へ泳ごうとしても体の落下に間に合わず、出口となる手窓を上へと見送ることになってしまう。悪夢の中のように、どんなにあがいても焦りが募るばかりで遅々として進まない。体は疲労でだんだん動かなくなってくる。手や足の指もジンジンと痛み出す。彼女は琥珀の中の虫を思い出した。
――あの虫は、私のお願いを聞き入れてくれたのかもね。部屋からこうして出してくれたもの。でも、方法をもう少し考えて欲しかったなぁ。
 幸いと、もがいているうちにだんだん泳ぐコツが見えてくる。そうなると、指の痛みも気にならなくなる。トエトリアは遥か下に見えた手窓の光にめがけ、そろえた両足で、水よりも頼りない基礎石の中身を打つ。何度も失敗しながら、ついに一つの手窓の枠に指をかけると、彼女は出口を塞ぐ化粧石に意識を集中させた。
 手窓を囲う化粧石が崩れ、彼女は基礎石の中から床の上に転がり出る。崩れた石で膝や腰を強く打ちつけながらも、彼女はすぐさま周りをうかがった。人の姿はない。遠くから、荒々しい喧噪が彼女の耳を打っていた。廊下の装飾を見れば、自分が中層下部に来たことが分かる。人間のことを思い出し、彼女はびりびりと胸の奥が緊張するのを感じる。
 立ち上がろうとして、彼女はひどい眩暈に振り回された。頭を押さえ、壁越しに肩を支える。今まで基礎石の中にいたせいだろうか。自分の体と意識が、ちぐはぐになっていた。用心してゆっくり歩かないと、頭のてっぺんから水みたいに心が零れ落ちそうだ。
 それから彼女は、ついさっきまで、自分がずっと息を止めていたことにも気が付いた。口を開けてすっと息を吸うと、いっぺんに体が軽くなった。眩暈もおさまる。はっきりした意識に、焦げ臭い嫌な匂いが鼻の奥をかすめた。
――火事だ。誰が火をつけたんだろう。
 慌ただしい足音が頭の上を右から左へ駆け抜けていく。トエトリアは廊下の窓へにじり寄った。すぐ上階を兵士の一群が通って行ったのだ。じっと窓の外へ耳を澄ますと、一度通り過ぎた足音が、別の場所から聞こえてくる。重たい足音と一緒にガシャガシャとけたたましい金属音が鳴るのは、軽装であるはずの石人の兵士からは考えられない。トエトリアの背筋に、冷たい緊張が走る。
 足音の主達が怒鳴る声を聞いた。その言葉は石人語ではない。「言の葉」でもない。おまけに足音はすぐ近くに来ていた。階段を駆け下りている。
――人間しかいない。どうしよう……。町の人や、城の兵士達は無事なのかな。
 自分の体を探ってみても、武器になりそうなものは一つも見当たらない。彼女は腰飾りを外して左手に巻きつける。銀の細い棒をつなげただけの鎖だが、ないよりましだ。
「誰だ!」
 鋭い男の声が彼女を一瞬射すくめる。彼女の視線の先へ、廊下の角から白銀の鎧姿が八つ現れたのだ。言葉は「言の葉」だった。相手はトエトリアを見ても、油断した様子は少しも見せない。鋭い剣の先をこちらに向けて、彼らは立ち止まった。
「動くな。そこにいろ」
 一人が油断なく剣を構え、トエトリアの方へ歩み寄る。
「いやよ。私、捕まりたくないの」
 トエトリアは困って叫び返した。すると廊下の角で待っている七人の兵隊は、どっと笑った。彼女を捕まえようとしていた一人の兵士は、ここぞとばかりに足を速める。トエトリアは慌てて立ち上がり、銀の鎖を巻いた左腕を突き出した。
 その瞬間、兵士達の笑い声はぴたりとやんだ。彼女に向かっていた兵士もすばやく足を止める。相手が石人の子どもといえど、彼らはトエトリアが魔法を使うと思い、怖がったのだ。真顔でこちらを鋭く見つめる八人の大人の姿に、トエトリアも怯えた。何か考えがあって突き出したわけではない。しかし、ここでもし腕を下してしまえば、銀色の兵士達はその隙を逃さず本気で斬りかかってくるかもしれない。彼らは魔法使いを恐れているのだ。
 トエトリアはじりじりと壁際に動き、右腕を後ろ手に基礎石へ触れた。手のひらに平らで滑らかな感触が当たる。水より軽く、風より重かったはずの基礎石は、強情なまでに固い、ただの石壁に戻っていた。どうすれば再び基礎石の中へ戻れるのだろう。
 立ち止まっていた兵士達が、不意に動いた。彼女は最初の兵士の手を危うく潜り抜ける。ところが逃げ出そうと引いた片足を、兵士に捕まれてしまった。あっという間に彼女は片足でぶら下げられてしまう。自分の長い髪の先が、床を掃くのが見えた。彼女の背中で兵士達の怒鳴り声が聞こえる。何を言っているのか分からない。トエトリアは鎖を巻いた左手と右手を胸の前でギュッと合わせた。魔法を使えば、彼女を捕まえている兵士にちょっとした火傷を負わせられる。しかしそんなささやかな魔法では、彼らから逃げることなど到底無理だ。
 次の瞬間、彼女は乱暴に床の上へ投げ出された。兵士達の怒号が廊下にこだまする。トエトリアは痛みを堪え、床から頭を起こす。白銀の兵士達のほかに、黒い鎧の兵士の姿がいくつか見えた。いくつもの鞘走りの音が耳をくすぐった。
 黒い兵士達の姿を見て、トエトリアは彼らもまた人間だと知る。ところが同じ人間同士なのに、黒い兵士達と白銀の兵士達は剣を交えていた。白銀の兵士が、最初によろめいて床に倒れる。
 一流の騎士達に守られて暮らす彼女には、彼らの練度がよく分かる。黒い兵士達の方が、より熟練された身のこなしと迷いのない意志を持っていた。一方で、身につけている装備は明らかに白銀の兵士達のものの方がよい。しかし白銀の兵士達は、突然襲撃を受けた上、相手の気迫に戦意を飲まれて戸惑っていた。
 トエトリアは床に倒れたまま、目の前の死闘から目を逸らせなかった。彼女もまた、黒い兵士達が発する気迫に圧倒されていた。それは怨念といっていいほどに強く心の奥底から発せられ、正義や大義の衣すら匂わせない丸裸で透明な、誇り高いものに思われた。
「怪我はないか、仲間はどこだ」
 放心していたトエトリアに、低い声がかけられる。彼女は稲妻に打たれたように体を震わせ、鋭く振り向いた。黒い鎧の兵士が一人、彼女の傍に屈んでいる。壮年過ぎの老兵士だ。背は高く、その顔つきには驚くほど力が溢れている。
「敵が来る。いつまでもここにいるわけにはいかん」
 兵士はそう言ってトエトリアの返事も待たず、彼女をひょいと背中におぶう。かと思うと目にもとまらぬ速さで廊下の先へと走り出した。まだ味方が白銀の兵士達と戦っているというのに、彼は一度も振り返らない。
 黒い鎧の兵士は階段を上りはじめる。途中、白銀の兵士達が立ちはだかった。しかし黒い兵士は剣一本で全ての攻撃を見事に流し、彼らをまとめて階段の下へ蹴り落としてしまう。
 トエトリアは黒い兵士の背中に必死にへばりつきながら、不安を募らせた。白銀の兵士達が城のいたるところまで侵入している。城民はどこへ逃げているのだろう。黄緑の城の兵士達はみんな倒されてしまったのだろうか。人間だらけで、石人の姿がどこにもないのだ。
 階段を上りきると町の通りに出た。あちこちに火事が起き、濃い霧のように煙が立ち込めている。銀色の鎧姿が煙の間にいくつも行き交っていた。黒い兵士は立ち込める煙に身を隠し、近くの建物からさらに登り階段を見つけて駆け上がる。煤煙と長い階段のせいで、息はとても苦しそうになっていた。
 通りが火事になっていたのは、石人が人間を足止めしようと火をつけたのかもしれない。だとすれば、皆はもっと上の方へ避難しているのだろうか。それにこの黒い兵士は、白銀の兵士達の群れを潜り抜け、たった一人でこんなところまで来て、大丈夫なのだろうか。トエトリアは黒い兵士の肩を叩き、兜の耳元で声を上げた。
「ありがとう。私、ここから自分で歩ける。あなたはこれ以上登らないほうがいいわ」
「そうか。それは心強い」
 黒い兵士はそう言って階段を登り切り、トエトリアを床に降ろす。彼女は小さく悲鳴を上げた。上階の街も火の手があり、白銀の鎧を着た兵士達がいたのだ。彼らも突然現れた黒い鎧の兵士に驚いていた。黒い兵士はトエトリアの肩に手を添えたまま、彼らに威厳のある声で問いただした。
「この石人の子に手出しをせず、後も追わぬと誓えるか」
 白銀の兵士達の中から、一人、立派な鎧とマントを身に着けた騎士が答える。
「誓おう。子どもを斬るのは我らの道理ではない。それにしても、我らが打ち倒したばかりの亡国の兵と、異人の城で再会するとはな」
 白銀の騎士は腕を上げて、脇の細い通りを指さした。通りの突き当りには石造りのアーチがあり、町の外に広がる褪せた緑色の斜面が覗いている。短い草地の上を冷たい風が吹きおろし、いつもと変わらない風景は、通りの惨状とは別世界だ。
「小娘は行け。ただしお前は剣を捨てなければならない。国を失ったときに、そうすべきだったのだ」
 白銀の騎士が言う。黒い兵士は言われたとおり、手にした剣を床に置こうと上体を傾ける。トエトリアはすばやくその腕にすがった。そして兵士の顔を見上げ、金色の瞳を相手の瞳にしっかりと据える。
「なに、捕まるだけだ。同じ人間同士だから、心配はない」
「石人に見つかったら、どっちも危ないよ! 皆には白銀の鎧も黒い鎧も関係ないもの!」
「そのときはお互い協力して逃げるだろう。私達はあの者達を迎えに来たのだ」
 落ち着いた柔らかな物言いに、トエトリアはおずおずと腕を離した。黒い兵士は剣を置いて体を起こす。白銀の騎士がそばまで来ていた。騎士は剣を拾い上げ、怪訝な様子で黒い兵士の顔をじろじろと眺める。それから騎士はトエトリアに向かって、通りの先をぐいと指差した。
「早く行け。魔術兵達が戻れば、厄介なことになる」
 黒い兵士も無言で頷いて見せる。トエトリアはとうとう駆けだした。黒い兵士の身の上が心配でたまらなく、後ろを振り返りたかったが、できなかった。彼女は石人だった。一刻も早く人間達の元を逃れ、仲間の元へ戻らなければならないのだ。

 城民達の避難が遅れたのは、致命的だった。ありえないことに、人間達は石人の城をよく心得ていた。彼らは城民を脅すだけで決して捕えようとはしなかった。かわりに城民の逃げる方向から城の主要な施設を見つけ出し、そこへとんでもない数の兵力をぶつけて制圧したのだ。人間の兵士達にとって幸いなのは、黄緑の城に王が不在だったことである。それもまた石人からすれば、最大の弱点を突かれてしまったことになる。
 実際人間の侵攻は、中層下部にとどまっていた。にもかかわらず、黄緑の兵達は最初の混乱から立ち直れなかった。個々に戦いを仕掛けては人間の巧みな用兵に翻弄され、捕まったり敗走させられたりしている。それはさらなる焦りを生んでいた。黄緑の兵達は兵力を分断され、上層の指示からも完全に孤立していた。
「下層は混乱の極みだ。王座が使えぬのが、あまりに口惜しい」
 城の最上層に位置する王座の間で、黄緑の騎士団長が歯ぎしりをする。下層からの情報が途絶え、城民や兵士達が無事なのかどうなのかも分からない。届く知らせは断片的で、しかも城の外周部の状況にとどまっていた。
「王女様の行方も分からないでは、この城はどうなるのか……」
 右大臣もうなだれる。それから彼ははっと顔を上げた。
「王位第二継承者のルイクーム様に座っていただくのはいかがか。あのお方は優秀な魔法使いでもいらっしゃる」
 その言葉に左大臣が鋭く反応し、右大臣をねめつけた。
「王座に座れるのは、王かその位を継ぐ者だけです。そのような不吉なことはできません」
「では人間どもを好きなようにのさばらせておくのですか! 下層の外周部は完全に敵の手に落ち、中層の外周部も時間の問題となっているのですぞ」
「城の力を使わずとも、人間などどうにかなります」
「どうにもなっていないではないですか!」
「お二人とも、おやめください。言い争っている場合ではございません」
 黄緑の騎士団長が、にらみ合う左右の大臣の間に割って入る。話は一向に進展がなかった。左大臣は王座を守るようにして、一同の前に立ちはだかっている。
「白城からの連絡はまだ途絶えたままか」
 一向に進まない議論の間を縫って、王室騎士団長が部下に尋ねる。
「最初の一報以降、何も。こちらから使いを二人出しましたが、一人は敵に射落とされてしまいました。もう一人も捕まっていなければよいのですが」
 広間は再び居心地の悪い沈黙に包まれる。誰ともなく深いため息をついたときだった。
「皆様! 外を! 白殿下が参られた!」
白王 王宮騎士が中庭に面したバルコニーで怒鳴る。王座の間にいた石人達は、ひとかたまりになって庭へと飛び出した。
 空中庭園から眼下に、純白の巨大な帆が揺らいだ。星の神殿の大天蓋にも匹敵しようかというそれは、帆の上に霞を乗せている。帆の正体は蝶に似た羽で、純白の柔らかく細い繊毛に覆われていた。羽を包む霞は、黄緑の城を囲む山々からさらわれた雲だ。
 蛾を思わせる姿だった。横に広げた四枚の羽が、中層に広がる牧草地の斜面をすっぽりと覆っている。羽と同じく純白の羽毛に覆われた体には、胸から両の横腹に漆黒の斑点模様がある。小さな頭部は虫よりもげっ歯類を思わせる獣に似て、長い飾り毛に覆われた触覚とも耳ともつかないものが額の両脇に立っていた。淡褐色をした二つの瞳の両脇には、小さな赤い球が飾りのようについている。それは昆虫の複眼を思わせる、六角形の網目を淡く浮かせていた。
