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十三章 古都へ

 もう昼近くだろうか。木漏れ日も空しいほどに弱々しく、森は木々の影に暗く沈みこんでいた。頭上の鳥が枝葉を蹴って飛び立つ音、厚く枯葉の積もった地面を踏んで何かの獣が走り去る音。森の静寂をときに破る小さな生き物達の気配は、一人ぼっちではないという安心と、いつ危険な動物と出くわすかという不安の、両方をかきたてる。キゲイ達の足音に動物達も驚いているのならば、キゲイ達も彼らの立てる音にびくついていた。
 女の子は大分遅れがちになってきていた。これまで休むことなく歩き続けただけでも、たいしたことだったかも知れない。キゲイは時々振り返って、彼女が追いつくのを待つ。
「ほら、山が近くなったろ?」
 キゲイは木々の隙間から垣間見える、山の斜面を指差した。斜面を覆う針葉樹の黒々とした森は、金色の光の下で所々輝いて見える。向こうの空だけ、雲が晴れているのだ。
 しかし女の子は何の反応も見せず、キゲイに追いつくとそのまま地面に座り込んでしまった。彼女のズボンは、転んだりよじ登ったりしたときに膝が擦り切れて、穴が開きかけている。両の手のひらも、擦り傷と寒さで赤い。
 キゲイは溜息をついた。彼女がこうやって座り込む度に、彼は小川でもないかと辺りを見て回るのだが、いつも無駄骨だった。傷を洗う水も飲み水もなく、木の実ひとつ落ちていない。森は冬の終わりの佇まいで、食べ物は期待できそうになかった。おまけに夜のことを考えるだけで、希望も何もなくなってしまう。火無しで一晩過ごすことなど出来るのだろうか。風は日中の今でさえ、こんなにも冷たいのに。
 キゲイは手に取った木の枝で、厚く堆積した枯葉の地面をほじくってみる。虫も出てこなければ、落ちた木の実も出てこない。
 女の子が何か呟くのが聞こえた。それが人の言葉であったとしても、石人語ならばキゲイには分からない。けれどきっと、彼女は魚の言葉で何か言ったのかもしれない。
 疲れ切った彼女を、伝わらない言葉や身振りだけで立たせるのは、至難の業だった。手を引いて立たせようとしても、彼女はがんと抵抗して腰をあげようとしない。
「だめだったら! 歩かないと、凍え死んじゃうかもしれないんだぞ!」
 本当なら、もっと優しく接してあげないといけないはずだ。そうと分かってはいても、キゲイにはそれだけの余裕がなかった。いらいらして手加減を忘れ、強く彼女の腕を引くと、彼女の腕からぐりっと嫌な感触がキゲイの手に伝わる。次の瞬間、彼女はか細い声を上げて泣き出してしまった。
 キゲイは慌てて手を離す。
「ごめん」
 キゲイも泣きたいほどみじめな気持ちになる。ありがたかったのは、女の子はキゲイに対して、なにも怒っていなかったことだ。ただ腕を強く引かれたことだけを、悲しく思っているようだった。キゲイが彼女の肩や手に触っても、嫌がったりはしなかった。幸い肩の関節は外れていなかったが、変によじってしまったらしい。腕を動かそうとすると、彼女は顔を少し歪めて痛そうにした。
 彼女が歩こうとしないなら、もう仕方がない。キゲイはその間に少し遠くまで探索することにする。待ってて、と声をかけて側を離れはじめると、それまで絶対に立とうとしなかった女の子が、大急ぎでキゲイの後をついて来た。きっと置いてけぼりにされると思ったのだ。無理矢理腕を引っ張る必要などなかったらしい。キゲイは女の子が追いつくのを待って、先に進むことにする。
 木々が少しまばらになり、背の低い捻じ曲がった枝を持つ茂みが多くなった。大小様々な大きさをした青灰色の岩もごろごろしていて、歩きにくい。地面は西に向かって傾斜しており、キゲイはこの斜面を登るべきか降りるべきか迷いながらも、とりあえず横様に進んでいた。木立の影は薄くなっていても、辺りは岩や地面の起伏で見通しが悪い。太陽もすでに正午を過ぎて、夕暮れに向かって刻々と傾き始めている。
 女の子はといえば、驚いたことにキゲイの足にちゃんとついてきていた。キゲイが岩の上に腰掛けると、彼女も立ち止まって同じように座る。今朝まではキゲイが彼女を引っ張って歩かなければならなかったのに、今では彼女の方が、キゲイが次に立ち上がるのを待っているようだ。
――あの子、僕より寒さにもお腹が空いたのにも強いのかなぁ。喉は渇かないのかな。魚だったから、喉の渇きには弱そうだけど。
 キゲイは疲労でぼんやりした頭のまま、次に立ち上がるまでに斜面を登るか降りるか決めようと考える。その隣で、唐突に隣の女の子が立ち上がったかと思うと、一人勝手に斜面を登りはじめた。
「えっ? ちょっと、待って!」
 今までからは考えられない速さでずんずん登っていく女の子を、キゲイは慌てて追いかける。彼女はしばらく登って足を止め、岩の隙間に手を突っ込んだ。後を追っていたキゲイは、かすかな水音を聞きつける。足元の地面も、少し湿っているようだ。キゲイは岩場を調べ、斜面の上から水が流れてきているのを知る。泉か、小川があるのかもしれない。
「よし、登ろう」
 キゲイは斜面の上を睨みつけ、声を出して自分を励ます。女の子は指先についた水を舐め、隣をキゲイが通り過ぎていくのを見る。キゲイがしばらく登った後に見下ろすと、彼女は湿った岩場を諦めて、のろのろと斜面を登り始めていた。
 もう少しで登りきるというとき、上から何か小さな生き物が飛んでくる。ブンと力強い羽音が耳元をかすめ、直後にカサッと軽い音が足元に落ちた。キゲイは首をかしげる。虫にしては大きかったし、ひどく鮮やかな赤色だった。それは、夕暮れの日差しの色のせいだけではない気がする。
 キゲイは最後に音のした場所を、石ころと枯枝をそっと掻き分け覗いてみる。尖った葉っぱを持つ枯れ枝の隙間から、透き通るような深紅の胴がみえた。まだ生きている証拠に、上に乗った枯れ枝が小刻みに動いてる。キゲイは枝を慎重に取りのけた。
 それはキゲイの手のひらにすっぽり乗りそうな、綺麗で小さな生き物だった。柘榴を思わせる見事な赤色の細い胴、さらに濃い色をした長い尾と細い四肢。黒い鉤詰めは釣り針に似ていて、長く湾曲している。背中にはもとは三対の見事な羽があったに違いない。七色が揺らめく透明な羽は、左側が二枚欠けてしまっていた。右の一枚も、半分が破れてしまっている。
 羽と長い胴は、なんとなくトンボも思わせる。けれどもトカゲにも似ていた。もしかするとこれは、物語でよく聞く、竜の一種なのかもしれない。
 華奢な胴部は、呼吸で腹の辺りが膨らんだりへこんだりしている。生きているみたいだが、動こうとしない。キゲイは拾った小枝の先で、竜の頭をそっとつついてみる。すると竜は自分をつついた枝ではなく、キゲイの方へ頭を上げて、威嚇するように口を開けた。胴の内側に明かりがともり、竜の開いた口から腹の中の光が漏れる。小さな口には小さな鋭い牙がびっしりと、綺麗に並んで生えている。竜はその口で枝に噛み付いた。枝が燃えることはなく、竜は噛み付いたまま、宝石みたいな紅蓮の瞳をぎらぎらさせている。
 キゲイは用心して枝を持ち上げてみた。竜は食いついたまま枝にぶらりと垂れ下がった。腹の光がもっと強ければ、このまま吊り下げランプになっただろう。キゲイはこの綺麗な生き物が、すっかり気に入ってしまった。なんとかして懐かせたいと、竜を下から受けるように、こわごわもう片方のてのひらを差し出す。
 ところが竜は、キゲイに飼い慣らされる気はさらさらなかったようだ。キゲイの片手が自分の尻尾の下に差し出されるのに気づくと、ぱっと枝から口を離してキゲイの親指に噛み付いた。あまりの痛みに、キゲイは悲鳴をあげる瞬間も逃す。竜の食いついた手を勢いよく払うと、竜は岩場の向こうへぽーんと、オレンジの流星になって勢いよく飛んでいった。
 キゲイは噛み付かれた指を確める。突然噛まれた驚きと痛みで、腕が震えていた。傷口は竜の噛み跡だけに小さかったが、奥は深いらしく血がどんどん溢れてくる。
「うう、やっぱり無理かぁ……」
 痛みをこらえながら首に巻いていた帯をはずし、その端っこを血の止まらない指にきつく巻きつける。周りを見渡すと、下から登ってきていた女の子が、竜の落ちた辺りに興味を示しているのが目に入った。
「だめ! そいつはものすごく凶暴だから!」
 片手に帯を握り締め、キゲイは岩場を降りていく。女の子が岩陰に手を伸ばそうとする前に、キゲイはすんでのところで彼女の襟首をつかんで引き止めた。岩場から先程の竜が羽をうならせて飛び上がる。腹部がまだほのかに光っていた。
 竜は二人を無視し、傷ついた羽で不安定に斜面の上へ飛んでいく。キゲイはそれを目で追い、そして目を疑った。斜面の上の林に、赤やオレンジの小さな光がたくさん現われている。あの小さな竜の群れだ。もしあれが全部こちらに襲ってきたら、自分達は本当に食べられてしまうかもしれない。キゲイは血の気が引くのを感じ、女の子の肩を叩く。
「お、降りよう。早く!」
 押し殺した声がかすれる。女の子は目を丸くして群れる光を見つめ、動こうとしない。
「早く!」
 怖気づいたキゲイは思わず二、三歩降りていた。何とか踏みとどまって、女の子の背に手招きをする。女の子の頭越しに、さっきの竜が光の群れの近くまで飛ぶのが見えた。竜は最後の瞬間にきりもみをして、斜面の上近くに落ちる。光の群れの明かりが強くなり、キゲイ達の所まで羽音の唸りが聞こえてくる。竜達はすばやく木立の天辺近くまで舞い上がった。
 次の瞬間、光が斜面に向かって急降下してくる。それと同時に黒い影が斜面に飛び出して、転がり落ちた。光はそれを追い、ある竜は取り付き、ある竜は失敗して再び上空に戻り狙いをつけなおす。光にたかられながら岩場を転がり落ちるものに、キゲイは見覚えがあった。
「レイゼルト!」
 キゲイは叫んで、出来る限りの速さで岩場を降りる。竜の群れはレイゼルトを狙っていたのだ。
妖精竜 レイゼルトは半分走りながら、半分転がりながら、取り付いた光を払おうと両腕を振り回し、とうとう一番下まで辿り着く。体勢を整えようとして一度だけ背を伸ばしてまっすぐ立ち上がったが、再び光が体中に食いつき、地面にがばりとうつ伏せになる。何匹かの竜が、彼の体の下に消えた。
 キゲイが追いつくと、レイゼルトは再び立ち上がろうとしていた。服は泥と血で汚れ、暗赤色の髪は乱れて顔にかかっている。竜が押しつぶされたはずの胸元は、潰れた竜のかわりに灰色の煙がくすぶり、焦げ臭さがキゲイの鼻につく。地面についた左手は血で濡れ、竜が二匹、手首に腕輪みたいに巻きついて光っている。彼は顎を上げ、髪の間からキゲイの顔を見たようだった。
 レイゼルトが動きを止めた隙を、竜達は逃さなかった。光が彼の背中めがけて急降下する。キゲイの目の前で、レイゼルトはまるで背中から燃やし潰されるように見えた。キゲイは無我夢中になって、レイゼルトの背中にくっついた光を引きはがす。竜達は恐ろしい執念でレイゼルトの背中に食いついており、キゲイが無理やり引き離しても頭だけは噛み付いたまま残る。竜の体はキゲイの手の中で一瞬明るく輝き、かすかな煙を上げて消え去った。体内の炎で、自ら跡形もなく昇華してしまうのだった。
 キゲイは首の後ろに熱い痛みを感じ、悲鳴をあげて仰け反った。首筋を叩くと、光が頭の後ろではじける。新しい傷のせいか、光のせいか、キゲイは頭がくらくらとなる。
 レイゼルトは地面を転がり、体に取り付いた竜を潰そうとあがいた。キゲイは暗くなった視界を怪しみながら、一帯を縦横に飛びまわる光の数に絶望する。もう何匹もやっつけたというのに、数が減るどころか増えている。竜の羽音で耳がおかしくなりそうだ。
「鏡を持っているか!」
 うなり続ける無数の羽音にまぎれて、レイゼルトの叫び声がかろうじて聞き取れた。レイゼルトは相変わらず光を相手に、半分戦い、半分もがき苦しんでいる。キゲイは懐に手を入れる。ところが彼が迷いなく取り出したのは、あの三つ編みのお守りだ。
 キゲイは飛び交う竜の光にお守りを突き出した。レイゼルトの言葉はすっかり忘れていた。かわりにあの幽霊を追い払った晩のことを思い出したのだ。レイゼルトがまた何か叫んだとしても、羽音でかき消されてしまっていただろう。それどころかキゲイは切羽詰って、お守りを使うことしか頭になかった。自分にとっては、銀の鏡よりもお守りの方が確実に信用できる魔法の品だ。キゲイはお守りの編み目に指をかけ、力いっぱい引き抜く。
 編み目はキゲイの意志を汲み取り、自らゆるんだ。幾房かに分けて複雑に編みこまれた髪の先は、まるで円陣を描く筆のように、ぐるりぐるりとほどけていく。青白い小さな稲妻が髪先ではじけ、糸巻きに巻きついていくかのように、だんだん大きな雷の玉になる。編み目がほどけきったとき、稲妻の玉が強烈な光を発して砕け散った。キゲイは片腕で両目を押さえ、光から目を守る。
 レイゼルトのうめき声が聞こえ、キゲイは目を開けた。辺りはほとんど真っ暗に見えた。竜の発する光はひとつも見えず、キゲイは地面に這いつくばるようにして、レイゼルトが倒れていた場所まで辺りを探りながら進む。耳に何も聞こえなくなっていたのは、あれほどうるさかった竜の羽音が、突然消えてしまったせいだろうか。
 キゲイの手がレイゼルトの体に触れた。ぜいぜいという早い息が、手のひらから感じられる。
「あいつら、どうなった? それに、もう夜になった? あんまり、何も見えないよ」
 キゲイは暗闇に向かって声を出す。その声すらも耳の奥というより厚い壁越しから聞こえてくるようで、自分の言葉だという実感がない。首筋は冷たくなっているし、竜に噛まれた左の親指は火にくべられたように熱く、痛みが心臓の鼓動にあわせて脈打っていた。
「みんな消えた。いいものを持っているな」
 キゲイはそれ聞いて安心した。レイゼルトの体にかけていた手を引っ込めると、重く動かなくなってきた体を丸めて横になる。相変わらず指はずきずきして、首筋は冷たく痺れていた。横になると、まぶたも重くなってくる。そういえば、あの女の子の面倒を見るのをすっかり忘れていた。キゲイは半分朦朧としながら自分の責任を思い出す。けれども、それがその日の最後の記憶になった。あとは夢もない、真っ暗な底なしの眠りに落ちていく。
 寒さに耐えながら、前後不覚に夜をやり過ごしたらしい。キゲイが目を覚ますと、辺りは明るかった。自分のすねの辺りで、女の子が丸まって寝息を立てている。後ろを振り返ると、昨日はレイゼルトがそこに倒れていたはずだが、今は姿はない。彼が倒れていた所の土や石ころは血で汚れたままだったから、昨日ここで彼に会って、たくさんの竜に襲われたのは夢でも幻でもない。
 キゲイは何度か瞬きをし、目がおかしくないことを確める。気を失うように眠る前、突然目の前が暗くなったのはなぜだろうか。辺りの景色は暗闇に沈んで形を失っても、飛び交う竜の光だけはずっと明るかった気がする。
 近くに水場があったことを思い出し、キゲイは重い体を引き起こした。渇きで喉がはれてひりひりする。斜面を細々と流れる糸のような流れを音を頼りに見つけ、狭い岩場に手を突っ込んで水をうける。何度か繰り返して水を飲み、空を見上げて太陽を探す。暖かな日差しが降り注ぐ仰角は、正午前後の時間を指していた。
 ピイーと、鋭く高い音が斜面の上で鳴る。音の聞こえた辺りを目で探すと、木立の影にレイゼルトが立っていた。昨日ぼさぼさになって顔を覆っていた髪は、今日は後ろにまとめて結んであった。彼は影から日の光の下に姿を現し、キゲイに手招きをする。キゲイがそちらへ登ろうとすると、レイゼルトは左手を動かして女の子も一緒に連れてくるように指示した。
「この先に水場がある」
 レイゼルトはいつもの口調でキゲイに伝えた。こんなどことも知れない森の中で、キゲイに会ったことも、見も知らない女の子がいることも、まったく驚いている素振りはない。まるでずっと一緒に行動していたかのようだ。とはいえ、レイゼルトの顔色は蒼白を通り越して土気色をしていたし、竜に散々噛みつかれた背中は服の破れ目で毛羽立ち、目を背けたくなるひどい傷もあらわだった。キゲイも体のあちこちが痛く、疲労で頭がぼんやりして、何かに驚く元気もない。レイゼルトもキゲイと同じ状態なのかもしれなかった。
 木立を進むとレイゼルトの言ったとおり、岩の崖の隙間から、冷たい水が湧き出して辺りをぬかるませていた。凍るほど冷たい雪解け水だ。三人で交互に水を飲んだ後、レイゼルトは汚れた穴だらけの上着を脱いで、それを水に湿らせる。そして背中の傷口にそっと当てた。キゲイも竜に噛まれた指を洗い、帯を水で湿らせる。女の子はわずかに首をかしげながら、それぞれ自分の傷の手当てをする二人の少年を、不思議そうに見ている。
「で、なんでお前がここにいるんだ」
 しばらくして、レイゼルトが背中の痛みに顔をゆがめながら、キゲイに尋ねる。キゲイも熱を持った首筋に水を含ませた帯を当てつつ、歯を食い縛りながら答えた。
「知るもんか。僕だって好きでここに来たんじゃないのにっ」
「そうか」
 レイゼルトはふっと同情するような表情を見せたが、次の瞬間に鼻から笑みを漏らす。それを見て、キゲイはますます機嫌が悪くなった。
「誰のせいでこうなったと思ってるんだよ」
「誰のせいか、確めてみよう。私のせいだと分かったら、あやまってやる」
 レイゼルトはキゲイの不機嫌もものともせず、右腕でキゲイの左胸を指し示す。キゲイはその腕を見てはっとした。破れた袖の中に先の丸まった手首が見えた。
「その胸ポケットに入っているものを出してみろ」
「いいよ。そのかわり、鏡はもうそっちに返す。鏡が色んな化け物を引き寄せて、お守りがそれを追い払ってくれてるに違いないんだ。きっと」
 キゲイは懐から銀の鏡とお守りを取り出す。そして銀の鏡だけレイゼルトに突き出したが、あいにくレイゼルトは左手を後ろに回して傷口を冷やしていたので、受け取れない。すでに十分怒りを溜め込んでいたキゲイは、レイゼルトの口に銀の鏡を突き出した。仕方なしにレイゼルトは鏡を口で受け取ったが、おかげでそれ以上何も話せなくなる。彼は空を見上げ、鏡をくわえたまま傷を洗うのに集中した。キゲイもお守りを懐にしまう。
 レイゼルトは首を傾けながら、口にくわえた鏡で太陽の光を捉えて反射させる。暗い木立に鏡の明るい反射が走り、キゲイは単にレイゼルトが光を反射させて遊んでいるだけだと思っていた。ところが不意にレイゼルトはその光を空に上げ、入れ替わりにその空から何かがぽとりと、蔓草の茂みに落ちる。
「今、何したの」
 キゲイが尋ねるとレイゼルトは鏡をくわえたままキゲイの方を向く。キゲイは慌てて腰をかがめ、鏡の反射を避けた。レイゼルトは足元の苔に、鏡をぷっと吐き落とした。
「猟だよ。拾ってきてくれ。ついでにそっちに生えてる蔓も」
 まだ腹を立てていたキゲイは不満を感じながらも、実際にはかなりの重症人であるレイゼルトの言葉には逆らえず、茂みに分け入る。茶色っぽいキジに似た鳥が落ちているのを見つけたが、両翼の羽根がきれいさっぱりなかった。どうやら鏡の魔力で羽根が砂になってしまったらしい。恐ろしいものだ。レイゼルトに鏡を返さない方がよかったかもしれない。
 キゲイが鳥と葉っぱを持って戻ると、女の子が銀の鏡を拾い上げて遊んでいた。レイゼルトは石の上に腰かけ、ぼんやりというより朦朧とした目をしていたが、キゲイが戻ってくるのには鋭く気がついた。
「私はこの数日食べていない。おまえ達はどうだ」
「一昨日の晩から何も食べてないよ……」
 レイゼルトは頷いて、鳥を受け取る。彼はそれを平らな石の上に乗せ、魔法をかける。刃物を使わず血を抜き、火を焚かずに丸焼きを作るなど、魔法使いにしかできないだろう。レイゼルトが鳥の体に手を触れると、羽根はすべて砂になって舞い落ち、火に包まれて真っ黒焦げになる。その焦げた皮をはがすと、湯気を立てる柔らかい肉がでてきた。
「あの鏡、あの子に遊ばせておいて大丈夫?」
「魔法使いじゃないなら危険はない。鏡越しに太陽を見たら、眩しいだろうが」
 鳥の匂いに釣られて、女の子も二人の側に寄ってきた。その隙にキゲイは女の子から鏡を取り上げる。女の子はすでにレイゼルトが裂き分けたキジ肉しか目に入らなくなっていた。三人はしばらくものも言わず、味付けも何もない肉をほお張る。レイゼルト自身は食欲が振るわなかったのか、少しだけ食べた後はずっと、キゲイや女の子の様子を注意深く観察していた。
 あらかた食べつくしてしまうと、レイゼルトは見計らって、キゲイになぜこの森にいるのか尋ねる。空腹がとりあえず落ち着いて、キゲイも話す気になっていた。黄緑の城で人さらいに会ったことから話したが、ブレイヤールの身の上が今頃どうなっているか分からず、キゲイは肩を落とす。
「人の心配をする状況じゃない。今は私達も危険な場所にいる。私の連れもはぐれて、このどこかでさまよっているはずだ」
「連れ? それに、ここどこなの」
「ここは石人世界の真ん中だ。星の神殿が治める山地だが、徒歩では遠すぎる。お前はそのお守りを手放さないようにしろ。目には見えないが、この森は色々な精霊がいて、無防備な魂を常に狙ってる。人間は格好の餌食だ。お前のお守りも、随分力を使ってしまった。気をつけろ」
「精霊って? あの白いお化けみたいな奴は、僕にも見えたんだ。あれは精霊じゃなかったってこと?」
 キゲイはあの晩女の子を追いかけた、背の高い光のような影のことを思い出す。今思えばあれは幽霊のような不気味さはあまりなく、深い森の底にたつ白霧のように神秘的なものだった気がした。危険な存在なのは確かだが、どこか強く心を惹く何かがあった。美しいものは人を魅了するが、美しすぎると逆に恐れられる。そういった類のものだ。キゲイは影が触れた左腕に視線を落とした。レイゼルトもキゲイの視線の先を横目にとらえる。
「触られた跡のあざが、消えたんだ。治ったのかな。もう痛くないみたいだし」
「いや、消えたんじゃない。浸透したんだ。骨まで」
 レイゼルトは低い声で答える。ぎょっとした表情に変わったキゲイに、彼は少し声のトーンをあげた。
「異界に属する者に触れられた、火傷跡みたいなものだ。お守りを持っていたから、その程度ですんだ。寒い日なんかには神経痛みたいに痛むこともあるかもしれない」
 キゲイは半信半疑で腕をさすった。それから思い出して、銀の鏡を懐から取り出す。レイゼルトは黙ってそれを受け取った。
「ようやく戻ってきた。私が探していたものを引き連れて」
 止血の布でぐるぐる巻きになった左手に鏡を握ったまま、レイゼルトは鼻で笑う。キゲイはそれに顔をしかめる。
「はぁ? ……よく言うよ。誰がそれをこっちに押し付けたんだ」
「石人に好かれやすいのかもな、お前は。白の王族、普通の石人、普通じゃない石人、人さらいの石人に、石人の亡霊。色々な石人に会っている」
「鏡さえなかったら、僕は一人で石人世界に取り残されることもなかったんだ。石人に会うのだって、なかったはずなんだ!」
 まるでからかうようなレイゼルトの態度に、キゲイは怒って今までずっと心に秘めながら、誰にも言えずにいた言葉を吐き捨てた。言ってしまうと、さらに新しい怒りがこみ上げてくる。その言葉で硬くしめられていた心の栓が抜けたように、怒りはキゲイの胸にひたひたと注がれる。しかし怒りはどこかで歯止めがかかっていた。銀の鏡があったから、ディクレス様はブレイヤールに会えたし、ブレイヤールもアークラントのことを気にかけるようになったのだ。それは嫌でも認めなければならない。何とも気分が悪い。レイゼルトは自分を利用して、何か大きなことをしようとしていた。なのに自分は何も分からないまま、知らされないまま、相手の言いなりになって鏡を受け取り、お人好しにもここまで捨てずに持ち続けた。そんな自分自身にだって腹が立つ。消化不良の怒りは、はけ口もなく、キゲイの胸で澱むしかなかった。
「石人の世界だってめちゃくちゃだよ。君が黄の城を襲ったって。もしかして砂にしたの? アークラントも今頃どうなってるか、もう分からないっていうのに……」
 キゲイはレイゼルトから目を逸らし、歯を食い縛りながらつぶやく。脇を見やると、女の子は横になって寝息を立てていた。彼女だけは何の悩みもなさそうだった。レイゼルトが右腕を伸ばして、女の子の額に手首の先を当てている。
「その、本当に石人を砂にしたの。さっきの鳥みたいに」
 キゲイはレイゼルトにそっぽを向けたまま、よそよそしく尋ねる。もし本当なら、答えなんか聞きたくなかった。かといって聞かずにいられるほど些細なことでもなかった。
 レイゼルトは長い間だまっていた。風の吹きすぎる音と、それに揺れる木々のざわめき、時折単調なそれらの音をみだす鳥の羽ばたきが、沈黙の時間を埋めていく。あまりにずっとレイゼルトが答えないので、キゲイは待つことに耐え切れず、首を落として目を閉じた。二人の石人の姿が視界から消える。
 耳に入る森の気配や、湿った土と木々の匂い、頬に当たる冷たい風。それらはキゲイの暮らす里の森とほとんど同じだった。多くが年経た古木で、洞が口を開け、雷や風で裂かれた古傷を持っている。若い森は東にあって、里はその森を追って百年に一度引越しをするのだ。再び目を開ければ夢も消えて、故郷の森で昼寝から目覚められるのではないかという、淡くはかない期待もかすめる。
「私は石人を砂に変えたことがある。七百十年前のことだ」
 レイゼルトが口を開き、キゲイは現実に引き戻された。顔を上げると、片手で鏡をもてあそびながら、憂鬱な表情を浮かべるレイゼルトの横顔が見えた。彼はキゲイの視線に気がつくと鏡を膝に置き、てのひらに蔓草の葉を一枚乗せる。見る間に葉は濃い緑色を薄め、褐色の砂と崩れる。レイゼルトはその砂を握りこみ、顔の前まで上げるとそっと手を開く。手から舞い落ちたのは砂ではなく、先程の葉っぱだ。キゲイはぽかんと口を開けた。砂からもとの形に戻るのは、はじめて見た。
「これが今と昔の違いになるかもしれない」
 レイゼルトは腕を下ろしながら呟く。彼はあぐらをかいたまま、両膝にそれぞれ腕をあずけて、楽な姿勢をとる。
「私にこの違いを与えたのは、アークラントが関係している。アークラントの起源を知っているか」
 キゲイは首を振る。レイゼルトは別段それを責めることなく、先を続けた。
「七百八年前、トルナクという建国まもない小さな国があった。今のハイディーンがある辺りだ。一方石人世界では、私は滝に落ちて死んだことになっていた。しかし私はそのまま川を流され、トルナク近くの川辺にうちあげられた。禁呪の異常な力で不死不老を得たとしておこう。私はそれから季節が二巡するまで川べりから動けず、呼吸同然に生死を交互に繰り返していた。助けたのはトルナクの初代王だ。彼は私を連れ帰り、王妃とともに養い親となってくれた。当時の人間達は、石人の存在をまだ恐怖をもって記憶していた。彼らが不死の石人に驚くことも恐れることもなく、自分の子ども達と同じ館に住まわせたのは、勇敢だったと今でも感嘆する。私は生まれて初めて人としての生活をおくらせてもらい、人の心というものを教えてもらった。
