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十一章 石人の亡霊

黄の城 白城が石人世界の北の端にあるならば、黄城はその逆、南の端にある。城の南には湖に沈んだ深い森があり、この森から石人とは異なる人々の暮らす土地が始まっているのだ。広大な森の向こうには巨大な月が半身を覗かせ、周りを囲う星々の気配を飲みながら夜空に輝いていた。黄城は中腹から二つの山に分かれた形をしており、その二つを繋ぐ巨大な大橋を持っている。橋を支えるアーチは月の弧に負けないほど大きく、夜の遠景が最も美しい城でもあった。
 黄城を取り巻く環境は、その美しい城の姿から想像もできないほどに厳しい。南から吹く風は、石人には強すぎる魔法の気配を運んできた。黄城に住む石人達は、南風が吹くと魔除けの印を柱に描き、風除けの帆をはる。さらに南の湖に沈む森からは、風だけでなく、青白い肌をした人々が小船に乗ってやってくることもある。石人は彼らを青鬼人と呼んで嫌っていた。彼らはいつも飢えていて、隙あらば石人をさらい、代わりに食料を要求したり、我慢が出来なければそのままさらった石人を食べてしまったりする。時には大勢で黄城に押し寄せることもあった。そのために黄城の兵士達は、石人世界では珍しく、戦の仕方を心得ている。
 レイゼルトは荒れ地の丘から、この黄城の姿を望んでいた。
 すぐ隣には、青紫の毛皮に銅色の翼をたたんだアニュディの姿がある。黄緑の城から飛び立ってから、彼女は石人世界を遠回りに縦断する形でここまでやって来た。長い距離を長期間飛び続けるのは、体の大きい彼女には向いていない。体力には恵まれているとはいえ、さすがに疲労が溜まってきている。城の目前で限界を感じ、ひとまずの休憩を取るために降り立ったが、再び飛び立つほどの力はなかなか戻ってこなかった。彼女は前足を体の下にたたみ、寒風に毛並みをさらしながら眠ろうとしていた。
——彼女は休ませておこう。それに、ここからは一人で行く方がいい。
 レイゼルトは考えた末にそう決める。近くの木から長い枝を折り、先を地面に引きずりながら黄城へ向かって歩き始めた。引きずった枝の先で、アニュディのために魔法の道しるべを描きながら。これならば、彼女も黄城の近くまで一人で行けるはずだ。その後は黄城の石人が彼女を助けてくれるだろう。彼女は夢うつつで、レイゼルトが側を離れたのにも気づかなかった。
 夜が深まった頃、レイゼルトは黄城の門の側にたどり着く。門の屋根には吹流しが掲げられ、東風になびいていた。近くの岩場に身を隠して様子を伺うと、城門には数人の黄色いマントを羽織った兵士の姿がある。兵士達の武装は他の城の兵士よりも重い。黄城の兵士達は、魔物を追い払う者と青鬼人達と戦う者とで、武装も日頃の訓練も大きく異なっている。ああして鎧で体を覆う武装の重い兵士は、青鬼人向けだろう。
 レイゼルトは深く息を吸う。事は一息に運ばなくてはならない。
 最初に異変に気付いたのは、門の正面にいた兵士だ。風に乗って、細かい砂粒が顔に当たってきたのだ。仲間を振り返った兵士の目に、同僚が、身に付けている黄色いマントごと、細かな粒になって散っていくさまが映る。見る者も、砂に変わる者も、まるで夢の中の出来事のように、ただ眺めることしかできない。兵士の姿が風に掻き消えると、残った兵士達は互いに顔を見合わせた。消えた兵士が立っていた場所に駆け寄って、見えなくなった仲間を探そうと腕で宙をかく者もいる。
 レイゼルトは眉間に力を入れて目を閉じ、木の枝の杖に意識を集中させる。風に乗って細かな砂が杖の先に集まってくる。彼はそのまま杖を勢いよく振った。
 絶叫が響いた。彼らは目の前の仲間の姿が崩れていくのを見、そして自分の体も同じようになっていくのを見た。地面が彼らの体を飲み込むように、足元から砂に沈む。
 レイゼルトはその悲鳴とともに、隠れていた岩陰から飛び出した。彼の放った魔法が、黄城の門を一息に吹き飛ばす。門を走り抜けると同時に、門にいた兵士達は全て砂粒になっていた。レイゼルトの走り去った後を魔法の風が追う。風は砂を吹き上げ、空高く舞い上げていった。
 城門の大音響と絶叫を聞きつけた城内の兵士達が、次々と姿を現してくる。彼らは、古風な衣装に身を包んだ少年を認める。
「何者だ! 止まれ!」
 レイゼルトは制止を無視し、通路の先から来る兵士達も砂に変えた。そして脇の通路から現れた兵士達に、その砂をたたきつける。兵士達は眼を押さえて怯む。その隙に城門から続く建物を抜けると、黄城の裾野に広がる草地に出た。側に水路がある。水の流れを目で辿っていくと、運搬用の昇降塔が林の向こうに長い影をつくっている。
——登るのに時間がかかるな。
 レイゼルトは自分の背後に、巨大な火の壁を作り出す。これで暫くは追って来られないはずだ。後で良い目印にもなるだろう。彼は水路の桟橋にあった小舟に飛び乗る。そして魔法の言葉で編み上げた帆を、舟に張った。
「戻れ!」
 杖をかざして一声かけると、砂を含んだ風が舞い降りてきて強風に変わる。小舟は風に乗り、昇降塔めがけて水路を滑っていく。レイゼルトは後ろを振り返る。例の城門から水の波紋が広がるように、城壁に沿って明かりが灯されていくところだった。行く手の黄城を見上げると、城門から広がる明かりに異変を知り、そこでもまた明かりが増えていっている。しかし城内の兵士達に何が起こったのか詳しく伝わるまで、まだ少し時間があるはずだ。
——黄王が動くまでに、中層にはたどり着かねば。
 七百年前、戦場で多くの石人を砂に変えたレイゼルトでも、石人の城で同じことをするのがどれほど難しいか、知っている。そもそも石人であれば、敵の城に入ろうなどとは考えもしない。王が城の力を用いれば、侵入者側にはまず勝ち目がないからだ。たとえ禁呪をもってしても、城の力の前では無力だろう。それほどまでに城の力は絶対的だ。
 小舟が昇降塔まで達すると、レイゼルトは身を伏せ、帆と風の向きを変える。舟は帆いっぱいに風を受け、塔の壁を垂直に滑走する。天辺までたどり着くと、舟は焦げ臭い煙を上げながら勢い余って宙にすっ飛び、石畳の上に落ちた。魔法の帆も、たくさんの言葉を飛び散らせて粉々に消えた。砂を含んだ風は小さな竜巻になって、空に昇っていく。
 レイゼルトは城を見上げる。ようやく、下層の上部までたどり着いたところだった。崖に掘り込まれた館が目の前にそそり立っている。この館を登れば中層だ。館には、窓や柱廊から眩いばかりに明りが漏れている場所と、ほとんど明かりの灯っていない場所がある。明かりのない場所は、うち捨てられた部分だ。黄城も、今ではすべての館を満たすほど、石人の数は多くなくなっている。彼は建物の暗い部分を覚え、手近の柱から蔦を足掛かりによじ登る。薄暗い二階の柱廊の手すりに手をかけて体を持ち上げると、奥から響く足音を聞きつけた。「気をつけろ」という掛け声も聞こえる。どうやら彼が下層の守りを突破した知らせは、すでに届いているようだ。
 レイゼルトは魔法で足音を殺し、周りの暗闇を切り取って身にまとうと、階段を駆け上り始めた。どちらもごく簡単な魔法だったが、追っ手の兵士達は階下の通路を気づかずに通り過ぎて行った。子どもの悪戯みたいな魔法が効いて、レイゼルトはむしろ不安を感じる。しかしいくら進んでも、もう兵士達の追って来る気配はない。
 暗闇がざわめいた。
 レイゼルトは立ち止まって意識を集中する。どこか遠くから力が流れ込み、近づいてくるのを感じる。城の力だ。黄王が侵入者を探し出し、捕えようとしているに違いない。兵士達の姿が消えたのも、黄王の操る城の力の巻き添えを避けたからかもしれない。
——だったら、こちらもやりやすい。
 レイゼルトは杖を振りかざす。その先から真っ赤な炎が水のように溢れ出し、彼の姿を丸呑みにして廊下に満ちる。あふれ出した炎は窓から噴出し、その一部が建物の壁を舐めながら這い上がる。
 中層に広がる草地の斜面では、黄王が騎士達を引き連れて、侵入者を待ち受けていた。魔法使いを捕えるなら、広い場所に囲い込んで追い詰めていくものだ。黄王は自身でも青鬼人との戦いに赴く武人として知られた壮年の男で、魔法だけでなく剣の名手でもあった。彼は北西の城門に異常があったとの知らせを受け、最初は家来にその対処を任せていた。ところが次々に明らかになっていくとんでもない状況に、とうとう城の力を用いて敵の姿を見極め、騎士達を集めて中層に降りてきたのだ。斜面の下には長城があり、侵入者がそのまま建物の階段を上がっていれば辿り着くはずの場所だ。
 黄王は城の力を通してレイゼルトの魔力に気付き、相手がただの魔法使いではないことを実感していた。彼は再びまぶたを閉じ、自分の手を逃れた侵入者を探すため、地面の下を流れる城の力と自分の意識を重ねる。侵入者の気配は炎の熱に溶けるように消えてしまったが、しょせん一時的な目くらましに過ぎない。城にいる限り、敵は必ず捉えられる。
「陛下、長城に魔法の火が」
 騎士の声に、黄王は瞳を開ける。長城の一角が、炎を窓から噴出している。そのうちに、黄王は再び侵入者の気配を見出した。今度は肉眼でも確認できる場所に相手はいる。王は炎の明かりの中に、人影を認めた。人影はまっすぐこちらに向かって走ってくる。まるでこちらからの攻撃など考えていないかのように、まったくの無防備で。
「それがお前の姿か!」
 黄王は低い声で怒鳴り、斜面の上から侵入者を見下ろす。相手はすぐそこまで来ていた。明かりを掲げた騎士達が敵を取り囲み、王を守ろうと間に立った。敵はどう見ても子どもだ。しかし少年であること、赤い髪を持つこと、そして右手がないことに、黄王は最も望ましくない名を思い浮かべる。
「城門の兵達が砂にされたと聞いた。私は何かの間違いかと考えた。だがもし真実であるならば、そのような術が使えるのは誰かとも考えていた」
「ならば、あなたは私の名前を知っているはず」
 レイゼルトは叫び返す。まさか王の方から現れるとは思ってもいなかった。騎士達を引き連れてきたことも、むしろ彼には好都合だ。斜面の上には中層の町並みが並んでおり、そこからここを見ている者達もいるだろう。
「かつてレイゼルトという者が、砂の魔法を用いた」
 黄王は厳しい顔をレイゼルトに向けた。
「もしお前が真にレイゼルトであるならば、人の道を踏み外しただけでは飽き足らず、あの世への道も見失ったというのか。お前をここに遣わしたのは何だ。まだ同胞を殺し足りぬのか」
 黄王の言葉に、レイゼルトは湧き上がった怒りで王を一瞬睨みつけた。それでもすぐにその怒りをおさめる。
「足らぬのは確か」
 レイゼルトは口の中で呟く。王に聞こえたかどうかは分からないし、聞かせる気もなかった。彼は声を張り上げる。
「聞け! 私は思うものを砂にする。それは時経た今でも変わらない!」
 その一言で、レイゼルトの左側に立つ騎士達が砂になって崩れて行く。
「そして一度終わった命が、この世で再び目覚める悪夢を知るがいい!」
 レイゼルトは王に向かって一歩踏み出す。その右側で、やはり騎士達が砂になる。王の側を守っていた騎士達が、剣を抜いてレイゼルトに向かってきた。しかし禁呪はあまりに強く、彼らの振りかざした剣は砂とともに空しく地面に落ちる。
 王の側には、もう王衛一人しか残っていなかった。ところが王衛の引き抜いた剣は、守護の剣ではない。黄城では守護の剣は過去に失われていた。そのため黄城の王衛は、いわば形骸化した役職に過ぎない。レイゼルトは王の前に立ちはだかった王衛へ視線を向ける。
「……守護の剣に従う者は、我々の世界に近づく。守護の剣がなければ、お前にとって私は影だ。影を斬ることはできない」
 王衛の背後で、王が城の力にすべての意識を集中させるのが見えた。今度はレイゼルトが地面に崩れる番だった。彼はかろうじて両膝を付き、体を支える。目に見えない力が彼を捉え、草地の上に押し潰そうとしていた。王衛が彼に近づこうとした刹那、レイゼルトは杖を黄王に向かって投げつける。鋭く飛んだ杖は、それを打ち落とそうとした王衛を砂に変え、無防備となっていた王の額に当たる。王の体は微塵の砂になって弾けた。城の力は操り手を失い、あっという間に立ち消える。
 城の力から解放されたレイゼルトは、のろのろと体を起した。まだ終わってはいない。
 彼は左腕を高く上げ、空を掴んで握りこむ。砂含みの竜巻が夜空から舞い降り、草地で一反の疾風に変わった。風は斜面を駆け下りる。新たな砂を巻き上げて白く煙る砂嵐に姿を変えると、北の空へ去った。レイゼルトはそれを見届け、長城に向き直る。
 長城からの音は届かない。人の持つ明かりだけが忙しなく行き交っている。まだたくさん兵士がいるはずだが、誰一人としてここまでやって来る者はいない。この斜面で何が起こったか、見た者はすべて知ってしまった。あそこは混乱のるつぼと化しているだろう。黄王も、自らレイゼルトの前に姿を現さなければ、砂にならずにすんでいた。
 レイゼルトは荒い息を繰り返し、ぼんやりと建物の明かりを見つめる。緊張の糸は切れ、頭の中は空白になっていた。力は使い果たした。紫城にとどめをさし、黄城の力に抗い禁呪を用いたのだ。夜風が弱った体から容赦なく体温を奪う。寒さと疲労に歯が鳴り始めて、ようやく思考が戻ってくる。
——違う。寒さだけじゃない。
 それに気づいた直後、肌があわ立った。彼は無意識のうちに、気配を感じていた。それは黄王が消えた直後から、彼に近づき始めていのだ。あの気配はいつも無意識の向こうからやってくる。
 彼は心の底から沸々と恐怖がわき上がるのを感じ、辺りに視線をめぐらせる。その人影は近くの木立の傍に、ぽつんと佇んでいた。人影は月明かりを吸って淡く白い靄に包まれ、風にあおられて揺らめき、容貌も定かでない。しかし赤い色が頭の辺りをたぎるように舞っている。
——やはり禁呪の力を追ってきた。
 レイゼルトは自分の足元を見回す。騎士の持っていたらしい大弓が目に入った。彼はそっとそれを引き寄せる。あれだけ近くにいるのに、人影はレイゼルトの位置をはっきりつかむことが出来ないらしい。よろめきながらじわじわ移動している姿は、夜風に弄ばれているだけにも見える。
 引き寄せた弓は握りの部分に小楯が付いていた。これを地面に置いて弓の上から片足をかけると、安定しそうだ。レイゼルトは人影の位置を確かめると、魔法で弓を湾曲させ、緩んだ弦を軸に呪文の帆を立てる。新たな魔法の風を引き起こし、帆にたたき付けながら、もう片方の足で地面を蹴った。即席の草ぞりは勢いよく斜面を滑走する。城門で燃やした火の壁が、斜面から見える空の下端をわずかに赤く染めていた。レイゼルトはそちら目指してそりを走らせ、草地から飛び出す。眼下は長城の壁が下層の草地まで垂直に落ち込んでいる。
 このままもう少し、空を飛んで逃げるしかない。レイゼルトは姿を変じる。魔法の言葉とともに弓は炎に包まれ、彼の姿も火の中に溶け消えた。より強くなった風に帆は膨らみ、燃える弓を連れて天高く舞い上がる。
 一人残された白い影は、風によろめきながらレイゼルトの魔法を見送った。影は腕を伸ばす。掌から小さな赤い炎の粒が立ち昇り、レイゼルトが去った方向へ飛び立っていく。白い影は、地面に吸い込まれるようにして消え去った。