 下層や中層間近にいた人間達には、この昆虫とも動物ともつかない恐ろしい姿がありありと見て取れた。彼らは見たこともない怪物の姿とその巨大さに怯え、狂ったように矢や魔術の炎や稲妻を射かけている。
 白い蛾は細い前脚を中層の塔にかけ、上によじ登ろうとしていた。体と羽が大きすぎて、王城まで飛んでいくのが難しいのだ。魔術の炎は腹部を覆うやわらかな毛の間で消えていたが、矢は無防備な背や下腹へ針山のように次々と刺さっていく。
「危ない! 下がれ!」
 ようやく白王の前脚が王城の庭園のふちにかかる。王室騎士団長は大臣達を後ろに追い出し、部下達を呼びつける。庭園に半身を現した白王の頭から、次々と騎士達がよじ登る。彼らは白王の体に刺さった矢を抜き始めた。白王が大きすぎる体を庭園に引き上げると、傷口から落ちた灰色の体液が柔らかな下草を濡らした。
「すべて抜きました。もう大丈夫です!」
 最後の騎士が白王の体から滑るように飛び降りる。その声とともに巨大な蛾の姿は薄れ、白いマントに身を包んだブレイヤールの姿が四つんばいで現れた。彼はよろよろと立ちあがり、真っ先に駆けつけた王室騎士団長に顔を向けた。
「大丈夫です。矢傷の痕がチクチクするだけ。幻獣の姿で流した灰色の血は、洗い流してください。弱いですが、毒があります」
「心配いたしました。手当ての用意をいたしましょう」
 王室騎士団長と入れ違いに、左右の大臣がブレイヤールを王座の間へ迎え入れる。椅子が用意され、ひとまずも彼はそこへ腰を落ち着けた。顔色はさほど良くもなく、ひどく疲れきった様子で目の下には薄く隈ができている。矢傷の跡は赤い小さな斑点となって首筋や手の甲を覆っていた。
「白城を襲った人間達は、あらかた追い返しました。しかしあまりに数が多すぎ、我が城の者達だけではすべて追い出すことはできません。黄緑の城の力添えをいただきに、参ったのですが」
 ブレイヤールは左大臣を見上げる。左大臣が答える前に、右大臣が怒った。
「追い返したですと! なぜ殺さなかったのです。白城で人間どもに我らの恐ろしさを知らしめれば、この城もここまで荒らされることなどなかったはずだ! このまま連中が増長すれば、さらに恐ろしいことが起こるかもしれませんぞ」
「安易な殺戮も、良くない結果を招くだけかもしれません」
 ブレイヤールは頑なに答える。黄緑の城で起こった惨状は、すでに目の当たりにしていた。王のいない石人の城がどれほど脆いか、そして王がいる城はどれほど強固なのか、彼は白城で十分に学んでいる。それだけに、彼は右大臣の言葉を素直に認められなかった。
「トエトリアは部屋ですか」
「信じていただけないかもしれませぬが、基礎石の中に落ちてしまわれました」
 左大臣が答えた。彼女はトエトリアがいなくなった経緯を話し、城の状況を伝える。ブレイヤールはその話を途中で遮ることなく、訝しがることもなく、淡々と最後まで聞き下した。左大臣の報告が終わると、彼はまっすぐに黄緑の王座を見つめ、決然と立ち上がる。
「王座を使わせていただきたい」
 短い言葉に、その場にいた黄緑の城の者達は耳を疑った。他国の王を王座に座らせるなど、石人の長い歴史の中で一度もなかった。それどころか、ブレイヤールは白城でも王座に座ったことすらない。左大臣は思わず王座の前に立ちはだかる。ブレイヤールは静かな目を彼女に向けた。
「トエトリア王女を見つけるのも、この城を救うのも、城の力を王座から使わねば犠牲が増えるだけです」
「おっしゃる通りです。しかし、他城の王がこの王座より城の力に触れるは、あまりに危険でございます」
「私はまだ白城での即位式を行っておりません。一魔法使いとして、また王座に触れるに見合った身分にある者として、今はこの城に仕えさせていただきたいのです。かつてこちらに座された亡き先代の女王様の御霊もまた、実の一人娘であるトエトリアを助けるため、きっとお力を貸してくださるはずです」
 左大臣は何も言い返さなかった。彼女はのろのろと道を開けた。淡緑色の石肌に、若葉の蔦と神魚の遊泳を掘り込んだ王座があらわになる。ブレイヤールは後ろの大臣らを振り返る。大臣達も他に打つ手を持たない。誰もそれ以上白王を止めることはできなかった。左大臣が無言の許可のしるしとして、王座の隣に控える。ブレイヤールは白いマントを肩から外し、床に落とす。白王は王座に向かい合う。彼は空の王座に深く一礼をした。そして王座に向かって踏み出す。
 すべての廷臣達は、そっと顔を伏せた。黄緑の国の王座が、他国の王によってその色を汚されるのを見たくなかったのだ。彼らはずっと頭を垂れ、あるいは庭園の向こうにたなびく幾筋もの黒煙に横目を向けていた。ここまで煙が届くということは、中層にまで敵の手が及びつつあることを示している。
 白王は一言も発さず、王座の間は張りつめた緊張で静かに満たされていた。
 最初に顔を上げたのは、誰とも分からない。確かなのは、白王一人だけが最後まで、王座に向かってじっと頭を垂れていたことだ。
 白王は王座に腰を下ろしてはいなかった。王座に向かいあって前かがみになり、肘掛けに両手を乗せて背もたれに頭をつけていた。彼もまた、他国の王座を乱すことはしたくなかったのだ。
 ブレイヤールは魔力で呼んだ深い闇の中へ入っていった。長い間王座はただの冷たい石だった。やがて彼は、まぶたの裏にぽつんと小さな淡色の点を見る。その点は見る間に大きくなり、一人のほっそりした女王の姿になった。とはいえ、彼にはその王はとても大きく見えた。身にまとった衣装は黄緑の王族のものだ。長い黄緑色の髪が両肩を覆い、若草色の瞳には厳しい王の威厳を湛えている。漆黒の空間に彼女は立ち、純白の頬は凍りついて動かない。
――おばさ……、じゃなくて、先代女王様。
 ブレイヤールは女王を見上げながら、遠い記憶を呼び起こす。小さかったトエトリアは、母親の顔を覚えていないかもしれない。彼はまだよく覚えていた。若くして病に倒れた女王は、彼の記憶の中よりもさらに若く見えた。衣装の様子からすると、この姿は王の即位式当時のものかもしれない。
 先代女王は、まったく感情の読み取れない冷たい瞳でブレイヤールを見つめていた。彼は、自分がいつの間にかひざまずいていることに気が付く。そして自分の背後には、王座に向かい合っている彼自身の気配を感じていた。まぶたの裏に見えるこの世界は、夢と現の境界にあるのかもしれない。
 女王が背を向け、暗闇の奥へ歩み出す。ブレイヤールは立ち上がり、後を追った。辺りは闇一色で、踏みしめる床も靴音を返しはしない。それでもなんとなく、自分が坂を降りているのが分かる。歩いているはずなのに、両の掌にはざらついた王座の肘掛けの感触があり、王座の背につけた額は冷たい。自分の肉体が王座のすぐそばにありながら、もう一人の自分は別のところへ向かおうとしている。ちぐはぐな感覚は、集中を緩めると激しい眩暈に変わる。しかしそれはこの暗闇の世界において眩暈などではなく、心を迷い揺さぶる狂気に等しい。
 先を歩く女王の両側にいくつもの人影が見えてくる。ブレイヤールは震えた。人影はすべて、かつてこの国を治めた王達の姿だった。動かない体が道の両側に、暗闇からぶら下げられたように並んでいる。皆が陰気に顔を伏せ、それぞれの色の瞳が暗闇でほのかに光を放っている。その姿はほとんどがまだ若い。すべて即位式当時の姿なのだろう。
 ブレイヤールは先代の背を、すがりつくように目で追いながら、王達の回廊を歩む。進むにつれて、彼らの衣装は古い時代の装束に変わっていく。時代とともに、姿も薄れていった。古い時代の王達を、城が忘れかけているのだろうか。王達の姿はやがて暗闇に時々瞳が光るだけとなり、ついには何も見えなくなる。
 王の列が途切れても、先代は歩み続けていた。古すぎて見えないだけで、実際にはまだ古代の王達が、道の両脇に立っているのかもしれない。
――白城にも王達の列があるんだろう。僕も即位式の水盤を覗けば、こうしてこの世の終わりまで、こんな列に加わることになるんだろう。
 何もなかった暗闇に、細い輪郭を描く小さな泡がいくつも立ち昇りはじめた。泡は、今まで見ることのできなかった通路の先を浮きたたせる。
――あれは、基礎石の中を通る泡だ。まさか、城の中枢塔を下っているのか。なら、この先には……。
偽扉 先代の姿が闇に沈んで消えた。残された暗闇に、銀色の細い線が四角を描いている。ブレイヤールはそこまで駆け寄った。手を差し出すと、基礎石の感触が返ってくる。
――中枢の最下層は行きどまりだ。開くことのない扉がある。この銀の線が、扉の輪郭だろうか。
 話にだけは聞いていたが、見るのは初めてだった。銀の線は基礎石の中に流し込まれた水銀だ。彼が指で触れると銀の線は基礎石の向こうで震える。
 この描かれた扉の向こうへ行けるのは、初代の王のみだったと伝えられている。王達の回廊を歩みぬいた彼が、最後に目通りすべきは初代黄緑王のはずだ。
――ここを通り抜けなければいけないのかな。
 ブレイヤールは戸惑いながら銀の線を指でたどる。突如、水銀の線から白い閃光が生まれ、扉の奥に集まって人の形となる。光は急速に一点に集まり、辺りを闇へ戻すとともに残像を残す。それは基礎石の中に閉じ込められた初代黄緑王の姿だった。
「あっ!」
 ブレイヤールは自分の悲鳴で我に返る。現に戻った瞳に、銀糸の蔦模様が縫い付けられた深い黄緑色の布が映る。王座に敷かれたクッションだと分かるまで、しばらく時間がかかった。
「白殿下、いかがなされました」
 左大臣のかすれた声が背中から聞こえる。ブレイヤールは頭を上げ、差し込む日の光に目を細めた。
「大丈夫です」
 彼は呟いて、再び背もたれに頭を当てて目を閉じる。次の瞬間、彼の精神が飛んだのは暗闇ではなく、城の全てだった。城内のあらゆる場所が怒涛の滝となり、彼のまぶたの裏から精神に流れ込んだ。意識は城に拡散し、耳の奥に幾千もの足音がこだました。壁を打つ人々の悲鳴や命令の怒声が内側から肌を打ち、火に巻かれ黒くよじれていく木々の軋みが骨を締め付ける。
 ブレイヤールは黄緑の城の劣勢を、その体で知った。城の力は血液の流れに乗ってあらゆる感覚を乗っ取り、城内に展開する情景をめまぐるしく脳裏にたたきつけてくる。自分は確かに王座の傍に立っていたはずなのに、いまや城の全ての場所に存在している。その中で、城の一部分にだけ意識を集中させるのは、とても難しかった。トエトリアの気配を探そうにも、それ以上に城の状況の方が騒がしい。
 彼は目の奥で、大樹の塔の学舎に変わらず座る老師の存在を感じた。彼女の弟子達が塔の扉を守っているのも、手に取るように分かる。下層の大橋を駆け抜ける黄緑の兵士達の一団は、血管を打つ鼓動と重なり、白銀の鎧に身を包んだハイディーン兵の足取りは、神経を響かせる。何も分からないまま、時間だけがいたずらに過ぎていく。
 石人達の悲鳴が彼の耳を貫いた。ブレイヤールは歯を食いしばる。ぽたぽたと額から汗が流れ、鼻筋を伝って落ちる。鮮烈な城の感覚は、神経の痺れとまぶたを透る日の光に消えかけていた。
「下層の兵をいったん柱の広間へ集めてください。城民は魔術院と博物館の地下に大半が隠れている。人間達は廃街へ誘い出してください。城の力で追い払います」
 ブレイヤールの言葉を聞き、数人の騎士がすぐさま広間から駆け去る。
「王女様は見つかりませんか」
 左大臣が問いかける声がする。ブレイヤールは答えなかった。集中と意識が薄れるとともに魔力の闇は灰色と変わる。城の力は彼から離れつつあった。鈍くなった感覚の中を、黒い人影が横ぎった。身にまとった鎧の色がぱっと閃めく。閃いた色は感覚を再び闇色に染める。彼は最後の気力を呼び覚まされた。
「銀の鎧の人間と、黒い鎧の人間がいる! 黒い鎧の人間は、銀の鎧の人間をよく知っているはず。彼らと話し、人間との戦の仕方を教わって!」
 ブレイヤールは叫んで顔を起こし、体を横に傾けた。彼はそのまま王座の脇に膝をつく。体は王座から手を放した瞬間に、ひどく軽くなった。両膝を床につくと同時に、激しい疲労と痛みが襲ってくる。誰かが彼の耳元でトエトリアのことを尋ねた。必死な声だ。ブレイヤールは無我夢中で体を起こし、王座に手をかける。まだ気を失うわけにはいかない。
――おかしい、なぜだ! 本来この王座に座るべき王族の居場所が、こんなにも掴みづらいなんて……。
 城の中層に意識を向けると、幾重にも重なった石壁が霧となって視界を遮る。耳の奥で、草を蹴って走る軽い足音が横切った。音を追おうと心をそちらに向ける。一瞬霧が晴れ、白い日差しに照らされた緑の斜面が姿を現す。草地と同じ色合いの、長い髪をした子どもの背中が遠ざかっていく。見覚えのある走り方だ。
 不意に降り注ぐ日差しが濃度を持ち、柔らかなカーテンのように風にうねった。カーテンは見る間にまばゆい閃光に変わり、目の前の景色を飲み込んでいく。
――邪魔しないでくれ!