 彼らは賢い人達だった。魔法については無知だったが、不死不老の者がこの世を生きていくのに必要な全てを確信的に知っていた。それは人のいる所でもいない所でも、一人ぼっちであろうと、ともに暮らす仲間がいようと、生きるのに必要な知識と技を、普通の者より徹底して学ぶことだった。天候と人の心を読み、植物や鉱物の特性を知り、狩りや織物の手業を体に染み覚えさせる。魔法やその他の学問は二の次だった。なぜならそれらは、最初の学びの中で得た知識と技を、単に系統立てて整理したものだからだ。彼らが最も大切にした教えは、何だったと思うか?」
「狩り、かなぁ」
「いいや、誰とでも仲良くやる方法だ」
「一番大事な教えを全部忘れただろ」
 キゲイは口を尖らす。レイゼルトはニヤッと笑って、すぐ真顔に戻る。彼は声を落とした。
「それから百年余りが経ち、トルナクは北から異民族の侵略を受けた。トルナク最後の王は人々をアークラントの地へ導いた。そこには地読みの民、エツ族をはじめ先住の人々がいたが、王は敵が背後に迫っていたにもかかわらず、自分達を彼らの地へ受け入れてくれるかどうか、彼らに使いを送り許しを請うたという。後に彼は英雄と呼ばれるようになり、国の名をアークラントと改め初代国王となった。
 その後も時代の混乱が続いたが、アークラントは戦のたびに国土を広げ、ついに有史初とも言われる広大な国へと成長した。竜骨山脈が分かつこの大陸において、アークラントこそが西の覇者かつ世界の中心と謳われ、大陸中の富が王都に集まっていた。しかし衰えというものは避けられない。新たな時代の混乱はアークラント国内から起こり、巨大な王国は姿を消した。英雄の血を継ぐ王家の誇りは始祖たるアークラントの地でささやかに取り戻されたが、全ての栄光は過去にしかなく、それも伝説と化した。今のアークラントはわざわざ攻める価値もない、貧しい小さな国だ」
「……じゃあなんで、ハイディーンやエカが狙うの。ほっといてくれたらいいじゃないか」
「連中は歴史も血統もない、辺境の蛮族だからだ。アークラントのかつての威光は、伝説として今も大陸中に残っている。アークラントの地を手に入れることで、彼らは多くの国を従わせる名を得る。かつてのアークラントの版図を掲げ、国土を広げる大儀を得る」
 レイゼルトはキゲイに炎色の瞳をすえた。
「もし彼らがアークラントに大空白平原への抜け道があると知れば、アークラントの価値は跳ね上がるだろう。険しい地形と多くの国々で阻まれ、手を伸ばしても届かない西部の富を、東西を繋いで横たわる平原を通じて得られるのだ。しかしその抜け道はアークラントでさえ、最近になるまで忘れ去られていた。ハイディーンやエカが抜け道の存在を知るときがあるとすれば、アークラントに入ってからだろう。彼らには、最後まで知らぬままでいてくれた方がいい」
「まるでアークラントはもう滅びるみたいに言うね……。予言者様は、英雄が現われるって言ってたじゃないか」
 レイゼルトの話しぶりに動揺を覚えたのか、自分は所詮アークラント人じゃないという一抹の後ろめたさのせいか、キゲイの抗議の声は途中から消え入りそうになる。レイゼルトはもしかしたら、ディクレス様以上にアークラントを取り巻く困難を知っているのではないだろうか。知っていてそれをディクレス様に伝えるわけでもなく、こんな森の中でキゲイ相手に話している。
「君はオロ山脈の抜け道を、最初から知ってたの」
 とがめるように尋ねると、レイゼルトは首を振った。キゲイの質問は答えを聞いたところで、何か意味のあるものではない。しかしレイゼルトは、キゲイの感じていることをおぼろげながら汲み取ったらしい。
「私は石人で、しかも本来ならこの時代には生きていないはずの者だ。不死不老は生命と人の世に対する不器用で不確かな欺きだ。世に関わってはならない。何をしようと出すぎたまねだ」
 レイゼルトはうつむく。彼は口の端を引きつらせて、やや陰険な笑みを浮かべた。
「なのに、その出すぎた真似をしているんだ。予言者は己にしか見えぬ、ひとつの未来を語った。ディクレス前王は予言された未来に賭け、アース現王は国に留まって目前の未来に立ち向かおうとしている。私も予言に動かされた。アークラントが石人世界に向かうのなら、私にもできることがある。トルナクの初代王は私の恩人で、アークラント王家は恩人の子孫だ。私はあの王家に恩を返したい」
「石人のことは? 皆、七百年前のことを思い出して怖がってるみたいだ」
「滑稽だな」
 レイゼルトは神妙な口調を一変させ、そっけない言葉を吐く。彼は少し姿勢を崩した。額が汗ばんで、苦しそうにも見えた。傷のために熱が出ているらしい。
「滝から落ちて以来、石人世界と関わりを持たずに来た。そして時の終わりに戻ってきた。私は私で始末をつけることがある。アークラントにかこつけてあの世から蘇ったかのように姿を現して見せたが、軽率だったかもしれないし、何かの役に立ったかもしれない。確かめる機会はもうないが」
 レイゼルトはふっと息を吐き、左手の布を解いて傷の具合を確かめる。
「動けるなら、他にも少し薬草を集めてきてくれないか。私の傷は今夜から明日にかけてが峠だと思う。だが、明後日になったらとにかく動こう。私の連れは飛べるから、合流できればすぐに神殿の都市に向かえる。そこでなら治療も受けられる。お前は人間だから、私が傷を見たほうがいいかも知れないが。傷が膿まないよう、まじないをかけてやる。首の噛まれた所はたいしたことはない。髪の毛が当たらないように帯を巻いとけ。指の噛み傷の方が深い」
「分かった。でも、治療って? この子も、神殿で見てもらわないとって、言われてたんだけど」
 キゲイは呑気に寝ている女の子を指差す。レイゼルトは頷いた。
「神殿の治療より、別のものが必要だ」
「……僕、この子のこと、まだ何も話してないはずだよ」
 半ばうんざりして、キゲイは愚痴った。どうもレイゼルトは何もかも見通しすぎる。それが彼の魔法使いとしての資質にあるのか、七百年も生きた年の功にあるのか分からない。わざわざ見せてもいないのに、キゲイの怪我の具合も知っているし、女の子がどう具合が悪いのかも察したようだ。自分自身重い怪我と熱で頭が朦朧としているはずのに、よくそこまで人を観察できるものだ。それでも感心よりも反感を覚えてしまうのは、なぜだろう。
「この子、湖から突然現れた子なんだよ」
 キゲイが探りを入れるとレイゼルトは鋭い視線を向けた。キゲイが怯むと、レイゼルトは視線はそのままに、頬を緩ませる。
「知ってるんだな。誰から聞いた」
 声色はかなり厳しかった。キゲイは視線で射抜かれ、標本台の上にピンで留められた虫にでもなった気がした。絶対に認めたくないが、絶対に勝てない相手だというのが身に染みる。キゲイはこれが最後のあがきと思いながら、ささやかな抵抗のつもりでブレイヤールとの約束を厳守することにする。
「聞いたことは、誰にも、話すなって言われた。石人にも話すなって」
 つっかえながらもどうにか答えると、レイゼルトは少し驚いたような顔をして、鋭い視線から解放してくれた。
「石人にも話すつもりがないなら、安心だ」
 そしてキゲイを手で追い払う仕草をする。勝手なものだ。キゲイは口を尖らせ、薬草摘みに出た。
 レイゼルトは鏡を手に取り、ちょうど目を覚まして伸びをしている女の子に目をやった。彼女はキゲイが側に居ないのを知って、真っ白で緩やかな曲線を描く額に眉を寄せた。卵の殻みたいな額だ。しかしレイゼルトがいるのを見て取ると、彼の方に淡い空色の大きな瞳を向ける。血の匂いをぷんぷんさせて、瀕死の石人が座って何をしているのか、不思議に思っているのかもしれない。
 レイゼルトはこの女の子が、人よりも魚の目で自分を観察しているように思えた。それくらい、瞳の裏にある感情が読み取りにくい。その顔つきは無垢や無知とは言い切れない、原始的で年齢不詳の知性が宿っているようにも見える。
「名前は? 自分で記憶しておかないと、そのうちお前の名前を知る者はいなくなる。他の石人は、七百年も生きない」
 無駄かもしれないと話しかけたが、やはり答えは返ってこない。レイゼルトは女の子の空色の瞳に、細かな金色の網目が浮かんでいるのに気がついた。彼は黄緑の城の神魚を思い出す。あれは空色の地に金色の鱗を持っていて、黄緑色の体に見える。
「空白平原の都市に、私の仲間を待たせている。もしこの世に行き場を失くしたなら、彼のところに行ってみろ。それか紫城に。そっちには幽霊のきれっぱしがいるかもしれないが、城の本来の姿を見ることができる。……紙と筆が手に入ったら、書き残しておいた方がよさそうだな」
 レイゼルトはそれ以上女の子の相手をするのをやめて、鏡に目を戻す。
 キゲイは妙な大鳥にさらわれてこの森に運ばれたと言っていたが、実際は鏡がこの女の子を自分の側まで導いたと考える方が正しい気がしていた。レイゼルトの方は真っ赤な竜達に追われながら黄の城からここまで逃げ切り、そこでアニュディの体力に限界が来て森に墜落した。これももしかしたら、墜落したのではなく何者かに着陸を強いられたのかもしれない。
 キゲイ達をさらった大鳥が、いったい誰に操られていたかは分からない。十二城の初代国王達がそれぞれの城の最深部で今も生き続けているのならば、神殿において彼らの同僚であり、歴史上において消息がいつの間にか途絶えたもう一人の石人も、いまだ石人世界のどこかにいるかもしれないのだ。
――やはり神殿に向かうのが正しいのか。
 つらつらとそんな事を考えていると、ひどい眠けに襲われる。すると女の子が立ち上がって、彼の体を強く揺さぶった。彼は目を覚ます。丁度キゲイが両腕に様々な葉や蔓、菌類の生えた木の皮に根っこつきの大葉まで持って、戻ってくる。
「アークラントの抜け道から大空白平原へ出て、ひと月くらい経っている気がする」
 森を巡るうちに機嫌を直したキゲイは、レイゼルトに尋ねた。
「ひと月半になるかもしれない。神殿都市まで行ったら、すぐに白城まで戻れるよう手配する。ありがとう、キゲイ。後は私がやる」
 キゲイはレイゼルトに植物の山を手渡した。レイゼルトは、明後日になるまで自分に絶対近づかないようキゲイに言いつけて、遠くに見える巨木の根元に横たわる。キゲイは言われたとおりにした。時々向こうの様子をうかがっても、レイゼルトは血の気の失せた顔で横になったまま動かなかった。
 気味が悪いほど年を取った巨木の足元で、鮮やかな赤い髪と、紫紺の上着の色だけが木陰に浮かび上がっている。キゲイはその光景に、不思議な感じを覚えた。七百年前もレイゼルトは似たような場所で、ああして深手を負った体を休めていたのかもしれない。レイゼルトが横たわる場所と自分の立つ場所との隔たりに、七百年の時の幅たりが一瞬重なった。キゲイは胸に手を当てる。銀の鏡はもうそこにはなかったが、その方がよかった。鏡はレイゼルトのいる方へ戻り、キゲイの胸には三つ編みのお守りがあった。レイゼルトと鏡は、キゲイ達とは全く異なる世界へ戻りつつある。キゲイはくるりと背を向けて、自分達の過ごす場所を探す。
 キゲイと女の子は、体力を温存するために翌日もほとんど動かなかった。レイゼルトがあらかじめ幾つかの石に火の魔法をかけてくれたおかげで、夜も凍えることはなかった。わずかな山菜を石で焼き付け、飢えをしのぐ。
 まだ夜も明けきらない真っ青な時間、レイゼルトは約束どおりにキゲイ達を呼びに来た。キゲイはレイゼルトが片手に何かぶら下げているのを見て、目をこする。イタチに似ているが、毛皮には黒い文字に似た縞模様がある上、尻尾は二股に分かれ、頭だけ爬虫類の鱗で覆われている。
「それ……」
「小さい魔物」
 レイゼルトは二日前よりもしっかりした声で答えた。身のこなしも怪我を感じさせないほど素早く、彼は魔物を右腕に引っ掛け、苔むした平たい岩に近づく。岩の上に左手を置くとその手の下で岩は砂に変わり、砂を払うと小鳥の水飲み場のような窪みが岩の上にできていた。そのくぼみの中に魔物を横たえ、レイゼルトは手をかざす。すると魔物の体が白みを増して泡立ち、一瞬にして透明になったかと思うと、とぽんと水音を立ててくぼみに溜まる。キゲイはそっと岩の上の水溜りを覗き込む。水面は青暗い空と枝葉の影を映して震えていた。
「……砂にするだけじゃなくて、水にもできるの?」
「これは禁呪じゃない。魔法で時間を早めただけだ。岩が砂になるのは自然だし、死んだ魔物が水に変わるのも自然なことだ」
 レイゼルトは女の子を招き寄せ、溜まった水を飲むよう身振りで示す。女の子は身を乗り出して、水たまりに直接口をつけた。レイゼルトはその様子を見守りながら、言葉を続ける。
「人間も獣も最後は土に帰るだろう。石人は死んだら石になって、最後は砂になる。魔物は水になる」
「……これ、飲んで大丈夫?」
「この世で最も純粋な生命の形と言われる。魔法にかかって心を失った者や、魂を失った者、あるいは今まさに死にかけている者だけに効く。普通の水と混ぜるとしばらくは溶け合わず、粒になって浮遊するが、そのうち力を放散してただの水に変わる。具合の悪い者の体の中で、力を放つのが効くんだ」
 レイゼルトはキゲイに湯気の立つ葉っぱの包みを手渡した。開けてみると、半熟の小さな蒸し卵が顔を出す。キゲイは湯気を吹いた。卵をすするキゲイの隣で、レイゼルトは話を続ける。
「魔物は自分の縄張りを持っている。それはいわば彼らの聖域だ。自分の聖域を侵す者を魔物は食う。連中は腹を空かせてものを食うことはない。己と出自の異なる生命を、自身を形作る生命の水の中へ戻すために食う。石人世界の地下深くには、生命の水でできた地底湖があるらしい。魔物が死んで水になると、大地に染みて地下水脈に落ち、生命の水は地下水に混ざる。水と溶けあわなかったものはさらに下に染み落ちて、その地底湖に還るそうだ。水は希薄なほどに澄み通り淡い光をまとっていて、明かりの差さない地下で湖だけが暗闇に浮いて見えるらしい。地底湖に溜まる生命の水は地下水が川として染み出すのと同様に、魔物達を再び地上に送り出す。魔物達の聖域が複雑に絡む石人世界で、我々が暮らせるのは神殿と城だけだ。神殿は魔物達を狩り続けることで魔物が持つ聖域の空白地帯を、いわば石人達の聖域を確保している。魔物狩りの儀式には生贄が必要だが、城では魔物狩りの必要はない。生贄もいらない。城自体が聖域だから」
「生贄って。この小さい魔物を捕まえるときに、君、何かを捧げたの?」
「血を少し。しかし、足りないだろうな」
「それは……」
「盗人は追われる」
 レイゼルトは立ち上がった。
「仲間が水に戻されたのを嗅ぎつけられる前に、出発しよう。まとめる荷物はないか」
「ない。すぐに歩けるよ」
 女の子が最後の一口をすすると、レイゼルトは出発の号令を出した。朝日はまだ山の下にあり、空と雲だけを照らし出して稜線と森の影を際立たせている。三人は夜の寒さが残る森を、白い息を吐き、身を縮めながら進んだ。レイゼルトは時々足を止め、瞑想するかのように立ち尽くす。魔物達の聖域の隙間を探すのだ。レイゼルトが立ち止まるたびに、キゲイは女の子を自分の隣に伏せさせ、邪魔をしないよう二人して息を潜めた。森は小鳥の姿ひとつなく、他の獣の気配もなく、朝靄を漂わせ、いつ破られるとも知れない静寂の下にあった。レイゼルトが再び歩き出し、柔らかな地面を踏みしだく音がすると、キゲイは詰めていた息を緩ませてほっとするのだった。
 日が昇り木漏れ日が地面を暖める頃になると、森は物言わぬ生き物とともに目覚めていく。三人はそこでようやく足を止め、キゲイは辺りを偵察し、一休みに丁度いい陽だまりを見つける。並んで腰を下ろしそれぞれに両足を伸ばして、凍えた体を日に当てる。キゲイはレイゼルトの様子をうかがった。顔色はまだいいとはいえない。竜に噛み付かれた頬の傷は、赤黒い筋になってふさがりかけていた。左手の噛み跡も血は止まっているらしい。一番ひどい背中の傷は広げた帯で隠しているから分からない。でもおそらく前よりは良くはなっているだろう。
「大丈夫だ。死なないし、気絶もしないから」
 キゲイが心配そうに自分を見ていることに気づいて、レイゼルトは苦笑する。そんな二人の様子をじっと眺めていた女の子が腰を上げ、二人の前に立った。キゲイ達が不思議に思って彼女を見上げると、彼女は上着の裾下から小さな布の包みを取り出し、差し出してくる。レイゼルトが目配せし、キゲイはどこか見覚えのある包みを受け取ってそっと開いてみる。中には粉々になった焼き菓子があった。
 女の子が不明瞭な発音で何かを言った。レイゼルトはその言葉に耳を傾け、彼女の発音を確認するように同じ言葉を返す。もっともキゲイの方は、焼き菓子しか目に入ってなかった。
「いままでずっと持ってたの!」
 キゲイが叫ぶと、レイゼルトは脇から手を出して、かけらをつまみ上げた。
「彼女は『おみやげ』だと。……水がないと、とても飲み下せそうにないな」
 キゲイは丁寧に包み直し、自分の懐におさめる。これ以上女の子に持たせていたら、焼き菓子は小麦粉に戻ってしまうだろう。女の子はやや不満げな顔をして、元の場所に座り直した。
 この日は正午過ぎに、沼のほとりで歩くのをやめた。沼は比較的大きく、その上には曇り空が広がっている。レイゼルトは再び魔法で狩りをして、野兎を二羽捕らえて来た。さらに彼は、銅色に輝く大きな羽根も帯にさしていた。キゲイの腕ほどの長さで、向こうが透けるほど薄い。一枚の鏡のようになめらかなのに、指で裂いたりまたくっつけたりできるところは、紛れもなく鳥の羽根だ。
「近くにいるのかもしれない。探しに出るから、ここで待っててくれ」
 ささやかな昼食の後、レイゼルトは森へ姿を消す。キゲイは大きな銅の羽根を片手に、この羽根を持つ翼がどれほど巨大なのか想像しようとした。その翼を広げて飛び立つとしたら、ひらけた沼のほとりは丁度いい場所かもしれない。
 キゲイの想像に反し、夕暮れ近くにレイゼルトが連れ帰ってきたのは、石人の女の人だった。ただの石人と言いたいところだったが、そうも言えないくらい猛烈に怒り狂っていた。
 キゲイが最初に聞いたのは、森の奥から突っ切って届いたわめき声だ。高い声で文句を言っているらしいと思えば、今にも泣き出しそうな震え声になったり、叫び声になったりする。キゲイはそれでレイゼルトが戻ってきたのを知ったのだが、出迎える気持ちというより待ち構える気分になった。女の子はといえば、声に恐れをなして木の根っこの影に身を潜めてしまう。
 やがて夕暮れの森から二つの影が現れる。一つはレイゼルトで、もう一つがその怒れる石人だった。とにかくひどく怒っているようで、ひと時も黙らない。片腕をレイゼルトに引かせていたが、もう片方の腕は宙を探るように動くときもあれば、いらいらと拳を振るうときもある。激しい怒りとは裏腹に、歩みだけは随分ゆっくりと慎重だ。その歩き方とレイゼルトの介添えの仕方で、キゲイは女の人は目が不自由だと知る。
 森から沼に出ると、レイゼルトはどうにも収拾がつかない連れを、乾いた場所に座らせようとした。ところが彼女の振るった拳が運悪く背中に命中し、飛びずさるようにして彼女から離れる。あっと悲鳴をあげたのはキゲイだけだ。女性は手の感触によくないものを感じてぐっと押し黙る。当のレイゼルトは痛みに顔をゆがめ、唇を噛んだままキゲイの隣を足早に通り過ぎた。通り過ぎざま彼は、
「私の名は彼女には言うな。少し、頼む」
 と苦しそうにキゲイに伝える。キゲイは覚悟を決めて、女性の側に駆け寄った。
「背中に大怪我してるんだ。手を振り回したら、危ないよ」
 女性はキゲイの声へ顔を向ける。耳の上で切りそろえた栗色の髪と、まぶたを閉じて瞳の色が分からないために、彼女はほとんど人間に見えた。肌の色合いも褐色を帯びていて、アークラント人と似ているかもしれない。丸っこい鼻と唇をした愛きょうのある顔立ちは、元来人がよさそうだ。キゲイは、彼女が人間だったらよかったのにと思った。正直石人ばかりに囲まれているのに疲れてきていたのだ。
 女性は眉をひそめて難しい表情をつくり、それからしばらくして、キゲイと同じ「言の葉」で尋ね返した。
「誰?」
 キゲイが言葉に詰まると、女性はレイゼルトの背に当たった手をさすり、血の匂いを嗅ぎ取る。彼女は心配そうな顔つきになり、再びたどたどしい「言の葉」で言葉を搾り出す。
「私、彼に何した?」
「そっちの手が怪我したところに当たったんです。向こうに逃げて痛がってるだけだから、大丈夫だとは思うけど……」
「そう。……悪かったわ」
 先程の怒りが嘘のように、女性はしょんぼりと肩を落とす。
「ところで、君は誰? 彼の友達?」
「キゲイです。友達かどうかは分からないけど、知り合いなのは確かだと思う」
「変わった名前ね。私はアニュディっていうの」
 アニュディはキゲイを人間だと、少しも気づいていないようだった。
「もしかしてキゲイ、彼の名前、知ってる?」
 キゲイは慌てて首を振り、それだけではアニュディに伝わらないことに気づいて言い直す。
「えっと、知らないです」
「うそ。さっき知り合いって、言った」
「だって……。あいつ、言うなって」
 言いながら、キゲイはみるみるうち、アニュディに再度怒りの炎が燃え立つのを見た。彼女はキッと顔を上げ、「ガラ!」とよく通る声で一声叫んだかと思うと、怒涛の石人語で何かをまくし立てる。キゲイは恐れをなして彼女から離れたが、彼女の境遇をうすうす感じ始めていた。キゲイ同様、彼女もレイゼルトに利用された一人なのだ。だとしたらアニュディの怒りも分かるし、自分だって同じようにレイゼルトに怒鳴り散らしてもよかったのかもしれない。レイゼルトの射抜くように鋭い目と向かい合えば、そんな大胆な真似はとてもできたものではない。しかしアニュディにはできるのだ。
「好きなあだ名で罵れ! 私の名前なんか、知らない方があんたにはいいんだ!」
 レイゼルトが遠くから「言の葉」で言い返した。アニュディはさらに石人語でわめいたが、そのうちとうとう頭を抱えてしゃがみこみ、子どもみたいにわんわん泣きはじめてしまった。
「僕だけじゃなく、この人も巻き込んだんだな」
 アニュディの側へ戻ってきたレイゼルトを、キゲイは呆れ気味にとがめる。レイゼルトは明らかに不機嫌な顔つきだった。
「私も万能じゃないんだ」
 レイゼルトはぼそっと呟いて、アニュディに水で湿らせた布を渡した。
「これで顔を拭いて、血のついた手も」
 アニュディは大人しく言われた通りにした。これではどちらが大人か分からない。とりあえずも平静を取り戻したアニュディは、乱れた髪を指ですき、立ち上がりながらスカートを引っ張って皺を伸ばした。
「少し落ち着いたわ。この数日、口にしたものといえばキツネの生肉と生の骨が少し。人の姿に戻れば、魔物や狼の餌食になるのは分かってるし。おかげであやうく自分が人だってこと忘れそうになってて。自分がどんなところにいるのかも分からないし……。ひとりぼっちで、とにかくものすごく怖かったのよ」
 幾分沈んだ声で、アニュディはばつが悪そうに説明する。キゲイは懐から焼き菓子の包みを取り出し、彼女に手渡した。レイゼルトも飲み水を用意するため沼の方へ去る。アニュディは焼き菓子を指で探り、口に運んだ。そして微笑む。
「甘いわ、うれしい。これ全部もらっていいの?」
「うん」
 キゲイは言葉少なに答えた。アニュディの剣幕に恐れをなし、木の根の下に隠れていた女の子も、ようやく顔だけを出してこちらをうかがっている。レイゼルトは魔法で器の形に掘り抜いた石に、水を入れて戻ってくる。アニュディは焼き菓子と水を堪能し、満足げな溜息をついた。本当に嬉しそうだ。
「子ども三人を乗せて、飛べるか。飛んでも数刻はかかる」
 レイゼルトが珍しく遠慮がちに尋ねる。焼き菓子のおかげで空腹と心を癒されたアニュディは、いつもの忍耐と賢さを取り戻していた。彼女は余計な質問はせず、朗らかに答える。
「長距離は苦手って言わなかったっけ。ま、後のことを考えなくていいなら、飛んでみせる。掴まれる場所は首の後ろから背中の上までしかないから、墜落の心配をしなきゃいけないのは、あなた達の方かもね。あと一人はどこ? 紹介してちょうだい。ちゃんと自己紹介できたら、その子も乗せてあげていいわ」
「自己紹介できない子だ。魚の姿で、長年湖で暮らしてた。人の心を忘れて、自分の名前も知らない。あなたも危なかったようだが。私にあだ名をつけたように、彼女にも何か呼び名をつけてやってくれ。不便で仕方がない」
 アニュディは眉を寄せ、唇を尖らせた。秘密だらけの三人の子ども達に辟易しているのだろう。
「……ウージュ。女の子なんでしょ」
「そっちはいい呼び名だな」
 レイゼルトは答えて女の子を連れに離れる。レイゼルトの足音が遠ざかるのを聞きつけて、アニュディがキゲイに尋ねた。
「ウージュって、どういう意味か、君、分かるかな?」
「えっ……」
 キゲイはレイゼルトの背を見送りながら、不安げに呟いた。アニュディはやや硬い笑みをわずかに口の端に浮かべている。
「答えられないの? 石人語なのに?」
 キゲイが黙っていると、アニュディの口から笑みも消えてしまった。それはキゲイにとって、恐ろしい瞬間だった。
「正直に答えなさい。あなたは誰」
 キゲイは音を立てないよう細心の注意を払いながら、アニュディの側から離れようとする。一方アニュディは、そんなごまかしは効かないとばかりに、キゲイの方を向いて腰に手を当てた。そこへ幸いにもレイゼルトが戻ってくる。
「キゲイは人間だ。白城のあたりで起こっていることを、聞いてないのか。キゲイ、ウージュは石人の古語で、『少女』という意味を持つ」
 レイゼルトは足早に二人の間に割って入り、アニュディの手に女の子の手を握らせる。
「ほら、ウージュだ。彼女を怖がらせないでくれ」
「……人さらいの天才ねぇ、あなたは。人間ですって?」
 アニュディはこめかみを押さえ、しばらく自分の殻に引き篭もってしまう。ウージュはアニュディに手を握られたまま、困った様子でその手を見つめている。キゲイとレイゼルトは、彼女の次の言葉を待った。あとは彼女の決心次第だ。
 やがてアニュディは、ゆっくりと頭を起こす。彼女の決心は明快だった。不死の石人だの、なぜか石人世界にいる人間だの、変身後遺症の石人だの、ともかく今は大した問題ではない。食べ物がない以上、この森にとどまる必要は皆無だ。
「よし!」
 アニュディは一声上げると、姿を変えるために両腕を広げる。キゲイ達は彼女から距離をとった。キゲイの隣で、レイゼルトが珍しくほっと安堵の息を吐いた。