「ここにいた方が情報が入りやすいとはいえ、暇すぎてどうしようもないな」
 買い物から宿の部屋へ戻ってきたグルザリオが、溜息混じりに呟いた。キゲイはテーブルについて、薄紙の上の地図へ細かな書き込みを加えていたところだ。ブレイヤールが黄緑の国の兵士らとともに白城へ戻ってから、十日近くが経っている。レイゼルトの痕跡を探すのが黄緑の兵士らの役目だったようだが、彼らが何の手がかりもつかめないまま黄緑の城に帰還したのは五日前だ。ブレイヤールは彼らと一緒には帰ってこなかった。
「ほう。前より大分あちこち細かくなったなぁ」
 グルザリオはキゲイの地図を覗き込んで、気のない褒め方をする。キゲイはむっとして、視線をさえぎるように地図の上に身を乗り出し、森の描き込みに集中した。そこはキゲイの里がある山間部の森だ。
 この地図は、ブレイヤールに頼まれて書きはじめたものだった。報告会から帰ってきた後、ブレイヤールがすぐにアークラントの地図を書いて欲しいと、とんでもない要求をキゲイにしてきたのだ。キゲイは困って断った。地図など今までうまく書けたためしがない。それでもブレイヤールが諦めなかったので、しぶしぶ書いたものだった。
 キゲイの里には、里長の家にアークラントの立派な地図が飾ってある。キゲイは小さい頃からその地図を見飽きるくらい見ていたし、ディクレス様とともに大空白平原へ行くときも、里長はこの地図の前に皆を集めて行程を示して見せた。キゲイはそれを思い出しながら、自信の無い線でどうにかこうにか薄紙の上に再現してみた。その紙は銀の鏡の模様が書いてあったもので、裏返しての再利用だ。
 とにかく大雑把過ぎる地図だった。もっともアークラントは、自然の地形によって国境がはっきりした、比較的書きやすい国ではある。西から南を通って東まで、馬蹄型のオロ山脈に包まれるようにあり、北は高い崖を隔ててエカ帝国やハイディーン王国のある丘陵地帯と森が広がっている。二国が高原にあると言うよりも、アークラントの土地が低い位置にあった。アークラント平原が「巨人の足跡」と呼ばれる由縁だ。またオロ山脈から流れるメデン川は、アークラント領内を縦断して北へ流れ出ており、その先は高原を深くえぐる谷となってエカとハイディーンの国境になっている。アークラントは切り立った崖の下にあり、メデン川も崖の近くからは急流となっていた。地形的には、エカもハイディーンも、アークラントへの進入は難しい。
 書き上げてみた地図は、キゲイ自身も驚くほどみすぼらしいものだった。国境は大体あっていると思うのだが、国内の地形はうろ覚えでほとんど真っ白だ。しかしブレイヤールはこの地図を真剣に眺め、それから白城へと発っていった。後悔の念で一杯だったキゲイは、その後も思い出してはこの地図に書き込みを加え続け、なぜブレイヤールがアークラント国内にまで興味を持ったのか、不思議に感じていた。
「石人の世界には地図がないからな」
 グルザリオはテーブルに手をついて、キゲイの作業の様子を見守る。絵は下手だと思っているが、地図自体は物珍しがっているようだった。
「城を繋ぐ道が一本ありゃ、他はどうだっていいんだ。他はろくに人の住めない、危険な場所しかないんだから」
「本当に石人は、城と神殿ってとこ以外にはどこにも住んでないの?」
 キゲイは顔を上げて尋ねる。
「境界石付近は、分からん。魔物の影も薄いし魔法の風も弱いから、危険は少ない方だ。土地は貧しいがな。空白平原に人間界のはみ出し者が集まったみたいに、石人世界のはみ出し者も、いるかもしれん。黄緑の城もな、先の女王様がいなくなってから、そういう連中がどこからともなく悪さをしに来ることがあるそうだ。ついこの間も、一人暮らしをしていた若い調香士が姿を消したらしい。人さらいにあったんじゃないかと」
 それからグルザリオは声を少し落とした。
「トエトリア様が成人されて王座に就く日を、この城の住人は心待ちにしている。王が王座に戻れば、連中も悪さをしにくくなるからな。まだまだ先の話だが」
 石人にとっても、王は国民を守ってくれる頼もしい人らしい。キゲイは白城の王が七百年前に殺されて、国民が皆逃げ出した話を思い出す。
「じゃあ、王子様が王様になったら、白城にも国民が住めるようになる?」
「安全は確保されるだろうな。んでも、滅びたまま七百年経ってるんだぞ。月日が流れるうちに、城の構造を熟知していた家来もいなくなり、今じゃ即位式の間がどこにあるかも分からん。うちの王子がその気になっても、即位式の間が見つからないうちは、一生王子のままだな。即位の間にある水盤に姿を映さないと、城の方が王を認めない」
 グルザリオはテーブルから離れて、買ってきた焼き菓子の包みを荷物から取り出した。
「景気の悪い話はやめだ。で、お前も来るだろ?」
 彼は包みを幅広の袖の中に落とし込みながら、キゲイに尋ねる。キゲイは頷いて筆を置き、紙を内ポケットにつっこんだ。
 この数日、二人は近所の小さな診療所に毎日顔を出していた。黄緑の城に行く途中、湖の中から突然現われたあの白い女の子に会いに行くためだ。彼女はいまだに親も身内も見つからず、自分の名前も知らず、見舞う人もいないまま病室で過ごしていた。
 キゲイにとっても、宿にばかりいると気がめいる。かといって石人だらけの町を、いつ人間だとばれるか、ビクビクしながら歩きたくもない。小さな診療所の庭から眼下の町並みを見物する方が、ずっと気楽だった。
 診療所は町外れの路地に入って、石段を登った先にある。路地の両側には間口の大きい建物が並んでいるが、それはすべて石人の家だ。石人はこの大きな建物に、数家族が集まって暮らしているらしい。日中、大人達は仕事、子どもは学校へ行き、留守番の者も建物の裏手にある中庭で生活する場合が多いということで、路地は静かで人通りはほとんどなかった。
 キゲイは道の両側に迫る石造りの建物を眺める。建物の壁面を飾る柱には蔦や葉が彫刻され、花や鳥だけが木彫りで後から接着されていた。何度通っても、路地にはたくさんの秘密が隠されている気がする。グルザリオが言うには、複雑な構造の石人の城で自分の位置を確認するには、建物の窓や通路の装飾が目印になるらしい。石人の城には、こういった目印が色々刻まれているとのことだった。白城でもブレイヤール達がある程度迷わずに歩けるのは、この印のためだ。もっとも大事な場所に通じる目印は暗号のようになっており、老朽化の激しい白城では目印そのものが壊れたりして、文字通り迷宮になってしまった場所もあるというが。
 診療所では、あの白い女の子が二人を待っていた。ぶかぶかした毛の肩掛けを着せられて、ぼうっとうつ向いている。生気がないというよりは、心がここにないという感じだ。膨れっ面をした若い看護人が、女の子の手を引いてグルザリオとキゲイの元へずんずん詰め寄って来る。
「機嫌悪いな」
 グルザリオが看護人の表情にひるむと、彼女はここぞとばかりに訴える。
「この子の身元がまだ分からないんです。それで近々、古都へこの子を移しては、という話が出ているんですよ。確かに神殿の側なら、この子にもっといい治療が出来ますけど、それじゃ親探しが遠のいてしまうし。ブレイヤール様が引き取ってくださったらいいんだわ。白城ならここと近いですもん。それに白城は、変身後遺症の療養地としても有名だったんですよね」
「七百年前はな。今は無理だ。とても病人を引き受けられる場所じゃない」
「……ですよね。まったく、ここの兵士さん達が頼りないのがいけないんだわ。うちのお姉ちゃんの消息も、まだ全然分からないって」
「心配だろう」
「お香が全部灰になってたって……。仕事を投げ出してどこかに行っちゃう人じゃないのに。そうだっ! これもブレイヤール様に見立てていただけたら!」
「気持ちは分かるが、白城も王子も、何でも屋じゃないんだから」
「……すみません」
 看護人はぺこりと頭を下げて、女の子の手をグルザリオの方へ預ける。彼女が膨れっ面のまま立ち去ると、キゲイはグルザリオのひじを引っ張った。
「あの人、何を怒ってたの?」
 グルザリオは中庭へ向かいながら簡単に答える。
「この子はもうじき、治療のために神殿のある古都に行くらしい」
「いいことみたいだけど」
「俺はどっちがいいのか分からんが、彼女ははっきりしてるようだな」
 中庭へ出たキゲイは診療所の平屋根へ伸びる階段を上り、グルザリオは適当な場所で女の子を自由に歩かせてやる。医者が往診に出ているので、この時間は診療所内の人影が薄かった。
 キゲイが平屋根の上をゆっくりと歩くと、庭に落ちる彼の影も動く。女の子はその影を追いかけて、そろそろと歩く。不思議なことに、この女の子はキゲイの姿よりも影の方を気にしているのだ。動くものはどれも、先に影の方を見ようとする。
 キゲイが立ち止まって初めて、女の子はこちらを見上げた。きょとんとした顔つきで、大きな目をくりくりさせている。そのうち太陽が目に入ったのか、彼女はひゅっとまぶたを細めた。丸坊主だった頭には、蜘蛛の糸のような細い髪が生え始めている。髪色は毛が細すぎて、よく分からない。髪は風の中でふわふわと浮き、日の光を透かしてきらきらしている。彼女の顔に表情はほとんどなく、かといって赤ん坊のように幼稚な様子もない。仕草がぎこちない所は小さな子みたいだが、それは単に体を動かし慣れていないせいらしい。
 湖で魚として暮らし、自分が人だったことを忘れているというのは、大変だった。医者達は彼女に鏡を見せて自分の姿を覚えさせたり、言葉を教えたりと苦心しているようだ。女の子は鏡を不思議そうに覗くだけですぐに興味を失うし、言葉についても石人の鳴き声くらいにしか認識していないらしかった。
 庭から診療所の外へ目を移すと、眼下に町の屋根が幾重にも重なって見える。それぞれの家の煙突からは、夕食の支度をする煙が立ち昇り、照り返しで赤く染まっている。建物の隙間から垣間見える通りはすっかり夕闇に沈んで、行き交う石人達の様々な髪色も見分けがつきにくい。
 通りから路地に入るひとつの人影が目に付いた。人影は疲れた足取りで角を曲がって、見えなくなる。けれども、その背格好と歩き方にキゲイは見覚えがあった。すぐに振り返って、屋根から庭へ駆け下りる。女の子も動いた彼の影に反応して、ついてきた。
「ねえ、グルザリオ。王様が帰ってきたみたい。今、向こうの道からこっち側に歩いてたよ。宿に戻るんじゃないかな」
「そうか。じゃ、ちょっと早いが、帰ろうか。ほら、これ皆と一緒に食べな」
 グルザリオは持ってきた菓子の袋を、女の子に手渡す。いつものことなので、女の子は慣れた手つきで受け取る。言葉が通じているかどうかは怪しいが、この中においしいものが入っていると彼女は知っていた。
 ブレイヤールは二人より先に宿へ戻って、ベッドで寝ていた。頬がこけるくらいに痩せている。寝顔から、体力的にも心の根っこからも消耗しきっているように見える。
 白城で何があったのか。話を聞こうと思って診療所からすぐに帰ってきたのに、肩透かしを食ってしまった。寝ているのを邪魔しないよう、キゲイとグルザリオは部屋から出て、行き場もないので宿の食堂にたむろする。
「王様、大丈夫なのかな」
 レイゼルトの問題で白城に戻っていただけに、キゲイは心配でならない。キゲイが知る限り、あの少年はとにかく容赦をしない性格だ。白城に再び現われて、石人達をひどい目に合わせることくらい、十分にあり得る。
「白城で何かあったら、もっと早くに帰ってきたはずだ」
 グルザリオはきっぱりと言い切った。彼は眉間に深い縦皺を寄せたまま黙りこむ。そこで邪魔が入った。宿の女主人が、暇そうにしている二人に、夕飯の鞘豆をむく手伝いを頼んだからだ。グルザリオが何か言う前に、女主人は豆を一袋テーブルにどさっと置いて厨房に去った。二人は仕方なく豆をむく。手伝いをすると、夕食を少し奮発してくれるのは確かだった。
 しばらくして、グルザリオは口を開く。
「石人は、人間の世界じゃ長く持たない」
「へ?」
 話が唐突に飛んだ気がして、キゲイはきょとんとした。グルザリオは豆をむく手を休めることなく、横目でちらりとキゲイを見下ろす。
「土地の魔力が薄いと、石人は干物みたいに魂から乾いていくそうだ。人間の世界も場所によっては土地の魔力が強い場所もあるが、たいがいは薄いからな。石人にとって魔法は水みたいなもんだ。生きていくのに絶対必要だが、ありすぎると溺れ死ぬ。なさすぎると干からびる」
「もしかして、王様は人間の世界へ行ったってこと? もしかしてアークラ……」
 みなまで言う前に、キゲイはグルザリオに椅子ごと蹴られた。
「手が止まってるぞ」
 グルザリオは白々しくキゲイを叱り飛ばす。キゲイは倒れた椅子を起こし、座りなおした。石人の町で人間世界の話をするなど、論外だ。自分では気づかなかったが、声もつい大きくなっていたようだ。「言の葉」で話しているのを聞かれるのもまずかったのだろう。それにしても、もう少し手加減してくれてもよさそうなものを。キゲイは隣のグルザリオに恨めしい視線を投げながら、麻袋に手を突っ込み新たな鞘豆をひっつかむ。
 ブレイヤールが寝起きのぼんやりした目で食堂に現われたとき、二人は芋の芽をナイフで削っているところだった。
「具合はどうですか」
 グルザリオが尋ねると、ブレイヤールは二人の向かい側に座って、自分でも芋を手に取った。
「石人達は白城の例の現場で、レイゼルトの魔力を思い知ったみたい。今頃神殿では、レイゼルトを探して捕らえる手段を、全力で協議している頃だろう」
 グルザリオは単純にブレイヤールの体調を気遣っただけだったのだが、ブレイヤールは勘違いしたようだ。彼は声を潜めた。
「レイゼルトが黄の城を襲ったらしい。帰りがけに黄緑の城に寄って、その話を聞いた」
 驚くグルザリオとキゲイを前に、ブレイヤールは懐から小刀を取り出して、芋の芽をくり貫く。
「あいつ、偽物じゃなかったってことですか! だったらあなたも、ここでこんなことしてる場合じゃないでしょう!」
 グルザリオは押し殺した声をあげ、身を乗り出す。ブレイヤールは座れと鋭く制して、周りに目をやる。幸い食堂は適度に人がいて騒がしい。ちらりとこちらに目をやっただけで、特に興味を示す人もいなかった。グルザリオはのろのろと姿勢を正す。
「決めるのは全て神殿だ。七百年前、レイゼルトを倒したのはこの黄緑の国の王子だった。ところが今の時代は、彼と直接対峙して打ち勝つだけの力を持った石人がいない。僕も指示があるまでは、白城かここかにいなくてはならない」
 そう言って、ブレイヤールは深く息をついた。
「人間達の問題どころではなくなってしまった。レイゼルトを止めなければ、石人は滅びてしまう」
「どうして、レイゼルトが石人を滅ぼそうとするの? 変だよ。石人同士なのに」
 キゲイは尋ねた。しかし尋ねてすぐ、アークラントのことに気づく。そういえば人間も、人間同士で戦争をして、ただ勝つだけでなく相手を滅ぼそうとまでしている。ことにハイディーンは、征服した国の人々を皆殺しにするくらい徹底しているというではないか。アークラントはまさにその危機に直面している。
 ブレイヤールはキゲイをまっすぐ見つめた。キゲイは自分のした質問に、ひとり落ち込んだ気分でいたが、疲れ切った様子だったブレイヤールの瞳は、パッと明るくなった。
「そうだ。おかしい。本当に滅ぼそうと考えているなら、とうの昔に白城も黄緑の城も禁呪に襲われていたはずだ。あいつ、相当ひねくれては見えたけど、石人全てを滅ぼしそうな奴には見えなかった。でも——」
 ブレイヤールは芽を取った芋をグルザリオの方へ投げ、首を振る。
「彼の本心は誰にも分かっていない。禁呪に襲われた石人がいるのも事実だ。僕らは彼を追うべきか、それとも別にやるべきことがあるのか……。本当に、人間達に対する用意を後回しにしてもいいのか」
 ブレイヤールは小刀を拭って懐におさめる。
「アークラントの状況は油断できない。ディクレス殿はまだ空白平原におられる」
「ディクレス様と会ったの?」
 キゲイは驚いて聞き返したが、ブレイヤールは首を振っただけだった。ただ、ブレイヤールが何らかの手段で、アークラントの様子やディクレス達の居場所を確めに行ったらしいことだけは、彼にもなんとなく想像できた。しかしアークラントと白城を往復するとなると、ブレイヤールが留守にしていた日数だけではとても足りない。それこそ、魔法で空でも飛んで行かなければ無理だ。
 キゲイはそれも聞いてみようと思ったが、具合の悪いことに宿の女主人が再び現われる。彼女はブレイヤールを見つけて驚き、丁寧な口調で話しかける。ブレイヤールの顔つきが深刻になる。彼は立ち上がった。つられてグルザリオが立ち、彼はきょとんとしたままのキゲイの襟首を引っ張り上げる。キゲイも半分引きずられるように立ち、二人の後に続いて宿の表に出る。
 ブレイヤールはすぐに二人を振り返った。そして、グルザリオとキゲイの顔を見比べながら尋ねる。
「おばさんが言ってたけど、二人とも、夕方に診療所へ行ったんだって?」
 二人が頷くと、ブレイヤールは続ける。
「帰るとき、ちゃんと看護の人に女の子を返した?」
 キゲイはグルザリオを見上げる。グルザリオは首を振った。
「中庭のベンチに座らせましたが、診療所を出るとき、人に声はかけました。王子が帰ってくる姿が見えたので、こちらも急いで宿に戻った方がいいと思ったんで」
「何があったの」
 キゲイは言った。辺りは宿の窓の明かりだけが三人を照らし出す夕闇だ。
「彼女の姿がどこにもないらしい」
「どうしよう! 勝手にどこかに歩いて行ったんだ……」
 キゲイが慌てると、ブレイヤールはまあまあと手を上げて落ち着かせようとする。
「僕らも一緒に探そう。足がまだ弱いから、診療所から遠くには行けないはずだ。あの辺りは道も複雑だし、大通りへも簡単には出られないと思う。……困ったな。かえって見つけづらいかもしれない」
 ブレイヤールがみなまで言う前に、グルザリオは腰にさした杖の先に明かりを灯して、ものすごい勢いで走り去ってしまった。ブレイヤールは横目でそれを見送りつつ、宿の入口に何本か立てかけてある棒付きランプに手を伸ばす。それは濁った石英が先についた棒切れで、ブレイヤールが棒の底についた金属の先で火花を散らすと、石の中に魔法の灯がついた。彼はそれを掲げて持つ。魔法の杖なしで夜に街中を歩くときは、この共用ランプを使うらしい。
 夕方に通った坂道の石段を、二人で登って行く。日が沈んでから、辺りは急に冷え込んでいた。両脇に建ち並ぶ家の住民達は奥の部屋に引っ込んでいるらしく、人の話し声も随分遠く聞こえる。別れ道に出るたびに二人は辺りを見回して、あの女の子の姿を探した。誰も女の子の名前を知らないから、名前を呼んで探すのも難しかった。ブレイヤールは時々「おーい」と道の向こうに呼びかけたりするが、返事はない。同じく女の子を捜す診療所の人と一度すれ違った以外、道に人影はなかった。たまにどこかから、足音が近づいて遠くなっていくだけだ。
 石で覆われた狭い道の空を塞ぐように、両側に背の高い石の建物が迫っている。建物の窓はどれも暗く、一度も開いたことのないような古びた扉の前に、箒や手桶などのガラクタが積み上げてあった。時折小さな明かりを灯す間口がひっそりとある。ブレイヤールが徐々に入り込んでいった路地は、キゲイにとって汚くて狭苦しく、あまり気持ちの良いところではなかった。周りが静かなだけに、二人の靴音がよく響く。時折その足音が増えるような気がしてキゲイは度々振り返ってみたりするのだが、決まって道には誰もいない。石の壁に反響した自分達の足音か、ただの空耳なのか。それとも建物を隔てた向こうの道を、誰かが通り過ぎて行ったのか。
 辺りのうらぶれた様子は、タバッサの路地によく似ていた。傭兵に追いかけられたときの嫌な思い出が、自然と脳裏に浮かぶ。キゲイはぎゅっと唇を噛み、その記憶を頭の奥に押し戻そうとする。
 ふいに前を歩くブレイヤールが、素早く横に飛びのく。同時に建物の隙間から飛び出してきた黒い影が、避けきれなかったブレイヤールを巻き込んで地面に突っ込んだ。
 突然のことに何が起こったのか、キゲイはきょとんと立ちほうける。ブレイヤールの上に馬乗りになった人影に気がつき、息を飲んだところで、彼もまた後ろから伸びてきた手に口を塞がれ、動きも封じられる。
 ブレイヤールにぶつかったのはかなり大柄な男のようだった。男はブレイヤールをうつ伏せに押さえつけたまま、地面に転がったランプを拾い上げ、ブレイヤールの顔の近くを照らす。キゲイはどうにか身じろぎしてブレイヤールの方を確認した。どうやら激しい体当たりを受けて、目を回しているようだ。男はブレイヤールの首を持ち上げ、揺さぶる。するとキゲイの後ろからもうひとつの人影がすばやく前に出て、ブレイヤールの鼻先で何かを燃やした。火はパッと燃え上がり、すぐに紫煙だけを残して消える。ブレイヤールを押さえつけていた男は、顔を背けてその紫煙を避けた。一方ブレイヤールは息を吹き返したと同時に煙を吸い、またがくりとうな垂れてしまう。キゲイがそれにおののくと、彼もその隙にさるぐつわを噛まされてしまった。
「こいつか」
 キゲイを捕まえている男が低い声でささやく。それは石人語ではなく、キゲイにも分かる「言の葉」だった。ブレイヤールを押さえつけていた大男が半身ほど振り返って、「そうだ」と答えた。ランプの明かりで、大男のごつごつした四角い顔と深緑の頭髪が分かる。キゲイを捕らえていた男は、後ろにいたらしい仲間へキゲイを乱暴に押し付ける。そしてブレイヤールの隣にしゃがみこんだ。キゲイはその男の装束に見覚えがあった。石人の装束ではない。タバッサの商人達によく見る服装だ。
「貧相なガキだぜ? 間違いじゃないだろうな」
 その商人風の男は、「言の葉」で緑髪の大男に言う。大男は何か答えたが、低い声はくぐもってよく聞き取れなかった。
「こっちのはどうします」
 キゲイを押さえ込んでいる男が尋ねる。大男がこちらに顔を向ける。両頬と額に、奇妙な模様が描いてある。
「必要ないが、置いてくのも殺すのも後々面倒だ。連れて行く」
 不思議なことに、やり取りは全て「言の葉」だった。それだけに話の内容と「殺す」の言葉をすべて聞き取ってしまったキゲイの頭は、真っ白になる。魂を抜かれたように、抵抗する気にも逃げる気にもなれず、両手両足を縛られて、ブレイヤールが袋に詰められ、自分もまた同じように袋の中に放り込まれるのを、大人しく受け入れるより他はなかった。
 袋は汗臭い酸っぱい匂いがして、息苦しい。キゲイは自分の体が持ち上げられ、どこかに運ばれていくのを感じた。人攫い達の足音は、最初は殆どしなかった。枯葉を踏む音がしてはじめて、キゲイは彼らが町の外側に広がる林に入り込んだことを知る。その林も、黄緑の城にあるものだ。その先は城と外界の境となる城壁があるはずだった。キゲイは自分が持ち上げられて、別の男に手渡されるのを感じ、それから暫く後には、地面に引きずられたり、どこかから投げ落とされたりして、死ぬほど痛い思いをする。さるぐつわを噛まされていたおかげで、幸い舌を噛むことはなかった。
 投げ落とされた後は再び拾い上げられ、上り坂や下り坂を運ばれているらしかった。真っ暗闇と恐怖一色に塗りつぶされた時間は、いつ終わるとも知れない。袋の中で息苦しさはいよいよ増し、恐怖し続けることにも疲れが出て気が遠くなりかけた頃、最後の衝撃が全身を打ち、キゲイは正気づいた。
 袋の口が開けられて、キゲイはようやく胸いっぱいに清潔な空気を吸う。木立の影と岩肌、その隙間にわずかに覗く夜空が見えた。投げ出された地面は石ころと土と砂で硬い。隣にはブレイヤールも袋から顔だけ出されて倒れていた。まだ気を失ったままらしい。側に石英のランプも、明かりがついたまま転がっている。その明かりは大分弱くなっている。
 人さらい達は、森の中の崖下で休息を取るつもりらしい。焚き火の黒い跡も見えたが、彼らは火は焚かずに火鉢らしき物のまわりに集まっている。近くに彼らの荷物が見えた。四つの人影がうろうろと動き、やがてそのうちのひとつがこちらにやって来る。キゲイは慌てて目を閉じ、死んだふりを決め込む。どうせ逃げられはしないのだから、何をされようと見ないでいた方がましだ。
 しかしやって来た人影は、ブレイヤールに用があったらしい。
「後ろ手か?」
「いや、前にしとけ。後ろ手にすると、こっちが世話焼くことになる。この先は自分で歩いてもらうんだからな」
 他の仲間とやり取りをした後、ブレイヤールの体を引きずってるらしい音と、ガチンという重い金属音がして、足音は去っていく。
 キゲイは薄目を開けてみる。ブレイヤールが上半身を袋から引き出されて仰向けにされており、腹の上で両腕に手枷をされているのが見えた。左頬は体当たりされて転んだときにできたらしい擦り傷で、一面に血がにじんでいる。分かったのはそこまでで、弱くなっていた石英ランプの明かりが消えると、辺りは暗闇になった。月明かりは崖の影に阻まれて、ここまで差し込んでこない。
 人さらい達は火鉢の側に集まって、ひそひそと何かを話している。キゲイは横たわったままのブレイヤールの影に視線を戻して、どうやって起こそうか迷っていた。何か声を上げようにも、さるぐつわを長時間きつく噛みすぎていて、顎が固まってしまっている。とりあえず人さらい達に気づかれないよう、キゲイはゆっくりと芋虫みたいに袋からにじり出ようとした。腰までどうにか出てこれたとき、ブレイヤールのうめき声が聞こえてきた。キゲイの心にパッと希望が芽生える。ブレイヤールが目を覚ましさえすれば、魔法で人さらいをやっつけて逃げることも簡単なはずだ。
「キゲイ、無事?」
 ややろれつの回らない、ブレイヤールのひそひそ声が聞こえた。返事をしようにもキゲイはさるぐつわをされている。そこで頭を動かして地面の砂利で小さな物音を立ててみせる。キゲイからはブレイヤールのシルエットが星明りに薄く見えるが、ブレイヤールからはキゲイの姿は崖の影に隠れてほとんど見えないはずだ。
「石人の城で誘拐なんて」
 ブレイヤールは呟いて、手枷を確かめるように両腕を少しあげる。それから胸の辺りで手をごそごそとやり、キゲイの方へ寝返りを打つ。
「例の物も無事? 連中に取られてないか?」
 キゲイは頷いた。人さらい達はこちらの持ち物をあらためたりはしなかったから、銀の鏡はまだ懐の隠しにあるはずだ。まさかキゲイのような子どもが、こんな大事なものを持っているなど、彼らは思いもしなかったらしい。
「縛られてるみたいだな。こっちに背中を向けて」
 言われるとおり、キゲイは後ろ手に縛られた背中をブレイヤールの方へ向ける。ブレイヤールは手枷で不自由な腕を伸ばし、キゲイの腕に触った。しばらくするとぷつぷつという感覚とともに縄が緩み、腕の痛みが軽くなる。そしてキゲイの手に、何か硬いものが手渡された。キゲイは両腕が離れて、自由に回せるようになったことに気づく。
「刃物だから、慎重に」
 ブレイヤールが言った。どうやら懐の小刀をそのまま持っていたようだ。とすると、人さらい達はブレイヤールの持ち物にも興味がなかったらしい。
 キゲイは横になった姿勢のまま、膝を曲げて両足を縛る縄を手探りで切った。最後に固く結ばれていたさるぐつわも真っ二つにして、大きく深呼吸する。ずっと食い縛っていたせいか、顎の付け根がギシギシ鳴り、ひどく痛む。
「キゲイ、黄緑の城まで戻ってグルザリオを探して。それで僕を助けに来てほしい」
 ブレイヤールの言葉に、キゲイは耳を疑った。キゲイはブレイヤールの体の影に隠れるようにして、相手に向き直る。
「なんで? 一緒に逃げようよ」
「……できないみたいだ」
 力のない囁きが暗闇から返ってくる。
「これは魔法封じの手枷だし、痺れ薬のおかげで、体の自由もまだ戻ってない。一、二、三で立ち上がったら、向こうの茂みまで振り返らずに走れ。あとは僕がおとりになる。キゲイは絶対に捕まるな。君は例の物を持ってるんだ。何かの拍子に連中に奪われるとまずい。これまで奪われなかっただけでも奇跡だよ」
「で、でも、怖いよ。あいつら、僕だけ殺すって言ってたもん……」
 体は自由になったはずだが、あのときの人さらい達の言葉を思い出すと、キゲイの体は自然と石のように動かなくなる。
 ブレイヤールはそれを知ってか知らずか、しばらく押し黙った。キゲイはブレイヤールの頭越しに恐々うかがう。人さらい達はまだ何か互いに話し合っていて、時々こちらに視線を送っていた。とても隙などない。こちらが動けば、彼らはすぐにすっ飛んでくるはずだ。
「僕は立つぞ」
 ふいにブレイヤールがそう言いきった。かと思うと上半身を起こす。人さらい達が声をあげて指をさした。キゲイは震え上がった。無我夢中で立ち上がり、こちらに向かって走ってくる人さらいを目におさめながら、身をひるがえす。
「走れ! 走れ!」
 ブレイヤールが声の限りに叫ぶのが聞こえた。後ろでブレイヤールがどうなったのか、振り返る勇気も余裕もなかった。いつだったか、今と同じように突然、何の覚悟も決まらないまま走らされたことがある。けれども今度の全速力には、間違いなく命がかかっていた。
 キゲイは崖の根に沿って転がるように走る。後ろから追っ手の声が聞こえ、それはやがて呪文を唱えるような朗々とした響きに変わる。しかしキゲイの身には何も起こらない。胸の辺りがちりちりするだけだ。そこは銀の鏡と三つ編みのお守りを入れているあたりだ。
 ブレイヤールの言った茂みは、真っ暗だった。足を下ろす地面もどうなっているのかよく分からない。キゲイは一瞬怯み、そこではじめて後ろを振り返る。男が一人、こちらに迫ってくる。キゲイは茂みの中へ飛び込んだ。
 飛び込んだ先は急な斜面だった。厚く堆積した枯葉の上で足を滑らせ、全身を叩きつけられながら転げ落ちる。足がつくたびにキゲイは何とか走ろうとあがく。暗闇の中で木にぶち当たり、根に足を取られてまた転ぶ。枝が頬をかすめて肌を裂き、キゲイは目を守るために片腕を顔の前に掲げた。追ってくる足音が聞こえるかどうかは、もう問題ではなかった。下り坂で勢いづいた体は、走ろうが転がろうが止まることができない。それでもとうとう真正面から木にぶつかり、跳ね返されて仰向けに倒れる。一瞬気を失ったが、柔らかい腐葉土の上でずり落ちた体を、ぶつかった木がとどめてくれた。
 地面に叩きつけられた衝撃の痛みをこらえながら、キゲイは暫く息を潜めた。転がり落ちている最中は、随分騒がしかった気がする。悲鳴もあげたかもしれない。しかし今は静まり返って、内側から突き上げるようにどくどくと鼓動する自分の心臓の音が、耳の奥から響くだけだ。
 じっと上を見つめる目に、ようやく張り巡らされた細かな枝の影と、夜空が形を現してくる。星が一面に散らばっている。キゲイは星を数えた。数えるうちに、気持ちが少し落ち着いてくる。枝のかすった頬にそっと触れると、指がべったりと濡れた。舐めると、血と涙の味がする。怪我をした頬は痛まなかったが、鈍く痺れた感じがある。キゲイは体を起こした。あちこち打ち身だらけのようだが、動けないことはない。キゲイは四つん這いになり、慎重に斜面を下り始める。まだ逃げ切れたとは限らないのだ。
 やがて地面の傾斜はゆるくなる。雲が晴れたのか夜空の明るさが増して、樹冠の影が濃くなる。月明かりの帯が枝葉の間から降り、森の地面を小さな島のように浮き上がらせる。辺りの静けさに気づき、キゲイはようやく安堵した。自分はもう完全に一人きりになったらしい。それは安全ではないが、少なくとも追われる心配はなくなったということだ。あとは黄緑の城を探せばいい。
 膝の痛みに耐えながら、今度は登りの道を探して歩き出す。見晴らしのいい場所に出て、城の位置を確かめたかった。時折どこかで、地面を蹴る鋭く乾いた音がする。その度にキゲイは足を止め、耳を澄ました。夜行性の小動物が、キゲイに驚いて逃げた音らしい。
 幾分か歩いたとき、その音が自分の周りでいくつも上がり、枯葉を蹴立ててすぐ隣を横切って行った。森の奥で狐らしいしなやかな影が、一瞬木々の向こうを過ぎ去る。キゲイも慌てて辺りを見回し、さっと身を伏せて近くの倒木と岩の影に隠れる。耳を澄ますと、何かが柔らかい地面を踏みしだいて歩く音がする。野生の獣にしては、ずいぶんのんびりした歩調だ。かといって、二本足で歩いてる感じでもない。キゲイは魔物のことを思い出す。息をつめ、服の上から胸に隠した三つ編みのお守りを触って確かめる。
 夜の淡い光の中、四つ足の姿が現われる。ほとんどシルエットでしか分からないその姿は、見たことがないものだ。もたげた頭からは牡鹿のような角が生え、胴は人に似ていたが、毛むくじゃらで背中が丸い。長い腕と短い足を交互に出して進み、立ち止まってはけだるげな動作で低い鼻面を枯葉の中に突っ込む。臭いをかいでいるようだ。
 それが魔物なのか、この辺りに棲む獣なのか、キゲイに知るすべはない。その生き物の鼻が鈍かったのか、お守りが効いたのか、ともかくも奇妙な影はキゲイに気がつく様子もなく、のったりのったりと森の暗闇へ去っていく。
 キゲイは安堵する。手足は力の入れようがないほどに震えていた。震えがおさまり、木と岩の狭苦しい隠れ家から出るのに、それからまた随分時間がかかる。
 得体の知れない場所を進まなければならない恐怖と体の疲労は、あの生き物を見たために、さらにキゲイの歩みを遅くした。頭は空っぽになり、城に戻って助けを呼ぶという使命だけが、方角を知らせる星として、胸の内でぽつんと輝いている。
 荒々しく削られた岩場がそそり立つ場所で、ようやく森が途切れる。見上げると岩場はあちらこちらが四角く削られて、明らかに人の手が入っている。その向こうに見えたのは、星空ではない。本来の空を圧倒して立つ、灯りをちりばめた巨大な黒い影。黄緑の城だ。
 キゲイは、岩場に沿って歩き出す。登れる所を見つけなければならない。宿を出てから随分時間がたったように思うのだが、夜が明ける気配はなかった。それどころか、辺りの闇が再び濃くなっていく。見上げれば、薄い雲が月を飲み込みつつあった。
——どうしよう。城からどんどん離れてる気がする。
 岩場を登ろうにも、この暗さでは足場を見つけることさえできない。いい加減歩き疲れてきて、キゲイは立ち止まってしまった。岩場は諦めて、別の方向に道を探した方がいいかも知れない。そう考え、森の方へ向き直る。すると、何か白いものが目の端にちらついた。
 キゲイは目をこすって、もう一度森の奥に目を凝らす。暗闇の向こう、木の幹が幾重にも連なる奥に、淡く輝く小さな人影のようなものが見える。
 あれがもし妖精ならば、時刻も不確かな真夜中に、あんなふうに光をまとって森の小道を歩いていても不思議ではない。あるいは、幽霊かもしれない。あれも真夜中に現れるものだ。
 ゆっくりと森の奥へ歩き去ろうとする人影に、キゲイは不審の目を向ける。どんなに行き先に困っていても、到底あれの後をつける気にはなれなかった。
 結局、岩場沿いに来た道を引き返す。息を殺し、白い人影に万が一でも気づかれないよう、足早に、音もなく。ところがそのとき、キゲイの隣で小枝と枯葉が砕ける乾いた音が立つ。間髪入れず、小さな影が目の前に躍り出てきた。内心怖くてたまらなくなっていたキゲイは、腰を抜かして地面に尻餅をつく。
 森から飛び出してきた影は、一人の女の子だった。目をまん丸に見開き、尻餅をついたキゲイの前で、構えるように仁王立ちになっている。純白の肌に痩せて目ばかりが大きい彼女は、紛れもない診療所から姿を消したあの子だ。
「なんで……」
 キゲイは言葉を詰まらせる。どうやって一人でここまで来たのだろうか。それよりもなぜ、この子は一人でこんな所にいて、自分とばったり出くわしたのだろう。そう思った直後、キゲイははっとして森を振り返る。
 先程の白い人影が、また見えた。なお悪いことに、今度はこちらに向かって近づいてきている。女の子がキゲイの腕を引っ張った。よく分からないが、逃げるべき状況のようだ。なのにキゲイは立ち上がろうとして足首をひねった。女の子も巻き込んで、地面にばたんと両手をつく。疲れきった体と頭は、もう素早い動きについて行けなくなっていた。
「ああー!」
 心底怯えきった悲鳴は、女の子のものだった。キゲイは悪夢を見るように、白い人影を見上げる。人影は目の前に来ても白いままだった。霧の塊のようなそれは、ぼんやりと人の形をしていて、頭の辺りだけが淡い萌黄に色づき、炎のようにさかまいている。人影はとてつもなく長身に伸びたかと思うと、二人の真上へ頭をもたげてくる。
 キゲイの手は、無意識のうちにお守りを握り締めていた。しかしキゲイ自身は、お守りよりも銀の鏡の方が頼りになるかもしれないと思っていた。禁呪の方が、目の前のこれをやっつけてくれそうな気がしたのだ。
 霧の塊が形を変えて、細長い腕のようなものを伸ばしてくる。その腕はキゲイの頭上を通り過ぎ、女の子に向かう。女の子は立ち上がって走り出す。腕はすぐさま霧の中へ戻り、人影も女の子を追ってゆらゆらと、すべるようにキゲイの目の前を通り過ぎる。
 キゲイの手の中で、お守りがパシッと小さな音を立てて弾けた。その音でキゲイは我に返る。焦げ臭い嫌なにおいが立ち昇った。見ると、お守りの三つ編みが途中で千切れて真っ二つになっている。一方の三つ編みだけが灰色に変わっていて、握りこむとはらはらと崩れてしまった。このお守りは、キゲイも知らない間にあの影と戦っていたのだ。
 キゲイはお守りの残り半分をしっかり手に持ち、立ち上がって白い影を追いかけ始める。不思議と全身に力が戻ってきていた。体を石のように固めていた恐怖心も、お守りが振り払ってくれたかのようだ。
 白い影自身が、明かりの代わりになった。影の歩いた跡は、ぼんやりと輝く軌跡が暫く残る。影の後姿は、長い衣を引きずる女の人にも見えた。風が吹けばそのまま飛んでいきそうなほどに頼りない輪郭を透かして、影から逃げる女の子の背中がちらつく。
 女の子が転ぶと同時に影はその側へ流れ込むようにすべり、再び伸び上がってかがみこむ。霧の腕が伸びて女の子の顔を覆うと、女の子は悲鳴をあげた。
亡霊「離せっ! このお化け!」
 キゲイは追いつき、影の背にお守りを突きつける。影は耳を持っていたのか、キゲイの方へ上半身をねじったように見えた。揺らめく頭部がすっとキゲイの顔の側まで近づく。キゲイは眩しさに目をしかめ、お守りを突きつける。
 真っ白な相手の顔の中に、深い紫の宝玉が二つ浮かんだ。キゲイはぞっとしたが、すぐにその心を押し殺し、手にしたお守りを振り上げて影の顔を打つ。お守りは煙をたたくように、なんの手ごたえもなく顔の中をすり抜けてしまう。
 ところが影は音も無く仰け反った。紫の瞳が消えたかと思うと、キゲイの左腕に焼けるような冷たい痛みが走る。影から伸びたもう一本の腕が、キゲイの左腕に巻きついていた。つかまれている感覚はないのに、すさまじい力でねじり上げられたような痛みだけが、影に覆われた部分から肩まで広がる。その痛みが左肩から心臓に達する前に、キゲイはお守りを無我夢中で影の腕に叩きつける。
 今度も手ごたえはなかった。それでも影の腕はするすると引っ込んだ。女の子をつかんでいた腕も、影の中に消える。お守りから火花がはじけ、三つ編みの編み目一つ一つから、小さく鋭い光が漏れた。キゲイはそのお守りを影に突き出す。影はじりじりと下がる。
「消えろ!」
 キゲイは叫び、編み目のひとつに指をかけると、思い切り引きほどいた。編み目の光がぱっと夜の森に弾けた。長身の影が足元から溶けて地面にべたりと広がる。水溜りのように平たく伸びると、地面に込まれて段々と薄くなっていく。
 キゲイはさらにもう二つの編み目を、水溜りの上でほどいた。再び光が弾け、それを最後に水溜りは完全に消え失せる。お守りから漏れていた光もまた、かすかになって消えていった。
 どのくらい時間が経ったろうか。辺りが清浄な夜の闇を取り戻したのに、キゲイはようやく気づく。耳の奥ではどきどきと脈が踊っている。前に突き出したままのお守りは、もう光ることもなくただの三つ編みに戻っている。キゲイの向かいには、女の子が地べたに座って、短くなった三つ編みをぽかんと見つめていた。
 キゲイは息をついた。一番の危険は去った。女の子も見つかったわけだし、あとは城に戻る道を探すだけだ。彼はそう思った。しかし、まだ終わってはいなかったのだ。
 影の消えた地面からはっきりと、耳をつく凄まじい叫び声が響いた。声は途切れることなく長く続き、キゲイは耳を押さえて自分も悲鳴をあげる。それと同時に木の葉交じりの強い風が、キゲイの背中を打つ。地の底からの声に答えてか、天からも引きつった絶叫が降ってきた。空を見上げると巨大な翼を広げた鳥のようなものが、今まさにこちらに向けて鉤爪を伸ばすところだった。

 それから自分がどうなったのか、キゲイには記憶がない。確かなことといえば、自分はそれなりに立派に、得体の知れない光のような幽霊と戦ったということと、鷲のような鳥にさらわれたが、まだ生きて元気だということだ。でもこの状況では、それはなんの慰めにもならない。
 キゲイの耳に、すぐ隣でわんわん泣いている女の子の声は、あまり届いていなかった。目覚めてすぐこの声を聞きつけたときは、骨でも折ったのかと心配したのだ。しかし単に恐怖の名残で泣いているだけらしいと分かると、放っておいた。ある意味、助かったことを喜んで泣いているようなものだ。
 辺りの景色は森のままだった。けれども森の様子は、あの晩彷徨った森と似ても似つかない。木々の種類も地面の様子も森の匂いも、全然違う。おまけにくぼ地の影には白い雪が残り、霜が一帯の地面を覆っているのだ。
 女の子の声が枯れてきた。キゲイは視線を自分の左腕に落とす。袖をまくると、幽霊につかまれた辺りの肌が赤いあざになっている。差し込んできた朝日が腕を照らすと、あざはみるまに小さくなっていき、最後には跡形もなく消えてしまった。なんだか、見てはいけないものを見た気分だ。キゲイはおもむろに袖をなおし、立ち上がって朝日の方向を確かめる。
 自分達がいる高台から北には山がそびえ、東西と南は森林しか見えない。さらにその向こうには薄青い山々の稜線が重なっている。月が山向こうに半身をのぞかせ、光に溶けながらうっすらと輪郭を保っていた。
「……なんかさ、やっぱり人間は石人の世界じゃ生きていけないと思うよ。魔物はいるし、あんな変なお化けはいるしさ。耐えられないと思うんだ。こんな世界」
 言葉は通じないと分かっていても、キゲイは女の子に愚痴らずにはいられなかった。女の子はようやく泣くのをやめて、キゲイの方を向いた。その顔には、相変わらず表情というものがほとんど現われていない。さっきまで大泣きしていたのが嘘みたいだ。言葉が通じないこともあわせて、キゲイはどうしてもこの子を不気味に思う気持ちを拭えなかった。だからといって、ここに置いていくわけにも行かない。
 キゲイは森の海をもう一度見渡す。思い起こせば、アークラントの険しい山を越えて大空白平原に出たときも、地平の彼方まで続く灰色の大地に驚かされた。住み慣れた国を後にする不安も忘れて、地平線のどこかにいる英雄をまっすぐ迎えに行けるのだと心がはやった。今もそのときと似た、何かを新しく始めるような気持ちがしている。もっともそれは、わくわくでもどきどきでもない。背後では常に絶望が待ち受ける、緊張に満ちた静かな気持ちだ。あのときと違うのは、頼れるのが自分ひとりだけということ。驚くくらい冷静でいられるのは、そのせいかもしれない。最初の放心からも、すこしずつ立ち直り始めていた。
 日が高くなるにつれて、青い影だった世界が色彩を取り戻し始める。
 キゲイはずっと右手に握り締めていたお守りに、初めて目をやった。三つ編みのお守りは、編み目が数えるほどしか残っていない。けれども、編み目はほどけてはいなかった。調べてみると、一見ただの三つ編みに見えるこのお守りは、もっと複雑な編みこみを内に隠していた。そのおかげで簡単にはほどけないようになっているらしい。ブレイヤールが魔力を織り込んだのも、この細かな編み込みの方だったのだろう。強めに編み目を引っ張ってみるが、編みこみは崩れなかった。あのとき、よくこの編みこみを指一本で引きほどけたものだ。キゲイはお守りを丁寧にたたんで胸のポケットにしまう。そこにはあの銀の鏡も、まだちゃんと入っている。
「行こうか。歩けるよね」
 キゲイは女の子に声をかけて、北の連山に視線を移す。地読みの民としての感を働かせなくとも、辺りの様子から自分達が黄緑の城からかなり南に連れて行かれたことは分かる。冬がまだ立ち去らない方角。石人世界奥深くに連れ込まれたのだ。ならば北へ向かえば、いつかは境界石の連なりに行き当たるはずだ。行き着ければの話だが。
「僕、森は歩き慣れてるんだ。里も山の森ん中にあったから。ここはトウヒが多いから、里の森に帰ってきた気がするよ」
 女の子はキゲイの言うことに耳を傾けた。石人語も分からない彼女に、「言の葉」も通じてはいないだろう。身なりは診療所で会ったときのままで、暖かそうな格好をしていたことだけは救いだ。ズボンの膝が少し破れて血がにじんでいる。かわいそうだが、我慢して歩いてもらわないといけない。
 キゲイは腰に巻いていた下帯をはずし、首もとに巻きつけてささやかな防寒をする。そして女の子を促しながら、北に向かって斜面を下り始めた。