 誰にともなく彼は心の中で叫んだ。無意識に口でも叫んだのかもしれない。声が耳の外からも聞こえた。声はそのまま強い衝撃となって脳を打ち、一瞬気が遠くなる。
 彼は瞳を開けた。知らない男の顔が上からのぞきこんでいる。
「お気付きになられましたか」
 男は囁いて、視界から外れる。西日に縁どられた王座の間の天窓が現れた。空のまぶしさに眉をひそめると、誰かが日よけを傍に寄せる。
「城の魔力にあてられたようです」
 再び男の声がした。どうやら彼は医者らしい。ブレイヤールは体を起こした。辺りを見回すと、王座の間は暗い。窓に切り取られた夕暮れの空だけが明るかった。彼の傍らには医者が膝をつき、左大臣と思われるまっすぐな影が、数人の影と一緒に少し離れた柱の脇にいる。
 鼻から喉の奥にかけて、何かがごわごわとひりついた。鼻血でも出たのだろう。額には布が当てられ、包帯が巻いてある。確かに眉間の上あたりが痛いような、ひどく冷たいような気がする。ブレイヤールは視線を落とす。膝の上に投げ出した手の甲は、薄闇の中でずいぶん白く見える。袖口が黒っぽく汚れているのは、血の染みか。
「王女は中層の斜面にいたのかもしれない」
 切れ切れの声で、ブレイヤールは傍の医師に伝える。彼はその言葉にうなずいた。
「お倒れになる前に、そうおっしゃいました。今、兵が探しに向かっております」
「探しにって、まだ見つかっていない? あれから時間はずいぶん経ったはず」
「城が混乱している最中ゆえ、知らせが遅れているだけかもしれません」
「そうか。まだ人間達も城内にいるんだったな」
 ブレイヤールは呟いた。東側の窓の外は、星が見え始めている。
――中層に、何か得体のしれない大きな力があった。あれはなんだったんだろう。
 彼はふらふらと立ちあがり、再び王座に向かう。大臣の一人が駆け寄り、引き留めた。
「下層はまだ持ちこたえております。今また王座に触れれば、お体に障ります。他国の援軍を待ちましょう」
 ブレイヤールは首を振った。援軍が来るにしても、数日はかかる。来たとしても、石人の兵士と人間の兵士がぶつかれば、それは戦争だ。彼はそれを避けるために黄緑の城に駆けつけたのだし、ディクレス達もそうなのだ。それに再び王座に触れなければ、黄緑の城が受ける犠牲は大きくなる一方だ。王女と城民の安全が、待つことの出来ない危険にさらされているのだ。
 もうじき夜が来る。これはチャンスだった。腐った水と月の光が交わって生まれる邪妖精達を集めれば、人間達を城から追い出せるかもしれない。目に見える石人の兵士よりも、闇にうごめき定まった姿を持たない邪妖精の方が、人間を恐怖に駆り立てるはずだ。
「下層の壁を各所で崩し、城内深くまで月明かりを導きます。昇降塔の水門も開きます。壁が崩れ、水が城から流れ出せば、邪妖精だけでなく魔物も入ってくるかもしれません。しかしそれで、人間達にはここが誰のものの世界かよく分かるはず。彼らが城から逃げ去るまで、黄緑の兵士達には崩した城壁の代わりを務めてもらわねばなりません」
 王座の前でブレイヤールは左大臣の方を振り返る。左大臣は夕闇の中で頷いた。
「分かりました。そのように城の力を使うことを、許可します。我々は城民を守らねばなりません」
 わずかに震える左大臣の凛とした声を受けて、ブレイヤールは王座に向かう。命令を実行に移すために走り去った騎士団長らの足音が、最後に響いた。
 夜に向かう時間の中で、城の力はすべらかに彼の意識に添い、下層へと流れていく。下層を守る城壁の崩れた音や、溢れ出す水路の轟音は、ここまでは届かない。月明かりに照らされた水から、無数の邪妖精達が泡のように飛び出してくるのも、それを見た人間達が恐怖と混乱に陥るのも、すべて王座の間の静寂のうちに起った。
 ブレイヤールは王座から身を起こし、庭園へと歩み出る。空には隅々まで星々が輝き、王座の間はすでに闇の中にあった。黄緑の廷臣達は、白王の姿がバルコニーから射す月明かりに照らしだされて初めて、彼が王座から離れたのを知った。
「どちらへ参られます!」
「この城で私ができることはここまでです!」
 白王は左大臣に怒鳴り返す。
「私は今から、黄緑の王女を探しに行きます。しかし夜が明けたら、必ずこちらに戻ります」
 彼は風の魔法を身にまとい、中層に向かって庭園から飛び降りた。

十八章 黙する物語

――臭うな。嫌な臭い。
 何かがおかしいと最初に気が付いたのは、山の根を縫う風を捉えたアニュディだった。彼女の鋭い鼻は危険のかおりを嗅ぎ付け、本能が淀みない判断を下す。このまま黄緑の城へ降り立ってはいけない。そこで彼女は石人の理性に立ち返った。
――いやいや、待てよ。子ども二人を連れて森に降りるのも危険だ。それに何が起ころうと、城にいる方が安全だもの。
 初めて黄緑の城を飛び立った晩の出来事を、彼女は忘れていない。思い出すだけで、全身の毛がぞわぞわと逆立つ。しかし自分一人がどんなに怖い経験をしていようとも、そのために城の安全を疑うのは身勝手だ。あのときは生意気な魔法使いが一緒にいたから、自分もとばっちりを食っただけなのだ。
「アニュディ! 城の麓あたりから、何か黒い煙が昇ってる!」
 キゲイが叫んだ。アニュディは自分の鼻で嗅ぎ取った危険が、間違いではなかったと知る。彼女は返事の代わりに唸って喉を鳴らした。そして高度を徐々に下げていく。
「降りるの? それなら、城の中腹辺りがいいと思うんだけど」
――そうそう。下の様子がおかしいんなら、上の方に降りればいいだけよ。
 獣の姿で言葉を話せないアニュディは、再び唸って応えた。
 キゲイは両手にしっかりと手綱を巻きつけた。次いで目を風から守っていた水晶の目覆いを外す。途端に風が目をついて、涙があふれた。飛行には便利な目覆いも、水晶板の透明度が悪くて視界が不明瞭になり、着地の際には向かない。キゲイは目の乾きに涙をこぼしながら後ろを確認する。すぐそこには、アニュディの首の背に、帯でしっかりと括りつけられたウージュの後ろ頭が見える。長時間自力で手綱を握り続ける体力も力もない彼女には、こうするより仕方なかった。その分キゲイはよほどうまく、アニュディを地面に誘導しなければならない。
 古都で別れる前、丸々三日かけて、レイゼルトはこの着陸の方法をキゲイに叩き込んでいた。下手をすれば地面に激突して、アニュディは大怪我をするし、乗り手は振り落とされて死んでしまう。キゲイは空を飛ぶ感覚はさっぱりだったが、着地のタイミングはまだ何とかなった。森育ちの彼は木登りだけは得意だったから、枝からぶら下がって勢いつけて飛び降りるときの感覚が、ちょっとだけ近いと思ったのだ。はたして、この認識はどれだけあっていたのだろうか。
 乗り手と飛び手の不安は、的中した。練習のときと同様、今回も彼女は地面に片足をつけそこね、勢い余って土の中へ鼻先を突っ込む。手綱をしっかりと握っていたキゲイは、跳ね飛ばされながらもアニュディの顔の脇にぶら下がるだけですんだ。かわいそうなのは自分で身動きの取れないウージュだ。もっとも彼女は、アニュディがいち早く翼で背中を覆ってくれたおかげで、木の枝に引っかかれることはなかった。もちろんそれは無事だという話にはならないだろうが。
 三人が降り立ったのは、黄緑の城の中層に位置する傾斜地だった。背の低い石垣が層状に重なっていて、かつては棚田だったのかもしれない。陰りはじめる日の下、荒れ放題の草地に、もつれ合ったツタをかぶる黒々とした茂みがあちこちで長い影を伸ばしていた。下層辺りから立ち昇る黒煙は、こちらの斜面からは見えなかった。山間の日暮れは早い。辺りが真っ暗になるのはもうすぐだ。
 アニュディは人の姿に戻り、帯を緩めてウージュを下に降ろす。ウージュはそのまま地べたにへたり込んだ。
「どうも妙な空気ね。キゲイ、何が見える?」
「僕らのうんと頭の上に、大きな橋が突きだしてる。あれ、崩れたりしない? 橋の先っぽに壁のない柱だけの小さな建物がある。えっと、ここは城の南東側で、僕らは石垣でできた段々の草地にいる」
「段々の足場に降りるから、着地に失敗するんじゃない……。手首、思いきりくじいたわ。で、上に見えるのは、多分物見台ね。分かった。斜面の上の方に、小さな建物がたくさん見えない?」
「見える。だけど真っ暗だし、なんだか遺跡みたいに寂しい感じだよ」
「遺跡とは失礼な。町跡よ。どこかに、城内に通じる道があると思う。物見台から誰かが私達のこと見てるはずだから、役人を寄越してくれるはずよ。私達、許可なしで着陸したからね。さ、行こう。ウージュ、自分で歩けるよね。私の背中は、当分こりごりでしょ」
 アニュディはウージュの手を取って立たせる。ウージュは文句も言わずに従った。レイゼルトが飲ませた魔物の水が効いたのか、古都にいた数日の間に、彼女はずいぶん様子がよくなってきていた。足腰はしっかりと強くなっていて、人の話す言葉にも興味を持って耳を傾けるようになっている。そのおかげで、非常事態というものも理解してくれるようになった。無理矢理立たされたウージュは不機嫌そうだったが、少なくとも素直にいうことを聞いてくれたのだ。
 キゲイはアニュディから帯を受け取り、それを自分の腰紐に括り付ける。帯の端っこはアニュディが握った。足場の悪い荒れ果てた斜面は、直接腕を組んで歩くとかえって危ない。キゲイは彼女を誘導しながら、斜面を登りだした。ウージュはその二人の後を追う。

 太陽は山の峰の向こうへ沈んだ。空だけが黄昏の名残で薄紅色に輝き、黄緑の城は一足先に夜の闇に包まれている。
――上の方、上の方。戻らなきゃ。
 トエトリアは宵闇の中にいた。道の窪みやでっぱりに何度も足を取られそうになりながら、しんとした街角の坂道を足早に上り続ける。
 火の手が上がる城内都市から春待ちの牧草地に出て、半刻経っている。彼女は城外の廃街を進んでいた。風が建物の隙間を駆け抜けびゅうびゅう鳴っている。彼女の足を包んでいた室内用の靴は、とうの昔に脱ぎ捨てられていた。長年人の手が入らない石畳は、作りのまずかった部分で石が緩んだり、割れたりしている。柔らかい靴はあっという間に破れてしまったのだ。
 でこぼこの石畳を登りきったトエトリアは、小さな広場へ出た。広場の中央には、大きくて四角い石の蓋が置いてある。恐らく井戸の穴を塞いだのだろう。井戸の向こうには、さらに町の上へと続く二つの狭い路地が伸びている。
――どっちに行ったらいいのかな。
 トエトリアは広場の入り口に立ったまま、疲れた表情で路地を見上げる。乱れた呼吸を整えようと息を飲んだとき、彼女は石畳を鳴らす靴音を聞いた気がした。すばやく辺りを見回し、手近の建物の中に身を隠す。扉のなくなった戸口の陰から広場をうかがい、耳をそばだてた。近くの通りのどこかから、石畳の上で砂が滑る音、小石が転がる音が聞こえてくる。家々が空っぽなせいもあるだろう。音が反響してよく響く。
 魔法を使って、ちゃんと音を拾ったほうがいいかもしれない。トエトリアは戸口から頭を引っ込めると、意識を集中した。ところが彼女の集中は音でなく別のものを先に捉える。石畳のずっと下に、大きな魔法の気配があった。それは城の上から下へ、葉脈のように細かな支流を生み出しながら、すさまじい勢いで流れている。魔力の奔流に意識を攫われそうになって、彼女は思わず集中を解いた。
――誰かが城の力を操ってる! 誰かしら。きっともうじき何かが起こる。人間達、やっつけられちゃうわ!