十四章 英雄譚

夢見 彼は再び草原に立っていた。やわらかな輝きが大気に満ち、視界を淡く霞ませている。空は銀色の光に満たされ、純白の雲を一面に浮かべていた。まるでこの世のものとも思えないこの場所は、はかない神々しさに包まれている。
 足元の草は芽吹いたばかりの若く柔らかい春の野草で、花を持つものもまだつぼみは固く未熟だ。彼方をまっすぐ見やれば、はるか地平の向こうにひとつの人影が、輝く空から浮き立っている。ほっそりとした影は動かない。大気を漂う光の粒子は、その影の向こうから湧き出しているようでもある。
――あそこにいるのは、誰だ。
 草原と空だけの世界で、不思議なことに彼は自分が南を向いていることだけは、はっきりと知っていた。眠るとき、彼は南に顔を向けて横たわったのだ。草原で身じろぎすらためらう彼は、ベッドの中でも寝返りをうつのを恐れて、体をこわばらせているはずだ。
――確かめねば。
 トゥリーバは思い切って足を上げ、芽吹いたばかりの草を踏みながら人影に向かって進んでいく。この世界が歩みの途中で消えてしまわないか、いつも恐れていた。そして不意にすべてが暗転し、魂がベッドに横たわる自分の体に引き戻され、寒々しい暗い部屋で目を覚ましているのに気づくもの、いつものことだった。
 額をうっすらと湿らせていた汗をぬぐい、ベッドから身を起こす。寝返りを打つまいと力を入れていた両肩は、すっかり固まっている。窓に寄って雨除けの革布をあげると、きらきらと最初の朝日が部屋に差し込んだ。彼はまぶしさに目を細める。
――あの太陽とは違う。あの世界を照らすのは、太陽の影のようだった。光の影だ。
 それから彼は眉をひそめた。隠された未来や過去を夢から拾い上げるのは、夢見の家系に生まれた彼には小さい頃から慣れている。湖の波打ち際に様々なものが流れ着くように、夢が未来を彼の意識に打ち上げるのだ。ところがこの夢だけは分からない。いったいどのような未来を、彼の意識に漂着させたのだろう。どんなにもっともらしい夢解きも、納得のいくものではなかった。
 アークラントの先王は、あの夢に満ちる光を信じた。アークラントの人々は、自分達の心を覆う絶望から逃れようと、予言を希望そのものと受け取ってしまった。まるであの夢に現れる太陽の影を、太陽そのものだと勘違いしてしまったかのようだ。
「あの夢の中で、何が確かなものだ。あの人影だけだ」
 彼はつぶやいて頭を抱えた。差し込む朝日が煩わしくなり、柱の影に身を隠す。夢の中に満ちる光も、同じくらい煩わしい。光のおかげで見るべきものが隠れてしまっているのではないか。そのとき、ふと別の考えが頭に浮かんだ。
――あの夢は、私の夢ではないのかもしれない。あの人影が見る夢に、呼び込まれただけなのかもしれない。あるいは、この石人の大地そのものが見ている夢なのかもしれない。
 ここにいても、永遠に答えは出ないだろう。未来が実現する前にその形を見定められねば、予言者ではない。いても立ってもいられなくなり、彼は旅身支度を整え、先王の部屋へと向かう。

 日に日をついで、一瞬たりとも足をとどめない勢いだ。アークラント首都から一人の地読みの里出の将軍が、ディクレスの元へ様々な知らせを携えてやって来たのは。ディクレスは配下の一軍をラダム老将軍に預け、平原の町を隊商らしく転々とさせていたが、自身はタバッサの宿に潜み本国からの使者を待ち続けていた。
 長旅で汚れた姿のまま、リュウガ将軍は面会に訪れた。
「これが我が国の状況です。いよいよ時間は無くなっております」
 彼は単刀直入に、テーブルの上にいくつもの紙束を広げ、丸まらないよう四隅に重石を載せていく。一刻も惜しい彼は宿に馬を乗り付けてから、駆け足で部屋に飛びこんできた。息を切らせたままの彼に、ディクレスは自ら水差しからコップに注いで手渡す。リュウガ将軍は簡単な作法でそれを受け取り、一息に飲み干した。その間にディクレスは並べられた紙束へざっと目を通す。好ましい情報がないのはもとより分かっていたが、予想外の最悪な情報もなかったのは、喜ばしいことかもしれない。
「エカとハイディーンの様子は?」
「春は我々の所より、彼らの方に早くやってきます。彼らは再び兵を集め、鍛錬を始めていると思われます。ハイディーンが早くに軍を整えられるでしょう。エカは様々な民族の混成部隊ですから、出足を揃えるのに時間がかかります。両国とも相手の出方をうかがう姿勢を見せていますが、どちらかが痺れを切らせば、両軍とも怒涛のごとくアークラントになだれ込んで来るでしょう。ハイディーンが西の山麓を越えるのが早いか、エカが東の谷を突破するのが早いか」
「彼らが動き出す前にこちらも動かねば、間に合わぬか……」
 ディクレスはこの上なく難しい表情で首を振った。
「そこの報告にない事柄も少々ございます」
 リュウガ将軍の言葉にディクレスはすぐに顔を上げる。
「奇妙なうわさに過ぎません。ただ、首都から駆けて来る道中で、行く先々の地主や厩の者が口にしておりましたのが、同じ話でしたので」
 彼はそう前置いて、本人も首をかしげなから言った。
「晴れた日に、空を鳥のようなものが一直線に横切ったのを見たというのです。雲よりも高い場所を飛んでいるようなのに、その姿は決して小さくは見えなかったと。シルダ丘陵の者は竜といい、エベニサ市の者は怯えきって夕の鴉かもしれないと言いました。ティト族の者達は彼らの信奉する鳥の神だと言い張り、ネリ峠の者は蝶か蛾の夢が日の出を横切っただけと話しました。いずれにせよ空に普段見ないものを見たようで、吉兆ととる者もいれば、たくさんの魂をあの世へ運ぶために遣わされた不吉な影ととる者もいます」
「それはどこからどちらの方角へ飛んで行ったのだ」
「我が国を北から南へ。噂を集めれば、それは夜明け前に少なくともアークラントの北部に入り、日暮れまでにはシルダ丘陵に達していたようです」
「竜に、鴉に、獣神に、蝶の幻影か」
 ディクレスが唸りながら本気で考え込むそぶりを見せたので、リュウガ将軍は慌てて付け加えた。
「国はこのような状況です。変わったものを目にすれば、誰もが不安に駆られ、大げさに思い込んでしまったのでしょう」
 将軍はつまらない雑談で時間を無駄にしたと後悔しながらこの話を打ち切り、本題に入った。
「かの地で、希望は見つかりましたか? 英雄はおいででしたか?」
 ディクレスは真剣な様子の将軍に、まっすぐ視線を向けた。その顔には何かしらの不敵な明るさと、忍び寄る絶望のあい混じった奇妙な表情がある。
「英雄はいまだ見出されぬ。だが、希望の卵は見つかったように思う。問題は、いかなる手段でその殻を砕くかだ」
「それはどのような意味でしょうか」
 抽象的な表現を好まない将軍は、鼻白む。彼は用がすみ次第アークラントへ戻るつもりでいたため、そわそわと落ち着きがなかった。
「石人に会ったのだ」
 ディクレスは短く答えた。将軍はその答えが良いものか悪いものか、判断しようがない。先王は続ける。
「私が出会った石人はまだ若く、多くの力を秘めながらも、それを現すことを禁じられた、亡国の王だった」
「……その方は、我々に力を貸してくださるのでしょうか」
「それはないだろう。彼は石人であって、人間の世界には、まして我々の存亡には何の責任も持たない」
「では私は、どのような報告を持って帰ればよいのでしょう。予言者殿の言う希望と英雄を、国の者達は信じて待ち望んでいます」
「彼が見たのは希望ではない。未来だ。希望を見たのは、むしろ私の方だった」
 ディクレスが苦笑いを浮かべる。リュウガ将軍はそれを探索の失敗と捉えるしかなかった。
「信じるべきは、やはり我ら自身の意志しかないということですね」
 将軍はそう言いながらも、やや肩を落とす。ディクレスは一瞬将軍の肩越しに遠くを見たが、すぐに視線を戻して首を振った。
「予言がなければ、我々をこの地へ導く決心はなされなかったかもしれない。私はこの巡り合わせと、かの地で見つけた希望を、そのまま離すことはしない。急ぎこの町に残した兵達を、平原の各拠点へ配置する。ラダム将軍は平原で食糧を買い集めているが、呼び戻そう。将軍は次の知らせを持ち、国王へお伝えせよ。拠点を辿って大空白平原へ逃れ出る手はずが整ったと。時が来た」
「では、アークラントは……」
「民がおれば、国は再建のともし火を失わぬ。恐らく国王は、この知らせに驚かれることもないだろう」
 ディクレスは低く静かな声で言う。決然とした信念と深い憂いが、その目にあった。リュウガ将軍は一礼すると、それ以上何も尋ねることなく、無言で退出する。戸口で彼は予言者の姿を見たが、一刻も早く国へ戻るために、挨拶の暇さえ惜しんで立ち去った。
 入れ違いに部屋へ現われたトゥリーバを、ディクレスは手を上げて側に招きよせる。予言者は身軽で粗末な旅姿だ。
「私の役目は終わったようです」
 予言者は自分から口火を切った。部屋の外でリュウガ将軍とのやり取りを立ち聞いた彼は、先王の言葉を恐れていた。自分の予言は、ただ人々を惑わせただけだったのか。それどころか自らの予言を見失いつつあった彼は、身の置き場も無くしていた。
「どうか、暇をください。私は石人の地へ向かい、探したい人物がいるのです」
「確かに我々はまだ、そなたが予見に見たその人物に会っていないように思う。私は幸いにして、会うべき者に会えたが」
 ディクレスは安堵とも溜息ともつかない息を吐いて、予言者の言葉に答えた。
「エカ領内の一民族であったそなたが、集落を滅ぼされ、放浪の果てにアークラントへ現れたのは、この予見のためだと聞いた。そのためだけに滅び行く国へ立ち入ったそなたの予言者としての覚悟と、その予見そのものを、私は信じている。我々の時は満ちてしまったが、予見はいまだ成就の時を迎えていないようだ」
「あなた様は私以上に未来を見抜いておられるようです。それ故に私の予言を公にせず、夢見のみから得た言葉を人々に表わされた」
「私は王であったから、現状から未来を推察し、それに対して事を行うのが常だった。今の私にはごく近い未来しか見えぬが、そなたの予言はもっと先を見ているような気がしてならぬ。だからこそ滅びに瀕する国で、その予言を明らかにするのは危険だったのだ。しかしそなたの予見には近しい希望がある。私は国の者達をそこへ導こうとしている」
 ディクレスは脇の櫃から、一枚の地図を取り出した。それを口を引き結んで黙り込んでしまった若い予言者に渡す。
「空白平原の商人の中には、禁を犯して石人と取引をする者達もいるようだ。危険だが、彼らの力を借りれば、石人領内に詳しい者に出会えるかもしれん。彼らは常に用心棒として、魔法使いを連れて石人世界へ忍び込むらしい。そこに取り入って石人の地へ行くことも可能だろう。地読み達の地図があれば、万一のことがあっても、一人でここへ帰ることができるはずだ。それは白い城以南からわずかな範囲までしか記していないが、ここにある唯一の石人の地の地図だ」
 トゥリーバは地図を受け取った。
「己で見失った夢見を、今一度探しに参ります。どのような未来であろうとそれを見届け、私の夢見を信じた方々に報いるつもりです」
 予言者はその言葉を残し、部屋を立ち去った。
 一人残されたディクレスは、ベッドの脇にかけられたアークラントの地図へ目を向ける。立ち去るべき者は全て去り、来るべき者達を迎え入れる時がきたのだ。

「ディクレス殿は恐ろしい方だ」
 ブレイヤールは一人呟いた。これから起こるかもしれないこと思うと、身が震えるようだ。
 本人からそれと聞いたわけではない。しかしブレイヤールは自分の考えがさして間違っていないことを確信していた。なぜならば、もはやそれしかアークラントの人々を救う方法はなかったのだ。それは大きな犠牲を伴いながらも、国を存続させるために残された、唯一の選択だった。
――空白平原は決して王も国も受け入れない。無理に住み着こうとすれば、平原の人間達全てを敵に回すことになる。
 だからディクレスは石人の世界に目をつけた。そこは人間にとって得体の知れない土地ではある。それでも、石人が住めるなら人間も、という意識があったのかもしれない。アークラントの書庫に埋もれていた古文書には、石人の城の記述もあったろう。石人の地に来て、彼らは実物の城を発見した。それは遥か昔に滅び廃墟となっていたが、石人が住んでいないのは彼らにとって願ってもないことだったろう。たとえ廃墟でも、遺跡は新たな都市を築く指針と礎になる。彼らが目にした巨大な白い遺跡は、期待していた以上の希望となるはずだった。
 ディクレスにとって石人の魔法の宝など、この地へ赴く方便に過ぎなかったのだ。彼は宝を探させる一方で、その実、地読みや家来達に廃墟の具合を調べさせていた。構造の痛み具合はどうか。人が住める場所はあるか。なによりそこは安全なのか。
 長く廃墟であった白城の土は、荒れて貧しいものとなっていた。しかしアークラント国民の勤勉な手と背中ならば、荒野も緑の耕地に変えられるはずだ。遥か昔、異民族に追われて人々がアークラントに移ってきたときも、そうだった。
 それらの希望も、白城に石人が住んでいたということで大きく揺らいでしまった。ディクレスがブレイヤールと言葉を交わした晩、つかみかけた希望は再び幻に変わった。ブレイヤールはディクレスの目論見を見抜き、これを許さなかったのだ。七百年前、石人と人間との間で取り交わされた約束は、石人にとってはまだ生きたものだった。そして、石人が人間を嫌う気持ちは、昔よりもずっと強くなっていた。空白平原の人間達を、石人がどれほど目障りに思っていることか。
 滅んではいても十二国の王の一人である彼は、人間を受け入れるわけにはいかなかった。ディクレスの目論見に気づいていたからこそ、アークラントの運命についても同情せざるを得なかった。結局彼はあいまいな態度しか取れなかった。本来ならばあの場で彼らの希望を全て断ち、国へ追い戻すべきだったのだ。いや、そもそも境界の森を越えさせるべきではなかった。
「もう引き返せない」
 ブレイヤールは横になり、目をかたく閉じる。
 アークラントの動きを知ってから、彼は流れる時の歩みが、これまでにはなく自分の身を刻み、閉ざされていた未来を拓きながら進んで行っているような気がしていた。それはなんとなく心で感じる、あやふやな感覚だ。アークラントの運命に巻き込まれた瞬間を、無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。その運命はどれほどの人々を巻き込み、どこへ向かおうとしているのだろうか。多くの犠牲もまた、必要とされているのではないだろうか。
――境界石の向こうから、人間達がやって来た。石人の世界にも、深く沈んでいたものが浮かんできた。石人達がもっとも忘れようと努めた、忌まわしい戦の記憶。アークラントがこの地へ来たら、石人達はどうする? 七百年前と同じことが繰り返されるだけだ。石人も白城も、彼らを受け入れることはできない。受け入れてはいけない。境界石の誓いを守らねば。
 暗闇の中、アークラントの大地がまぶたの裏に浮かぶ。
 アークラントの人々は、ハイディーンにもエカにも馴染まないだろう。ハイディーンはアークラントの全てを自分達の様式で塗りつぶす。エカはアークラントを丸飲みして、王家の血筋をも消化してしまうだろう。そのどちらも、アークラントを滅ぼす。古い血を継ぐアークラント人であること、英雄の血筋を王家といただくこと、どちらもアークラントを建国当時から支えてきた人々の誇りだ。
――しかしアークラント王国は長く続きすぎた。大陸の中央で肥大した帝国が周辺の国々を圧迫し、戦火は人間世界の辺境にある我が国まで飲み込んだ。長き平和にあり、かつての強い意志と誇りを保守と頑迷に鈍化させてしまった国が、この時代にあって滅びるのは当然かもしれん。だが民がいる限り、我々に諦めるという選択肢はない。真の地獄はこの世にしかないのだ。無上の楽園もしかり。どのような形であれ生き延びることが、新たな国の萌芽に繋がることもあるだろう。たとえ石人の世界に落ち延びたとしても、帰還の日は訪れる。その日は、運命の紡ぎ手たる老いて幼き神がお決めになることだろう。
 夜は白みかけ、机の上に広げられたアークラント王国の地図は、光に描線を滲ませながら再び暗闇から浮かび上がってきた。ディクレスはいまだ見えない運命の虚空を凝視する。アークラント国民のために、白城が必要だった。このままこちらだけが行動を起こせば、白城を巡って石人と戦になるだろう。
――白王を動かさねば。
 それがアークラントの全てだった。そしてその最後の手立てをいかにすればよいのか、彼には最良の策を考える時間はもうなかった。

 アークラントの王都アルスには、春を予感させる暖かな風がそよぎ始めていた。オロ山脈の雪解け水を運ぶトルナク川は、冷たい水面をやわらかな日差しにきらめかせ、朝方に降った雨は、見渡す限りの若い麦畑や大地の緑を鮮やかに洗っていた。街角を飾る木々は、芽吹いて間もない柔らかい葉から雨露をすべらせ、石畳の水たまりをはね散らす。
 それらの美しい情景を、活気ある一日の始まりとして目に留めた者がいただろうか。少なくとも現アークラント国王の心をとらえはしなかった。春の乙女たる女神の歩みは、すぐ後ろに血まみれの戦神を連れているのだ。
 王は城の見張り台からじっと、大地の彼方に目を凝らす。彼の側には、昨年徴兵されたばかりのまだ髭も生えていないような見張りの兵が、緊張の面持ちで控えていた。やがて見張り台に軍師の長が現われ、その若い兵に席を外すよう合図する。
「陛下、こちらにおいででしたか。みな会議室に集まっております」
「あの陰気な部屋で、悪い知らせを待つことほど気の滅入ることはない」
 軍師長の言葉に、王は背を向けたまま答える。
「俺は驚かされるのは好かん。悪い知らせはやってくるより先にこちらから掴みたいのだ」
「ここ最近になってから、国境付近にて思わしくない報告が増えました。もはや悪い知らせなど、珍しくもございません。掴む手はいくらあっても足りないのです」
「いや」
 王は腕を上げて彼方を指差す。
「一番悪い知らせは、身内から来るんだ」
 軍師長は王の指先に目を細める。南へ向かって消える街道の道筋は、人一人の姿もない。
「国境からの知らせも、あれで最後かも知れん」
 王は、北へも顎をしゃくってみせる。北からの道には五つの黒い点が、こちらに向かっている。
「ひどくやられているな」
 王は呟き、指先で手すりをこつこつと叩く。五つの黒い点はやがて、五騎の傷ついた騎兵の姿になった。
「裏の城門から入れましょう。市民が動揺いたします」
「いや、市中を通らせる。南から来る最悪の知らせを掴みに行く前に、民にも覚悟を決める時間が必要だ」
「会議はいかがしますか」
「我々が取るべき行動は決した。鐘を鳴らせ。あの騎兵達を迎え入れよ」
 王は手を叩き、先程追い払われた若い見張り兵を呼び戻す。入れ替わりに彼は軍師長を伴い、鐘の音を背にして会議室へと向かった。
「ディクレス様のもとへ使いに出たリュウガ将軍は、まだ戻りません。帰りを待つべきです」
 会議室で王を待ち受けていたのは、彼の決断に従うことを渋る重臣達がほとんどである。しかしアークラント王は、父親譲りのすさまじいひと睨みで彼らを黙らせた。
「では将軍が指示を抱えて戻ってくるまで、敵に待ってもらうとでもいうのか。先程の知らせを、耳を塞いで聞かなかったとでも? エカが国境を突破した。指示を待つ猶予など、もうないのだ!」
 机の上に拳をぶつけ、王は一同を見回す。
 エカ帝国が先に進軍を開始したのは、誰もが予想だにしていなかったことだった。エカにとっては、ハイディーンに背後を突かれることも覚悟の上の進軍である。エカの軍勢は数こそ少ないものの、ハイディーンに追いつかれる前にアークラント深くへ進行しようという心積もりらしい。エカの兵士達もそれだけに焦っており、アークラント最後の国境の守りも、あっという間に突き崩されてしまったのだ。
「エカの進軍が呼び水となり、ハイディーンも時をおかずして軍勢を整え、攻め寄せてくるだろう。もはや我々に敵を押し戻す力はない。逃げ場を持つ先住の民は身を隠し、アークラント人は全て、国外へ逃れねばならぬ。ふれを出し、仕度をさせるのだ。さもなくば命の保障は敵方次第だ」
 反応の鈍い家臣達に、王はいらいらと怒鳴った。国境から王都までの道筋には、もう殆ど兵は残っていなかった。王都を守る軍を動かし、時間稼ぎをする他はない。それは王自らが、逃げる国民達の背後を守ることを意味する。それほどの切迫した危機は、家臣達にも理解できるはずだった。それでありながら決断を渋るのは、先王へのあまりに強い依存心がある。トゥリーバの予言もまた、奇跡と英雄の出現を待ちたいという思いを強くさせていた。
 アークラント王は額に指を当て、机から身を引いた。動かない家臣への怒りと焦りで、腕が震える。ディクレスが大空白平原に出立する際に、いよいよのときは国を挙げて逃げ出すと皆に言い残してくれていれば、家臣達も彼の言葉にすぐ従ったかもしれない。しかしディクレスは、息子である彼と、信頼できるわずかな家臣にしかこのことを話さなかった。当然だ。石人世界へ旅立つ先王へ人々の期待が集まっているときに、そのような話をすれば、人々を不安のどん底に陥れるだけだったろう。
 軍師長が見かねて、他の家臣達をいさめようと口を開く。しかし王は彼を止めた。王は暫くうつむいたまま、会議机の下で拳を握る。そして、唸るように言葉を搾り出した。
「謹んで聞くのだ。峡谷を越え、大空白平原へ逃げるのは、先王が私にくだしおかれた命である。英雄の探索が間に合わねば、そうせよとのお達しであった。……我々は、間に合わなかったのだ」
 その言葉は、渋っていた家臣達に誰が自分達の主であるかを思い出させた。自分達が今の主にどれほど屈辱的な思いをさせてしまったかも。
 彼らは自らの非礼を恥じ、王に忠誠の礼をする。そして与えられた命を果たすため、次々と会議室を後にする。軍師長はずっとうつむいていたが、彼もまた礼をして最後に去っていった。一人残された王は大きな溜息とともに、硬い木の王座に沈み込んだ。
 彼は王冠を継いだ日のことを思い出す。あれからまだふた月と経っていない。あの日彼に渡された王冠がどのような意味を持っていたか、宮廷魔術師の老ザーサ以外に気付いた者がどれだけいただろうか。彼が自ら王位を先王に求めたのは、先王からはとても言い出し難いことだったからだ。しかし王位は彼が継がねばならなかった。それは単に彼が先王の息子だったからではない。彼が先王の代わりに大空白平原へ行っても、それは何も生み出さないからだ。彼の才量は先王と別のところにあり、国に留まることこそが彼の役目だったのである。先王が英雄王の再来と呼ばれるまでの人でなかったら、彼がそう呼ばれていたかもしれない。皮肉なのは、アークラントが必要とするものを己は持っていないと、誰よりも彼自身がよく知っていたことだ。
 王はのろのろと立ち上がる。彼は父親同様体が大きく、背の高い王だった。代々使われている会議室の王座は彼には窮屈すぎ、長い間座っていると腰が痛くなる。彼は気の進まない様子で会議室から出る。これから都の国民達に、大意は国を挙げて逃げ出すということを、もっともらしく、そして名誉の退却らしく言い聞かせなければならない。
――トルナク最後の王にして、アークラント初代王となった英雄王の退却の話を引き合いに出そう。あのときも今も、敵に追い詰められた状況は同じだからな。そうすれば混乱を最小限におさえ、士気を維持したまま統率の取れた行動ができるはずだ。逃げる先では、先王が待っておられる。
兄妹 途中、王は妹である王女に鉢合わせた。彼女は不安で顔色が良くなかったが、気丈に振舞っていた。今年十五になるはずの彼女と王が並ぶと、ほとんど親子に見えるくらい年が離れている。王は立ち止まることなく大股に歩き続け、王女は小走りにそれを追いかけた。
「兄上、知らせの者達の手当てはすみました。でも、城門前に人々が大勢集まっています」
「知っている。お前は急ぎ城の者達に、ここを発つ用意を整えさせよ」
「どこへ参るのですか」
「父上のおられる場所だ。予言者が言っていただろう。南に最後の希望がある。希望とはこちらから迎えに行かねば、重い腰を上げんものだ。お前は先に立って、皆を導け」
「私に務まるでしょうか」
「そのはずだ。我々は偉大な王家の血を引いているんだ」
「兄上はどうされますか」
「兵を率いて最後に都を発つ。落伍者を拾いながら後を追い、皆の背後を守る」
「はい」
 王女はそれ以上時間を無駄にしなかった。彼女は一礼をして足を止め、守りの印を宙に描いて兄の背を見送った。