十二章 黄金色の国

 愕然とした。日が昇り、ようやく自分の両手を繋ぐものをはっきり認めたとき、驚きと怒りと絶望が一緒くたになって心を押し流し、後には虚脱感しか残さなかった。彼の両手首を封じる古ぼけた魔法封じの手枷には、白城の紋章がしっかと刻まれていたのである。そして枷の裏側には、星の神殿の紋章も。
 普通の魔法封じの手枷なら、時間をかければ外せたはずなのだ。放心してそれを眺めるブレイヤールは、この手枷の素性をおぼろげながら想像することが出来た。
 七百年前白城の王が亡くなり、王の守護を失った人々は、レイゼルトを恐れて城から次々と逃げ出した。その最中、どさくさにまぎれて城から持ち出された品々は数知れない。この手枷も、白城の紋章が刻まれている以上そういった品のひとつだろう。あるいは白城が滅びた後、宝物庫やその他の倉庫から盗み出されたのかもしれない。白城は今日まで多くのものを盗まれ続けてきたが、人間が盗んだものより石人が盗んだものの方が遥かに多いのが現実だった。
 いつの時代にか盗み出されたに違いないこの手枷も、何の因果か、最も皮肉な形で本来の持ち主の元に返ってきたわけだ。手枷は禁呪使いが多くいた時代、彼らの力を封じるため、当時の大巫女様が自らの魔力を封じて作らせたものだった。数十もの枷が、それぞれの城の紋章を付して十二城に配られた。
 ブレイヤールは手枷を近くの岩にぶつけてみる。手枷にかけられた魔法封じの力も強力なら、手枷に使われた金属も、錆だらけにもかかわらず丈夫だった。痛んだのは自分の手首だ。
「うるせえぞ! 静かにしな! また痛い目にあいてぇのか?」
 エランと呼ばれるあの嫌な人間の男が、怒鳴りつけてきた。キゲイを逃がした後、ブレイヤールは大声で誰かに助けを呼ぼうとしたのだが、すぐさまこの男に二度も腹を蹴られて黙らされたのだ。おかげでその後は、息をするだけでも胸の下あたりが鋭く痛むようになってしまった。
 エランの他には、ニッガナームと呼ばれる石人の大男と彼が連れている二人の石人がいた。三人の石人達は、それぞれ顔や腕に文様を施している。彼らはブレイヤールと極力目を合わさないようにしており、エランの行動に不快な表情を見せていた。石人にとって王族に手を出すのは、どんな悪党でも後ろめたさを感じるものだ。もっともブレイヤールの場合は、王族とはいえ城が滅びていたから微妙な身分ではあった。ニッガナームの煮え切らない態度も、ブレイヤールをまともな王族として扱うかどうか、複雑な気持ちのせめぎ合いからきていそうだ。
 ルガデルロが常に彼に言い聞かせてきた言葉の一つが、「王族としての振る舞い」だった。時に煩わしくさえ思っていたこの言葉が、今の自分の威厳と身の安全を守る唯一のものとして、ふっと脳裏に蘇る。手枷に施された白城の紋章が、それを思い出させたのかもしれない。王族の振る舞いはエランには通じないかもしれないが、ニッガナーム達には通じる。
——怖がったり、惨めな表情を見せたりするのは、絶対に駄目だ。
 ブレイヤールはそう悟る。かと言って、手枷をされながらも威厳を持ってどっしり構えるというのは、彼には無理そうだった。こうなると、ひたすら無表情を貫くほかない。
 朝食に出されたのは、塩漬けの魚の切り身に、干した林檎と水だった。ひりついた喉に冷たい水は心地よかった。魚は塩味が濃すぎ、かえって喉の渇きを酷くしそうなので手をつけずにおいた。干した林檎は海綿のような食感で、ほのかな甘味があった。
 食事がすむとブレイヤールには目隠しがされ、両脇に石人がついて彼を歩かせる。靴は逃亡を防ぐため、とうの昔に取り上げられている。おかげで地面のでこぼこが足裏に痛い。とても長い距離は歩けそうにないが、この地面の感触が、唯一自分がいる場所を教えてくれるものでもある。
 辺りが肌寒くなり、日が翳ってきた気がした。随分歩いた。日暮れ時なのかもしれない。ここでようやく目隠しがはずされ、ブレイヤールは没しつつある紅の太陽に目を瞬かせる。いるのは両側が切り立った崖の小さな谷で、谷底には川が流れている。崖の下の方には小さな穴がいくつか見えて、明かりが漏れていた。
「こっからは自分の目で見て歩くんだな」
 ニッガナームが背後からどすのきいた声で呟く。手下の石人二人が先に崖沿いの道を下っていき、ブレイヤールがそれに続いた。後ろから、エランの耳に絡みつく、独特の笑い声が降ってくる。
「いーへっへっ! 本当に想像もつかなかった拾いもんだぜ! 黄緑の城に白髪の王族様がほっつき歩いてるなんてよ! いつもなら金持ちの家に忍び込んで金目の物を失敬するだけが、まさか人に手をだすたぁな! へっへっへえっ」
「馬鹿はいつだって幸せもんだな」
 異常なほどに上機嫌なエランの言葉に、ニッガナームの苦々しい答えが続く。
「十二国の王族に手を出したら、呪い殺されるってぇ話がある。迷信だと信じたいがな。だが頭目がこいつを見たら、大喜びするのは分かってるんだ」
 ブレイヤールは「頭目」の単語を聞きつけ、小さく頭を振って淀んだ疲労を振り払う。そして二人の会話に耳を澄ました。再びエランの下卑た含み笑いが聞こえる。
「なんだぁ? いまさら怖気づいてるのかい。冷血のニッガナーム様がよ。あの手枷で魔法を封じてんだろ。今のあいつはただの青っ白い小僧で、俺達の獲物ってわけだ。しかも、近いうちに黄金に化けるんだぜ。俺の人生で、これほど楽に冠付きの獲物が取れたことは初めてだ。人間世界で王族を捕まえたかったら、セジアム辺りのど田舎で村みてぇにちっぽけな国を探して、どうにかこうにか痩せ馬並に貧相な王子とか姫を、とっ捕まえられるくらいだからなぁ。んでも、血統がいいのは高く売れるんだ」
「そんなのと比べられるようじゃ、石人の王族も落ちたもんだぜ。てめぇら人間が俺達に隠れて何してるか、知らないことにしてやってんだ。すこしゃ、黙っときな。第一そいつは、金になるかどうかもまだ分からねぇんだ」
「じゃ、こんなガキいらねぇよ」
 嫌な気配が背中に迫り、ブレイヤールは突然突き飛ばされた。完全に不意を突かれ、捉えきれない速さで視界がぐるっと回る。身を守るため、反射的に広げようとした両腕は枷に阻まれた。もはやなすすべもなく、坂道を頭から転落しかける。かと思うと次の瞬間強い力で襟首が締め付けられ、再び視界が一転して崖肌に叩きつけられた。彼は目を見開き、荒く息をつきながらへなへなと膝を曲げる。心臓が口から飛び出さんばかりに激しく打っていた。
 エランの馬鹿笑いと、ニッガナームの押し殺した怒鳴り声が聞こえる。
「正気か、この野郎! めったなことするんじゃねぇ! おい、お前ら、立たせろ!」
 先を歩いていた二人の石人が戻って来て、放心状態のブレイヤールを両脇から抱え上げる。エランの笑い声だけが、しつこく続いていた。
 崖の下には洞穴が開いており、盛んに火の粉を飛ばす松明が洞内を照らしていた。最奥に岩盤を荒く削りだした上り階段と、見張りらしき石人の姿がある。その石人も額に魔除けの刺青を施していた。エランとニッガナームは先に階段を上って行ってしまい、ブレイヤールは暫く待たされた。その間に見張りの石人が松明からランプに明かりを取り、ブレイヤールの脇を固める石人の一人に手渡す。
 階段を上った奥は、坑道のような多くの脇道を持った通路が延びていた。時々通気と採光をかねた小さな穴が、左手側に現われる。しかし右手に伸びた細い道に入ると、ランプの明かりだけが頼りになった。二人の石人は、突き当りの木戸の前で立ち止まる。一人が鍵を取り出し扉を開ける。扉の向こうは奥行きも知れない闇しかない。もう一人が黙りこくったまま、ブレイヤールの背を扉の向こうまで押す。それは、ひどく遠慮がちな押し方だ。ブレイヤールは後ろを振り返る。
 石人と目が合った気がした。ランプの明かりは相手の背後にあって、その瞳も額の下でわずかに照り返した二つの小さな輝きに過ぎない。輝きは妙に震えていて、落ち着きがなかった。相手が萎縮していると分かったとき、ブレイヤールは自分が白城の王族であったことを思い出す。ブレイヤールの顔はランプに照らされて、二人の石人からはこちらの表情が分かるだろう。
 何か言った方がいいのだろうか。ニッガナームよりはこの二人の石人の方が、脅しやすそうではあった。ブレイヤールは考えるために一瞬まぶたを硬く閉じ、眉を寄せる。次に目を開いたときには、何も言わない方が賢明だろうと考えた。単に気のきいた言葉を思いつけなかったのもあるが、口をきくべきは目の前のつまらない二人ではなく、ニッガナームが頭目と呼んだ人物のはずだ。
 彼は自分から背を向けると、暗闇の中へ足を踏み出す。するとその後ろで静かに扉が閉められ、鍵がかけられる。彼は遠ざかる足音が完全に聞こえなくなるまで、じっと動かず待った。去る足音は、ほとんど駆け出さんばかりだった。
 完全に一人きりになると、ブレイヤールは真っ暗闇の中で左右の足を回し、この場所を確かめる。右側に木箱らしき物があり、軽く蹴ると中身があるのも分かる。その脇には麻袋もあった。中身は粉か砂かがぎっしり詰まっている。左側は何もないようだが、すり足で空間を確かめていくうちにすぐ岩盤に突き当たった。
——牢屋というより、ただの小さな倉庫だな。とすると、案外すぐにここから出されるのかもしれない。
 鼻をひくつかせると、白城の地下食料庫と似た匂いがする。古い小麦粉や、カビかけた香草類が、木箱や麻袋に詰まっているに違いない。詰まっているだけ、白城の食料庫よりましなのだろうが。
——城を捨てた石人達の住居か。
 ブレイヤールは自分をさらった者達の素性に思いをめぐらせた。
 石人世界は魔法の力が強く、魔物や邪妖精の存在に溢れていて、城以外で安全に暮らせる場所はまずない。それでも城での暮らしを捨て、神殿の加護すらも避け、こういった生き方を選ぶ者達がいることは知っていた。多くの場合は、その城の王族の恨みをかったなどで城に居づらくなった貴族が王の報復を恐れて城を去り、彼らの親族や信奉者とともに隠れ家を建設する。もしくは、何らかの理由で神殿の決まりに従わず、罰を恐れて城を出る者もいる。しかしどんなにやむない理由があったとしても、ブレイヤールをはじめ多くの石人達にとって、彼らの選択を理解することは難しかった。大巫女様のいらっしゃる神殿から離れ、王が守る城での暮らしを捨てたら、石人に何が残るというのか。精神の拠り所もなく、天と地に渦巻く魔法の力の真っ只中で、邪妖精に正気を奪われ、魔物に命を狙われ、影に魂を蝕まれる危険に怯え続けなければならない。
 しかし大空白平原に近い土地であれば、地に宿る魔法も弱まり、危険もある程度払いのけられるものとなってくる。この崖の内部に掘り込まれた住居は、実体を持つ魔物達から身を守るのに最適だろう。けれども、空気のようにどこにでも入り込む邪妖精から身を守るには、様々な護符や魔除けの文様を身に付けるしかない。ニッガナームや他の石人達が体に文様を施していたのは、そのためだ。護符を持つより、体に直接描く方がより強力な守りになる。そもそも城が建設される以前の石人達は、皆あのような刺青や色とりどりの顔料で肌を覆うのが普通だったらしい。
 ブレイヤールは暗闇を見透かそうとする。光がなくても、妖精達の影は見えるものだ。けれども手枷で魔力を封じられているせいか、彼らの姿を捉えることはできなかった。気配だけは感じられるのだが。
 彼は岩壁に背を持たせかけ、まぶたを閉じた。何も見えないのだから、目を守るためにもそうしておいた方がいい。邪妖精は、瞳の中から心に潜り込むことだってできる。
——生きてここから出られるかな。ここの連中も、僕をどうするつもりか分からないし、あいつも頭目が大喜びするって言ってたし。……なんで喜ぶんだろう。僕を殺したって、白城に移り住むなんて出来るはずがない。黄緑の城がそれを許さないし、そもそも王族の命を奪えば、星の神殿からして黙っちゃいない。
 肘を上げ、両腕を左右に開こうとする。手枷の鎖が強い手ごたえとともに、チャリンと高い音を立てた。この手枷に知恵があるなら、自分が白城の王を窮地に追いこんでいることを知るべきだ。白城の紋章を刻まれているというのに。
——石人と人間がぐるになって、悪事を働くなんて。ここの連中はなぜ城を捨てた? もとはどこの城に住んでいたんだ。いつからここで暮らしてる。こんなところじゃ、魔物に命をさらし、邪妖精に魂をさらし、畑をやれる柔らかい土も安全もない。……食料を得るには、大空白平原の人間達と手を組むしかない。
 ブレイヤールは深い溜息をつく。大空白平原の無法な空気は、石人世界にも確実に影響を及ぼしているのだ。七百年前の約束であの平原には誰も入ってはいけないことになっていたというのに、約束を破った人間達が恨めしい。もちろん入ってきた人間達は善人ではなくならず者で、そういった連中に約束を守ることを期待しても無駄なのだが。
 そこで彼は、石人の古い歴史を思い出した。
——神殿しかなかった時代でも、神殿の守る都市から出ていく者達はいた。……初代十二王達は、その最たるものだったのかもしれないな。正十二国創設の理由も、神殿の腐敗した権力と支配から石人達を解き放つのが目的だったはずだ。なのに今度は、その城から逃れようとする石人達がいる。白城の者達など、七百年前からずっと、いつか城を蘇らせることを夢見ていた。城を捨てる者達の存在を知りもせず。何千年も前から、城は神殿以外で石人の生きる唯一の場所だった。そう信じて疑わなかった。
 そこでブレイヤールは思考を中断する。
「来るな、来るな。随分太ってるのに、まだ食べたりないのか!」
 彼は息を殺して見えない相手に囁き、魔除けの呪文を呟く。獲物を嗅ぎつけた邪妖精達が暗闇から現われて、彼の体に触れようとしているのを感じたのだ。さほど力を持っている相手ではないが、手枷をはめられている今は油断できない。彼らはブレイヤールの心に恐れや疑いを見つけ、それを食べにきたのだ。けれども彼らは十分太っている。他の石人達から食べた負の感情で肥えたとしか考えられない。
「白城を蘇らせるなんて、ばかげてるのか」
 暗闇の中で、なすすべもなく問いかける。それが全ての問いだという気がした。答えはたくさん必要だったが、何一つとして良い考えは浮かんでこない。
——ところで、まだここにいなきゃいけないのかな。
 恐れる心を、妖精に少しばかりかじられたのかもしれない。虫食いの心はさらに脆くなるものだ。頭目の前に引き出されるのが、怖くて仕方がなかった。相手の出方が分からない上に手枷で魔力を封じられているとあっては、自由になる口だけが文字通りものをいう。しかし言葉が見つからなければ、口だって封じられたのと同じだ。
 ブレイヤールが暗闇でうつうつしていると、足音が近づいてきた。声も聞こえてくる。二度と聞きたくもないあの声は、エランのものだ。あの声はもう、激しい怒りと苛立ちしか呼び覚まさない。そしてそれが今はありがたかった。この怒りをエランではなく、頭目に対してぶつければいい。彼はどうにか気を奮い立たせる。
「待たせたなぁ? この国の王様がお会いになられるぞ! ……おお怖い怖い」
 扉を開けて顔をのぞかせたエランを、ブレイヤールはすっくと立って睨みつけていた。馬鹿にしたように怖がって見せるエランの後ろには、ニッガナームもいる。
「頭目か、王か、はっきりさせろ」
 ブレイヤールはニッガナームに向かって言い放つ。かなりの勇気がいったが、言い切ってしまうと妙に覚悟が決まった。
「会えば分かる」
 ニッガナームは無表情で、ほとんど唇を動かさないまま答えた。彼は腕を伸ばしてブレイヤールの手枷を掴み、扉の向こうから通路へ引き出した。
 ブレイヤールはエランとニッガナームの二人に前後を挟まれ、岩穴の通路を延々と進んでいった。

 道が上りに転じ、行く手に明るい出口が見えてくる。視界が一気に開けた。
 そこは大きな岩の広間だった。三階分もの吹き抜けになっており、各階には木の手すりがついたテラスが壁面をぐるりと囲っている。壁面の一方には窓のくり貫きがあり、夕の最後の光を取り込んでいた。木製のタイルが敷き詰められた床の上には、暖と明かりを兼ねた火桶が置かれている。天井を支えるために残された三本の岩柱は、荒く削られたままの無骨な姿だ。
 広間の最奥には厚手の毛織物を天蓋にした台が設けられ、一目で王座と分かる立派な椅子が据えてあった。椅子は差し込む夕日を浴びて、黄金色の輝きに曇って見える。広間の中でそこだけが、異質の空間を醸し出していた。王座の周りには、ありとあらゆる財宝が積み上げられていた。金銀宝石の他にも、見事な陶器の壷、手の込んだ装身具、目もあやな織物、極彩色に彩られた彫像の数々。広いだけの空洞に、なぜかそこだけが無秩序に高価なもので飾られている。
 ブレイヤールの踵をエランかニッガナームかが蹴って、王座の階段下にひざまずかせる。ブレイヤールは半ば呆れつつ、半ばこの仕打ちに憤慨しながら、豪奢な王座を見上げた。こんな王座を作る余裕があるなら、広間をもっときれいに整えたほうがいい。
「王の御なり!」
 広間にはいくつもの出入り口の穴があったが、ひとつだけ立派な木の扉が取り付けられた所がある。その両脇に整列していた十数人の石人達が、広間にとどろく大声で告げた。扉が重々しく開き、見事な体格の大女が現われる。
 たっぷりとした胴回りに、日に焼けた逞しく大きな手足。顔は横に広く、目鼻の作りも大振りで左頬から顎にかけて鮮烈な紅がひいてある。魔除けの刺青というより、顔の古傷を隠しているか目立たせているかのどちらかだろう。癖のある髪は見事な黄金色で、頭の上で縛ってまとめている。広間に入ってすぐ、鮮やかな紫の瞳はブレイヤールを鋭く見据えていた。彼女の一歩一歩には重量感があり、その足の下でタイルがミシミシと音を立てる。彼女は悠然とブレイヤールの前を通り過ぎ、王座に腰を下ろした。彼女の後から何人かの石人の子ども達が続いて現われ、王座の周りを取り囲んで、思い思いの場所に座り込む。丸めた絨毯を椅子代わりにする者もいれば、彫像の台座の端に腰掛ける者もいる。年齢はブレイヤールと同じくらいの者から、年上の子に抱かれている幼児まで様々だ。そしてどの子も同じように見事な金髪をしている。
「これはこれはクラムアネス様。今宵もご機嫌麗しく何よりでございます」
 エランが大げさな身振り手振りで、王座に向かって恭しくひれ伏す。彼はブレイヤールの髪を掴んで、一緒に頭を下げさせた。ブレイヤールも女の姿に圧倒されて、ついつい抵抗も忘れて額を床に打ち付けてしまう。あの女になら、確かにあの王座も似合う。どっちも個性が強くて、品がなくて、強烈な存在感だ。
「面白いものを捕まえたと聞いてね。子ども達にも見せてやろうと思ったのさ」
 クラムアネスは低いガラガラした声で答える。エランは再びブレイヤールの髪を引っ張って、顔を上げさせた。クラムアネスは目を細め、満足げにブレイヤールの顔を見やる。
「ニッガナーム、この坊やには見覚えがあるけど、どこの子だったかねぇ?」
「白城の王族でさ。崖の王」
 クラムアネスは明らかに無駄なやり取りで、王族を辱められるこの状況を楽しんでいた。エランもまるで王に対するようにクラムアネスに接し、ニッガナームも彼女を頭目と呼ばずに王と呼んでいる。十二色の王以外、王の存在を認めない石人世界では、こんなことはただの王国ごっこにしかならない。しかしたとえ「ごっこ」だとしても、クラムアネスは大勢の手下を従えており、ブレイヤールを殺すのも生かすのも好きに出来るのは確かだった。そして王族を殺してしまえば、これはもう「ごっこ」ではなくなる。
「茶番はもう十分だろう」
 頭を振ってエランの手を振りほどくと、ブレイヤールはクラムアネスに目を据えた。
「私を使って何がしたい? いずれにしても、お前達は神殿と十二城を敵に回すことになるぞ。この崖の中だけで大人しく暮らしていればいいものを」
 クラムアネスは王座から身を乗り出し、ブレイヤールの様子を楽しげに眺める。彼女は神殿や十二城の言葉にも動じなかった。一方で周りにいる手下の石人達がわずかな不安の表情を見せたのを、ブレイヤールは見逃さなかった。そして、クラムアネスの周りに座る彼女の子ども達も、年かさの者だけが眉をひそめて母親の背を真剣な表情で見守る。つまりここにいる石人の殆どは、神殿や十二城の権威を知っていて、恐れている。
「お前がここにいることを知ってるなら、確かに十二城は黙っちゃいないだろうねぇ。けど、神殿はどうだろうかね」
 クラムアネスは丸太のような右足を上げて、悠々と足を組む。
「滅びた国の王族のために、わざわざ神殿が動くかね? その昔は、紫城だって見捨てたのに。神殿はまだ、十二城から奪われた覇権をひとつに戻すことに、ご執心なのさ。恐ろしく気の長い話じゃないか。十二城建国は何千年前の話だってんだか。大巫女様と九竜神官様も、根っこは割れちまったしね。城にもちゃっかり神官が入り込んでる。星読みの神官どもが城内で力を持って、連中の名付けには王だって口出しできない」
 ブレイヤールは黙っていた。「名付け」の書を得られなかったために、十二城は神殿から完全に独立することができなかった。石人にとって、宇宙の星々から与えられる名前ほど、大切なものはない。名前を得られなければ死後の魂は帰る星が分からず、永遠に虚無をさまよう。
 あるいは不吉な名前を持てば、それもまた不幸だ。災いをもたらすとして神殿に連れて行かれ、生涯そこから出ることを許されず、王も彼らを城に留めることを許されない。ここの者達が城に不満を持っているとしたら、原因はそこにあるのだろうか。だとすれば、城を捨てた石人達の問題は根が深い。
「で、お前をどうするかだけど、もう用は済んでいるのさ。白の王族がいなけりゃ、白城はただの廃墟。あそこにはまだ財宝がたんまり埋もれてる。神殿も十二城の勢力がまたひとつ消えて、喜ぶだろうさ」
 クラムアネスは片腕を上げる。その合図でエランが、ブレイヤールを立ち上がらせるために襟首を掴む。ブレイヤールは苛立ち紛れに身をかわそうとしたが、ニッガナームに突き飛ばされて階段の上にうつ伏せに転んだ。歯を食い縛って痛みと屈辱に耐えながら見上げると、クラムアネスがにんまりとこちらを見下ろしている。
「自分が死んだら、『面』を顔に当てて大笑いする連中がいるってことは、知ってるだろう? 悪いけど、お前はもうあそこにゃ帰れないんだよ」
「今白城を空けたらどういうことになるか、分かっているのか!」
 再び襟首を掴まれて階段から引き剥がされながら、ブレイヤールは怒鳴った。
「大空白平原から人間達が入り込もうとしているんだ! 平原の人間と取引してるのに、何も知らないのか!」
「だ、か、ら、今が時期だったんだよ。お前をとっ捕まえるね」
「……やはりお前達は、平原の人間とつながりを持ってるんだな」
 ブレイヤールは声を落とした。相手が突然おとなしくなったのでクラムアネスはきょとんとしたが、次の瞬間には両膝を打って嬉しそうに頷いた。
「そうそう! さすがに少しは頭が回ってるようだ。わたしらが生きていくには、確かに城や神殿なんぞよりも、平原の人間どもが頼りなんだよ。ねえ、エラン。お互い随分儲けたじゃないか」
 クラムアネスは両腕を広げ、王座の周りに積み上げられている財宝を示す。しかしブレイヤールはそれを無視して、さらに問う。
「それより、『今が時期』とはどういうことだ。おまけにお前は私を捕まえて、神殿が喜ぶともいった。神殿を喜ばせることが、お前達に何か関係でもあるのか。むしろ私の姿がなくなれば、実際はどうであっても、神殿は私の行方を十二城とともに捜そうとするはず。黄緑の城は遅かれ早かれ、必ずここを探り当てるぞ。なぜ私をさらうなどという危険を冒した」
 クラムアネスの顔から笑みが消え、見た者をぞっとさせる余裕の表情だけが残った。彼女は王座から立ち上がり、階段を下りて近づく。そしてブレイヤールを哀れむように、うって変わった静かな声色でゆっくりと語りかけた。
「かわいそうに。結局十二城は、神殿の助けがなけりゃ王族一人を助けることすら出来ない。そうだよ。わたし達の国から利益を得ている者の中には、神殿のとある神官様がいらっしゃるんだ。お前はどうなのさ。あの廃墟みたいな城と、化石同然に頭の古い家臣どもと、それ以外に何を持っている?」
 崖の王の問いかけに、白王は憤然と両腕を繋ぐ手枷を突き出す。そこでとうとうクラムアネスはたっぷりした胸を揺らし、カッカッカと本気で笑い出した。笑いの発作がおさまると、彼女は目に浮いた涙を指で拭いながら、エランとニッガナームに指示する。
「膝が震えているくせに、なかなか洒落た答えじゃないか! ひとつこいつの運命を試してやろう。なに、王を直接手にかけるのが怖いわけじゃない。ただ、この崖の国の連中に見せてやる必要がある。十二王族なんて、しょせん過去の歴史に乗っかってるだけの、ただの石人だってね。こいつらは惰性で王位に居座り続けているだけなのさ。だから廃墟しか持ってなくても、恥知らずに王族を名乗ってられるんだよ」
「どういたしましょう?」
 エランは不安そうに尋ねる。彼はブレイヤールを平原に売り飛ばせば、大金になると思い込んでいたのだ。しかしクラムアネスはあっさりとこう言った。
「地下の牢に一晩置いておきな。明日の朝まで生きてたら、また考えるさ」
 彼女はきらびやかな金糸刺繍のマントを翻し、来たときと同様子ども達を伴って、のっしのっしと広間を後にした。
 その場に残されたエランは、ニッガナームに食い付く。
「どーいうことだよ! ええっ?」
「だから言っただろ。こいつは金になるかどうか分からんってよ。今まで散々儲けさせてもらったんだ。たまにゃ、俺達の都合にも付き合いな!」

 水の滴る岩穴の向こうに、腐りかけた隙間だらけの木の扉が見えてきた。蝶番も錆びてボロボロで、強い力を加えれば、簡単にばらばらになってしまいそうだ。番人らしき石人は、無駄とも思える扉の鍵を開け、ブレイヤールを促す。エランとニッガナームに引きずられるようにつれてこられた場所は、この冷え冷えとした地下だった。ひどい湿気も、崖を流れる川から染み出しているのだろう。
 扉の向こうに、錆だらけの金属格子が見える。手前には見張り用と思われる、小さな机と椅子。もっともこれも腐りかけている上に、緑っぽいぬるぬるした苔か藻かで汚れている。格子の向こうは水が満たされていた。一見、水責めの監獄といったところだが、壁面に複雑に掘り込まれた四角い溝があり、すぐ下に素焼きの配管が散乱していることから、本来は坑内の排水管理の部屋だったのかもしれない。
 番人は格子戸を引き上げる。ブレイヤールは戸をくぐって水の中へ片足を突っ込んだ。水の鋭い冷たさが肌を貫く。三つの石段を降りたところが水底だった。すぐ背後で格子戸が落とされる。ブレイヤールは腰まで水に浸かりながら、番人がこそこそと部屋から立ち去っていくのを見た。ぼろぼろの木の扉が閉められて、閂を差す音がした。どうやら先ほどの蝶番は、さっき開けたときに壊れたらしい。
 明かりを机の上に置いて行ってくれたことだけが幸いだった。蝋燭の代わりに、魔法の光を封じた石英が刺さっている燭台だ。
水牢「……一晩もつのか?」
 呟いた声は思ったよりも部屋に響き、ブレイヤールはすぐに口をつぐむ。とりあえず、一人になれてほっとした。彼は何とか体を水から上げようと、格子を掴み、足をかけて登ろうとする。けれども手枷が邪魔でうまく格子に捕まれず、結局足を滑らせて水の中に落ちてしまった。彼は場所を少しずつ変えながら、何度も格子を登ろうとした。水の中で突っ立っていれば、あっという間に凍え死んでしまう。
 ようやくへばり付ける場所を見つけ、膝上までを水から上げることが出来た。欲を言えばもう少し上に登りたかったが、そこで失敗して落ちれば、もう一度格子を登る力が出てくるか分からない。すでに全身ずぶぬれで、全身の震えが止まらなかった。冷たい水に痛んでいた手足の指も、感覚がなくなり始めている。吐く息は白く、濡れた前髪から落ちる雫は頬に落ちて、口の端へ溜まる。喉が渇いていたことに気づいて舌先で舐めるものの、喉を潤すほどではなかった。
——そういやキゲイは大丈夫だろうか。無事に黄緑の城に戻れてるといいけど。
 自分の置かれた境遇に絶望し、なすすべもなくなると、他のことが思い出されてくる。
——なんにしても、あそこで逃がしておいて良かった。でないと、ここの連中に何をされるか分かったものじゃない。あの銀の鏡だって……。
 ブレイヤールはそこではっと気がついた。同時に、大樹の塔の老師がした話も思い出す。あの銀の鏡は、キゲイとともに自分の側を離れていったのだ。今の彼は、銀の鏡を隠していたことも、それに触れたことを黙っていなければならない後ろめたさからも、一切開放されていた。もはや銀の鏡について考える必要さえない。
 気づきは火花と弾け、確信へと変わる。銀の鏡を持つキゲイに逃げろと言ったとき、自分は禁呪が照らし出す道とは別の道を選んだのだ。鏡の持つ魔力がひとつの意志のように働いたとみるならば、ブレイヤールはもう二度とレイゼルトに会うこともないだろう。鏡はブレイヤールを見限った。禁呪との関わりと、それをはらむ底知れない世界への道は閉ざされた。これからは自分の信念を掲げ、王として自身の道を歩めばいい。
 ブレイヤールはキゲイのことを心配するのをやめた。キゲイはもはや彼の辿っていく道にはいないのだ。銀の鏡に関わりを持った以上、キゲイはキゲイでどうにかするしかない。そしてブレイヤールもまた、今の状況を自分でどうにかするしかない。
 彼は格子を握る手に力を込める。そして魔法封じの手枷を見つめ、無駄だという考えを振り払いながら、体を温める魔法を唱え始めた。何度も何度も繰り返すと、かじかんだ足に感覚が戻ってくるような気がする。
——明日になるまで、こうしてればいいんだ。あの大女になんか、負けるもんか! 何が崖の王だ。ただの山賊の親分と変わらないじゃないか。神殿の神官も利益を得ているだと? 嘘に決まってる。もし本当でも。もし本当だったら、どうなんだ……?
 ブレイヤールは頭をたれ、ぐっと目を閉じた。そこで突然、頭の中が空っぽになってしまったのだ。何か考えて、その空っぽを埋めようとするが、どんな思考も生まれてすぐ泡のように消えてしまう。
 不意に手がすべり、彼は水の中に落ちた。したたかに水を飲みながらも、立ち上がる。体の震えはいつのまにか止まっていた。腕を上げて手枷を見やる。肌は血の気が失せて真っ白だ。
「封印されてる。完全に。力が……」
 切れ切れに呟くと、彼はふらついて再び水の中にずるずると崩れる。もはや震えることも出来ないくらいに、弱っていたのだ。息を止めるだけの意識はあったものの、足を踏ん張って立ち上がるまでには思い至らない。意識も体も、暫く水の中で上下もなくゆらゆらと漂う。それから彼の意識とは別のものが、彼の体を水中から引き上げた。彼は大きく息を吐き、それから吸う。すぐ隣に誰かが立っている。
「大丈夫ですか」
 グルザリオだった。彼は肌着一枚のみすぼらしい姿だ。一瞬彼の姿が消えたかと思うと、小さな羽音が聞こえ、再び彼の姿が格子の向こうに現われる。彼は格子越しにブレイヤールの脇を掴んで体を支え、血を温める魔法を唱えた。そして凍えて自由の利かないブレイヤールの指を、格子にしっかり握りつかせる。グルザリオはいったんぐるりと部屋を見回し、人の気配がないのを確認してから、再び主と目を合わせた。
「ひどい顔してますね。さて、来てみたのはいいんですが、俺にはここからこっそり助け出すだけの用意も実力もありません。変身に取り込める魔法の服も武器もない。まさか姿を変える必要があるとも思わなかったので、この一枚だけです。古い魔術用マントを下着に仕立て直しといて、本当によかったです。ちょっと自分で立っててくださいよ。今、この落とし戸を開けますから。水の中にいたら、温める魔法も意味がない」
「一人か?」
「い、いえ」
 グルザリオは寒さに震えながら、戸の鍵へ魔法をかける。錠前の腕が飴のように長く伸び、千切れて落ちた。
「城を出る前に、黄緑の兵達に二人を探すよう連絡を入れました。俺がここを見つけられたくらいですから、兵達もじきに来るはずです。助けが来るまでは、ここで篭城するしかないかもしれません」
「それより、キゲイは?」
「王子と一緒だと思ってましたが」
 グルザリオが答えながら戸を押し上げ、ブレイヤールは倒れこむように水浸しの牢から出る。手足は肉が粘土に変わってしまったかのように重く、思い通りに動かなければ感触もない。グルザリオは彼を部屋の中央へ引きずっていき、魔法をかけて濡れた衣服から水を氷の粒に変える。衣服は霜柱と細かな氷で白くなり、強くはたくと多少は乾く。濡れた服がべったりと肌にくっついているよりはましだ。
 ブレイヤールも自分で服の霜を払おうとして、手を上げた。感覚のない手は、まるでその部分だけが死んでしまったように、力が全く入らない。
「キゲイは途中で逃がした。山の中だ。できれば黄緑の国の人達には見つけて欲しくない。悪いけど、今すぐ戻って彼を探してくれないか」
「……折角助けに来たのに。本当にいいんですか?」
 手枷を調べていたグルザリオは、ブレイヤールを上目遣いに見やる。
「ちゃんと面倒見ると、ディクレス殿と約束した。それに僕ら以外、一体誰がキゲイを探せる? 例の鏡を持っているんだ。僕は忙しくてここから動けない。……ここにいる石人どもを、どうにかしないと」
「手枷で何も出来なくなってて、暇そうに見えます」
「これは僕の魔力を封じているだけだ。そしてここは土地自体が魔力を持つ、石人の世界だ。大樹の塔出身の魔法使いは、自分の魔法を使わない。周りの魔力を借りる。たいしたことは出来ないかもしれないが、一芝居打って脅かすくらいは出来る。大勢を一度に脅かせば、何かになるはずだ。白城を立て直す、最初で最後のチャンスになるかもしれない。さもないと、白城は人間に奪われる前に神殿に奪われる」
「ここの石人達は、王子を拉致した時点で全員罪人です。どう考えたら、そんなチャンスになるってんです。奴らは裁かなくてはならない。十二国と……神殿の、十三会議で」
「神殿には手出しさせない。十二国の中には、白城も入ってる。ここの連中が何をしでかしたか、身をもって知っている。僕には真っ先に裁定を下す権利がある。それが、生きてこの手枷をはずす唯一の方法だよ」
 ブレイヤールが呟くと、グルザリオは片眉をあげて怪訝な表情を見せた。この非常事態に自分の主は、自身の安全もキゲイの安否も放って、何を考えているのかと思ったのだ。しかしこれまでの人生で一度として、ブレイヤールがこれほど大胆な物言いをするところを見たことはない。恐怖で頭がおかしくなった様子でもなさそうだ。グルザリオは短い溜息をついて首をまわし、少しの間考えるそぶりを見せる。
「ちょっと見ない間に、ずいぶん頼もしくなりましたね。誰にそんな根性を叩き込まれたんです」
 グルザリオは溜息をついた。彼自身、武器も杖も持ってこれなかったために、大したことはできない。ここでぐずぐずして一緒にいるところを誰かに見られれば、二人まとめて捕まるだけだ。
「分かりました。そこまで考えがあるなら、いいでしょう。黄緑の兵達にここのことを伝えてから、キゲイを探しに行きます」
 ブレイヤールはその言葉へわずかに頷いてみせる。
「やることをすませたら、すぐに医者に見てもらってください。低体温もひどいですが、顔の傷も手当てが必要です。他もどっか怪我してるでしょう」
 グルザリオはそう言い残して姿を変えると、羽音とともに扉の隙間から去っていった。
 ブレイヤールは再び一人きりになる。血を温める魔法は解けかけており、一方で戻ってきた感覚は、刺すような痛みへと変わりつつあった。彼は痛みをこらえながら、燭台のある机と椅子へ顔を向ける。そして腐りかけの机と椅子に、短い魔法の言葉をかけた。
 二つの家具は応えてぱっと輝いた。木目から光が漏れ、陰気な小部屋を照らし出す。年輪に封じられた陽光と温もりが溶け出した光だ。しかし長い間地下にあったそれらは、太陽のことを十分には覚えていない。すぐに燃え尽きて灰になる。石英の燭台が落ちて、荒い石の床に転がった。
 ブレイヤールは燭台の側へ這い寄る。机と椅子が放った熱は、石の床と壁に吸い込まれていた。燭台周辺の床が特に熱い。少なくともこれで凍えることはなくなったようだ。
「禁呪として自分の魔法を封じられた魔法使いが、大樹の塔の学問を開いたんだからなあ」
 ブレイヤールは溜息まじりにつぶやく。そして、机と椅子が自分の言葉に応えてくれた幸運を思った。
——創始の魔法使いも、こうやって魔術封じの腕輪をつけられたまま、ずっと魔法について考えていたんだろうな。本番でもうまくいくといいんだが。僕が得意なのは、風と羽に関係するものだけど、洞穴の中じゃどちらも無理かもしれないな。
 とても眠れるとは思えなかったが、夜は長い。翌日のことを考え、横になってまぶたを閉じる。