 トエトリアはまぶたを開く。真っ暗闇だ。彼女は瞬きをして、自分がちゃんと目を開けていることを確かめる。
「しっ! しっ!」
 囁いて手を払うと、影が蜘蛛の子を散らして家の奥の暗がりへ姿を消す。窓から差し込む宵の光が、床を照らし出した。トエトリアは目をこする。最後のひとかけらの影が彼女の頬をつたい降りて、柱の裏に溶け消えた。
 トエトリアは意を決して、戸口から外に飛び出す。城の力がすぐそこにあるなら、靴音の主が何者だろうと、恐れる必要はないだろう。城が守ってくれる。
 家の外へ走り出て、トエトリアはあっと声を上げた。ついさっきまで誰もいなかったはずの広場に、白肌の痩せた女の子が佇んでいたのだ。トエトリアは井戸を挟んで相手と向かい合う。先ほどの靴音の主は、この女の子だったのだろうか。
「あなた誰? ここで何をしているの?」
 トエトリアは女の子に話しかける。女の子は彼女と同じくらい真っ白な肌をしていた。細く短い産毛のような髪がまるい頭を覆って、空色の大きな瞳がこちらをじっと見つめ返している。無表情な顔が、少し気味悪い。女の子が固まったまま動かないので、トエトリアは首をかしげた。
――あ、そうか。あの子にしてみれば、私も突然広場に現れた、あやしい子なんだわ。
 トエトリアがそう気づいた直後、城が低いうなり声をあげた。周りの建物が微かな砂埃を立てる。石畳の上の小石が、ころころと小さく震える。うなりはやがて微かな地響きの軋みに変わり、消える。しかし静寂は戻らなかった。耳には聞こえない騒がしさが、城の唸りと入れ替わるように満ちてきている。
 先ほどの影の妖精といい、城の力はすでに何かを引き起こし始めているようだ。トエトリアは目を閉じ、広場のずっと地下を流れる城の力を、もう一度確かめようとする。彼女は城の力よりもずっと浅いところで、何かが勢いよく流れ込んでくるのに気がついた。
「危ない! 下がって!」
 トエトリアは女の子に叫ぶ。轟音と共に石の蓋が跳ね飛んで、井戸から勢いよく水が噴き出した。吹き上がる水の中で、たくさんの邪妖精達が渦を巻いている。水は建物の屋根まで届き、その天辺から水しぶきと一緒に次々と邪妖精達をまき散らす。まるで邪妖精の噴水だ。彼らは水の粒と一緒にしばし宙を漂い、宵の空を背景に影絵のように浮き上がる。生まれたばかりでお腹を空かせた彼らは、格好の獲物、人間達の気配を感じ取り、風に乗って城の下層へと流れていく。
「ウージュ! どこなの」
 アニュディが手探りで石畳の道を確かめつつ、水浸しの小さな広場にたどり着いた。その後ろから数匹の邪妖精にたかられて、木の枝を振り回すキゲイが走り出てくる。トエトリアは飛び上がって驚いた。
「キゲイ! いったいここで何をしているの! こっちのお姉さんも、誰!」
 トエトリアはキゲイに駆け寄って、短い魔法の言葉で邪妖精を霧に還す。
「王女様もここで何してたの! 城に何があったの。僕、早く白城に帰らなきゃいけないんだ」
「私も早く上の城に戻らなきゃいけないところなの。戻ったら誰かに頼んであげる。あ、お姉さん、邪精が右目にくっついてるよ!」
 アニュディは目をしばたいた。薄青い影が彼女の右のまつ毛にぶら下がっている。アニュディはそれをつまんで脇に放る。再び目をしばたかせたが、彼女は突然頭から体のバランスを失って、水浸しの地面に肩をついて倒れた。トエトリアは傍へ駆け寄る。キゲイは水しぶきの向こうに立ちすくむウージュを見つけ、そちらへ走った。
「お姉さん、その邪精は瞳の光を食べるの。本を読むときは明るくして読まないと、これが来るって侍従長が言ってた」
「私には無縁の邪精だと思ってたけど。あの、今キゲイがお嬢ちゃんを王女様って……」
 アニュディはしきりに右目をこすりながら、顔を上げる。トエトリアはお互いの顔がよく見えるよう、手のひらに魔法の光を浮かべる。ところがアニュディは小さく悲鳴を上げて、両手で顔を覆った。トエトリアはすぐに光を引っ込める。
「ごめんなさい。邪精に目をやられたのね。私、トエトリアよ。お姉さんはこの国の人?」
「……はい」
 キゲイはウージュの所へ走り寄り、手を引っ張った。ウージュは水越しにトエトリアの背中を見つめたまま、そこから動こうとしない。またしても強情になったウージュに、キゲイは焦る。あちこちに溢れる邪妖精といい、黄緑の城は彼が予想していた以上にとんでもない事態に陥っている。安全な場所を知っているらしいトエトリアと一緒に、すぐにでもここから離れなければならないというのに。
 そうこうするうちに、井戸の噴水は勢いを弱めていった。水が井戸の底に落ち着くと、邪妖精達は自力で井戸のふちまで這い上がり、路地を駆けたり跳ねたりして一目散に下って行く。
「城の力が収まってきたみたい」
 トエトリアは空を見上げた。真っ暗な空はすでに満天の星で飾られている。幾重にも重なる峰の向こうには、巨大な月が頭の天辺を覗かせていた。トエトリアは網をたぐる仕草で、月の光を小さな広場に呼び込む。薄明るくなった広場は、水浸しの地面からなおも沸き立つ、邪妖精の黒い小さな影が揺らぐ。
「キゲイ、こっちのお姉さんをお願い。その女の子は私が手を引く。私があげたお守り、持ってるよね。手に持ってた方がいいよ」
 言われるまま、キゲイは足元の邪妖精を蹴散らせながらアニュディの傍に戻った。こうも邪妖精が多いと、トエトリアの髪でできたお守りは懐から出しておかないと役に立たないようだ。石人のアニュディでさえ、ハエを追い払うみたいにまとわりつく邪妖精を手ではたいている。
 トエトリアは入れ違いに女の子の傍へ行く。近くで見ると、女の子の目鼻立ちが何となく自分に似ている。こんなそっくりさんが城にいたかしらと内心首をひねりつつ、トエトリアは女の子に手を差し出した。
「私と一緒なら、何にも怖くないよ。さ、行こ」
 女の子はようやく素直に、おずおずと片手を伸ばした。女の子の指先に触れた瞬間、トエトリアは意識がどこかに遠くへ連れ去られる感覚を覚える。戸惑いよろめいて視線を下げた先、水面に一本の白い光が後ろから伸びてくる。
 トエトリアの背後でアニュディが悲鳴を上げた。
「力が! トエト! 私達をお助けください!」
 石畳の上で踊っていた邪妖精達の姿が、白い光を浴びてひとつ残らず砕け散る。名を呼ばれたトエトリアは、すんでのところで自分を取り戻した。振り返れば、井戸からゆらゆらとたぎる白い炎が噴き出している。その揺らめく炎の中から、細い腕のようなものが伸び出る。
「こいつだ! あのときの幽霊だ!」
 キゲイは震えながら、手にしたお守りを握りしめた。地面にうずくまってトエトリアに助けを求めるアニュディは、何の役にも立ちそうにない。キゲイは幽霊の近くに走り寄る。キゲイは金の留め金の付け根に指をかけた。お守りはずいぶん短くなっていた。もう全てほどいてしまうしかない。キゲイは祈りを込め、力いっぱい指を引く。まばゆい光が編みこみから漏れ、白い幽霊を飲み込んだ。
 幽霊はびくともしなかった。伸ばした腕をそのままトエトリアの肩に引っ掛ける。トエトリアはぽかんと口を開けたまま、幽霊を見上げていた。キゲイも愕然となる。最初に追いかけられたとき、幽霊はこのお守りをひどく恐れたはずなのだ。
 突如、風を裂く音とともに白い光が閃く。それはキゲイの脇を通り過ぎ、白い幽霊をつらぬいた。幽霊は長い胴体を曲げる。白くたぎる炎の中に、一瞬、腰をおった人の輪郭が浮かび上がる。幽霊を貫いた先には、建物の石壁に一振りの剣が突き刺さっていた。
「退け!」
 厳しい男の声が響き、路地を抜けて剣を手にした石人の兵士が駆け込んでくる。王衛のシェドだった。彼は手にした剣の柄を壁に突き立った守りの剣に向け、輝く魔法を放つ。それは守りの剣の刀身に跳ね返り、幽霊の胴を再び貫いた。白い影が乱れ、今度こそ幽霊は苦しむそぶりを見せる。それでもなおトエトリアの肩を捉えた腕は伸びたまま、さらにもう一本の腕を伸ばし、王衛に向ける。
 何かがはじける音がして、王衛は近くの石壁に叩きつけられる。運の悪いことに、音はキゲイも襲った。キゲイはぽっかり置いた戸口から屋内まで否応なく吹き飛ばされ、暗闇の中で気を失う。
 邪魔者を追い払った幽霊は、小刻みに震えながらトエトリアの頭上に体を折り曲げた。トエトリアは白くたぎる炎の中から、二つの目がこちらを見ていることに気付く。幽霊につかまれた肩は、感覚がなくなっていた。幽霊はもう片方の腕を彼女の鼻先へ上げる。その腕の先っぽから、何かがことんと彼女の足元に落っこちた。
――そうか。このお方だったんだ。
 トエトリアは悟る。基礎石の中を泳げたのは、この美しい幽霊が自分を呼んだからだ。呼ばれたなら、ついて行かなくてはならない。あきらめに似た静かな気持ちの一方で、心の底でもう一人の自分が嫌だ嫌だと絶叫している。全身の感覚が自分の意識から遠ざかっていく中、誰かが彼女の髪を引っ張っている感覚だけが残った。多分、後ろに立っている白い女の子だ。もっと強く引っ張って、自分を引き留めてくれたらいいのに。その思考を最後に、トエトリアは眠るように意識を失う。
 黄緑の王女の体は消えた。王女の長い髪を掴んでいたウージュの手に、一束の髪が残る。ウージュは幽霊を見上げる。輝く腕が、その髪に向かって伸びるところだ。ウージュは髪を投げた。髪は宙でばらけ、その一筋一筋が透き通る金色の鱗に変わる。幽霊の腕が鱗の一枚に向かって、ぐーんと延びた。その隙にウージュは石壁に突き立った守りの剣へ駆け寄り、柄へと両手を伸ばす。剣は待っていたかのように彼女の手の中に落ち、ほとんど持ち手を引きずるようにして、幽霊の伸びた腕めがけて鋭く飛んだ。
 大巫女の力が宿った剣は、幽霊の輝く腕を真っ二つにした。胴につながった腕はするすると幽霊の白い影の中に引っ込み、鱗を握った手はひらひらと濡れた石畳に落ちる。ウージュは剣を振り上げた勢いで、尻餅をついて倒れる。
 白い幽霊は足元からぶるりと大きく震える。そして井戸の中へと沈み始めた。石畳に残った腕も、吸い込まれるようにして消える。腕が握っていたはずの金の鱗も消えていた。広場は沸き立つ邪妖精が動くだけになった。今夜この城で起こるべきことは全て起こり、力は役目を終えて元の場所へ還っていた。
 ウージュは片手に剣を引きずり、井戸を覗いた。井戸の底は明るく輝いていたが、それは水面に映った小さな丸い月の光だった。彼女は剣を置いて、井戸のふちに腹ばいになる。
「ウージュ、どこ! 誰か、返事して! どうして、こんなに静かになっちゃったの」
 アニュディが石畳で腹這いになったまま叫んだ。ウージュは魚の思考から覚める。顔を上げると、地面に倒れている王衛の姿が目に入る。彼女は剣を手に取って近づく。
 水浸しの石畳に、血が溶けていた。王衛はどこか怪我をしているらしかった。顔をこちらに向け、目も彼女の動きを追っているから、生きてはいるらしい。しかし覚醒した意識は感じられない。ウージュは隣にしゃがんで、肩をゆすってみた。王衛の手が素早く彼女の握る剣に伸び、ウージュは驚いて後ろに飛び退く。王衛は守りの剣を引き寄せ、そっと鞘に納めた。彼はアニュディの方へ首をまわす。
「少女はここにいる」
 アニュディはのろのろと上半身を起こす。濡れた髪から水が滴り、ぽたぽたと石畳に落ちた。
「王女様は。王女様はご無事?」
 その問いに答える者は誰もいなかった。
 シェドは悪夢から冷めやらない気持ちのまま、ウージュを見上げる。ウージュは守りの剣へ真っ白な指を向ける。指さしただけで何も言わない。すぐに背を向けると、井戸へ再び駆け寄る。ウージュが飛び込むのかと、シェドは慌てて腰を浮かせた。しかし彼女は別のものが目的だった。地面から何かを拾い上げて戻ってくる。差し出した指の先に、黄緑色の琥珀が乗っている。王女の部屋でなくなったものだ。なぜそれがここにあるのか。シェドは不審に思ったが、すぐに自分の役目を思い出した。彼は目の前の少女がこれを手にした事実を受け入れる。
「それはあなたが預かっておきなさい。トエトリア様はそれを大事にしている」
 それ以上は何も考えず、彼は深く息を吐きながら、わき腹に刺さった剣の破片を引き抜いた。幽霊に吹き飛ばされたとき、持っていた剣も強い魔法で木端微塵になったのだ。幸い、破片は他の者を傷つけなかったらしい。彼は立ち上がる。
「キゲイ! どこだ!」
 ウージュが指をさす。シェドは示された建物の中に入り、すぐに目をまわしたキゲイを引きずって戻ってきた。ウージュはキゲイの前髪を引っ張った。
「起こさないように。ここであったことは、知らないほうがいいでしょう。人間には関係のないことです」
 ウージュは手を放した。シェドはキゲイを背中に引き上げる。その隙にウージュは懐を探り、くしゃくしゃの紙切れをシェドの腹に突き付ける。彼が空いた手にそれを掴むと、彼女はひと足先にアニュディの所へ走って行った。
 水をはね散らして駆け寄る軽い足音と、落ち着いた重い足音を聞きつけ、アニュディは顔を上げる。
「どちら様?」
「この国の兵士です。あなたは? この少女と人間の少年を連れてきたのは、あなたですか」
「私、人さらいじゃない。ただの調香士です。でも、いろいろ事情があって。その、私、捕まるんですか……」
「黄緑の王族に対する忠誠は?」
「突然なんなんです」
「この子が持ってきた書留です。あなたにも読めるように書かれている」
 シェドはウージュから渡された紙をアニュディに手渡す。アニュディは広げた紙の上に、指を走らせた。魔術の輝線が指に触り、彼女はすぐ、誰が書いたものかを知る。小さな紙切れに、たった三行だけの、「言の葉」文字で綴られた短い手紙だ。
――この者が剣の共を得ることを願う。決して孤独な旅にならぬよう。
 最後の行には紫城の古めかしい呼び名と、彼女の知らない固有名詞らしき言葉がある。
「書かれている内容も、なぜ『言の葉』文字で書いてあるのかも、私には分かりません」
「複数の者が見ることを想定して書かれている、ということでしょう。少なくとも私はその一人らしい。この子が私に渡してくれましたから」
「あなた、この手紙を書いた人と会ったことあるんですか」
「誰が書いたかなど、私は知りません。しかし、共とするにふさわしい剣を持っているのです。ウージュと呼ばれる彼女がこの剣を扱えた以上、私は剣に従わなければならない。そういうお役目にありますので。そして黄緑の王族に忠誠を誓っているのです」