 古い山々に隠されるようにして横たわる、秘密めいた湖がある。その湖と一筋の谷を隔てて、石人最古の都市が広がっていた。空から一望した都市は灰色の頑丈な石造りに見えたが、市中を歩くと黄緑の城同様に木造の彫刻であちこちが飾られ、レンガ造りの場所も多い。通りの構造は石人の城と同じく、地面を荷車などが通る輸送にあて、その両脇に建ち並ぶ建物の二階、三階の側廊が歩道として使われていた。しかし建物は石人の城ほど高層ではなく、高いものも物見台を除けば五階くらいまでだ。キゲイの目にはどちらかというとタバッサの街並みを思い出させた。道行く石人達の雰囲気も城と違い、どこか優雅でのんびりとしている。顔に、色とりどりの不思議な模様を描いている人が多いのも、城と違う。
 石人の都は、アニュディの活躍の場だった。普通の石人である彼女は普通の暮らしを心得ており、キゲイとレイゼルトに普通の石人の振る舞いというものを求めた。それが素性のそれぞれに怪しい二人を守る、唯一の手段でもあった。レイゼルトのような重傷人はベッドで横になっているのが普通だったし、石人語が分からないキゲイは、無口ではにかみ屋の人見知りな子を演じるのが無難だった。
 翼のある巨獣の姿で都市に降り立った彼女は、迎えに出た役人に嘘の身の上と本当にあったことを上手に織り交ぜて話した。つまり、自分達は黄緑の城から神殿で治療を受けるためにやって来た一行で、ウージュは変身後遺症の治療、レイゼルトは怪我の手術、アニュディ自身は二人を引き受けた診療所の職員兼運び手で、キゲイはその見習い助手。ところが来る途中、強風で墜落して持ち物を失くし、森をさまよった挙句魔物や野獣に追いかけられ、身一つで都に辿り着いたという筋書きだ。役人は四人のぼろぼろになった姿を見て、話を信じたらしい。さらには同情して、後払いで泊まれる宿も手配してくれた。
 幸いにして、キゲイの怪我はほとんど治りかけていた。問題はレイゼルトの方だ。彼の傷はどう説明してよいものか難しい。普通なら助からない怪我だったのだ。結局アニュディは医者を呼ぶのを諦め、薬草を買い込み、調合用の道具を借りるために奔走した。物を買うためにお金がいるという現実的な問題に直面した彼女だが、赤城で食べ物を買ったときの小銭がいくらかと、キゲイがトエトリアを傭兵から助けたとき、シェドから記念品としてもらった硬貨が役に立った。レイゼルトが赤城で彼女に渡したお金も、実はそのときキゲイと一緒にもらった硬貨らしい。
「君からお金を巻き上げることになるなんて、思いもしなかった。まさか持ってたとも思わなかったけど。黄緑の城に戻ったら、ちゃんと返すね。ヒスイの石貨と穴あきの銀貨を重ねてはめ込んでて、綺麗なものだし」
 買ったばかりの塗り薬をキゲイに分けながら、アニュディはあやまる。もっともキゲイの方はあまり気にしていない。薬皿に入れられたべっこう色の薬に鼻を近づけて匂いを嗅いでいた。薬草独特の刺激的な匂いに混じって、蜂蜜の甘い香りもする。
「僕、お金のことはよく分からないから、どっちでもいいです。でもあのお金、どれくらいの価値があったんですか」
「そこそこ。といっても薬買って、着替えの古着を買って、宿代はツケにしたとしても、食事代で何日持つことやら。あの硬貨は、王や城のために仕事をした人に払われるお給金よ。君人間なのに、なんで持ってたの。あのお金は城ごとにデザインが違ってて、その城じゃないとそのままじゃ使えない。ここで買い物する前に、両替してきたの。こっちが石人世界全てで流通している普通のお金」
 片手で薬草をすり潰しつつ、アニュディはスカートのポケットからじゃらじゃら大小のコインや石貨を机の上に取り出す。それが四人の全財産だったが、キゲイには金額の大小は分からない。
「黄緑の国の王女様を助けたから、あのコインをもらったのかな」
 キゲイは部屋の向こうにいるレイゼルトに尋ねた。タバッサで傭兵に追いかけられたことが、もう何年も前のことのようだ。
「王女?」
 レイゼルトはベッドの脇から顔をのぞかせる。彼はベッドの影でボロ布同然になった衣服を、苦労して脱ぎ捨てたところだった。合点がいかない様子なので、キゲイは付け加えた。
「タバッサで僕と一緒にいた、髪の長い女の子だよ。覚えてないの?」
「何? トエトリア王女様の話?」
 アニュディも口を挟む。レイゼルトは古着を被りながらベッドの上に登った。
「あの子か。アニュディ、黄緑の王族は他に誰かいるんだろうか?」
「……多分、トエトお一人だけよ。女王様ご夫妻は早くに亡くなられたから。黄緑の王家は七百八年前に直系の血筋が途絶えて、それ以来傍系の方々が王の血筋を取り戻そうとしてる。黄緑の王家はとても厳しく血統が管理されてて、それがかえって血を絶やすことにならないか心配されているくらい。一番血が濃いのが、今は王女様だけなの。次は又従姉のルイクーム様だけど、彼女はまだ血が薄いと考えられているみたい」
 これを聞いたキゲイは、レイゼルトの方を盗み見る。するとレイゼルトと視線が合った。二人はすぐに目を逸らす。黄緑の王族の血筋を絶った張本人が目の前にいるなど、アニュディは知らない方がいいのかもしれない。
 二人の少年をよそに、アニュディは塗り薬にすり潰した薬草を加えて練り始める。レイゼルトの傷には、もうひと手間かけた薬が必要らしかった。今一番疲れているのは三人を乗せて飛んだ彼女のはずだったが、怪我人の世話をしないことには休むわけにはいかないと思っているようだ。
 レイゼルトはベッドの上を渡って彼女の側に降りる。二人用の小さな部屋にもう二つの簡易ベッドが運び込まれ、さらに机も押し込まれたので、部屋には足の踏み場がないのだ。
「あとは自分でできる」
「そう?」
 アニュディはレイゼルトの方へ顎を上げた。
「じゃ、ウージュと銭湯に行ってこようかな。あなた達は傷が深いから、だめね。宿の人に頼んでここにお湯を運んでもらいましょう。とにかくみんな清潔にならないと。自分の匂いだけでも、鼻が曲がりそう」
 レイゼルトに薬の椀を渡し、布巾で手を拭いながらアニュディは立ち上がる。そして肩からかけていた青紫の外套もレイゼルトへ差し出した。
「紫城で手に入れたものは燃やした方がいいと思うの。とりあえず肌着だけじゃ寒いから、これ羽織っといて。あんたのボロになった服とまとめて、あとで処分するわ。夕食も部屋に運んでもらいましょ。下の食堂で詮索好きな連中と一緒に食べるなんて、ごめんだわ」
 狭い部屋の中で居場所がなかったウージュは、机の下でうとうとしていた。アニュディはウージュを起こす。
「宿の人達、ずっと僕らを見てたね」
 キゲイは少し不安になる。町に戻れたおかげで食べ物や寝る所の心配はなくなったが、人間とばれないかという心配が再燃してきたのだ。王族のブレイヤールなら、ばれてもどうにか守ってくれるかもしれないが、何の身分も権力もないアニュディでは、どうにかできそうにない。
「あいつらが見てたのは、この調香士さんと、妙に古風な青紫の外套だ」
 キゲイの心を知ってか知らずか、レイゼルトがぼそっと答える。
「彼女は髪も短いし、顔に魔よけの模様を描いてないから、最先端の都会人に見えるんだ」
「都会人?」
「髪を伸ばして、魔除けの模様を体に描くのが石人古来からの風俗。城は安全だから、魔除けの模様もいらないし――」
「都会人なだけで注目集めるもんですか」
 アニュディは立ち上がりながら、レイゼルトの言葉を遮る。
「私の美貌も珍しかったの。連中のヒソヒソ話が聞こえたもん」
 彼女は子どもみたいに、大げさに胸を張って見せた。あまりに自信に溢れた態度なので、キゲイは呆れるどころか気後れさえ覚える。彼女は皆の注目を集める系統の美人ではない気がするものの、もしかしたら石人にとってはすごい美女なのだろうか。反対にレイゼルトは肩をすくめた。彼は呆れているようで、アニュディの言葉を冷たく突き放す。
「早く行ったら」
「どうせ、まだあんた達には分からないでしょう」
「部屋を出て右に二十二歩半。左手に手すりと階段十七段。降りて左手に進む」
「知ってる知ってる」
 アニュディは勝手に自慢して勝手に機嫌をそこね、何が起きたのかさっぱり分かっていないウージュの手を引いて出て行った。彼女の気ままさにキゲイもついていけない。
「変わった人だね」
 階段を踏む音が扉越しに聞こえる頃、キゲイはようやく口を開くことができた。レイゼルトは頷いただけで何も言わなかった。結局のところ、二人はアニュディにそれぞれ大きく助けられていた。キゲイにとって彼女の普通っぽさは自分と近いものがあり、茶色い髪も人間と同じで、なんとなく安心できる。レイゼルトにしても、子どもの姿では宿で休む手はずさえ満足に整えられなかったろう。
 レイゼルトは薬を練り続け、キゲイはお湯が来るのを待つ以外、まったくの手持ち無沙汰になってしまった。キゲイはぐるりと部屋の中を見渡す。
 石造りの宿の部屋には小さなくり貫き窓がついており、夕暮れの日差しが部屋の影を濃くしている。漆喰が塗られた天井は緩やかな弧を描いて、星に見立てているのか磨かれた金属の円盤がいくつも埋め込まれていた。暗い天井でその円盤だけが夕日の光を受け、鈍く輝いている。
「休めるのはここにいる間だけだ」
 レイゼルトは顔を上げずに言った。
「白城の王子がどうなったかは、いずれは都にも噂が届くはず。アニュディに調べてもらえばいい。状況が分かるまでは、お前も白城に戻らないほうがいい」
「それは、今戻っちゃいけないってこと?」
 レイゼルトは頷いた。
 キゲイはベッドの端に腰かけて、少しうな垂れる。もしブレイヤールの身に最悪の事態が起これば、自分は白城にさえ戻るに戻れなくなってしまうだろう。それに禁呪の鏡をレイゼルトに返した今、自分と石人世界を繋ぐものは何もなくなったという気がした。果たすべき役目は終わったのだ。そう思うと、無性にアークラントが恋しくなる。けれども、そこにもまだ帰ることはできない。アークラントは滅亡の瀬戸際にあり、滅びてしまえば、帰る場所すらなくなってしまう。
 行き場のないやるせなさに、キゲイはふてくされるしか出来ない。大の字になって、ベッドの上にばたんと身を沈めた。暗い天井で、円盤が輝いている。妙な感覚が胸をよぎった。それは、まだ石人世界で自分の出来ることが残っているのかもしれないという、根拠のない予感だった。予感は不意に形を定め、夜空に張り付いて動かない方角を知らせる星となって、心の中にぴたりと留まる。とはいえ、何をどうすべきか分かったわけではない。
「君はこれからどうするつもり?」
 キゲイはそわそわと体を起こして、レイゼルトの背中に問いかける。レイゼルトは背を向けたまま答える。
「白城の噂を捉えてお前達を見送ったら、神殿へ行く。後はアニュディが白城まで世話してくれる」
「神殿には何があるの」
「大巫女様がいらっしゃる」
 レイゼルトはやはり振り返ることなくそう答えた。それが全てだと言わんばかりに。

 リュウガ将軍はアークラントと大空白平原を結ぶエイナ峡谷で、たくさんのアークラント人とすれ違った。集団の先頭は地読みの民と、ディクレス先王が平原へ伴っていたアークラントの若者達がいて、続く者達を導いている。さらに彼は王女の輿を担いだ一団とも出会ったものの、一刻を惜しんで立ち止まることなく、峡谷からアークラントへ抜けた。
 アース国王はディクレス先王の知らせに先立って、最後の行動を起こしたのだ。リュウガ将軍は峡谷近くに築かれた砦に走り込む。真新しい丸太の門に、王の旗が掲げられていた。砦は建国以前から存在していた遺跡の上へ、拠点の一つとしてディクレスが建てた急ごしらえのものだった。
「大空白平原にも、石人とやらの城にも、アークラントの行くべき場所はない。だが進まねばならんということか」
 リュウガ将軍がディクレス先王の言葉をそのまま伝えると、アース国王は胸のうちから引き絞るように、その言葉を口にした。王は砦の一室で、右肩に受けた矢傷の手当てを一人待っていた。
「峡谷への道は人々の列が途切れることなく続いています。陛下、私に次の命をお与えください」
 リュウガ将軍は王の前にひざまずく。十数日国を留守にしただけで、事態は想像もつかないまでに一変していた。詳しい事情を聞き知りたい気持ちはあったが、王の姿から、もはやその時間すら危ういことは明白だ。将軍は与えられる役目にすぐさま移らねばならぬと覚悟する。
「最初に来たのはエカだが、今はハイディーンが迫っている」
 疲れきった表情の中で、王の瞳と口調だけが明るく定まっていた。彼はディクレスからの知らせに、少なくとも落胆はしていなかった。
「奴らが来る前に、峡谷の道を魔術士兵を用いてふさぐ。我々も戦い、出来る限りの時間を稼ぐつもりだ。お前は地読みの民を峡谷に行き渡らせ、人々が一刻も早く平原へ抜けられるようにせよ。そして万一に備え、人々の最後尾に兵力を集中させておけ」
「承知しました。しかし峡谷の入口には、まだ大勢の国民が立往生をしています。狭い道の半分を、荷が塞いでいるのです」
「荷を捨てぬ者は命を捨てる者だ。兵に命じて、邪魔な荷は谷底に捨てよ。峡谷に配置した物資が尽きる前に道を抜けるしかない」
 王は頬をゆがめ、無情な決断をした。宮廷魔術師のザーサが部屋に現われ、王の肩に包帯を当てる。医師らはいまだ兵士達の処置から離れられないのだ。リュウガ将軍は再び承知と答え、部屋を後にする。王は傍らの老魔術師に顔を向けた。
「おかしな話だ。今このアークラントではエカとハイディーンが争い、我々は国の隅に身を寄せて、山脈の亀裂に群がっている。その向こうの希望は、まだ眠ったままだというに」
「後から来たハイディーンが、無人の王都を征したエカの軍勢ごと町に火を放ったのは、想像だにできませんでした」
 部屋の戸口に軍師長が姿を見せる。彼の手には血の染みに濡れた書面があった。
「新しい知らせか」
「ハイディーン軍の精鋭がこちらへまっすぐ向かっております。その中にハイディーン王の姿を見たと申す者もいるようです。騎兵を主力とするハイディーンには考えられないほど、数多くの魔術士兵を伴っており、その中には染めたとも思えぬ、奇妙な頭髪の色をした者もいるとか。先日陛下が追撃されたハイディーンの先遣隊ですが、彼らはわが軍に見向きもせずに南へ突き進みました。エカは王都と陛下を狙っておりますが、ハイディーンは違います。陛下、残念ながら」
 王はゆっくりと頭をもたげ、声もなく笑う。しかしすぐに真顔に戻り、歯を食い縛った。
「確かに奴らは王都もアークラントの王冠も要らんらしいな。俺の首を狙って一目散にやって来たエカの大群の方がよほどかわいく思えるわ! 奴らの狙いは何だ。王家の血を引く娘か? それともあの峡谷か?」
 命がけで届けられたであろう最後の報告書を受け取り、王は粗末な腰掛から立ち上がる。他の将軍達も部屋に現われ、王の両脇に居並んだ。軍師長は盆を手にした小姓らを招き入れた。手当てを終えたザーサは立ち上がり、そっと部屋から立ち去る。峡谷を崩す手はずを整えなければならないのだ。
 王は捧げられた盆の上から四脚の杯をとり、一口飲んで隣の将軍にまわす。彼も一口飲み、隣へ渡す。杯が一同を巡って再び王の前に戻ってくる。
「私はアークラント王として、人間世界の末端に住まう人間として、この地を去ることはしない。ハイディーンを止めるは、国を守るだけでなく、人間世界の秩序もまた守ることになる。しかしこの地を離れる決断も、国を蘇らせ、人間世界の秩序を取り戻すに必要なことだ」
 王は集まった家臣達の顔を見渡す。一同は王を先頭に部屋を出て、兵士らが集まる砦の門へと歩む。門の下にはリュウガとザーサが立ち、門の外には彼らの部下が居並んでいる。王は一度杯を掲げ、残りの生酒を大地に捧げた。戦いに行く者と大地の神との間に交わされる、昔ながらの儀式だった。
「運命の神は我らに試練を与えんとされている。私は王として、いずれ戻る者達のためにこの地を守り続けよう。未知なる大地へ向かう者達に風神水神の祝福を。この地より運ばれる風と水が、そなたたちを生かすよう」
 ザーサが王の前に歩み出て、杯を受け取り水を注ぐ。彼のしわがれた声が、新芽を隠す荒んだ野に響く。
「アークラントの地神が、留まる子らを隠し、去る子らを忘れんことを」
 ザーサは杯をリュウガ将軍に託す。アークラントで生まれた水を一滴こぼさず平原まで運び、いつか戻る日までの仮宿となる大地へ捧げるのが役目だった。
「忘れられてしまう前に、戻ってこい」
 アース国王は二人だけに聞こえる声で、苦笑した。
 砦の門を隔てて、残る者と去る者が互いの幸運を祈ると、リュウガとザーサは峡谷へ向けて発つ。アース国王は他の将軍らとともに兵士らをまとめ、間近に迫るハイディーンを迎え撃つ準備を整える。
 数日後。峡谷の入口にハイディーンの騎兵隊が到着した。彼らはひとけのない峡谷の様子に不審を抱きながら、数騎を偵察として進ませる。彼らが両側から迫る崖下を抜けようとしたとき、轟音とともに崖が崩れ落ち、騎兵達の姿が岩と砂埃の中に消えた。それを合図に、ハイディーン軍の背後から鬨の声が上がる。矢が雨のごとくハイディーン軍の頭上を襲った。隊列は乱れ、ハイディーン兵らは矢から逃れようと崩れ残った崖の影へ退いていく。
 峡谷の急斜面を下って、あるいは林の奥に身を潜めていた最後のアークラント軍が、次々と現われる。矢は打ち尽くした。彼らはアース国王を先頭にハイディーン軍と対峙する。アークラント軍は大地の神を信奉する証に、緋と紺の二色からなるマントと合印を身につけている。皮と銅の鎧は黒い上薬が塗られ、胸元にはアークラントの紋章がある。王は重たい兜の上に王冠を戴いていた。
 彼の視線の先には、ハイディーン軍を自ら率いて現われたハイディーン王の姿がある。ハイディーン王は年の頃はディクレスとほぼ変わらない。金糸の刺繍が入った淡い空色のマントに白銀の鎖帷子を身につけている。それはハイディーンが、最高神であり雷を司る神の使いであることを表すものだ。
「アークラントの栄光は三百年前に終わっている!」
 ハイディーン王の声が響き渡った。
「栄光を陥れたそなた達はいまだもってこの地に留まり、英雄の御霊を汚した。我らは英雄の眠る大地を戦で洗い、アークラント王家の血を天統べる神の血で清めにまいった。時は動き、もはや古き帝国の威光が輝くことはない。わが国をもって新たな世の暁とする」
 峡谷の奥からは、地を震わす轟きが続いていた。大空白平原へ向かう人々の背後で、ザーサが魔術士兵を指揮し、随所で道を崩しているのだ。アークラント王はその音を耳にして、この戦闘でどれほどの時間が稼げるかを考える。ハイディーン軍はまだあとからいくらでもやってくるだろう。崩れた道を開通させるには膨大な労力と時間が必要だが、ハイディーンが連れている多くの魔術士兵は、想像されるよりも短い時間でそれをやってのけるかもしれない。
「ハイディーン王よ。そなたが求める暁は、この峻峰の向こうから来るのではないか」
 アークラント王は短く答えた。
「この大地を統べる神は、侵略する者に恵みを与えることはない。アークラントを汚す者には裁きが下るだろう」
 ハイディーン王の言葉は、彼らの真の目的を隠しているに違いない。その目的が何であれ、アークラント王は彼らをここで止めなければならなかった。彼は剣を掲げ、全軍に突撃の命を下す。
 ついに決戦の火蓋が落とされた。黒い鎧と白い鎧が入り乱れる戦場は、地と天、百と万の戦いだった。