 クラムアネスは朝早くから召使に起こされ、不機嫌そのものだった。それでもすぐにブレイヤールのことを思い出し、いそいそ身支度をする。
「生きていたとしても、きっと命乞いをするだろう。いままであの冷たい牢に一晩入れられて、溺れ死んだ者もいるし、生き延びていても、全員心は折れて泣いて命乞いをしたものだ! もしあの小僧が命乞いの土下座すりゃ、あたしは王族に勝ったことになる。うまくすれば、白城を手に入れられるかもしれないね!」
 生きていた方がずっと面白い。今さらのようにそれに気づき、彼女は上着に袖を通すのももどかしく、広間へと大股に急いだ。期待が裏切られることを、恐れながら。
 広間の扉を押し開けた彼女の期待は、幸いにも叶えられた。しかし、すべてが期待通りだったというわけでもなかった。
 昨日と同じ場所に、白い髪の白王が立っている。その後ろには、彼を牢からここまで連れてきた三人の家来の姿もあった。空っぽの王座に視線を注いでいるらしい白王に対し、家来達はクラムアネスに戸惑った顔を向ける。一人がすばやく彼女に近づいて、耳打ちした。クラムアネスは白王に目を向けて聞き返す。
「牢の外で座ってたって? どうやってあそこから出たんだ?」
 彼女が期待していたよりも、白王は弱っている様子はなかった。確かに肌は血の気も失せ、顔つきにも疲れた様子がみてとれる。しかし背筋は伸び、彼女が現れても動ずる気配はない。無視を決め込んでいるかのように顎を上げ、まっすぐ前を向く立ち姿には、怯えも卑屈も感じさせない。昨日、エランになすがままにされていた彼とは、似ても似つかなかった。
 彼女の問いに、家来も首を振るだけだ。彼女は憤然と王座の前に進む。白王の後ろに立つ家来達は、彼をひざまずかせるために動こうともしない。手枷をはめられ、魔法も封じられた者がどうやって牢から出たのか、気味悪がって怯えているのだ。彼女はそれに腹を立てる。
「小僧相手に、何びくびくしてるんだ!」
 王座につくや否やクラムアネスが怒鳴ると、家来達は震え上がって白王の肩に手をかけた。すると今度はブレイヤールが家来達を横目に睨む。家来達はあわてて手を引っ込める。それがさらにクラムアネスの癇にさわった。
「もういい! 下がれ! この臆病者どもが!」
 広間を震わす彼女の咆哮に、家来達は転がるように外へ逃げ出す。クラムアネスは血走った目でそれを見届けると、浮かせていた腰を再び王座へのっしと下ろした。
「生きてたということは、運を持ってたってわけだ。悪運かもしれないがね」
 怒りの覚めやらないまま、クラムアネスはブレイヤールに視線を戻す。彼の態度自体も彼女の怒りの元だった。あの一晩でこの小僧に何が起こったのか、彼女には想像もつかない。目の前に立つのは、寒さで手足の腫れた痩せっぽちの、ようやく青年といえるような年頃の石人で、負けじとこちらを睨み返して虚勢を張っている。恐れる相手ではないはずだ。彼女は足を組み替え、平静を繕いながら口を開く。
「さて、手に入れた運を無駄にしない答えが聞きたいもんだ。もう一晩あの牢で過ごすか、あたしに白城を譲って、この国で隠居してもらうかだ。どっちにしろ、白城に戻ることはできない」
 ブレイヤールは返事をしなかった。むっとした表情のまま、彼女を睨み返すだけだ。クラムアネスはすぐに、この沈黙が我慢ならなくなった。彼女は床を踏みつけ、大きな音とともに王座の前で仁王立ちになる。しかしこの生意気な小僧にいうことをきかせる家来達は、つい先ほど彼女自身が追い払ってしまった。
 押し黙ったままこぶしを震わせる崖の王の前で、白王はようやく口を開いた。
「神殿は私が死ねば喜ぶと言っていたな。つまり私はどちらを選んでも、結局はお前達に消されるわけだろう。お前が言った、この国から利益を得ている神官のことを、ずっと考えていた。お前が私を殺すことを黙認できるだけの権力を持つ者といえば、大巫女様に次いで最高位の神官とされる九竜神官しかいないはずだ」
 クラムアネスの顔は見る間に青くなる。しかしまだそれは、怒りのためだった。ブレイヤールはその顔色から、自分の予想が遠からず当たっていたことを見て取る。外れていたなら、間違いなく彼女は勝ち誇って笑っただろう。彼は王座への階段に片足をかけ、わずかに身を乗り出した。
「忘れてはならないのは、神殿は私を殺すことを黙認する一方で、王族を手にかけた者達も生かしておけない立場にあることだ。十二王族は、神殿の十二祭司でもあるために」
 風向きを変えつつあるやり取りに、クラムアネスの家来達は広間に戻ってきていた。他の武装をした家来達も、広間上階のバルコニーに身を乗り出すようにして聞き耳を立てている。ブレイヤールは視線をめぐらせ、それを確認する。クラムアネスはブレイヤールの目が自分から逸れたのを知り、腕を伸ばして王座の横に立つ真鍮の燭台をつかむ。三つ又に分かれた燭台の腕には、真鍮の大きな鈴飾りがいくつも下がっていた。
 ブレイヤールはクラムアネスに視線を戻し、低い声で言い放つ。
「九竜神官達の本心がどうあれ、王族は神殿と並び、石人達を治める役目がある。私は白城の王族として今すぐ、誰の許可を得ることなくお前達を裁くことができる。少なくともクラムアネス。お前の私に対する扱いは、死に値する」
「裁くだと!」
 クラムアネスの怒声とともに、燭台の鈴がガラガラとぶつかり合う。空を裂く音が続く。ブレイヤールはすんでのところで一歩引き、横様になぎ払われた燭台をかわした。クラムアネスの方も、本気で燭台を当てるつもりはない。しかしブレイヤールに据えられた二つの瞳は怒りに燃え、かっと見開かれた。
「己の立場も分からん、小僧が何をぬかす! 貴様をどうするかは、この王が決める! 生かすも殺すもだ! 神官がこの国から得ている富を、簡単に手放せると思うか? 神殿の飼い犬としてぬくぬくと過ごしてきた若造に、人の心の何が分かるか!」
 クラムアネスは怒鳴り、手にした燭台を地面に突き立てるように引き戻す。そしてもう一方の腕を大きく掲げた。上階のバルコニーに立つ家来達がいっせいに立ち位置を変え、弓を構える。ブレイヤールはそれを目に入れつつ、大股で後ろに数歩下がった。クラムアネスはブレイヤールが観念したと考える。彼女はそれまでの怒りを翻し、乾いた笑い声を上げた。
「さあ、全てが変わる瞬間だ。言ってごらん! 今のお前に必要な言葉を!」
「お前は裁かれる! 捕らえられているのは、お前の方だ!」
 ブレイヤールは挑むように言い放ち、手枷で繋がった両手を突き出す。褐色の瞳が、火花を散らすように光った。クラムアネスの顔から笑みが消える。彼女は無表情のまま、掲げた腕を振り下ろす。
 弦の唸る音が広間に満ちた。放たれた矢が空を裂く。同時にブレイヤールの一声が響いた。
「逸れよ!」
 矢はブレイヤールの脇を通り過ぎ、次々と床に突き刺さる。クラムアネスの怒号が響き、矢は次から次へと放たれた。一矢打つごとに、弓手の表情が呆然としたものに変わっていく。最後の弓手が最後の矢を射終わったとき、ブレイヤールは矢でできた麦畑の中に毅然と立ったままだった。一本として彼に当たった矢はない。
 クラムアネスの目が、零れ落ちそうなまでに見開かれる。彼女の体はわなわなと震える。
 崖の王を見据えるブレイヤールの瞳は、まだ不思議な光をたたえてるように見えた。彼はゆっくりと、大きな息を吐く。それとともに、その光が吸い込まれるように瞳の奥へと消えた。瞬きをした後はもう普通の石人の瞳に戻っている。瞑想に近い極度の集中から、自分を解放した瞬間だった。
 クラムアネスはもう一度燭台をつかむ。今度こそ、本当にブレイヤールを叩き潰すつもりだった。彼女は階段を一歩一歩踏みしめながら、獲物に向かって近づいていく。彼女の足が矢羽の畑へと立ち入ると、ブレイヤールは鋭く叫んだ。
「留めよ!」
 クラムアネスの両脇で、床に突き立った矢羽が火を噴く。彼女は一瞬ひるむが、燭台を一振りして行く手の矢を薙ぎ払う。そして、薙いだ姿勢のまま動かなくなった。彼女の顔は強張り、巨体が小刻みにびくつく。浅黒い額に汗の粒を浮かべ、真っ赤な顔で自分を襲った見えない力に抗おうとしていた。
 ブレイヤールは手枷を掲げ、白城の紋章をクラムアネスに向ける。次いで腕を反して神殿の紋章を向ける。
「白城の王族を、このようなもので封じたつもりだったのか。この手枷は大巫女様と白城に仕えているのだ」
 これは明らかにうそだった。手枷はブレイヤールの魔力をそっくり封じてしまっている。しかし大樹の塔での知識が、放たれた矢の矢羽を操り軌道を変え、床の木板から見えない枝葉を伸ばさせ、その中にクラムアネスを絡め捕らえることを可能にさせた。
 クラムアネスはとうとう、ぐわっと轟く息を吐き、騒がしい鈴の音とともに矢の海へ背中から倒れる。見届けたブレイヤールは厳しい表情のまま、腕を下ろして辺りへぐるりと頭をめぐらせる。
 広間にいた者達はブレイヤールが魔術を使ったのだと信じ、度肝を抜かれてしまった。さらに間髪いれずに示された白城の紋章と、なにより神殿の大巫女の紋章に、弓手達は弓を放り出して命乞いと許しの言葉を口々に唱える。広間に彼らのすすり泣きが満ちた。クラムアネスに従っていたとはいえ、神殿の侵しがたい威厳と王族の絶大な魔力は石人の心に深く刻まれている。それに抗うことは並大抵のことではない。
 ブレイヤールは倒れたクラムアネスに近づき、その顔を見下ろした。クラムアネスは目玉だけをぎょろりと動かし、ブレイヤールを睨み返す。その目は屈辱に満ちている。もしかすると、屈辱という感情すら通り越していたかもしれない。
「あたしを殺すか」
 食いしばった歯の間から、クラムアネスは言葉を引き絞る。ブレイヤールは厳しい口調で答えた。
「殺すか、だと。神殿に殺されるのか、の間違いではないのか。お前は私を利用しようとして失敗した。私自ら手を下さなくても、じき黄緑の国の騎士達がここへ来る。そうすればこの国の者達は捕らえられ、神殿がその処罰を決めることになるだろう」
 広間のあちこちで、小さな悲鳴が上がる。ブレイヤールの言葉は、クラムアネスよりもその家来達に大きなショックを与えたらしい。ブレイヤールはそれを制するよう、「ただし!」とすぐに声を張り上げた。
「神殿の力が及ぶのは、あくまで城の外。城の内ならば、王が判断を下す立場になる」
 内心で先を急ぎすぎたと後悔しながら、ブレイヤールはクラムアネスに嫌々視線を戻した。クラムアネスの顔には彼の思惑を探る表情が浮かんでいる。
「この国を明け渡すのは、お前の方だ、クラムアネス。この国から利益を得ていた神官は、お前を生かしてはおかないだろう。その口から、神殿の者がこの国と関わったことが黄緑の騎士達に漏れると困るからな」
「……本当に、黄緑の連中がここに向かってるんだろうね」
「信じられないなら、待つか? 彼らの姿が見えた時点で、逃げ道はすべて封じられてしまうが」
「あたしにどうしろと」
「平原の人間達と共に石人の城で盗みを働いていたそうだが、その人間達はお前達の目を盗んで何をしていた」
「……この国の子どもらは時々いなくなる。ここは城じゃあないから、魔物に食われるのは珍しくないし、崖の上で足を滑らせて川に落ちたかだろう。親もずっと見張ってるわけにはいかないからね」
「自分の国の石人が平原へさらわれていくのを、知らぬふりをして許していたのか」
 ブレイヤールは胸のむかつきを、こみ上げる怒りとともにどうにか飲み込む。目の前にいるのはどうしようもない悪人だが、今の彼にはここで罰することもできない。自分が優位にあるという芝居を続け、相手を逃がす以外にないのだ。あまりのもどかしさにブレイヤールは眩暈を覚える。
「自分の命と引き換えに、償いをせよ。全員の消息を調べ、連れ戻すんだ」
「それが、あたしに下された罰なのか」
 ブレイヤールは自身への腹立ちをぶつけるように、クラムアネスをキッと睨んだ。
「神殿の判断は別に下されるだろう! 私の判断はすでに下した。二度繰り返すつもりはない」
 そう言ってあごをしゃくって見せる。クラムアネスは跳ね起きた。彼女はマントに引っかかった矢も構わず、振り返りもせず、広間から走り去る。ブレイヤールは崖の王が出て行った扉を背にすると、広間に残された彼女の家来達を見回した。
「城を捨て、神殿をも拒んだ罪は重い。この国はこのときをもって消えねばならない。私は白王として、この国の者達を白城に迎えるつもりだ。大空白平原の向こうでは人間達の戦があり、その戦火は白城に影響を及ぼしつつある。石人世界を保つためには、やがて境界を侵して我々の領域に入り込んでくる人間達を、彼らが友であれ敵であれ、白城で留める必要がある。白城は境界の砦の役割を果たさねばならない」
 ブレイヤールは言葉を切る。
「神殿はお前達の罪を許さないだろう。しかしこれから白城で為すことは、その罪をいくらばかりかあがなう。我が子達に罪を引き継がせたくないならば、速やかに白城へ出立せよ。この国に残る汚れた財産は一切持って行ってはならない。必要なものはすべて城が与えてくれるだろう」
 家来達は緊張の面持ちで、身じろぎひとつしなかった。しかし最初のひとりが広間から小走りに去ると、我に返った者達もそれに続く。そして駆け足となった最後の者達が雪崩を打って出て行く。ブレイヤールは広間にたった一人で取り残されてしまった。
「逃げたのか、それとも本当に白城へ行くつもりなのか」
 ひとり呟き、手枷を見やって溜息をつく。今までのが全て一人芝居になってしまったら、なんとも締まらない話だ。
 ふと顔を上げると、クラムアネスが去った扉が少し開いて、臆病そうにこちらを窺っている家来達がいる。ブレイヤールは思い切って、そちらに歩み寄った。白王が床に突き立った矢をよけながら近づいてくるのを見て、家来達は扉から姿を現し、床にひれ伏した。
「白王、どうぞお許しください。そしてどうか、我々を神殿からお守りください」
 その言葉を聞き、ブレイヤールは内心ほっとした。全員が全員、逃げ出したわけではなさそうだ。彼は鷹揚に頷いて答える。
「そうしよう。そのためにも白城の家臣達にここの者達を受け入れるよう、書面を作らなければ。この手枷を解く鍵はあるか? 神殿の印が入った物を魔法で壊すわけにもいかない」
「すぐに探してまいります」
 ひとりが鍵を探しに立ち去ると、残りの家来達はブレイヤールを火の燃える執務室らしき部屋へ案内する。そして彼らもすぐに、着替えの服や食事を用意しに姿を消した。
 安全な場所でようやく自分ひとりになれたブレイヤールは、強い吐き気を感じて机に腰をかけた。さっきのやり取りが、相当胃にこたえたらしい。
 何十本もの矢の軌道を変え、クラムアネスの巨体を金縛りにするという荒業のために、身も心も消耗しきっていた。疲れた頭はまるで綿をつめたかのように鈍く、これ以上何も考えられない。けれども自分の想像も能力も超えたとんでもないことが、あの広間で始まったのは確かだ。
 自分の人生が、この一、二日ですっかり変わってしまった。クラムアネスの前で見せた精一杯の虚勢を、これからも取り続けることができるだろうか。永遠に失うことになるこれまでの平穏すぎた生活を思うと、先行きへの不安はいよいよ苦いものになる。
 幸いにもブレイヤールには、先のことを思い煩う暇はなかった。休む時間もない。彼はあちこちの棚を探して白紙を引っ張り出すと、ルガデルロ大臣宛に、崖の国の石人達を城内に入れるよう手紙を書く。あの黄色い髭の、常に王族の尊厳を説いてきた頑固な老人が、この手紙にどういう反応を示すか、間近で見られないのは幸いかもしれない。しかし手紙に従ってもらわなければ、ブレイヤールは崖の国の石人達に嘘をついたことになる。彼は強い調子の文を綴り、片耳の飾りをはずして手紙に添える。手枷のせいで字が恐ろしく汚くなってしまったが、耳飾りを付ければこの手紙が本物である証になる。彼はその手紙を足の速い石人に託し、白城へ走らせる。
 手枷の鍵は昼ごろになってようやく見つかった。その間にもブレイヤールは、崖の国の石人達の名簿を作らせ、坑道を回って人間世界で売りさばかれようとしていた商品の倉庫を見つけては、封印の紙を張っていった。
 手枷がはずれると、ようやく着替えをすることができた。食事も運び込まれる。ブレイヤールは食べ終わるまでは誰も部屋に入れないよう外の石人達に伝えて、扉を閉める。彼は温かいスープをすすりながら、名簿に目を通した。崖の国にいた石人達が、すべて白城へ行くとは限らない。中には他所へ逃げるものもいるだろう。それを見込んでも、中規模の町ひとつが出来上がる人数になりそうだ。ブレイヤールは名簿を睨みながら腕を組む。
「どこに住んでもらおう。城内の町は上から石材が落ちてきそうで危ないし……」
 クラムアネスの口ぶりから察すると、この崖の国は神殿や十二城に何らかの不満を持つ石人達が集まってできたように思える。十二城が創生された理由も、元をたどれば神殿支配からの開放だったが、初代国王達の処刑によってその効果は半減した。クラムアネスは次元としてはかなり低いが、神殿からも十二城からも決別した新しい生き方を模索しようとしていたのかもしれない。だからこそ、九竜神官に賄賂を贈ってこの国のことを見逃してもらっていた反面、同時に神官を見下し嫌ってもいた。
 一方賄賂を得ていた九竜神官、つまり神殿側はどうだろうか。神官が金をもらって喜ぶとは、彼には考えられなかった。神殿は神話の時代に届くというその歴史の古さのため、非常に神聖なものである。そして同じ長さの時間、石人の世界に君臨してきたことでは、非常な俗っぽさも持っているはずだ。その神殿にとって、金などよりも欲しいものは何か。この崖の国から得られる大空白平原の人間の動向の方が、ずっと貴重なのかもしれない。ブレイヤールは頭を押さえる。
——僕がこの国を白城に吸収したことで、神殿は何か言ってくるだろうか。十二国は初代国王がいたわずかな間だけだったが、神殿から解放されていた時代があった。不吉な名を持つ者も城にとどまれた。王は支配するためでなく、守るために存在する。守るといっても国民が全員神殿の罪人では、城は巨大な牢で、僕はただの看守でしかないだろうが。いやその前に、神殿はこんな状態で白城の復活を認めるだろうか。
 ブレイヤールが今後のことについてあれこれ考えを巡らせていると、いつの間にやら、あのエランがへらへら笑いながら机の向こう側に立っている。ブレイヤールはあからさまに嫌な顔をして見せた。一番再会したくなかった相手だ。
「一体、どこから。部屋の扉は見張らせていたのに」
「抜け道があちこちにありましてねぇ。クラムアネスは抜かりがなかったもんですから」
 ブレイヤールはみなまで聞かず、外の見張りを呼びつけエランを羽交い絞めにさせる。エランは一瞬凶暴な顔を見せたが、すぐにまた卑屈な表情に戻って訴えた。
「いんえ、お待ちを! 俺も改心したいんですよ!」
「うそだろ」
 ブレイヤールがとりあえずも反応をみせると、エランは顔を輝かせて家来達の腕を振りほどき、机の上に乗り出す。
「お前は人間だ。私にしたことは見逃してやるが、即刻空白平原へ立ち去れ。誘拐した石人の人身売買に関わっていたはず。クラムアネスはお前にまだ用があるだろう。私はお前に用はない」
「じゃあまさか、ニッガナームの方は死刑ってことですかい? もう、やっちまったとか」
「どういうことだ」
「姿が見えないんで」
 ブレイヤールは思わず天井を見上げた。ニッガナームはいち早く逃げたのだろう。
 エランの姿がいい加減煩わしくなり、ブレイヤールは家来達に命じて部屋から放り出させる。入れ違いに崖の国の住人が白城へ発ったという知らせが入る。
「飛脚に白城への手紙を持たせて、先に行かせた。その者達は道を急ぐだけでいい。ところで、クラムアネスはもういないのか」
「そのようです。お子様達の姿も、ありません」
「子どもをつれてじゃ、逃げ切れないんじゃないだろうか」
 ブレイヤールは呟く。しかし今の彼には、ニッガナームやクラムアネスの様子を探らせるような家来はいない。彼の側に残るクラムアネスの家来達はまだ信用するわけにはいかない上、その実力にも疑問があった。彼は二人の追跡をあっさりとあきらめ、すぐに別のことへ心を移す。それはアークラントのことだった。
——ディクレス殿は予言者の夢に希望を見たといった。けど、無人だった白城に石人が戻ってくれば、ディクレス殿は二度と白城には立ち入れない。アークラントは終わってしまう。予言者は本当に正しい未来を見たんだろうか。
 長く考えている時間はない。再び部屋の扉が開き、クラムアネスが溜め込んでいた財宝や商品の目録が届けられる。それは机の上に溢れんばかりになった。さらに石人の魔法を練りこんだ武具が、大空白平原で出回っていることを確認する。ブレイヤールはまたしても、しばらく頭を押さえた。
 戸口にはまだ残っていた崖の国の住人達が列を作り、自分達の難しい身の上と、やむを得ずクラムアネスに従っていた素性を話しに来る。中には、赤ん坊が不吉な名を待って生まれたために神殿に連れて行かれそうになり、親子ともどもこの国まで逃げてきたという者までいる。
 黄緑の騎士達が到着する前に、彼は出来る限り自分自身の采配で、この崖の国を片付けてしまわなければならない。目録の山を整理し、石人達の身の上話を走り書く。これもすべて、崖の国の石人を白城に連れて行くための根拠とさせる。真の罪人はクラムアネスと一部の石人や人間だけで、他はすべて生活のため否応なしに利用させられていただけなのだと。
 机の上があらかた片付いたのは、その日の深夜だった。ブレイヤールは壁にかかっていた風よけの布を床に敷くと、そこで横になる。疲れきっていたのに、彼は夢を見た。不思議なことに、それはディクレスに聞いた予言者の夢とよく似ていた。
 揺らめく草原のはるか彼方から、淡い輝きが差し込んでいる。光の中にはケシ粒ほどの小さな影。歌うように両手を広げ、緩やかに動いているかに見える。あるいは、身動き一つしていないのかもしれない。空を覆う光が陽炎のように揺らいでいるのだ。そしてそのずっと手前に、背の高い人影があった。風が吹き、頭のあたりで何かがなびいている。長髪なのだろうか。人影は遠くの歌い手に心を奪われているかのように、ぴくりとも動かない。無音の世界で、光と草陰だけが揺らいでいる。
 ブレイヤールは怪訝に思った。予言者の夢の中には、人影はひとつだったはずだ。近くにいる人影は、大声で呼べば声が届きそうだ。彼は息を吸い、声を出そうとする。そのとき、何かが彼の腕に触れた。驚いて振り返る。彼は自分が薄暗い部屋の中にいることに気づく。夢から戻ってきてしまった。
 固い床の上に寝て、体は強張っていた。部屋のよろい戸の隙間から、弱い光が差し込んでいる。夜が明けかけているのだろう。痛む体を床から引き起こす。あまりにはっきりした夢で、十分寝た気がしなかった。頭はぼんやりして、心はまだあの夢の中にさまよっているようだ。
「大巫女様」
 薄れ行く夢の余韻とともに、そんな呟きが口から漏れる。直後、くしゃみと一緒に、彼ははっきりと目を開けた。夢の中の感覚は、跡形もない。彼は夢を思い出そうと、前髪をぐっとつかんで両目を強く閉じる。
——予言者の夢が本当なら……。事は近い。