 アニュディは答えず、眉間に力を込める。今夜ここで、トエトリア王女の身に大変なことが起こったらしい。城は王女を守らなかったということか。何一つ状況の分からない自分がもどかしかった。ごく普通の石人として、これまで彼女が信じていたはずの城の力は、彼女をことごとく裏切った。
 うつむいたアニュディにシェドは続ける。
「あなたに何があったのかは存じませんが、私はこの剣をウージュのものにするため、すぐにここを発たねばなりません。人間の少年のこともあるから、まずは白城へ立ち寄ります。それから私は、そこに書かれている平原の町へ、ウージュと手紙のつながりを確かめに行くつもりです。王女を取り戻す手掛かりになるかもしれない」
「……あの、ついて行っていいですか? せめて白城まででも。とにかくここから離れられるなら」
 アニュディは固い表情のまま尋ねる。何が起こって何が終わったのかは、分からないままだ。ただ、恐ろしい力の出現を感じ、それが去った後でも、いまだ体の震えが止まらないことだけがはっきりしている。理解できなくても認めなくてはならない何かが、この場所で起こったのだろう。魔法使いの少年によって無理矢理この城から旅立たされて以来、そういうことは何度もあった。
「あなた自身が望むなら、構いません」
 兵士の返事は、あっけないほどに簡潔だった。時間が惜しかったのかもしれないし、アニュディが今夜あったことを他の石人に話してしまうのを恐れたのかもしれない。
 アニュディはぐっと口を引き結ぶんだ。しわくちゃのハンカチをポケットから引っ張り出し、目隠しに巻く。彼女の右目に宿った新しい感覚が、新しい決意を後押ししていた。最初にこの城を飛び立つとき、生意気な魔法使いの少年と交わした取引は、最悪のタイミングで果たされていた。平日はひとり香を練り、休日は家族や友人達と楽しく過ごす。そんなのんびりした生活は、もはや当分戻って来そうにない。

 ブレイヤールが呼び出した邪妖精達は、城内から敵を綺麗に追い出した。逃げ遅れた者も邪妖精の餌食となって動けなくなり、黄緑の兵士に放り出された。火事は溢れた井戸や水路の水で延焼を食い止められ、黄緑の兵士達の手によって消されていった。
 それでもやはり、敵は城外に追い出されたにすぎなかった。ハイディーン軍は、邪妖精に脅されただけだったことを悟ると、夜明けを待って兵士達を再び城の麓に集結させ始めていた。おまけに近くの森で昨日一日かけて組み立てたらしい、たくさんの櫓や攻城兵器まで引っ張ってくる。
 城は夜明け前の、もっとも薄暗い時刻にあった。
 ブレイヤールはまだ王座の間へ戻っていない。黄緑の大臣達は見張り塔から麓の様子を眺め、絶望をかみしめる。城の麓に続く谷からは、途切れることなく人間達の援軍が流れ込んでいる。敵の数は計り知れない。一方で、黄緑の兵士の数は限られている。限られている故に、十分な休息時間も与えられない。麓を守る城壁全てに、兵士を配置することすらままならなかった。守りの穴を見抜かれれば、またしても人間の怒涛の侵入を許してしまう。他城からの援軍は間に合うか知れず、兵士の数も期待できないかもしれない。石人の想像を絶して、人間が多すぎるのだ。
 ハイディーン軍の目的は本当に単純だった。黄緑の城にある魔法の武具を手に入れること。それだけだ。武具を求める理由も、アークラントとほぼ同じだ。ハイディーンにはエカという大きな敵がいる。石人の持つ武具がなければ、アークラントの次に滅びるのはハイディーンかもしれない。それだけにどのような犠牲を払おうとも、エカを退ける決定的な一手を得るため、彼らは石人世界に立ち入らねばならなかった。
 刻々と日の出は近づき、最初の光が山の端から差し込む。それが合図だったのか、城の麓から人間達のときの声が上がる。攻城兵器から巨大な岩や火の玉が飛び、城壁に新たな亀裂が走った。大した魔術を扱えない故に、人間が生み出した知恵の力は計り知れない。黄緑の兵達は壁を守りきれず、城内へと退く。
 谷間を揺るがす咆哮があがった。人間達は振り上げた剣を留め、石人達はさらに恐怖を覚えて城内深くへと足を速める。
 白城へと続く谷間の道から、日の光を浴びて、一匹の竜が長い首をもたげた。黄金色に輝く鱗をぬめらせ、鼻から火の息を吹く。竜は谷底に集まる人間達に再び吠える。竜の頭には恐ろしく長い槍を持つ騎士があぐらをかいている。騎士の鎧もまた、日の光と同じ色に輝いていた。
 騎士が長い槍を天へ突き上げる。それを合図に、竜の背後から様々な幻獣達が躍り上がった。影よりも黒い巨大な狼達が、金色の鎧をまとった騎士を背に乗せて、真っ先に崖下へ身をすべらせる。苔生す岩の体を持った巨人が悠々と続き、攻城兵器を拳一つで叩き潰す。
 影の狼にまたがった騎士が手近のハイディーン兵を蹴散らし、岩の巨人が動きを止めると、戦場は静まり返る。ハイディーン軍は思いもかけない相手に背後をつかれ、思考停止状態に陥っていた。
「進め!」
 竜にまたがった騎士が、槍に巻きつけた旗を解き放つ。旗は風になびき、白城の紋章が夜明けの空に透けた。勇ましい掛け声が上がり、竜の足元をたくさんの金色の騎士達が駆け抜けた。彼らは手に槍のような杖を持ち、谷底に滑り降りると次々とそれを掲げていく。青白い光が弾け、杖の穂先に輝く。騎士達は杖を地面へ突き立てる。間髪入れず第二列の騎士達が杖を持って前に進む。彼らもまた巨大な雷を天に放ち、輝く杖を地面に立てる。戦場の大気を、石人にとって有利な魔力を帯びたものに変えているのだ。
 これを見た黄緑の兵達もすばやく動いた。彼らは倉庫の一番奥に眠っていた、結界用の杖を引き出してくる。それは七百年前の戦で使われて以来、誰からも忘れ去られていた。風のように現れた黄城の騎士達の戦い方に、彼らもようやく思いだしたのだ。
 ハイディーン軍もいつまでも驚いているだけではなかった。彼らは反撃に出た。昨晩は散々邪妖精に驚かされた。今朝目の前に現れた見たこともない獣も、岩の巨人も、石人が見せる幻影かもしれないのだ。
 再び影の狼にまたがった騎士達が動き出す。長い槍を天に掲げ、ハイディーン兵に突っ込んだ。槍の先に光が燃えた。
 戦場のあちらこちらで、魔法の雷と炎と霧が渦を巻く。朝日がそれらと混じり合い、虹が踊った。人間達にとっては、あたかも世界創世が再び始まったかのような光景が広がった。ハイディーン兵の振るう剣が金色の騎士を捉えようとする。その切っ先で騎士の姿は弾けるように消え、ひらひらと玉虫色の蝶に変わる。緋色の狐になる。敵の姿を見失ってうろたえるハイディーン兵に、影の獣達が突っ込む。電撃は絶えず戦場を駆け巡り、あらゆる者の目を眩ませた。黄緑の城壁の向こうからも、見たこともない生き物達が飛び出してくる。石人達が輝く煙を吐く巨大な松明を数人がかりで持って駆けまわり、戦場の視界をますます眩いものにする。
 黄王は騎士達に、敵を討つのではなく、生かしたまま想像の限りを尽くした幻影を見せよと指示していた。戦場を行き交う雷光が織りだした幻影に、人間達は混乱を極める。目に映るものも、どこまでが幻でどこまでが現か分からない。敵の姿をまともに捉えられないようでは、戦うこともできない。ハイディーン軍は大きく崩れ始めた。大軍勢だけにその収拾はつかない。黄城の騎士達はよく心得て、彼らを帰り道へと追い込み始める。
「走れ! 境の森は悪夢を通さぬ。己らを守るものが何かを知るがいい」
 白城への峡谷を我先に通り抜けるハイディーン兵達をかき分けながら、竜に乗った黄王は声を張り上げた。
 ハイディーン兵が引き上げるのを確認した黄緑の城でも、城内の残党探しが始まっていた。谷底には黄城の騎士達が杖を打ち鳴らす勝利の音がこだまする。黄緑の兵士達はその音を耳にしながらも、あらゆる家の中、水路の奥、壊れた城壁の下までを探した。残党などよりもっと大切なもの、黄緑の王女の姿はまだどこにも見出されていなかったのだ。その捜索の最中、中層の通路で白王が見つかる。彼は駆けつけた兵に一言、「城の根で、扉の閉まる音がした」と告げ、そのまま気を失ってしまった。
 黄緑の左大臣にはなすべきことが多く、黄城の騎士達が何も告げず白城へ退いていくのも、それに伴って黒い鎧の人間達が同じ方向へ去っていくのも、構っていられなかった。経緯は分からないが、白王が黄緑の王座を操ったという事実が、城民に広がっていたのだ。城民は王座が他国の王族によって汚されたことを心よく思わず、このこととトエトリアがいなくなってしまったことを結び付けて考える者も多かった。左大臣はうわさが大きくなる前にと、白王を速やかに白城へ送り届ける。城民達の誤解を解くのは、並大抵でない。左大臣自身にも王座を汚したことへの批判が噴出していた。
「王女様が見つからなくては、黄緑の血筋はまた薄まってしまう。この城もいずれは白城の二の舞だ」
 黄緑の大臣達は嘆きながらそれぞれ城の後始末に向かう。人間との戦に勝利した石人達は、深い悲しみに包まれた。

「何か、声が聞こえる。また人間達かも。近いわ」
 耳の鋭いアニュディが立ち止り、キゲイもそれにつられて足を止めた。シェドとウージュも立ち止り、辺りに耳を澄ませた。
 黄緑の城を出てから数日。様子のおかしいハイディーン兵の姿を何度も認めて、その都度キゲイ達は身を隠す場所を探さなければならなかった。敵の気配を察するのはシェドの方が専門なのだろうが、彼は負っている傷に難儀していて、時々聞き逃してしまう。
 雨模様の薄暗い空に、昼とはいえ辺りの林は十分視界が効かない。その林が突然の閃光に、木立の影をくっきりと浮かび上がらせた。
「雷ではないな」
 シェドが閃光の正体を確かめに動くと、キゲイも林の奥へと小走りに駆けだす。
 七百年前の古い石畳の道が伸びている。数人のハイディーン兵が、一人の男を囲うように構えていた。男は粗末な旅装で、腕に剣を抱えている。彼はもう逃げられないと悟ると、黒く焦げた剣を左手に握りしめ、右手にした杖を掲げる。杖の先に生まれた光がハイディーン兵の兜を打つ。キゲイは男の後ろ姿にも、持っている杖にも見覚えがある。思わず驚きの声を上げそうになって、手で口を塞ぐ。
「あの人だ!」
 キゲイはシェドの袖を引っ張る。
「僕はあの人を白城に連れて行かなきゃいけないんだ!」
 道の先から、黄緑の兵士達まで駆けてきた。ハイディーン兵が怯み、魔法使いの男は黄緑の兵士へ杖を向ける。キゲイはもう一度、シェドの腕を引っ張る。しかしシェドは様子をうかがっているだけで、動こうしない。
「予言者様!」
 とうとうキゲイは一声叫んで、木の陰から飛び出した。
 シェドは素早く敵の数を数えた。ハイディーン兵が三人、黄緑の兵士が二人。ここは不本意だが、敵の数は五としなければならない。

 なぜ黄城の騎士達が白城にいたのか、当の黄王でさえ説明はできなかった。レイゼルトの魔法を受けて気を失ったと思ったら、白城中層の墓所で目覚めたのだ。全ての騎士が元気とは言えず、どこを探しても姿の見当たらない者もいた。黄王は動ける騎士達を率いて白城の住人を探し、黄緑の城の危機を知ったのだ。
 ブレイヤールも黄王も、この不思議な出来事をレイゼルトの仕業と疑いはしなかった。しかしどうやって、レイゼルトが砂にした騎士達を元通りにしたのかまでは分からない。黄王も騎士達も、レイゼルトの襲撃を受けた晩の記憶を思い出そうとすると頭の中に霞がかかり、再び体が砂に戻る恐怖が蘇るだけだ。
「レイゼルトの用いた禁呪は、そもそも黄城に起源がある。私は何としてもあの禁呪使いをもう一度探し出し、決着をつけたい。石人達にとってもそれは必要なことだ。七百数年前、私達はあの禁呪使いを、黄緑の王子とともに見殺しにしたのだから」
 黄王はブレイヤールに話す。そこには神殿や他の国々のように、ただレイゼルトを恐れ憎むだけの感情はない。
「あの者は禁呪とともに、再び我々の世に戻ってきた。あの者が戻ってきた以上、石人はもう一度、七百年前の記憶に向き合わねばならん。そこには我らの祖先が置き去りにし、知ることのなかった何かが隠されているのではないだろうか」
「七百年前は黄緑の王子が、今回は、黄緑の王女が姿を消しました。そしてレイゼルトの消息も、まったく分からなくなっている。もう、すべては終わってしまったのでは」
 ブレイヤールは深く頭を下げてつぶやく。
「史実と似通った事実が起きたとおっしゃられるか。確かに基礎石の中を落ちていったという王女の消え方は、ただならない。彼女が姿を消し、いまだ見つからぬこと。白王、私はそれを黄緑の王族とレイゼルトの因縁だとも、あなたの咎だとも思わぬ」
 ブレイヤールは黙っていた。ただ、黄王が「白王」と呼びかけたことに、少しだけ驚いていた。彼はまだ即位をしていなかったし、崖の国の件で神殿の審判を待つ身に過ぎなかったのだ。
 黄王はしばらく白城に滞在してくれた。ハイディーン軍のその後を調べるには、黄城の騎士達しか役に立つ者はいなかったからだ。
悲しみ ブレイヤールは黄緑の城で力を使い果たし、心身ともに傷を負って数日寝込んでいた。彼は、トエトリアを見つけ出せなかったことを悔やんだ。それに追い打ちをかけるように、黄緑の城から、トエトリアに次ぐ王位継承者を正式に王座に据えるという知らせが届く。黄緑の王家の血筋が、変わるのだ。それは事実上、トエトリアの死を認めるものになる。知らせを受け取ったとき、疲労で抑制の利かなくなっていた彼は、珍しく大激怒した。大臣がその場に居なかったら、使者が持ってきた書状を破いていたかもしれない。
 王家の血筋が変われば、他国の王もそれを承認しなくてはならない。黄緑の使者が持ってきた書面は、そのためのものだった。白城の王族として、ブレイヤールは署名をする義務がある。反対する理由はどこにもないのだから。
 ところがいざ筆を手にとっても、名を書き記すことができない。何かがおかしいと思っていた。トエトリアが見つからないのなら、見つかるまで探すべきではないのか。いつまでたっても署名を渋る彼を、ルガデルロは叱りつけた。友人を心配する気持ちと王の仕事は、別にせねばならないと。新しい黄緑の王の即位を拒むのは、個人的な感傷にすぎないのだと。
 ついにブレイヤールは大臣の言い分に激しく憤りながらも、歯を食いしばり涙をこぼして、書面に名をしたためた。使者が書状を受け取り大臣とともに去ると、彼は力任せに筆の鋭い先を机に突き立てる。そして顔を覆った。
――何でこんなことになった。人間達が来たからか。僕が境界の森を越えさせてしまったからなのか。