十五章 星の神殿

 キゲイ達を白城へ送り出した後、レイゼルトは一人歩いて古都を出た。峠からは塩辛い水で満たされた湖が見下ろせる。湖の中ほどにはいくつもの白い柱に支えられて水上に建つ、神殿の四角い巨大な屋根が見える。辺りには潮の香りが満ちていた。この湖ははるかな昔、大海から陸に取り残された小さな海だった。
 神殿の周りにはたくさんの小舟が往来している。神殿もまた、船をつなぎ合わせたような構造を持っていた。湖底に建てた何千本もの石柱や石壁の間に板を渡し、それぞれの部屋を柱の支えと水の浮力でしつらえている。細い通路は板張り、大きな通路はすべて水路となっており、神殿内の移動には小舟が欠かせない。神殿の屋根も半分は石や木の板だが、それ以外は大きな帆布を張っている。巨大な正方形をした神殿は各頂点がぴったりと東西南北を指し、それぞれに高い鐘楼を設けていた。鐘楼は塩のレンガで覆われて、毎日神官達が塩水を表面に塗りつけている。
 神殿の中央にある大巫女の館は、周りの帆布の屋根にすっぽりと隠されて見えない。そこだけが神殿内で唯一、大地に根を下ろした小さな島の上にあった。大巫女の館に入ることを許されるのは、大巫女に仕える巫女達だけだ。館の外は神殿騎士達が常に見張っている。騎士達は館を守るとともに、その周りを絶え間なく巡ることで、石櫃に祈りを捧げている。神殿と石人達を実質的に取り仕切る役割にある九竜神官さえ、非常時でもなければ館への立ち入りは禁じられていた。館には中庭があり、その中庭の中央に命名の書と神々の墓碑たる石櫃を納めた祠があるという。
 レイゼルトはひどく疲れていた。背中の傷はだいぶ良くなったが、あの赤い竜達は、彼の背中だけでなく精神も食い荒らしていた。癒しを求める石人が最後の救いを求めて目指すのが、この星の神殿であり、大巫女の館だ。大巫女の館は、石人にとってもっとも危険に近い場所ではあるが、同時に最も安全な場所でもあったのだ。
 そしてレイゼルトには、もうひとつ、大巫女の館に行くべき理由がある。
――どうあがこうと、遅かれ早かれ初代赤王の手の中に巻き取られていく。
 十二人の魔法使い達が神殿を離れ城を建てようとした動機は、歴史が伝える以上に複雑で、様々な問題が絡んでいたかもしれない。石櫃に封じられた闇や、世界創生の得体も知れない秘密は、人知れず彼らを哀れな亡霊に変えてしまった。彼らに異を唱えたもう一人の魔法使いもまた亡霊としてこの世に留まっているならば、その者の居場所は大巫女の館をおいて他にはないだろう。
 レイゼルトは薄い紙の切れ端を、そっと魔法の風に乗せる。紙切れは、峠の頂上から神殿へ向かってひらりひらりと舞い流れる。彼はその紙切れを追って飛び上がる。その姿は宙で、紙に吸い込まれるようにして消えた。紙はかすかな炎に包まれながら、大巫女の館に向かって飛んでいく。
 赤の王族が例外なくそうだったように、レイゼルトのもうひとつの姿は、彼の背中を食い荒らした妖精竜そのものだった。ところが彼はあまりに長く生きすぎて、「生きもの」というより「もの」に近くなってしまったのかもしれない。石人に許される寿命ぶんだけ時が経ったとき、彼の姿は竜から炎に変わっていた。妖精竜が生まれた瞬間から体内に宿し、死ぬときには内側から体を焼き尽くす炎だ。
 彼は紙を燃やしすぎないよう、自由の利きにくい火の体をちぢこめ、神殿の上空を横切る。たくさんの小舟が柱の間を通り過ぎるが、誰も遥か空を漂う小さな紙切れには気付かない。太陽は紙切れの小さな炎を飲み込むほどに輝いていた。それは明らかな春の兆しだ。
 帆布の屋根は天の光を受け入れるため、折りたたまれた場所がいくつかある。合間からは赤、青、緑、黄、黒や白など極彩色に彩られた石壁が覗いている。神殿の壁や柱はすべて、宇宙を表す壁画に彩られているのだ。塩湖の侵食に負けじと、常に誰かの手で塗り直され続ける壁画は、目に染みるほど鮮やかだった。描かれた紋様を目で辿っていけば宇宙を巡ったのと同じことになり、死後、魂が自分の名を持つ星に帰っていくときの道が分かると言われている。石人にとって、魂が宇宙で迷子にならないことはとても重要なことだった。そして石人が死んだとき、その人の名前は壁画のしかるべき場所に、小さな星として彫り込まれる。
 神殿が石櫃とともに守る命名の書には、この世に生まれるすべての石人の名前が既に記されていると言われている。命名の神官達は命名の書の写しを持ち、生まれた子の真上や真下に輝く星を見極め、その星の名前を与える。誕生のとき、命名の神官が立ち会えなければその子は名前を持てず、死後も天に昇れず地上をさまよって、いずれは石櫃の闇に飲み込まれてしまう。命名の神官が星を読み違え、間違った名前を与えてしまった場合もそうだ。あるいは名前を持っていても、大きな罪を犯せば神殿に名前を取り上げられる。神殿の壁画に名前を刻まれることもない。だからレイゼルトの名も彼の父王の名も、壁画には刻まれていない。命名の神官にとっても、星を読み違うのは大罪だった。
 紙はとうとう燃え尽きる。レイゼルトは人の姿に戻りながら、灰とともに館の中庭へと降り立った。周りは古代遺跡と見まごうばかりのひっそりとした石の館が取り巻き、山を下ってきた風が吹き溜まって鳴っていた。庭の下草は茶枯れて、ネムノキが数本、庭の隅で寒風に枝をさらしている。庭の真ん中には崩れかけた小さな祠があったが、それはレイゼルトの身長ほどの高さもない。風雨で浸食された石肌に、白い塩の結晶が浮いている。
 レイゼルトは灌木の影に身を伏して、じっと辺りをうかがった。土の湿った匂いがする。館は冷え切っており、人の気配がまったくない。耳を澄ませば、どこか遠くで神官達の演奏する楽器の音がする。風音と混じるその単調な旋律は、石人ならば必ず知っている。初代の大巫女が竪琴から紡ぎ出したと言われる、水の旋律だ。
 顔を背けて地面に片耳をつける。神殿の奥底に潜むという闇の音を、地中から聞き取れるかと思ったのだ。七百年前の赤城で、城の壁内に水が弾ける音を聞いたときのように。しかしそれは無理だった。もう片方の耳から風音と水の旋律が聞こえて、邪魔をする。腕を上げて耳に蓋をすれば、今度は腕から血の脈打つ音と筋肉の軋む音がする。そこで目を閉じ、鼓動の合間の静寂に集中する。
 そのうちに、鼓動以外にも規則的な音が聞こえてきた。人の足音だ。枯れた草を踏み、ゆっくりとこちらへ近づいてきている。
 レイゼルトは身じろぎひとつせず、その足音に意識を移した。耳に心地よい歩調で、まったく危険を感じない。頭の先で、足音は止まった。香の匂いが一瞬、鼻先を撫でる。彼はそっと頭を持ち上げる。漆黒の裸足が見え、透けるほどに薄い衣がその足にかかっている。
大巫女 レイゼルトは頭を地面に伏せたまま、両膝を腹の下におさめてひれ伏した。
「訪問の失礼をお許しください。大巫女様」
 レイゼルトは呟いた。柔らかい優しい答えが頭上から返ってくる。
「待っていましたよ。そして、待ちくたびれました」
 レイゼルトはその答えを不審に思い、顔を上げる。すでに大巫女は彼に背を向けて、庭の真ん中へ歩を進めるところだった。
 とても背の高い人だ。薄物の布を幾重にも漆黒の細い体に巻いて、その端は風がもてあそぶままに流している。光を通す銀白色の髪には、たくさんの銀粒の飾り。歩を進めるたびに、着物の裾からしっかりとした素足が覗く。大巫女はひどく年老いていていながら、まるで童女のように初々しい優しい仕草を持つ人だった。
「間に合ったようですね」
 大巫女は振り返り、両腕を広げてそっと上げる。レイゼルトはその仕草に従って、同じようにそっと立ち上がった。
「あなたにはいつか会ったように思います。何百年か前、あるいは私が死した後に見続ける、夢の中で」
 大巫女は灰色の目を細め、弱々しい様子で微笑んだ。
――この方は、私が来るまでを待っていてくださった。
 レイゼルトは気付いて、顔を伏せる。彼の視界から大巫女の姿は消えたが、それでも恐らく、彼女はずっと微笑み続けていた。
「石人が初めてこの地に留まったときから、大巫女はこの館に住み、石櫃の前に座して祈り続けてきました。石櫃に封じられているものは、常に外へと染み出そうとします。大巫女は、石櫃の中で静かに潜んでいただくよう、古い言葉を捧げてお願いするのです」
「大巫女様は石櫃と命名の書の原型をお守りするため、命名の書から石人の名を書き出すために、神殿にいらっしゃるものだとばかり思っておりました」
 レイゼルトは不意に不安になり、庭を囲う館に目を走らせる。
「この館には今誰もおりません」
 大巫女様はレイゼルトの不安を一言で打ち消した。
「私のお役目は、石人の名を命名の書より書き出し、人々に与えることです。名が闇に飲まれぬように。そして、私が書き出すに間に合わなかった名前を、さまよえる石人の魂に与えるために。なぜ石人が命名の書を手にし、神の名を得ることになったのでしょうか。正しくは神の名ではなく、砕け散ったそれぞれの神の体の、一部を指す名ですが」
 大巫女はゆっくりと庭を横切り、館の脇に据え置かれた石のベンチに腰を下ろす。レイゼルトはそれを見送り、しばらくして戸惑いながら大巫女の脇に両膝をつく。大巫女は先程とは違う厳しい表情で、まっすぐにレイゼルトへ視線を注いだ。
「私はあなたの名を知っています。レイゼルト。かつて神殿は、この名をあなたから取り上げました。それをここで返しましょう。あなたはもう、地上でさまよってはなりません」
 大巫女はそこで深い溜息をつく。表情は再び和らぎ、視線が落ちて疲れた様子になる。
「何ゆえ石人達がこの地にいざなわれ、命名の書を手にし、神殿をこの地に築いたか。初代大巫女が最初にこれらを手にし、それとともに真実は彼女の喉を焼き付けました。初代大巫女は誰にも伝えられぬ真実を、その呪いとともに次代の大巫女へ託しました。それは代々の大巫女に継承され、私もまたすでに次代の大巫女へ引き渡しています。初代の大巫女が触れた大地は、すでにこの深い地層の下に。石櫃を安置した祠もその塔の先がわずかに覗くだけとなりました。この小さな島は、沈み続けているのです」
「初代十二王達は、石櫃の闇に捕らわれました。大巫女様のお役目をともに担おうとして、呪われたのでしょうか。彼らはいまだ十二城に潜んでいます。新たな者を闇に引き込みながら。私もまた言葉を焼き付けられ、彼らのことを誰にも伝えることができません。大巫女様のように次の依代にしか伝えられないのです。しかし次の依代は、人としての意識を剥ぎ取られ、肉体に命が宿っているだけです。あれではどんなにあがいても、奪われた意識は影ほどにしか取り戻せない」
「影が実体以上に真実の姿を映すときもあります。この神殿ではそのために、影を恐れる者達もいます」
「神殿とは何でしょうか。石人だけに課された、世界での役割があるのでしょうか」
「我々が考える以上に、世界は思いがけないものです。石人は世界の全ての色を、その髪に、瞳に宿しています。『もうひとつの姿』として、この世に存在した様々な生物の姿を隠し、世界を創造したといわれる神の名を継いでいるのです。一方で、石人の精神の中心であるこの島の地下深くには、世界が形作られた瞬間、その代償として封じられたと伝えられる闇が眠ります」
 大巫女は硬く目を閉じ、喉を抑える。レイゼルトはその姿をしばらく見つめて言った。
「それが真実の外殻なのですか」
「ええ。その通りです。それが花の蕾のように、いつか開くものだと信じている者達もいます」
「私は闇がどんなものか知りに参りました。石櫃を覗かせてはくれませんか」
 レイゼルトが無邪気に尋ねると、大巫女はまぶたを閉じたまま、小さく笑って首を振った。
「あなたは石櫃を壊しかねない。これ以上、闇の犠牲者を出すわけにはいきません。それより見てほしいものは、別にあるのですよ。それが我々の側にある真実だから」
 大巫女は老いて痩せた片腕をあげ、指先で宙に線を描きはじめる。指の軌跡に銀色の光が残り、やがて神殿の見取り図が完成する。彼女は最後に、ある通路の行き止まりを指さした。
「初代大巫女は石櫃を守り、九竜神官の言葉には一切耳を貸してきませんでした。彼らは石櫃に封じられた闇がいずれ真実となって明るみに出で、それに秩序を与えるのが石人の使命と信じました。彼らは神殿の地下にうごめく闇を、彼らなりに解釈しました。闇の側にいる大巫女が知ることと、闇の外にいる彼らが知ろうとしたことは、表裏一体ですらないでしょう。大巫女の焼き付けられた喉が、九竜神官達との間に不信の溝を広げてしまいました。彼らは自ら石櫃に近づこうと、神殿の一角に、祠へ通じる穴を掘ろうとしました。それは今でも一部が残って、使われています。はるかな昔、彼らは石櫃に捧げる大巫女の言葉を、地中に潜んで盗みました。それでもなお彼らは闇に近づくことは出来ませんでしたが、触れてはならぬものを得ました。彼らもまた自らの役目を、次代の神官達に伝えています。けれども――」
 大巫女が指で払うと、宙の光は砂粒のように乱れて消えてしまう。彼女はレイゼルトに穏やかな視線を向けた。
「あなたが見るべきものは別にあります。この七百年、あなたは孤独であったでしょう。けれども多くに守られて、ここにあることも知っているはずです。あなたを最も苦しめたものが、最もよくあなたを支えたかもしれません」
「……いまさら知って、何になるのです」
 レイゼルトは大巫女を見返す。
「私があなたに勧めるのは、闇に関わる者達の話ではありません。あなたがこの七百年間ずっと携えてきた、その禁呪の本当の力を知ってもらいたいのです。それは償いにもなりましょう。慰めにもなるかもしれません」
「禁呪に慰めを見出すほど、辛い刑罰はありません」
「力も取り戻せるでしょう。あなたにはひとつ、心残りがありますね。それは私にとっても同じです」
 レイゼルトの肩に手を置き、大巫女は立ち上がる。振り返って見下ろした彼女の髪に、日差しが透けた。
「私は夢の中で、館から出て外を歩きます。いえ、太古の風景の中には、館も神殿も存在しません。私は幼い頃より、夜はこの夢の中で過ごしてきました。過去に会った者も、これから会う者も、すべての人々や生き物達がそこにはいました。彼らの姿は霧で、近づかねば容姿も判別がつきません。私はすでに多くの者の姿をそこに見出しましたが、あなたが最後と思っていました。しかしこの数年は奇妙なことに、遠くにはっきりとした人影が見えます。彼は人間です。どこから迷い込んだのでしょうか」
「アークラントの運命からです。アークラントの運命と石人の地との交わりから、大巫女様の大きな夢に迷い込んだのでしょう。彼はエカという国を恨んでいる。アークラントを存続させることが、戦で失われた故郷の無念を晴らす復讐へとつながるのです」
 レイゼルトはトゥリーバのことを思い出し、苛立ちを覚える。
「復讐心が、彼を正しい夢見の判断から遠ざけてしまった。彼に手を貸してやってはくれませんか。あの夢はアークラントの希望を予言しているのではなく、彼自身の戻るべき道を示していたのだと。……恨みを断ち、振り返らねばならぬことを」
 一息に話しきり、レイゼルトは息を吐いて肩を落とす。恨みや復讐がどれほど空しいものか、そしてそれらを断つことがどれほど難しく、どれほどおぞましい苦しみを伴うか。なおかつそれから逃げることがどれほど虚しいか、彼は嫌と言うほどに知っていた。
 大巫女は微笑んで頷き、ゆっくりと館へ歩み出す。
「次の夜明けまで、そこでお休みなさい。鐘が鳴ったら、先程の場所に行くのです。あなたに会えたことは、私には最後の癒しとなりました。ごきげんよう。私は先に参ります」
 大巫女の姿が館の影に溶け、足音が遠ざかって消える。庭に一人残されたレイゼルトは、石のベンチで横になる。傷で消耗していた体力は、いまだ戻っていない。七百年に渡る放浪の疲れが、最後の最後で追い討ちをかけるように彼の気力を蝕んでいた。禁呪使いとして追われた七百年前の恐怖とやり場のない恨みが、これだけの時を経ながら鮮烈に思い出せる。他の記憶はすでに形をなくし、思い出すことさえ難しくなっているというのに。
 まぶたを閉じると、そのまますっと眠りに落ちたらしい。どこか遠くからいくつもの鐘の音が響き、館の中庭にこだまが残る。目を開けると辺りは薄暗く、明け方の空には星が輝いている。彼がはっきりと目を覚ます頃には、鐘の音は打ち方を変えていた。
 一つの鐘が鈍く響き、その音が尾を引いて塩辛い湖に沈むと、また別の場所から鐘の音が沸きあがる。鐘の音は東西南北に設けられた鐘楼から響いているようだ。耳を澄ますと、かすかに人々のざわめきが感じられる。泣き叫ぶような取り乱した声は、あらゆる感情の吐露を禁じる神殿には、ただならない。鐘は、大巫女が亡くなられたことを知らせるものだった。
――館を出るなら今しかない。
 レイゼルトは察した。起き上がると、素早く館へと入る。大巫女に示された穴へ向かうために。大巫女の館を巡回して守る神殿騎士達は歩みを止め、石像のように立ち尽くしている。多くの巫女が忙しなく行き交い、神官達は顔に面を当てて悲しみを隠している。レイゼルトは巫女達の影に紛れながら館の外に出て、入り組んだ通路の先を進んだ。
 入口は古びた小さな鉄柵だった。大巫女の館の通気窓と見間違いそうなものだ。レイゼルトは扉にかかった鍵を魔法でこじ開ける。最初は這って進まねばならなかった。やがて天井が高くなる。暗闇の中で手探りをする。壁は荒々しく削られた石壁だ。館の壁を無理矢理削ったのかもしれない。神殿の物音や風の音がくぐもった不確かな響きになり、耳の奥を鳴らす。レイゼルトは先を急いだ。
 道は下りになる。平らではなく階段状になっており、段の真ん中だけが磨り減っていた。レイゼルトは大人が手をつくだろう位置へ腕を伸ばす。石壁に窪みが見つかった。九竜神官達は何千年も前から暗闇の中を手探りで、階段や両脇の壁が磨り減るほど、この通路を使ってきたらしい。
 深く降りるにつれて静寂が密度を増し、そのために今度は耳鳴りがするようになった。空気が澱んでくる。あまりに古い時代の地層まで来たのだろうか。時間すらも澱む重苦しさは、七百年前のあの日にいるような錯覚を覚えさせる。今上に戻れば、彼を血眼になって探す七百年前の石人達が、待ち受けているかもしれない。
 レイゼルトは右腕を上げる。魔法で明かりを灯そうと思ったのだ。このまま暗闇にいると昔の記憶が蘇り、頭がおかしくなりそうだった。しかし彼はしばらくためらった。下に行くほどに、原初の闇に近づくことになる。明かりを灯すのは、ここでは危険なことなのかもしれない。迷った末、足元を照らすわずかな明かりだけに止める。彼は再び下り始める。一歩一歩降りるすぐその背後で、暗闇は何事もなかったかのように帳を下ろし、沈黙が弔いの土として明るい地上と侵入者の間を埋めていった。彼は黙々とひたすらに下った。わずかな明かりと、そこに照らし出された石段だけがすべての世界だった。
 やがて階段が尽き、長く狭い通路が姿を見せる。薄暗い明かりの中で、通路は一本に見える。しかし彼が進むと、ひとつだった道は二股に分かれ始めた。やはり明かりは嫌われているようだ。彼は明かりを消す。そして壁の窪みを触って確めながら、先へと進んだ。手で辿る道は再びひとつと重なり、左右に折れ曲がりながら続く下り坂になる。
 指先の壁が途絶えた。狭い所にいる圧迫感は薄れ、終着点の部屋に辿り着いたことを知る。レイゼルトは大きく息をついた。暗闇に加え、それ以外の何かが部屋に満ちている。その感じは紫城の最深部と似ていた。ここにも理性を飛び越し本能に訴えかける、畏怖の源がある。自然と冷や汗が噴き出して、彼は舌打ちをした。
「いまさら、何を恐れる」
 レイゼルトはかすれた声で自らを励まし、両腕を高々と掲げる。真っ白な閃光が炸裂する。光を知らない闇はことごとく払われ、巨大な部屋がその全貌を現した。レイゼルトは息を飲む。
墓所 長い間生きた彼も、その光景には戦慄さえ覚えた。恐怖でもなく畏敬でもない。立ちすくむことしかできない壮絶な感情が全身を貫き、ひととき自分自身の存在すら忘れた。
 灰色の高い丸天井と壁面すべてが、何千もの石人の石棺に覆われていたのだ。ほぼ新円の形をした棺は、小さな模棺から実際の大きさのものまで様々ある。部屋の中央には樹木を模した巨大な石の柱が天井まで伸び、棺の隙間に石の枝葉が這っている。水滴によってできた石のつららが、枝から垂れる蔦のように幾本も下がっている。柱の根元には、石の天蓋つきの王座があった。棺があることを除けば、そこは紫城のあの地下の部屋と酷似している。
 王座には、古くなりすぎて今まさに崩れんとする彫像が座っていた。頭部は湿って丸みを帯び、目や顎の窪みがぼんやりと残っているだけだ。しかし半眼の切れ目だけは深く刻まれていたらしく、黒々と影を落として二筋はっきりとある。体には、長い衣を巻いていたらしいひだの跡が、かろうじて残っている。
 老若男女の判別がつかないその像は、心持ち王座に横座りになっていた。考え事をしているように右ひじを王座の肘掛に立てて、こぶしで頬を軽く支えている。膝頭の磨耗はひどく、そこだけ表面がつるつると磨かれて滑らかだ。
――誰だろう。
 レイゼルトの心の呟きに、深く沈んだ声が答えた。
「闇に飲まれし肖像」
 風が打ち捨てられた笛を鳴らすのにも似た、虚ろな響きだった。
 レイゼルトは鋭く身構え、王座の人物を睨んだ。相手は先程と寸分変わらない表情で思索を続けている。レイゼルトは半眼の深い切れ目を凝視し、寒気を覚えて目を逸らした。すると視線の先に、ローブで身を覆い、神官が持つのっぺらぼうの面をつけた人影が捉えられる。人影は部屋の隅にぽつんと立っていた。
 ローブ姿の者はレイゼルトの視線を受け、そっと面をはずした。フードの下は影が濃く、何も見えない。面を持つ手も、そこだけ世界が切り取られたように真っ暗だ。漆黒の肌をした石人か、そもそも姿を持たない存在なのか、分からない。
「大巫女様が見せたいと私に言ったのは、この部屋のことだったのですか」
 レイゼルトが尋ねると、相手はフードをゆっくりと下げた。頷いた仕草らしい。
「ここは九竜神官達が築いた、もうひとつの石櫃の祈り場」
 囁くような声色は相手との距離を感じさせないほど、彼の耳にはっきりと届く。
「彼らは時折ここへやって来て、膝をひとなでし、大巫女より盗み取った祈りの言葉を捧げる。彼らは部屋を満たす闇に敬意を表し、決して明かりは用いない」
「私は明かりを灯しました。しかし光で払えないものが満ちている。これが闇なのですか」
 闇と口にしたとき、レイゼルトは体の震えを感じていた。無意識のうちに忍び寄った恐怖が、言葉によって形を得たのだろうか。じわじわ喉を締め付けるかのように、体の自由を奪いつつある。
 音も無く、ローブ姿の石人はレイゼルトの方へ歩み寄る。ローブの裾が翻っても、空気が動く気配はない。
「石櫃に封じられたものの一部。ここから少し染み出している。仮にこれを『闇』と呼ぶのであれば、九竜神官達はこの『闇』を宇宙に星を浮かべる闇と同じだと思ったのだろう」
「あなたが、初代十二王達と道を違えたもう一人の魔法使いなのですか」
「かつてはそうだった。今は墓守にすぎない」
 ローブ姿の魔法使いは再び面をフードの下に当てる。そのわずかな瞬間、レイゼルトは面の後ろに隠れる、まぶたを閉じた漆黒の顔を見た気がした。
十三神官「『闇』を世界に開放し、星の名を持つ石人達をその統治者とする。それは地上に星空を描くこと。世界は天の鏡となり、太古に砕け散った神々を継ぎ合わせ、蘇らせる。九竜神官はそれこそを石人の役目と信じ、代を重ねながら時を待っている。当時の九竜神官達は『闇』の理解者を求め、古都十三の地をそれぞれに治めていた我々を招致した。この部屋で『闇』に魅入られた我々は、大巫女の背負うお役目を理解した。九竜神官の悲願もまた、理解した。だからこそ、石人達を神殿のただひとつの支配から開放せねばならぬと考えた。初代大巫女が石人に定めた理を、神殿の堕ちた力が及ばぬ地で再び明らかにするために」
 魔法使いは緩やかに腕を上げ、王座の石像を指差した。
「あれが石像なのか、太古の石人の亡骸なのかは我々にも分からない。あの像は、石櫃に次ぐ『闇』の覗き口だ。あなたも今感じているはず。もうそれで十分。その像の目を覗いてはならない。あなたはまだ我々ほど深く『闇』に飲まれてはいないのだから。こちらへ」
 レイゼルトは魔法使いの方へ足を向ける。傍に立つと、魔法使いの静かな息遣いに気が付いた。まるですべてが死んでいるようなこの部屋で、魔法使いが生身を持っているのは意外に思える。魔法使いのローブからは、神官が日常の祈りで使う香の匂いすら漂っている。
「なぜあなたは城を創るために、神殿を出られなかったのですか」
「レイゼルト、あなたは紫城を解放した。紫王は消えぬが、城との繋がりは断ち切られたのだ。それは城の正体を見極め、役目を終えて滅んだ無人の城が、元の姿に立ち戻ることを望んだからではないのか。七百年前、紫王の依代が試みた復讐の中で、あなたは城が何かを知った。さらなる昔私もまた、城を創ることによって隠される世界を危ぶんでいた。十二王達は決断し、私は留まり続けた。『闇』に飲まれるまで。存在の様式は反転し、私が現身を保てるのは『闇』の側のみとなった。この部屋を出れば姿をなくすのだ。以来私はこの部屋で、名のない石人、名を奪われた石人の弔いをしている」
 魔法使いは天井の、ある模棺を指差した。レイゼルトは棺に名が刻まれているのを見た。
「シュラオイエン。あなたの持つ銀の札に禁呪を隠した魔術師だ」
 レイゼルトは銀の鏡を取り出す。彼は鏡面に棺を映した。ふいにいたたまれないほどの弱々しい気持ちが、頭をもたげてくる。
「かの人が、砂の魔術に興味を示すとは思えません。私も砂には興味がありません。この銀の鏡には、別の魔法が秘められていたのです。幼い日の私はその魔法に惹かれて、鏡を手にした」
 レイゼルトはそこまで言うと、鏡を懐に戻す。力が抜けて鏡を落としてしまわないように。それをみてとった魔法使いの虚ろな口調は、やや柔らかになる。
「そうだ。その札には土の魔法が込められていた。老魔術師は黄王に頼まれ、城に豊かな土を蓄える魔法を探していた。あの城の周りは凍りついた荒野で、乾いた砂しか得られない。彼は砂を土へ変える魔法を編み出そうとしていた。それはついに成功しなかった。その札に込められた禁呪は、失敗した魔術のひとつ。命あるものを土に戻してしまう、使い方を過てば危険なものだ」
「初めて札に込められた魔法を使ったとき、でも、これは確かに砂の禁呪だったのです」
「年の端もいかぬうち一人塔に封じられ、暗闇で生きていた子どもが、禁呪を得たとき、再び二本の足で体を支え言葉を話し、禁呪を読み解くだけの正気を取り戻した。その理由を考えたことはなかったか。その札に封じられていたのは、禁呪だけではない。魔法を生み出そうと失敗を重ねてなお衰えなかった、老魔術師の人々への思いがあった。彼は魔術に持てる力全てを捧げた。その心が銀の札を手にした哀れな子どもに、失われていた命の活力を与えた。禁呪に封じられていた強い生命の力を代償として。命をはぐくむ土の魔法は力を失い、砂の魔法へと変じた。残念ながらその後、禁呪は誤った使い方をされた」
「私は見も知らぬ、古い時代の禁呪使いに助けられたというのですか」
 レイゼルトは声を震わせる。
「禁呪に込められた力は、私の命を救っただけでした。むしろそうしない方が、他の石人達にとってどんなによかったか」
 彼はキッと棺を見上げた。言い尽くせない様々な感情や記憶が胸にこみ上げ、心が耐え切れずに破裂しそうになる。それらを押し殺そうとすると、喉がぎりぎりと痛んだ。
「あなたはずっと口を閉ざしてきた。いずれは実を結ぶ言葉もあったはずなのに」
 魔法使いは言った。レイゼルトは見上げた姿勢のまま、何度も息を飲み込む。それからようやく彼は苦しげに口を開いた。
「そうせざるを得なかった。口を開けば宿運の悪さを嘆く恨みの言葉しか出てこない。自分の本当の気持ちすら分かりませんでした。私は自分が誰なのか、分からなかった。
私は多くの石人を砂に変えました。それは父王の命があったからです。言うことを聞けば、私は二度と塔に戻らなくてもいいかもしれないと、信じていた。塔にいる間、私は幼いなりに人の心を忘れまいと努めていましたが、世を知らぬ孤独は精神を蝕み、心も歪め固めてしまいます。塔の外へ戻ることを求めながらも、いざそれが叶うと、慣れ親しんだ塔での孤独を懐かしみ、そこから己を引き離した外の世界を憎むようになるのです。塔の外で禁呪を目の前に差し出され、それが意味することを察したとき、今まで守り続けていたはずの正気が、すでに壊れていたことに気付きました。大きな過ちを犯そうとしているのを知りながらも、世へ戻りたいという渇望を癒す欲に負け、同時にそのようにしてしか癒されえない渇望を憎み、孤独を永遠に失うことを恨みながら、邪精のように日の下へ躍り出たのです」
 レイゼルトは両の頬を伝う涙に気付いたが、拭いもせず気にもせず、そのまま流れるに任せた。
「砂の禁呪はあまりに綺麗に人を砂に変えてしまう。私には砂遊びの延長であり、禁呪の恐ろしさもそれを使っている自身の非道さも、一切省みませんでした。多くの石人が私を捕らえようとしながらそれができなかったのは、身を守ってくれる者がいたためです。ところがその者が殺されたとき、私は初めて死というものを知り、それを恐れるようになりました。私の命を狙う石人の中には、肉親であったはずの兄王の姿もありました。兄の心の内も知らず、その裏切りを恨みました。私を倒したとされる黄緑の王子も、本当は私を助けようと考えていたのです。しかし私には疑念と復讐しかなく、それに従うことができなかった。再び禁呪を用いた私に、彼は自らの役目を果たす以外ありませんでした。彼は石人の愚かしさに深く絶望し、英雄として帰還することを拒みました。私が彼を道連れにしたのではなく、彼が私を道連れにしたのです」
 レイゼルトはうな垂れる。
「くしくも私の命は滝では終わりませんでした。私のしたことは永遠に許されることはない。この罪は生涯を越えても償いきれはしません。だから初代赤王に囚われ、不死の牢獄にいた七百年間は、償いのひとつになると思えば耐えることができる。兄王や黄緑の王子、その他の数少ない石人達。あのとき私を助けようとしてくれた者達は、私により広い視野と心を遺しました。そして私は、それに見合う生き方を、半ば強いられたのです。それでもなお、今でも頭から離れない思いがあります。石人達が私にした仕打ちは、誰が償ってくれるのか。もっと早くに、救われたかったと」
 頬は乾いていた。レイゼルトは樹木を模した柱へと視線を移す。
「そう思う度に私はすぐに考え直します。すでに償ってくれている。私にこのような生き方を強いた者達は、己の命を代償としてくれていたのです。そして七百年の終わりに、大巫女様は名まで返してくださった。私はこの広い世界で、自由を得た」
 魔法使いは黙っていた。
「あなたがおっしゃったように、私は塔に幽閉されているときに城の音を聴き、城の正体について思いをめぐらせていました。それは私だけの体験ではありません。長い歴史の中で、城の音を聞いた者は少なくないでしょう。しかしその体験を深める機会に恵まれた者はわずかです。あの音は城の最下層に近づくほどよく聞こえます。この部屋は、その音が最も近い、城の中枢の部屋に似ている」
「私は見たことはないが、似ているのならばそうかもしれない。ここから出るとき、私は他の獣の姿を借りる。時が迫るのを見て、私はあなたをなんとしてもここに呼び、次の依代と巡り合わせたかった。私はその実、七百年間、あなたが石人世界に再び戻ってくるのを待っていた。伝えたかったことは多いが、時間はもうない」
 魔法使いは悲しげに呟いた。
「あなたが塔に封じられていたように、この部屋が私の全てだ。柱と像は最初からあったが、部屋を覆う枝や棺は私が刻んだ。私は石を食う虫に姿を変えることができる。名のない者には、名の代わりとなる棺が必要だ」
「石の大樹を育てていらっしゃるようだ。この木はいずれ地上へ達するのですか」
「そうかもしれない。私がさらに『闇』に飲まれぬ限りは」
 面の下の声はくぐもり、辺りが薄暗くなってくる。魔法使いは続けた。
「長きを生きてきた者を癒すのは、容易ではない。かの者を支えてきた強さそのものが、その障害となる」
「この七百年、悔恨と復讐心が、入れ替わり立ち代り私の命を支えました。私に親切にしてくれた人々の存在が、私の正気を支えました。もはや休息を欲しいなどとも思いません。けれども強さが癒しの障害となるのであれば、私はそれを捨てます。私を支えてきた全てのものを私自身として、ここに弔います。赤王はすぐ近くへ来ている。ただ、次の依代のことをあなたにお頼みしたいのです」
 魔法使いは身を引いた。明かりはますます暗くなる。レイゼルトは完全に暗くなってしまう前に、部屋の入口へと歩み始めた。魔法使いはその背に、最後の言葉をかける。
「時がその方向を失う場所で、私は十二王とその依代達を、待っている」
 明かりは消えうせ、辺りは再び暗闇に変わる。レイゼルトは何も見えない中で、そっと手を前に差し出した。冷たい壁に触れる。さらに探ると、指先に壁の窪みを見出した。彼は壁に沿って、もと来た道を辿りはじめる。
 暗い穴から抜け出しても、神殿は押し殺したざわめきに満ちていた。レイゼルトは誰に気にされることもないまま、水路につけられた小舟で神殿から湖へ出る。そして湖の中ほどで舟を止める。
「忘れないうちに、約束を果たしておくか」
 レイゼルトは空を眺めて呟く。鈍色の空とその色をそっくり映す湖に挟まれているのは、とてつもなく心地よい。ことにあの重苦しい地下の闇から出てきた身にとっては。
 彼は左手で右目を隠し、ややこしい呪術の文句を唱える。唱え終えると彼はのろのろと立ち上がる。そして懐に忍ばせた紙気球を風に乗せ、火に姿を転じて飛び移った。紙気球は風に流されながら上昇していく。
 湖の西に広がる林の中に、白いものが見えた。赤王だ。赤王は心なしか、以前見たときよりも体の輪郭がぼやけているようだった。動き方も苦しげに見える。闇に囚われた初代十二王達にとって、城の中枢から出るのはよほど大変なことなのだろう。すぐ上空にレイゼルトがいることさえ、気づいているようには見えない。だからといって赤王から逃げ切れるわけでもない。
 彼は姿を戻した。紙気球はあえなく破れて風に散る。
「目覚めよ!」
 レイゼルトはその言葉を魔法の風にのせて北へ飛ばす。
 風が彼の命じた指先を離れた刹那、赤王は彼の存在に気がついた。彼は再び火に転じながら、懐から銀の鏡を取り出した。炎の中で銀の鏡は銀のしずくとなり、火花を散らしながら赤王の立つ林の丘に注ぐ。