十三章 古都へ

 もう昼近くだろうか。木漏れ日も空しいほどに弱々しく、森は木々の影に暗く沈みこんでいた。頭上の鳥が枝葉を蹴って飛び立つ音、厚く枯葉の積もった地面を踏んで何かの獣が走り去る音。森の静寂をときに破る小さな生き物達の気配は、一人ぼっちではないという安心と、いつ危険な動物と出くわすかという不安の、両方をかきたてる。キゲイ達の足音に動物達も驚いているのならば、キゲイ達も彼らの立てる音にびくついていた。
 女の子は大分遅れがちになってきていた。これまで休むことなく歩き続けただけでも、たいしたことだったかも知れない。キゲイは時々振り返って、彼女が追いつくのを待つ。
「ほら、山が近くなったろ?」
 キゲイは木々の隙間から垣間見える、山の斜面を指差した。斜面を覆う針葉樹の黒々とした森は、金色の光の下で所々輝いて見える。向こうの空だけ、雲が晴れているのだ。
 しかし女の子は何の反応も見せず、キゲイに追いつくとそのまま地面に座り込んでしまった。彼女のズボンは、転んだりよじ登ったりしたときに膝が擦り切れて、穴が開きかけている。両の手のひらも、擦り傷と寒さで赤い。
 キゲイは溜息をついた。彼女がこうやって座り込む度に、彼は小川でもないかと辺りを見て回るのだが、いつも無駄骨だった。傷を洗う水も飲み水もなく、木の実ひとつ落ちていない。森は冬の終わりの佇まいで、食べ物は期待できそうになかった。おまけに夜のことを考えるだけで、希望も何もなくなってしまう。火無しで一晩過ごすことなど出来るのだろうか。風は日中の今でさえ、こんなにも冷たいのに。
 キゲイは手に取った木の枝で、厚く堆積した枯葉の地面をほじくってみる。虫も出てこなければ、落ちた木の実も出てこない。
 女の子が何か呟くのが聞こえた。それが人の言葉であったとしても、石人語ならばキゲイには分からない。けれどきっと、彼女は魚の言葉で何か言ったのかもしれない。
 疲れ切った彼女を、伝わらない言葉や身振りだけで立たせるのは、至難の業だった。手を引いて立たせようとしても、彼女はがんと抵抗して腰をあげようとしない。
「だめだったら! 歩かないと、凍え死んじゃうかもしれないんだぞ!」
 本当なら、もっと優しく接してあげないといけないはずだ。そうと分かってはいても、キゲイにはそれだけの余裕がなかった。いらいらして手加減を忘れ、強く彼女の腕を引くと、彼女の腕からぐりっと嫌な感触がキゲイの手に伝わる。次の瞬間、彼女はか細い声を上げて泣き出してしまった。
 キゲイは慌てて手を離す。
「ごめん」
 キゲイも泣きたいほどみじめな気持ちになる。ありがたかったのは、女の子はキゲイに対して、なにも怒っていなかったことだ。ただ腕を強く引かれたことだけを、悲しく思っているようだった。キゲイが彼女の肩や手に触っても、嫌がったりはしなかった。幸い肩の関節は外れていなかったが、変によじってしまったらしい。腕を動かそうとすると、彼女は顔を少し歪めて痛そうにした。
 彼女が歩こうとしないなら、もう仕方がない。キゲイはその間に少し遠くまで探索することにする。待ってて、と声をかけて側を離れはじめると、それまで絶対に立とうとしなかった女の子が、大急ぎでキゲイの後をついて来た。きっと置いてけぼりにされると思ったのだ。無理矢理腕を引っ張る必要などなかったらしい。キゲイは女の子が追いつくのを待って、先に進むことにする。
 木々が少しまばらになり、背の低い捻じ曲がった枝を持つ茂みが多くなった。大小様々な大きさをした青灰色の岩もごろごろしていて、歩きにくい。地面は西に向かって傾斜しており、キゲイはこの斜面を登るべきか降りるべきか迷いながらも、とりあえず横様に進んでいた。木立の影は薄くなっていても、辺りは岩や地面の起伏で見通しが悪い。太陽もすでに正午を過ぎて、夕暮れに向かって刻々と傾き始めている。
 女の子はといえば、驚いたことにキゲイの足にちゃんとついてきていた。キゲイが岩の上に腰掛けると、彼女も立ち止まって同じように座る。今朝まではキゲイが彼女を引っ張って歩かなければならなかったのに、今では彼女の方が、キゲイが次に立ち上がるのを待っているようだ。
――あの子、僕より寒さにもお腹が空いたのにも強いのかなぁ。喉は渇かないのかな。魚だったから、喉の渇きには弱そうだけど。
 キゲイは疲労でぼんやりした頭のまま、次に立ち上がるまでに斜面を登るか降りるか決めようと考える。その隣で、唐突に隣の女の子が立ち上がったかと思うと、一人勝手に斜面を登りはじめた。
「えっ? ちょっと、待って!」
 今までからは考えられない速さでずんずん登っていく女の子を、キゲイは慌てて追いかける。彼女はしばらく登って足を止め、岩の隙間に手を突っ込んだ。後を追っていたキゲイは、かすかな水音を聞きつける。足元の地面も、少し湿っているようだ。キゲイは岩場を調べ、斜面の上から水が流れてきているのを知る。泉か、小川があるのかもしれない。
「よし、登ろう」
 キゲイは斜面の上を睨みつけ、声を出して自分を励ます。女の子は指先についた水を舐め、隣をキゲイが通り過ぎていくのを見る。キゲイがしばらく登った後に見下ろすと、彼女は湿った岩場を諦めて、のろのろと斜面を登り始めていた。
 もう少しで登りきるというとき、上から何か小さな生き物が飛んでくる。ブンと力強い羽音が耳元をかすめ、直後にカサッと軽い音が足元に落ちた。キゲイは首をかしげる。虫にしては大きかったし、ひどく鮮やかな赤色だった。それは、夕暮れの日差しの色のせいだけではない気がする。
 キゲイは最後に音のした場所を、石ころと枯枝をそっと掻き分け覗いてみる。尖った葉っぱを持つ枯れ枝の隙間から、透き通るような深紅の胴がみえた。まだ生きている証拠に、上に乗った枯れ枝が小刻みに動いてる。キゲイは枝を慎重に取りのけた。
 それはキゲイの手のひらにすっぽり乗りそうな、綺麗で小さな生き物だった。柘榴を思わせる見事な赤色の細い胴、さらに濃い色をした長い尾と細い四肢。黒い鉤詰めは釣り針に似ていて、長く湾曲している。背中にはもとは三対の見事な羽があったに違いない。七色が揺らめく透明な羽は、左側が二枚欠けてしまっていた。右の一枚も、半分が破れてしまっている。
 羽と長い胴は、なんとなくトンボも思わせる。けれどもトカゲにも似ていた。もしかするとこれは、物語でよく聞く、竜の一種なのかもしれない。
 華奢な胴部は、呼吸で腹の辺りが膨らんだりへこんだりしている。生きているみたいだが、動こうとしない。キゲイは拾った小枝の先で、竜の頭をそっとつついてみる。すると竜は自分をつついた枝ではなく、キゲイの方へ頭を上げて、威嚇するように口を開けた。胴の内側に明かりがともり、竜の開いた口から腹の中の光が漏れる。小さな口には小さな鋭い牙がびっしりと、綺麗に並んで生えている。竜はその口で枝に噛み付いた。枝が燃えることはなく、竜は噛み付いたまま、宝石みたいな紅蓮の瞳をぎらぎらさせている。
 キゲイは用心して枝を持ち上げてみた。竜は食いついたまま枝にぶらりと垂れ下がった。腹の光がもっと強ければ、このまま吊り下げランプになっただろう。キゲイはこの綺麗な生き物が、すっかり気に入ってしまった。なんとかして懐かせたいと、竜を下から受けるように、こわごわもう片方のてのひらを差し出す。
 ところが竜は、キゲイに飼い慣らされる気はさらさらなかったようだ。キゲイの片手が自分の尻尾の下に差し出されるのに気づくと、ぱっと枝から口を離してキゲイの親指に噛み付いた。あまりの痛みに、キゲイは悲鳴をあげる瞬間も逃す。竜の食いついた手を勢いよく払うと、竜は岩場の向こうへぽーんと、オレンジの流星になって勢いよく飛んでいった。
 キゲイは噛み付かれた指を確める。突然噛まれた驚きと痛みで、腕が震えていた。傷口は竜の噛み跡だけに小さかったが、奥は深いらしく血がどんどん溢れてくる。
「うう、やっぱり無理かぁ……」
 痛みをこらえながら首に巻いていた帯をはずし、その端っこを血の止まらない指にきつく巻きつける。周りを見渡すと、下から登ってきていた女の子が、竜の落ちた辺りに興味を示しているのが目に入った。
「だめ! そいつはものすごく凶暴だから!」
 片手に帯を握り締め、キゲイは岩場を降りていく。女の子が岩陰に手を伸ばそうとする前に、キゲイはすんでのところで彼女の襟首をつかんで引き止めた。岩場から先程の竜が羽をうならせて飛び上がる。腹部がまだほのかに光っていた。
 竜は二人を無視し、傷ついた羽で不安定に斜面の上へ飛んでいく。キゲイはそれを目で追い、そして目を疑った。斜面の上の林に、赤やオレンジの小さな光がたくさん現われている。あの小さな竜の群れだ。もしあれが全部こちらに襲ってきたら、自分達は本当に食べられてしまうかもしれない。キゲイは血の気が引くのを感じ、女の子の肩を叩く。
「お、降りよう。早く!」
 押し殺した声がかすれる。女の子は目を丸くして群れる光を見つめ、動こうとしない。
「早く!」
 怖気づいたキゲイは思わず二、三歩降りていた。何とか踏みとどまって、女の子の背に手招きをする。女の子の頭越しに、さっきの竜が光の群れの近くまで飛ぶのが見えた。竜は最後の瞬間にきりもみをして、斜面の上近くに落ちる。光の群れの明かりが強くなり、キゲイ達の所まで羽音の唸りが聞こえてくる。竜達はすばやく木立の天辺近くまで舞い上がった。
 次の瞬間、光が斜面に向かって急降下してくる。それと同時に黒い影が斜面に飛び出して、転がり落ちた。光はそれを追い、ある竜は取り付き、ある竜は失敗して再び上空に戻り狙いをつけなおす。光にたかられながら岩場を転がり落ちるものに、キゲイは見覚えがあった。
「レイゼルト!」
 キゲイは叫んで、出来る限りの速さで岩場を降りる。竜の群れはレイゼルトを狙っていたのだ。
妖精竜 レイゼルトは半分走りながら、半分転がりながら、取り付いた光を払おうと両腕を振り回し、とうとう一番下まで辿り着く。体勢を整えようとして一度だけ背を伸ばしてまっすぐ立ち上がったが、再び光が体中に食いつき、地面にがばりとうつ伏せになる。何匹かの竜が、彼の体の下に消えた。
 キゲイが追いつくと、レイゼルトは再び立ち上がろうとしていた。服は泥と血で汚れ、暗赤色の髪は乱れて顔にかかっている。竜が押しつぶされたはずの胸元は、潰れた竜のかわりに灰色の煙がくすぶり、焦げ臭さがキゲイの鼻につく。地面についた左手は血で濡れ、竜が二匹、手首に腕輪みたいに巻きついて光っている。彼は顎を上げ、髪の間からキゲイの顔を見たようだった。
 レイゼルトが動きを止めた隙を、竜達は逃さなかった。光が彼の背中めがけて急降下する。キゲイの目の前で、レイゼルトはまるで背中から燃やし潰されるように見えた。キゲイは無我夢中になって、レイゼルトの背中にくっついた光を引きはがす。竜達は恐ろしい執念でレイゼルトの背中に食いついており、キゲイが無理やり引き離しても頭だけは噛み付いたまま残る。竜の体はキゲイの手の中で一瞬明るく輝き、かすかな煙を上げて消え去った。体内の炎で、自ら跡形もなく昇華してしまうのだった。
 キゲイは首の後ろに熱い痛みを感じ、悲鳴をあげて仰け反った。首筋を叩くと、光が頭の後ろではじける。新しい傷のせいか、光のせいか、キゲイは頭がくらくらとなる。
 レイゼルトは地面を転がり、体に取り付いた竜を潰そうとあがいた。キゲイは暗くなった視界を怪しみながら、一帯を縦横に飛びまわる光の数に絶望する。もう何匹もやっつけたというのに、数が減るどころか増えている。竜の羽音で耳がおかしくなりそうだ。
「鏡を持っているか!」
 うなり続ける無数の羽音にまぎれて、レイゼルトの叫び声がかろうじて聞き取れた。レイゼルトは相変わらず光を相手に、半分戦い、半分もがき苦しんでいる。キゲイは懐に手を入れる。ところが彼が迷いなく取り出したのは、あの三つ編みのお守りだ。
 キゲイは飛び交う竜の光にお守りを突き出した。レイゼルトの言葉はすっかり忘れていた。かわりにあの幽霊を追い払った晩のことを思い出したのだ。レイゼルトがまた何か叫んだとしても、羽音でかき消されてしまっていただろう。それどころかキゲイは切羽詰って、お守りを使うことしか頭になかった。自分にとっては、銀の鏡よりもお守りの方が確実に信用できる魔法の品だ。キゲイはお守りの編み目に指をかけ、力いっぱい引き抜く。
 編み目はキゲイの意志を汲み取り、自らゆるんだ。幾房かに分けて複雑に編みこまれた髪の先は、まるで円陣を描く筆のように、ぐるりぐるりとほどけていく。青白い小さな稲妻が髪先ではじけ、糸巻きに巻きついていくかのように、だんだん大きな雷の玉になる。編み目がほどけきったとき、稲妻の玉が強烈な光を発して砕け散った。キゲイは片腕で両目を押さえ、光から目を守る。
 レイゼルトのうめき声が聞こえ、キゲイは目を開けた。辺りはほとんど真っ暗に見えた。竜の発する光はひとつも見えず、キゲイは地面に這いつくばるようにして、レイゼルトが倒れていた場所まで辺りを探りながら進む。耳に何も聞こえなくなっていたのは、あれほどうるさかった竜の羽音が、突然消えてしまったせいだろうか。
 キゲイの手がレイゼルトの体に触れた。ぜいぜいという早い息が、手のひらから感じられる。
「あいつら、どうなった? それに、もう夜になった? あんまり、何も見えないよ」
 キゲイは暗闇に向かって声を出す。その声すらも耳の奥というより厚い壁越しから聞こえてくるようで、自分の言葉だという実感がない。首筋は冷たくなっているし、竜に噛まれた左の親指は火にくべられたように熱く、痛みが心臓の鼓動にあわせて脈打っていた。
「みんな消えた。いいものを持っているな」
 キゲイはそれ聞いて安心した。レイゼルトの体にかけていた手を引っ込めると、重く動かなくなってきた体を丸めて横になる。相変わらず指はずきずきして、首筋は冷たく痺れていた。横になると、まぶたも重くなってくる。そういえば、あの女の子の面倒を見るのをすっかり忘れていた。キゲイは半分朦朧としながら自分の責任を思い出す。けれども、それがその日の最後の記憶になった。あとは夢もない、真っ暗な底なしの眠りに落ちていく。
 寒さに耐えながら、前後不覚に夜をやり過ごしたらしい。キゲイが目を覚ますと、辺りは明るかった。自分のすねの辺りで、女の子が丸まって寝息を立てている。後ろを振り返ると、昨日はレイゼルトがそこに倒れていたはずだが、今は姿はない。彼が倒れていた所の土や石ころは血で汚れたままだったから、昨日ここで彼に会って、たくさんの竜に襲われたのは夢でも幻でもない。
 キゲイは何度か瞬きをし、目がおかしくないことを確める。気を失うように眠る前、突然目の前が暗くなったのはなぜだろうか。辺りの景色は暗闇に沈んで形を失っても、飛び交う竜の光だけはずっと明るかった気がする。
 近くに水場があったことを思い出し、キゲイは重い体を引き起こした。渇きで喉がはれてひりひりする。斜面を細々と流れる糸のような流れを音を頼りに見つけ、狭い岩場に手を突っ込んで水をうける。何度か繰り返して水を飲み、空を見上げて太陽を探す。暖かな日差しが降り注ぐ仰角は、正午前後の時間を指していた。
 ピイーと、鋭く高い音が斜面の上で鳴る。音の聞こえた辺りを目で探すと、木立の影にレイゼルトが立っていた。昨日ぼさぼさになって顔を覆っていた髪は、今日は後ろにまとめて結んであった。彼は影から日の光の下に姿を現し、キゲイに手招きをする。キゲイがそちらへ登ろうとすると、レイゼルトは左手を動かして女の子も一緒に連れてくるように指示した。
「この先に水場がある」
 レイゼルトはいつもの口調でキゲイに伝えた。こんなどことも知れない森の中で、キゲイに会ったことも、見も知らない女の子がいることも、まったく驚いている素振りはない。まるでずっと一緒に行動していたかのようだ。とはいえ、レイゼルトの顔色は蒼白を通り越して土気色をしていたし、竜に散々噛みつかれた背中は服の破れ目で毛羽立ち、目を背けたくなるひどい傷もあらわだった。キゲイも体のあちこちが痛く、疲労で頭がぼんやりして、何かに驚く元気もない。レイゼルトもキゲイと同じ状態なのかもしれなかった。
 木立を進むとレイゼルトの言ったとおり、岩の崖の隙間から、冷たい水が湧き出して辺りをぬかるませていた。凍るほど冷たい雪解け水だ。三人で交互に水を飲んだ後、レイゼルトは汚れた穴だらけの上着を脱いで、それを水に湿らせる。そして背中の傷口にそっと当てた。キゲイも竜に噛まれた指を洗い、帯を水で湿らせる。女の子はわずかに首をかしげながら、それぞれ自分の傷の手当てをする二人の少年を、不思議そうに見ている。
「で、なんでお前がここにいるんだ」
 しばらくして、レイゼルトが背中の痛みに顔をゆがめながら、キゲイに尋ねる。キゲイも熱を持った首筋に水を含ませた帯を当てつつ、歯を食い縛りながら答えた。
「知るもんか。僕だって好きでここに来たんじゃないのにっ」
「そうか」
 レイゼルトはふっと同情するような表情を見せたが、次の瞬間に鼻から笑みを漏らす。それを見て、キゲイはますます機嫌が悪くなった。
「誰のせいでこうなったと思ってるんだよ」
「誰のせいか、確めてみよう。私のせいだと分かったら、あやまってやる」
 レイゼルトはキゲイの不機嫌もものともせず、右腕でキゲイの左胸を指し示す。キゲイはその腕を見てはっとした。破れた袖の中に先の丸まった手首が見えた。
「その胸ポケットに入っているものを出してみろ」
「いいよ。そのかわり、鏡はもうそっちに返す。鏡が色んな化け物を引き寄せて、お守りがそれを追い払ってくれてるに違いないんだ。きっと」
 キゲイは懐から銀の鏡とお守りを取り出す。そして銀の鏡だけレイゼルトに突き出したが、あいにくレイゼルトは左手を後ろに回して傷口を冷やしていたので、受け取れない。すでに十分怒りを溜め込んでいたキゲイは、レイゼルトの口に銀の鏡を突き出した。仕方なしにレイゼルトは鏡を口で受け取ったが、おかげでそれ以上何も話せなくなる。彼は空を見上げ、鏡をくわえたまま傷を洗うのに集中した。キゲイもお守りを懐にしまう。
 レイゼルトは首を傾けながら、口にくわえた鏡で太陽の光を捉えて反射させる。暗い木立に鏡の明るい反射が走り、キゲイは単にレイゼルトが光を反射させて遊んでいるだけだと思っていた。ところが不意にレイゼルトはその光を空に上げ、入れ替わりにその空から何かがぽとりと、蔓草の茂みに落ちる。
「今、何したの」
 キゲイが尋ねるとレイゼルトは鏡をくわえたままキゲイの方を向く。キゲイは慌てて腰をかがめ、鏡の反射を避けた。レイゼルトは足元の苔に、鏡をぷっと吐き落とした。
「猟だよ。拾ってきてくれ。ついでにそっちに生えてる蔓も」
 まだ腹を立てていたキゲイは不満を感じながらも、実際にはかなりの重症人であるレイゼルトの言葉には逆らえず、茂みに分け入る。茶色っぽいキジに似た鳥が落ちているのを見つけたが、両翼の羽根がきれいさっぱりなかった。どうやら鏡の魔力で羽根が砂になってしまったらしい。恐ろしいものだ。レイゼルトに鏡を返さない方がよかったかもしれない。
 キゲイが鳥と葉っぱを持って戻ると、女の子が銀の鏡を拾い上げて遊んでいた。レイゼルトは石の上に腰かけ、ぼんやりというより朦朧とした目をしていたが、キゲイが戻ってくるのには鋭く気がついた。
「私はこの数日食べていない。おまえ達はどうだ」
「一昨日の晩から何も食べてないよ……」
 レイゼルトは頷いて、鳥を受け取る。彼はそれを平らな石の上に乗せ、魔法をかける。刃物を使わず血を抜き、火を焚かずに丸焼きを作るなど、魔法使いにしかできないだろう。レイゼルトが鳥の体に手を触れると、羽根はすべて砂になって舞い落ち、火に包まれて真っ黒焦げになる。その焦げた皮をはがすと、湯気を立てる柔らかい肉がでてきた。
「あの鏡、あの子に遊ばせておいて大丈夫?」
「魔法使いじゃないなら危険はない。鏡越しに太陽を見たら、眩しいだろうが」
 鳥の匂いに釣られて、女の子も二人の側に寄ってきた。その隙にキゲイは女の子から鏡を取り上げる。女の子はすでにレイゼルトが裂き分けたキジ肉しか目に入らなくなっていた。三人はしばらくものも言わず、味付けも何もない肉をほお張る。レイゼルト自身は食欲が振るわなかったのか、少しだけ食べた後はずっと、キゲイや女の子の様子を注意深く観察していた。
 あらかた食べつくしてしまうと、レイゼルトは見計らって、キゲイになぜこの森にいるのか尋ねる。空腹がとりあえず落ち着いて、キゲイも話す気になっていた。黄緑の城で人さらいに会ったことから話したが、ブレイヤールの身の上が今頃どうなっているか分からず、キゲイは肩を落とす。
「人の心配をする状況じゃない。今は私達も危険な場所にいる。私の連れもはぐれて、このどこかでさまよっているはずだ」
「連れ? それに、ここどこなの」
「ここは石人世界の真ん中だ。星の神殿が治める山地だが、徒歩では遠すぎる。お前はそのお守りを手放さないようにしろ。目には見えないが、この森は色々な精霊がいて、無防備な魂を常に狙ってる。人間は格好の餌食だ。お前のお守りも、随分力を使ってしまった。気をつけろ」
「精霊って? あの白いお化けみたいな奴は、僕にも見えたんだ。あれは精霊じゃなかったってこと?」
 キゲイはあの晩女の子を追いかけた、背の高い光のような影のことを思い出す。今思えばあれは幽霊のような不気味さはあまりなく、深い森の底にたつ白霧のように神秘的なものだった気がした。危険な存在なのは確かだが、どこか強く心を惹く何かがあった。美しいものは人を魅了するが、美しすぎると逆に恐れられる。そういった類のものだ。キゲイは影が触れた左腕に視線を落とした。レイゼルトもキゲイの視線の先を横目にとらえる。
「触られた跡のあざが、消えたんだ。治ったのかな。もう痛くないみたいだし」
「いや、消えたんじゃない。浸透したんだ。骨まで」
 レイゼルトは低い声で答える。ぎょっとした表情に変わったキゲイに、彼は少し声のトーンをあげた。
「異界に属する者に触れられた、火傷跡みたいなものだ。お守りを持っていたから、その程度ですんだ。寒い日なんかには神経痛みたいに痛むこともあるかもしれない」
 キゲイは半信半疑で腕をさすった。それから思い出して、銀の鏡を懐から取り出す。レイゼルトは黙ってそれを受け取った。
「ようやく戻ってきた。私が探していたものを引き連れて」
 止血の布でぐるぐる巻きになった左手に鏡を握ったまま、レイゼルトは鼻で笑う。キゲイはそれに顔をしかめる。
「はぁ? ……よく言うよ。誰がそれをこっちに押し付けたんだ」
「石人に好かれやすいのかもな、お前は。白の王族、普通の石人、普通じゃない石人、人さらいの石人に、石人の亡霊。色々な石人に会っている」
「鏡さえなかったら、僕は一人で石人世界に取り残されることもなかったんだ。石人に会うのだって、なかったはずなんだ!」
 まるでからかうようなレイゼルトの態度に、キゲイは怒って今までずっと心に秘めながら、誰にも言えずにいた言葉を吐き捨てた。言ってしまうと、さらに新しい怒りがこみ上げてくる。その言葉で硬くしめられていた心の栓が抜けたように、怒りはキゲイの胸にひたひたと注がれる。しかし怒りはどこかで歯止めがかかっていた。銀の鏡があったから、ディクレス様はブレイヤールに会えたし、ブレイヤールもアークラントのことを気にかけるようになったのだ。それは嫌でも認めなければならない。何とも気分が悪い。レイゼルトは自分を利用して、何か大きなことをしようとしていた。なのに自分は何も分からないまま、知らされないまま、相手の言いなりになって鏡を受け取り、お人好しにもここまで捨てずに持ち続けた。そんな自分自身にだって腹が立つ。消化不良の怒りは、はけ口もなく、キゲイの胸で澱むしかなかった。
「石人の世界だってめちゃくちゃだよ。君が黄の城を襲ったって。もしかして砂にしたの? アークラントも今頃どうなってるか、もう分からないっていうのに……」
 キゲイはレイゼルトから目を逸らし、歯を食い縛りながらつぶやく。脇を見やると、女の子は横になって寝息を立てていた。彼女だけは何の悩みもなさそうだった。レイゼルトが右腕を伸ばして、女の子の額に手首の先を当てている。
「その、本当に石人を砂にしたの。さっきの鳥みたいに」
 キゲイはレイゼルトにそっぽを向けたまま、よそよそしく尋ねる。もし本当なら、答えなんか聞きたくなかった。かといって聞かずにいられるほど些細なことでもなかった。
 レイゼルトは長い間だまっていた。風の吹きすぎる音と、それに揺れる木々のざわめき、時折単調なそれらの音をみだす鳥の羽ばたきが、沈黙の時間を埋めていく。あまりにずっとレイゼルトが答えないので、キゲイは待つことに耐え切れず、首を落として目を閉じた。二人の石人の姿が視界から消える。
 耳に入る森の気配や、湿った土と木々の匂い、頬に当たる冷たい風。それらはキゲイの暮らす里の森とほとんど同じだった。多くが年経た古木で、洞が口を開け、雷や風で裂かれた古傷を持っている。若い森は東にあって、里はその森を追って百年に一度引越しをするのだ。再び目を開ければ夢も消えて、故郷の森で昼寝から目覚められるのではないかという、淡くはかない期待もかすめる。
「私は石人を砂に変えたことがある。七百十年前のことだ」
 レイゼルトが口を開き、キゲイは現実に引き戻された。顔を上げると、片手で鏡をもてあそびながら、憂鬱な表情を浮かべるレイゼルトの横顔が見えた。彼はキゲイの視線に気がつくと鏡を膝に置き、てのひらに蔓草の葉を一枚乗せる。見る間に葉は濃い緑色を薄め、褐色の砂と崩れる。レイゼルトはその砂を握りこみ、顔の前まで上げるとそっと手を開く。手から舞い落ちたのは砂ではなく、先程の葉っぱだ。キゲイはぽかんと口を開けた。砂からもとの形に戻るのは、はじめて見た。
「これが今と昔の違いになるかもしれない」
 レイゼルトは腕を下ろしながら呟く。彼はあぐらをかいたまま、両膝にそれぞれ腕をあずけて、楽な姿勢をとる。
「私にこの違いを与えたのは、アークラントが関係している。アークラントの起源を知っているか」
 キゲイは首を振る。レイゼルトは別段それを責めることなく、先を続けた。
「七百八年前、トルナクという建国まもない小さな国があった。今のハイディーンがある辺りだ。一方石人世界では、私は滝に落ちて死んだことになっていた。しかし私はそのまま川を流され、トルナク近くの川辺にうちあげられた。禁呪の異常な力で不死不老を得たとしておこう。私はそれから季節が二巡するまで川べりから動けず、呼吸同然に生死を交互に繰り返していた。助けたのはトルナクの初代王だ。彼は私を連れ帰り、王妃とともに養い親となってくれた。当時の人間達は、石人の存在をまだ恐怖をもって記憶していた。彼らが不死の石人に驚くことも恐れることもなく、自分の子ども達と同じ館に住まわせたのは、勇敢だったと今でも感嘆する。私は生まれて初めて人としての生活をおくらせてもらい、人の心というものを教えてもらった。
 彼らは賢い人達だった。魔法については無知だったが、不死不老の者がこの世を生きていくのに必要な全てを確信的に知っていた。それは人のいる所でもいない所でも、一人ぼっちであろうと、ともに暮らす仲間がいようと、生きるのに必要な知識と技を、普通の者より徹底して学ぶことだった。天候と人の心を読み、植物や鉱物の特性を知り、狩りや織物の手業を体に染み覚えさせる。魔法やその他の学問は二の次だった。なぜならそれらは、最初の学びの中で得た知識と技を、単に系統立てて整理したものだからだ。彼らが最も大切にした教えは、何だったと思うか?」
「狩り、かなぁ」
「いいや、誰とでも仲良くやる方法だ」
「一番大事な教えを全部忘れただろ」
 キゲイは口を尖らす。レイゼルトはニヤッと笑って、すぐ真顔に戻る。彼は声を落とした。
「それから百年余りが経ち、トルナクは北から異民族の侵略を受けた。トルナク最後の王は人々をアークラントの地へ導いた。そこには地読みの民、エツ族をはじめ先住の人々がいたが、王は敵が背後に迫っていたにもかかわらず、自分達を彼らの地へ受け入れてくれるかどうか、彼らに使いを送り許しを請うたという。後に彼は英雄と呼ばれるようになり、国の名をアークラントと改め初代国王となった。
 その後も時代の混乱が続いたが、アークラントは戦のたびに国土を広げ、ついに有史初とも言われる広大な国へと成長した。竜骨山脈が分かつこの大陸において、アークラントこそが西の覇者かつ世界の中心と謳われ、大陸中の富が王都に集まっていた。しかし衰えというものは避けられない。新たな時代の混乱はアークラント国内から起こり、巨大な王国は姿を消した。英雄の血を継ぐ王家の誇りは始祖たるアークラントの地でささやかに取り戻されたが、全ての栄光は過去にしかなく、それも伝説と化した。今のアークラントはわざわざ攻める価値もない、貧しい小さな国だ」
「……じゃあなんで、ハイディーンやエカが狙うの。ほっといてくれたらいいじゃないか」
「連中は歴史も血統もない、辺境の蛮族だからだ。アークラントのかつての威光は、伝説として今も大陸中に残っている。アークラントの地を手に入れることで、彼らは多くの国を従わせる名を得る。かつてのアークラントの版図を掲げ、国土を広げる大儀を得る」
 レイゼルトはキゲイに炎色の瞳をすえた。
「もし彼らがアークラントに大空白平原への抜け道があると知れば、アークラントの価値は跳ね上がるだろう。険しい地形と多くの国々で阻まれ、手を伸ばしても届かない西部の富を、東西を繋いで横たわる平原を通じて得られるのだ。しかしその抜け道はアークラントでさえ、最近になるまで忘れ去られていた。ハイディーンやエカが抜け道の存在を知るときがあるとすれば、アークラントに入ってからだろう。彼らには、最後まで知らぬままでいてくれた方がいい」
「まるでアークラントはもう滅びるみたいに言うね……。予言者様は、英雄が現われるって言ってたじゃないか」
 レイゼルトの話しぶりに動揺を覚えたのか、自分は所詮アークラント人じゃないという一抹の後ろめたさのせいか、キゲイの抗議の声は途中から消え入りそうになる。レイゼルトはもしかしたら、ディクレス様以上にアークラントを取り巻く困難を知っているのではないだろうか。知っていてそれをディクレス様に伝えるわけでもなく、こんな森の中でキゲイ相手に話している。
「君はオロ山脈の抜け道を、最初から知ってたの」
 とがめるように尋ねると、レイゼルトは首を振った。キゲイの質問は答えを聞いたところで、何か意味のあるものではない。しかしレイゼルトは、キゲイの感じていることをおぼろげながら汲み取ったらしい。
「私は石人で、しかも本来ならこの時代には生きていないはずの者だ。不死不老は生命と人の世に対する不器用で不確かな欺きだ。世に関わってはならない。何をしようと出すぎたまねだ」
 レイゼルトはうつむく。彼は口の端を引きつらせて、やや陰険な笑みを浮かべた。
「なのに、その出すぎた真似をしているんだ。予言者は己にしか見えぬ、ひとつの未来を語った。ディクレス前王は予言された未来に賭け、アース現王は国に留まって目前の未来に立ち向かおうとしている。私も予言に動かされた。アークラントが石人世界に向かうのなら、私にもできることがある。トルナクの初代王は私の恩人で、アークラント王家は恩人の子孫だ。私はあの王家に恩を返したい」
「石人のことは? 皆、七百年前のことを思い出して怖がってるみたいだ」
「滑稽だな」
 レイゼルトは神妙な口調を一変させ、そっけない言葉を吐く。彼は少し姿勢を崩した。額が汗ばんで、苦しそうにも見えた。傷のために熱が出ているらしい。
「滝から落ちて以来、石人世界と関わりを持たずに来た。そして時の終わりに戻ってきた。私は私で始末をつけることがある。アークラントにかこつけてあの世から蘇ったかのように姿を現して見せたが、軽率だったかもしれないし、何かの役に立ったかもしれない。確かめる機会はもうないが」
 レイゼルトはふっと息を吐き、左手の布を解いて傷の具合を確かめる。
「動けるなら、他にも少し薬草を集めてきてくれないか。私の傷は今夜から明日にかけてが峠だと思う。だが、明後日になったらとにかく動こう。私の連れは飛べるから、合流できればすぐに神殿の都市に向かえる。そこでなら治療も受けられる。お前は人間だから、私が傷を見たほうがいいかも知れないが。傷が膿まないよう、まじないをかけてやる。首の噛まれた所はたいしたことはない。髪の毛が当たらないように帯を巻いとけ。指の噛み傷の方が深い」
「分かった。でも、治療って? この子も、神殿で見てもらわないとって、言われてたんだけど」
 キゲイは呑気に寝ている女の子を指差す。レイゼルトは頷いた。
「神殿の治療より、別のものが必要だ」
「……僕、この子のこと、まだ何も話してないはずだよ」
 半ばうんざりして、キゲイは愚痴った。どうもレイゼルトは何もかも見通しすぎる。それが彼の魔法使いとしての資質にあるのか、七百年も生きた年の功にあるのか分からない。わざわざ見せてもいないのに、キゲイの怪我の具合も知っているし、女の子がどう具合が悪いのかも察したようだ。自分自身重い怪我と熱で頭が朦朧としているはずのに、よくそこまで人を観察できるものだ。それでも感心よりも反感を覚えてしまうのは、なぜだろう。
「この子、湖から突然現れた子なんだよ」
 キゲイが探りを入れるとレイゼルトは鋭い視線を向けた。キゲイが怯むと、レイゼルトは視線はそのままに、頬を緩ませる。
「知ってるんだな。誰から聞いた」
 声色はかなり厳しかった。キゲイは視線で射抜かれ、標本台の上にピンで留められた虫にでもなった気がした。絶対に認めたくないが、絶対に勝てない相手だというのが身に染みる。キゲイはこれが最後のあがきと思いながら、ささやかな抵抗のつもりでブレイヤールとの約束を厳守することにする。
「聞いたことは、誰にも、話すなって言われた。石人にも話すなって」
 つっかえながらもどうにか答えると、レイゼルトは少し驚いたような顔をして、鋭い視線から解放してくれた。
「石人にも話すつもりがないなら、安心だ」
 そしてキゲイを手で追い払う仕草をする。勝手なものだ。キゲイは口を尖らせ、薬草摘みに出た。
 レイゼルトは鏡を手に取り、ちょうど目を覚まして伸びをしている女の子に目をやった。彼女はキゲイが側に居ないのを知って、真っ白で緩やかな曲線を描く額に眉を寄せた。卵の殻みたいな額だ。しかしレイゼルトがいるのを見て取ると、彼の方に淡い空色の大きな瞳を向ける。血の匂いをぷんぷんさせて、瀕死の石人が座って何をしているのか、不思議に思っているのかもしれない。
 レイゼルトはこの女の子が、人よりも魚の目で自分を観察しているように思えた。それくらい、瞳の裏にある感情が読み取りにくい。その顔つきは無垢や無知とは言い切れない、原始的で年齢不詳の知性が宿っているようにも見える。
「名前は? 自分で記憶しておかないと、そのうちお前の名前を知る者はいなくなる。他の石人は、七百年も生きない」
 無駄かもしれないと話しかけたが、やはり答えは返ってこない。レイゼルトは女の子の空色の瞳に、細かな金色の網目が浮かんでいるのに気がついた。彼は黄緑の城の神魚を思い出す。あれは空色の地に金色の鱗を持っていて、黄緑色の体に見える。
「空白平原の都市に、私の仲間を待たせている。もしこの世に行き場を失くしたなら、彼のところに行ってみろ。それか紫城に。そっちには幽霊のきれっぱしがいるかもしれないが、城の本来の姿を見ることができる。……紙と筆が手に入ったら、書き残しておいた方がよさそうだな」
 レイゼルトはそれ以上女の子の相手をするのをやめて、鏡に目を戻す。
 キゲイは妙な大鳥にさらわれてこの森に運ばれたと言っていたが、実際は鏡がこの女の子を自分の側まで導いたと考える方が正しい気がしていた。レイゼルトの方は真っ赤な竜達に追われながら黄の城からここまで逃げ切り、そこでアニュディの体力に限界が来て森に墜落した。これももしかしたら、墜落したのではなく何者かに着陸を強いられたのかもしれない。
 キゲイ達をさらった大鳥が、いったい誰に操られていたかは分からない。十二城の初代国王達がそれぞれの城の最深部で今も生き続けているのならば、神殿において彼らの同僚であり、歴史上において消息がいつの間にか途絶えたもう一人の石人も、いまだ石人世界のどこかにいるかもしれないのだ。
――やはり神殿に向かうのが正しいのか。
 つらつらとそんな事を考えていると、ひどい眠けに襲われる。すると女の子が立ち上がって、彼の体を強く揺さぶった。彼は目を覚ます。丁度キゲイが両腕に様々な葉や蔓、菌類の生えた木の皮に根っこつきの大葉まで持って、戻ってくる。
「アークラントの抜け道から大空白平原へ出て、ひと月くらい経っている気がする」
 森を巡るうちに機嫌を直したキゲイは、レイゼルトに尋ねた。
「ひと月半になるかもしれない。神殿都市まで行ったら、すぐに白城まで戻れるよう手配する。ありがとう、キゲイ。後は私がやる」
 キゲイはレイゼルトに植物の山を手渡した。レイゼルトは、明後日になるまで自分に絶対近づかないようキゲイに言いつけて、遠くに見える巨木の根元に横たわる。キゲイは言われたとおりにした。時々向こうの様子をうかがっても、レイゼルトは血の気の失せた顔で横になったまま動かなかった。
 気味が悪いほど年を取った巨木の足元で、鮮やかな赤い髪と、紫紺の上着の色だけが木陰に浮かび上がっている。キゲイはその光景に、不思議な感じを覚えた。七百年前もレイゼルトは似たような場所で、ああして深手を負った体を休めていたのかもしれない。レイゼルトが横たわる場所と自分の立つ場所との隔たりに、七百年の時の幅たりが一瞬重なった。キゲイは胸に手を当てる。銀の鏡はもうそこにはなかったが、その方がよかった。鏡はレイゼルトのいる方へ戻り、キゲイの胸には三つ編みのお守りがあった。レイゼルトと鏡は、キゲイ達とは全く異なる世界へ戻りつつある。キゲイはくるりと背を向けて、自分達の過ごす場所を探す。
 キゲイと女の子は、体力を温存するために翌日もほとんど動かなかった。レイゼルトがあらかじめ幾つかの石に火の魔法をかけてくれたおかげで、夜も凍えることはなかった。わずかな山菜を石で焼き付け、飢えをしのぐ。
 まだ夜も明けきらない真っ青な時間、レイゼルトは約束どおりにキゲイ達を呼びに来た。キゲイはレイゼルトが片手に何かぶら下げているのを見て、目をこする。イタチに似ているが、毛皮には黒い文字に似た縞模様がある上、尻尾は二股に分かれ、頭だけ爬虫類の鱗で覆われている。
「それ……」
「小さい魔物」
 レイゼルトは二日前よりもしっかりした声で答えた。身のこなしも怪我を感じさせないほど素早く、彼は魔物を右腕に引っ掛け、苔むした平たい岩に近づく。岩の上に左手を置くとその手の下で岩は砂に変わり、砂を払うと小鳥の水飲み場のような窪みが岩の上にできていた。そのくぼみの中に魔物を横たえ、レイゼルトは手をかざす。すると魔物の体が白みを増して泡立ち、一瞬にして透明になったかと思うと、とぽんと水音を立ててくぼみに溜まる。キゲイはそっと岩の上の水溜りを覗き込む。水面は青暗い空と枝葉の影を映して震えていた。
「……砂にするだけじゃなくて、水にもできるの?」
「これは禁呪じゃない。魔法で時間を早めただけだ。岩が砂になるのは自然だし、死んだ魔物が水に変わるのも自然なことだ」
 レイゼルトは女の子を招き寄せ、溜まった水を飲むよう身振りで示す。女の子は身を乗り出して、水たまりに直接口をつけた。レイゼルトはその様子を見守りながら、言葉を続ける。
「人間も獣も最後は土に帰るだろう。石人は死んだら石になって、最後は砂になる。魔物は水になる」
「……これ、飲んで大丈夫?」
「この世で最も純粋な生命の形と言われる。魔法にかかって心を失った者や、魂を失った者、あるいは今まさに死にかけている者だけに効く。普通の水と混ぜるとしばらくは溶け合わず、粒になって浮遊するが、そのうち力を放散してただの水に変わる。具合の悪い者の体の中で、力を放つのが効くんだ」
 レイゼルトはキゲイに湯気の立つ葉っぱの包みを手渡した。開けてみると、半熟の小さな蒸し卵が顔を出す。キゲイは湯気を吹いた。卵をすするキゲイの隣で、レイゼルトは話を続ける。
「魔物は自分の縄張りを持っている。それはいわば彼らの聖域だ。自分の聖域を侵す者を魔物は食う。連中は腹を空かせてものを食うことはない。己と出自の異なる生命を、自身を形作る生命の水の中へ戻すために食う。石人世界の地下深くには、生命の水でできた地底湖があるらしい。魔物が死んで水になると、大地に染みて地下水脈に落ち、生命の水は地下水に混ざる。水と溶けあわなかったものはさらに下に染み落ちて、その地底湖に還るそうだ。水は希薄なほどに澄み通り淡い光をまとっていて、明かりの差さない地下で湖だけが暗闇に浮いて見えるらしい。地底湖に溜まる生命の水は地下水が川として染み出すのと同様に、魔物達を再び地上に送り出す。魔物達の聖域が複雑に絡む石人世界で、我々が暮らせるのは神殿と城だけだ。神殿は魔物達を狩り続けることで魔物が持つ聖域の空白地帯を、いわば石人達の聖域を確保している。魔物狩りの儀式には生贄が必要だが、城では魔物狩りの必要はない。生贄もいらない。城自体が聖域だから」
「生贄って。この小さい魔物を捕まえるときに、君、何かを捧げたの?」
「血を少し。しかし、足りないだろうな」
「それは……」
「盗人は追われる」
 レイゼルトは立ち上がった。
「仲間が水に戻されたのを嗅ぎつけられる前に、出発しよう。まとめる荷物はないか」
「ない。すぐに歩けるよ」
 女の子が最後の一口をすすると、レイゼルトは出発の号令を出した。朝日はまだ山の下にあり、空と雲だけを照らし出して稜線と森の影を際立たせている。三人は夜の寒さが残る森を、白い息を吐き、身を縮めながら進んだ。レイゼルトは時々足を止め、瞑想するかのように立ち尽くす。魔物達の聖域の隙間を探すのだ。レイゼルトが立ち止まるたびに、キゲイは女の子を自分の隣に伏せさせ、邪魔をしないよう二人して息を潜めた。森は小鳥の姿ひとつなく、他の獣の気配もなく、朝靄を漂わせ、いつ破られるとも知れない静寂の下にあった。レイゼルトが再び歩き出し、柔らかな地面を踏みしだく音がすると、キゲイは詰めていた息を緩ませてほっとするのだった。
 日が昇り木漏れ日が地面を暖める頃になると、森は物言わぬ生き物とともに目覚めていく。三人はそこでようやく足を止め、キゲイは辺りを偵察し、一休みに丁度いい陽だまりを見つける。並んで腰を下ろしそれぞれに両足を伸ばして、凍えた体を日に当てる。キゲイはレイゼルトの様子をうかがった。顔色はまだいいとはいえない。竜に噛み付かれた頬の傷は、赤黒い筋になってふさがりかけていた。左手の噛み跡も血は止まっているらしい。一番ひどい背中の傷は広げた帯で隠しているから分からない。でもおそらく前よりは良くはなっているだろう。
「大丈夫だ。死なないし、気絶もしないから」
 キゲイが心配そうに自分を見ていることに気づいて、レイゼルトは苦笑する。そんな二人の様子をじっと眺めていた女の子が腰を上げ、二人の前に立った。キゲイ達が不思議に思って彼女を見上げると、彼女は上着の裾下から小さな布の包みを取り出し、差し出してくる。レイゼルトが目配せし、キゲイはどこか見覚えのある包みを受け取ってそっと開いてみる。中には粉々になった焼き菓子があった。
 女の子が不明瞭な発音で何かを言った。レイゼルトはその言葉に耳を傾け、彼女の発音を確認するように同じ言葉を返す。もっともキゲイの方は、焼き菓子しか目に入ってなかった。
「いままでずっと持ってたの!」
 キゲイが叫ぶと、レイゼルトは脇から手を出して、かけらをつまみ上げた。
「彼女は『おみやげ』だと。……水がないと、とても飲み下せそうにないな」
 キゲイは丁寧に包み直し、自分の懐におさめる。これ以上女の子に持たせていたら、焼き菓子は小麦粉に戻ってしまうだろう。女の子はやや不満げな顔をして、元の場所に座り直した。
 この日は正午過ぎに、沼のほとりで歩くのをやめた。沼は比較的大きく、その上には曇り空が広がっている。レイゼルトは再び魔法で狩りをして、野兎を二羽捕らえて来た。さらに彼は、銅色に輝く大きな羽根も帯にさしていた。キゲイの腕ほどの長さで、向こうが透けるほど薄い。一枚の鏡のようになめらかなのに、指で裂いたりまたくっつけたりできるところは、紛れもなく鳥の羽根だ。
「近くにいるのかもしれない。探しに出るから、ここで待っててくれ」
 ささやかな昼食の後、レイゼルトは森へ姿を消す。キゲイは大きな銅の羽根を片手に、この羽根を持つ翼がどれほど巨大なのか想像しようとした。その翼を広げて飛び立つとしたら、ひらけた沼のほとりは丁度いい場所かもしれない。
 キゲイの想像に反し、夕暮れ近くにレイゼルトが連れ帰ってきたのは、石人の女の人だった。ただの石人と言いたいところだったが、そうも言えないくらい猛烈に怒り狂っていた。
 キゲイが最初に聞いたのは、森の奥から突っ切って届いたわめき声だ。高い声で文句を言っているらしいと思えば、今にも泣き出しそうな震え声になったり、叫び声になったりする。キゲイはそれでレイゼルトが戻ってきたのを知ったのだが、出迎える気持ちというより待ち構える気分になった。女の子はといえば、声に恐れをなして木の根っこの影に身を潜めてしまう。
 やがて夕暮れの森から二つの影が現れる。一つはレイゼルトで、もう一つがその怒れる石人だった。とにかくひどく怒っているようで、ひと時も黙らない。片腕をレイゼルトに引かせていたが、もう片方の腕は宙を探るように動くときもあれば、いらいらと拳を振るうときもある。激しい怒りとは裏腹に、歩みだけは随分ゆっくりと慎重だ。その歩き方とレイゼルトの介添えの仕方で、キゲイは女の人は目が不自由だと知る。
 森から沼に出ると、レイゼルトはどうにも収拾がつかない連れを、乾いた場所に座らせようとした。ところが彼女の振るった拳が運悪く背中に命中し、飛びずさるようにして彼女から離れる。あっと悲鳴をあげたのはキゲイだけだ。女性は手の感触によくないものを感じてぐっと押し黙る。当のレイゼルトは痛みに顔をゆがめ、唇を噛んだままキゲイの隣を足早に通り過ぎた。通り過ぎざま彼は、
「私の名は彼女には言うな。少し、頼む」
 と苦しそうにキゲイに伝える。キゲイは覚悟を決めて、女性の側に駆け寄った。
「背中に大怪我してるんだ。手を振り回したら、危ないよ」
 女性はキゲイの声へ顔を向ける。耳の上で切りそろえた栗色の髪と、まぶたを閉じて瞳の色が分からないために、彼女はほとんど人間に見えた。肌の色合いも褐色を帯びていて、アークラント人と似ているかもしれない。丸っこい鼻と唇をした愛きょうのある顔立ちは、元来人がよさそうだ。キゲイは、彼女が人間だったらよかったのにと思った。正直石人ばかりに囲まれているのに疲れてきていたのだ。
 女性は眉をひそめて難しい表情をつくり、それからしばらくして、キゲイと同じ「言の葉」で尋ね返した。
「誰?」
 キゲイが言葉に詰まると、女性はレイゼルトの背に当たった手をさすり、血の匂いを嗅ぎ取る。彼女は心配そうな顔つきになり、再びたどたどしい「言の葉」で言葉を搾り出す。
「私、彼に何した?」
「そっちの手が怪我したところに当たったんです。向こうに逃げて痛がってるだけだから、大丈夫だとは思うけど……」
「そう。……悪かったわ」
 先程の怒りが嘘のように、女性はしょんぼりと肩を落とす。
「ところで、君は誰? 彼の友達?」
「キゲイです。友達かどうかは分からないけど、知り合いなのは確かだと思う」
「変わった名前ね。私はアニュディっていうの」
 アニュディはキゲイを人間だと、少しも気づいていないようだった。
「もしかしてキゲイ、彼の名前、知ってる?」
 キゲイは慌てて首を振り、それだけではアニュディに伝わらないことに気づいて言い直す。
「えっと、知らないです」
「うそ。さっき知り合いって、言った」
「だって……。あいつ、言うなって」
 言いながら、キゲイはみるみるうち、アニュディに再度怒りの炎が燃え立つのを見た。彼女はキッと顔を上げ、「ガラ!」とよく通る声で一声叫んだかと思うと、怒涛の石人語で何かをまくし立てる。キゲイは恐れをなして彼女から離れたが、彼女の境遇をうすうす感じ始めていた。キゲイ同様、彼女もレイゼルトに利用された一人なのだ。だとしたらアニュディの怒りも分かるし、自分だって同じようにレイゼルトに怒鳴り散らしてもよかったのかもしれない。レイゼルトの射抜くように鋭い目と向かい合えば、そんな大胆な真似はとてもできたものではない。しかしアニュディにはできるのだ。
「好きなあだ名で罵れ! 私の名前なんか、知らない方があんたにはいいんだ!」
 レイゼルトが遠くから「言の葉」で言い返した。アニュディはさらに石人語でわめいたが、そのうちとうとう頭を抱えてしゃがみこみ、子どもみたいにわんわん泣きはじめてしまった。
「僕だけじゃなく、この人も巻き込んだんだな」
 アニュディの側へ戻ってきたレイゼルトを、キゲイは呆れ気味にとがめる。レイゼルトは明らかに不機嫌な顔つきだった。
「私も万能じゃないんだ」
 レイゼルトはぼそっと呟いて、アニュディに水で湿らせた布を渡した。
「これで顔を拭いて、血のついた手も」
 アニュディは大人しく言われた通りにした。これではどちらが大人か分からない。とりあえずも平静を取り戻したアニュディは、乱れた髪を指ですき、立ち上がりながらスカートを引っ張って皺を伸ばした。
「少し落ち着いたわ。この数日、口にしたものといえばキツネの生肉と生の骨が少し。人の姿に戻れば、魔物や狼の餌食になるのは分かってるし。おかげであやうく自分が人だってこと忘れそうになってて。自分がどんなところにいるのかも分からないし……。ひとりぼっちで、とにかくものすごく怖かったのよ」
 幾分沈んだ声で、アニュディはばつが悪そうに説明する。キゲイは懐から焼き菓子の包みを取り出し、彼女に手渡した。レイゼルトも飲み水を用意するため沼の方へ去る。アニュディは焼き菓子を指で探り、口に運んだ。そして微笑む。
「甘いわ、うれしい。これ全部もらっていいの?」
「うん」
 キゲイは言葉少なに答えた。アニュディの剣幕に恐れをなし、木の根の下に隠れていた女の子も、ようやく顔だけを出してこちらをうかがっている。レイゼルトは魔法で器の形に掘り抜いた石に、水を入れて戻ってくる。アニュディは焼き菓子と水を堪能し、満足げな溜息をついた。本当に嬉しそうだ。
「子ども三人を乗せて、飛べるか。飛んでも数刻はかかる」
 レイゼルトが珍しく遠慮がちに尋ねる。焼き菓子のおかげで空腹と心を癒されたアニュディは、いつもの忍耐と賢さを取り戻していた。彼女は余計な質問はせず、朗らかに答える。
「長距離は苦手って言わなかったっけ。ま、後のことを考えなくていいなら、飛んでみせる。掴まれる場所は首の後ろから背中の上までしかないから、墜落の心配をしなきゃいけないのは、あなた達の方かもね。あと一人はどこ? 紹介してちょうだい。ちゃんと自己紹介できたら、その子も乗せてあげていいわ」
「自己紹介できない子だ。魚の姿で、長年湖で暮らしてた。人の心を忘れて、自分の名前も知らない。あなたも危なかったようだが。私にあだ名をつけたように、彼女にも何か呼び名をつけてやってくれ。不便で仕方がない」
 アニュディは眉を寄せ、唇を尖らせた。秘密だらけの三人の子ども達に辟易しているのだろう。
「……ウージュ。女の子なんでしょ」
「そっちはいい呼び名だな」
 レイゼルトは答えて女の子を連れに離れる。レイゼルトの足音が遠ざかるのを聞きつけて、アニュディがキゲイに尋ねた。
「ウージュって、どういう意味か、君、分かるかな?」
「えっ……」
 キゲイはレイゼルトの背を見送りながら、不安げに呟いた。アニュディはやや硬い笑みをわずかに口の端に浮かべている。
「答えられないの? 石人語なのに?」
 キゲイが黙っていると、アニュディの口から笑みも消えてしまった。それはキゲイにとって、恐ろしい瞬間だった。
「正直に答えなさい。あなたは誰」
 キゲイは音を立てないよう細心の注意を払いながら、アニュディの側から離れようとする。一方アニュディは、そんなごまかしは効かないとばかりに、キゲイの方を向いて腰に手を当てた。そこへ幸いにもレイゼルトが戻ってくる。
「キゲイは人間だ。白城のあたりで起こっていることを、聞いてないのか。キゲイ、ウージュは石人の古語で、『少女』という意味を持つ」
 レイゼルトは足早に二人の間に割って入り、アニュディの手に女の子の手を握らせる。
「ほら、ウージュだ。彼女を怖がらせないでくれ」
「……人さらいの天才ねぇ、あなたは。人間ですって?」
 アニュディはこめかみを押さえ、しばらく自分の殻に引き篭もってしまう。ウージュはアニュディに手を握られたまま、困った様子でその手を見つめている。キゲイとレイゼルトは、彼女の次の言葉を待った。あとは彼女の決心次第だ。
 やがてアニュディは、ゆっくりと頭を起こす。彼女の決心は明快だった。不死の石人だの、なぜか石人世界にいる人間だの、変身後遺症の石人だの、ともかく今は大した問題ではない。食べ物がない以上、この森にとどまる必要は皆無だ。
「よし!」
 アニュディは一声上げると、姿を変えるために両腕を広げる。キゲイ達は彼女から距離をとった。キゲイの隣で、レイゼルトが珍しくほっと安堵の息を吐いた。