 悪い夢なら覚めて欲しい。そして、決して覚めるはずがないことも思い知る。死ぬまで覚めない夢なのだ。トエトリアの消息を掴みたいなら、黄緑の城の壁全てを引きはがし、基礎石の中を覗くしかないのかもしれない。しかし基礎石の中に封じられたままだとも思いたくない。
 力なく両腕をおろした彼の目に、いくつかの書類が留まる。彼が寝込んでいる間も、いくつかの事柄が白城で進行していた。彼は鈍い動作で一枚の紙切れを取り上げる。それは白城で傷の手当てしている、アークラントの生き残り兵についてだった。
 ハイディーンの侵攻は、石人の人間達に対する感情を一気に激化させるものだった。特に黄緑の城では、あの混乱のさなかに王女を失っている。銀の鎧を着ていようと、黒い鎧を着ていようと、石人達にとっては憎んでも憎み足りない人間だった。黒い鎧を着ていたアークラント兵達が、黄緑の城から無事に出てこられたのは、左大臣の采配に他ならない。生きて戻ってきたのは、たった三人だった。他は皆、戦闘で命を落としていた。
 黒い鎧を来た人間達は、黄緑の兵達の助けとなっていた。決して目立った働きではない。しかし運よく彼らと行動を共にした黄緑の兵達は、他の仲間の目を忍びながらそれを認め、彼らなりの筋を通した姿に、感銘すら受けていた。アークラント兵はハイディーン兵に対峙し、かといって石人に媚びるような戦い方もしなかった。黄緑の兵に斬られて命を落としたアークラント兵も多いだろう。ディクレスの消息も途絶えていた。少なくとも白城に逃れた三人は、先王は戻ってこないとはっきり口にし、それ以上は何も語らなかった。地下の暗所に横たえられた物言わぬアークラント兵の列には、あの背の高い、立派な体格の兵士の姿はなかった。
 ブレイヤールは腰を上げ、部屋の四方の壁を覆い尽くす巨大なタペストリーの前に立つ。タペストリーは千年前のものらしいが、石人の色とりどりの髪で織られた色彩は褪せることなくいきいきと、往時の白城の様子を描き出している。ブレイヤールは北側の壁と向かい合う。そこには白城の北の姿が織り込まれ、城に点在するいくつもの町が、夜闇の中に白い明かりをちりばめている。
 夕暮れ時、ブレイヤールはまだ執務室の机に座り、うなだれていた。気持ちは落ち着いて来ていた。そこへグルザリオが扉をノックし、誰とも告げずたくさんの石人達を部屋へ入らせた。
 列をなして現れた石人達は、ブレイヤールと同じ年頃の少年を筆頭に、まだ乳離れもしていないような赤ん坊まで、総勢八人だ。彼らの見事なまでの金髪を見て、ブレイヤールは崖の国の豪奢な王座を思い出す。彼らは年齢順に机の前に横並びになる。年かさの少年が、ぶっきらぼうに一枚の布きれを突き出した。
 ブレイヤールは嫌々受けとり、布にびっしりと書かれた言葉を読む。それは予想通り黄金色の国王、あるいは崖の国の頭目、クラムアネスからのものだった。内容は至って簡潔かつ、彼女の狡猾さを垣間見せるものだ。彼女はどうやらうまく、大空白平原のどこかに逃げおおせたらしい。どこまでも不遜で逞しい内容に、ブレイヤールは憤りを感じるとともに、荒くれだった生気も取り戻す気がしてくる。
 クラムアネスはブレイヤールに従うことを決めた。そして命じられたとおり、人間達に攫われた石人を探し出すつもりらしい。彼女は神殿の罰も恐れており、石人世界に戻ることはないとも記した。さらに大空白平原でのハイディーンの様子が、事細かに報告されていた。
 ハイディーンは石人世界侵攻の足掛かりとして、タバッサの町を占領していたらしい。これが大空白平原を行き来する旅商人達の逆鱗に触れた。空白平原は、国を追われた者達の集まる場所だ。彼らは国だの王だのをノミやシラミ並みに毛嫌いしている。彼らはこの尊大な侵入者を追い返そうと、即席の軍隊を結成し、タバッサへ次々と乗り込んだのだ。そこには普段ならば、旅する隊商を襲う盗賊達の姿もあった。天敵に対し、ならず者商人を筆頭に、ならず者を襲うならず者まで、一致団結したらしい。ハイディーン軍は散々な目にあった。白城で溺れかけ、黄緑の城では悪夢に襲われ、ようやく境の森を抜けたところで、今度は思いもかけない人間の攻撃を受けたのだ。
 そこでクラムアネスは白王へ貸しをつくることにした。平原の人間達がハイディーンを追いかければ、エイナ峡谷の位置がばれてしまう。石人達はハイディーン兵が通り過ぎれば、エイナ峡谷を崩して埋めてしまいたい。一方で平原の人間達は、人間世界への新たな道として、エイナ峡谷を掘り返してでも確保したがるだろう。クラムアネスはそれを見越し、ハイディーン兵が通り過ぎた後の泥炭地に、魔法で火を放った。熱い地面と濃い煙に、平原の人間達はそこで追撃をあきらめたようだ。問題はその後の火だ。クラムアネスは延焼を防ぐのは人間の仕事とばかりに、そこでさっさと手を引いてしまった。
 ブレイヤールは軽い頭痛を感じ、眉間を揉む。
「そういうことだ」
 ブレイヤールが文面を最後まで読んだとみて、金髪の少年は鷹揚に口を開いた。
「それでお袋は、俺達をお前の傍に置いて欲しいと言っている。石人にふさわしい教育は平原では無理だし、黄金の国の連中は俺達の顔を知ってる。な、どういう意味か分かるだろう? お袋もそれを要求できるだけの働きはしたはずだ」
「……働きね。まあ、追い返すわけにもいかない。ふさわしい住居を与える。君達にはまず、身の振る舞い方から覚えてもらわないといけないな」
 目の前でふんぞり返る金髪の子ども達に、ブレイヤールはため息交じりに答えた。
「ところでずっと疑問に思っていたんだが」
 ブレイヤールは子ども達の顔立ちに目を走らせる。
「本当に全員血のつながった兄弟なのか」
「ああ。お袋は同じだ。父親は違う。お袋は十一回結婚して、十一人ともに逃げられた。誰ひとりとして、付き合いきれなかったわけさ。俺の上にはあと四人いるんだぜ。どこにいるかは、あんたにゃ言えないがな」
「聞かなきゃよかった」
 ブレイヤールはクラムアネスの子ども達をひとまず下がらせる。机をこつこつ叩くと、入れ違いにグルザリオが隣室から現れた。
「お呼びで」
「お前を目付けから侍従長に任命する」
 ブレイヤールは片手で額を支えながら告げた。そして、机の上に刺さったままになっている筆を指さす。
「素晴らしい初仕事ですよ。大臣殿に似て、あなたも実はかなり短気な方かもしれません」
「平原でまた、燃える大地の面積が増えた。どこまで広がることやら」
「黄城の騎士達が確認済みです。まさか、さっきの子どもらが何か関係してるんですか」
「あいつらの話はもういいよ……。それより、僕の居室はいい加減、図書館から移した方がいいと思うんだ」
「では荷物をまとめておいてください。大臣と相談して、どこかに新しい部屋を見繕っておきます」
「庭に面した部屋がいい」
「半年後にはそうしましょう。今はまともに雨露をしのげる場所が、限られているんです」
 グルザリオは先のつぶれた筆を手にして退出した。
 それから数日間、ブレイヤールは北側の塔に登り、許される限り日がな一日中、外を眺めて過ごした。たとえ気持ちが落ち着いていても、どこかで正気が失われていることは、自分でも心得ているつもりだ。突然涙をこぼしたり、理由もなく怒りっぽくなったりといった取り乱した姿を、新しい国民にさらすわけにはいかない。彼はいくつかの事柄に気持ちの整理をつけながら、近づきつつあるものを待っていた。
 その間にハイディーンはアークラント領内へ撤退し、エイナ峡谷の道は、石人達によってひそかに崩された。また、神殿からもたらされた大巫女の死と新しい大巫女の即位の知らせは、崖の国から白城へ移住した石人達に、特別な感情を持って受け入れられた。ルガデルロはすかさず彼ら全員へ、喪に服すための純白のスカーフを配った。十日したら、今度はそれに自分の髪で星を縫い取って、新たな大巫女様を祝福する旗にするのだ。石人達にとっては、神殿への信仰に回帰する象徴ともなる。
 夕暮れ前、境の森へと続く荒野に、黒々とした影が現れる。白城の住人達は、また人間が攻めてきたと震えあがった。塔からいち早くその様子を捉えたブレイヤールは、すぐさま階段を二段跳びに駆け下りる。慌てふためく城民に、彼は相手が武器を持っていないことを伝え、城内へ下がるよう命じる。荒野からの列は途切れることなく、森から白城へと続く。列の先頭が白城の大門に達すると、ブレイヤールはそこで彼らを出迎えた。
「石人の王よ。どうか御慈悲を賜りたく……」
 彼の前で両膝をつき深く頭を下げたのは、長旅で薄汚れ、疲れ果てた一人の少女だった。
「お立ちなさい。私はあなた方をお待ちしていました」
 ブレイヤールは彼女の手を取って立たせる。異国のドレスはほとんど汚れがない一方で、それを身に着けている彼女はあまりにもみすぼらしくなっている。櫛も通していない褪せたハシバミ色の髪を後ろにまとめ、痩せてとがった華奢な顎と筋張った首元、目の下には隈ができ、今にも泣きだしそうな瞳をまっすぐこちらに向けて、亡国の王女は白王と向かい合った。
「人間は境の森を越えてはなりませんでした」
「はい」
「石人はいまだもって人間達を受け入れはしません。しかしあなたのお父上は、我々の感情を和らげる犠牲を払われました。石人達は、この城においてならばあなた方の滞在を許すでしょう。そうなるよう、私も努力できる状況になりました」
「私達は、この地に希望を見出そうとしました」
 王女はうなだれて腰の前で両手を結んだ。
「予言者殿の夢見にいらっしゃったのは、あなた様でしょうか」
「アークラント再興の夢はないのですか」
 ブレイヤールは逆に問い返す。王女は彼に栗色の瞳を上げた。瞳には涙がかかり、瞬きするたび、涙が夕日に細かくはじける。
「アークラントの命はつきました。なぜ、そのようなことをお聞きになるのですか」
 王女は体を震わせる。きつく組んだ両手の指は、真っ白になるくらい力が籠められる。彼女は兄を亡くしたが、自分を出迎えたのが石人だったことから、父親もまたこの世を去ったことを悟っていたらしい。十四、五の歳でひとりぼっちになり、さらには一国の運命を引き受けなければならない身の上は、ブレイヤールには想像もつかない。彼は今までの自分の身の上を、安易に彼女と重ねることはしなかった。境遇は似ているようで、その実全く違うはずだ。
「石人の地は、人間が長く暮らすには不向きなのです。南からの風は魔力を多く含み、当たればあなた方の魂を枯らします。タバッサですら、石人世界からの風が吹くと、皆家に引きこもるのです」
 ブレイヤールは白い布を取り出し、腕を伸ばして風にさらす。布はわずかになびき、南西の微風を知らせた。王女は不安げに、後ろの家臣を振り返る。ブレイヤールは布を懐に収めた。
「城であれば、私の魔力でお守りすることができます。あなたの民を、早くここまで導いてください。明日までにはこちらも、あなた方を受け入れる用意を整えます。あなたも長旅でお疲れのようです。一足先に中に入られた方がよいでしょう」
「いいえ。私も皆と一緒に、明日までここにいます」
 王女は断る。ブレイヤールは言い方がまずかったことに気付く。
「その、会って欲しい者達がいるのです。あなた方の国の兵士達です」
 今度はしぶしぶながらも、断られなかった。ブレイヤールはほっと胸をなでおろし、自ら先導して、王女と付添いの家来達を城内へと案内する。ブレイヤールと立ち替わりにルガデルロが大門に出て、アークラントの家臣らと明日の段取りを話し合う。ブレイヤールは城の中層北側に残る町を、アークラントの人々の住居と定めていた。町には貴族の屋敷も残っており、アークラント王女の居城として使うこともできるだろう。
 翌日、石人の城へ次々と迎えられた人間達を、白城の城民達はあちこちの塔に登り、遠目にうかがった。そんな彼らをブレイヤールは見守る。城民の居住場所は城の南側、人間は北側だ。城内に関所を設けることで、石人と人間は互いの日常生活を、顔を合わせることなく送ることができる。誰とでも仲良く交流するのが解決にならないときもある。石人と人間は、離れて暮らすのが互いに幸せになる道だ。アークラントの人々にはいつか必ず自国へと戻り、時の流れとともに石人世界の存在を忘れてもらわなければならない。
 アークラントとハイディーンの石人世界への侵入は、すでに神殿と十二城を動かしつつある。大空白平原に人間が住み、人間世界で戦乱の世が続くのであれば、再び石人世界に足を踏み入れようとする人間が必ず現れるだろう。少なくとも黄緑の城は、もう二度とそんなことに巻き込まれたくないと考えている。
 次の日の夕前、神殿からの使者がいくつかの知らせとともに、神殿の意向をもたらした。
「新しい大巫女様は、九竜神官様方からレイゼルトの右手を受け取り、それをかの者の名と一緒に燃やしてしまわれました。同時に、湖の林で火事が起こったそうです。神殿騎士達が火を消し止めた場所で、半身が砂と崩れた大木と、溶けた銀が見つかりました。この不思議な出来事は、まだ解き明かされてはおりません。しかし大巫女様のなされたことは、過去の悪夢から石人を開放してくださるでしょう。そして九竜神官様達は、人間達への対処に全力を注ぐときが来たとお考えです」
 使者は美しい装飾のついた書簡を差し出す。そこには白城の復活を認め、白王への王杖の返還と、神殿でとり行う十二神官としての任命式について、見事な書体でしたためられている。ブレイヤールは最後の行に添えられた九竜神官の署名を見つめる。
「人間と立ち向かう決心をされながら、いまの白城をお認めになるとは」
 彼はため息交じりにつぶやいた。それは神殿の懐の深さにつながるのか、白城の立場を恐ろしく難しくするものなのか。どちらにしてもこれから大変になるだろう。
 ブレイヤールは黄王の言葉を思い出す。大巫女はレイゼルトの右手を灰にすることで、石人達の恐怖にあっさりと片を付けてしまった。しかし本当に片付いたのだろうか。黄緑の王女は消え、彼女を守るはずだった剣も、王衛とともに消えた。奇妙なことはもう一つある。黄緑の王座を使ったとき、彼は何者かによって強い攻撃を受けた。それが城の力を操りきれなかった反動によるものなのか、別の意志が彼に逆らい、彼を阻止しようと動いたのかは分からない。いずれにしても、そこに城の存在が大きく関わっているのは確かだ。