十六章 白の城

「殿下がお連れになった石人どもは、神殿と十二城の存在を否定しただけでなく、クラムアネスという大悪党に組し、大巫女様の手枷をはじめ、白城から貴重な財宝を盗んでいった盗賊でもありますぞ」
 青いというよりほとんど黒ずんだ顔色で、白城の大臣ルガデルロはブレイヤールに問い正す。夕方の影が室内に満ちてきていたが、どちらも明かりを灯すまでに気が回らない。それほどまでに、ブレイヤールがもたらした知らせは重いものだった。
 黄金色の国とクラムアネスが自称していた坑道から白城へ無事に戻ったのは、ほんの昼過ぎのことだ。クラムアネスと対峙して彼女の国を解体した後、ブレイヤールは助けに来た黄緑の国の騎士達を坑道で出迎え、さらには黄緑の国へ行って、左右の大臣とも話し合わなければならなかった。黄金色の国の住人達は、坑道に残っていた者はおろか白城に向かおうとしていた者達まで黄緑の騎士に捕らえられてしまっていた。
 うんざりするほど長くややこしい話し合いの末、ブレイヤールは住人の多くを白城で引き取ることを黄緑の大臣達に納得させた。一方で、クラムアネスと直接ぐるになってあくどい商売をしていた石人は、全て黄緑の城で捕らえられることとなり、エランをはじめとする人間の悪徳商人達は口封じの魔法をかけられた上に重たい手枷まではめられて、空白平原に連れて行かれた。
 問題は、クラムアネスとニッガナームの消息がつかめないことだった。特にクラムアネスの逃亡については、ブレイヤールにも責任の一端があると黄緑の大臣達は考えたらしい。ブレイヤールの手枷が外れた後、彼がその気になればすぐに捕まえられたかもしれないのだ。左大臣に散々お説教を食わされ、白城に戻ることは許されたものの、神殿が下す判断を待たなければならなかった。
「白城があの者達の牢屋代わりというわけですか。亡き歴代の白王様方がこれをお知りになったら、どれほど嘆かれるか。我々といたしましても、白城に民が戻ることを望み続けていたとはいえ、このような形でそれが叶えられるなど、夢にも思っておりませなんだ。あまつさえ、殿下御自身までも神殿の審判を待つ身となられようとは」
 明るい黄色の髭を震わせながら、かろうじて平静を保って仁王立ちになっている大臣を前に、ブレイヤールは逃げ出したくなる。大臣の動揺は彼の予想をはるかに超えていた。しかしここで引き下がるわけにはいかない。
「クラムアネスは重罪人だ。けど僕がここに連れてきた石人達は、クラムアネスに利用されていただけだ。人間の奴隷商人に自分の子どもをさらわれてさえいた。確かに白城の財産を盗んだけど、そのために彼らを引き受けるのを拒むのか。僕が彼らにした約束を、守らせてくれないのか」
「それ以前の問題がございますぞ!」
 大臣は突然大声を上げる。
「彼らの多くは神殿より送られる星の名を捨てております。名を拒むは石人であることを拒むも同然。大巫女様に対する冒涜。このような罪人どもをご自身の命で城に入れれば、殿下もまた王位をはく奪され、それこそただの看守にされるやもしれませぬぞ!」
「無人の城の王より、看守の方がましだ!」
 忍耐の隙間を破ってついに弾けた大臣の怒りに、ブレイヤールもついカッとなる。お互いは一瞬にらみ合ったが、すぐにどちらも自分の非を認めて互い違いに視線を逸らした。
「……七百年もの間、城を守り続けてきた皆の誇りと苦労を踏みにじる決断だとは思った。でも、手枷を外すには彼らを味方に引き込まなきゃならなかった。それに彼らをクラムアネスから救わなくちゃいけないとも思った。けど本当は、ただあの場をやり過ごしたくてなりふり構わないことをしただけなのかもしれない」
 しばしの沈黙の後に、ブレイヤールはおずおずと口を開く。
「確かに殿下がご無事に帰られたことは、我々にとって何よりのことです」
 ルガデルロは石のように強張ったまま、無感動にそう答えただけだ。ブレイヤールが顔を上げると、大臣のうつむいたままの姿が目に入る。ブレイヤールは次の言葉を待った。ところが大臣は突然大きな溜息をついて、後ろの椅子に背中を向けて座り込んでしまう。その後姿は溜息でしぼんだかのように、ずいぶん小さく見えた。
「本当に、よう戻られました」
 大臣は疲れた様子で呟く。先程の固い口調とはうってかわり、感情が戻っていた。大臣はのろのろと立ち上がり、再びブレイヤールの前に立つ。落ち着きを取り戻したが、まだブレイヤールの決断を認めたわけではないことを、その鋭い目が示していた。
「彼らを城の住人とすることで、城の内のみならず外にも多くの問題が出てきましょう。それについてのお覚悟も、されているんでしょうな」
「それは……。まだよく分からない」
 ブレイヤールは気弱に答える。クラムアネスとの対峙のときもそうだったが、覚悟を決める前に行動しなければ間に合わなかった。あの瞬間はそれでよかったのかもしれない。しかしあれ以来、事態はまるで滝となって白城の運命をどこかへ押し流し始めた。次にやるべきことは何か分かるが、早いうちにどこかでこの流れの先を見極めなくてはならない。よくない方向へ向かいつつあるなら、流れを変える決断が必要だ。実際のところ、ブレイヤールは呆然自失としていた。七百年間停滞していた白城の運命の堰を破ったのは、他でもない自分だったが、これほど怒涛の展開になるとは想像もしていなかったのだ。
 ブレイヤールの怖気に、大臣はいっさい同情するつもりはないらしい。大臣はますます厳しい表情を見せた。
「ここでとどまってどうするのです。白城は再び蘇えらんとするのです。神殿がどのような采配を殿下に下すかはまだ分かりませぬが、それまでは王として振る舞っていただかなくてはなりませんぞ。しっかりしてくだされ。ご自分の立場を忘れたわけではありますまい」
 ブレイヤールは自分の立場というものを苦々しく思った。どんなに無能でも、王という立場からは逃げられない。分かっているからこそ、魔法で喉を焼きつけられてしまったかのように、決心の言葉が出てこない。
 本来であればブレイヤール自身が打ち破るべき沈黙は、突如としてどたばたと騒がしい足音でぶち壊されてしまった。部屋に駆け込んできたはグルザリオだ。彼は手に握り締めた何枚かの紙を、ブレイヤールとルガデルロの間へねじ込むように突き出す。
「二人とも急いで内容を改めてください。先程届いた神殿からの召喚状と、こちらは大きな声ではいえませんが人間からの書簡です。白城を狩場にしてるタバッサの盗人が持ってきましたが、差出人についてはよく知らないようで」
 ブレイヤールは人間からの手紙に飛びつき、大臣は神殿からの手紙を取った。それぞれが手にした手紙へ目を走らせ、ついで互いの手紙を交換して知らせを読み下す。グルザリオは部屋に明かりを入れて回り、二人が読み終わるのを待って尋ねた。
「神殿からのは、レイゼルトがらみの話です。使者が話していましたが、大巫女様はこのところ体調が思わしくなく、だいぶ前から誰にもお会いにならないそうで。赤城から送られたレイゼルトの右手も、九竜神官様方が封じておられるようです」
「神殿は十二城の王に神殿へ集まるよう求めている。九竜神官達と魔力をあわせて、レイゼルトを探し出し、あわよくば追い詰めるつもりなんだろう。黄王がレイゼルトに砂にされてしまったのは、やっぱり本当なんだ……」
 ブレイヤールは手紙を脇の机に置いた。
「僕には、人間の問題は家来に任せ、神殿へ発てとある。けど無理だ。そっちの手紙の知らせが、悪すぎる」
 ブレイヤールの指差した先で、大臣は手紙を手にしたまま再び青くなっていた。
「差出人の名はないけど、内容からしてディクレス殿だ。アークラントから大空白平原へ抜ける峡谷を開くとだけある。つまり、アークラントから人間が来るということだろう」
「じゃ、黄緑の城にもこの話を知らせたほうがよいのでは。人間が何を企んでいるかにもよりますが、空白平原に出るなら石人側も無視できません」
 グルザリオは眉を寄せる。ブレイヤールはうな垂れ、こぶしを握った。
「……この手紙を他の石人に見せることはできない。こちらから手紙の内容を確めに、峡谷に人をやらないと。誰かいないか」
 大臣もグルザリオも無言だった。峡谷の様子を見に行ける者は、この城には一人としていないのだ。ブレイヤールは顔を上げ、二人の家臣を見つめた。
「僕が行くしかないんだろうか」
「それはなりませんぞ」
 素早く、大臣が断固とした口調で戒める。
「殿下がお連れになった石人達を置いて、城を留守にするなどもってのほか。今は次に何が起こるか分からぬ状況。城主が城を空けてよい時期ではございません。神殿からの手紙にも、折り返しこちらの状況を伝える返事を用意せねばなりませぬ」
「何もできないということか」
「やるべきことはございます」
 大臣はふくれっ面の主に苦々しい表情を向ける。
「城に新しい石人を迎え入れるには、彼らの名を城に知らせる儀式を執り行わなければなりませぬ」
 大臣の指摘に、ブレイヤールは居ずまいを正した。大臣の表情は、やや悲しげなものに変わる。
「殿下がお連れになった石人達の名が城に受け入れられれば、我々もそれを否定することはできませぬ。他の家臣らにも私からこのことを知らせ、明日にでも儀式を行えるよう場所を整えましょう。殿下は彼らの名をご用意くだされ。名を持たぬ者には、殿下から仮の名を与えるより仕方ありませぬ」
 ブレイヤールは視線を床に落としたまま、その言葉を最後まで聞く。しばらくしてわずかに頷いた。そして何もいわず、部屋を足早に立ち去る。大臣は開けっ放しに残された扉を静かに閉め、人間からの手紙を蝋燭の炎にかざして燃やした。
「我々は城か王子か、いったいどちらに従ったらいいんでしょうか」
 グルザリオは佇んだままの大臣を横目に、神殿の手紙を丁寧に丸め戻す。彼としては皮肉のつもりの言葉だったが、大臣はそれをそのまま受け入れて溜息混じりに呟いた。
「おぬしは誤解しとる。殿下はそのうちご自分で気づかれるじゃろうが。……王も臣下も城民も、城に従わねばならん。それが古来からのしきたりじゃ。王が力を持っているように見えるのは、王が最も城に近しい立場におるからだけ。本当に力を持ってはならん。城民を迎えるか拒むかは城が決めることで、城主が決めることではない。王が力を持てば、城民は王を恐れるようになる。かつて神殿が力を持ちすぎたとき、十二城は建てられたではないか。十二城の次は、あの崖の国のような穴倉が石人の住処になるのか? 同じ過ちを繰り返すのは愚かじゃろう」
「そうですか。俺はてっきり、この城をただの牢獄にしてしまうことを嘆いて、渋っておられるんだと」
「まだ納得はいっとらん。悪夢を見ているようじゃわい」
 大臣は夢なら醒めよとばかりに、皺だらけの顔を片手で強く拭う。大臣の機嫌は最悪と見て、グルザリオはそれ以上余分な口は聞かないことにする。
「キゲイや魚の子については、黄緑の兵士達もまだ捜索中だそうで。キゲイは例の鏡とお守りを持っているから、魔物や邪妖精に関しては心配ないはずですが。女の子の方は城内で迷子になっているのか、城外に出てしまったのか、さっぱり分からんそうです。王がいれば、城内の行方不明者ならすぐに見つけられるんですが……。トエトリア様の戴冠を待ち望む黄緑の民の気持ちが分かります」
「わしらには手の施しようはない」
「ですんで、黄緑の兵士達に任せてきました。……心配はしてるんですよ。これでも」
 そっけない大臣の返事に、グルザリオは顔をゆがめた。大臣は上の空で、せり出した額の眉越しに、ひび割れだらけの天井を睨み付けている。
「峡谷から人間が平原へ現れれば、平原の人間どもも気づくじゃろう。連中が利益をともにすれば、七百余年前の石人と人間の争いが再現されることになるかもしれん」
「はっ?」
「峡谷への道が開けば、タバッサは白城を狩場にするこそ泥と旅商人を相手にするただの宿場町から、アークラントへ通ずる基幹道の都市になれるからの」
「下手をすると石人は、レイゼルトに加えて人間も相手にしなきゃならないと?」
「分からん。分からんが、ともかく陛下が今この城を離れるほどまずいことはない。それだけは間違いない。人間が束になってきたら、この城で何としても、連中を押しとどめなければならんのじゃ。神殿が何を言おうと、時間を持たせねば」
「陛下? いつから王子は王になったんで?」
「今、家臣がそう認めねば、いつ王になれるんじゃ。あのお方は」
 大臣がじろりと目玉だけを動かしてグルザリオを睨み付ける。同時に手を伸ばしてグルザリオから神殿の書簡を取り上げると、半分半分にと小さく何度も折りたたんで懐に収めた。グルザリオはにこりともせず手紙が大臣の懐に消えるのを見つめ、まじめくさった顔で答える。
「王子がクラムアネスを煙に巻けた理由がわかりました。大臣がいらっしゃるなら、白城も安泰です。俺も家臣の務めを果たしましょう」
「崖の国の石人の中から、兵士として使えそうな者と、体の頑丈そうなのを選んでくれんか。それと、王の正装を整えてくれ。成人の儀のときに身につけられたものがあったはずじゃ。余分な装飾は取って、動きやすいよう軽くしておいたほうがいいかもしれん。普通の礼服では足らぬ相手を出迎えることになるかもしれんでな」
「承知しました」
 グルザリオは一礼をして足早に立ち去った。銅板の上の灯が揺れて、大臣の影も大きく揺れる。かと思うと床の上に長衣と短剣の帯が滑り落ち、月色の羽根が数枚散らばった。大臣もまた姿を変えて、窓から夜空へと去ったのだ。
 翌日、名読みの儀は天井の崩れかけた謁見の間で行われた。この場所は七百年間ずっと使われていなかったが、今や百人余りの石人達が石杯の前に並び、自分の名が書かれた紙が火花を散らして消え去るのをかたずをのんで見守っている。ブレイヤールは儀式の衣装に身を包み、厳かに次々と名札を杯にくべていく。
 名前の中には、不吉な神に由来するものもあった。本来であれば、こうした名を持って生まれた石人はその場で神殿へ引き取られる。不吉な名は石櫃に封じられた創世の闇に属すために、石櫃に返さねばらないからだ。引き取られた石人は神殿で名を取り上げられ、大巫女様に仕える神官として育てられる。彼らはもはや名を持たず、神殿において柱の影や水面の反射と同様に扱われ、他の者と口をきくことも許されない。名のない者は存在しないのと同じだからだ。
 ブレイヤールは火の消えた杯の底に、そっと片手を当てる。杯は熱かったが、燃え残った名札は一つもないようだ。彼は短い安堵の息を吐く。城は名によって石人を拒んだりはしない。ならばおかしいのは、不吉な名を持つ石人を神殿に封じようとする神官の方だ。その神官を止めようとしない王の方だ。
「我が城はそなた達を受け入れ、守り、応えるだろう」
 ブレイヤールの言葉は、新しい城民達の喜びの声にすぐさま飲み込まれた。ブレイヤールは唇を結んで杯に乗せた腕をぐいと引き戻す。城があらゆる石人を受け入れる意思は、どこから来るのか。城に魂が宿っているのか、それとも魂も何もない空っぽなだけなのか。そんなことを思いながら。
 儀式の前によく磨かれたはずの杯だが、指先に何かがざらついた。ブレイヤールは動作を止めることなく、灰で汚れた指を握りこんで白い王衣の下へと戻す。
 何事も、そう易々とは行かないようだ。城が受け入れなかった名は、王が守ればよい。灰に触れた瞬間、彼はそう悟っていた。
 それからの十四日間は、かつてないほど白城に活気があふれた。キゲイは依然行方が分からないままだったし、クラムアネスも捕まらない。ブレイヤールは心配に心配を重ねながらも、石人達が城に町を再建する手助けに奔走しなければならなかった。痺れを切らした神殿からの使者が、自らブレイヤールを神殿へ連れ帰ろうと白城に居座ったが、ブレイヤールは城が広いのをいいことに、何とか出会わずにやり過ごしていた。グルザリオも連日、兵士として選び出した石人達に城内を案内して回り、通路のつながりを覚えさせる。
 十五日目の早朝、ブレイヤールは城の南に足を運び、塔の天辺から、地平線を縁取る境の森を眺めていた。ディクレスの手紙を受け取って、日にちが発ちすぎている。短い文面からは感じ取れなかったものの、内容はかなり逼迫した状況を伝えるものだったはずだ。毎朝こうして塔に登っては、次の便りか、あるいは何か変化の兆候が見えないかと気を揉んでいた。一方でレイゼルトに関する神殿の便りも、一向に進展はない。神殿からの使者が彼を探して城内をうろうろしているだけで、第二報が来たという話もない。
 空を見上げれば、朝焼けに色づく空は薄雲に濁っている。雲は、冬の名残を思わせる冷たい風に乗って、南から北へ運ばれている。
「こんなところにいらっしゃったのですか!」
 この日は悪いことが立て続けに起こったが、その最初は神殿からの使者にとうとう見つかってしまったことだ。ブレイヤールは仕方なしに振り返って、あいまいな笑顔を見せる。散々じらされていた使者の方は、笑顔どころではなかった。
「星の神殿へお立ちくださいませ。先の書状はルガデルロ大臣までは届いたようですが、いったいその後、殿下には拝見いただけたのでしょうか」
「……いや。そういえば大臣も、このところ姿を見ないな。平原の人間達のことで、忙しいんだろう」
「人間に気を取られている隙に、レイゼルトに寝首をかかれます」
 使者に詰め寄られたが、ブレイヤールは口を閉ざして答えないことにする。そのとき塔の上に影が射したかと思うと、耳を打つ羽音とともに二人の間に大きな黄色いフクロウが落ちてくる。羽音が収まると同時に、それは恰幅の良い老人の姿になった。ブレイヤールと使者は目を丸くして、この老人を上から覗き込む。ルガデルロは目をしょぼつかせ、尻餅をついた格好のままブレイヤールに怒鳴った。
「ご用意くだされ。人間と馬が群れを成して、蟻のような大群でやってまいります!」
「いつ?」
「お許しくだされ。あと半刻もありません。あの姿で昼夜飛び続けるのは、無理がございましたわい」
 ルガデルロは腕を上げて指し示す。ブレイヤールは再び森へと視線を向けた。背後で大臣が塔から駆け降りる足音が鳴った。ブレイヤールの隣に使者が並んだ。ブレイヤールはまた神殿への出立を催促されるのかと思って身を引いたが、使者の視線は森へある。その横顔を見ると、この使者もおそらく猛禽の類に姿を変えられるのだろう。どことなく鷹を思わせる鋭い目つきだ。
「もう森を抜けています! まるで大河だ!」
 やはり遠目が恐ろしく効いたらしい使者は、森に向かって指をさっと突き出した。まだ何も見えないブレイヤールは、彼の言うことが分からない。
 しばらく見ているうち、絵のように静かだった森の黒い影へ、突然うごめく白いものが重なった。森と白城との間に横たわる荒野に、その白いものがざらざらと溢れ出す。丘を越えて駆け下りる、何千もの人と馬の姿だった。
 初めて見る人間の大群に、ブレイヤールは目を疑うばかりで動けなかった。大都市の石人を一人残らずかき集めても、あれだけの数にはならないだろう。その間にもなお荒野には人間達があふれ、途切れることのない縦列はまっすぐにこの城を目指している。雲に濁るどんよりとした空の下、わずかに注ぐ陽光を受けて、縦列は白銀に輝いている。美しいと同時に、刻々と白城の危機を刻む光景でもある。
「あれが城を荒らした人間達なのですか!」
 使者がかすれた声で叫ぶ。ブレイヤールは頭を振った。
「違う。数が多すぎる。それにあの数では、今度は荒らされる程度では済まない」
 峡谷が開くというディクレスの手紙は警告であったのか、忠告であったのか、それとも脅しであったのか。荒野を近づいてくる白銀の閃きとともに、ぱっと疑念も閃いた。ブレイヤールは再び頭を振って、混乱を振り払う。今は考えている暇などない。
「とにかく黄緑の城へ知らせを! 頼んだ!」
 ブレイヤールは使者にそう言い置くと、塔の階段へ向きを変える。そのとき目の端に、さらに信じられないものが映る。荒野の起伏に見え隠れして進む、もう一つの銀の大軍隊だった。それは石人世界の奥を目指している。あのまま進めば黄緑の城に行き当たるだろう。ブレイヤールは胸の奥底が凍りつくのを感じながら、塔の階段を数段跳びに駆け降りた。
 城内へ通じるアーチをくぐったところで、彼は壁に掘り込まれた小さな偽窓の前に立つ。手のひらほどの小さな窓は、浮き彫りのサンザシの花と枝葉で囲まれている。窓の奥にはなめらかな闇の面があった。
 王族がひとたび王座に身を置けば、城の力を存分にふるい、城の侵入者達を撃退するなどわけはない。ところがブレイヤールはまだ戴冠の儀を行っていなかった。これでは王座はまともに使えない。儀式の間へ達する道筋も、七百年の間に忘れ去られている。王座が使えないなら、別の方法で力を引き出さなくてはならない。
 呼吸を整え、窓の奥の闇に手のひらをそっとつける。石よりも固く、石ほど冷たくはない。窓の奥には城の基礎石がむき出しのままあった。手窓と呼ばれるそれは、城の各所に設けられている。王座以外で城の力を直接引き出せる、唯一の手段だった。
 意識を闇の向こうへと集中する。やがて、自分の魔力が基礎石の向こうに流れる城の魔力と交わるのを感じる。城の魔力は渦の柱をなし、外側は下から上へ、内側は上から下へと激しく逆巻いて城の中枢を貫いていた。すさまじい力の奔流は、下手に近づくと自分の魂ごと巻き込んで粉々にされそうだ。これが恐ろしくて、今までほとんど、ここまで深く基礎石の奥に集中したことはなかった。
 突然目の焦点を失い、ブレイヤールはぐっと瞳を閉じた。目に映る光でとらえた世界と、基礎石を通して魔力で見たもう一つの視界が、瞳の裏で重なったのだ。いつのまにか激しい魔力の渦は消え、冷え冷えとした巨大な城のシルエットが脳裏に刻まれる。城の影にはさらに細かいいくつもの影が重なり、その色を濃くしている。ある影は四角く、ある影は尖塔の鋭い頂点を持つ。影の馬蹄にくりぬかれた部分は、光を通す窓の輪郭かもしれない。
 城の中層では、まだ何も知らない石人達が、廃墟の町をせっせと片づけていた。建物の影の中を彼らが横切るたび、その気配が指先に感じられる。城の別のところへ意識を移すと、薄暗い部屋でルガデルロがグルザリオに何かを命じていた。そして、白城を目指していた大群の最初の一人が、大回廊の影落ちる石畳へ恐る恐る片足を乗せたのを知る。
――あの銀色の装備は、ハイディーンだろうか。アークラントの残党を追って、峡谷を抜けたのか。だとすれば、アークラントの残党はこの城のどこかに隠れているんだろうか。
 指先に感じる気配が、徐々に濃くなる。次々と人間達が城の中に入り、城の大回廊を奥へと進んでいるのだ。ブレイヤールは他の場所へと意識を移す。アークラントの人間達が隠れているのかどうか、探さねばならない。ハイディーンの者達はしばらく放っておいてもよさそうだった。城は広大だ。迷うだけで、石人達がいる場所までとてもたどり着けはしないだろう。
 ふと、非常にかすかではあるものの、いつか感じたことのある魔力の気配が城のどこかで灯った。ブレイヤールは魔力の場所を定めようとしたが、まるで小さな流れ星のように、あらわれたのに気付いた時点で消えている。
――レイゼルト? まさか。あれだけの力を持った奴でも、城の目から隠れることなんてできない。
 ひどい目にあった過去が思い出され、集中が途切れる。ブレイヤールは瞳を開け、手窓から体を離した。壁に自分の影が長く伸びている。城内に意識を沈めている間に、日が傾き始めていた。辺りは風の音が鳴るだけで、廃墟の静けさが支配している。
 ブレイヤールはその場を離れ、大臣達のいる部屋へ足を運ぶ。彼が姿を現すと、不安げな顔つきの家臣達が彼を取り囲んだ。ルガデルロが口を開く。
「本隊は城外に駐屯しているようですが、城内を探索する者達もおります。あの者達は城主に『いるなら姿を見せよ』と怒鳴っておりますが、いかがされまするか」
「人の城に無断で入ってきて、そのうえこちらから彼らの前に出て来いなんて、ずいぶん勝手だ。しばらく城を彷徨ってもらおう。手窓を使っていくつか石扉を落としてきたから、彼らが行ける場所は限られている。それより……」
 ブレイヤールはそこで深く息を吐いた。
「他の侵入者達が城の東側から入ってきている。僕に会いに来たんだろう。服を用意してくれる? 今から出れば、夜中には彼らのいる場所に行ける」
「やれやれ、忙しくなりそうです」
 グルザリオは正装一式を用意しに走り去る。ブレイヤールは大臣に向き直った。
「あの気配は人間だと思う」
「お供しましょう。万一に備えて、弓手達も潜ませまする」
「そこまで警戒しなくても」
「甘いですぞ。人間と会う際にはそれなりの形が必要なのです」
 大臣はぶんと強く首を横に振って、ブレイヤールのぼやきを跳ね除けた。城の基礎石より崩すのが難しそうな頑固な返事だ。ブレイヤールはその理由を考えて、ようやく頷く。しかし突然、今まで必死に忘れようとしていた後悔の念が胸の内に蘇り、彼は頭を下げ両手で額を覆った。
「最初から、アークラントの人間達に境界の森を越えさせなければよかったんだ! もっと強い魔法を森にかけていれば……!」
「どんな魔法がかけられていようとも、アークラントの者達は命を懸けてあの森を越えようとしたでしょう」
 大臣は厳しい声で続ける。
「ブレイヤール様、あなたは、そんな恐ろしい魔法を森にかけられましょうか。わしはそんな冷酷な王になるよう教育した覚えはございませんぞ。そもそも、十二会議であなたお一人に、人間の対処を押し付けたのが間違いなのです」
「いいや、残酷だからあんな軟弱な決断をしたんだ。人間の侵入をきっかけに、白城の復活ができるかもしれないと考えていた。なんて卑しい考えだ! レイゼルトは境の森にかけた中途半端な幻術で、それを見破っていた。ディクレス殿もそうだったかもしれない。つけ入る隙を与えてしまったんだ」
「我々の期待を重荷としてそのような行動に走られたのであれば、お恥ずかしいことです。この顛末の責任は、共に取らねばなりませぬな」
 ブレイヤールは両目を拭いながら顔を起こす。
「覚悟を決めよう。白城の王として、恥じない行動をする。相手も、こちらにそれだけのものを期待しているだろうから」
 大臣は難しい顔のまま無言で頷いた。
 日が落ち、城内に闇が満ちた頃、ブレイヤールはグルザリオを後ろに従え、東の大柱廊へとたどり着く。ルガデルロも弓兵を従え、柱廊の上階に待機する手はずになっていた。月が落ちて星明りが射し、色のない世界に動くものは彼ら以外にない。空虚な廊下はやがて歩を進めるごとに、張りつめた生き物の気配が濃くなる。柱廊の終わりには、影よりも黒い一団が、来るともしれない白城の主を当てどもなく待ち続けていた。
 もし今夜城の主が現れなければ、彼らは何も言わずどこかへ去っていたかもしれない。しかし彼らを率いる老王は、ゆるぎない確信を持って先頭にまっすぐと立っていた。その確信とは、運命の重たい一撃に打たれて飛び散った火花のようなもので、本人しか理解できない類のものだ。老王は自分の感覚を信じていたし、後ろに控える長年の兵士達は彼を信じていた。
「お待ちしていた」
 老王の影が動き、石人式の一礼をした。ブレイヤールはこれに対し、アークラント式のお辞儀を返す。
「以前の私の煮え切らない決心を利用して、我々白城を見事、策に落とし込んでくださいました。あの拠点はあなたがアークラントの民を逃がすためにあらかじめ築いていたもの。それ以上のものだとは考えもしなかった」
 ブレイヤールは頭を下げたまま静かに囁き、厳しい表情で体を起こす。老王の影が一歩前に出て、星明りに顔半分をさらした。老王は、自分を打った運命が同じように目の前の若者を打ち、彼もまた同じ火花を見たのを知ったのだ。
「私とて、最初はそのつもりでした。しかしハイディーンは我が国の終焉をすら駆け抜け、この城をまっすぐに目指したのです。かつての王として冷徹な言い方だが、アークラントを貫いた雷光は、封じられた希望の殻をも打ち砕いた」
 深い皺が刻む表情は、厳しい一方で穏やかだ。しかしそこには壮絶さが秘められている。
「ハイディーン王率いる第一陣はこの城に。第二陣は石人世界の奥を目指しております。第三陣は森の平原側に陣を張り、守りを固めています。仔細は存じませんが、ハイディーン王の傍には、翠銅石に似た青緑色の髪を持つ魔術師が仕えている。石人のように見受けられます」
 その言葉にブレイヤールは眉をひそめる。
「……その魔術師の存在は、いつからご存じだったのですか。本当に仔細をご存じないなら、ハイディーンがアークラント獲得ではなく、初めからエイナ峡谷を狙っていたと予測できるはずがありません 」
「それはあなたにも同じことが言えるでしょう。境界の森に初めて足を踏み入れたとき、私は拒まれているのではなく誘われているように感じました。私には石人の神殿や城のことは分かりかねますが、あなたは確かに人間を見くびりすぎました」
 ディクレスは低い声できっぱりと言った。
「石人のことも油断されないよう」
 ブレイヤールはとりあえずも言い返す。しかしすぐに視線を外し、小さくつぶやいた。
「我々はさらに大きな策の中に捕えられようとしているのかもしれません」
「ならば今しばらく捕えられておきましょう。我々を捉える網は、お思いになっているほど大きくはないかもしれません」
 ディクレスはこともなげに答える。ブレイヤールは何も言えなかった。ディクレスは、自分には見えない先のことを見ている気がした。
 彼が黙っているうちに、ディクレスは最後の言葉をつづける。
「我々はハイディーンの二陣を追います。あの者達を止めるのは、我々の使命だ」
「それでは……」
 ブレイヤールは重たい気持ちで口を開く。
「私はこの城に侵入した第一陣とハイディーン王に対峙し、人間に堺の森を越えさせた償いをすることにいたします」
 二人は再び礼を交わす。ディクレスは控える兵士らを連れて柱廊を後にしはじめる。ブレイヤールは彼らをその場に佇んだまま見送り、最後の一人が柱廊から姿を消すと、踵を返した。
「あの兵士連中、ディクレス殿より年が多い者もいたかもしれません」
 グルザリオが背後で呟いた。ブレイヤールは厚手の白いマントを体に巻きつける。夜気が石の城をよけいに冷やしている。
「キゲイの話だと、老人と少年しか連れてこなかったらしい。少年達は他のアークラント国民と一緒に、平原のどこかに隠したのかもしれない。地読みの民がいれば造作ないだろう」
 しばらく歩くと、柱廊の上階に待機していたルガデルロ達が合流してくる。
「いったいどこに本当の敵がいるのか、分からなくなってきた」
 ブレイヤールは足早に帰り道を急ぎながら、弱音を漏らす。
「クラムアネスに通じていた神官は、本当に九竜神官様達なんだろうか。ハイディーン王の傍にいる魔法使いが石人なら、そいつはいったい何が目的なんだ」
「クラムアネスの話はどこまで本当なのか。そもそもあの女自体、信用できゃしませんし……」
 グルザリオが歯切れ悪く口ごもる。ブレイヤールが立ち止ると、グルザリオとルガデルロも立ち止り、顔を見合わせた。
「ブレイヤール様」
 大臣の目が、薄闇を隔ててきらりと光る。
「悪人同士でもだまし合うことがあります。クラムアネスも騙されて、相手を神官だと思い込んでおっただけやもしれませぬ。いずれにせよ、今はこんなことに気を取られている場合ではございませんぞ」
「なるほど。大臣もディクレス殿と同意見ってわけか。それって、年の功?」
 ブレイヤールは身をひるがえして再び歩きはじめる。
 七百年もの時が廻り、石人達の世界に再び人間が足を踏み入れようとしている。レイゼルトが初めて白城に姿を現したときから、まるで時が鏡に跳ね返されたように、役者こそ違えど、すべてが七百年前と逆の順序で動いていた。かつてはレイゼルトが倒されてすべてが終わった。今は彼が不気味に姿を消したところから、すべてが始まりつつある。
――最後には、石人と人間の間に戦が起きるんじゃないか。そうならなきゃいいが。そうならないようにしなければ。