十四章 英雄譚

夢見 彼は再び草原に立っていた。やわらかな輝きが大気に満ち、視界を淡く霞ませている。空は銀色の光に満たされ、純白の雲を一面に浮かべていた。まるでこの世のものとも思えないこの場所は、はかない神々しさに包まれている。
 足元の草は芽吹いたばかりの若く柔らかい春の野草で、花を持つものもまだつぼみは固く未熟だ。彼方をまっすぐ見やれば、はるか地平の向こうにひとつの人影が、輝く空から浮き立っている。ほっそりとした影は動かない。大気を漂う光の粒子は、その影の向こうから湧き出しているようでもある。
――あそこにいるのは、誰だ。
 草原と空だけの世界で、不思議なことに彼は自分が南を向いていることだけは、はっきりと知っていた。眠るとき、彼は南に顔を向けて横たわったのだ。草原で身じろぎすらためらう彼は、ベッドの中でも寝返りをうつのを恐れて、体をこわばらせているはずだ。
――確かめねば。
 トゥリーバは思い切って足を上げ、芽吹いたばかりの草を踏みながら人影に向かって進んでいく。この世界が歩みの途中で消えてしまわないか、いつも恐れていた。そして不意にすべてが暗転し、魂がベッドに横たわる自分の体に引き戻され、寒々しい暗い部屋で目を覚ましているのに気づくもの、いつものことだった。
 額をうっすらと湿らせていた汗をぬぐい、ベッドから身を起こす。寝返りを打つまいと力を入れていた両肩は、すっかり固まっている。窓に寄って雨除けの革布をあげると、きらきらと最初の朝日が部屋に差し込んだ。彼はまぶしさに目を細める。
――あの太陽とは違う。あの世界を照らすのは、太陽の影のようだった。光の影だ。
 それから彼は眉をひそめた。隠された未来や過去を夢から拾い上げるのは、夢見の家系に生まれた彼には小さい頃から慣れている。湖の波打ち際に様々なものが流れ着くように、夢が未来を彼の意識に打ち上げるのだ。ところがこの夢だけは分からない。いったいどのような未来を、彼の意識に漂着させたのだろう。どんなにもっともらしい夢解きも、納得のいくものではなかった。
 アークラントの先王は、あの夢に満ちる光を信じた。アークラントの人々は、自分達の心を覆う絶望から逃れようと、予言を希望そのものと受け取ってしまった。まるであの夢に現れる太陽の影を、太陽そのものだと勘違いしてしまったかのようだ。
「あの夢の中で、何が確かなものだ。あの人影だけだ」
 彼はつぶやいて頭を抱えた。差し込む朝日が煩わしくなり、柱の影に身を隠す。夢の中に満ちる光も、同じくらい煩わしい。光のおかげで見るべきものが隠れてしまっているのではないか。そのとき、ふと別の考えが頭に浮かんだ。
――あの夢は、私の夢ではないのかもしれない。あの人影が見る夢に、呼び込まれただけなのかもしれない。あるいは、この石人の大地そのものが見ている夢なのかもしれない。
 ここにいても、永遠に答えは出ないだろう。未来が実現する前にその形を見定められねば、予言者ではない。いても立ってもいられなくなり、彼は旅身支度を整え、先王の部屋へと向かう。

 日に日をついで、一瞬たりとも足をとどめない勢いだ。アークラント首都から一人の地読みの里出の将軍が、ディクレスの元へ様々な知らせを携えてやって来たのは。ディクレスは配下の一軍をラダム老将軍に預け、平原の町を隊商らしく転々とさせていたが、自身はタバッサの宿に潜み本国からの使者を待ち続けていた。
 長旅で汚れた姿のまま、リュウガ将軍は面会に訪れた。
「これが我が国の状況です。いよいよ時間は無くなっております」
 彼は単刀直入に、テーブルの上にいくつもの紙束を広げ、丸まらないよう四隅に重石を載せていく。一刻も惜しい彼は宿に馬を乗り付けてから、駆け足で部屋に飛びこんできた。息を切らせたままの彼に、ディクレスは自ら水差しからコップに注いで手渡す。リュウガ将軍は簡単な作法でそれを受け取り、一息に飲み干した。その間にディクレスは並べられた紙束へざっと目を通す。好ましい情報がないのはもとより分かっていたが、予想外の最悪な情報もなかったのは、喜ばしいことかもしれない。
「エカとハイディーンの様子は?」
「春は我々の所より、彼らの方に早くやってきます。彼らは再び兵を集め、鍛錬を始めていると思われます。ハイディーンが早くに軍を整えられるでしょう。エカは様々な民族の混成部隊ですから、出足を揃えるのに時間がかかります。両国とも相手の出方をうかがう姿勢を見せていますが、どちらかが痺れを切らせば、両軍とも怒涛のごとくアークラントになだれ込んで来るでしょう。ハイディーンが西の山麓を越えるのが早いか、エカが東の谷を突破するのが早いか」
「彼らが動き出す前にこちらも動かねば、間に合わぬか……」
 ディクレスはこの上なく難しい表情で首を振った。
「そこの報告にない事柄も少々ございます」
 リュウガ将軍の言葉にディクレスはすぐに顔を上げる。
「奇妙なうわさに過ぎません。ただ、首都から駆けて来る道中で、行く先々の地主や厩の者が口にしておりましたのが、同じ話でしたので」
 彼はそう前置いて、本人も首をかしげなから言った。
「晴れた日に、空を鳥のようなものが一直線に横切ったのを見たというのです。雲よりも高い場所を飛んでいるようなのに、その姿は決して小さくは見えなかったと。シルダ丘陵の者は竜といい、エベニサ市の者は怯えきって夕の鴉かもしれないと言いました。ティト族の者達は彼らの信奉する鳥の神だと言い張り、ネリ峠の者は蝶か蛾の夢が日の出を横切っただけと話しました。いずれにせよ空に普段見ないものを見たようで、吉兆ととる者もいれば、たくさんの魂をあの世へ運ぶために遣わされた不吉な影ととる者もいます」
「それはどこからどちらの方角へ飛んで行ったのだ」
「我が国を北から南へ。噂を集めれば、それは夜明け前に少なくともアークラントの北部に入り、日暮れまでにはシルダ丘陵に達していたようです」
「竜に、鴉に、獣神に、蝶の幻影か」
 ディクレスが唸りながら本気で考え込むそぶりを見せたので、リュウガ将軍は慌てて付け加えた。
「国はこのような状況です。変わったものを目にすれば、誰もが不安に駆られ、大げさに思い込んでしまったのでしょう」
 将軍はつまらない雑談で時間を無駄にしたと後悔しながらこの話を打ち切り、本題に入った。
「かの地で、希望は見つかりましたか? 英雄はおいででしたか?」
 ディクレスは真剣な様子の将軍に、まっすぐ視線を向けた。その顔には何かしらの不敵な明るさと、忍び寄る絶望のあい混じった奇妙な表情がある。
「英雄はいまだ見出されぬ。だが、希望の卵は見つかったように思う。問題は、いかなる手段でその殻を砕くかだ」
「それはどのような意味でしょうか」
 抽象的な表現を好まない将軍は、鼻白む。彼は用がすみ次第アークラントへ戻るつもりでいたため、そわそわと落ち着きがなかった。
「石人に会ったのだ」
 ディクレスは短く答えた。将軍はその答えが良いものか悪いものか、判断しようがない。先王は続ける。
「私が出会った石人はまだ若く、多くの力を秘めながらも、それを現すことを禁じられた、亡国の王だった」
「……その方は、我々に力を貸してくださるのでしょうか」
「それはないだろう。彼は石人であって、人間の世界には、まして我々の存亡には何の責任も持たない」
「では私は、どのような報告を持って帰ればよいのでしょう。予言者殿の言う希望と英雄を、国の者達は信じて待ち望んでいます」
「彼が見たのは希望ではない。未来だ。希望を見たのは、むしろ私の方だった」
 ディクレスが苦笑いを浮かべる。リュウガ将軍はそれを探索の失敗と捉えるしかなかった。
「信じるべきは、やはり我ら自身の意志しかないということですね」
 将軍はそう言いながらも、やや肩を落とす。ディクレスは一瞬将軍の肩越しに遠くを見たが、すぐに視線を戻して首を振った。
「予言がなければ、我々をこの地へ導く決心はなされなかったかもしれない。私はこの巡り合わせと、かの地で見つけた希望を、そのまま離すことはしない。急ぎこの町に残した兵達を、平原の各拠点へ配置する。ラダム将軍は平原で食糧を買い集めているが、呼び戻そう。将軍は次の知らせを持ち、国王へお伝えせよ。拠点を辿って大空白平原へ逃れ出る手はずが整ったと。時が来た」
「では、アークラントは……」
「民がおれば、国は再建のともし火を失わぬ。恐らく国王は、この知らせに驚かれることもないだろう」
 ディクレスは低く静かな声で言う。決然とした信念と深い憂いが、その目にあった。リュウガ将軍は一礼すると、それ以上何も尋ねることなく、無言で退出する。戸口で彼は予言者の姿を見たが、一刻も早く国へ戻るために、挨拶の暇さえ惜しんで立ち去った。
 入れ違いに部屋へ現われたトゥリーバを、ディクレスは手を上げて側に招きよせる。予言者は身軽で粗末な旅姿だ。
「私の役目は終わったようです」
 予言者は自分から口火を切った。部屋の外でリュウガ将軍とのやり取りを立ち聞いた彼は、先王の言葉を恐れていた。自分の予言は、ただ人々を惑わせただけだったのか。それどころか自らの予言を見失いつつあった彼は、身の置き場も無くしていた。
「どうか、暇をください。私は石人の地へ向かい、探したい人物がいるのです」
「確かに我々はまだ、そなたが予見に見たその人物に会っていないように思う。私は幸いにして、会うべき者に会えたが」
 ディクレスは安堵とも溜息ともつかない息を吐いて、予言者の言葉に答えた。
「エカ領内の一民族であったそなたが、集落を滅ぼされ、放浪の果てにアークラントへ現れたのは、この予見のためだと聞いた。そのためだけに滅び行く国へ立ち入ったそなたの予言者としての覚悟と、その予見そのものを、私は信じている。我々の時は満ちてしまったが、予見はいまだ成就の時を迎えていないようだ」
「あなた様は私以上に未来を見抜いておられるようです。それ故に私の予言を公にせず、夢見のみから得た言葉を人々に表わされた」
「私は王であったから、現状から未来を推察し、それに対して事を行うのが常だった。今の私にはごく近い未来しか見えぬが、そなたの予言はもっと先を見ているような気がしてならぬ。だからこそ滅びに瀕する国で、その予言を明らかにするのは危険だったのだ。しかしそなたの予見には近しい希望がある。私は国の者達をそこへ導こうとしている」
 ディクレスは脇の櫃から、一枚の地図を取り出した。それを口を引き結んで黙り込んでしまった若い予言者に渡す。
「空白平原の商人の中には、禁を犯して石人と取引をする者達もいるようだ。危険だが、彼らの力を借りれば、石人領内に詳しい者に出会えるかもしれん。彼らは常に用心棒として、魔法使いを連れて石人世界へ忍び込むらしい。そこに取り入って石人の地へ行くことも可能だろう。地読み達の地図があれば、万一のことがあっても、一人でここへ帰ることができるはずだ。それは白い城以南からわずかな範囲までしか記していないが、ここにある唯一の石人の地の地図だ」
 トゥリーバは地図を受け取った。
「己で見失った夢見を、今一度探しに参ります。どのような未来であろうとそれを見届け、私の夢見を信じた方々に報いるつもりです」
 予言者はその言葉を残し、部屋を立ち去った。
 一人残されたディクレスは、ベッドの脇にかけられたアークラントの地図へ目を向ける。立ち去るべき者は全て去り、来るべき者達を迎え入れる時がきたのだ。

「ディクレス殿は恐ろしい方だ」
 ブレイヤールは一人呟いた。これから起こるかもしれないこと思うと、身が震えるようだ。
 本人からそれと聞いたわけではない。しかしブレイヤールは自分の考えがさして間違っていないことを確信していた。なぜならば、もはやそれしかアークラントの人々を救う方法はなかったのだ。それは大きな犠牲を伴いながらも、国を存続させるために残された、唯一の選択だった。
――空白平原は決して王も国も受け入れない。無理に住み着こうとすれば、平原の人間達全てを敵に回すことになる。
 だからディクレスは石人の世界に目をつけた。そこは人間にとって得体の知れない土地ではある。それでも、石人が住めるなら人間も、という意識があったのかもしれない。アークラントの書庫に埋もれていた古文書には、石人の城の記述もあったろう。石人の地に来て、彼らは実物の城を発見した。それは遥か昔に滅び廃墟となっていたが、石人が住んでいないのは彼らにとって願ってもないことだったろう。たとえ廃墟でも、遺跡は新たな都市を築く指針と礎になる。彼らが目にした巨大な白い遺跡は、期待していた以上の希望となるはずだった。
 ディクレスにとって石人の魔法の宝など、この地へ赴く方便に過ぎなかったのだ。彼は宝を探させる一方で、その実、地読みや家来達に廃墟の具合を調べさせていた。構造の痛み具合はどうか。人が住める場所はあるか。なによりそこは安全なのか。
 長く廃墟であった白城の土は、荒れて貧しいものとなっていた。しかしアークラント国民の勤勉な手と背中ならば、荒野も緑の耕地に変えられるはずだ。遥か昔、異民族に追われて人々がアークラントに移ってきたときも、そうだった。
 それらの希望も、白城に石人が住んでいたということで大きく揺らいでしまった。ディクレスがブレイヤールと言葉を交わした晩、つかみかけた希望は再び幻に変わった。ブレイヤールはディクレスの目論見を見抜き、これを許さなかったのだ。七百年前、石人と人間との間で取り交わされた約束は、石人にとってはまだ生きたものだった。そして、石人が人間を嫌う気持ちは、昔よりもずっと強くなっていた。空白平原の人間達を、石人がどれほど目障りに思っていることか。
 滅んではいても十二国の王の一人である彼は、人間を受け入れるわけにはいかなかった。ディクレスの目論見に気づいていたからこそ、アークラントの運命についても同情せざるを得なかった。結局彼はあいまいな態度しか取れなかった。本来ならばあの場で彼らの希望を全て断ち、国へ追い戻すべきだったのだ。いや、そもそも境界の森を越えさせるべきではなかった。
「もう引き返せない」
 ブレイヤールは横になり、目をかたく閉じる。
 アークラントの動きを知ってから、彼は流れる時の歩みが、これまでにはなく自分の身を刻み、閉ざされていた未来を拓きながら進んで行っているような気がしていた。それはなんとなく心で感じる、あやふやな感覚だ。アークラントの運命に巻き込まれた瞬間を、無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。その運命はどれほどの人々を巻き込み、どこへ向かおうとしているのだろうか。多くの犠牲もまた、必要とされているのではないだろうか。
――境界石の向こうから、人間達がやって来た。石人の世界にも、深く沈んでいたものが浮かんできた。石人達がもっとも忘れようと努めた、忌まわしい戦の記憶。アークラントがこの地へ来たら、石人達はどうする? 七百年前と同じことが繰り返されるだけだ。石人も白城も、彼らを受け入れることはできない。受け入れてはいけない。境界石の誓いを守らねば。
 暗闇の中、アークラントの大地がまぶたの裏に浮かぶ。
 アークラントの人々は、ハイディーンにもエカにも馴染まないだろう。ハイディーンはアークラントの全てを自分達の様式で塗りつぶす。エカはアークラントを丸飲みして、王家の血筋をも消化してしまうだろう。そのどちらも、アークラントを滅ぼす。古い血を継ぐアークラント人であること、英雄の血筋を王家といただくこと、どちらもアークラントを建国当時から支えてきた人々の誇りだ。
――しかしアークラント王国は長く続きすぎた。大陸の中央で肥大した帝国が周辺の国々を圧迫し、戦火は人間世界の辺境にある我が国まで飲み込んだ。長き平和にあり、かつての強い意志と誇りを保守と頑迷に鈍化させてしまった国が、この時代にあって滅びるのは当然かもしれん。だが民がいる限り、我々に諦めるという選択肢はない。真の地獄はこの世にしかないのだ。無上の楽園もしかり。どのような形であれ生き延びることが、新たな国の萌芽に繋がることもあるだろう。たとえ石人の世界に落ち延びたとしても、帰還の日は訪れる。その日は、運命の紡ぎ手たる老いて幼き神がお決めになることだろう。
 夜は白みかけ、机の上に広げられたアークラント王国の地図は、光に描線を滲ませながら再び暗闇から浮かび上がってきた。ディクレスはいまだ見えない運命の虚空を凝視する。アークラント国民のために、白城が必要だった。このままこちらだけが行動を起こせば、白城を巡って石人と戦になるだろう。
――白王を動かさねば。
 それがアークラントの全てだった。そしてその最後の手立てをいかにすればよいのか、彼には最良の策を考える時間はもうなかった。