 耳の奥で、あの日聞いた扉の閉まる重々しい響きが、かすかに呼び覚まされる。王の列に立ち並ぶ、歴代の王達の陰鬱な姿が、記憶の底から立ち昇る。彼らの黄緑色の衣装は純白の衣装に変わり、ブレイヤールの意識を白城の中枢へと向けさせた。彼は身震いをする。身近に存在し、時を隔てて遥か遠い城の秘密――。石人の歴史には、深みが隠されている。目に見える川の流れが、その深みでは全く異なる流れを生じているように。
 外は曇りだ。昼の太陽は厚い雲の上にあり、空全体が銀色の光に包まれている。戦場で盛大に焚いた光炉の光煙が、雲になったのかもしれない。その雲の谷から、太陽は淡く色づく光の帯をいくつも暗い林に降ろしている。
 ブレイヤールはおもむろに立ち上がり、部屋の外へ飛び出した。ぽかんとした顔の使者を後に残して。長い階段を駆け下り、南西の大門を目指す。その門は、黄緑の城がある方角だ。そして星の神殿もそのずっと先にある。
 白王が駆けていく先に、白城の家臣とアークラントの家臣がいる。彼らは何事かと驚いて、走り去る城の主を見送った。無人だった城には、たくさんの人々がそれぞれの営みを組み立てていこうとしている。その多くが人間だったとはいえ、白城は下層から中層にかけて、七百年ぶりの賑わいを取り戻そうとしていた。彼らは全て、新しい城と新しい王の誕生を、心待ちにしている。
 ブレイヤールはとうとう南西の大門へとたどり着く。
 むき出しだった大地は、この十数日のうちに柔らかな草地へと変わっていた。湿り気を帯びた冷たい春風に、木々の鋭い若葉は露を結び、野花は固いつぼみをほどきかけている。
 黄緑の城へと続く丘陵地帯から、小さな点が現れた。それはまっすぐこちらに近づいてくる。雲は厚みを増し、辺りは淡く陰った。近づいてくる人影は、一つではない。はやる気持ちを抑えるかのように、歩調の速い人影は長身長髪だ。濃い色の髪が、風になびいている。その人影からだいぶ遅れて、小さな影が三つ続く。そちらは疲れ切った様子で、互いに寄り添ってふらふらしている。
 まっすぐと先を見つめるブレイヤールの腕に、何かが触れた。彼は息を飲んで振り返る。アークラントの王女と目があった。彼女はまだやつれて見えた。ブレイヤールは彼方に向き直り、眩い空に目を細める。
「彼の予見が成就します」

終章

「黄緑の城からここへ逃げてくる途中、予言者様とハイディーン兵を見つけたんだ。予言者様は、ハイディーン兵が持っていたディクレス様の剣を、取り返そうとしていて……」
 キゲイは神妙な顔つきで、頭を下げる。
「先王の剣は、アークラントの人々にとっての誇りだ。彼は剣を取り戻し、自分の夢見を自分で完結させた。それを助けたのはキゲイだよ。君がいなきゃ、アニュディはどちらを助けたらいいか分からなかったろう。ハイディーン人とそれ以外の人間の区別は、石人にはつかないから。黄緑の兵士が巻き添えを食って怪我したのは、気の毒だったけど」
 ブレイヤールは答える。キゲイはうつむいたまま、その気遣いをすこし後ろめたい気持ちで聞いた。実際に助けたのはシェドだが、彼は途中でキゲイ達と別れた。彼には彼なりの事情があって、キゲイ達と一緒に白城へ顔を出すわけにはいかなかったらしい。そこでアニュディは大げさなため息をつき、自分が姿を変えて黄緑の兵を蹴散らし、ハイディーン兵を追い払ったことにしくれたのだ。
 当のアニュディは疲れの溜まった顔でキゲイの隣に座り、ビスケットをかじりながら暖かいお茶をふうふう飲んでいる。ビスケットはグルザリオが奮発してくれたものだ。物の少ない白城で、蜂蜜入りの甘いお菓子はかなり貴重品らしい。キゲイ達がいるのは白城の食堂で、ブレイヤールもキゲイ達の向かいの席について、白湯の器を両手に包んでいた。
 キゲイは懐から、金の留め金と、その端にかろうじて残っている短い黄緑色の髪をブレイヤールに差し出す。
「それで、その、ごめんなさい。魔物をやっつけたり、変な幽霊を追い払ったりしてたら、こんなになっちゃって……」
「いいんだよ」
 ブレイヤールは微笑んだ。
「お守りは持ち主を守るためにあるんだから」
 微笑みながらもしかし、どこか虚ろな表情だ。キゲイは内心うろたえる。幸いすぐに、ブレイヤールの視線はウージュに移った。
 ウージュは暖炉のそばに座り、燃える火に黄緑色の宝石を透かし見ていた。小さな虫を封じた琥珀のおはじきだ。
「ねえ、それは君の大事なもの?」
 ブレイヤールの質問にウージュは振り返り、腕を伸ばして石を見せる。彼は黙ったまま、おはじきとウージュを交互に見つめる。アニュディが咳ばらいをした。
「話を戻して恐縮ですが、よろしいかしら、白王様」
「どうぞ」
「私を黄緑の城からさらったのは、本当にレイゼルトという名だとおっしゃるのですか」
 彼女は閉じた瞼を震わせる。ブレイヤールは、そうですと答えた。
「レイゼルトとは古都で別れたとおっしゃいましたが、その後の彼の足取りは誰も掴んでいません。石人達は、あなたの話を聞きたがるでしょう」
「失礼ですけど、私はたいした話はできません。言われるまま、あちこち引っ張り回されただけですもの。確かにあの子の周りでは色々と奇妙なことが起こりました。でも私、何が起こったかなんて見てません。それに――」
 だんだんと腹が立ってきたのか、語気が荒くなり、アニュディは腕を組んで背筋をぴんと伸ばした。
「それを見越して私を選んだのはあいつですからね。本当に周到ですよ」
 そこで彼女はまた肩を落とす。唇をとがらせて、彼女はしばらく口ごもった。白王が優れた魔法の才を持つことは聞いて知っていたが、まさか一目見ただけで見破られるとは思ってもいなかった。彼女は思い切って瞼を開ける。ブレイヤールは少し身を乗り出して、その瞳を覗き込む。瑠璃色の瞳は焦点を結ばず、小刻みに震えていた。
「その右目は、なかなか難しいですね」
「そう……なるのでしょうね。見えているらしいものも、どう解釈していいかさっぱり分かりません。眩しいところと暗いところが何となく」
「一番眩しいところが私の髪の毛に当たる部分かと。白色だから」
「まさか、本当に約束を守ってくれるなんて、思いもしませんでした。私、半分は本気だったけど、半分は無理難題のつもりだったから……」
「魔法がらみの取引は、もっと慎重にするものですよ。それにしても、難しいですね。ものを知覚するという感覚は、どう修練すれば……」
 アニュディはため息をついて、まぶたを閉じる。
「私、あんまり悲観はしていません……と、敢えて言わせていただきますわ。生まれて初めて、もう一つの姿に変身したとき、背中の翼をどう動かせばいいのか、全然分かりませんでした。でも何度か練習するうちに、動かすどころか飛べるようになりました。だからこの感覚もいつかは、自分のものにできるんじゃないかなって、思うんです」
「そうか。そうなのかもしれません。僕も難しかったです。足が六本もあるし、羽もあるし。体が大きすぎるから、下手に動けば、周りに大迷惑がかかるし。目もいっぱいあって何をどう見ていいものやら、頭が爆発しそうになったし。……見た目が気持ち悪いとも散々言われたし。変身するのは一切やめようと思ったときもありますよ」
 ブレイヤールはキゲイに視線を移す。二人の会話をぽかんと聞いていたキゲイは、口を閉じた。
「僕も変身できたらいいのにってうらやましかったけど。なんだか恐ろしく大変みたいだ」
「そう。とんでもなく大変なんだよ」
 ブレイヤールは白湯で喉を湿らす。彼はアニュディをどうするか困っていた。本来ならばレイゼルトに関係した者として、神殿へ引き渡さなければならない。しかしそれはアニュディを不利な立場に追い込んでしまうだろう。ブレイヤール自身、禁呪が封じられた銀の鏡に触れてしまったことを、隠している。アニュディだけを神殿につきだすのは筋が通らない。
「白王様、私は城の力に押し出されたんです」
 アニュディはぽつんと呟いた。
「あの晩、黄緑の城は、レイゼルトを打ち倒そうと、自ら力を動かしていたように思うのです。城の力が怖いと言ったら、お叱りになるかもしれません。けど、私はものすごく怖かったんです。それからこの前の晩のことも。あまりに底が知れない大きな力でした」
 空っぽになったお茶の器を手の中で転がし、アニュディは続ける。
「私、当分城では暮らしたくありません。レイゼルトと関わってしまった以上、城の力は私を嫌うかもしれませんもの。それに城から離れて、城の力やそれにまつわる言い伝えを、自分なりに考え直してみたいんです」
「城の力は、我々王族にとっても底が知れません。その力のためにあなたが怖い目にあったのなら、私も城に戻れとは言いづらい」
 ブレイヤールは難しい顔で腕を組む。彼は黄緑の城で気を失ったときのことを思い出した。あのとき自分の意識を奪ったのは、アニュディを恐れさせ、トエトリアの存在を隠した力と、同じものだったのかもしれない。しかし彼自身は城の力を恐れていいような立場になかった。どんなに怖くても、これからはあの力に何度も触れなくてはならない。
「キゲイとあなたは、それぞれの理由があってレイゼルトに選ばれた。僕は少なくともキゲイの件については、彼の人選を支持しています。彼は性格に問題ありですが、目利きは完璧だ。恐らくあなたが選ばれたのも、どこかの部分で正しかったと思うのです。もしかしたら、これからも正しいのかもしれません」
 二人を目の前に、ブレイヤールはテーブルの下でそっと右手を握りしめる。禁呪を触れた手だ。
「私の師が言っていました。王は光を掲げ、魔法使いは闇を見ると。光を掲げる者に、闇を見渡すことはできません。石人と人間との争いと同時に、別の何かがこの石人世界の闇の奥で起こりました。私はその闇を右手で一度掴み、それから身を引いて、明かりを灯す道を選びました。私はもう二度と、闇を見ることはできません。アニュディ、もう一度尋ねます」
 ブレイヤールは顔を上げ、念を押すようにゆっくりと問いかける。
「あなたは黄緑の城で前の生活に戻ってもよいのに、今はそれを拒むのですね」
 アニュディははっきりと頷いた。
「そうです。私、決めたんですから。彼から贈られた代償を抱えたまま、これまであったことをすっぱり忘れるなんてできません。レイゼルトを名乗る者を、紫城や黄城に運んでしまった責も感じています。そこで彼が何をしたか、私は一切知らないし知りたくもないけど、償いはしなきゃいけないと思うんです」
 アニュディはまぶたを閉じ、ウージュを呼ぶ。ウージュは黙って立ち上がり、アニュディの肩にそっと触れた。彼女は相変わらず手の中で小石をもてあそんでいる。それは宝物として大切にしているというより、手のひらでその存在を確かめ、知ろうとしている感じだ。
「できればこの子と一緒に、タバッサ辺りに住む場所を探していただけないでしょうか。あそこなら白城と近いですし、黄緑の城の家族にもすぐ会いに行けます。作る物を人間向きにすれば、調香の仕事も続けられます。何よりウージュの病気を治すには、魔力の薄い土地で暮らし、人としての姿を定着させるのが一番ですわ」
「分かりました。信用できる人をつけて、家を探させます。とにかく僕の目の届くところにいてくださるんなら、こちらとしても安心です」
 快い返事に、アニュディは内心でもほっと胸をなでおろした。これでウージュを石人世界から離せる。
 彼女はすべてをブレイヤールに話してはいなかった。守りの剣を持って姿を消した王衛のことだ。彼はレイゼルトの手紙を持って、大空白平原の町へ一足先に発っている。何か分かれば、彼はすぐウージュの所へ戻ってくるだろう。そのときのためにも、ウージュは平原にいた方がよい。守りの剣を持ち去ったとして神殿騎士に追われる彼には、石人世界へ戻るのは危険すぎた。
 ウージュを守ることと、レイゼルトから渡された手紙の謎を解くことは、トエトリア王女をいつか取り戻すことにつながるかもしれない。あの王衛は剣の意志とやらのひとつで、ウージュを守ることに徹した。大巫女様の力が宿っているとはいえ、金属の塊に従うなど、どうかしている。しかし彼が持つ黄緑の王族への忠誠心は、信じてもいいだろう。
「白王様、あなたが光を掲げながら、なおも闇が気になるとおっしゃるのでしたら、私が闇を見てまいります」
 アニュディはブレイヤールに微笑んだ。ブレイヤールはふっと悲しそうな顔つきになる。返答はその口元にのぼらない。アニュディも、白王の答えを求めることはしなかった。二人とも、それぞれがそれぞれの立場から、レイゼルトやウージュを捕える石人世界の秘密の傍にいることを感じていた。
――秘密が暴かれたら、城は終わるんじゃないだろうか。王族として、それに関わるのは許されないんじゃないだろうか。
 琥珀のおはじきがテーブルを横切って、彼の手元に滑り込んできた。ブレイヤールはおはじきをつまみあげ、黄緑の琥珀に封じられた小さな虫を見つめる。その向こうで、ウージュが大きな空色の瞳をこちらに向けていた。

 翌日、ブレイヤールは黄緑の城へと発った。新しい黄緑王の即位式が終わり、改めて招かれたのだ。新しい王の誕生とはいえ、城は喜びに湧きたってはいない。トエトリア王女の消息はいまだ分からず、長きにわたって神殿を治めていた大巫女の代替わりとで、城民は心から祝う気持ちになれないでいる。王城で開かれた晩餐の席は、暖かな喜びと穏やかな悲しみ、そして不安の苦みが混ざり合っていた。
 黄緑の王となったルイクームが王座からトエトリアを探索し、城内に見出すことができなかったことで、城民達のブレイヤールへの疑いは晴れていた。ルイクームは自ら広間の隅っこでぼんやりしていたブレイヤールのもとへ足を運び、改めてそれを告げる。ブレイヤールは彼女が立ち去るのを見届けると、再び席に腰を下ろした。彼は再び視線を床に落とす。白城と同じくらいに馴染み深かったこの城も、ずいぶん居心地が悪くなってしまった。
 黄緑王の即位で、トエトリアは貴族の地位となっていた。新たな住居となる館も決められ、そこには責任を取って辞職した王室長官や騎士長、左大臣達がトエトリアの召使いとして、彼女の帰りを待っているらしい。守りの剣を持って姿を消した王衛は、神殿騎士に追われる身となっていた。しかし、守りの剣がトエトリアを見つけ出してくれるかもしれないという淡い期待が、王女の安否を気遣う人々の中にあるのも事実だ。
 耳に、輝く水面を思わせる、静かな竪琴の音色が戻ってきた。バルコニーで神官達が奏でている。石人音楽の根幹をなすその旋律は、城の中を立ち昇る水を表現しているという。時々聞こえるポワンポワンという優しい太鼓の音は、城内の泉に沸き立つ水の波紋だ。