 翌日は小雨がぱらついていた。境の森には霧が立ち、荒野は雨に色濃く染まっている。この雨は土の下で冬を耐えた草花を目覚めさせる春の呼び手だ。ハイディーンは春の歩みとともにアークラントを抜けて、白城まで駆けてきた。
 彼らは魔法の宝を探しに来たアークラントの人々同様、日の出とともに城の探索を始めている。ディクレス達がそうしたように、彼らもまた未知の種族の文化に一定の敬意を払いながら、しかし容赦なく城のあらゆる扉をこじ開け、城をずいぶん風通しの良い場所にしてしまった。宝を探しているようにも見えれば、城主を挑発しておびき出そうとしているようにも見える。
 ブレイヤールは手窓からそれを知ると、あとは黙々と身支度に取り掛かった。昨晩は武具らしいものを一切身に着けなかったが、今度はグルザリオから手渡された剣を腰に下げる。金糸銀糸の見事な刺繍で飾られた白帯には、銀の短い杖をさす。
「殿下」
 グルザリオがブレイヤールに人差し指を向けようとしたが、隣に立った大臣がその指をばしっと下にはたく。やむなくグルザリオは自分の右頬に指を当てて示して見せる。
「陛下、右頬のあざは魔法で隠してください。左の擦り傷はもうだいぶ良くなりましたが……。正装しても顔がそれじゃ、決まりません」
「分かった」
 ブレイヤールは頷いて言われたとおりにする。
 ルガデルロとグルザリオをはじめ、年老いた昔ながらの家臣達は、ブレイヤールの身支度を不安げに見守っていた。どんなに心配でも、彼らは白王とともに敵の面前へ出ていくことはできない。足手まといになるからと、ブレイヤールがきっぱり断っていたからだ。
「ブレイヤール様、彼らの頭へ天井を落とせば全てが一瞬で終わります。かつてはそれが、城を使った石人の戦い方でございました」
 ルガデルロがぽつりと暗い声でもらした言葉に、ブレイヤールは首を振った。
「人間相手にそんなことはしちゃいけない。それに、ハイディーンはアークラントの敵だが、白城にとってはただの侵入者だ。敵じゃない。皆は大樹の広間で待っていてくれ。必ずそこにハイディーン兵達を連れて行くから」
彼は食べ物が入った小さな包みを受け取り、いつもの食堂から足早に出て行く。
 下層に下りたブレイヤールの目に、石壁に刻まれた見慣れない文字が留まった。摩耗の具合から文字の新旧は分かる。白城に侵入した盗賊達が道しるべとして、あるいは何かの記念として刻んだ落書きだ。それらを横断して描かれた真新しい文字は、まぎれもなくハイディーン兵が道に迷わないようにつけたものだろう。
 ブレイヤールは壁に片手を添えて瞳を閉じる。壁の向こうにある基礎石に意識を飛ばすと、手窓ほどはっきりとした感覚は得られないまでも、付近を探索するハイディーン兵らの気配はよく分かる。
 まもなく、白城下層の都市跡を進む騎兵達は、大通りの向こうから近づいてくる人影を認めた。やや癖のある白い短髪に、白い装束で身を包んだ姿は、この白い古城の主であることを示している。ところが騎兵達には、その石人は生身の王ではなく、この廃墟にかつて栄えた国の、亡霊の王と映った。天にも届く古すぎる建物に挟まれた大通りは、過去の幻影に満ちた水底のようだった。この世のものと思えない美しい遺跡へ、何の前触れもなく現れた高貴な衣装の石人を、そのまま現実と捉えてよいものか、騎兵達は迷っていた。
 ブレイヤールもまた、初めて間近に見るハイディーン兵の姿に感嘆していた。白い小さな円盤をつないだ銀の鎧が、青い影の向こうできらきらと鏡のように輝いている。馬の額にも小さな鏡が飾られ、確かに彼らは天と光の申し子に見えた。騎兵の手に握られた槍や、魔術兵の長い銀杖は、稲妻よりも白い。昨晩見た、戦に疲れきり、傷だらけの黒い革鎧に身を包むアークラント兵とは、何もかも対照的だった。今更のように、ブレイヤールはディクレスがどれほどの敵を相手に国を守り抜いてきたかを知る。彼は騎兵らから距離を置いて立ち止まった。
「七百年前の約束をたがえ、人間達よ、なにゆえ境界石を越えた」
 白王の重々しい問いは、太古の都市に反響する。すぐさま緋色の帯を肩にかけた騎兵が一群の前へと出てくる。
「我らが王は雷神の御子。天統べる雷神の名において、天と等しく地を統べんと参った。石人の世界とて例外ではない。アークラントの残党を追い、この白き城にいざなわれたのは、雷神の導きにほかならぬ」
「境界石を犯した者を罰するは我が役目。速やかに立ち去られるがいい」
 ブレイヤールが答えると、騎兵達は一斉に槍や杖を構えた。緋帯の騎兵が再び声を張り上げる。
「敵をかくまえば、雷神の怒りをかうぞ!」
「この地には、そなた達の神の導きも怒りも届かない。私に傷一つつけることも叶わぬだろう」
 通りに落ちる青い影を裂いて、ブレイヤールの左肩辺りを何かが過ぎ去った。巧みな腕前で放たれた矢だった。矢は石畳に当たって大きく跳ねる。ブレイヤールは身をひるがえしざまに跳ねた矢を宙で受けると、騎兵らに背を向けて大股に歩み出す。
「逃げるか!」
 騎兵の声が追ってくる。ブレイヤールが歩みを止めないとみると、騎兵らもまた馬を進めだした。
――アークラントは国を救うため、力を求めて白城にやって来た。ハイディーンは覇者になる力を得るためにここへ来たということだろうか。どちらも似たようなものだな。
 手にした矢じりを見れば、魔法の文字が押下されている。文字は射手の思い通りの場所に、矢をいざなう力を持っていた。彼に命中しなかったのは、はじめから当てるつもりがなかったからだろう。それでもブレイヤールは肝を冷やした。弓手の姿が見えなかったから、つい油断していたのは確かだった。
 騎兵達は一定の距離を置いて、ブレイヤールの後を追う。彼らは白王の歩みを止めようと矢を放ち、魔法の炎を石畳に走らせる。ところが矢は的に当たる前に矢じりから溶けて燃え、地を這う炎は見えない壁に当たり、虹色の光を放ちながら消える。ブレイヤールが守りとして張った結界のためだった。
 結界を張って歩くだけのブレイヤールの姿に、騎兵達は戦意を削がれ戸惑った。この石人の王は立ち去れと言っただけで、それ以上何をするわけでもない。しかし石人がいかに魔法を得意としていても、これほど敵の数が多ければ、一網打尽とはいかないだろう。加えて騎兵達は、自らの手から放たれる鋭い槍の一突きがどれ程確実で致命的かを知っている。ハイディーン兵達は警戒こそ緩めなかったが、次第にブレイヤールを恐れなくなってきた。この石人の王が歩き疲れた頃に、決着をつけてもいいのだ。
 夕暮れが来ても、ブレイヤールは一定の歩調で歩き続け、騎兵達を城の奥へと導き続ける。騎兵達はつかず離れずの距離を保っていた。彼らは決して油断をしていない印として、時折思い出したように矢や炎を投げつける。そして城内に散らばった仲間に向けて、笛を鳴らした。
 ブレイヤールは立ち止まることができなくなる。体力を温存するために、走ることもできない。背後では、馬の蹄が雨だれのごとく高らかに、休むことなく石畳を打っている。
追跡 夜が来ると、騎兵達は邪精除けの護符を槍の先に取り付け、魔法の陣を組む。ブレイヤールのすぐ後には、さらに数を増した騎兵達が囲うようについていた。彼らは声を合わせ、「言の葉」で止まれ止まれと歌い始める。ブレイヤールは持ってきたパンをかじりつつ、じっと黙って先を急いだ。ここで歩調を乱すのは、すでに命取りに等しい行為になっている。さすがの彼でも、あれだけの騎兵が束になって突撃してくれば、ひとたまりもない。最初に拾った矢はまだ持っていた。最後の最後で、文字通り一矢報いるつもりだった。
 杖の先に明かりを灯し、淡い輝きに包まれて進むハイディーン軍と、その明かりを背に城の暗闇に向かってとぼとぼ先を行く石人の王の姿は、まったくもって奇妙だった。王は城の力でいつでもハイディーン軍を殲滅できた。ハイディーン軍もすばやく突撃すれば、王を槍で串刺しにすることができた。互いに相手の出方を恐れながら、時を待っているのだった。
 追う者も追われる者も、疲れを表に出してはいない。城内は再び穏やかな光に闇を薄め、冷たい風が柱廊を駆け抜けた。夜が明けた。そして時も来た。
「滅びた城の王よ。そろそろ休まれるがよい」
 朗々とした声が背にかけられる。ブレイヤールは振り返らなかったが、その声がハイディーン王のものだと知った。真の王は、他の者とは明らかに異なる響きの声色を持っているものだ。
「口を慎まれよ。ここは私の城であり、すべてにおいて命じるのは私だ」
 ブレイヤールは前を見据えたまま、背後の相手に答える。
「我らは七百年に渡り城を守り続けてきた。この城はそれだけの価値を持つ。あなたがたもとくご覧になられただろう。私は城のもっとも美しく残る場所を歩き、案内さしあげたつもりだ」
 自分の声がどれほど精彩にかけていたかは、疲労のためだけではないだろう。ブレイヤールは唇を噛む。行く先はますます金色の光が強くなる。
 はるか昔に崩れたドーム天井から、陽光が降り注いでいる。天窓を飾っていた翼を持つ幻獣の彫刻は、残された半身を日に染めていた。かつて広間の床一面に敷かれていた大理石は、天へ向かって伸びる老木の根に裂かれ、草陰に散らばっている。老木の枝は広間の天井いっぱいに広がり、崩れたドームの代わりとなっている。風が長い年月をかけて城を崩し、土を運んで作った庭だった。
 ブレイヤールは庭の中央で、ようやく足を止める。両足は鉛のように重く痺れ、体の向きを変えるのさえやっとだった。騎兵達も広間の入り口で追跡を終える。ひときわ立派な装備に身を包んだ壮年の男が、馬上から降りて彼らの先頭に立った。その隣には、白い外套で体を覆う魔法使いの姿がある。フードを深くかぶり顔は見えなかったが、鮮やかな青緑の髪が覗いていた。さらにその後ろには、思いがけず知った顔がある。緑の髪の石人、ニッガナームだ。ブレイヤールは内心総毛立つほどの怒りを覚える。
「同胞に裏切られたとお思いか」
 ブレイヤールのわずかな表情の変化を、ハイディーン王は鋭くとらえた。
「新しきものが古きものを席巻するのは、世の習いだ。アークラントは滅びた。この城はすでに滅びている。なにゆえ石人はこの魔物溢れる忌まわしい世界を頑なに守り、人間を拒む。我々は七百年前に分断された二つの世界を、天と同じく一つにする。亡国の王よ、その若さで城とともに朽ちるおつもりか」
「ここはあなた方が暮らす世とは異なる理によって存在している。そのただ中にいながら、お分かりにならないのか。それともお分かりだからこそ、多くの剣と護符をお持ちになられたのか。どちらも役には立たぬどころか、あなた方の身に災いを呼ぶぞ」
 言葉を言い終えないうち、ブレイヤールの足元に矢が当たって跳ねる。矢じりは一瞬にして赤く燃えて粉々となり、石の床を転々と焦がす。ハイディーン王を守ろうと、騎兵達が王を背に隠し、二本目の矢を弓につがえていた。
 ブレイヤールは居並ぶ騎兵の隙間を狙い、フードの魔術師めがけ、ずっと握りしめていた矢を投げつけた。切羽詰まった悲鳴が上がり、フードの魔術師がよろめく。矢じりが銀の蜘蛛に変わり、細く長い八本の足で頭にがっちりと張りついていた。しかし魔術師の姿は、すぐに騎兵の後ろに見えなくなる。
「門を閉ざせ!」
 ブレイヤールが叫ぶと同時に、広間へ続く通路が砂となって崩れる。同時に、崩れ残った天井の幻獣もまた、砂と溶けて広間に降り注ぐ。逃げ口をふさがれた騎兵達は、ブレイヤールめがけて馬を駆ろうと手綱をまわす。
 踵を返した騎兵達の後ろから、一羽の小鳥が飛び立った。ブレイヤールはすっと息を吸う。
「その鳥を逃がすな!」
 ところがそう叫んだのは、ブレイヤールではなくハイディーン王だった。彼は逃げ出す石人が、自分達を裏切ったと思ったのだ。ブレイヤールに向けられていたすべての弓が一斉に向きを変え、最初の一矢が見事に小鳥を射抜く。
 ブレイヤールはすぐさま視線を戻した。ニッガナームの姿がない。代わりに小さな青緑のトンボが飛び立つ。同時に広間の壁が砂と崩れ、騎兵達を頭から飲み込んだ。馬も人も地面に倒れ、砂の中でもがく。あわや砂に押しつぶされようというとき、ブレイヤールは杖を掲げた。砂は水に変わり、広間に流れる。砂のように重く固い水は、騎兵達の足元を右に左にともてあそぶ。
 ハイディーン王は徐々に水位を上げる水の中に立ちつくし、目の前の光景を見守るしかなかった。水はついに肩まで達し、剣を引き抜くことも弓を射ることも叶わない。
 慣れた動作で大木を登り始めた白王の姿が流れ落ちる砂の向こうに薄れ、広間に影が落ちる。空を覆わんばかりに巨大な純白の翼が、船の帆のように広がっていく。広間の上階に姿を現した白城の石人達が、誇らしげな歓声を上げた。

十七章 石人の王座

 トエトリアは私室から出ることを、今までにないほど固く禁じられてしまった。部屋の外には近衛騎士らと王衛士が控えていたし、部屋の中には侍女達がいて、彼女をしっかり見張っている。今朝起きたときは、侍従長から今日のご予定をずらずらと聞かされた。それが朝食後にはすべて取り消され、いつになく厳しい顔つきの近衛隊長に手を引かれて、部屋に閉じ込められたのだ。
「いったいどうしたの。もしかして、魔物が城の中に入り込んでしまったの?」
 いくら堅牢な石人の城でも、時折大きな魔物が城壁を飛び越えたりして入ってくることはある。けれどもそういった魔物は、兵士達と神官によって、すぐに城から「お祓い」される。魔物をできる限り傷つけず、城の遠くまで追い出すのだ。
 トエトリアは内心ひどく落ち込んでいた。ついこの間も、ブレイヤールが人さらいにあって、危うく死ぬところだった。もし自分が王として王座についていれば、城の中で誰かを危険にさらすことはなかっただろう。魔物だって、王のいる城には怖がって近づかないものだ。
 早く大人になって王位に就きたい。そう思うたびに、彼女はじっとしていられなくなって、城を飛び出してきた。家来の話だけではなく、自分の目で人々の暮らしを見、城を取り巻く山々の峰を歩き、魔法の生き物達がどれくらい危険なのか確かめてみたかったからだ。
「王女様、何も心配はいりませんよ。またいつものように、兵士の皆さんが追い払ってくれますから」
 侍女達はこう答えたが、トエトリアは納得できない。いくら魔物が来たからといって、こんなふうに自分を部屋に閉じ込めるなど、いつものことではない。いつもとは違う敵が城にきたのだと、彼女は考える。
「もしかして、レイゼルトが来たの?」
 尋ねてみると、侍女達は震え上がった。一番年かさの侍女が前に出て、トエトリアと視線を合わせる。
「その名前をこの城で口にしてはいけません。王女様のご先祖は、あの禁呪使いを倒すために犠牲になられたのですから」
「じゃあ、なんで私はここに閉じ込められてなきゃいけないの?」
 トエトリアは頬をふくらます。侍女も嘘を言うわけにはいかなかったのだろう。しぶしぶ、人間が蜂のようにたくさん来ていると言った。
「馬も人と同じくらいいて、ぶんぶん鼻を鳴らして、それはもうひどい騒ぎです」
「人間が? どうして?」
「分かりません。きっと、白城の宝だけでは足りなくなって、この城までやって来たのでしょう」
「ブレイヤールは無事かしら」
「ご無事ですとも。白城はいくらでも隠れるところがございますし、ブレイヤール様は魔術に長けていらっしゃいます。晩までにはこの城も静かになっているでしょう。さあ、お勉強の時間ですよ」
 別の侍女が横から算術の本を差し出す。トエトリアは言われた通り、机の上に計算用の半貴石のおはじきをばら撒いた。丸く平べったい石は、色とりどりの影を落として机上に散らばる。
 彼女の一番のお気に入りは、やはりあの小さな虫が閉じ込められた琥珀のおはじきだった。指でつまんで、テラスから注ぐ銀色の陽光にかざしてみる。四枚の透明な羽も、斑紋の浮かんだ細長い胴も長い針状の尾も、黄緑色に包まれている。針のように細い四本の脚は、凍りついた樹液の中でぴくりともしない。
――このおはじきだけ、目がある。羽根がある。脚がある。知恵もある。おばあ様もお母様も、これで勉強したんだもの。私の代わりに、人間の様子を見に行ってくれないかな。
 トエトリアは小さくくしゃみをした。おはじきが指先から滑り落ちて、膝に、そして石床にこつんとあたる音がした。彼女は椅子を降りて机の下に潜り込む。小さなおはじきが侍女達の足元を縫い、大きな弧を描きながら転がっていくのが見えた。
 おはじきは机の向かいにある、造り付けの本棚の下段に当たって跳ねる。そして本の隙間に飛び込んで見えなくなってしまった。
「いいわ。私がとるから」
 トエトリアは侍女達をとどめ、本棚の前にしゃがむ。下段には古い魔術の本が並んでいた。ほとんどが彼女の祖母が使っていたもので、祖母自身の注釈で埋め尽くされていることも知っている。彼女は一冊を抜き取り、棚を探る。指先に軽いものが当たったが、奥へ押し込んでしまった。さらに一冊を抜き取り、もう一度棚の奥に片腕を突っ込む。羽の唸る音が聞こえ、彼女の指先をくすぐった。
 トエトリアは驚いて、棚の奥を覗きこむ。本に挟まれて向こうに見えるのは、白い粒が無数に輝く夜空のようなものだった。小さな星々はゆっくりと上に向かって立ち昇っている。すぐ手前には、地平線に顔を出した若い月のように、転がり込んだおはじきがぽつんとあった。トエトリアは本棚の向こうの星空へ腕を伸ばす。
――これ、基礎石じゃないのかな。こんなところに、むき出しのままであったっけ。
 肩まで奥に突っ込んでも、手のひらに壁の感触はない。とうとうトエトリアは頭から本棚の奥に突っ込み、奥へ行ってしまった。
 慌てたのは侍女達だ。トエトリアの足首を掴んで引き戻そうとする前に、王女の体がすとんと奥に消えた。侍女が本棚を覗き込むと、奥には星空のような基礎石しかない。手を伸ばせば、すぐに基礎石の独特な感触が返ってくる。
「あなた達、いったい何をしているの!」
 部屋の騒ぎを聞きつけ、侍従長が駆けつける。侍女達はおろおろと振り返った。
「姫様が、この奥に落ちてしまわれたんです!」
 侍従長のすぐ後ろにいた近衛隊長が、侍女の指差す本棚を覗いた。
「このような所に手窓があったのですか」
「ありました。ありましたけど、手窓は壁です! すり抜けて基礎石の向こうに落ちてしまわれるなんて、いままで聞いたことなどございません!」
 度を失いおろおろとするばかりの侍従長達に対し、近衛隊長はずっと冷静に部下達へ指示を出す。
「この直下にある手窓全てを調べ、奥に王女様の姿がないか確認せよ」
 兵士達が部屋を去ると、近衛隊長は王衛のシェドとともに本棚の上段の棚を取り外していく。黙々と作業をする二人の前に現れたのは、本棚の枠いっぱいに広がる基礎石の夜空だ。
「窓にカーテンを。部屋を暗くして」
 近衛隊長の命令に、侍女達があわあわと動く。シェドはその隣で守護の剣をさやから抜き、基礎石の壁に突き立てた。
「王衛殿、無益です」
 近衛隊長は言葉で制止する。しかしシェドは剣の切っ先をわずかに石に突き立てたまま、じっと動かない。
 部屋が暗くなると、星を無数に浮かべる基礎石の窓が四角く浮かび上がった。剣もまた青白い輝きをほのかにまとって、基礎石の表をわずかに染める。そのおぼろな輝きは、石の表から徐々に内部へと染み込んだ。光の色は淡い草色に変わり、細く輝く線となって下りの螺旋を描きながら下へと延びていく。
「石の中に、道がある……」
 近衛隊長は低い声で呟いた。シェドは頷く。
「この道を生身で通れたのは、初代の王達だけでした。まさか王女様にもそれが出来るとは」
 彼は顔をゆがめ、それ以上何も言わず、剣を納めながら足早に部屋から立ち去る。近衛隊長は基礎石の前で、侍従長と顔を見合わせる。剣の光が消えた基礎石の中は、星が立ち昇る無限の夜空に戻っていた。