 アークラントの王都アルスには、春を予感させる暖かな風がそよぎ始めていた。オロ山脈の雪解け水を運ぶトルナク川は、冷たい水面をやわらかな日差しにきらめかせ、朝方に降った雨は、見渡す限りの若い麦畑や大地の緑を鮮やかに洗っていた。街角を飾る木々は、芽吹いて間もない柔らかい葉から雨露をすべらせ、石畳の水たまりをはね散らす。
 それらの美しい情景を、活気ある一日の始まりとして目に留めた者がいただろうか。少なくとも現アークラント国王の心をとらえはしなかった。春の乙女たる女神の歩みは、すぐ後ろに血まみれの戦神を連れているのだ。
 王は城の見張り台からじっと、大地の彼方に目を凝らす。彼の側には、昨年徴兵されたばかりのまだ髭も生えていないような見張りの兵が、緊張の面持ちで控えていた。やがて見張り台に軍師の長が現われ、その若い兵に席を外すよう合図する。
「陛下、こちらにおいででしたか。みな会議室に集まっております」
「あの陰気な部屋で、悪い知らせを待つことほど気の滅入ることはない」
 軍師長の言葉に、王は背を向けたまま答える。
「俺は驚かされるのは好かん。悪い知らせはやってくるより先にこちらから掴みたいのだ」
「ここ最近になってから、国境付近にて思わしくない報告が増えました。もはや悪い知らせなど、珍しくもございません。掴む手はいくらあっても足りないのです」
「いや」
 王は腕を上げて彼方を指差す。
「一番悪い知らせは、身内から来るんだ」
 軍師長は王の指先に目を細める。南へ向かって消える街道の道筋は、人一人の姿もない。
「国境からの知らせも、あれで最後かも知れん」
 王は、北へも顎をしゃくってみせる。北からの道には五つの黒い点が、こちらに向かっている。
「ひどくやられているな」
 王は呟き、指先で手すりをこつこつと叩く。五つの黒い点はやがて、五騎の傷ついた騎兵の姿になった。
「裏の城門から入れましょう。市民が動揺いたします」
「いや、市中を通らせる。南から来る最悪の知らせを掴みに行く前に、民にも覚悟を決める時間が必要だ」
「会議はいかがしますか」
「我々が取るべき行動は決した。鐘を鳴らせ。あの騎兵達を迎え入れよ」
 王は手を叩き、先程追い払われた若い見張り兵を呼び戻す。入れ替わりに彼は軍師長を伴い、鐘の音を背にして会議室へと向かった。
「ディクレス様のもとへ使いに出たリュウガ将軍は、まだ戻りません。帰りを待つべきです」
 会議室で王を待ち受けていたのは、彼の決断に従うことを渋る重臣達がほとんどである。しかしアークラント王は、父親譲りのすさまじいひと睨みで彼らを黙らせた。
「では将軍が指示を抱えて戻ってくるまで、敵に待ってもらうとでもいうのか。先程の知らせを、耳を塞いで聞かなかったとでも? エカが国境を突破した。指示を待つ猶予など、もうないのだ!」
 机の上に拳をぶつけ、王は一同を見回す。
 エカ帝国が先に進軍を開始したのは、誰もが予想だにしていなかったことだった。エカにとっては、ハイディーンに背後を突かれることも覚悟の上の進軍である。エカの軍勢は数こそ少ないものの、ハイディーンに追いつかれる前にアークラント深くへ進行しようという心積もりらしい。エカの兵士達もそれだけに焦っており、アークラント最後の国境の守りも、あっという間に突き崩されてしまったのだ。
「エカの進軍が呼び水となり、ハイディーンも時をおかずして軍勢を整え、攻め寄せてくるだろう。もはや我々に敵を押し戻す力はない。逃げ場を持つ先住の民は身を隠し、アークラント人は全て、国外へ逃れねばならぬ。ふれを出し、仕度をさせるのだ。さもなくば命の保障は敵方次第だ」
 反応の鈍い家臣達に、王はいらいらと怒鳴った。国境から王都までの道筋には、もう殆ど兵は残っていなかった。王都を守る軍を動かし、時間稼ぎをする他はない。それは王自らが、逃げる国民達の背後を守ることを意味する。それほどの切迫した危機は、家臣達にも理解できるはずだった。それでありながら決断を渋るのは、先王へのあまりに強い依存心がある。トゥリーバの予言もまた、奇跡と英雄の出現を待ちたいという思いを強くさせていた。
 アークラント王は額に指を当て、机から身を引いた。動かない家臣への怒りと焦りで、腕が震える。ディクレスが大空白平原に出立する際に、いよいよのときは国を挙げて逃げ出すと皆に言い残してくれていれば、家臣達も彼の言葉にすぐ従ったかもしれない。しかしディクレスは、息子である彼と、信頼できるわずかな家臣にしかこのことを話さなかった。当然だ。石人世界へ旅立つ先王へ人々の期待が集まっているときに、そのような話をすれば、人々を不安のどん底に陥れるだけだったろう。
 軍師長が見かねて、他の家臣達をいさめようと口を開く。しかし王は彼を止めた。王は暫くうつむいたまま、会議机の下で拳を握る。そして、唸るように言葉を搾り出した。
「謹んで聞くのだ。峡谷を越え、大空白平原へ逃げるのは、先王が私にくだしおかれた命である。英雄の探索が間に合わねば、そうせよとのお達しであった。……我々は、間に合わなかったのだ」
 その言葉は、渋っていた家臣達に誰が自分達の主であるかを思い出させた。自分達が今の主にどれほど屈辱的な思いをさせてしまったかも。
 彼らは自らの非礼を恥じ、王に忠誠の礼をする。そして与えられた命を果たすため、次々と会議室を後にする。軍師長はずっとうつむいていたが、彼もまた礼をして最後に去っていった。一人残された王は大きな溜息とともに、硬い木の王座に沈み込んだ。
 彼は王冠を継いだ日のことを思い出す。あれからまだふた月と経っていない。あの日彼に渡された王冠がどのような意味を持っていたか、宮廷魔術師の老ザーサ以外に気付いた者がどれだけいただろうか。彼が自ら王位を先王に求めたのは、先王からはとても言い出し難いことだったからだ。しかし王位は彼が継がねばならなかった。それは単に彼が先王の息子だったからではない。彼が先王の代わりに大空白平原へ行っても、それは何も生み出さないからだ。彼の才量は先王と別のところにあり、国に留まることこそが彼の役目だったのである。先王が英雄王の再来と呼ばれるまでの人でなかったら、彼がそう呼ばれていたかもしれない。皮肉なのは、アークラントが必要とするものを己は持っていないと、誰よりも彼自身がよく知っていたことだ。
 王はのろのろと立ち上がる。彼は父親同様体が大きく、背の高い王だった。代々使われている会議室の王座は彼には窮屈すぎ、長い間座っていると腰が痛くなる。彼は気の進まない様子で会議室から出る。これから都の国民達に、大意は国を挙げて逃げ出すということを、もっともらしく、そして名誉の退却らしく言い聞かせなければならない。
――トルナク最後の王にして、アークラント初代王となった英雄王の退却の話を引き合いに出そう。あのときも今も、敵に追い詰められた状況は同じだからな。そうすれば混乱を最小限におさえ、士気を維持したまま統率の取れた行動ができるはずだ。逃げる先では、先王が待っておられる。
兄妹 途中、王は妹である王女に鉢合わせた。彼女は不安で顔色が良くなかったが、気丈に振舞っていた。今年十五になるはずの彼女と王が並ぶと、ほとんど親子に見えるくらい年が離れている。王は立ち止まることなく大股に歩き続け、王女は小走りにそれを追いかけた。
「兄上、知らせの者達の手当てはすみました。でも、城門前に人々が大勢集まっています」
「知っている。お前は急ぎ城の者達に、ここを発つ用意を整えさせよ」
「どこへ参るのですか」
「父上のおられる場所だ。予言者が言っていただろう。南に最後の希望がある。希望とはこちらから迎えに行かねば、重い腰を上げんものだ。お前は先に立って、皆を導け」
「私に務まるでしょうか」
「そのはずだ。我々は偉大な王家の血を引いているんだ」
「兄上はどうされますか」
「兵を率いて最後に都を発つ。落伍者を拾いながら後を追い、皆の背後を守る」
「はい」
 王女はそれ以上時間を無駄にしなかった。彼女は一礼をして足を止め、守りの印を宙に描いて兄の背を見送った。

 古い山々に隠されるようにして横たわる、秘密めいた湖がある。その湖と一筋の谷を隔てて、石人最古の都市が広がっていた。空から一望した都市は灰色の頑丈な石造りに見えたが、市中を歩くと黄緑の城同様に木造の彫刻であちこちが飾られ、レンガ造りの場所も多い。通りの構造は石人の城と同じく、地面を荷車などが通る輸送にあて、その両脇に建ち並ぶ建物の二階、三階の側廊が歩道として使われていた。しかし建物は石人の城ほど高層ではなく、高いものも物見台を除けば五階くらいまでだ。キゲイの目にはどちらかというとタバッサの街並みを思い出させた。道行く石人達の雰囲気も城と違い、どこか優雅でのんびりとしている。顔に、色とりどりの不思議な模様を描いている人が多いのも、城と違う。
 石人の都は、アニュディの活躍の場だった。普通の石人である彼女は普通の暮らしを心得ており、キゲイとレイゼルトに普通の石人の振る舞いというものを求めた。それが素性のそれぞれに怪しい二人を守る、唯一の手段でもあった。レイゼルトのような重傷人はベッドで横になっているのが普通だったし、石人語が分からないキゲイは、無口ではにかみ屋の人見知りな子を演じるのが無難だった。
 翼のある巨獣の姿で都市に降り立った彼女は、迎えに出た役人に嘘の身の上と本当にあったことを上手に織り交ぜて話した。つまり、自分達は黄緑の城から神殿で治療を受けるためにやって来た一行で、ウージュは変身後遺症の治療、レイゼルトは怪我の手術、アニュディ自身は二人を引き受けた診療所の職員兼運び手で、キゲイはその見習い助手。ところが来る途中、強風で墜落して持ち物を失くし、森をさまよった挙句魔物や野獣に追いかけられ、身一つで都に辿り着いたという筋書きだ。役人は四人のぼろぼろになった姿を見て、話を信じたらしい。さらには同情して、後払いで泊まれる宿も手配してくれた。
 幸いにして、キゲイの怪我はほとんど治りかけていた。問題はレイゼルトの方だ。彼の傷はどう説明してよいものか難しい。普通なら助からない怪我だったのだ。結局アニュディは医者を呼ぶのを諦め、薬草を買い込み、調合用の道具を借りるために奔走した。物を買うためにお金がいるという現実的な問題に直面した彼女だが、赤城で食べ物を買ったときの小銭がいくらかと、キゲイがトエトリアを傭兵から助けたとき、シェドから記念品としてもらった硬貨が役に立った。レイゼルトが赤城で彼女に渡したお金も、実はそのときキゲイと一緒にもらった硬貨らしい。
「君からお金を巻き上げることになるなんて、思いもしなかった。まさか持ってたとも思わなかったけど。黄緑の城に戻ったら、ちゃんと返すね。ヒスイの石貨と穴あきの銀貨を重ねてはめ込んでて、綺麗なものだし」
 買ったばかりの塗り薬をキゲイに分けながら、アニュディはあやまる。もっともキゲイの方はあまり気にしていない。薬皿に入れられたべっこう色の薬に鼻を近づけて匂いを嗅いでいた。薬草独特の刺激的な匂いに混じって、蜂蜜の甘い香りもする。
「僕、お金のことはよく分からないから、どっちでもいいです。でもあのお金、どれくらいの価値があったんですか」
「そこそこ。といっても薬買って、着替えの古着を買って、宿代はツケにしたとしても、食事代で何日持つことやら。あの硬貨は、王や城のために仕事をした人に払われるお給金よ。君人間なのに、なんで持ってたの。あのお金は城ごとにデザインが違ってて、その城じゃないとそのままじゃ使えない。ここで買い物する前に、両替してきたの。こっちが石人世界全てで流通している普通のお金」
 片手で薬草をすり潰しつつ、アニュディはスカートのポケットからじゃらじゃら大小のコインや石貨を机の上に取り出す。それが四人の全財産だったが、キゲイには金額の大小は分からない。
「黄緑の国の王女様を助けたから、あのコインをもらったのかな」
 キゲイは部屋の向こうにいるレイゼルトに尋ねた。タバッサで傭兵に追いかけられたことが、もう何年も前のことのようだ。
「王女?」
 レイゼルトはベッドの脇から顔をのぞかせる。彼はベッドの影でボロ布同然になった衣服を、苦労して脱ぎ捨てたところだった。合点がいかない様子なので、キゲイは付け加えた。
「タバッサで僕と一緒にいた、髪の長い女の子だよ。覚えてないの?」
「何? トエトリア王女様の話?」
 アニュディも口を挟む。レイゼルトは古着を被りながらベッドの上に登った。
「あの子か。アニュディ、黄緑の王族は他に誰かいるんだろうか?」
「……多分、トエトお一人だけよ。女王様ご夫妻は早くに亡くなられたから。黄緑の王家は七百八年前に直系の血筋が途絶えて、それ以来傍系の方々が王の血筋を取り戻そうとしてる。黄緑の王家はとても厳しく血統が管理されてて、それがかえって血を絶やすことにならないか心配されているくらい。一番血が濃いのが、今は王女様だけなの。次は又従姉のルイクーム様だけど、彼女はまだ血が薄いと考えられているみたい」
 これを聞いたキゲイは、レイゼルトの方を盗み見る。するとレイゼルトと視線が合った。二人はすぐに目を逸らす。黄緑の王族の血筋を絶った張本人が目の前にいるなど、アニュディは知らない方がいいのかもしれない。
 二人の少年をよそに、アニュディは塗り薬にすり潰した薬草を加えて練り始める。レイゼルトの傷には、もうひと手間かけた薬が必要らしかった。今一番疲れているのは三人を乗せて飛んだ彼女のはずだったが、怪我人の世話をしないことには休むわけにはいかないと思っているようだ。
 レイゼルトはベッドの上を渡って彼女の側に降りる。二人用の小さな部屋にもう二つの簡易ベッドが運び込まれ、さらに机も押し込まれたので、部屋には足の踏み場がないのだ。
「あとは自分でできる」
「そう?」
 アニュディはレイゼルトの方へ顎を上げた。
「じゃ、ウージュと銭湯に行ってこようかな。あなた達は傷が深いから、だめね。宿の人に頼んでここにお湯を運んでもらいましょう。とにかくみんな清潔にならないと。自分の匂いだけでも、鼻が曲がりそう」
 レイゼルトに薬の椀を渡し、布巾で手を拭いながらアニュディは立ち上がる。そして肩からかけていた青紫の外套もレイゼルトへ差し出した。
「紫城で手に入れたものは燃やした方がいいと思うの。とりあえず肌着だけじゃ寒いから、これ羽織っといて。あんたのボロになった服とまとめて、あとで処分するわ。夕食も部屋に運んでもらいましょ。下の食堂で詮索好きな連中と一緒に食べるなんて、ごめんだわ」
 狭い部屋の中で居場所がなかったウージュは、机の下でうとうとしていた。アニュディはウージュを起こす。
「宿の人達、ずっと僕らを見てたね」
 キゲイは少し不安になる。町に戻れたおかげで食べ物や寝る所の心配はなくなったが、人間とばれないかという心配が再燃してきたのだ。王族のブレイヤールなら、ばれてもどうにか守ってくれるかもしれないが、何の身分も権力もないアニュディでは、どうにかできそうにない。
「あいつらが見てたのは、この調香士さんと、妙に古風な青紫の外套だ」
 キゲイの心を知ってか知らずか、レイゼルトがぼそっと答える。
「彼女は髪も短いし、顔に魔よけの模様を描いてないから、最先端の都会人に見えるんだ」
「都会人?」
「髪を伸ばして、魔除けの模様を体に描くのが石人古来からの風俗。城は安全だから、魔除けの模様もいらないし――」
「都会人なだけで注目集めるもんですか」
 アニュディは立ち上がりながら、レイゼルトの言葉を遮る。
「私の美貌も珍しかったの。連中のヒソヒソ話が聞こえたもん」
 彼女は子どもみたいに、大げさに胸を張って見せた。あまりに自信に溢れた態度なので、キゲイは呆れるどころか気後れさえ覚える。彼女は皆の注目を集める系統の美人ではない気がするものの、もしかしたら石人にとってはすごい美女なのだろうか。反対にレイゼルトは肩をすくめた。彼は呆れているようで、アニュディの言葉を冷たく突き放す。
「早く行ったら」
「どうせ、まだあんた達には分からないでしょう」
「部屋を出て右に二十二歩半。左手に手すりと階段十七段。降りて左手に進む」
「知ってる知ってる」
 アニュディは勝手に自慢して勝手に機嫌をそこね、何が起きたのかさっぱり分かっていないウージュの手を引いて出て行った。彼女の気ままさにキゲイもついていけない。
「変わった人だね」
 階段を踏む音が扉越しに聞こえる頃、キゲイはようやく口を開くことができた。レイゼルトは頷いただけで何も言わなかった。結局のところ、二人はアニュディにそれぞれ大きく助けられていた。キゲイにとって彼女の普通っぽさは自分と近いものがあり、茶色い髪も人間と同じで、なんとなく安心できる。レイゼルトにしても、子どもの姿では宿で休む手はずさえ満足に整えられなかったろう。
 レイゼルトは薬を練り続け、キゲイはお湯が来るのを待つ以外、まったくの手持ち無沙汰になってしまった。キゲイはぐるりと部屋の中を見渡す。
 石造りの宿の部屋には小さなくり貫き窓がついており、夕暮れの日差しが部屋の影を濃くしている。漆喰が塗られた天井は緩やかな弧を描いて、星に見立てているのか磨かれた金属の円盤がいくつも埋め込まれていた。暗い天井でその円盤だけが夕日の光を受け、鈍く輝いている。
「休めるのはここにいる間だけだ」
 レイゼルトは顔を上げずに言った。
「白城の王子がどうなったかは、いずれは都にも噂が届くはず。アニュディに調べてもらえばいい。状況が分かるまでは、お前も白城に戻らないほうがいい」
「それは、今戻っちゃいけないってこと?」
 レイゼルトは頷いた。
 キゲイはベッドの端に腰かけて、少しうな垂れる。もしブレイヤールの身に最悪の事態が起これば、自分は白城にさえ戻るに戻れなくなってしまうだろう。それに禁呪の鏡をレイゼルトに返した今、自分と石人世界を繋ぐものは何もなくなったという気がした。果たすべき役目は終わったのだ。そう思うと、無性にアークラントが恋しくなる。けれども、そこにもまだ帰ることはできない。アークラントは滅亡の瀬戸際にあり、滅びてしまえば、帰る場所すらなくなってしまう。
 行き場のないやるせなさに、キゲイはふてくされるしか出来ない。大の字になって、ベッドの上にばたんと身を沈めた。暗い天井で、円盤が輝いている。妙な感覚が胸をよぎった。それは、まだ石人世界で自分の出来ることが残っているのかもしれないという、根拠のない予感だった。予感は不意に形を定め、夜空に張り付いて動かない方角を知らせる星となって、心の中にぴたりと留まる。とはいえ、何をどうすべきか分かったわけではない。
「君はこれからどうするつもり?」
 キゲイはそわそわと体を起こして、レイゼルトの背中に問いかける。レイゼルトは背を向けたまま答える。
「白城の噂を捉えてお前達を見送ったら、神殿へ行く。後はアニュディが白城まで世話してくれる」
「神殿には何があるの」
「大巫女様がいらっしゃる」
 レイゼルトはやはり振り返ることなくそう答えた。それが全てだと言わんばかりに。

 リュウガ将軍はアークラントと大空白平原を結ぶエイナ峡谷で、たくさんのアークラント人とすれ違った。集団の先頭は地読みの民と、ディクレス先王が平原へ伴っていたアークラントの若者達がいて、続く者達を導いている。さらに彼は王女の輿を担いだ一団とも出会ったものの、一刻を惜しんで立ち止まることなく、峡谷からアークラントへ抜けた。
 アース国王はディクレス先王の知らせに先立って、最後の行動を起こしたのだ。リュウガ将軍は峡谷近くに築かれた砦に走り込む。真新しい丸太の門に、王の旗が掲げられていた。砦は建国以前から存在していた遺跡の上へ、拠点の一つとしてディクレスが建てた急ごしらえのものだった。
「大空白平原にも、石人とやらの城にも、アークラントの行くべき場所はない。だが進まねばならんということか」
 リュウガ将軍がディクレス先王の言葉をそのまま伝えると、アース国王は胸のうちから引き絞るように、その言葉を口にした。王は砦の一室で、右肩に受けた矢傷の手当てを一人待っていた。
「峡谷への道は人々の列が途切れることなく続いています。陛下、私に次の命をお与えください」
 リュウガ将軍は王の前にひざまずく。十数日国を留守にしただけで、事態は想像もつかないまでに一変していた。詳しい事情を聞き知りたい気持ちはあったが、王の姿から、もはやその時間すら危ういことは明白だ。将軍は与えられる役目にすぐさま移らねばならぬと覚悟する。
「最初に来たのはエカだが、今はハイディーンが迫っている」
 疲れきった表情の中で、王の瞳と口調だけが明るく定まっていた。彼はディクレスからの知らせに、少なくとも落胆はしていなかった。
「奴らが来る前に、峡谷の道を魔術士兵を用いてふさぐ。我々も戦い、出来る限りの時間を稼ぐつもりだ。お前は地読みの民を峡谷に行き渡らせ、人々が一刻も早く平原へ抜けられるようにせよ。そして万一に備え、人々の最後尾に兵力を集中させておけ」
「承知しました。しかし峡谷の入口には、まだ大勢の国民が立往生をしています。狭い道の半分を、荷が塞いでいるのです」
「荷を捨てぬ者は命を捨てる者だ。兵に命じて、邪魔な荷は谷底に捨てよ。峡谷に配置した物資が尽きる前に道を抜けるしかない」
 王は頬をゆがめ、無情な決断をした。宮廷魔術師のザーサが部屋に現われ、王の肩に包帯を当てる。医師らはいまだ兵士達の処置から離れられないのだ。リュウガ将軍は再び承知と答え、部屋を後にする。王は傍らの老魔術師に顔を向けた。
「おかしな話だ。今このアークラントではエカとハイディーンが争い、我々は国の隅に身を寄せて、山脈の亀裂に群がっている。その向こうの希望は、まだ眠ったままだというに」
「後から来たハイディーンが、無人の王都を征したエカの軍勢ごと町に火を放ったのは、想像だにできませんでした」
 部屋の戸口に軍師長が姿を見せる。彼の手には血の染みに濡れた書面があった。
「新しい知らせか」
「ハイディーン軍の精鋭がこちらへまっすぐ向かっております。その中にハイディーン王の姿を見たと申す者もいるようです。騎兵を主力とするハイディーンには考えられないほど、数多くの魔術士兵を伴っており、その中には染めたとも思えぬ、奇妙な頭髪の色をした者もいるとか。先日陛下が追撃されたハイディーンの先遣隊ですが、彼らはわが軍に見向きもせずに南へ突き進みました。エカは王都と陛下を狙っておりますが、ハイディーンは違います。陛下、残念ながら」
 王はゆっくりと頭をもたげ、声もなく笑う。しかしすぐに真顔に戻り、歯を食い縛った。
「確かに奴らは王都もアークラントの王冠も要らんらしいな。俺の首を狙って一目散にやって来たエカの大群の方がよほどかわいく思えるわ! 奴らの狙いは何だ。王家の血を引く娘か? それともあの峡谷か?」
 命がけで届けられたであろう最後の報告書を受け取り、王は粗末な腰掛から立ち上がる。他の将軍達も部屋に現われ、王の両脇に居並んだ。軍師長は盆を手にした小姓らを招き入れた。手当てを終えたザーサは立ち上がり、そっと部屋から立ち去る。峡谷を崩す手はずを整えなければならないのだ。
 王は捧げられた盆の上から四脚の杯をとり、一口飲んで隣の将軍にまわす。彼も一口飲み、隣へ渡す。杯が一同を巡って再び王の前に戻ってくる。
「私はアークラント王として、人間世界の末端に住まう人間として、この地を去ることはしない。ハイディーンを止めるは、国を守るだけでなく、人間世界の秩序もまた守ることになる。しかしこの地を離れる決断も、国を蘇らせ、人間世界の秩序を取り戻すに必要なことだ」
 王は集まった家臣達の顔を見渡す。一同は王を先頭に部屋を出て、兵士らが集まる砦の門へと歩む。門の下にはリュウガとザーサが立ち、門の外には彼らの部下が居並んでいる。王は一度杯を掲げ、残りの生酒を大地に捧げた。戦いに行く者と大地の神との間に交わされる、昔ながらの儀式だった。
「運命の神は我らに試練を与えんとされている。私は王として、いずれ戻る者達のためにこの地を守り続けよう。未知なる大地へ向かう者達に風神水神の祝福を。この地より運ばれる風と水が、そなたたちを生かすよう」
 ザーサが王の前に歩み出て、杯を受け取り水を注ぐ。彼のしわがれた声が、新芽を隠す荒んだ野に響く。
「アークラントの地神が、留まる子らを隠し、去る子らを忘れんことを」
 ザーサは杯をリュウガ将軍に託す。アークラントで生まれた水を一滴こぼさず平原まで運び、いつか戻る日までの仮宿となる大地へ捧げるのが役目だった。
「忘れられてしまう前に、戻ってこい」
 アース国王は二人だけに聞こえる声で、苦笑した。
 砦の門を隔てて、残る者と去る者が互いの幸運を祈ると、リュウガとザーサは峡谷へ向けて発つ。アース国王は他の将軍らとともに兵士らをまとめ、間近に迫るハイディーンを迎え撃つ準備を整える。
 数日後。峡谷の入口にハイディーンの騎兵隊が到着した。彼らはひとけのない峡谷の様子に不審を抱きながら、数騎を偵察として進ませる。彼らが両側から迫る崖下を抜けようとしたとき、轟音とともに崖が崩れ落ち、騎兵達の姿が岩と砂埃の中に消えた。それを合図に、ハイディーン軍の背後から鬨の声が上がる。矢が雨のごとくハイディーン軍の頭上を襲った。隊列は乱れ、ハイディーン兵らは矢から逃れようと崩れ残った崖の影へ退いていく。
 峡谷の急斜面を下って、あるいは林の奥に身を潜めていた最後のアークラント軍が、次々と現われる。矢は打ち尽くした。彼らはアース国王を先頭にハイディーン軍と対峙する。アークラント軍は大地の神を信奉する証に、緋と紺の二色からなるマントと合印を身につけている。皮と銅の鎧は黒い上薬が塗られ、胸元にはアークラントの紋章がある。王は重たい兜の上に王冠を戴いていた。
 彼の視線の先には、ハイディーン軍を自ら率いて現われたハイディーン王の姿がある。ハイディーン王は年の頃はディクレスとほぼ変わらない。金糸の刺繍が入った淡い空色のマントに白銀の鎖帷子を身につけている。それはハイディーンが、最高神であり雷を司る神の使いであることを表すものだ。
「アークラントの栄光は三百年前に終わっている!」
 ハイディーン王の声が響き渡った。
「栄光を陥れたそなた達はいまだもってこの地に留まり、英雄の御霊を汚した。我らは英雄の眠る大地を戦で洗い、アークラント王家の血を天統べる神の血で清めにまいった。時は動き、もはや古き帝国の威光が輝くことはない。わが国をもって新たな世の暁とする」
 峡谷の奥からは、地を震わす轟きが続いていた。大空白平原へ向かう人々の背後で、ザーサが魔術士兵を指揮し、随所で道を崩しているのだ。アークラント王はその音を耳にして、この戦闘でどれほどの時間が稼げるかを考える。ハイディーン軍はまだあとからいくらでもやってくるだろう。崩れた道を開通させるには膨大な労力と時間が必要だが、ハイディーンが連れている多くの魔術士兵は、想像されるよりも短い時間でそれをやってのけるかもしれない。
「ハイディーン王よ。そなたが求める暁は、この峻峰の向こうから来るのではないか」
 アークラント王は短く答えた。
「この大地を統べる神は、侵略する者に恵みを与えることはない。アークラントを汚す者には裁きが下るだろう」
 ハイディーン王の言葉は、彼らの真の目的を隠しているに違いない。その目的が何であれ、アークラント王は彼らをここで止めなければならなかった。彼は剣を掲げ、全軍に突撃の命を下す。
 ついに決戦の火蓋が落とされた。黒い鎧と白い鎧が入り乱れる戦場は、地と天、百と万の戦いだった。