「ブレイヤール様。紫城の話は、すでにお聞きですか」
 灰城の大使がブレイヤールの姿を見つけて会釈する。ブレイヤールは慌てて立ち上がった。
「今晩、簡単にですが、話を聞いたところです。知らせを受けて古都の館から紫の末裔が、調べに出たとか」
「これまでにない大規模な崩壊があったそうですね。いずれ十一国の城民らに周知するにしても、あまりにショックな出来事でしょう。不滅と思われていた城の中枢が沈んだのですから」
「そのようなお話……」
 神経質になっているブレイヤールは、周りを見回した。他の石人達は近くにいない。
「今夜は誰も聞きたくないでしょう。私も、城を蘇えらせたばかりです」
「灰王は、白の王族の代表として、あなた様もご覧になるべきとお考えです」
 大使は微笑む。相手の物言いに違和感を覚え、ブレイヤールは少し考えた。
「あの、もしかして他の十国の王達は見に行くことになってるんですか。僕、仲間外れにされてます?」
「やはりお聞きになっておられませんでしたか。あなた様には、今の白城を空けるべきではないという考えもあるのです。承知いたしました。後日、白城に正式に使いを送らせていただきます」
 大使は再び会釈をして、黄緑の王のもとへ去る。
 ブレイヤールは一人眉をひそめた。紫城はかつてレイゼルトに滅ぼされたが、その城がもう一度滅びたとはどういうことか。紫城の崩壊とともに失われるものは何なのだろうか。逆にそこから得られるものもあるのだろうか。不意に胸が熱くなり、ブレイヤールはぷいと踵を返してひとけのない廊下へ出た。
 複雑に入り組んだ廊下でも迷うことはない。魔法の勉強のため、先代の黄緑王に招かれて、小さい頃からずっと黄緑の城で暮らしていたのだ。要所要所に立つ明かりを持った城の案内役も、ブレイヤールをわざわざ呼び止めたりしない。
 広間を離れるにつれて、城の静寂は濃くなる。自分の足音だけが響く暗い回廊が続き、星明りの注ぐ渡り廊下へ出る。彼は一人にはなれなかった。囁くような竪琴の音が、柱の向こうから漏れ聞こえてくる。
 回廊の床に長い影が伸びている。夜風に身を任せながら水の旋律を奏でるのは、一人の老神官だ。悲しげな旋律に心を打たれ、彼は静かに神官の下へ近づいた。老神官は白王に向いて、軽く会釈をする。
「新しい大巫女様と、黄緑王の誕生、なにより白城の復活は喜ばしいことです。しかしトエトリア様はいまだ見つからず、人間との戦闘で命を落とした者も少なからずおります」
 老神官は再び弔いの旋律へ戻る。ブレイヤールはその隣に立ち、音色に耳を傾けた。広間で聞いた旋律より、さらに単調な調べだ。目を閉じると、自身の意識が旋律とともに石壁に染み、基礎石を透過して中枢に延々とこだまするかのようなイメージがよぎる。
「この旋律は、初代大巫女様によって初めて奏でられたと伝えられます」
 竪琴をかき鳴らしながら、老神官は呟いた。ブレイヤールはまぶたを開く。
「その由来は初めて耳にします。水の旋律は、城の中枢で聞こえる音の現れだと」
「音楽にはあまりお詳しくないようだ。いずれにしても、石人の歴史は古くなってしまいました。城を建てた最初の王達の記憶ですら、城においては薄れ、いまや神殿の奥深くにしか残されておりません。最も古い旋律をお聞かせしましょう。石人達が自らの名を求め、この地を放浪していた頃、ともにあった音を」
 曲調はさらに単調なものへ変わっていく。一音の長短に過ぎない旋律は、旋律と言えるのだろうか。中枢にこだまする音色のイメージは、水が水に溶けるように消え失せた。ブレイヤールは太古の大地に思いを馳せる。ふと脳裏に訪れたのは、いつか見た夢の光景だった。予言者が見た平原はすでに人影ひとつなく、光の霧が漂っている。それは石人世界の大気だ。魔力と交われば命を持った幻影が生まれる。幻影の胎内で血液の代わりに流れるのは霧。幻影が死ねば、霧は露を結んで大地に還る。形は違えど、この地に満ちる生命の、営みの音《ね》は変わらない。
 旋律が失せても、ブレイヤールはすぐには気が付かなかった。それくらい音色は微かで、世界に溶け込んでいた。老神官は微笑む。神殿では決して許されない表情がある。
「あなたはもしかして」
 ブレイヤールは息を殺して尋ねる。
「九竜神官のお一人ではございませんか」
 老神官は弦を弾く。白王の問いかけは弾き返された。
「あなたが王となられる日を、お待ち申し上げます。あなたの城には、光を求め闇に向かって進む者達と、闇の中、光に助けられた者達が同居している。彼らを送り出すための、あるいは導くための時間は、すでに動きはじめております。時を無駄にされないよう」
 神官は背を向けて、楽の音に集中する。ブレイヤールは数歩後ずさり、静かにその場を離れた。
「神殿とは、まこと侵しがたいもの」
 大分歩いた後に、彼は暗闇の廊下で呟いた。神殿は石人達を治めるだけでなく、初代大巫女から続く気の遠くなるような時間と、その中で生まれた多くの秘密もまた、含み抱える存在なのかもしれない。書物に記されることなく忘れ去られた記憶すら、神殿を満たす空気や慣習や旋律として、人知れず遺されている。うわさされる大巫女と九竜神官の確執や城を建てた初代十二王と神殿の争いなど、その存在に飲まれてしまえば些細な記憶の一つ二つだ。白王として即位すれば、彼もまたその中に飲まれてしまうのだろう。
 ブレイヤールはきつく拳を握る。瞬間、胸を絞る畏敬と焦燥が駆け抜け、後には冷たい決意だけが残った。神殿を離れ城を建てると決めた十二王達も、似たような思いに駆られていたのかもしれない。王であると同時に魔法使いでもある者は、神殿が沈む古き時代の深みから飛翔し、今一度、この世界の姿と石人達の営みの様式を、見極め直さねばならないのかもしれない。

「白王様、お願いがあります。助けてください」
 ブレイヤールが白城の大門に帰りついてすぐ、ルガデルロとグルザリオがアークラントの王女を連れて迎えに現れた。王女は今にも泣き出しそうな顔をして、おまけに真っ青になっている。
「予言者様は確かに父の剣を取り戻して帰ってくださいました。それで皆は、私の夫として彼がふさわしいと考えているのです」
 そんな考えには死んでも従いたくない、認めない。口にした言葉以上に、王女の本音がはっきり聞こえてくるようだ。城に帰りついてほっとするつもりでいたブレイヤールは、自室で疲れを癒す前に、この厄介な問題を片づけなければならなくなってしまう。
「こんなものですよ。一国一城の主ともなると」
 グルザリオは同情しながらも、ブレイヤールを王女の方へ押し出した。
 少なくともアークラントでは、国を動かすのはあくまで男でないとだめらしい。王族が王女一人なら、その夫となる人物がそれに当たる。そうでなくとも、元来大人しい性格の上に、王の娘として従順を第一とする教育を施されてきた王女は、人を率いるには物足りないと考えられているのかもしれない。
「剣を取り戻したからって英雄に祭り上げられては、予言者殿も迷惑するだろうに」
 疲れて頭の動かないブレイヤールは、思ったことをそのまま漏らす。王女はそれに勇気づけられ、大きく何度もうなずいた。
「予言者殿は自室にこもられたきり、なんの音沙汰もないそうで。水は飲んでいるので、生きてはおるんでしょう」
 ルガデルロも困惑気味だ。石人達の指揮だけでも大変なのに人間達にまで手を焼こうとは、彼も予想していなかったようだ。アークラントの人々は、それくらいの熱狂的興奮状態にある。王女が助けを求めてわざわざ石人のところまで来たということは、彼女の言葉に耳を貸す人間がいないということだ。これはかなり可哀そうなのかもしれない。予言者の方も周りがそんな状態では、下手に姿を見せられないだろう。
「アークラントは、次に進むべき道を早く示さないといけないな……」
「えっ! それでしたら、すでに」
 ブレイヤールの呟きに、王女はすぐさま答える。驚いて彼女を見返すと、相手は下を向いておずおずと胸の前で手を合わせた。
「地読みの者達に、エイナ峡谷以外の道を探すようお願いしてきました。峡谷は、石人の皆様が封じておしまいになったのでしょう。だったら、別の道を探さねば、私達は故郷に帰れません」
「そのことを皆に知らせてあげましたか?」
「その、魔術師のザーサ翁が、見つかるまでは伏せておいたほうがよいのではと」
「私は話しほうがいいような気がします。でないとトゥリーバ殿は部屋から出てこられないし、あなたも落ち着かないでしょう」
「は、はい。申し訳ありません。もう一度ザーサと相談してみます」
 王女は胸に手を当てて律儀にお辞儀をする。そして小走りに去った。見送ったグルザリオは腕を組み、ルガデルロはじっとブレイヤールを見つめる。
「何?」
 ブレイヤールは二人の視線に怯む。グルザリオが答えた。
「もう少し、話し方を考えましょう、ってことです。萎縮させてどうするんですか。耳まで真っ赤になってたじゃないですか。可哀そうに」
「そんなに怖がらせたかな」
「人間達のことに石人が口出しするのもまずいですな。口出しするにしても、言い方を工夫したがよろしいかと」
「そんなにまずい言い方だったかな……」
 どうにもアークラントとの付き合い方は難しい。落ち着かなくなってその場から逃げようとしたブレイヤールは、別の声に呼び止められた。
「王様! お帰りなさい!」
 見上げると、門の上からキゲイが身を乗り出している。ブレイヤールは、王女が地読みの民に道を探すよう頼んだことを思い出す。彼は口うるさい家臣二人を残して、階段を駆け上がった。
「僕、明日、里の皆と平原に帰るんだ。王女様が峡谷と違う帰り道を見つけて欲しいって」
 息を切らせて階段に倒れこんだブレイヤールに、キゲイは屈みこんでそう告げる。
「聞いた。さっき聞いた……」
 ブレイヤールは立ち上がり、手すりにぐったりともたれる。息が続かないようなので、キゲイもそれ以上は何も言わず、のんびりと日向ぼっこを続けた。思えば最初に白城へ来てから、二か月近くになる。目の前の荒野は、今では一面の草原に変わっていた。
「君は、ずいぶん色んな人を案内してくれたんじゃないかな」
 ようやく口をきけるようになったブレイヤールの最初の言葉は、唐突だった。それはキゲイにもちゃんと通じて、彼は不満げに口をとがらす。
「東の長にお使いを頼まれて、歩いていただけだったんです。最初は。そうしたら、いろんな人や物が勝手に近づいてきただけなんだ。時々、変なものにも追いかけられたし」
「それでもまたここに戻ってこれたってことは、石人世界と相性いいのかもね」
「……似たようなことを、前にも誰かに言われた気がする。それより、こっちの幽霊が触った腕。魔法の火傷をしてから、普通の人には見えないものが見えるようになったんですけど。邪妖精だっけ。兄ちゃんや姉ちゃんは何にも見えないって、変人扱いされた……」
「変人というより、普通になったというべきだ。今まで見えてなかったものが、見えるようになったんだ。それだけさ」
「……石人に相談した僕がバカでした。後で長に話して、人間の魔法使いに見てもらいます……」
 うなだれるキゲイの隣で、ブレイヤールは空を見上げる。来月には神殿で、即位の儀を行う予定になっていた。それは彼自身、自分が生きている間に叶うかどうかと当てもなく夢見ていたことだ。この二か月は、彼の人生において最も貴重なものとなるだろう。そしてこれからは、それぞれがそれぞれの道を歩むことになる。
「そうだ。王様、これ返します」
 キゲイは懐から地図を取出し、ブレイヤールに手渡す。裏には銀の鏡の文様が残る、キゲイが少しずつ書き加えていったアークラントの地図だ。
「空から見たよ。ここの丘も、村も。首都は、ここだったのか」
 ブレイヤールは感慨深げに地図を指でたどる。その指が、首都の文字の上で止まった。
「これキゲイの字じゃないみたいだけど……」
「古都でレイゼルトに見せたら、首都はもう少し東だって、勝手に直された」
「こだわりがあるんだな」
「あいつ、アークラント人よりアークラントに詳しいと思います。きっと」
 レイゼルトは古都で別れた後、どこへ姿を消したのだろう。キゲイには、レイゼルトの石人に対する思いは分からない。しかし彼がアークラントを守ろうとしていた気持ちは、本物だと知っている。それは悲しいくらいに真摯な願いだった。恐らくとても大切な思い出だったであろう、彼とトルナクの関係を、アークラント人でさえない自分に話してくれたのはなぜだろう。キゲイは何かしら、その思いに報いたかった。ならばできることは一つだ。なんとしてでも、アークラントが帰る道を探し出さねばならない。
旅立ち 翌日、キゲイは決意も新たに、地読み士達とともに森の境界石を超える。そのとき、彼はふと思い至って、近くの木によじ登りはじめた。姉や兄の叱りつける声が聞こえたが、そんなのはお構いなしだ。あの巨大な白城が、タバッサから全く見えなかったのを思い出したのだ。出来うる限り高くまで登ったキゲイは、枝葉の隙間から南を望む。
 何もない。城があるはずの方向は、空だけだ。そして雲が流れているだけだ。下を見渡せば、境界石の頭が白く点々と、森に線を引いている。境界石の列は、ただの石の柱の列ではない。綺麗に人間の世界と石人の世界を切り分けていたのだ。
 キゲイはその事実に大いなる納得と一抹の寂しさを感じ、ひとしきり南の空を眺める。そして木から降りたところで、待ち受けていた東の長にたっぷりと叱られた。
 地読み士達は黙々と境界の森を抜ける。その先には広大な平原が広がっていた。彼方の地平には、オロ山脈の峰が青くうっすらと横たわっている。

 アークラントの物語はここで終わる。そして次の王国が、歴史に刻まれる瞬間を待っていた。新たなる国の民は、新たなる王とともに人間世界の果てを越えて帰ってくるだろう。
――東の蛇は己の毒に倒れ、西の稲妻は光に消える。英雄の地に光あり。それは人の世のものにあらず。世の外より黄昏に死に、暁に蘇る。
 夢見の下に伏せられていた予言の言葉は再び継ぎ直され、人々を導くだろう。
 石人達の物語は、いまだ終わりを迎えない。いつ始まったか定かでないこの物語は、全ての石人が属す物語と、闇に囚われた者達の明けない物語が、決して交わることなく続いていくのだ。



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