 上階の騒ぎは、トエトリアの耳には全く届いてこなかった。石の中は恐ろしく静かで、自分自身の鼓動すら聞こえない。薄闇の中、自分が下へ下へと落ちているのは、髪や服が上になびく感覚から分かった。両腕をかけば、袖を通して肌に水の流れのような抵抗を感じる。まるで川の中で泳ぐ感覚だが、体の周りを満たしているものは水よりも頼りない。どんなに必死に泳いでも、ゆっくりと下に落ち続けるばかりだ。時折四角く切り取られた小さな明かりが下から上へ過ぎ去る。あれはきっと、城内に設けられた手窓からの明かりだ。
――どこかで外に出なきゃ。このままだと城の一番下まで落ちちゃうよ。
 ところが光の方向へ泳ごうとしても体の落下に間に合わず、出口となる手窓を上へと見送ることになってしまう。悪夢の中のように、どんなにあがいても焦りが募るばかりで遅々として進まない。体は疲労でだんだん動かなくなってくる。手や足の指もジンジンと痛み出す。彼女は琥珀の中の虫を思い出した。
――あの虫は、私のお願いを聞き入れてくれたのかもね。部屋からこうして出してくれたもの。でも、方法をもう少し考えて欲しかったなぁ。
 幸いと、もがいているうちにだんだん泳ぐコツが見えてくる。そうなると、指の痛みも気にならなくなる。トエトリアは遥か下に見えた手窓の光にめがけ、そろえた両足で、水よりも頼りない基礎石の中身を打つ。何度も失敗しながら、ついに一つの手窓の枠に指をかけると、彼女は出口を塞ぐ化粧石に意識を集中させた。
 手窓を囲う化粧石が崩れ、彼女は基礎石の中から床の上に転がり出る。崩れた石で膝や腰を強く打ちつけながらも、彼女はすぐさま周りをうかがった。人の姿はない。遠くから、荒々しい喧噪が彼女の耳を打っていた。廊下の装飾を見れば、自分が中層下部に来たことが分かる。人間のことを思い出し、彼女はびりびりと胸の奥が緊張するのを感じる。
 立ち上がろうとして、彼女はひどい眩暈に振り回された。頭を押さえ、壁越しに肩を支える。今まで基礎石の中にいたせいだろうか。自分の体と意識が、ちぐはぐになっていた。用心してゆっくり歩かないと、頭のてっぺんから水みたいに心が零れ落ちそうだ。
 それから彼女は、ついさっきまで、自分がずっと息を止めていたことにも気が付いた。口を開けてすっと息を吸うと、いっぺんに体が軽くなった。眩暈もおさまる。はっきりした意識に、焦げ臭い嫌な匂いが鼻の奥をかすめた。
――火事だ。誰が火をつけたんだろう。
 慌ただしい足音が頭の上を右から左へ駆け抜けていく。トエトリアは廊下の窓へにじり寄った。すぐ上階を兵士の一群が通って行ったのだ。じっと窓の外へ耳を澄ますと、一度通り過ぎた足音が、別の場所から聞こえてくる。重たい足音と一緒にガシャガシャとけたたましい金属音が鳴るのは、軽装であるはずの石人の兵士からは考えられない。トエトリアの背筋に、冷たい緊張が走る。
 足音の主達が怒鳴る声を聞いた。その言葉は石人語ではない。「言の葉」でもない。おまけに足音はすぐ近くに来ていた。階段を駆け下りている。
――人間しかいない。どうしよう……。町の人や、城の兵士達は無事なのかな。
 自分の体を探ってみても、武器になりそうなものは一つも見当たらない。彼女は腰飾りを外して左手に巻きつける。銀の細い棒をつなげただけの鎖だが、ないよりましだ。
「誰だ!」
 鋭い男の声が彼女を一瞬射すくめる。彼女の視線の先へ、廊下の角から白銀の鎧姿が八つ現れたのだ。言葉は「言の葉」だった。相手はトエトリアを見ても、油断した様子は少しも見せない。鋭い剣の先をこちらに向けて、彼らは立ち止まった。
「動くな。そこにいろ」
 一人が油断なく剣を構え、トエトリアの方へ歩み寄る。
「いやよ。私、捕まりたくないの」
 トエトリアは困って叫び返した。すると廊下の角で待っている七人の兵隊は、どっと笑った。彼女を捕まえようとしていた一人の兵士は、ここぞとばかりに足を速める。トエトリアは慌てて立ち上がり、銀の鎖を巻いた左腕を突き出した。
 その瞬間、兵士達の笑い声はぴたりとやんだ。彼女に向かっていた兵士もすばやく足を止める。相手が石人の子どもといえど、彼らはトエトリアが魔法を使うと思い、怖がったのだ。真顔でこちらを鋭く見つめる八人の大人の姿に、トエトリアも怯えた。何か考えがあって突き出したわけではない。しかし、ここでもし腕を下してしまえば、銀色の兵士達はその隙を逃さず本気で斬りかかってくるかもしれない。彼らは魔法使いを恐れているのだ。
 トエトリアはじりじりと壁際に動き、右腕を後ろ手に基礎石へ触れた。手のひらに平らで滑らかな感触が当たる。水より軽く、風より重かったはずの基礎石は、強情なまでに固い、ただの石壁に戻っていた。どうすれば再び基礎石の中へ戻れるのだろう。
 立ち止まっていた兵士達が、不意に動いた。彼女は最初の兵士の手を危うく潜り抜ける。ところが逃げ出そうと引いた片足を、兵士に捕まれてしまった。あっという間に彼女は片足でぶら下げられてしまう。自分の長い髪の先が、床を掃くのが見えた。彼女の背中で兵士達の怒鳴り声が聞こえる。何を言っているのか分からない。トエトリアは鎖を巻いた左手と右手を胸の前でギュッと合わせた。魔法を使えば、彼女を捕まえている兵士にちょっとした火傷を負わせられる。しかしそんなささやかな魔法では、彼らから逃げることなど到底無理だ。
 次の瞬間、彼女は乱暴に床の上へ投げ出された。兵士達の怒号が廊下にこだまする。トエトリアは痛みを堪え、床から頭を起こす。白銀の兵士達のほかに、黒い鎧の兵士の姿がいくつか見えた。いくつもの鞘走りの音が耳をくすぐった。
 黒い兵士達の姿を見て、トエトリアは彼らもまた人間だと知る。ところが同じ人間同士なのに、黒い兵士達と白銀の兵士達は剣を交えていた。白銀の兵士が、最初によろめいて床に倒れる。
 一流の騎士達に守られて暮らす彼女には、彼らの練度がよく分かる。黒い兵士達の方が、より熟練された身のこなしと迷いのない意志を持っていた。一方で、身につけている装備は明らかに白銀の兵士達のものの方がよい。しかし白銀の兵士達は、突然襲撃を受けた上、相手の気迫に戦意を飲まれて戸惑っていた。
 トエトリアは床に倒れたまま、目の前の死闘から目を逸らせなかった。彼女もまた、黒い兵士達が発する気迫に圧倒されていた。それは怨念といっていいほどに強く心の奥底から発せられ、正義や大義の衣すら匂わせない丸裸で透明な、誇り高いものに思われた。
「怪我はないか、仲間はどこだ」
 放心していたトエトリアに、低い声がかけられる。彼女は稲妻に打たれたように体を震わせ、鋭く振り向いた。黒い鎧の兵士が一人、彼女の傍に屈んでいる。壮年過ぎの老兵士だ。背は高く、その顔つきには驚くほど力が溢れている。
「敵が来る。いつまでもここにいるわけにはいかん」
 兵士はそう言ってトエトリアの返事も待たず、彼女をひょいと背中におぶう。かと思うと目にもとまらぬ速さで廊下の先へと走り出した。まだ味方が白銀の兵士達と戦っているというのに、彼は一度も振り返らない。
 黒い鎧の兵士は階段を上りはじめる。途中、白銀の兵士達が立ちはだかった。しかし黒い兵士は剣一本で全ての攻撃を見事に流し、彼らをまとめて階段の下へ蹴り落としてしまう。
 トエトリアは黒い兵士の背中に必死にへばりつきながら、不安を募らせた。白銀の兵士達が城のいたるところまで侵入している。城民はどこへ逃げているのだろう。黄緑の城の兵士達はみんな倒されてしまったのだろうか。人間だらけで、石人の姿がどこにもないのだ。
 階段を上りきると町の通りに出た。あちこちに火事が起き、濃い霧のように煙が立ち込めている。銀色の鎧姿が煙の間にいくつも行き交っていた。黒い兵士は立ち込める煙に身を隠し、近くの建物からさらに登り階段を見つけて駆け上がる。煤煙と長い階段のせいで、息はとても苦しそうになっていた。
 通りが火事になっていたのは、石人が人間を足止めしようと火をつけたのかもしれない。だとすれば、皆はもっと上の方へ避難しているのだろうか。それにこの黒い兵士は、白銀の兵士達の群れを潜り抜け、たった一人でこんなところまで来て、大丈夫なのだろうか。トエトリアは黒い兵士の肩を叩き、兜の耳元で声を上げた。
「ありがとう。私、ここから自分で歩ける。あなたはこれ以上登らないほうがいいわ」
「そうか。それは心強い」
 黒い兵士はそう言って階段を登り切り、トエトリアを床に降ろす。彼女は小さく悲鳴を上げた。上階の街も火の手があり、白銀の鎧を着た兵士達がいたのだ。彼らも突然現れた黒い鎧の兵士に驚いていた。黒い兵士はトエトリアの肩に手を添えたまま、彼らに威厳のある声で問いただした。
「この石人の子に手出しをせず、後も追わぬと誓えるか」
 白銀の兵士達の中から、一人、立派な鎧とマントを身に着けた騎士が答える。
「誓おう。子どもを斬るのは我らの道理ではない。それにしても、我らが打ち倒したばかりの亡国の兵と、異人の城で再会するとはな」
 白銀の騎士は腕を上げて、脇の細い通りを指さした。通りの突き当りには石造りのアーチがあり、町の外に広がる褪せた緑色の斜面が覗いている。短い草地の上を冷たい風が吹きおろし、いつもと変わらない風景は、通りの惨状とは別世界だ。
「小娘は行け。ただしお前は剣を捨てなければならない。国を失ったときに、そうすべきだったのだ」
 白銀の騎士が言う。黒い兵士は言われたとおり、手にした剣を床に置こうと上体を傾ける。トエトリアはすばやくその腕にすがった。そして兵士の顔を見上げ、金色の瞳を相手の瞳にしっかりと据える。
「なに、捕まるだけだ。同じ人間同士だから、心配はない」
「石人に見つかったら、どっちも危ないよ! 皆には白銀の鎧も黒い鎧も関係ないもの!」
「そのときはお互い協力して逃げるだろう。私達はあの者達を迎えに来たのだ」
 落ち着いた柔らかな物言いに、トエトリアはおずおずと腕を離した。黒い兵士は剣を置いて体を起こす。白銀の騎士がそばまで来ていた。騎士は剣を拾い上げ、怪訝な様子で黒い兵士の顔をじろじろと眺める。それから騎士はトエトリアに向かって、通りの先をぐいと指差した。
「早く行け。魔術兵達が戻れば、厄介なことになる」
 黒い兵士も無言で頷いて見せる。トエトリアはとうとう駆けだした。黒い兵士の身の上が心配でたまらなく、後ろを振り返りたかったが、できなかった。彼女は石人だった。一刻も早く人間達の元を逃れ、仲間の元へ戻らなければならないのだ。

 城民達の避難が遅れたのは、致命的だった。ありえないことに、人間達は石人の城をよく心得ていた。彼らは城民を脅すだけで決して捕えようとはしなかった。かわりに城民の逃げる方向から城の主要な施設を見つけ出し、そこへとんでもない数の兵力をぶつけて制圧したのだ。人間の兵士達にとって幸いなのは、黄緑の城に王が不在だったことである。それもまた石人からすれば、最大の弱点を突かれてしまったことになる。
 実際人間の侵攻は、中層下部にとどまっていた。にもかかわらず、黄緑の兵達は最初の混乱から立ち直れなかった。個々に戦いを仕掛けては人間の巧みな用兵に翻弄され、捕まったり敗走させられたりしている。それはさらなる焦りを生んでいた。黄緑の兵達は兵力を分断され、上層の指示からも完全に孤立していた。
「下層は混乱の極みだ。王座が使えぬのが、あまりに口惜しい」
 城の最上層に位置する王座の間で、黄緑の騎士団長が歯ぎしりをする。下層からの情報が途絶え、城民や兵士達が無事なのかどうなのかも分からない。届く知らせは断片的で、しかも城の外周部の状況にとどまっていた。
「王女様の行方も分からないでは、この城はどうなるのか……」
 右大臣もうなだれる。それから彼ははっと顔を上げた。
「王位第二継承者のルイクーム様に座っていただくのはいかがか。あのお方は優秀な魔法使いでもいらっしゃる」
 その言葉に左大臣が鋭く反応し、右大臣をねめつけた。
「王座に座れるのは、王かその位を継ぐ者だけです。そのような不吉なことはできません」
「では人間どもを好きなようにのさばらせておくのですか! 下層の外周部は完全に敵の手に落ち、中層の外周部も時間の問題となっているのですぞ」
「城の力を使わずとも、人間などどうにかなります」
「どうにもなっていないではないですか!」
「お二人とも、おやめください。言い争っている場合ではございません」
 黄緑の騎士団長が、にらみ合う左右の大臣の間に割って入る。話は一向に進展がなかった。左大臣は王座を守るようにして、一同の前に立ちはだかっている。
「白城からの連絡はまだ途絶えたままか」
 一向に進まない議論の間を縫って、王室騎士団長が部下に尋ねる。
「最初の一報以降、何も。こちらから使いを二人出しましたが、一人は敵に射落とされてしまいました。もう一人も捕まっていなければよいのですが」
 広間は再び居心地の悪い沈黙に包まれる。誰ともなく深いため息をついたときだった。
「皆様! 外を! 白殿下が参られた!」
白王 王宮騎士が中庭に面したバルコニーで怒鳴る。王座の間にいた石人達は、ひとかたまりになって庭へと飛び出した。
 空中庭園から眼下に、純白の巨大な帆が揺らいだ。星の神殿の大天蓋にも匹敵しようかというそれは、帆の上に霞を乗せている。帆の正体は蝶に似た羽で、純白の柔らかく細い繊毛に覆われていた。羽を包む霞は、黄緑の城を囲む山々からさらわれた雲だ。
 蛾を思わせる姿だった。横に広げた四枚の羽が、中層に広がる牧草地の斜面をすっぽりと覆っている。羽と同じく純白の羽毛に覆われた体には、胸から両の横腹に漆黒の斑点模様がある。小さな頭部は虫よりもげっ歯類を思わせる獣に似て、長い飾り毛に覆われた触覚とも耳ともつかないものが額の両脇に立っていた。淡褐色をした二つの瞳の両脇には、小さな赤い球が飾りのようについている。それは昆虫の複眼を思わせる、六角形の網目を淡く浮かせていた。
 下層や中層間近にいた人間達には、この昆虫とも動物ともつかない恐ろしい姿がありありと見て取れた。彼らは見たこともない怪物の姿とその巨大さに怯え、狂ったように矢や魔術の炎や稲妻を射かけている。
 白い蛾は細い前脚を中層の塔にかけ、上によじ登ろうとしていた。体と羽が大きすぎて、王城まで飛んでいくのが難しいのだ。魔術の炎は腹部を覆うやわらかな毛の間で消えていたが、矢は無防備な背や下腹へ針山のように次々と刺さっていく。
「危ない! 下がれ!」
 ようやく白王の前脚が王城の庭園のふちにかかる。王室騎士団長は大臣達を後ろに追い出し、部下達を呼びつける。庭園に半身を現した白王の頭から、次々と騎士達がよじ登る。彼らは白王の体に刺さった矢を抜き始めた。白王が大きすぎる体を庭園に引き上げると、傷口から落ちた灰色の体液が柔らかな下草を濡らした。
「すべて抜きました。もう大丈夫です!」
 最後の騎士が白王の体から滑るように飛び降りる。その声とともに巨大な蛾の姿は薄れ、白いマントに身を包んだブレイヤールの姿が四つんばいで現れた。彼はよろよろと立ちあがり、真っ先に駆けつけた王室騎士団長に顔を向けた。
「大丈夫です。矢傷の痕がチクチクするだけ。幻獣の姿で流した灰色の血は、洗い流してください。弱いですが、毒があります」
「心配いたしました。手当ての用意をいたしましょう」
 王室騎士団長と入れ違いに、左右の大臣がブレイヤールを王座の間へ迎え入れる。椅子が用意され、ひとまずも彼はそこへ腰を落ち着けた。顔色はさほど良くもなく、ひどく疲れきった様子で目の下には薄く隈ができている。矢傷の跡は赤い小さな斑点となって首筋や手の甲を覆っていた。
「白城を襲った人間達は、あらかた追い返しました。しかしあまりに数が多すぎ、我が城の者達だけではすべて追い出すことはできません。黄緑の城の力添えをいただきに、参ったのですが」
 ブレイヤールは左大臣を見上げる。左大臣が答える前に、右大臣が怒った。
「追い返したですと! なぜ殺さなかったのです。白城で人間どもに我らの恐ろしさを知らしめれば、この城もここまで荒らされることなどなかったはずだ! このまま連中が増長すれば、さらに恐ろしいことが起こるかもしれませんぞ」
「安易な殺戮も、良くない結果を招くだけかもしれません」
 ブレイヤールは頑なに答える。黄緑の城で起こった惨状は、すでに目の当たりにしていた。王のいない石人の城がどれほど脆いか、そして王がいる城はどれほど強固なのか、彼は白城で十分に学んでいる。それだけに、彼は右大臣の言葉を素直に認められなかった。
「トエトリアは部屋ですか」
「信じていただけないかもしれませぬが、基礎石の中に落ちてしまわれました」
 左大臣が答えた。彼女はトエトリアがいなくなった経緯を話し、城の状況を伝える。ブレイヤールはその話を途中で遮ることなく、訝しがることもなく、淡々と最後まで聞き下した。左大臣の報告が終わると、彼はまっすぐに黄緑の王座を見つめ、決然と立ち上がる。
「王座を使わせていただきたい」
 短い言葉に、その場にいた黄緑の城の者達は耳を疑った。他国の王を王座に座らせるなど、石人の長い歴史の中で一度もなかった。それどころか、ブレイヤールは白城でも王座に座ったことすらない。左大臣は思わず王座の前に立ちはだかる。ブレイヤールは静かな目を彼女に向けた。
「トエトリア王女を見つけるのも、この城を救うのも、城の力を王座から使わねば犠牲が増えるだけです」
「おっしゃる通りです。しかし、他城の王がこの王座より城の力に触れるは、あまりに危険でございます」
「私はまだ白城での即位式を行っておりません。一魔法使いとして、また王座に触れるに見合った身分にある者として、今はこの城に仕えさせていただきたいのです。かつてこちらに座された亡き先代の女王様の御霊もまた、実の一人娘であるトエトリアを助けるため、きっとお力を貸してくださるはずです」
 左大臣は何も言い返さなかった。彼女はのろのろと道を開けた。淡緑色の石肌に、若葉の蔦と神魚の遊泳を掘り込んだ王座があらわになる。ブレイヤールは後ろの大臣らを振り返る。大臣達も他に打つ手を持たない。誰もそれ以上白王を止めることはできなかった。左大臣が無言の許可のしるしとして、王座の隣に控える。ブレイヤールは白いマントを肩から外し、床に落とす。白王は王座に向かい合う。彼は空の王座に深く一礼をした。そして王座に向かって踏み出す。
 すべての廷臣達は、そっと顔を伏せた。黄緑の国の王座が、他国の王によってその色を汚されるのを見たくなかったのだ。彼らはずっと頭を垂れ、あるいは庭園の向こうにたなびく幾筋もの黒煙に横目を向けていた。ここまで煙が届くということは、中層にまで敵の手が及びつつあることを示している。
 白王は一言も発さず、王座の間は張りつめた緊張で静かに満たされていた。
 最初に顔を上げたのは、誰とも分からない。確かなのは、白王一人だけが最後まで、王座に向かってじっと頭を垂れていたことだ。
 白王は王座に腰を下ろしてはいなかった。王座に向かいあって前かがみになり、肘掛けに両手を乗せて背もたれに頭をつけていた。彼もまた、他国の王座を乱すことはしたくなかったのだ。
 ブレイヤールは魔力で呼んだ深い闇の中へ入っていった。長い間王座はただの冷たい石だった。やがて彼は、まぶたの裏にぽつんと小さな淡色の点を見る。その点は見る間に大きくなり、一人のほっそりした女王の姿になった。とはいえ、彼にはその王はとても大きく見えた。身にまとった衣装は黄緑の王族のものだ。長い黄緑色の髪が両肩を覆い、若草色の瞳には厳しい王の威厳を湛えている。漆黒の空間に彼女は立ち、純白の頬は凍りついて動かない。
――おばさ……、じゃなくて、先代女王様。
 ブレイヤールは女王を見上げながら、遠い記憶を呼び起こす。小さかったトエトリアは、母親の顔を覚えていないかもしれない。彼はまだよく覚えていた。若くして病に倒れた女王は、彼の記憶の中よりもさらに若く見えた。衣装の様子からすると、この姿は王の即位式当時のものかもしれない。
 先代女王は、まったく感情の読み取れない冷たい瞳でブレイヤールを見つめていた。彼は、自分がいつの間にかひざまずいていることに気が付く。そして自分の背後には、王座に向かい合っている彼自身の気配を感じていた。まぶたの裏に見えるこの世界は、夢と現の境界にあるのかもしれない。
 女王が背を向け、暗闇の奥へ歩み出す。ブレイヤールは立ち上がり、後を追った。辺りは闇一色で、踏みしめる床も靴音を返しはしない。それでもなんとなく、自分が坂を降りているのが分かる。歩いているはずなのに、両の掌にはざらついた王座の肘掛けの感触があり、王座の背につけた額は冷たい。自分の肉体が王座のすぐそばにありながら、もう一人の自分は別のところへ向かおうとしている。ちぐはぐな感覚は、集中を緩めると激しい眩暈に変わる。しかしそれはこの暗闇の世界において眩暈などではなく、心を迷い揺さぶる狂気に等しい。
 先を歩く女王の両側にいくつもの人影が見えてくる。ブレイヤールは震えた。人影はすべて、かつてこの国を治めた王達の姿だった。動かない体が道の両側に、暗闇からぶら下げられたように並んでいる。皆が陰気に顔を伏せ、それぞれの色の瞳が暗闇でほのかに光を放っている。その姿はほとんどがまだ若い。すべて即位式当時の姿なのだろう。
 ブレイヤールは先代の背を、すがりつくように目で追いながら、王達の回廊を歩む。進むにつれて、彼らの衣装は古い時代の装束に変わっていく。時代とともに、姿も薄れていった。古い時代の王達を、城が忘れかけているのだろうか。王達の姿はやがて暗闇に時々瞳が光るだけとなり、ついには何も見えなくなる。
 王の列が途切れても、先代は歩み続けていた。古すぎて見えないだけで、実際にはまだ古代の王達が、道の両脇に立っているのかもしれない。
――白城にも王達の列があるんだろう。僕も即位式の水盤を覗けば、こうしてこの世の終わりまで、こんな列に加わることになるんだろう。
 何もなかった暗闇に、細い輪郭を描く小さな泡がいくつも立ち昇りはじめた。泡は、今まで見ることのできなかった通路の先を浮きたたせる。
――あれは、基礎石の中を通る泡だ。まさか、城の中枢塔を下っているのか。なら、この先には……。
偽扉 先代の姿が闇に沈んで消えた。残された暗闇に、銀色の細い線が四角を描いている。ブレイヤールはそこまで駆け寄った。手を差し出すと、基礎石の感触が返ってくる。
――中枢の最下層は行きどまりだ。開くことのない扉がある。この銀の線が、扉の輪郭だろうか。
 話にだけは聞いていたが、見るのは初めてだった。銀の線は基礎石の中に流し込まれた水銀だ。彼が指で触れると銀の線は基礎石の向こうで震える。
 この描かれた扉の向こうへ行けるのは、初代の王のみだったと伝えられている。王達の回廊を歩みぬいた彼が、最後に目通りすべきは初代黄緑王のはずだ。
――ここを通り抜けなければいけないのかな。
 ブレイヤールは戸惑いながら銀の線を指でたどる。突如、水銀の線から白い閃光が生まれ、扉の奥に集まって人の形となる。光は急速に一点に集まり、辺りを闇へ戻すとともに残像を残す。それは基礎石の中に閉じ込められた初代黄緑王の姿だった。
「あっ!」
 ブレイヤールは自分の悲鳴で我に返る。現に戻った瞳に、銀糸の蔦模様が縫い付けられた深い黄緑色の布が映る。王座に敷かれたクッションだと分かるまで、しばらく時間がかかった。
「白殿下、いかがなされました」
 左大臣のかすれた声が背中から聞こえる。ブレイヤールは頭を上げ、差し込む日の光に目を細めた。
「大丈夫です」
 彼は呟いて、再び背もたれに頭を当てて目を閉じる。次の瞬間、彼の精神が飛んだのは暗闇ではなく、城の全てだった。城内のあらゆる場所が怒涛の滝となり、彼のまぶたの裏から精神に流れ込んだ。意識は城に拡散し、耳の奥に幾千もの足音がこだました。壁を打つ人々の悲鳴や命令の怒声が内側から肌を打ち、火に巻かれ黒くよじれていく木々の軋みが骨を締め付ける。
 ブレイヤールは黄緑の城の劣勢を、その体で知った。城の力は血液の流れに乗ってあらゆる感覚を乗っ取り、城内に展開する情景をめまぐるしく脳裏にたたきつけてくる。自分は確かに王座の傍に立っていたはずなのに、いまや城の全ての場所に存在している。その中で、城の一部分にだけ意識を集中させるのは、とても難しかった。トエトリアの気配を探そうにも、それ以上に城の状況の方が騒がしい。
 彼は目の奥で、大樹の塔の学舎に変わらず座る老師の存在を感じた。彼女の弟子達が塔の扉を守っているのも、手に取るように分かる。下層の大橋を駆け抜ける黄緑の兵士達の一団は、血管を打つ鼓動と重なり、白銀の鎧に身を包んだハイディーン兵の足取りは、神経を響かせる。何も分からないまま、時間だけがいたずらに過ぎていく。
 石人達の悲鳴が彼の耳を貫いた。ブレイヤールは歯を食いしばる。ぽたぽたと額から汗が流れ、鼻筋を伝って落ちる。鮮烈な城の感覚は、神経の痺れとまぶたを透る日の光に消えかけていた。
「下層の兵をいったん柱の広間へ集めてください。城民は魔術院と博物館の地下に大半が隠れている。人間達は廃街へ誘い出してください。城の力で追い払います」
 ブレイヤールの言葉を聞き、数人の騎士がすぐさま広間から駆け去る。
「王女様は見つかりませんか」
 左大臣が問いかける声がする。ブレイヤールは答えなかった。集中と意識が薄れるとともに魔力の闇は灰色と変わる。城の力は彼から離れつつあった。鈍くなった感覚の中を、黒い人影が横ぎった。身にまとった鎧の色がぱっと閃めく。閃いた色は感覚を再び闇色に染める。彼は最後の気力を呼び覚まされた。
「銀の鎧の人間と、黒い鎧の人間がいる! 黒い鎧の人間は、銀の鎧の人間をよく知っているはず。彼らと話し、人間との戦の仕方を教わって!」
 ブレイヤールは叫んで顔を起こし、体を横に傾けた。彼はそのまま王座の脇に膝をつく。体は王座から手を放した瞬間に、ひどく軽くなった。両膝を床につくと同時に、激しい疲労と痛みが襲ってくる。誰かが彼の耳元でトエトリアのことを尋ねた。必死な声だ。ブレイヤールは無我夢中で体を起こし、王座に手をかける。まだ気を失うわけにはいかない。
――おかしい、なぜだ! 本来この王座に座るべき王族の居場所が、こんなにも掴みづらいなんて……。
 城の中層に意識を向けると、幾重にも重なった石壁が霧となって視界を遮る。耳の奥で、草を蹴って走る軽い足音が横切った。音を追おうと心をそちらに向ける。一瞬霧が晴れ、白い日差しに照らされた緑の斜面が姿を現す。草地と同じ色合いの、長い髪をした子どもの背中が遠ざかっていく。見覚えのある走り方だ。
 不意に降り注ぐ日差しが濃度を持ち、柔らかなカーテンのように風にうねった。カーテンは見る間にまばゆい閃光に変わり、目の前の景色を飲み込んでいく。
――邪魔しないでくれ!
 誰にともなく彼は心の中で叫んだ。無意識に口でも叫んだのかもしれない。声が耳の外からも聞こえた。声はそのまま強い衝撃となって脳を打ち、一瞬気が遠くなる。
 彼は瞳を開けた。知らない男の顔が上からのぞきこんでいる。
「お気付きになられましたか」
 男は囁いて、視界から外れる。西日に縁どられた王座の間の天窓が現れた。空のまぶしさに眉をひそめると、誰かが日よけを傍に寄せる。
「城の魔力にあてられたようです」
 再び男の声がした。どうやら彼は医者らしい。ブレイヤールは体を起こした。辺りを見回すと、王座の間は暗い。窓に切り取られた夕暮れの空だけが明るかった。彼の傍らには医者が膝をつき、左大臣と思われるまっすぐな影が、数人の影と一緒に少し離れた柱の脇にいる。
 鼻から喉の奥にかけて、何かがごわごわとひりついた。鼻血でも出たのだろう。額には布が当てられ、包帯が巻いてある。確かに眉間の上あたりが痛いような、ひどく冷たいような気がする。ブレイヤールは視線を落とす。膝の上に投げ出した手の甲は、薄闇の中でずいぶん白く見える。袖口が黒っぽく汚れているのは、血の染みか。
「王女は中層の斜面にいたのかもしれない」
 切れ切れの声で、ブレイヤールは傍の医師に伝える。彼はその言葉にうなずいた。
「お倒れになる前に、そうおっしゃいました。今、兵が探しに向かっております」
「探しにって、まだ見つかっていない? あれから時間はずいぶん経ったはず」
「城が混乱している最中ゆえ、知らせが遅れているだけかもしれません」
「そうか。まだ人間達も城内にいるんだったな」
 ブレイヤールは呟いた。東側の窓の外は、星が見え始めている。
――中層に、何か得体のしれない大きな力があった。あれはなんだったんだろう。
 彼はふらふらと立ちあがり、再び王座に向かう。大臣の一人が駆け寄り、引き留めた。
「下層はまだ持ちこたえております。今また王座に触れれば、お体に障ります。他国の援軍を待ちましょう」
 ブレイヤールは首を振った。援軍が来るにしても、数日はかかる。来たとしても、石人の兵士と人間の兵士がぶつかれば、それは戦争だ。彼はそれを避けるために黄緑の城に駆けつけたのだし、ディクレス達もそうなのだ。それに再び王座に触れなければ、黄緑の城が受ける犠牲は大きくなる一方だ。王女と城民の安全が、待つことの出来ない危険にさらされているのだ。
 もうじき夜が来る。これはチャンスだった。腐った水と月の光が交わって生まれる邪妖精達を集めれば、人間達を城から追い出せるかもしれない。目に見える石人の兵士よりも、闇にうごめき定まった姿を持たない邪妖精の方が、人間を恐怖に駆り立てるはずだ。
「下層の壁を各所で崩し、城内深くまで月明かりを導きます。昇降塔の水門も開きます。壁が崩れ、水が城から流れ出せば、邪妖精だけでなく魔物も入ってくるかもしれません。しかしそれで、人間達にはここが誰のものの世界かよく分かるはず。彼らが城から逃げ去るまで、黄緑の兵士達には崩した城壁の代わりを務めてもらわねばなりません」
 王座の前でブレイヤールは左大臣の方を振り返る。左大臣は夕闇の中で頷いた。
「分かりました。そのように城の力を使うことを、許可します。我々は城民を守らねばなりません」
 わずかに震える左大臣の凛とした声を受けて、ブレイヤールは王座に向かう。命令を実行に移すために走り去った騎士団長らの足音が、最後に響いた。
 夜に向かう時間の中で、城の力はすべらかに彼の意識に添い、下層へと流れていく。下層を守る城壁の崩れた音や、溢れ出す水路の轟音は、ここまでは届かない。月明かりに照らされた水から、無数の邪妖精達が泡のように飛び出してくるのも、それを見た人間達が恐怖と混乱に陥るのも、すべて王座の間の静寂のうちに起った。
 ブレイヤールは王座から身を起こし、庭園へと歩み出る。空には隅々まで星々が輝き、王座の間はすでに闇の中にあった。黄緑の廷臣達は、白王の姿がバルコニーから射す月明かりに照らしだされて初めて、彼が王座から離れたのを知った。
「どちらへ参られます!」
「この城で私ができることはここまでです!」
 白王は左大臣に怒鳴り返す。
「私は今から、黄緑の王女を探しに行きます。しかし夜が明けたら、必ずこちらに戻ります」
 彼は風の魔法を身にまとい、中層に向かって庭園から飛び降りた。

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