十五章 星の神殿

 キゲイ達を白城へ送り出した後、レイゼルトは一人歩いて古都を出た。峠からは塩辛い水で満たされた湖が見下ろせる。湖の中ほどにはいくつもの白い柱に支えられて水上に建つ、神殿の四角い巨大な屋根が見える。辺りには潮の香りが満ちていた。この湖ははるかな昔、大海から陸に取り残された小さな海だった。
 神殿の周りにはたくさんの小舟が往来している。神殿もまた、船をつなぎ合わせたような構造を持っていた。湖底に建てた何千本もの石柱や石壁の間に板を渡し、それぞれの部屋を柱の支えと水の浮力でしつらえている。細い通路は板張り、大きな通路はすべて水路となっており、神殿内の移動には小舟が欠かせない。神殿の屋根も半分は石や木の板だが、それ以外は大きな帆布を張っている。巨大な正方形をした神殿は各頂点がぴったりと東西南北を指し、それぞれに高い鐘楼を設けていた。鐘楼は塩のレンガで覆われて、毎日神官達が塩水を表面に塗りつけている。
 神殿の中央にある大巫女の館は、周りの帆布の屋根にすっぽりと隠されて見えない。そこだけが神殿内で唯一、大地に根を下ろした小さな島の上にあった。大巫女の館に入ることを許されるのは、大巫女に仕える巫女達だけだ。館の外は神殿騎士達が常に見張っている。騎士達は館を守るとともに、その周りを絶え間なく巡ることで、石櫃に祈りを捧げている。神殿と石人達を実質的に取り仕切る役割にある九竜神官さえ、非常時でもなければ館への立ち入りは禁じられていた。館には中庭があり、その中庭の中央に命名の書と神々の墓碑たる石櫃を納めた祠があるという。
 レイゼルトはひどく疲れていた。背中の傷はだいぶ良くなったが、あの赤い竜達は、彼の背中だけでなく精神も食い荒らしていた。癒しを求める石人が最後の救いを求めて目指すのが、この星の神殿であり、大巫女の館だ。大巫女の館は、石人にとってもっとも危険に近い場所ではあるが、同時に最も安全な場所でもあったのだ。
 そしてレイゼルトには、もうひとつ、大巫女の館に行くべき理由がある。
――どうあがこうと、遅かれ早かれ初代赤王の手の中に巻き取られていく。
 十二人の魔法使い達が神殿を離れ城を建てようとした動機は、歴史が伝える以上に複雑で、様々な問題が絡んでいたかもしれない。石櫃に封じられた闇や、世界創生の得体も知れない秘密は、人知れず彼らを哀れな亡霊に変えてしまった。彼らに異を唱えたもう一人の魔法使いもまた亡霊としてこの世に留まっているならば、その者の居場所は大巫女の館をおいて他にはないだろう。
 レイゼルトは薄い紙の切れ端を、そっと魔法の風に乗せる。紙切れは、峠の頂上から神殿へ向かってひらりひらりと舞い流れる。彼はその紙切れを追って飛び上がる。その姿は宙で、紙に吸い込まれるようにして消えた。紙はかすかな炎に包まれながら、大巫女の館に向かって飛んでいく。
 赤の王族が例外なくそうだったように、レイゼルトのもうひとつの姿は、彼の背中を食い荒らした妖精竜そのものだった。ところが彼はあまりに長く生きすぎて、「生きもの」というより「もの」に近くなってしまったのかもしれない。石人に許される寿命ぶんだけ時が経ったとき、彼の姿は竜から炎に変わっていた。妖精竜が生まれた瞬間から体内に宿し、死ぬときには内側から体を焼き尽くす炎だ。
 彼は紙を燃やしすぎないよう、自由の利きにくい火の体をちぢこめ、神殿の上空を横切る。たくさんの小舟が柱の間を通り過ぎるが、誰も遥か空を漂う小さな紙切れには気付かない。太陽は紙切れの小さな炎を飲み込むほどに輝いていた。それは明らかな春の兆しだ。
 帆布の屋根は天の光を受け入れるため、折りたたまれた場所がいくつかある。合間からは赤、青、緑、黄、黒や白など極彩色に彩られた石壁が覗いている。神殿の壁や柱はすべて、宇宙を表す壁画に彩られているのだ。塩湖の侵食に負けじと、常に誰かの手で塗り直され続ける壁画は、目に染みるほど鮮やかだった。描かれた紋様を目で辿っていけば宇宙を巡ったのと同じことになり、死後、魂が自分の名を持つ星に帰っていくときの道が分かると言われている。石人にとって、魂が宇宙で迷子にならないことはとても重要なことだった。そして石人が死んだとき、その人の名前は壁画のしかるべき場所に、小さな星として彫り込まれる。
 神殿が石櫃とともに守る命名の書には、この世に生まれるすべての石人の名前が既に記されていると言われている。命名の神官達は命名の書の写しを持ち、生まれた子の真上や真下に輝く星を見極め、その星の名前を与える。誕生のとき、命名の神官が立ち会えなければその子は名前を持てず、死後も天に昇れず地上をさまよって、いずれは石櫃の闇に飲み込まれてしまう。命名の神官が星を読み違え、間違った名前を与えてしまった場合もそうだ。あるいは名前を持っていても、大きな罪を犯せば神殿に名前を取り上げられる。神殿の壁画に名前を刻まれることもない。だからレイゼルトの名も彼の父王の名も、壁画には刻まれていない。命名の神官にとっても、星を読み違うのは大罪だった。
 紙はとうとう燃え尽きる。レイゼルトは人の姿に戻りながら、灰とともに館の中庭へと降り立った。周りは古代遺跡と見まごうばかりのひっそりとした石の館が取り巻き、山を下ってきた風が吹き溜まって鳴っていた。庭の下草は茶枯れて、ネムノキが数本、庭の隅で寒風に枝をさらしている。庭の真ん中には崩れかけた小さな祠があったが、それはレイゼルトの身長ほどの高さもない。風雨で浸食された石肌に、白い塩の結晶が浮いている。
 レイゼルトは灌木の影に身を伏して、じっと辺りをうかがった。土の湿った匂いがする。館は冷え切っており、人の気配がまったくない。耳を澄ませば、どこか遠くで神官達の演奏する楽器の音がする。風音と混じるその単調な旋律は、石人ならば必ず知っている。初代の大巫女が竪琴から紡ぎ出したと言われる、水の旋律だ。
 顔を背けて地面に片耳をつける。神殿の奥底に潜むという闇の音を、地中から聞き取れるかと思ったのだ。七百年前の赤城で、城の壁内に水が弾ける音を聞いたときのように。しかしそれは無理だった。もう片方の耳から風音と水の旋律が聞こえて、邪魔をする。腕を上げて耳に蓋をすれば、今度は腕から血の脈打つ音と筋肉の軋む音がする。そこで目を閉じ、鼓動の合間の静寂に集中する。
 そのうちに、鼓動以外にも規則的な音が聞こえてきた。人の足音だ。枯れた草を踏み、ゆっくりとこちらへ近づいてきている。
 レイゼルトは身じろぎひとつせず、その足音に意識を移した。耳に心地よい歩調で、まったく危険を感じない。頭の先で、足音は止まった。香の匂いが一瞬、鼻先を撫でる。彼はそっと頭を持ち上げる。漆黒の裸足が見え、透けるほどに薄い衣がその足にかかっている。
大巫女 レイゼルトは頭を地面に伏せたまま、両膝を腹の下におさめてひれ伏した。
「訪問の失礼をお許しください。大巫女様」
 レイゼルトは呟いた。柔らかい優しい答えが頭上から返ってくる。
「待っていましたよ。そして、待ちくたびれました」
 レイゼルトはその答えを不審に思い、顔を上げる。すでに大巫女は彼に背を向けて、庭の真ん中へ歩を進めるところだった。
 とても背の高い人だ。薄物の布を幾重にも漆黒の細い体に巻いて、その端は風がもてあそぶままに流している。光を通す銀白色の髪には、たくさんの銀粒の飾り。歩を進めるたびに、着物の裾からしっかりとした素足が覗く。大巫女はひどく年老いていていながら、まるで童女のように初々しい優しい仕草を持つ人だった。
「間に合ったようですね」
 大巫女は振り返り、両腕を広げてそっと上げる。レイゼルトはその仕草に従って、同じようにそっと立ち上がった。
「あなたにはいつか会ったように思います。何百年か前、あるいは私が死した後に見続ける、夢の中で」
 大巫女は灰色の目を細め、弱々しい様子で微笑んだ。
――この方は、私が来るまでを待っていてくださった。
 レイゼルトは気付いて、顔を伏せる。彼の視界から大巫女の姿は消えたが、それでも恐らく、彼女はずっと微笑み続けていた。
「石人が初めてこの地に留まったときから、大巫女はこの館に住み、石櫃の前に座して祈り続けてきました。石櫃に封じられているものは、常に外へと染み出そうとします。大巫女は、石櫃の中で静かに潜んでいただくよう、古い言葉を捧げてお願いするのです」
「大巫女様は石櫃と命名の書の原型をお守りするため、命名の書から石人の名を書き出すために、神殿にいらっしゃるものだとばかり思っておりました」
 レイゼルトは不意に不安になり、庭を囲う館に目を走らせる。
「この館には今誰もおりません」
 大巫女様はレイゼルトの不安を一言で打ち消した。
「私のお役目は、石人の名を命名の書より書き出し、人々に与えることです。名が闇に飲まれぬように。そして、私が書き出すに間に合わなかった名前を、さまよえる石人の魂に与えるために。なぜ石人が命名の書を手にし、神の名を得ることになったのでしょうか。正しくは神の名ではなく、砕け散ったそれぞれの神の体の、一部を指す名ですが」
 大巫女はゆっくりと庭を横切り、館の脇に据え置かれた石のベンチに腰を下ろす。レイゼルトはそれを見送り、しばらくして戸惑いながら大巫女の脇に両膝をつく。大巫女は先程とは違う厳しい表情で、まっすぐにレイゼルトへ視線を注いだ。
「私はあなたの名を知っています。レイゼルト。かつて神殿は、この名をあなたから取り上げました。それをここで返しましょう。あなたはもう、地上でさまよってはなりません」
 大巫女はそこで深い溜息をつく。表情は再び和らぎ、視線が落ちて疲れた様子になる。
「何ゆえ石人達がこの地にいざなわれ、命名の書を手にし、神殿をこの地に築いたか。初代大巫女が最初にこれらを手にし、それとともに真実は彼女の喉を焼き付けました。初代大巫女は誰にも伝えられぬ真実を、その呪いとともに次代の大巫女へ託しました。それは代々の大巫女に継承され、私もまたすでに次代の大巫女へ引き渡しています。初代の大巫女が触れた大地は、すでにこの深い地層の下に。石櫃を安置した祠もその塔の先がわずかに覗くだけとなりました。この小さな島は、沈み続けているのです」
「初代十二王達は、石櫃の闇に捕らわれました。大巫女様のお役目をともに担おうとして、呪われたのでしょうか。彼らはいまだ十二城に潜んでいます。新たな者を闇に引き込みながら。私もまた言葉を焼き付けられ、彼らのことを誰にも伝えることができません。大巫女様のように次の依代にしか伝えられないのです。しかし次の依代は、人としての意識を剥ぎ取られ、肉体に命が宿っているだけです。あれではどんなにあがいても、奪われた意識は影ほどにしか取り戻せない」
「影が実体以上に真実の姿を映すときもあります。この神殿ではそのために、影を恐れる者達もいます」
「神殿とは何でしょうか。石人だけに課された、世界での役割があるのでしょうか」
「我々が考える以上に、世界は思いがけないものです。石人は世界の全ての色を、その髪に、瞳に宿しています。『もうひとつの姿』として、この世に存在した様々な生物の姿を隠し、世界を創造したといわれる神の名を継いでいるのです。一方で、石人の精神の中心であるこの島の地下深くには、世界が形作られた瞬間、その代償として封じられたと伝えられる闇が眠ります」
 大巫女は硬く目を閉じ、喉を抑える。レイゼルトはその姿をしばらく見つめて言った。
「それが真実の外殻なのですか」
「ええ。その通りです。それが花の蕾のように、いつか開くものだと信じている者達もいます」
「私は闇がどんなものか知りに参りました。石櫃を覗かせてはくれませんか」
 レイゼルトが無邪気に尋ねると、大巫女はまぶたを閉じたまま、小さく笑って首を振った。
「あなたは石櫃を壊しかねない。これ以上、闇の犠牲者を出すわけにはいきません。それより見てほしいものは、別にあるのですよ。それが我々の側にある真実だから」
 大巫女は老いて痩せた片腕をあげ、指先で宙に線を描きはじめる。指の軌跡に銀色の光が残り、やがて神殿の見取り図が完成する。彼女は最後に、ある通路の行き止まりを指さした。
「初代大巫女は石櫃を守り、九竜神官の言葉には一切耳を貸してきませんでした。彼らは石櫃に封じられた闇がいずれ真実となって明るみに出で、それに秩序を与えるのが石人の使命と信じました。彼らは神殿の地下にうごめく闇を、彼らなりに解釈しました。闇の側にいる大巫女が知ることと、闇の外にいる彼らが知ろうとしたことは、表裏一体ですらないでしょう。大巫女の焼き付けられた喉が、九竜神官達との間に不信の溝を広げてしまいました。彼らは自ら石櫃に近づこうと、神殿の一角に、祠へ通じる穴を掘ろうとしました。それは今でも一部が残って、使われています。はるかな昔、彼らは石櫃に捧げる大巫女の言葉を、地中に潜んで盗みました。それでもなお彼らは闇に近づくことは出来ませんでしたが、触れてはならぬものを得ました。彼らもまた自らの役目を、次代の神官達に伝えています。けれども――」
 大巫女が指で払うと、宙の光は砂粒のように乱れて消えてしまう。彼女はレイゼルトに穏やかな視線を向けた。
「あなたが見るべきものは別にあります。この七百年、あなたは孤独であったでしょう。けれども多くに守られて、ここにあることも知っているはずです。あなたを最も苦しめたものが、最もよくあなたを支えたかもしれません」
「……いまさら知って、何になるのです」
 レイゼルトは大巫女を見返す。
「私があなたに勧めるのは、闇に関わる者達の話ではありません。あなたがこの七百年間ずっと携えてきた、その禁呪の本当の力を知ってもらいたいのです。それは償いにもなりましょう。慰めにもなるかもしれません」
「禁呪に慰めを見出すほど、辛い刑罰はありません」
「力も取り戻せるでしょう。あなたにはひとつ、心残りがありますね。それは私にとっても同じです」
 レイゼルトの肩に手を置き、大巫女は立ち上がる。振り返って見下ろした彼女の髪に、日差しが透けた。
「私は夢の中で、館から出て外を歩きます。いえ、太古の風景の中には、館も神殿も存在しません。私は幼い頃より、夜はこの夢の中で過ごしてきました。過去に会った者も、これから会う者も、すべての人々や生き物達がそこにはいました。彼らの姿は霧で、近づかねば容姿も判別がつきません。私はすでに多くの者の姿をそこに見出しましたが、あなたが最後と思っていました。しかしこの数年は奇妙なことに、遠くにはっきりとした人影が見えます。彼は人間です。どこから迷い込んだのでしょうか」
「アークラントの運命からです。アークラントの運命と石人の地との交わりから、大巫女様の大きな夢に迷い込んだのでしょう。彼はエカという国を恨んでいる。アークラントを存続させることが、戦で失われた故郷の無念を晴らす復讐へとつながるのです」
 レイゼルトはトゥリーバのことを思い出し、苛立ちを覚える。
「復讐心が、彼を正しい夢見の判断から遠ざけてしまった。彼に手を貸してやってはくれませんか。あの夢はアークラントの希望を予言しているのではなく、彼自身の戻るべき道を示していたのだと。……恨みを断ち、振り返らねばならぬことを」
 一息に話しきり、レイゼルトは息を吐いて肩を落とす。恨みや復讐がどれほど空しいものか、そしてそれらを断つことがどれほど難しく、どれほどおぞましい苦しみを伴うか。なおかつそれから逃げることがどれほど虚しいか、彼は嫌と言うほどに知っていた。
 大巫女は微笑んで頷き、ゆっくりと館へ歩み出す。
「次の夜明けまで、そこでお休みなさい。鐘が鳴ったら、先程の場所に行くのです。あなたに会えたことは、私には最後の癒しとなりました。ごきげんよう。私は先に参ります」
 大巫女の姿が館の影に溶け、足音が遠ざかって消える。庭に一人残されたレイゼルトは、石のベンチで横になる。傷で消耗していた体力は、いまだ戻っていない。七百年に渡る放浪の疲れが、最後の最後で追い討ちをかけるように彼の気力を蝕んでいた。禁呪使いとして追われた七百年前の恐怖とやり場のない恨みが、これだけの時を経ながら鮮烈に思い出せる。他の記憶はすでに形をなくし、思い出すことさえ難しくなっているというのに。
 まぶたを閉じると、そのまますっと眠りに落ちたらしい。どこか遠くからいくつもの鐘の音が響き、館の中庭にこだまが残る。目を開けると辺りは薄暗く、明け方の空には星が輝いている。彼がはっきりと目を覚ます頃には、鐘の音は打ち方を変えていた。
 一つの鐘が鈍く響き、その音が尾を引いて塩辛い湖に沈むと、また別の場所から鐘の音が沸きあがる。鐘の音は東西南北に設けられた鐘楼から響いているようだ。耳を澄ますと、かすかに人々のざわめきが感じられる。泣き叫ぶような取り乱した声は、あらゆる感情の吐露を禁じる神殿には、ただならない。鐘は、大巫女が亡くなられたことを知らせるものだった。
――館を出るなら今しかない。
 レイゼルトは察した。起き上がると、素早く館へと入る。大巫女に示された穴へ向かうために。大巫女の館を巡回して守る神殿騎士達は歩みを止め、石像のように立ち尽くしている。多くの巫女が忙しなく行き交い、神官達は顔に面を当てて悲しみを隠している。レイゼルトは巫女達の影に紛れながら館の外に出て、入り組んだ通路の先を進んだ。
 入口は古びた小さな鉄柵だった。大巫女の館の通気窓と見間違いそうなものだ。レイゼルトは扉にかかった鍵を魔法でこじ開ける。最初は這って進まねばならなかった。やがて天井が高くなる。暗闇の中で手探りをする。壁は荒々しく削られた石壁だ。館の壁を無理矢理削ったのかもしれない。神殿の物音や風の音がくぐもった不確かな響きになり、耳の奥を鳴らす。レイゼルトは先を急いだ。
 道は下りになる。平らではなく階段状になっており、段の真ん中だけが磨り減っていた。レイゼルトは大人が手をつくだろう位置へ腕を伸ばす。石壁に窪みが見つかった。九竜神官達は何千年も前から暗闇の中を手探りで、階段や両脇の壁が磨り減るほど、この通路を使ってきたらしい。
 深く降りるにつれて静寂が密度を増し、そのために今度は耳鳴りがするようになった。空気が澱んでくる。あまりに古い時代の地層まで来たのだろうか。時間すらも澱む重苦しさは、七百年前のあの日にいるような錯覚を覚えさせる。今上に戻れば、彼を血眼になって探す七百年前の石人達が、待ち受けているかもしれない。
 レイゼルトは右腕を上げる。魔法で明かりを灯そうと思ったのだ。このまま暗闇にいると昔の記憶が蘇り、頭がおかしくなりそうだった。しかし彼はしばらくためらった。下に行くほどに、原初の闇に近づくことになる。明かりを灯すのは、ここでは危険なことなのかもしれない。迷った末、足元を照らすわずかな明かりだけに止める。彼は再び下り始める。一歩一歩降りるすぐその背後で、暗闇は何事もなかったかのように帳を下ろし、沈黙が弔いの土として明るい地上と侵入者の間を埋めていった。彼は黙々とひたすらに下った。わずかな明かりと、そこに照らし出された石段だけがすべての世界だった。
 やがて階段が尽き、長く狭い通路が姿を見せる。薄暗い明かりの中で、通路は一本に見える。しかし彼が進むと、ひとつだった道は二股に分かれ始めた。やはり明かりは嫌われているようだ。彼は明かりを消す。そして壁の窪みを触って確めながら、先へと進んだ。手で辿る道は再びひとつと重なり、左右に折れ曲がりながら続く下り坂になる。
 指先の壁が途絶えた。狭い所にいる圧迫感は薄れ、終着点の部屋に辿り着いたことを知る。レイゼルトは大きく息をついた。暗闇に加え、それ以外の何かが部屋に満ちている。その感じは紫城の最深部と似ていた。ここにも理性を飛び越し本能に訴えかける、畏怖の源がある。自然と冷や汗が噴き出して、彼は舌打ちをした。
「いまさら、何を恐れる」
 レイゼルトはかすれた声で自らを励まし、両腕を高々と掲げる。真っ白な閃光が炸裂する。光を知らない闇はことごとく払われ、巨大な部屋がその全貌を現した。レイゼルトは息を飲む。
墓所 長い間生きた彼も、その光景には戦慄さえ覚えた。恐怖でもなく畏敬でもない。立ちすくむことしかできない壮絶な感情が全身を貫き、ひととき自分自身の存在すら忘れた。
 灰色の高い丸天井と壁面すべてが、何千もの石人の石棺に覆われていたのだ。ほぼ新円の形をした棺は、小さな模棺から実際の大きさのものまで様々ある。部屋の中央には樹木を模した巨大な石の柱が天井まで伸び、棺の隙間に石の枝葉が這っている。水滴によってできた石のつららが、枝から垂れる蔦のように幾本も下がっている。柱の根元には、石の天蓋つきの王座があった。棺があることを除けば、そこは紫城のあの地下の部屋と酷似している。
 王座には、古くなりすぎて今まさに崩れんとする彫像が座っていた。頭部は湿って丸みを帯び、目や顎の窪みがぼんやりと残っているだけだ。しかし半眼の切れ目だけは深く刻まれていたらしく、黒々と影を落として二筋はっきりとある。体には、長い衣を巻いていたらしいひだの跡が、かろうじて残っている。
 老若男女の判別がつかないその像は、心持ち王座に横座りになっていた。考え事をしているように右ひじを王座の肘掛に立てて、こぶしで頬を軽く支えている。膝頭の磨耗はひどく、そこだけ表面がつるつると磨かれて滑らかだ。
――誰だろう。
 レイゼルトの心の呟きに、深く沈んだ声が答えた。
「闇に飲まれし肖像」
 風が打ち捨てられた笛を鳴らすのにも似た、虚ろな響きだった。
 レイゼルトは鋭く身構え、王座の人物を睨んだ。相手は先程と寸分変わらない表情で思索を続けている。レイゼルトは半眼の深い切れ目を凝視し、寒気を覚えて目を逸らした。すると視線の先に、ローブで身を覆い、神官が持つのっぺらぼうの面をつけた人影が捉えられる。人影は部屋の隅にぽつんと立っていた。
 ローブ姿の者はレイゼルトの視線を受け、そっと面をはずした。フードの下は影が濃く、何も見えない。面を持つ手も、そこだけ世界が切り取られたように真っ暗だ。漆黒の肌をした石人か、そもそも姿を持たない存在なのか、分からない。
「大巫女様が見せたいと私に言ったのは、この部屋のことだったのですか」
 レイゼルトが尋ねると、相手はフードをゆっくりと下げた。頷いた仕草らしい。
「ここは九竜神官達が築いた、もうひとつの石櫃の祈り場」
 囁くような声色は相手との距離を感じさせないほど、彼の耳にはっきりと届く。
「彼らは時折ここへやって来て、膝をひとなでし、大巫女より盗み取った祈りの言葉を捧げる。彼らは部屋を満たす闇に敬意を表し、決して明かりは用いない」
「私は明かりを灯しました。しかし光で払えないものが満ちている。これが闇なのですか」
 闇と口にしたとき、レイゼルトは体の震えを感じていた。無意識のうちに忍び寄った恐怖が、言葉によって形を得たのだろうか。じわじわ喉を締め付けるかのように、体の自由を奪いつつある。
 音も無く、ローブ姿の石人はレイゼルトの方へ歩み寄る。ローブの裾が翻っても、空気が動く気配はない。
「石櫃に封じられたものの一部。ここから少し染み出している。仮にこれを『闇』と呼ぶのであれば、九竜神官達はこの『闇』を宇宙に星を浮かべる闇と同じだと思ったのだろう」
「あなたが、初代十二王達と道を違えたもう一人の魔法使いなのですか」
「かつてはそうだった。今は墓守にすぎない」
 ローブ姿の魔法使いは再び面をフードの下に当てる。そのわずかな瞬間、レイゼルトは面の後ろに隠れる、まぶたを閉じた漆黒の顔を見た気がした。
十三神官「『闇』を世界に開放し、星の名を持つ石人達をその統治者とする。それは地上に星空を描くこと。世界は天の鏡となり、太古に砕け散った神々を継ぎ合わせ、蘇らせる。九竜神官はそれこそを石人の役目と信じ、代を重ねながら時を待っている。当時の九竜神官達は『闇』の理解者を求め、古都十三の地をそれぞれに治めていた我々を招致した。この部屋で『闇』に魅入られた我々は、大巫女の背負うお役目を理解した。九竜神官の悲願もまた、理解した。だからこそ、石人達を神殿のただひとつの支配から開放せねばならぬと考えた。初代大巫女が石人に定めた理を、神殿の堕ちた力が及ばぬ地で再び明らかにするために」
 魔法使いは緩やかに腕を上げ、王座の石像を指差した。
「あれが石像なのか、太古の石人の亡骸なのかは我々にも分からない。あの像は、石櫃に次ぐ『闇』の覗き口だ。あなたも今感じているはず。もうそれで十分。その像の目を覗いてはならない。あなたはまだ我々ほど深く『闇』に飲まれてはいないのだから。こちらへ」
 レイゼルトは魔法使いの方へ足を向ける。傍に立つと、魔法使いの静かな息遣いに気が付いた。まるですべてが死んでいるようなこの部屋で、魔法使いが生身を持っているのは意外に思える。魔法使いのローブからは、神官が日常の祈りで使う香の匂いすら漂っている。
「なぜあなたは城を創るために、神殿を出られなかったのですか」
「レイゼルト、あなたは紫城を解放した。紫王は消えぬが、城との繋がりは断ち切られたのだ。それは城の正体を見極め、役目を終えて滅んだ無人の城が、元の姿に立ち戻ることを望んだからではないのか。七百年前、紫王の依代が試みた復讐の中で、あなたは城が何かを知った。さらなる昔私もまた、城を創ることによって隠される世界を危ぶんでいた。十二王達は決断し、私は留まり続けた。『闇』に飲まれるまで。存在の様式は反転し、私が現身を保てるのは『闇』の側のみとなった。この部屋を出れば姿をなくすのだ。以来私はこの部屋で、名のない石人、名を奪われた石人の弔いをしている」
 魔法使いは天井の、ある模棺を指差した。レイゼルトは棺に名が刻まれているのを見た。
「シュラオイエン。あなたの持つ銀の札に禁呪を隠した魔術師だ」
 レイゼルトは銀の鏡を取り出す。彼は鏡面に棺を映した。ふいにいたたまれないほどの弱々しい気持ちが、頭をもたげてくる。
「かの人が、砂の魔術に興味を示すとは思えません。私も砂には興味がありません。この銀の鏡には、別の魔法が秘められていたのです。幼い日の私はその魔法に惹かれて、鏡を手にした」
 レイゼルトはそこまで言うと、鏡を懐に戻す。力が抜けて鏡を落としてしまわないように。それをみてとった魔法使いの虚ろな口調は、やや柔らかになる。
「そうだ。その札には土の魔法が込められていた。老魔術師は黄王に頼まれ、城に豊かな土を蓄える魔法を探していた。あの城の周りは凍りついた荒野で、乾いた砂しか得られない。彼は砂を土へ変える魔法を編み出そうとしていた。それはついに成功しなかった。その札に込められた禁呪は、失敗した魔術のひとつ。命あるものを土に戻してしまう、使い方を過てば危険なものだ」
「初めて札に込められた魔法を使ったとき、でも、これは確かに砂の禁呪だったのです」
「年の端もいかぬうち一人塔に封じられ、暗闇で生きていた子どもが、禁呪を得たとき、再び二本の足で体を支え言葉を話し、禁呪を読み解くだけの正気を取り戻した。その理由を考えたことはなかったか。その札に封じられていたのは、禁呪だけではない。魔法を生み出そうと失敗を重ねてなお衰えなかった、老魔術師の人々への思いがあった。彼は魔術に持てる力全てを捧げた。その心が銀の札を手にした哀れな子どもに、失われていた命の活力を与えた。禁呪に封じられていた強い生命の力を代償として。命をはぐくむ土の魔法は力を失い、砂の魔法へと変じた。残念ながらその後、禁呪は誤った使い方をされた」
「私は見も知らぬ、古い時代の禁呪使いに助けられたというのですか」
 レイゼルトは声を震わせる。
「禁呪に込められた力は、私の命を救っただけでした。むしろそうしない方が、他の石人達にとってどんなによかったか」
 彼はキッと棺を見上げた。言い尽くせない様々な感情や記憶が胸にこみ上げ、心が耐え切れずに破裂しそうになる。それらを押し殺そうとすると、喉がぎりぎりと痛んだ。
「あなたはずっと口を閉ざしてきた。いずれは実を結ぶ言葉もあったはずなのに」
 魔法使いは言った。レイゼルトは見上げた姿勢のまま、何度も息を飲み込む。それからようやく彼は苦しげに口を開いた。
「そうせざるを得なかった。口を開けば宿運の悪さを嘆く恨みの言葉しか出てこない。自分の本当の気持ちすら分かりませんでした。私は自分が誰なのか、分からなかった。
私は多くの石人を砂に変えました。それは父王の命があったからです。言うことを聞けば、私は二度と塔に戻らなくてもいいかもしれないと、信じていた。塔にいる間、私は幼いなりに人の心を忘れまいと努めていましたが、世を知らぬ孤独は精神を蝕み、心も歪め固めてしまいます。塔の外へ戻ることを求めながらも、いざそれが叶うと、慣れ親しんだ塔での孤独を懐かしみ、そこから己を引き離した外の世界を憎むようになるのです。塔の外で禁呪を目の前に差し出され、それが意味することを察したとき、今まで守り続けていたはずの正気が、すでに壊れていたことに気付きました。大きな過ちを犯そうとしているのを知りながらも、世へ戻りたいという渇望を癒す欲に負け、同時にそのようにしてしか癒されえない渇望を憎み、孤独を永遠に失うことを恨みながら、邪精のように日の下へ躍り出たのです」
 レイゼルトは両の頬を伝う涙に気付いたが、拭いもせず気にもせず、そのまま流れるに任せた。
「砂の禁呪はあまりに綺麗に人を砂に変えてしまう。私には砂遊びの延長であり、禁呪の恐ろしさもそれを使っている自身の非道さも、一切省みませんでした。多くの石人が私を捕らえようとしながらそれができなかったのは、身を守ってくれる者がいたためです。ところがその者が殺されたとき、私は初めて死というものを知り、それを恐れるようになりました。私の命を狙う石人の中には、肉親であったはずの兄王の姿もありました。兄の心の内も知らず、その裏切りを恨みました。私を倒したとされる黄緑の王子も、本当は私を助けようと考えていたのです。しかし私には疑念と復讐しかなく、それに従うことができなかった。再び禁呪を用いた私に、彼は自らの役目を果たす以外ありませんでした。彼は石人の愚かしさに深く絶望し、英雄として帰還することを拒みました。私が彼を道連れにしたのではなく、彼が私を道連れにしたのです」
 レイゼルトはうな垂れる。
「くしくも私の命は滝では終わりませんでした。私のしたことは永遠に許されることはない。この罪は生涯を越えても償いきれはしません。だから初代赤王に囚われ、不死の牢獄にいた七百年間は、償いのひとつになると思えば耐えることができる。兄王や黄緑の王子、その他の数少ない石人達。あのとき私を助けようとしてくれた者達は、私により広い視野と心を遺しました。そして私は、それに見合う生き方を、半ば強いられたのです。それでもなお、今でも頭から離れない思いがあります。石人達が私にした仕打ちは、誰が償ってくれるのか。もっと早くに、救われたかったと」
 頬は乾いていた。レイゼルトは樹木を模した柱へと視線を移す。
「そう思う度に私はすぐに考え直します。すでに償ってくれている。私にこのような生き方を強いた者達は、己の命を代償としてくれていたのです。そして七百年の終わりに、大巫女様は名まで返してくださった。私はこの広い世界で、自由を得た」
 魔法使いは黙っていた。
「あなたがおっしゃったように、私は塔に幽閉されているときに城の音を聴き、城の正体について思いをめぐらせていました。それは私だけの体験ではありません。長い歴史の中で、城の音を聞いた者は少なくないでしょう。しかしその体験を深める機会に恵まれた者はわずかです。あの音は城の最下層に近づくほどよく聞こえます。この部屋は、その音が最も近い、城の中枢の部屋に似ている」
「私は見たことはないが、似ているのならばそうかもしれない。ここから出るとき、私は他の獣の姿を借りる。時が迫るのを見て、私はあなたをなんとしてもここに呼び、次の依代と巡り合わせたかった。私はその実、七百年間、あなたが石人世界に再び戻ってくるのを待っていた。伝えたかったことは多いが、時間はもうない」
 魔法使いは悲しげに呟いた。
「あなたが塔に封じられていたように、この部屋が私の全てだ。柱と像は最初からあったが、部屋を覆う枝や棺は私が刻んだ。私は石を食う虫に姿を変えることができる。名のない者には、名の代わりとなる棺が必要だ」
「石の大樹を育てていらっしゃるようだ。この木はいずれ地上へ達するのですか」
「そうかもしれない。私がさらに『闇』に飲まれぬ限りは」
 面の下の声はくぐもり、辺りが薄暗くなってくる。魔法使いは続けた。
「長きを生きてきた者を癒すのは、容易ではない。かの者を支えてきた強さそのものが、その障害となる」
「この七百年、悔恨と復讐心が、入れ替わり立ち代り私の命を支えました。私に親切にしてくれた人々の存在が、私の正気を支えました。もはや休息を欲しいなどとも思いません。けれども強さが癒しの障害となるのであれば、私はそれを捨てます。私を支えてきた全てのものを私自身として、ここに弔います。赤王はすぐ近くへ来ている。ただ、次の依代のことをあなたにお頼みしたいのです」
 魔法使いは身を引いた。明かりはますます暗くなる。レイゼルトは完全に暗くなってしまう前に、部屋の入口へと歩み始めた。魔法使いはその背に、最後の言葉をかける。
「時がその方向を失う場所で、私は十二王とその依代達を、待っている」
 明かりは消えうせ、辺りは再び暗闇に変わる。レイゼルトは何も見えない中で、そっと手を前に差し出した。冷たい壁に触れる。さらに探ると、指先に壁の窪みを見出した。彼は壁に沿って、もと来た道を辿りはじめる。
 暗い穴から抜け出しても、神殿は押し殺したざわめきに満ちていた。レイゼルトは誰に気にされることもないまま、水路につけられた小舟で神殿から湖へ出る。そして湖の中ほどで舟を止める。
「忘れないうちに、約束を果たしておくか」
 レイゼルトは空を眺めて呟く。鈍色の空とその色をそっくり映す湖に挟まれているのは、とてつもなく心地よい。ことにあの重苦しい地下の闇から出てきた身にとっては。
 彼は左手で右目を隠し、ややこしい呪術の文句を唱える。唱え終えると彼はのろのろと立ち上がる。そして懐に忍ばせた紙気球を風に乗せ、火に姿を転じて飛び移った。紙気球は風に流されながら上昇していく。
 湖の西に広がる林の中に、白いものが見えた。赤王だ。赤王は心なしか、以前見たときよりも体の輪郭がぼやけているようだった。動き方も苦しげに見える。闇に囚われた初代十二王達にとって、城の中枢から出るのはよほど大変なことなのだろう。すぐ上空にレイゼルトがいることさえ、気づいているようには見えない。だからといって赤王から逃げ切れるわけでもない。
 彼は姿を戻した。紙気球はあえなく破れて風に散る。
「目覚めよ!」
 レイゼルトはその言葉を魔法の風にのせて北へ飛ばす。
 風が彼の命じた指先を離れた刹那、赤王は彼の存在に気がついた。彼は再び火に転じながら、懐から銀の鏡を取り出した。炎の中で銀の鏡は銀のしずくとなり、火花を散らしながら赤王の立つ林の丘に注ぐ。

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